桜が咲く頃、君の隣で。


下駄箱の一番上の段から上履きを取り出し放り投げるようにして床に置くと、ひっくり返ってしまった上履きに軽く舌打ちをする。

朝は怠い、朝は苦手だ。登校時間があともう一時間遅かったらな、なんて思いながら上履きを履き、冷えた廊下をのんびりと歩き出した。


三学期が始まって三日目、今日もまたいつもの一日が始まる。


そう言えば、あの噂はどうなったんだろう。

大きなスクリーンが設置された映画鑑賞室や、都会のジムさながらのトレーニングルームにプラネタリウムまで完備された校舎に建て直すらしい。
という噂が立ったのは、俺が入学してすぐの頃だったと思う。

けれど入学からもうすぐ二年が経とうとしているのに、工事の予定は一切ない。


大方、綺麗な校舎に憧れた誰かが希望を込めて『こんな校舎だったらいいな~』という話をして、それを聞いた誰かがまた誰かに話しをし、そうして尾ひれが付いた噂話が勝手に広がってしまっただけだろう。


三年間毎日通うのだから確かに綺麗な方がいいに決まっているし、俺ならこんな校舎がいいなと自分なりに考えたこともある。

天井がガラス張りになっている天体観測用のドーム型の施設なんかがあったらかっこいい。

でも別に天体観測が趣味だとかそういうわけではなく、むしろ興味ない。
しかも映画鑑賞ルームって、そもそもどういう時に使うんだ? ジムもプラネタリウムも、必要性は感じない。


誰が最初に噂を流したのか知らないしどんな施設が出来ても構わないけれど、今建て直すのだけは勘弁してほしい。

古くたって一応二年通ったんだ、卒業までプレハブで過ごすくらいなら通い慣れた古い校舎の方がまだましだ。


チャイムが鳴る五分前、いつも通りクラスメイトや知っている奴に適当に挨拶をしながら、汚れて黄ばんだ廊下の壁を横目に二年三組の教室に入る。


三学期でようやくクジの神様が微笑んでくれて手にした窓際の一番うしろの席、そこに座り鞄を机の横にかけた。

クラスメイトのほぼ全員が登校していて、いないのは数人といったところか。


窓の外に見えるのは、渡り廊下を挟んで反対側にある校舎。
三年の教室とパソコンルーム、家庭科室とか音楽室とか各科目で使う教室がある。

ここからでもよく分かるのは、くすんだクリーム色の壁だ。
所々ヒビまで入っていて、崩れることはないだろうが少し心配だ。とは言え、入学した頃から見ているのでなんら違和感はない。


いつもの校舎にいつものクラスメイト、なにも変わらないはずなのに、この日はなんとなくいつもの朝とは違っていた。



「どうやら女らしい」
「まじで? 可愛いかなー」
「転校生が超絶美人とか、漫画の読み過ぎだろ」
「でも一組の奴が見たって言ってたぞ」


真ん中のうしろの席に集まっている数名の男子の会話が気になった。

他の男子も心なしかどこかソワソワしている様子で、そんな男子を呆れたような目で見ている女子。

どうやらこのクラスに転校生がやって来るみたいだ。しかも女子。これがイケメン男子だったなら、今の状況は男女逆転していただろう。


誰かが職員室に行った時にたまたまうちのクラスの担任と一緒にいる転校生を見かけ、そしてその噂はあっという間に広がったという感じだろうか。転校生か、聞こえてくる会話をまとめると可愛い女子らしいけれど……。


「彰(あきら)、聞いたか?」

「あぁ、転校生だろ」

直接聞いたわけではないが、これだけ話が盛り上がっていれば勝手に耳に入ってくる。


「可愛いみたいだぞ」

大和(やまと)が前の席に座りながら俺の肩をポンと叩いた。

「らしいな」


一年の時も同じクラスだった渡辺(わたなべ)大和はサッカー部のエースで、頭も良くテストでは上位常連。
身長は百七十二センチの俺より少し高いくらいだが、顔の造りは俺よりもはるかに出来が良い。

目は綺麗な二重で鼻も高く、パーツパーツがとにかくバランス良く配置されていて、男から見てもかっこいいと思う。

おまけにサッカー部のマネージャーと一年の頃から付き合っていて一途で男らしく、リア充っぷりが半端ない。


そんな奴が、どうして俺なんかと仲良くしているのか未だに謎だ。

最初に声をかけてきたのは大和だし、高校の友達で俺の家に初めて遊びに来たのも大和だった。

サッカー部が休みの時や彼女と遊ばない日は一緒に帰って飯食ったり本屋をぶらぶらしたり、俺の家に来たらお互いゲームしたり漫画を読んだり。

会話はそんなに多くないのになにが楽しいのか、一年の頃からずっとそんな関係が続いている。


どちらが誘ったとかそういうことはなく、なんとなくそうやって過ごすうちに、自然と大和は俺の友達になった。

人気者のお前がなんで俺なんかと一緒にいるんだ、とわざわざ聞くのも面倒だから聞いてない。


「転校生、興味ないのか?」

「別にー」

興味ないわけではないが、興味を持ったところでただそれだけ。
噂になるほど可愛いなら尚更、俺には一ミリも興味を示さないだろう。

なんせ俺は、平凡中の平凡だから。


成績も運動も顔も真ん中。良くも悪くもない。クラスに一人はいる普通の男子。

性格もそうだ、暗いわけでも明るいわけでもなく、楽しい話をしている時は笑うし、なんだかだるいなーと思ったら機嫌悪くなったりもする。

人気者とか真面目とかヲタクとか、なんかしらの言葉で表すなら……〝人間〟としか言えない。


自分をそんな風にしか説明出来ないのはどうかと思うが、部活もやってなければ趣味もなく、将来の夢もない。
学校は楽しいが、正直なにも考えていない。

ただ毎日を〝普通に生きている〟だけだ。



「彼女欲しくないのか?」

「それ聞いてどうすんだよ」

うしろにいるリア充大和の方には振り返らず、机に頬杖をついたまま答えた。


「いや、別に。彰に彼女が出来るとしたらどんな子なのかなーって」

「なんだそれ」

「最近一番気になることだからさ」

「そんな無駄なことに一番を使うな」


彼女が欲しくないわけない。俺だって普通の十七歳の男なんだ、むしろ彼女は欲しい。可愛ければ尚良い。でも現状、それは不可能に近いだろう。自分のことは自分が一番よく分かっているから。


例えば彼女が出来て映画とか遊園地とか行ったとして、もしつまらなかったら俺は顔に出てしまう。興味ない映画なら多分寝るし、遊園地の並ぶ時間が長かったらため息が出てしまうかもしれない。


買い物なんか付き合わされた日には、最悪だ。

今年の夏だったか、幼馴染でクラスメイトでもある藤巻理紗(ふじまきりさ)に無理矢理買い物に付き合わされた時、『キープ』とか言いながら何度も何度も同じ店を回って、どっちがいいか聞かれて適当に答えるとなぜか怒られて、とにかく疲れたという記憶しかない。

彼女が出来ても、こんな俺ではきっとすぐに振られて終わりだ。

そういう考えが頭の中にあるからか、好きな人すら出来ない。


万が一好きな人が出来て、それが今までの考えを覆してしまうほど夢中になれる子なら違うのだろうか。

ラブストーリーの映画も眠くならず、遊園地の待ち時間なんてあっという間に過ぎて、買い物も疲れを感じないくらい楽しい。想像出来ないけれど、そんな子に出会えたなら、ただなんとなくだらだらと生きている俺の人生は変わるのかな……。


「もしかして転校生の話?」

いつの間にか理紗が席の横に立ち、腕を組みながら俺を見下ろしている。


もしそうだと言ったら、『可愛いとか可愛くないとか、男子ってそういうところでしか女子を見ないよね』などという説教が始まりそうだから「別に」と答えようと思ったのに、大和が「そうそう」とノリノリで答えてしまった。


だが理紗は、俺の想像とは違う反応を返してきた。


「一人の転校生がたくさんある高校からうちの高校を選んで、しかもうちのクラスに来るって、なんとなくそれだけでも運命だと思うし一期一会って感じしない? 仲良くなれるといいよね」


ポカンと口を開けて理紗を見上げた。

運命とか一期一会とか、そういうことを言うタイプだったっけ?

少なくとも会話の中に四字熟語を入れてきたことなんか今までなかった気がするが、転校生という存在に理紗もテンションが上がっているんだろうか。


「言い過ぎな気がするけど、まぁそうなのかな」

理紗の言葉に若干戸惑い気味に答えると、理紗は誰も立っていない教壇に視線を向けて微笑んでいる。


可愛い転校生が来ることにより女子の嫉妬が始まって、割と平和だったこのクラスにギスギスした空気が流れるかもしれないと少しだけ心配になったけれど、理紗がいればそれはないか。

子供の頃から男女関係なく誰とでも仲良くなれて、明るく元気で正義感の塊みたいな奴、それが理紗だからな。


「おーい、席着け」

チャイムが鳴るのと同時に、今日も髪をキッチリとオールバックに固めている担任の大きな声が響き、それぞれ自分の席に着く。

さっきまで騒がしかった教室が一気に静寂に包まれた。


一番うしろの席からでは全員の顔は見えないけれど、みんながどこを見ているのかはだいたい分かる。

前方に座っているクラスメイトの間から転校生の姿がちゃんと見えるようにと、俺は椅子を少しだけ横にずらした。


担任から少し距離を取った位置に立っているその子の顔は、俯いていてよく見えない。

手招きをしながら「もう少しこっちに」と担任に言われ、俯いたまま一歩だけ担任に近づいた。


長い黒髪は艶があって、触らなくてもサラサラなのだということが容易に想像できる。

長袖のブレザーから出ている手も、紺色のスカートの下から伸びている足も白い……って、これじゃーただの変態だ。



「今日からこのクラスの一員になる雪下美琴(ゆきしたみこと)さんだ。じゃー簡単に挨拶して」


担任にそう言われた雪下さんは、両手でスカートを軽く握った。なんだかこっちまで緊張してくる。



「雪下……美琴と言います。よろし……」


想像通りの高い声は、少し震えている。
よろしくお願いしますと言おうとして途中で言葉を止めたのか、それとも声が小さくてうしろの席の俺まで届かなかっただけなのかは分からない。

とにかく緊張しているだろうということだけは伝わる。

クラス中が固唾を飲んで見守る中、黒板に雪下さんの名前を書き終えた担任が「大丈夫?」と声をかけた。

すると雪下さんの肩が少しだけ上がり、俯いていた顔をパッと上げる。


その瞬間、心臓がドクンと大きく脈を打った。


黒髪のせいで余計に白く見える肌、何度も瞬きをする大きな目は、遠くを見つめるかのように教室のうしろの壁に真っ直ぐ向けられている。

可愛いという言葉以外で表すなら、目を離したら消えてしまうのではないかと思うほど透明感があって、どこか儚げだ。


勝手に震えてしまう心臓に手を当て、ゴクリと唾を飲むと、彼女は言った。



「雪下美琴です。この学校の近くにある大学病院に通うため、転校して来ました」


少しだけざわつき始める教室。
深く考える余裕もないまま、彼女の言葉が頭の中を通り過ぎた。


「私は……病気です。だから、体育は見学が多くなるし放課後遊んだりとかもあまりできませんが、よろしくお願いします」


頭を下げると、雪下さんの長い髪が揺れた。不謹慎だとは思うが、その容姿と病気というのが妙に合っている気がした。



「席だけど……」


担任がそう言うと、俺は顔を上げた。

俺のクラスは全員で三十一人。席は五人ずつ六列並んでいて、俺の列だけは六人いる。つまり、俺の席だけ横には誰もいない。

最初からなにか少し違和感があったのは、これのせいだったのかと今更気付く。

チラッと横を見ると、そこにはあるはずのない席があった。



「あそこの空いている席で。おい吉見(よしみ)、頼むぞ」


担任と目が合うと、俺は背筋を伸ばして頷いた。


転校生が来るという経験は多分小学生の頃にあったと思うけれど、転校生を頼むと言われたことは一度もない。これが初めてだ。

もう高校生なのだから世話をしろという意味での頼むではないだろうけれど、頼まれても具体的になにをすればいいのだろうか。

とりあえず、軽めに挨拶だけしてみよう。

俯きながら徐々に近づいて来る雪下さんを目で追いながら、声をかけるための姿勢を整えた。


たかだか声をかけるだけなのに、なんでドキドキしてんだよ。可愛いからか? 担任に頼むと言われたからか?


俺の席の横に立ったところで声をかけようと口を開いたけれど、雪下さんはすぐ俺に背を向けてしまった。

『よろしく』というタイミングを逃し、開いたままの口が間抜けだ。



席に座った雪下さんは、鞄から教科書を取り出し両手を膝の上に置いて前を向いた。

もしかしたら教科書を見せてあげるとか、そういう接触があるのかと思ったが、既に揃えているようだ。少し残念だと思っている自分がいる。


ふと気付くと、クラスのほぼ全員がうしろを振り返って雪下さんを見ていた。


「ホームルームの時にでも全員に自己紹介してもらうとして、とりあえず授業を始めるぞ」


担任の言葉にクラスメイトはようやく前を向いたけれど、俺は雪下さんの横顔を見つめていた。

近くで見ると、本当に肌が白い。


さっき病気だと言っていたけれど、どんな病気なんだろうか。

病院に通いやすくするためにわざわざ転校するということは、結構重い病気なのか? いや、でも深刻な病気を転校初日でいきなり打ち明けるなんてことはしない気もする。
激しい運動が出来ないからあえて最初に話したのか……。


ジッと見つめている怪しい視線に気付いたのか、雪下さんが突然俺の方を向いた。

黒目がちの瞳はとても綺麗だけれど、どこか冷たさを含んでいるようにも見える。


その瞳を見つめながら、今度こそという気持ちで俺は口を開いた。


「あ、吉見彰です。よろしく」


小声でそう伝えると、彼女は目を伏せ、そしてなにも言わずに前を向いた。


あれ……? 聞こえなかったんだろうか。

それとも俺がずっと見ていたことに気付いていて、少し気持ち悪いと思われたか?



彼女から視線を逸らした俺は、若干のモヤモヤした気持ちを抱えながらも先生の授業に耳を傾けた。