突然聞こえてきたその名前に心臓が跳ねた。
「なっ……」
「おまえ昔から菜乃花のこと好きだったもんなー」
びっくりした。
確かに昔から好きだったかもしれない。
だけど俺がそれを自覚したのは三年前だ。
その後兄貴には二回しか会っていない。
当然なのねえを好きになったことなんか言ってない。
話題にすら出していない。
「分かりやすいんだよ、要は」
「うるせえ」
バレてしまってるのは仕方ない。
それでも恥ずかしいと思うのは止められない。
俺は子供みたいに拗ねることしかできなかった。
「最近菜乃花と連絡取れないんだよな」
兄貴がこれ見よがしによく通る声でなのねえの話題を振ってくる。
それに俺はバカみたいにまんまと反応した。
「なんかあったの?」
「それが分からないんだよ。
誘いに乗ったことこそないけど返信までしてこないなんていままでなかったのに」
いままで。
兄貴はいままでで何回なのねえと連絡を取っていたんだろう。
俺がいない間もなのねえと兄貴の間に交流があったことが恨めしかった。
「一回様子見に行ってみようかな」
「俺が行くよ」
俺だってもうすぐ会える距離にいるんだ。
「四月まで暇だし、俺が行く。
なのねえの住所教えて」
「なんだ住所も知らないのか。連絡先は?」
「知らない」
どうせ会いに行けないからと住所を聞いていなかったことも、切り出せなくて連絡先すら知らないままでいたことも後悔した。
兄貴はいつなのねえと連絡先を交換したんだろう。
「〇八〇……」
「何?」
「菜乃花の番号」
「待って!」
俺は慌ててスマホを探した。
かなちゃん?
そこには記憶に残っているよりだいぶ背の伸びたあの子がいた。
なんで?
どうしてここにいるの?
頭が混乱して言葉がでてこない。
「他に誰に見えるんだよ。様子、見にきたんだ」
小さく笑いながらかなちゃんはそう言った。
ああ。
そうか。
声にでてたんだ。
と、遅れて気づく。
「様子?」
「中、入って良い?」
かなちゃんの言う通りだ。
こんなところで立ち話もなんだよね。
体を少し引っ込ませてかなちゃんの通るスペースを空ける。
「お邪魔します」
かなちゃんが私のすぐ目の前を過ぎゆく。
通り過ぎさま、自分のとは違う柑橘系の香りが鼻をかすめた。
香水とは違う。
シャンプーの匂いだろうか……。
「待って!」
咄嗟にかなっちゃんの腕を掴む。
「すごいな」
遅かった。
「ちょっと疲れてて。た、たまたまだよ?」
“ちょっと”
“たまたま”
そんな訳ない。
ここ数ヶ月まともに掃除なんかしていない。
カーテンすら開けてない。
洋服だって脱いだままそこら中に散らばっている。
季節感の違う夏物までが。
「そうか」
馬鹿にするふうでもからかうわけでもなく。
かなちゃんの声は妙に淡々としていた。
「ちょっとここで待ってて」
そそくさと部屋に入り込み足元に散らばっている服をかき集める。
「別にいいよ、そのままで」
そう言ってかなちゃんはまた小さく笑う。
「でも、いくらなんでも……」
「じゃあ俺も手伝う」
のろのろと片付ける私と違ってかなちゃんは手際よく散らばっている服やゴミをまとめていく。
お陰で座るスペースがあっという間にできあがった。
「ありがとう。あの、コーヒーしかないんだけど……」
「うん。手伝おうか?」
「だ、大丈夫。ってか、本当ごめんね。キッチンは部屋の比じゃなく、あの。よ、汚れてて……」
「じゃあ待ってる」
久しぶりにキッチンに立ちながらソファに座るかなちゃんを盗み見る。
急にどうしたんだろう?
学校は?
様子って何?
次々と浮かび上がる疑問に対して答えは何一つでてこない。
不意にかなちゃんがこちらに振り向いた。
「どうした?」
声は聞こえなかったけれど口の動きでそう発音したのが分かった。
盗み見てたことが後ろめたくて慌てて電気ケトルのスイッチを入れる。
お湯が沸くのを待つ間にコーヒーサーバーにフィルターをセットして、粉を入れて。
それからしばらく待つとカチッと音を鳴らしてケトルがお湯を沸いたことを知らせる。
セットしたフィルターにお湯を回し淹れると粉がゆっくりと膨らんで芳ばしい香りが立ちのぼった。
久しぶりに鼻腔に広がる香りが。
誰かのために。
何より、自分のために。
コーヒーを淹れているということが。
その事実が。
チリチリと胸を締めつける。
ーーー
「お砂糖しかないんだけど……」
「そのままで大丈夫」
「かなちゃん、学校は?」
「卒業したよ。昨日、引っ越してきた。
春からはこっちの学校に通うんだ」
「もうそんな時期だったんだ。
待って?
引っ越しって……一人暮らし、するの?」
「いや、兄貴と一緒」
「あ、ああ。そっか。そうだよね。
修くんも東京にいるんだもんね」
「何?忘れてたの?」
「うっかりしちゃっただけ」
「ふーん」
かなちゃんはそれだけ言うとカップに目を落とし何か考え込み出した。
聞きたいことはまだあったけど。
とにかくいまは頭が回らない。
話しかけるのを諦めてまだ熱いコーヒーを口元へ運ぶことにした。
口に含むと懐かしい芳ばしさと苦味が広がった。
美味しい。
久しぶりに、そう思った。
いつからか味を感じなくなっていた私の舌に広がる苦味を。
久しぶりに鼻腔に広がる芳ばしい香りを。
ゆっくりゆっくりと噛み締める。
「なのねえ、何かあったの?」
私が知っているのより低めの声が耳に届く。
背が伸びただけじゃなくて声まで変わってる。
なんだか知らない人みたいだ。
先程までカップに目を落としていた彼が真っ直ぐに私を見ていた。
だけど目。
この目だけは変わってない。
小さい時からずっと、私の知っているかなちゃんはいつでも真っ直ぐな目をしていた。