その日の部活から、僕は二、三年生の練習に復帰した。AチームとBチームによるゲーム形式の練習だ。僕はもちろん、AではなくB。

一年生と練習していたグラウンドの端と、今立っている中央では、世界が違った。

僕は、ドキドキしていた。整形外科の先生が言っていたように、まだ右手の痛みはあったが、プレーできないほどではなかった。

ただ、一カ月のブランクは僕の予想以上だった。ギプスを巻いているときも下半身のトレーニングや走り込みは続けてはいたけど、練習の後半になると息が上がり、足はずっしりと重く、思うように動かなくなった。

相手が、追えない。得意に思っていたディフェンスも、相手のボールにかすりもしなくなった。練習が終わる頃には、僕の身体はボロボロだった。そして、心も。

――ここまで、力が及ばないとは。

ただでさえスタメンになれていなかったのに、それに加えて怪我のブランクだ。嫌でも焦る気持ちが湧いてくる。

人数は決して多くない部活。その中で、三年生でスタメンではないのは僕だけだ。

パスやドリブルが苦手だということや鈍足であることが致命的だった。そんな僕の

ウィークポイントが、今日この久々の練習でさらに際立ってしまった。

「おい日比野、どうや調子は」

遠山とおやま監督が練習後に声をかけてくれた。関西弁を話しているが、そちらの出身ではない。ただ、関西の大学に通っていたことでそのしゃべり方が移り、今でもそのままなのだという。

「もう大丈夫です。ご心配おかけしました」

手をブラブラさせながら、治ったことをアピールする。しかし、監督の目は鋭い。

「まだ痛むんやろ」

「……はい、すみません」

プレーの内容から、僕が強がっていることを察したのだろう。

彼は、たとえBチームの選手であろうが、一年生であろうが、全員をよく見ていた。そして、全国大会に行くというチームの目標を達成するための可能性を、全員から公平に見出そうとしていた。そのことを、三年目になる僕は理解している。

だからこそ、僕はスタメンになんてなれないと確信する。

今の僕は、どう考えてもチームにとって役に立つ存在ではない。
男の子が目をあけると、そこは海の中でした。

息ができるので、男の子は『これはきっと夢だ』と思いました。

海の中には日の光がさしこんでいて、とてもきれいでした。

まわりにはたくさんの大きなあわがうかんでいます。

あお、みどり、オレンジ、きいろ……。

色とりどりの魚たちが、ゆったりと泳ぐようすや、

下に見えるきれいなピンク色のサンゴしょう。

男の子は、このうつくしい夢のせかいをしばらく楽しんでいました。
彼女の物語は、不思議な海の情景が思い浮かぶようだった。
文章の優しい雰囲気が、 森下さんらしい。
読んでいくうちに、どんどんその情景が頭の中に形作られていく感覚は、すごく不思議で、けれど心地よかった。
 
舞台は、海。

昨日、かおるくんと一緒に公園で描いたばかりだったので、偶然だなぁと思った。一ページ目は、そんな海の様子の描写で終わっていた。まずはここま
で読んだ部分を一枚の絵にすればいい。  

日比野くんが読んで、頭に浮かんだものをそのまま描いて。

僕は、森下さんに言われたとおり、物語を読んで頭に浮かんだものをそのまま絵にしていった。

誰かのために描く絵は記憶にある限りでは初めてで、自然と手に力が入る。

かおるくんと絵を描いて遊んでいるときも真剣ではあるけど、このときはそれに 加えて緊張もしていた。
その日の夜、僕はまた、あの妙にリアルな夢を見た。
 
小学校の中だということは同じだったが、場所は教室ではなく、図書室だった。
 
この夢がリアルなのは、景色だけじゃない。窓の外からは子どもが遊ぶ声が聞こえている。
手からは、木でできた机の冷たさを感じたし、給食前なのか、どこからか美味しそうなにおいが漂ってきている。どうやら今日の給食はシチューみたいだ。

聴覚、触覚、嗅覚。

どれも夢ではなく、本当に自分がそこにいるような感覚がある。

でも、自分の手を握ろうとしても動かない。どうやら、思いどおりに身体を動かすことはできないようだ。
 
僕の意思とは関係なく、まっすぐ図書室の奥へ進んでいる。

図書室だから、きっと本を探しているんだろう。

そう思ったけど、手に取ったものは、本ではなかった。
 
それは、一冊のノートだった。右奥の棚の一番上の端にあり、背表紙が棚の奥側を向いている。表紙にはなにも書かれていなかった。
 
僕はノートの中身を開くと、なぜか手に持っていた色鉛筆でそこに絵を描き始めた。

けれど、その絵だけはぼやけていて見えない。
 
僕はひとりでなにをやろうとしているのか。
なぜ、ノートは目立たない場所に隠し てあるのか。
 
そう考えているうちに、時間が経っていたようだ。
キーンコーン……とチャイムが 鳴る。
僕は急いで片づけをしてノートをもとの場所に背表紙が奥になるようにしまい、
そして早足で図書室をあとにした。
 
夢は、そこで終わった。

集中して絵を見ていた彼女がそれを閉じたので、僕はドキドキしながら口を開いた。

「……どうかな」
 
彼女はこちらを向くと、頬を持ち上げて目を細め、小さく「ふふっ」と笑った。い つもの優しい笑い方。
その動きに合わせて、ふわふわのくせっ毛が小さく揺れた。

「え、笑えるくらいひどい?」
 
僕が心配になり尋ねると、ううん、と彼女はかぶりをふった。

「その逆。想像以上によすぎて、笑えてきちゃったの」
 
僕は、ふうーとため込んでいた息を吐いた。

「なんだ、よかったあ……」
 
緊張がほぐれ、笑みがこぼれた。そんな褒め方をされたことがなかったのだが、自 然と言葉が出てきたことに僕は驚く。
 
ほっと胸を撫で下ろす僕の様子がおかしかったのか、また彼女は笑う。
今度は少し長めに。

彼女は、うっすらと浮かんだ涙を人差し指の背中でぬぐった。笑いすぎて涙が出たんだろう。

「やっぱり、日比野くんに任せてよかった」
 
彼女は安堵したように息を吐き、そう言った。

「ありがとう、期待を裏切らないようにこれからもがんばるよ」

「そんなにプレッシャーに感じなくて大丈夫だよ」

彼女はそう言って手を顔の前で左右に振った。
 

僕は、出来上がった絵を早速森下さんに見てもらっていた。

森下さんのイメージに 合う絵が描けているか心配だったけど、予想以上の好評をもらえて安心する。
 
始業前の教室はざわついているが、窓際の後ろにいることもあり、周りの声は気にならず、この空間にふたりでいるようだった。

「がんばりすぎないでね。まさか一晩で描いてきちゃうとは思ってなかったから、 びっくりした」

「描き始めたら、夢中になっちゃって」

「眼の下、ちょっとクマができてる。睡眠時間を削ったらだめだよ」
 
確かに、と思った。昨日は描くのが楽しくてつい寝るのが遅くなってしまったけど、 これを続けていたら身体を壊してしまう。
 
描くのが楽しかったのも寝る間も惜しんで描いた理由のひとつだけど、それだけではない。

早く森下さんの書く物語の続きが読みたい気持ちもあった。

「これからは、せめて一週間に一枚くらいのペースにしよう?」
 
彼女は、心配そうな表情で提案する。早く読みたい気持ちを抑え、素直に応じるこ とにした。森下さんに心配をかけることは避けたかったから。

「そうだね。そうしよう」

週刊の漫画雑誌の続きを待つ感覚だと思えばいいそう自分に言い聞かせて、そう答えた。

「ありがとう。昨日も言ったけれど、部活も大変だろうし」
 
部活、という彼女のひとことに、昨日の練習を思い出し、胸の奥がチクリと痛んだ。

昨日、寝る間も惜しんでこの絵を描いた理由がもうひとつある。
 
昨日の部活では思うようなプレーできなかった。
自分はチームに必要とされるほど の選手ではないんだと思い、これでもかというくらい無力感を味わった。
 
そんな気持ちで家に帰り森下さんのノートを目にしたとき、少し安心した自分がいたんだ。

自分を必要としてくれている人がいる。

厳しい言い方をすれば、それは〝逃げ〞だった。部活で味わった自己有用感の穴を、森下さんの絵を描くという行為で埋めようとしていたんだ。

「……日比野くん?」

「えっ」
 
森下さんの声で我に返った。その表情は変わらず心配げだ。

まつげを伏せ、眉を下げている。彼女にそんな顔をさせたくないと思った。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫!
 
部活に影響が出ないようにしていくよ」
 
そうしてね、と彼女は笑顔になる。その表情を見て、僕も安心した。

「部活に影響でないように」と言いつつ、今は絵を描くほうをよりがんばろうと考え ていた。




〝逃げ〞てもいいと思った。  




必要としてくれている人のためにがんばるほうが、いい。


とつぜん、男の子の目の前で、たくさんのあわが光りながらうずまきはじめました。
 
あんまりまぶしいので、男の子は思わず目をつむりました。
 
光がおさまり目をあけると、そこには白いワンピースを着た、ひとりの女の子がいました。
長いかみをなびかせて、瞳はとじられていました。
 
女の子と男の子は、海の中で向かいあわせにただよっています。

「きみは……だれ?」
 
男の子が聞くと、女の子はゆっくりと目をあけました。
 
その目は、色とりどりの魚たちやサンゴに負けないくらいにきれいでした。
 
女の子がふわりとこんにちはと言ったので、男の子もこんにちはと返しました。

「きみはだれなの?」
 
男の子がまたたずねると、女の子は小さな頭をふって、

「ごめんなさい、名前は言えないの」
 
とあやまりました。

「だけど、わたしはいつか、あなたに助けてもらったことがあるの」

「ぼく、きみのことを知らないし、助けたことも、ないよ」
 
男の子がびっくりしてそう言うと、女の子は優しくほほえみました。

「あなたにはその記憶がないだけで、たしかにあなたが、わたしを助けてくれたのよ。 大丈夫、いつかわたしの言っていることがわかる日が、くるから」
 
男の子は、やっぱり女の子のことを思い出せないままでした。
 
けれどこのきれいな海の中では、そんなことはなんだかどうでもよくなってきます。

「ねえ、ここがどこかわかる?」
 
男の子はあたりを見渡しながら聞きました。
魚たちが、むれになって泳いでいます。
「ここはね、わたしの夢の中なの」
「きみの? じゃあ、ここはぼくの夢じゃないんだ」  

そうよ、というと、魚たちがふたりのまわりを回るように泳ぎはじめました。 どうやら、女の子がそうさせているようです。

「あなたはいま、〝自信〟をうしなっている。だから、この夢に招待したの。わたし の知ってる、あなたの素晴らしいところを、伝えるためにね」

「ぼくの、素晴らしいところ?」
 
男の子は、首をかしげて考えましたが、思いあたることがありませんでした。 「そう。たくさんあるのよ。だからわたしは救われた。
今度は、わたしがあなたを勇気づけて、助けるばんなの」
 
女の子がそう言うと、魚たちが大きなあわに姿をかえ、ふたりはそれに包まれまし た。男の子は強い光に思わず目をとじました。

夢からさめた男の子は、ふしぎな夢だったなあと思いました。

 ─〝ぼくの素晴らしいところ〟って、なんだろう。そんなの、ないよ。

そんなことを考えながら、今日も学校へ行きます。

男の子にとって学校は、〝ゆううつ〟な気持ちになるところでした。

なぜなら、男の子の苦手な、大なわとび大会の練習があるからです。

大きいなわがぐるぐる回る中にとびこみ、ジャンプして、ひっかからないように走りぬける。

それが、男の子にとってはとてもむずかしいのです。
 
いつも引っかかってしまうので、男の子の番がくるたびに、五年二組のなわは止まっていました。
 
そんなとき、友だちは男の子をはげましてはくれますが、心の中では、自分のことをじゃまものだと思っているのではないかと考えていました。

─ぼくが足をひっぱってる。ぼくがいないほうが、クラスの記録はのびるとおも う。ぼくは、いないほうが……。




男の子は、女の子の言うとおり、〝自信〟をなくしていたのでした。



その日も、男の子は女の子の夢の中にいました。
 
ここは、とてもいごこちがよくて、男の子にとって学校よりも安心できるばしょに なっていました。苦手な大なわとびも、勉強もありません。
 
男の子は、今日ずっと気になっていたことを女の子に聞いてみました。

「ねえ、ぼくはきみになにをしたの。

〝ぼくの素晴らしいところ〟って、なに?」
 
女の子は優しくほほえんで、こたえました。

「あなたは、私にとって、さいしょで、さいごの人なの」


「さいしょで、さいご?」
 
男の子はまた女の子の言っている意味がわからなくて、首をかしげました。

「そう。あなただけが、わたしのことを助け出そうとしてくれたの。
じゃあこれから、 あなたの素晴らしいところの、ひとつめを教えるわね」
 

そう言うと女の子は、あれを見て、と言って男の子のうしろを指さしました。
 
男の子がうしろを振りむくと、女の子の指さしたほうに、一頭のイルカが泳いでいるのが見えました。


「あのイルカはね、昔、水族館にいたの」
大きなイルカがあらわれたので、男の子は驚きました。
 
そのイルカはきれいな海の中で、気持ちよさそうに泳いでいます。

「小さい水族館だったわ。そこではイルカショーがおこなわれていたの。
でも、あの イルカはショーが苦手だった。
ジャンプも、ボールをつかった芸も、うまくいかない。
だからね、いろんな飼育員から、あいつはだめ、役立たずだって言われていたの」
 
なんだか自分みたいだ、男の子は思いました。

「でも、ひとりの飼育員だけは、そのイルカのことを見捨てなかったわ。
きみなら ゼッタイできるよって言いながらイルカをはげまして、
たくさんの愛情をそそいだ。イルカも、彼女のことが大好きだった」
 
優しい飼育員さんだったんだね、と男の子は言いました。

「そうね。でも、まわりの飼育員は彼女のことをよく思わなかった。
彼らからしてみれば、彼女はいくらやってもうまくできないイルカにつきっきりで、意味のないことをしているようにしか見えてなかったの。

彼女のことをそのイルカと同じように〝役立たず〟だってかげで言うようになった。

あるときイルカは、その言葉を聞いてとても傷ついたの」
 
男の子は、手をにぎりしめました。

イルカのほうを向いて話していた女の子は、男の子にからだを向けました。

「ここであなたに聞くわ。あなたがそのイルカだったら、どうする?」

「……大好きな飼育員さんのがんばりが、ムダじゃないって証明するよ。
ショーで一番の人気になるくらい上手になってさ」
 
男の子はすぐにそうこたえました。

それを聞いた女の子はうれしそうな顔をしています。

「正解。さすがね。
大好きな飼育員さんが悪口を言われていることを知ったイルカは、それまでよりもたくさん、練習をがんばった。
ひとりでも特訓するようになった。
そして、あなたの言うとおりになったわ」

「イルカも、飼育員さんも、がんばったんだね。

でも、どうしてあのイルカはいま、この海にいるの?」


「……水族館がつぶれちゃったのよ」
 
そんな、と男の子は思わず声をもらしました。

「でも、あのイルカはいま、不幸せだと思う?」
 
男の子は、もう一度イルカをながめました。彼は、からだをしならせ、ゆうゆうと 泳いでいます。

「……少なくとも、飼育員さんがひどいことを言われていたときよりは幸せだと思う」

「そうね。じぶんの力で大好きな飼育員さんをよろこばせることができて、
彼はそれで満足しているのよ」
 
男の子は、イルカのことをかっこいいと思いました。



「あなたは、わたしにとって、あのイルカだったのよ」
 
女の子のひとことに、男の子は目を丸くしました。
イルカの話がはじまる前のことをすっかり忘れていたのです。「

でも、ぼくはそのイルカみたいなすごいやつじゃないし、やっぱりぼくはきみのことを思い出せないんだ。ぼくは結局、きみになにをしたの?」
 

男の子は、女の子のことを思い出せないのを申しわけなく思っているのでした。
 

でも、女の子は、

「まだひみつ」
 
と言っただけでした。
 
そのときまた、たくさんのあわが男の子のまわりをうずまいて、

男の子は夢からさめました。