私が見慣れない大人だからだろうか、正門から構内に足を踏み入れると、登校中の生徒たちが、こちらをチラチラ見てくる。
そう言えば、私も高校生の頃、校内で知らない大人を見つけると、呼び出された問題児の保護者か、はたまた不審者か、と思って見ていたような気がする。
生徒たちの視線を感じて、何だか緊張してきた。
ハル……。
私は心の中でその名を呼び、ジャケットのポケットに手を入れた。そして、指先でお守りを探すように、そこにあるはずの封筒の感触を探る。
それは、先月届いた二宮(にのみや)陽(はる)輝(き)からの手紙。家を出る時、迷いながらもポケットに忍ばせた私の精神安定剤のようなものだ。
この手紙の送り主、ハルと私はこの学校の同級生だった。今も毎月届くアメリカからの手紙で繋がっている私の大切な人…………。
(中略)
終業後のホームルームを見学した後、私は赴任したら真っ先に行こうと思っていた図書室へ向かった。
『北鎌倉学園』自慢の図書室は、広々としていて蔵書も多いことで有名だ。
入口を入ってすぐのカウンターに、おかっぱ頭の図書係が座っている。
「まだ、開いてる?」
「はい。今日は五時半までです」
生真面目そうな返事を受け取って、思わず壁の時計を見る。
「あと、三十分か」
その時計の針に急かされるように、奥のコーナーにある哲学書の棚へ向かった。
入り口の正面に新刊や話題の書籍コーナーができていること以外は、本棚の位置も私の在学中とあまり変わっていないようだ。
『マルティン・ルター名言集』
ずらりと並ぶ分厚い本の中から、迷わずその一冊を手にとった。本の内側に張り付けられている紙のポケットから、図書カードを抜いてみる。
やはり昔の宗教学者に興味を持つような生徒は少ないらしく、私がこれを手にしてから四年の月日が経っても、カードにはまだ五つほどの氏名しか並んでいない。
「あった……」
貸し出し記録の一番上にあるのは、【二宮陽輝】の名前。そして、そのすぐ下に【藍沢紬葵】と書かれている。
「ハル……」
そのカードを指先で撫でると、『つむ』と優しく呼ぶ声が鼓膜に甦る。
会いたいよ、ハル……。
懐かしいような本の匂いに包まれ、高校生の頃にタイムスリップしたような切ない気分に浸った。
第1章
『明日世界が滅ぶとしても………』
(前略)
昼休み、学校で居場所がなく、図書室の一番目立たない場所で本を読み始めた。
それからからほどなく、私はひとつのことに気づいた。
「あれ……。この人、また、私より先に借りてる……」
私が名前を書いた図書カードには必ず『二宮陽輝』という名前があった。
「この本は昨日、返却されたばっかりか……。あれ? 二年三組? 私と同じクラス?」
同じ二年三組の子が昨日この図書室で本を借りているはずなのに、クラスでその名前を聞いた記憶がなかった。先生が出欠をとる時でさえも。
二宮陽輝。ここには居ないはずなのに、時々その存在を不気味にアピールする地縛霊か何かのようだ。
私以外にユーレイみたいな生徒がいたなんて……。
どうしても彼のことが知りたくなって急いで教室に戻り、隣りの席の男子におそるおそる声をかけた。
「あの……。このクラスの二宮君って知ってる?」
こんな勇気を出したのは久しぶりだった。
「さあ?」
その男子は首をひねったが、前の席の女の子がいきなり振り返った。
「知ってるー! 三年生でしょ? 有名だよー」
私はクラスメイトの話をしているのに、なぜかひとりで嬉しそうに盛り上がっている。
「いや、先輩じゃなくて……」
「あれ? 違った?」
私の失望が伝わってしまったのか、前の席の女の子は申し訳なさそうに笑った。
それでも彼の正体を知りたくて、ホームルームの後で担任の織戸先生を廊下まで追いかけて聞いた。
「先生!」
クラスでは幽霊のようにおとなしい私が、教室から勢いよく駆け出してきたせいか、振り返った先生はちょっと驚いたような表情だった。
「藍沢さん、どうかした?」
「先生、二宮君って子、ウチのクラスにいるんですか?」
すると先生は、『なんだ、そんなことか』という顔になる。
「二宮君ねぇ、今年に入ってから学校へ来てないのよ。膵炎だったかなぁ……。しばらく休学することになってるわ」
「え? でも……」
一年生の時から在校しているクラスメイトが彼の存在を知らないのが不思議だ。それに私が借りた本の図書カードには、つい最近、彼が借りた痕跡がある。
「でも、学校に本だけ借りに来てるなんて……ないよね……」
この難解なミステリーに首をひねっていると、担任はニッコリ笑って、
「ああ。図書室の本のことね? 藍沢さん、校医の二宮先生を知ってる?」
と、逆に尋ねてきた。
「あ、はい……。転入の時、保健室で問診を受けました」
白衣が良く似合うショートカットの女医さんだった。が、その時以来、会っていない。
「先生の息子さんなのよ」
「え? そうなんですか?」
私と同じ年の子供がいるとは思えない、若々しい美人だったような気がする。
「二宮君、本当はこの四月で三年生に上がるはずだったんだけど、出席日数が足りなくて、留年したのよ」
なるほど。どうりで同級生が彼のことを知らないはずだ。
もしかして、前の席の女の子が言っていた『有名な三年生』って、彼のことなのだろうか。
でも、学校を休みがちなのに有名?
休学してることで有名?
いや、やっぱり、あれは別の三年生のことなのかな。
あれこれ考えている私に、先生が話を続ける。
「学校に来れない陽輝君の代わりに、二宮先生がお昼休みに本を借りて、放課後、病院へ届けてるみたいよ」
毎日のように図書室に行っているのに、校医の先生が来ているなんて、全く気付かなかった。といっても、いつも一番奥の目立たない席で本の世界に没頭しているから、同じ空間に居ても目に入らなかっただけかも知れない。
病気で学校に来ることができない男子か……。
家に帰ってすぐに『膵炎』という病気を調べた。
慢性と急性があり、若い男性には急性が多いらしい。急性膵炎は治りやすい病気らしいが、今年に入ってからずっと休学していることから察すると、当面は安静にしておかなければならないような病状なのだろう。
病院のベッドの上でつまらなそうにしている、華奢で小柄な青白い顔の男子を想像した。