次の日の登校中、電車の中で僕は考え続けていた。自分が、あのイルカや男の子のようになる方法だ。


それも、サッカーの世界で。
 
そもそも、自分はなぜサッカー部に入ったのか。

その疑問に対する答えは、すぐには出てこなかった。


相良に誘われたから?
仮入部が楽しかったから?

どちらも合ってはいるが、ピンとこなかった。いったいなぜだろう?

考えごとをしていて、ふと気が付くともう教室に入っていた。

無意識でも自分がしっかり教室に向かっていたことに驚く。

「おはよう、日比野くん」

「えっ、あ、あぁおはよう」
 
そしてさらに、森下さんがそこにいたことにも驚いた。


なぜなら今日は水曜日だったからだ。

ノートは、昨日もらったばかりなのに。

「今日も早いんだね」

「うん、二日もこの時間に来てたら、こっちに慣れちゃって」


「へえ、すごいね」

 
こんなに早い時間に来てもすることもないだろうにと思いながら、彼女がいたことは僕を少し嬉しくさせた。


「日比野くんだって。毎日、朝練お疲れ様。

今日もこれから練習だよね」
 
彼女は時計をちらりと見たあとに、小さく頭を下げた。



その言葉を聞いて、なんだか僕は申し訳ない気持ちになってしまう。


「あ、えっと……」

「ん?」
 
返事をにごす僕に、彼女は不思議そうな顔をした。


「あの、それが『お疲れ』ではないんだ」



「えっ、毎朝練習してるのに疲れないの?」
 
彼女は、目を丸くして尋ねる。


「ううん、そういうことじゃなくて……ええと、



『お疲れ様』という言葉が合わない というか」
 
言いながら、僕は頭の中を整理していた。

彼女はきょとんとした表情でじっと僕を見ながら、

次の言葉を待ってくれている。



「……僕たちは好きでサッカーをしてるんだ。やらなくちゃいけないこととしてじゃなくて、好きなこととしてやってる。


でも練習のキツさのせいで、どうしてもその練習を『こなすもの』『やらされているもの』『大変なもの』だと考えがちになる。


そうなると練習に対して受け身になってさ、個人としてもチームとしても成長できなくなっちゃうんだ」
 

そこまで目線を落としながら話していた僕は、
顔を上げ彼女の方を見て言った。


「お疲れ様を言わないのは、

『自分たちがサッカーや仲間が好きだから』という理由で、

自分の意思で部活に取り組んでいることを忘れないようにするためなんだ」


「そうなんだ……」
 
彼女は、納得したようにうんうんと頷いている。


「それ、すごく素敵な考えだね」


「監督の考えなんだけどね。でも、僕たちはそれを聞いて、自分たちの意思で『お疲れ様』と言わないことに決めたんだ」
 

へえ、すごいなぁと言って、彼女は両手を胸の前で合わせた。


こんな話は彼女に とっておもしろくないと思うけど、
とてもまじめな顔で聞いてくれている。


「確かに、やらされてるって思うってことは、自分で自分の行動に責任を持たないってことだもんね。


自分は、自分の意思でがんばってるんだって考えること。それが大事なんだね」
 

彼女はゆっくりと、僕が話した内容を確かめるようにそう言った。

「なんだか、私も見習わなきゃって思ったよ。日比野くん、ありがとう」


「いや、僕は監督の考えを伝えただけだから」
 
照れくさくなり、僕は首の後ろを掻きながら答えた。

すると彼女は小さくかぶりを振って、ゆっくりと口を開く。


「でもその監督の話を受け入れて、実践したのは日比野くんの意思でしょ。


だから、 実際にその効果を実感してる日比野くんの言葉には説得力があったよ。

それに、私が何気なく言った『お疲れ様』を受け流さないで、

きちんと答えてくれたのも日比野くんの意思でしょう?

なんだかそれが嬉しかったよ」

取って付けたような言葉じゃなく、彼女自身が本当に心から思っていることを言ってくれているんだと感じた。


彼女の目はまっすぐ僕に向いていて、思わず視線をそら してしまう。
 
……彼女は、嬉しいとか、好きだとか、そういうプラスの感情を言葉にしてスト レートに伝えてくる。

その言葉は、僕が知らなかった自分の価値を見出してくれるものだ。


そんなとき、僕の中で言いようもない嬉しさが込み上げてくる。
 


プラスの感情は、言葉にして口にしたほうがいいんだ。彼女にならって、僕も自分 の今の感情を言葉にする。



「ありがとう、そう言ってもらえると……僕も嬉しいよ」

 
まだ気恥ずかしさもあるが、安心感もあった。


彼女は僕が言ったことを必ず受け入れてくれるんだと思った。
「でも、『お疲れ様』って、部活中ならよく使う言葉だよね。サッカー部のみんなは どういう挨拶をしてるの?」

「『おはよう』とか『こんにちは』が基本だけど、

『お疲れ様』を言うような場面ではね」
 

彼女は興味深そうに僕を見ている。僕は一度咳ばらいをしてから、右手を軽く上げてその言葉を口にする。





「ごきげんよう」
 


彼女が「ふふっ」と笑ったことは言うまでもない。

運動部の男子高校生たちが、お嬢様が口にするような言葉で挨拶をし合う光景はすごくシュールだ。
 


でも、僕らはこの言葉を気に入っていた。

目下、目上に関係なく、会ったときも別 れるときも使える挨拶。


それに相手の健康を願っていることを伝える意味がある。
 


そのことを彼女に言うと、彼女はまだ笑いがおさまらないのか、
口元に手を添えな がらも聞いてくれた。


「私も、日比野くんにはそう言ってもいいかな?」
 
そしていたずらっぽく、それでも控えめに尋ねた。僕はもちろん、と答える。



「じゃ、ごきげんよう」


「うん、ごきげんよう、日比野くん」
 


自分から提案したものの、やっぱり恥ずかしかったのか、

彼女の顔はほんのり赤くなっていた。



でも、その顔はどこか嬉しそうにも見えた。朝練に向かう間、


そのときの彼女の笑顔がずっと頭から離れなかった。
朝練は基本的に自主練だ。
 
リフティング、ドリブル、シュートと、基本的な動作を順に練習していく。

今日は、 思ったとおりにボールをコントロールできている気がする。

調子がいいようだ。
 
インターバルをとっている間、僕はさっき森下さんに話したことを思い返していた。

自分の意思で、好きで、やっている。


正直、最近の僕はそのことを忘れかけていたようだ。


この毎日の朝練も、もはや習慣化しすぎて


『毎日こなすもの』という認識になっていた。
 


今年こそはスタメンになりたいと意気込んでいたのに、三年生になってすぐに怪我をしてしまった。

治ってからもなかなか調子が戻らず、焦る気持ちを抱えながら練習していた。
 


がんばってもがんばっても練習についていくことで精いっぱいで、つらかった。

もし、誰かが僕に『お疲れ様』と言ってきたら、

『ああ、すごく疲れてるよ』なん て口にしてしまっていたかもしれない。
 



本当は違う。



確かにキツいけど、サッカーや仲間が好きだからやってるんだ。
 
彼女は、僕に『お疲れ様』と言ってくれた。


そのとき僕は、自分の意思で、その言 葉を受け入れることを拒んだ。



彼女は、僕に気付かせてくれたんだ。
 




そこまで考えたとき、僕の中でなにかがつながった。
 
朝から気になっていたこと。僕は、なぜサッカー部に入ったのか。
 



その答えは、〝好き〞という気持ち。ただそれだけだった。
 


両親がいないのに、そのことを感じさせないほど明るく強い友達のことを好きになり、

彼がしているスポーツに興味を持った。
 
温かく接してくれる先輩たちが好きになった。


『ワンフォアオール、オールフォアワン(ひとりがみんなのために、みんながひとり のために)』


という部の訓示があり、それを好きになった。
 

なんとしてもゴールを阻止するために身体を張ってチームのピンチを救う、ディフェンダーというポジションが好きになった。


 
僕は、サッカーにまつわるいろいろなものを好きになったから入部したんだった。


でも最近は、そんなサッカーをつらいと思って練習していた。



そんな考えじゃ、スタメンになれなくて当然だ。

スタメンは〝好き〞という気持ちを持って、
自分の意思で一生懸命に練習した結果としてついてくるものだ。


『スタメンになるためにがんばる』は、

僕のやる気を高めるモチベーションになんてなってい なかったんだと気付いた。
 

僕は、あの絵本の中のイルカと、主人公の男の子のことを思い出した。



……ふたりとも、自分を信じてくれる大切な人のためにがんばっていたな。



僕がサッカーをがんばることは、誰のためになるんだろう。


仲間のため。


チームのため。


そうだ。


僕は、自分のためじゃなく、自分が好きな、 仲間のためにがんばろう。
 


僕は、立ち上がり、再びシュート練習を始めた。

「ごきげんよう。日比野、今日もがんばっとるな」


「監督、おはようございます」
 

すると、遠山監督がグラウンドに出てきていた。
 
ああおはよう、と言うと監督はグローブをはめ、ゴールの前に立った。



「一発蹴ってみい」


「えっ」

 
僕は驚いた。監督は、僕にシュートを打つように言っている。


彼はもう五十歳をすぎているし、

選手にシュートを打たせて自分はキーパーをするなんて姿は見たことがない。


「大丈夫や。いいから、はようせい」
 
監督は僕が心配していることを察したのだろう。


そう言うと、構えをとった。



「では、いきます」
 
やるからには本気でやらなければと思い、シュートをした。
 

足がボールにヒットした瞬間、ドン、と自分でも聞いたことのないくらい大きく太 い音が響いた。しかし、そのコースは監督の目の前。


監督はそれを難なくはじいた。


「……いいシュートや。

お前、あんまり打たへんからわからんかったけど、重い球蹴られるようになったんやな。
自信持てよ。
ディフェンダーゆうてもいつ何時チャンスが巡ってくるかわからんからな」
 
少しぶっきらぼうだけど、しみじみと監督は言った。


「……はい!」
 
自覚はなかったが、練習を積み重ねていくうちに自分にも成長しているところがあるんだと思い、嬉しくなって返事をした。
 
監督は、かすかに笑ってグローブを外した。

そういえば監督は、こうやって早く来たり、学校に遅くまで残ったりして、僕ら選手の個人練習に付き合うことが多い。


でも、なぜ自らキーパーをしたのだろう?
 
僕は、その場を離れようとする監督を思わず呼び止めた。



「あの、監督。……監督は、なんのためにがんばってらっしゃるんですか」
 


それだけ選手に力を注げる、その原動力がなんなのかを知りたくなったのだ。僕は 唾を飲み込み、監督の反応を待った。
監督はちょっと驚いた顔になり、少し考えてから僕の方をまっすぐに見て答えた。

「お前らと、喜びを共有するためや」


「喜びを、共有するため……」
 
監督は、僕にボールを投げてよこした。


それをキャッチし、脇に抱える。


「サッカーは、キツいスポーツや。

それに、シンプルだからこそ難しい。

強敵から一点を奪うことはそう簡単やない。


そのためにはそいつら以上に練習せなあかん。


吐くような思いをするかもわからん。

でもな、だから部員全員の力でゴールを決めたとき、 勝ったとき、喜びは大きいんや」
 


そう言う監督の表情は、晴れ晴れとしていた。

対する僕は、真剣に監督の言葉を聞いていた。


監督が言った言葉の意味を、考えていた。



「人数の分、その喜びは倍増する。それまでの努力が報われる瞬間や」
 


僕は、試合に勝ったときの経験を思い返していた。


確かに、そこに仲間がいなければ、嬉しさはそこまで大きくないかもしれない。



「その喜びを、お前らと共有したい。だから俺は、お前らのために俺にできることは なんでもする」
 

僕は、監督が今まで僕ら部員のためにしてくれたことを思い返してみた。
 


思えば、毎日部活の最初から最後までいてくれるのは監督くらいだった。自分の仕事は、練習が終わったあとにしているのだろう。
 


テーピングや、マッサージなどのトレーナーの役割も担ってくれている。


合宿の前には、より多くの強豪と練習試合ができるように何度も頼み込んでくれた。


正月には、 部員全員にお雑煮を振る舞ってくれたこともある。
 
数え切れなかった。


監督には本当にお世話になっているということに今さら気付く。


僕みたいな補欠部員のためにも、練習を見てくれ、アドバイスをしてくれた。 「お前らのためになにかをやる分だけ、喜びは大きくなる。

つまり、お前らのためと か言うとるけどな、つまりは自分のためやねん。

お前らと喜びを共有したいっていう、

自分の目標のためにがんばっとるわけや」



 
監督は、そう言い終わると、グローブを片づけて、


「じゃ、ごきげんよう」と言ってグラウンドをあとにした。
遠山監督の言葉を聞いて、僕は勘違いをしていたことに気が付いた。


それは、『誰かのためにがんばるということは、その誰かのためにしかならない』 ということ。
 

でも、それは違う。

誰かのためにがんばることは、自分のためにもなるんだ。


いや、自分のために、誰かのためにがんばると言ってもいい。
 
僕は今、森下さんのために絵を描いている。


でも、それによって僕は誰かに必要とされる自分でいることができるし、

僕自身もいろんなことを学んでいる。

現にこうやって、大切なことに気付くことができている。
 


あのイルカは、飼育員さんのためにがんばることで自分の生き方を見つけた。
 

たとえ自分にそんなつもりがなくても、誰かのためにがんばることは、結果として 自分のためにもなっていんだ。
 
さっき僕は、『仲間のため、チームのため』にがんばろうと心に決めた。


その気持ちは変わらない。


でも今は、『自分のために、仲間のため、チームのため』にがんばろうと考えている。
 



仲間の中には監督も含まれている。

僕らのために努力を惜しまない彼は、僕らと喜びを共有したいと思っている。


その思いに応えたい。彼の夢が叶ったら、僕も嬉しい。
 


だから、がんばることは僕のためにもなるんだ。
 



僕は練習を再開した。

今までは目の前のゴールしか見えていなかったけど、今度はもっと別なものが見えた。


ここが試合会場であることが想像される。


なんだか、視野が広くなったような気がした。
 



グラウンドは、全国大会予選の決勝の舞台に、ジャージはユニフォームに見えた。


周りには、たくさんの仲間がいる。
 
自分のために、彼らのために。


この一本のシュートは大切なプレーなんだと思いながら、僕はいつもより長く、ぎりぎりまで練習を続けた。