読み終わった本はいつもサイドテーブルの上に置いてあると、先生から聞いていた。
確かにテーブルの上には、昨日図書館で探して先生に渡した『巨人たちの落日・上巻』が置いてあった。
その厚い本を返却するために引き取り、今日、借りて来た『巨人たちの落日・中巻』をトートバッグから出した。
「結構、厚い本なのに。二宮陽輝、ほんとに読むの早い……」
最近は読書が趣味のくせに、読むのが遅い私は思わず溜め息をつく。
まだ読んではいないが、次に借りようと思っていた。確か、第一次世界大戦の話だっけ、とバッグに入れかけた上巻を開いて冒頭に目をやる。彼が借りる本には、必ずといっていいほど引き込まれる。
思った通り。やっぱり面白そう。今度、借りよう。
ポンと本を畳んで気がつけば、病室の壁の時計が五時五十五分を指している。
「やば……」
慌てて手にしていた本をトートバッグに放り込み、急いで病室を出た。
走ってエレベーターホールまで戻り、そこで息を整えていると、エレベーターの到着を告げる『チン』という軽い音がした。
とにかく早くこの場所から離れようと焦るあまり、降りて来る人たちと鉢合わせになった。
「あ……、すみません!」
慌てて脇へよける。
あ……。
エレベーターのケージからゆっくりと降りて来る男の子に目が釘付けになった。
とても背が高く、均整のとれた体。彫りの深いはっきりとした大人っぽい顔立ちをしている。
モデルみたい……。
思わず見とれていると、私と同様に脇へ避けてエレベーターから降りる人を待っていた男の子が、
「おう、ハル!」
と呼んだ。
その相手は私が見惚れている男の子だったらしく、彼がこちらを向いた。
友人を見つけてほほえんだその顔は急に幼くなり、それはそれで可愛らしく魅力的だ……、と思ってから気づいた。
「え? ハル?」
私の隣を通り過ぎる横顔を、つい二度見してしまった。
「うん?」
うっかり私が口から発してしまった名前に反応するように、薄茶色の大きな瞳が私を見降ろしている。
目があっただけで、左胸がドキリと音をたてた。
うわっ……。や、やば……。
とにかくこの場を逃げ出したい一心で、エレベーターに飛び込んだ。
必死で【CLOSE】のボタンを押し続けたが、ゆっくりと閉まる扉に視界が遮られるまで、吸い込まれそうなほど綺麗な瞳が私を見ていた。
「あー、びっくりした……」
初めて見た二宮陽輝の印象は鮮烈だった。
普通に黒いスエットの上下を着ているのに、まるで彼にだけスポットライトでも当たっているかのように目立っていた。
青白い顔をした、小柄で痩せぎすの少年をイメージしていた私には、“衝撃的”と言っても過言ではないほどのルックスだった。
ビックリするぐらいカッコよかったな……。
頭の中で再生される二宮陽輝の姿は、PVのスローモーションシーンみたいに美しく優雅だった。
完全に心奪われている。それまで、相手がどんな性格かもわからない段階で『一目惚れ』なんて、自分には絶対在り得ないと思っていたのに。
帰りの電車に揺られながら、特別なオーラすら感じた陽輝の華やな容姿を私は何度も思い出した。
(以下略)
第2章
『君と嘘と海の底』
(前略)
九月に入り、学校が始まったせいで、またハルと一緒に過ごす時間が短くなった。
そして待ちに待った土曜日、ハルの病室には、いつにも増して多くの男の子たちが集まっていた。メールアドレスの交換をしたり、電話番号を書いて渡したりしている。
その様子を不思議に思ってみていると、ハルが私の姿に気づき、「実は仮退院できることになったんだ」と極上の笑みを浮かべた。
「ほんとに⁉」
「まだ仮釈放だから、何かあったらすぐまた召喚されるけどさ」
ハルは主治医から、『くれぐれも無理しないように』と釘を刺されたと言っているが、その顔はリードを外され、広い野原に駆け出すのを待つ子犬のようだ。
「よかったね」
父のことでずっと後ろめたさを抱えていた私は、心から安堵した。
「学校も来週から行けそう。午前中は外来で通院するけど、午後から自由にしていいって。一週間、様子を見て、大文夫そうなら、一時退院から経過観察になるみたい」
「そうなんだあ」
彼が学校に行きたがっていたことを知っていた私は、嬉しいと思う反面、今までみたいに、ふたりっきりになったりすることはないんだろうな、という諦めに似た寂しさも感じていた。
けど、これでいいんだ。
「つむ、毎日、本、届けてくれて、今までありがとな」
それはまるで別れの言葉のように聞こえた。
「ううん」
何とか笑顔をキープしながら首を振る。
その間も、他の男の子たちに渡す連絡先を書き続けているハル。その綺麗な横顔が遠く感じる。
「じゃ、私、今日はこれで帰るね。月曜日、学校で会えるし」
強がって言ってみたが、やっぱり寂しい。
(中略)
そして、月曜日。
私が憂鬱な気分で想像していた通り、昼休みに教室に現れたハルはあっという間にクラスメイトたちに囲まれた。
彼が休学する前、まだ一年生だったクラスの女の子たちとハルとは、それほど接点がなかったはずだ。けれど、これだけ目立つルックスだ。下級生として憧れていた女の子は多いだろう。それがいきなリクラスメイトとして教室に現れたのだ。ぐっと近くなった距離に、色めきたっている。
「すごいね」
クラス委員のリコちゃんが遠巻きに見ながら、呆れたように呟いている。彼女でさえ出番がないようだ。
これまでクラスの中では幽霊のようにひっそりと過ごしていた私は、知らない転校生でも見るように、大人しく彼を見ているしかない。
こんな自分を見られるのはイヤだな、と思いながら……。
(中略)
休み明けの月曜日。
待てど暮らせど、ハルは学校に姿を現さなかった。
「今日は二宮先輩、お休みかあ」
クラスの女子たちもがっかりしている。
どうしたんだろう。まさか、日曜日に歩き回ったのが良くなかったんじゃないよね?
不安で仕方なくなって、学校から帰ってすぐにメールを入れてみた。
【今日はお休みだったんだね。顔、見れなくて残念。でも、無理しないでね】
なかなか返事が来ない。
体調が悪くなって寝込んでるんじゃないだろうか。
私の秘密や嘘のせいで人間不信に陥っているんじゃないだろうか。
ハルからのメールを待つ間、どんどん悪い想像をしてしまい、怖くてこちらから改めて連絡をとることができなかった。
【つむ。今から会えないかな】
そのメールが入ったのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
【いいよ。どこへ行けばいい?】
迷いはなかった。たとえこれが深夜だったとしても、私はそう返信しただろう。
【いや、やっぱ遅すぎるよな】
むしろ、ハルの方が迷っているようだ。
【大丈夫。こっそり家を抜け出せるから。どうしたの? 何かあったの?】
しばらく返信が途絶え、二十分ほど経ってからメールが来た。
【じゃあ、七里ヶ浜の駅で待ってる】
七里ヶ浜?
ハルの家は由比ヶ浜だと聞いていた。
七里ヶ浜は、私の住んでいる家の最寄り駅と由比ヶ浜の、おおよそ中間地点。
一番早く落ち合える場所ではあるけれど、私はあまり利用したことのない駅だ。
夜、よく知らない場所へ行くことと、ハルが用件を言わないことに戸惑いを感じた。
それでも、【了解。今から出るね】と返信し、こっそり着替えて裏口から外へ出た。
木戸を締め、駅へと一歩踏み出した途端、またハルからメールが届く。
【やっぱ、来なくていいや】
軽いトーンのメールを見た瞬間、逆に居てもたってもいられないほどの胸騒ぎを感じた。
―――いつものハルじゃない…………!
もう返信するのをやめて、夜の舗道を駅へと走った。
その時間の電車は、会社帰りのサラリーマンが多かった。
本数も少なく、十分以上待って、ようやく電車に乗ることができた。