桜が咲く頃、君の隣で。

「赤くなってる?」

「……うん」


「ちょっと昼休み色々あってね」

「色々って……」


「あー、えっと、ここだけの話、人生で初めて人に殴られたんだ。でもここに一発だけだから大丈夫だけど」


赤くなっているという左頬を指差しながら言った。



「一発だけ……」


まるで独り言のように呟き、俺から視線を逸らした雪下さん。


その瞬間、魔法が解けたかのように一気に現実に引き戻された俺は、顔が引きつり息が詰まって上手く呼吸が出来ない。


もう一度右を見ると、雪下さんはいつも通り前を向いて授業を聞いている。



今……普通に喋ってなかったか?

俺、今雪下さんと喋ったよな?

思わず大和の肩を叩き、そう聞きたくなった。



なんで、どうして、そう考えても全く頭が働かない。

今まで挨拶すらまともに目を見て言ってくれたことはなかった。

二人で話し合う授業でさえ、俺が一方的に喋っただけだ。それなのに……。


何度も深呼吸をしてみたが、心の動揺は全く治まってくれない。

この胸の高鳴りは会話をしたことへの驚きというよりも、嬉しさからくるものだ。

思いがけず突然交わした短い会話に驚喜している自分。


この気持ちは……恋、なのだろうか。









テスト前のこの日、大和に誘われて俺は図書館に来ていた。

駅の近くに図書館があることは知っていたが、実際行ったことは一度もなく、図書館で勉強自体一度もしたことがない。


南口から駅の中を通り反対側の北口へ出ると、そこには大きな公園がある。

緑が生い茂る公園の真ん中には大きな池があり、池の周囲をランニングしている人もチラホラいて、子供達が遊ぶアスレチックのような所や春になると桜祭りが開催される広場、ボールを使って遊べるグラウンドまである。

ここで行われる桜祭りは結構有名なのだが、俺は一度も行ったことがない。公園に入るのも初めてだ。


公園のすぐ横に建っている茶色い煉瓦造りの建物が図書館。

見上げると、建物上部の真ん中にある大きな時計盤がちょうど十五時になったタイミングで開き、穏やかなメロディーと共に金色のなにかがクルクルと回り始めた。
ここからではなにが回っているのかはよく見えない。



中に入ると右側には螺旋階段、左側に本の貸し出しなどをする受付があった。

大和の後に着いて螺旋階段を上り、両側にずらりと並んだ本棚の間を通って奥に行くと、横長のテーブルが幾つも並んでいるスペースがあり、座っている人が何人もいる。

両サイドの壁には窓もある。
段々と日が落ちてくるこの時間、左側の窓のカーテンは全て閉められていた。


「ここでいっか」

大和がそう言うと、俺達は一番奥のテーブルの通路に近い場所に向かい合う形で座った。

話し声はほとんど聞こえない代わりに、本を捲る音があちらこちらから聞こえてくる。
この静けさがなんとも言えない緊張感を醸し出す。

出来るだけ音を立てないようにと、鞄からゆっくりとノートと教科書を取り出す。


「別にそんなに気にしなくても大丈夫だぞ」

机にノートを置き、ペンケースを開けながら大和が言った。


「んなこと言ったって、音立てたら一斉にこっち向いて『シー!』とか言われちゃうんだろ?」

俺にとっては図書館で勉強すると言ったら、そんなイメージだ。


「いや、ドラマじゃないんだから言わないと思うけど。他の人達も小声で喋りながら勉強してたりするし、大きな声とか音を立てなければずっと無言でいなくても平気だから」


「そっか。つーか、大和はよくここに来るのか?」

それでも周りが気になって極力小声で話そうとしてしまうのは、図書館という空間がそうさせるのかもしれない。


「いや、実はこの図書館には一年の時に一回来たきりで、いつもは地元の図書館に行ってるんだ。今日は理紗に言われたから」

「理紗に?」

「彰が勉強しないから図書館にでも連れてってやれって。俺と彰だと地元違うし、ここの図書館の方が行きやすいだろ?」

「まーそうだけど、また理紗のお節介が出たな」

「心配してんだろ、幼馴染みなんだし。でも図書館は集中できるからいいと思うぞ」

「ふーん」


図書館で勉強なんて考えたこともなかったけれど、頭の良い大和が言うのだから間違いないのだろう。

実際こうして座ってみると、将来のことをやたらと煩く言う親を気にしながら家で勉強するよりも、断然はかどるような気がする。

今度からは俺もテスト前は図書館で勉強するかな。



しばらく無言で勉強していると、大和がノートを閉じた。

それに気づいた俺は顔を上げ、館内にある時計に目を向けた。
いつの間にか一時間半が過ぎている。


「ちょっと休憩」

 声を出さずに軽く伸びをした大和、つられて俺も両腕を前に伸ばした。


「なー彰、聞いていいか?」

聞いていいかなどといちいち確認するのは珍しく、なにを聞かれるのか察しがついた。


「なんだよ」

「どうなんだ、雪下さんのこと」

思った通りだ。

俺の前の席に座っている大和には、先日の雪下さんとの会話も聞こえていたのだろう。

自分では分からないが、もしかしたら俺の声色もいつもと少し違っていたのかもしれない。


「どうって?」

「好きなんだろ?」


そうストレートに聞かれると、答えに悩む。

好きじゃないと言ったら嘘になるが、好きなのかと言われたらハッキリ頷くことは出来ない。


でも最初に雪下さんを見た瞬間から気になっていて、俺を避ける態度や時々見せる儚げな表情、彼女の全てがどこか不思議で知りたいと思ったのは事実だ。

雪下さんに会って雪下さんに話しかけることが、変わらない日常の中で唯一俺に訪れた変化だと言えるだろう。


けれどあれだけ俺に冷たくしている雪下さんのことがなぜこうも気になるのか、正直分からない。

好きなのかもしれないと考えたこともあったが、でも……。

「さぁ、分かんねーよ」

「自分のことだろ? 好きかどうかくらい分かるだろ」

「本当に分からないんだ。だってよ、まともに喋ったのは一回だけだし、それも短い会話だった。雪下さんのことなにも知らねぇし、性格も分かんないんだぞ? それで好きになることなんて……」

「あるだろ」

「は?」

「なんか分かんないけど好きになるってこともあると思うけど。ただなんとなく気になるとか、まだ知らないけどこれから知っていきたいとか、そういうのも好きってことじゃねぇの?」


俺よりもはるかに恋愛経験豊富であろう大和に言われると、妙に説得力がある。

気になる、仲良くなりたい、この想いはつまり好きということなのだろうか。


「もし仮にそうだとしても、雪下さんは俺のこと良く思ってないみたいだしな」


ため息混じりに呟き窓の方を見ると、カーテンの隙間から夕日が僅かに差していた。


「そうかな~? 俺には逆に見えるけど」

「逆ってなんだよ」

「雪下さんが転校して来てから俺なりに彼女のことを見てきたけどさ、確かに彰にだけ態度が違うけど、それってつまりこういう考え方も出来る」

「まどろっこしいな、ハッキリ言えよ」

「だから……」


すると大和は、少しだけ身を乗り出して俺に近付いた。俺も同じように顔を前に傾ける。


「雪下さんにとって、彰だけが……特別ってことだ」


「はっ!?」


思わず声を上げてしまい、咄嗟に口元を押さえて周囲に頭を下げる。


特別? 俺が? また突拍子もないことを言い出しやがって。そんなわけ……。


「そんなわけないだろ!」


小声で必死にそう伝えると、大和は言ってやったと言わんばかりに満足そうな笑みを浮かべている。

そんなバカなことあるか。

他のクラスメイトとは楽しく話をするのに、俺が話しかけても目を合わせず声も出さない。

雪下さんが転校して来てから一ヶ月が過ぎたというのに、その態度は一向に変わらない。それが、特別だからだと?

いやいや、あり得ない。もし万が一そうだとしても、その特別がどういう意味なのか説明がつかないだろ。


ニヤついている大和に、俺はフッと微笑み返した。

「あのなー彰、それはいくらなんでも妄想が過ぎるぞ。だって考えてみろよ、俺だぞ? なんの取り柄もないごくごく平凡で毎日適当に生きて、大和みたいにイケメンでも夢があるわけでもない。本気で夢中になれることはなに一つない、つまんねぇ十七歳だ。まともに話してもいないのに特別なんて都合が良すぎる」


喋っているうちに、俺は今までなにをしてきたのだと虚しい気持ちになってきた。


小学生の頃の夢はお医者さんになること、だったな。

今更思い出しても遅いけれど、もしもっと頑張っていたら違う自分になれたのかもしれない。

もし、中学も高校も悔いなく精一杯過ごしていたら、もっと楽しかったのかな。

でも今さら頑張ったところで、残り一年の高校生活で変われるとは思えない。



「あるじゃん」


沈みきっている俺の心情とは正反対に、大和は快活そうな声で言った。


「あるじゃん、夢中になれるもの」

「なんもねーよ」


「俺にとって夢中になれるものはサッカーだけどさ、お前にとってはそれが……雪下さんじゃないのか?」


「えっ……」

「な? あるだろ? 別になんだっていいじゃん。今まではなにもなかったのかもしんないけど、今は雪下さんが気になって雪下さんになら冷たくされても頑張れる、仲良くなりたいって思うんだろ? それだけでなにか見えてくるかもしれないし。具体的なことは言えないけどさ、ほんの些細なキッカケで大きく変わることもあると思うけどな」



 俺にとっては……雪下さんが……。



「とりあえず、あと少し勉強して帰るか」


「……あぁ」




それから俺達は一時間ほど経過した十八時頃に図書館を後にしたが、勉強はあまり頭に入らなかった。


大和の言ったことは、なに一つ間違っていない。

明日からの俺がなにをするのかと考えた時、やっぱり最初に浮かぶのは雪下さんの顔だったから。

雪下さんに話しかけよう、また目を見て会話がしたい。


こんな俺でも頑張れば、なにかが変わるのだろうか……。




 
 *


図書館での勉強のお陰なのかは分からないが、いつもより良く出来たテストも無事終わり、その後に行われた球技大会も無事終了した。


バスケで活躍したかと言われたら当然していないし、雪下さんも俺が出ていたバスケは見に来ていなかったけれど、それでもサッカーは予想通り大和の活躍もあって優勝することが出来た。


そう言えば、今年のバレンタインも俺は理沙からの義理チョコ一つのみだったな。

大和も今年は一つしかもらっていないらしいが、それにはきちんとした理由がある。
彼女からのチョコしか受け取らないと事前に言っていたからだ。

チョコを渡したかったであろう女子達が直接大和の口から聞いたわけではないらしく、大和がそんな話をしていたのを誰かが聞き、その噂はあっという間に広がったというわけ。


以前の俺ならもらえるものはもらっておけばいいのにと思っていただろうが、今は好きな人からもらえればそれでじゅうぶんだという大和の気持ちがよく分かる。


絶対にもらえないと分かっているのに、二月十四日はやたらと隣の席を気にしてソワソワしていた自分が情けない。

案の定、チョコはもらえなかった。

あたり前だ。二月も下旬になったが、相変わらず俺は雪下さんに対して毎日一方通行の会話を続けていたけれど、なんの進展もない。



今日は雪下さんが欠席していたため、一日がとても長く感じられた。

冬の寒さもピーク続きだからか、風邪でも引いたのだろう。


授業が終わり駅に向かって歩いていると、冷たい風が容赦なく吹き付けてくる。

首に巻いた紺色のマフラーを鼻の辺りまで持ち上げて歩いた。

駅に着くと改札へは行かず、そのまま反対側の出口に出た。

家に帰っても特にすることはないし、あれから何度か行っているここの図書館が実は気に入ってしまった俺は、体を温めるのと同時に読書でもしようと思ったからだ。


今はあまり本は読まなくなったが、小学生の頃は本が大好きで毎日読んでいたなんて言っても、誰も信じないだろうな。



歩きながらふと公園の方を向くと、青いベンチに座っている人のうしろ姿が目に入り、思わず立ち止まる。

ベンチの横には一本だけ木が立っていた。


図書館に向いていた体を方向転換し、再び歩き出す。


風に揺れる長い黒髪、近付く毎に俺の心臓の鼓動は激しくなっていく。



ベンチのうしろに着いた俺は、そのまま前に回った。

座っていた彼女の視界に俺の足が映ったのか、彼女が俯いていた顔を上げる。


「よ、よぉ」


ポケットに入れていた自分の右手を上げると、雪下さんは驚いた様子もなく、唇を噛みながら再び俯いた。


「えっと、ここ、座っていい?」


隣を指差したが、雪下さんはなにも言わなかった。

嫌だと言われたわけではないので、俺は人一人くらい入れるほどのスペースを空けて隣に座った。

ベンチの冷たさが、制服のズボンを通して浸透してくる。


俺は小さく深呼吸をして、左に座っている雪下さんに視線を向けた。


「今日休みだったけど、風邪?」


少し間を置いて、雪下さんは首を横に振った。

まぁそうだよな、風邪だったらこんな寒空の下にジッと座っているはずがない。


「こんな所でなにしてるの? 今日はいつもより冷えるから、風邪引いちゃうよ?」


なにも答えなかった。

雪下さんは自分の体を包むように両腕を抱き、ただジッと地面を見つめている。