「……最近さ、絵を描き始めるときに森下さんが言っていたことの意味がよくわかった気がするんだ」
そう言うと、彼女はくりくりとした瞳を向けて「それってどのこと?」と聞いた。
「絵本だけど、対象年齢は高め、っていう話。
もし、小さい子向けだとしたら、イルカの話を聞いた時点で男の子はピョンピョン跳べるようになってるだろうなって思ったんだ」
彼女は嬉しそうに「そうなの」と言って口元を緩めた。
「確かに、小さい子向けの絵本って、
一回で状況が好転して、それでハッピーエンドになるよね」
「うん、そんな感じ、する」
「あと、イルカのシーンもそうだけど、今描いてもらってるシーンも、『せっかく縄回しで活躍できるようになったのに、一回しか体力が続かないなんて…』って読む人は思うよね」
彼女の言葉に、僕は頷いた。
そして、そんな部分でさえも自分と重なる部分があることを話した。
物語の主人公も、自分も、一筋縄ではいかないというもどかしさを感じている。
すると返ってきたのは、思いもよらないひとことだった。
「……日比野くんは、自分の物語を生きているんだよ」
「自分の……物語?」
僕がきょとんとしていると、森下さんは真剣な眼つきで「そう」と言って続けた。
「物語の主人公と同じように、いろんな壁にぶつかってもそこから逃げずに、人のためにがんばろうとしているでしょ?
それが、日比野くんが生きることで綴られていく、日比野くんだけの物語だと思うんだ」
やはり彼女の言うことには説得力があるな、
と僕は思った。
いつも彼女は僕にとっていいほうに想像力を働かせて物を言ってくれる。
優しく、芯のある声で。
そして僕は、その言葉にまんまと納得させられるのだ。
「そう言われるとなんか恥ずかしい気もするけど、がんばろうっていう気になるよ」
僕はつぶやくように言った。
彼女はなんだか嬉しそうだった。
「だから私、日比野くんの話を聞くのがとっても楽しみだよ。
自分の物語を生きている人の話を聞くとその人のことを応援したくなるし、
自分もがんばろうって思える」
表情や今の言葉から、森下さんの僕を応援する気持ちも伝わってきて、僕も嬉しくなった。
そして、不意に思い浮かんだ言葉を口にした。
「森下さんは、小さい頃からそうやって物語に親しんできたんだもんね」
彼女はハンカチで汗を拭きながら、
「うん、そうだね」と答えた。もう完璧に夏だというのに、彼女の肌は白いまま。
季節感が周りと違っているように感じるし、病弱そうにも見える。
汗を拭くために後ろ髪を持ち上げたときに見えた首筋なんて、雪みたいに真っ白だ。
「普通の小さい子って、長い話だと飽きちゃうけど、むしろ私はそういう話のほうが好きだったな。
その分、いろんな気付きがあるし、物語に浸っていられる時間も長いから」
「なるほど……」
物語の世界に浸っていられる時間の長さ。それも絵本を読むうえで大切なんだな。
そういえば今の僕は、すごく長い時間、彼女の書く物語の世界に浸っている。それってなんだか得してるな、なんて思った。
「両親にせがんで読んでもらったお話は、今でもすごく心に残ってるんだ」
彼女は今、昔読んでもらっていた物語の数々を思い浮かべているのだろう。
人を元気付けたり、安心させたりする不思議な力を持つ森下さんのことを、僕は知りたい。
そのためには彼女がどんな絵本を読んできたかを知るのが近道だと思うから、
そういう話に僕は興味津々だ。
「日比野くんは、なにか小さい頃にそういう長いお話を読んでもらった記憶はない?」
「……あるかも」
「その絵本のタイトルは?」
「うーん、タイトルは覚えてないんだけど、話の内容なら」
彼女は目を輝かせながら、それこそ小さい子どもが絵本を読んでとねだるような目で、僕を見る。
教えて、と口には出さずとも彼女が言っているのがわかった。
「うさぎのぬいぐるみが男の子にすっごく大事にされていて、夢の中で本物のうさぎになって男の子と一緒に冒険するっていう話」
彼女の目が、輝いた。
「それってもしかして、『きみといっしょにいられるだけで』?」
彼女が口にしたその絵本のタイトルには、聞き覚えがあった。
首に緑色のリボンを巻いた、青色の目をしたおもちゃのうさぎが思い浮かぶ。
「……きっとそれだ。森下さんも読んでいたんだね」
「うん。小学校の頃、大切な友達に教えてもらって、本屋に走って買いに行った思い出の絵本なんだ。
それを読んでからね、持っていたくまのぬいぐるみをそれまで以上に心から大切に思って、常に一緒にいるようになった。
そうすれば、いつかこのくまも本当のくまに
なれるんだって信じてね」
「子どもらしいね。
そうやって絵本の真似する森下さんだって、すごく素直だと思うよ」
僕は少し冗談めかして言った。
森下さんは僕のことを素直だなんて言ってたけど、
君のほうがずっと素直だって。
そう言うと彼女は「ふふっ」と笑った。
「子どもの頃はみんな素直だよ。日比野くんは?なにか大切にしたりしなかったの?」
「うーん、僕は子どもの頃から超常現象みたいなのは信じてなかったから、そういうことはしなかったよ。
ただね、あのページの真似はした。
というか、両親にしてもらった」
「どのページ?」
僕は、その絵を頭の中でイメージした。
すごく、温かい気持ちになる一ページを。
「えっとね、夜寝るとき、男の子が布団の中で肘ついてさ、うさぎのための空間を作ってあげるページがあったんだ。
『うさぎのあな』とか言ってさ。その絵を見てね、
すごくいいなあって思ったんだ。
うさぎ、羨ましいなあって」
僕は両手で頭の上に三角を作り、布団をかぶるジェスチャーをして見せた。
それを見て彼女は「それで?」と言いながら目を細めた。
「それで、両親に頼んだんだ。絵本読み終わったあとでそのページ開き直してさ。
ねえこれやってって。
両親は僕の両側に寝て、肘ついて空間を作ってくれたよ。
『じゃあこれは、立樹の穴だね』って言って」
「いいなあ、日比野くんはすごく愛されていたんだね」
彼女は、胸の前で両手を握り合わせ、目を輝かせながらそう言った。
その穴は、僕だけのもの。
守られている、と感じて、安心した。
抱きしめられるよりもずっと、本当に、幸せな時間だったと思う。
「もしかして、日比野くんがその絵本のこと覚えてたのは、その思い出があったからなのかもね」
彼女は、少し涙目になっていた。
「森下さん、笑いすぎ」
「だって、子どもの頃の日比野くんを想像したら、かわいすぎたんだもん」
あと、と彼女は言って付け加えた。
「日比野くんの新しい一面が知れて、嬉しかったの」
ーーそうなのかもしれない。
森下さんといるとき、僕は両親のことをありありと思い描くことができた。
彼女と出会うまでの僕は、ふたりのことを思い出さないようにしていた。
ひとりで両親との思い出を浮かべると、自分の寂しさが際立つから。
でも、なぜ今は、こんなにも幸せな気持ちなんだろう。
ーーああ、そうか。
今は、ひとりじゃない。
僕の思い出を、共有してくれる人がいる。だから安心して思い出せるんだ。
「日比野くんだって、ほっぺたすごい上がってるよ」
「えっ」
とっさに口元に手をやる。
僕らは、同じポーズで顔を見合わせて、
もう一度笑った。