私は思わず「えっ」と声を上げた。
落書きではない。
落書きと言えるレベルではない。
ノートの右側には、息を飲むほど美しい絵が描かれていたのだ。
それから私は、ノートに物語の続きを書くと、もとあった図書室のあの場所に戻すようになった。
そして数日経って見に行くと、そこには新しい絵が描かれている。
それだけのことだけど、私はすごく嬉しかった。
誰かはわからない。
でも、絵を描いてくれたということは、少なくともこの物語に共感してくれている人ということだ。
それは物語だけじゃなくて、私自身も肯定されている気がして嬉しかった。
この人と話をしたい。
日に日にその思いは強くなっていった。
さらにその絵は、私が夢の中で描いていた絵にそっくりだった。
もしかしたらこの絵を描いてるのは、夢から出てきた私なんじゃないだろうかと想像したりもした。
けれどその正体は、案外すぐにわかることになる。
やっぱり、夢から出てきた私なんかじゃなかった。
ある日の図工の時間、私はあまり目立たないように注意しながらクラスメイトの絵を見ていた。
そして、ひとりのクラスメイトの絵に目が留まる。
それは、日比野立樹くんの絵だった。
ひと目でわかる。
優しく語りかけてくるような絵。
間違いない。
彼は、真剣な眼差しで、でも口元には穏やかな笑みを浮かべてキャンバスに向かっていた。
力まず自然に筆を握るその姿勢が美しいと思った。
私は、図工が終わったあとの休み時間に、彼に話しかけた。
普段は、そんなこと絶対にしないのに。
あの絵を描いた人を見つけられたという興奮からだと思うけど、そういった行動を自分から起こしていたことに私は驚いた。
「日比野くんって、絵がうまいんだね」
ノートのことは聞かなかった。
でも、私の意図は伝わるようにしたつもりだ。
「あ、ありがとう……」
彼は驚いたようにそう言ってぺこりと頭を下げると、早足で洗い場に去っていった。
私は、確信した。
やっぱりあの絵は、日比野くんのものだと。
そんなことがあってから私は、彼のことをいくらか注意深く見るようになっていた。
もちろん気付かれないように、そっと。
そこでわかったことがあった。
彼は時々、昼休みに友達に『ちょっと委員会の仕事
があるから』などと言って教室を出ていくことがあった。
距離を取りながらついていくと、彼が向かった先は図書室だった。
そして、その日の放課後にノートを見ると、絵が増えている。
またあるとき、朝、たまたま彼の姿を見たことがあった。
学校に行くには早い時間に家の窓から歩いていくのが見えた。
さすがについていくことはしなかったけど、彼がなぜこんなに早く学校に行っているのかはすぐにわかった。
朝早く彼を見かけるのは、決まって私がなにかものを隠された次の日。
そして私が登校すると、私の目に届きやすいところでそれは見つかる。
どうして彼は、私にそこまでしてくれるんだろう。
いじめられている人を助けたりなんかしたら、今度はその人がいじめられるかもしれない。
自分が仲間外れにされる危険性だってあるのに、なんで……
その頃見る夢の中で、私は公園で女の子に物語が書かれたノートを渡していた。
部活の夏合宿が始まる二日前のことだ。
私は、彼女の物語のおかげで、誰かのためにがんばりたい気持ちが芽生えたこと、
自分の可能性を見つけられたことに対して感謝の言葉を伝えた。
すると彼女は喜び、合宿に役立ててほしいと、物語の続きを少しだけ教えてくれた。
そしてふたりはゆびきりをして、合宿後にまた会う約束をして別れた。
夢でも現実でも、私はふたりで絵本を作るということをしていたけれど、現実の夢とは大きく違うところがある。
それは、物語を描く人と絵を描く人が公認の間柄ではないということ。
私も、夢の中のように、この物語の話を一緒にしたい。気持ちを共有したい。
その思いを止められず、私は勇気を出して彼にもう一度話しかけた。
公園でゆびきりをした夢を見た、翌日のことだ。
「日比野くんの絵、すごく素敵だね」
言っていることは前と大して変わってないけれど、状況が違う。
昼休みの図書室。
私は、彼が絵を描いているそのときを狙って、彼に話しかけたのだ。
彼は、私が書いた物語の隣のページに、前のめりになって描いていた。
よほど集中していたのだろう。
声をかけるまで気が付かなかった彼は、前傾姿勢のまま首だけ上げ、ポカンと口を開いていた。
「あ、ありがとう……」
そして、数秒硬直したのち、小さな声でそう言った。その反応も、前と変わらない。
でも、今日は逃げたりはしなかった。
「これは、絵本?」
私は、彼の隣に座り、知らないふりをして尋ねる。
「うん。でも、僕が描いてるのは絵だけなんだ。
物語は、誰かが書いてる」
ふーん、と私は答えた。
「誰が書いてるかわからないの?」
「そうなんだ。でも、この物語はすごく好きだよ。
書いてる人はきっと自然や動物、それに物語そのものが大好きな人なんだと思う。
あと、すごく優しい人だ。
争いを好まず、人から攻撃されたとしても決して反撃したりしない。
相手のことを思いやれる人だと思うんだ」
彼は、物語を書いているのが私だと気付いているはずだけど、あくまでも気付いてないふりをするようだ。
やっぱり彼は、人を騙したり嫌がらせに便乗する才能がないのだと思う。
これには私も照れてしまった。そんな風に思ってもらえていたなんて。恥ずかしくて、でもとても嬉しい。
「それにこの物語は、僕にとっては他人事には思えないんだ。
だから僕は、この物語に絵を描きたいと思った」
この言葉を聞いて、私はずっと聞いてみたいと思っていたことを尋ねてみた。
「じゃあ……その人が、誰か知りたい?」
「え? ……う、うん。
そりゃ知りたいけど、どうやって知るの?
名前も書いていないんだし、その人も知られたくないのかも……」
彼は、少なからず動揺している様子だった。
もしかしたら私がここで「それは私だよ」なんて言うと思ったのだろうか。
気付いていないふりをする日比野くんの前で、直接そうは言えなかったけど、私には考えがあった。