桜が咲く頃、君の隣で。



俺はなにも考えず……彼女の、雪下さんの腕を掴んだ。


「走れば間に合うぞ」


雪下さんの左腕を掴んだまま、さっきよりも少しペースを落として走った。


雪下さんが今どんな顔をしているのか分からないが、遅刻しないように一緒に走りたいと咄嗟に思ってしまった。

誰が歩いていようと、いつもなら気にしなかっただろう。

でもそう思ったのは多分、雪下さんだからだ。



まだ開いている門の中へ駆け込むと、雪下さんは俺の手を振り払った。

そこでようやく、俺は雪下さんの方を見る。


膝に手を当て前屈みになり、小さい肩が小刻みに揺れている。

垂れ下がった長い髪で顔はよく見えない。



「あ、ごめん……ギリギリ間に合うと思ったから……」

「……だって」

「えっ?」


「私……病気だって言ったじゃん」


「……あっ」


そうだ、病気だからって言っていたのに、俺……。


その時初めて昨日の雪下さんの言葉を思い出した俺は、分かりやすいくらいオロオロとうろたえながら思い切り頭を下げた。


「ごめん! 本当にごめん! 普通に忘れてた」


恐る恐る顔を上げた俺の目に映ったのは、大きな瞳を潤ませて俺を真っ直ぐ見つめている雪下さん。

涙を溜めた目が、朝日でキラキラと光って見えた。


体は大丈夫か聞こうとした時、雪下さんは俯きながら校舎に向かって歩いて行ってしまった。



その場にぼんやりと立ち尽くしている俺の横を、他の生徒が通り過ぎる。

鳴り響くチャイムの音も、どこか遠くの方から聞こえているような気がした。




俺はなんてバカなんだ。なにも考えていないにもほどがある。

普段からなにも考えずに、思うがまま適当に過ごしていたからこんなことになるんだ。

よりによって、嫌われたくないと思った相手にこんなことをしてしまうなんて。バカだ、俺は本当にどうしようもないバカだ。



教室に入った時にはちょうど出席を取り終えたばかりだったのか、担任が残念そうに俺の顔を見た。


無遅刻無欠席はこの際もうどうでもいいけれど、雪下さんのうしろを通り過ぎた時に感じた胸の痛みは、消えそうにない。



授業中、俺は一切雪下さんを見なかった。というより、見ることが出来なかった。

『走らせてしまってごめん』とそう言えばいいのに、あの時見た雪下さんの顔を思い出すと、そんな簡単な言葉すら言い出せなくなる。


きっと俺のことが嫌いになったに違いない。いや、寧ろ最初から俺のことが苦手だったんだ。

しつこく話しかけたらもっと嫌われてしまうかもしれないけれど、でも出来るなら話したい。

雪下さんのことが知りたい。でも……。



答えが出ないまま、俺の頭の中で同じ言葉が何度も繰り返される。

一度でも雪下さんが俺に笑顔を向けてくれていたら、悩まずに話しかけていただろう。

けれど俺に向けられたのは笑顔ではなく、今にも泣き出してしまいそうなほどに潤んだ瞳だった。


大和の背中に隠れるようにして頭を抱えていると、チャイムが鳴った。



「とうとう遅刻しちゃったな、皆勤賞への道はここで途絶えたか。って、お前ずっとこのままだったのか?」


振り返った大和が俺の机の上を見てそう言った。

机には現国と科学の教科書が閉じたまま置かれている。ふと前を見ると、黒板には数字が並んでいた。

「あぁ、数学だったか……」


次の授業はなんだったかと、黒板の横に貼られている時間割を見ながら家庭科の教科書を鞄から取り出し、再び頭を抱えた。


「彰のそういう顔、初めて見るな」

自分がどんな顔をしているのかは分からないが、普通じゃないのは自分でも分かっている。


「美琴!」


突然聞こえてきた声に、俺は息を吹き返したかのようにパッと顔を上げた。

雪下さんは立ち上がり、廊下側にある理紗の席に向かった。


理紗はもう名前で呼んでいるのか。うしろ姿しか見えないけれど、きっと笑っているんだろうな。
体調は大丈夫なようだ。それだけでもホッとする。



「お前、大丈夫かよ」


なにがだ? とはもう言えない。
俺のことを一番よく見てきた大和には、なんとなく分かっているんだろう。


「そうやって悩むのは別に悪いことじゃないし、むしろ良いことだと思うけどさ」

「良いこと?」

「ああ。眉間にしわ寄せて難しい顔して、かと思えば名前を聞いただけで目見開いちゃって。それってすげー考えてるってことだろ? なにもない、なにも考えてないとか言ってたお前がさ」


言われてみればそうだ。なんの授業をしているのかも分からず、誰の声も聞こえず、一時間も一つのことに対して考えるなんて今までなかったかもしれない。

いや一時間どころじゃない。
昨日から、俺はずっと雪下さんのことを考えていた。

空っぽだった俺の心の中に、今は雪下さんが確実に存在している。


チャイムが鳴ると、雪下さんが席に戻って来た。

俺の顔は決して見ないし、ただ隣に座っただけだ。それなのに、胸が苦しくて締めつけられるような気がする。



配られたプリントと教科書を机の上に置いたまま雪下さんのことばかり考えている俺の耳に、旅館の女将のような品のある家庭科の先生の声が届いた。


「では、隣の席と二人一組で話し合って、次の授業では実際に……」


先生の言葉は続いているようだが、俺は急いでプリントを手に取った。

隣の席、二人一組……。


ガタガタと机を動かす音が教室中に響く。

様子を伺うように視線を横に向けると、雪下さんが立ち上がって机の両端に手をかけた。
俺は焦って自分の机を右に寄せる。


今朝の出来事で、俺は彼女を泣かせてしまった。
でもまだ出会ってたったの二日、これからきっと挽回出来る。

正直、あれこれ考えて作戦を練って彼女の気を引くようなやり方は俺には出来ない。ありのまま思った通りに行動するしかないけれど、少しずつ雪下さんのことを知っていきたいと思った。



「よろしくね、雪下さん」

雪下さんの方に机を近づけた俺は、そう言って椅子に座った。

雪下さんは軽く頭を下げたけれど、やはり目は合せてくれない。

想定内だ。こんなことで落ち込んでいたらきりがない。
「快適な街づくりか。まずはどの世帯にするかだよな」

ファミリー、一人暮らし、お年寄り、それぞれ住む人によってどのような街づくりをすれば快適に暮らせるのか。

プリントに目を通しながら考えていると、雪下さんの手が動いた。
プリントになにか書いているようだ。

目線だけを向けると、プリントの隅になにかの動物の絵を描いている。


「タヌキ?」

見られていることに気付いた雪下さんは描くのを止め、動物の絵の上に両手を重ねた。

そして、「……犬」そうボソッと呟いた。


「あっ……犬、だよね」


笑って誤魔化しながら、心の中で自分を殴る。

またお前はそうやってなにも考えずに発言する! 普通に考えて、落書きするとしたらタヌキじゃなくて犬が定番だろ!


喋れば喋るほど印象が悪くなる気がするが、喋らなければ雪下さんを知ることなんて出来ないし、悩むな……。


他のクラスメイトは隣の席同士で話し合いを進めているようだ。時に笑ったり、不満そうな表情を浮かべたりしながら。


俺と雪下さんの間には、見えない壁が確実にある。

俺ではなく理紗だったら、雪下さんはもっと楽しそうに授業を進められたのかもしれない。
理紗と言うよりも、俺以外の奴と言った方が正しいのか。



「えっと、とりあえず雪下さんはどの世帯が住む街づくりを考えたい?」

雪下さんは黙って俯いている。


「お、俺は、やっぱファミリーかな。自分達と同じ環境の方が考えやすいと思うし」


様子を伺いながら言った俺の言葉に、プリントを見ながら雪下さんは頷いた。

そんなに凝視しなければいけないようなことは、このプリントには書かれていない。

つまり、俺を見ないための逃げ道がプリントというわけか。切ないな……。

「じゃー、ファミリーってことで。まずはお互いノートに書いて、それを後でまとめる感じにしようか?」


雪下さんが無言で頷く。それを確認した俺は、鉛筆を持った。

話し声や物音で騒然としている中、黙ってノートに向かっているのは俺達だけで、まるでここだけ別空間にいるようだ。

俺は鉛筆を持つ手に力を込めた。



「雪下さんは……姉妹いるの?」


なんでもない世間話なのに、告白でもしているかのような緊張感が俺達の間に流れる。


少し間を置いて、雪下さんは首を横に振った。


「俺は兄貴がいるんだ。俺と違って出来た兄だから、なにかと比べられちゃってね」


別に聞いてない。という心の声が雪下さんから聞こえてきそうだ。

俺自身もそう思っている。別に俺のことなんか興味ないだろ。それでも、たとえ一方的だとしても、少しでも話をしたいと思う。

二人で話す機会はもう二度と訪れないかもしれないし。



「趣味とかある?」「うちの学校ボロいでしょ?」「理紗と仲良くなったみたいだけど、あいつたまに口煩い時あるけどいい奴だから」「家は近いの?」「部活は入る予定ある?」


一時間の間に俺が投げかけた質問全てに、雪下さんは頷くか首を横に振るかで答えた。

一度も声は聞いていない。

一度も、俺の顔は見なかった。



休み時間になると、やはり他のクラスメイトには笑顔を見せる雪下さん。

それでもなぜか、俺の心の糸は切れなかった。

いつもの俺なら、面倒だからもういいと思ってしまっただろう。

意地になっているのかもしれないし正直凄く悩むけれど、多分知りたいのだと思う。



俺を見てくれない、その理由を……。







高校から地元の駅までは五駅。一本だから楽だし、近い方だろう。

朝の電車は満員というほどではないが、それなりに人は沢山いて座れることはまずない。

帰りの車内はというと、朝とは違い所々空いている席があるが、俺は殆ど座ったことがない。


今日も席はいくつか空いていたが、俺は座らずにつり革に掴まりながらボーっと外を眺めていた。



雪下さんが転校して来てから一週間、成果はなし。

どれだけ話しかけても相変わらず俺にだけ素っ気ない。

話がつまらないのかもしれないが、それにしたって冷た過ぎる。

なぜそんな態度なのか分からないが、雪下さんが俺を良く思っていないことだけは確かだ。



「なーんか元気ないけど、どうしたの?」


目の前に座っている理紗が俺を見上げた。

そう言えば今日は理紗が一緒だったんだ。


「別に……」



俺と理紗は家が近所で、子供の頃はよく一緒に遊んでいた。親同士も仲が良い。

同じ高校を受験すると知った時は少し驚いたが、ここまできたら高校が一緒だろうが大学が一緒だろうが理紗が近くにいることが自然過ぎてなんとも思わなかった。

気も遣わないし、お互い空気みたいな存在なのだろう。


家は近いが朝は出る時間が違うため一緒の電車に乗ることはあまりないが、帰りは理紗の部活がない日は時々こうして一緒になる。

勿論一緒に帰ろうなどと約束するわけではなく、たまたまだ。



「悩みがあるなら相談にのるよ?」

眉を潜めて俺を見上げる目から心配してくれているのが伝わったが、俺は「なんもねぇよ」と答えた。

さすがに雪下さんのことは相談出来ない。


子供の頃、気の弱い友達がからかわれたりすると理紗が助ける、そんな場面を何度も見た。

クラスの中で虐めのようなことが行われていれば、声を大にして『やめなよ!』と訴えるような奴だ。


そんな理紗とは異性ということもあってか、中学になるとあまり二人では遊ばなくなったが、部活や行事に相変わらず一生懸命取り組んでいる理紗を見かけることは度々あった。

いつまで経っても理紗は変わらないなと思う一方、俺はだいぶ変わった。


こんな俺でも子供の頃はそれなりに一生懸命だったはずで、運動会では一等を取ろうと必死に走ったし、なんだったか忘れたけれど夢もあったと思う。

それが成長と共に段々と変わっていき、頑張ったってどうせ無理なんだからと、いつしか毎日を適当に過ごすようになっていった。

楽しければそれでいい。人生まだまだ長いのだからどうにでもなると。


俺自身それでいいと思っていたけれど、心のどこかでなにもない自分に嫌気がさしていたのも事実だ。


そんな時に現れたのが、雪下さんだ。

変らない毎日の中で、雪下さんに話しかけることが楽しくて仕方がない。
冷たい態度を取られ避けられ落ち込んでも、明日こそはと頑張っている自分に驚きだ。

これまで適当に過ごしていた学校生活が、今は本気で楽しいと思える。


その情熱を別の物に向けろと言われても、多分無理だろうな。

恋愛がどうとかではなく、恐らく一人の人間として俺は雪下さんを知りたいと思っているから。


空っぽな心の隙間が少しずつ埋まってきている気がするのは、勉強でも部活でも夢でもなんでもなく一人の転校生のお陰で、つまりは……

ひと目惚れということになるのだろうか。


まだなにも知らない彼女のことを好きかと言われたら、正直分からないが……。


「美琴と喋った?」

 三駅目に着くと、電車の揺れに合わせて俺の体が一瞬ビクッと震えた。

すぐに答えられずに目線を上に向けると、ドアが閉まって再び電車が走り出す。


「まぁ、挨拶程度は」

俺の返答に対して、理紗は口を尖らせながら無言で見つめてくる。

今の言葉が不満だったのだろうか、それともなにか勘付いたのか、つり革を掴む手が汗ばむ。



「なんだよ、なにか言いたそうだけど」


自分からそう聞くと、理紗は「なんでもない」と言って目を伏せ、それ以上なにも聞いてこなかった。

もしかしたら理紗は気付いているのかもしれないな。
俺の態度に速攻で大和も気付いたのだから、理紗もきっとなにか感じているのだろう。



窓の外に視線を移すと、見慣れたビルが現れた。

ボーリングやゲームセンターやカラオケなどが入っている施設で、何度も行ったことがある。

雪下さんもゲームとかするのだろうか。誘ったとしても、悩む間もなく首を横に振っている雪下さんが浮かんだ。



地元まであと一駅というところで理紗が顔を上げ、鞄の中から取り出したスマホを眺めている。


「ねぇ」

スマホを見つめながら理紗が口を開いた。俺に言っているんだろう。


「ん?」

「明日、一緒に学校行かない?」


「……は?」