自分はどうなってもいい。
そう思って止めに入ろうと思った瞬間、彼が思いもよらないひとことを叫んだ。
「これは、僕らの宝物なんだっ!」
その言葉を聞いたとき、じん、と熱いものが込み上げ、私の視界は涙でいっぱいになった。
それと同時に、私先生が駆け込んできた。
「やめなさいっ!」
歪んだ視界で、彼は先生によって男子から引き剥がされていた。
手には、あのノートがしっかりと握られている。
それを最後に、私は前を見ることができなくなり、手で顔を抑えて泣き崩れた。
私たちの別れは唐突に決まった。
理由はシンプルだった。
私の病状がまた悪化したから、病院の近くに引っ越すため。
もちろん、立樹くんにそれを一番に伝えた。
と言ってもほかに伝える人なんていないのだけど。
彼は、じゃあそれまでに絵本を完成させなきゃね、と笑顔で言った。
あの事件があってから、クラスメイトは私だけでなく彼からも離れていった。
私は、彼に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
でも、私が謝ると彼はこう言った。
『華乃は、なにか悪いことをしたの?
してないでしょ。だから、謝らないで。
それに、華乃のことを悪く言う人のこと、僕は好きじゃない。
だからいいんだ、これで』
立樹くんの言葉には不思議な力があった。
私のことを包み込んでくれるような温かさ。そしてそれは、笑顔にも。
本人は自覚がないようだけれど、普段は無表情が多いから、
笑顔を見せてくれたときの喜びは大きい。
私たちは、残された時間を惜しむようにできるだけ一緒にいて、たくさん話をした。
そんな中で彼が絵本が好きだということを知ったときは、嬉しくてわくわくした。
私は、彼が小さい頃からどんな絵本を読んできたのか、知りたくてしょうがなかった。
立樹くんが、どうして今の立樹くんのように素敵な人になったのか。
そのヒントが、そこに隠れている気がしたから。
特に印象に残っているのは、彼のお気に入りの絵本の話。
幼い頃の彼は〝絵本を使って家族と交流するプロ〞
だと、話を聞いて思った。
「今はさすがにもうやらないけど。きっと僕は甘え上手だったんだと思う」
絵本のタイトルを聞いたけど、読んだことがないものだった。
とにかく早く読みたくて、書店に急いだ。
そのせいで咳がしばらく止まらなくなったのを覚えている。
帰って、布団の中で彼が好きだと言った場面の絵をじっと眺めていた。
彼が、私のために穴を作って入れてくれるところを想像したら、急に恥ずかしくなって布団をかぶった。
『きみといっしょにいられるだけで』は、
それ以来、私にとってもお気に入りの一冊になった。
先生には、
『クラスメイトには転校のことを当日まで言わないでください』と頼んだ。
必要以上に波風を立てたくなかったから。
その日は、あっという間に訪れた。
立樹くんと過ごした時間が加速装置になったみたいに、その間の時間もビュンビュン過ぎていった。
彼がいなかったら、まだ私は一週間前くらいにいたのかもしれない。
クラスメイトは、特に驚いてはいなかった。
ああ、やっと目障りなのがいなくなる、という感じだろう。
彼らのまったく関心がないような目を見たとき、この人たちはこれからも新しい誰かを標的にしていじめをするのだろうか、
とそんなことを思った。
誰かをいじめることでしか弱い自分を守れないのは、すごく悲しいことだと思った。
私の病気なんかよりも、ずっと。
その病気のような心は、誰が治せるんだろう。
みんなが、立樹くんのようだったらいいのに、と心の底から思う。
せめて次の転校先にいる人たちが、その病気にかかってないといいな。
放課後、私たちは公園で会った。
また、彼のほうが早く着いていた。
今度は、立樹くんのほうから手を振ってくれた。
立樹くんの少し寂しげな笑顔を見て、胸が苦しくなった。
寂しい気持ちがいっぱいに広がる。
でも、なるべく明るい笑顔を作って前より大きめに手を振って彼のもとへ向かう。
ベンチに座ると、彼はあのノートを取り出して私に渡した。
「終わったよ」
「うん、ありがとう」
彼は、最後の絵を描き終えて、持ってきてくれた。
私たちの絵本が、完成したのだ。
最後は、教室の絵。
女の子と男の子の、別れのシーンだ。
教室の中に舞い込む桜の花びらが、それはもう、息を飲むような美しさだった。
全体的に明るく、淡い色が使われていて、その分、桜の鮮やかな桃色が際立っている。
男の子も、女の子も、すがすがしい顔で向かい合っていた。
ふたりだけの、美しい世界。
その一瞬を切り取ったような絵だ。
「ありがとう。本当に素敵。言葉にならないよ」
私は、目頭が熱くなるのを感じた。
「僕も、この物語に出会えて本当によかったよ。ありがとう」
彼は、また笑顔を見せてくれた。
「このノート、私が持っていてもいいの?」
「もちろん。それはもともと、華乃のだよ」
「でも、もうふたりのだよ」
「ふたりの……
そうだね、そう言ってもらえるとすごく嬉しい。
でも、僕は絵を描いただけだ。
それに、ノートの表紙を見てよ」
私は、表紙に目をやる。
「【だれかの】って書かれてるでしょ?
この絵本は、誰かのものなんだ。
僕はそれでいいと思う」
彼は今まで見たこともないような真剣な表情で私を見た。
そのまっすぐな瞳に、なんだか胸がドキドキした。
「僕はこの物語を読んで勇気をもらったよ。
同じように、この物語を読んで救われる誰かが世界中にいると思うんだ」
そして彼は言った。
これは、『誰かのための物語』だ、と。
「僕の絵はまだまだだけどさ、たくさん練習してうまくなるよ。
そしたら、もう一度華乃の物語に絵を描かせて。
そしたら、コンクールに応募しようよ。
たくさんの人に読んでもらえるようにさ」
彼の勢いに押され気味になりながらも、
私は嬉しい気持ちを抑えられなかった。
あんなに胸が高鳴ったのは初めてだ。
「誰かのための物語……」
彼が言ったその言葉をただ私は小声でつぶやいた。
確かにそうだ。
私は、夢であの女の子から教えてもらった物語を書き写したにすぎない。
これは、私の物語じゃない。
これは、誰かのためにあるものなんだ。
「夢の中で女の子は、未来から来たって言ってたよね。
そして、
『未来で私はあなたに助けてもらうことになる』って言われたって」
「うん、そう言ってた」
「誰かの助けになるときは、どんな人にでもいつか訪れると思うんだ」
私はそのとき、立樹くんの言おうとしていることが理解できた気がした。
「それはつまり、主人公は、読んだ人全員っていうこと?」
「うん。
少なくとも僕は、そうだと思ってる。
華乃が夢の中で出会った女の子がこの物語の作者なんだとしたら、
彼女は「この物語の続きは自分で作ってください」っていうメッセージを、
君に伝えたかったんじゃないかな」