「ありがとう。あなたならそう言ってくれると思ってた。

わたしもがんばってこの病気を治すわ。

うれしい。ほんとうにありがとう」

女の子の目にも、涙がうかんでいます。


「わたしの手術が成功すれば、明日、また会えるわ。

そのとき、今まであなたにかくしていたこと、教えるね」


 とつぜん、男の子の周りに、木がらしがふきあれました。




そして、男の子は夢からさめました。

涙をぬぐってから、天井に向かって言いまし
た。


『ぼくが、きみのことを必ず助けるよ』



僕は、もうあの夢を見ることはないのだと思う。


あのあと、転校生の女の子は別の学校に転校していくことになる。

そのとき僕は約束した。

君に必ず、会いに行くって。

彼女と、ゆびきりをしたんだ。


彼女が引っ越した先は、僕が通う高校のある町。


僕がそのあと記憶を失ってさえいなければ、いくらでも会いに行けるところにいたんだ、彼女は。


僕は唇を噛み締めながら、電車に揺られていた。




鞄の中にはあのノートと、医学書が一冊だけ入っている。

昨日かおるくんからノートを預かり、今朝見た夢で記憶を取り戻してから、僕の中ではたくさんの思いが渦巻いていた。


記憶がなかった頃の僕は、いなくなっていたわけではない。


ダムみたいなものに、せき止められていただけなんだ。そのダムが決壊した今、僕の中では洪水が巻き起こっていた。


電車を降りて向かったのは、ある病院だ。


彼女はきっと、そこにいる。


夏休み前、彼女が持っていたビニール袋。あの中身は風邪薬なんかじゃない。


なんで、あれを見ても思い出せなかったんだ。


病院に着いて、受付で彼女の病室を教えてもらった。

エレベーターで上がっている間、妙に心臓の鼓動が大きく聞こえた。


気が付けば、そこはもう病室の目の前だった。深呼吸をひとつして、僕はノックをする。

「……はい」



 聞き慣れた、でもいつもよりもか細い声が聞こえて心の奥がチクリと痛む。

僕は、ゆっくりと引き戸をスライドさせた。



「ごきげんよう、日比野くん」


彼女は、ベッドの上で上体を起こし、こちらを見ていた。

まるで、僕がここに来るのを知っていたかのように。


「ごきげんよう……〝華乃〞」


 僕は、下の名前で彼女を呼んだ。


けれど、彼女は驚かなかった。


そして、「ごきげんよう、立樹くん」と言い直して、ベッド脇の椅子を引く。


ありがとう、と言って僕は座った。

その間、彼女は優しく、しかし儚くも見える微笑みを浮かべ、じっと僕を見守っていた。


そして、ささやくようなか細い声で、言った。
「立樹くんのこと、待ってたよ」

その言葉に、僕はどきりとした。

「……うん。本当に長い間、待たせたね」

 華乃は、まっすぐ、温かい眼差しで僕のことを見ている。

そこから僕は、目を逸らすことはしなかった。


「あれからだと、六年間だね」

「いくらなんでも、待たせすぎだよね」

「うん、笑っちゃうくらいに」


そう言って彼女は、「ふふっ」と笑った。


「その笑い方。昔から変わってなかったんだね」


華乃がおかしそうに目を細める。


「そうだよ。
それ、小学生のときもすごく好きだった。

そして、高校生の僕も、また好きになったんだ。

なんだか、クリスマスを楽しみにしてる小さい女の子みたいだと思った」


「なにそれ」


僕はもう、彼女に気持ちを隠したりしない。

昨日、そう決めたから。

「記憶を取り戻す前のことなんだけど、僕ね、夢の中で君に会ったとき、こう思ったんだ。

『この女の子が、森下さんだったらいいのにな』って」


華乃は目を丸くして、しゃきっと背筋を伸ばした。


「本当に、私だったね」


「うん、本当に。笑っちゃうよね。

…あとさ、ゆびきりしたとき。

もし自分が失ってた記憶の中にゆびきりしてるシーンがあるなら、思い出したいなって思ったんだ。
嘘じゃないよ」


「知ってるよ。

立樹くん、嘘が下手だもん……。

よかった。思い出せて」

合宿前に華乃としたゆびきりは、僕にとって二回目だったんだ。

「一回目にしたゆびきりの約束、果たせなくてごめん」

「今、果たしてくれた」

 六年間も待たせていては果たしたとは言えないと思ったけど、彼女はずっと待っていてくれたんだ。
彼女は上体を倒してずいと僕に顔を近づけた。

昔もこういうことがあった気がする。


なんだか僕たちは会えなかった時間を埋めるために、昔に戻っているみたいだった。


「じゃあ、二回目の約束は?

合宿、どうだった?」


僕が一呼吸おいて、華乃の目を見てゆっくり頷くと、彼女はまた、背筋を伸ばす。


「試合で初めてシュートを決めたんだ」

「すごい!」

彼女は胸の前で手を握って喜んでくれた。

「相良が僕の力になってくれたんだ。
もう大丈夫だよ。方向性が見えた気がするんだ」


相良のことを華乃に話した覚えはないけど、とにかくいろいろなことを伝えたくて思ったことがそのまま口をついて出てしまった。


「そっか。

本当によかったね。

あ、あと怪我はしてない?」

「うん、大丈夫」


 よかったと笑う彼女を見ながら、どうしよう、と思った。

……話したいことが、

伝えたいことが、

ありすぎる。


僕は、目の前に華乃がいることに、この上ない幸せを感じていた。


こういう気持ちは、伝えなきゃ。


ほら、イメージしただろう。


こういうときは、

素直に言うって決めてただろうーー。


「また、会えたね」


「うん、会えて本当によかった」


男の子は、また夢の中で女の子と再会することができました。


それはつまり、彼女の手術が成功したということ。


そして男の子は、大なわとび大会で勇気を出してがんばりきったということ。


その結果、男の子のクラスは優勝したのでした。


そこは、

海でも、

空でも、

森でもなく、

教室でした。


「勇気を出したね、たつきくん」


 女の子は言いました。


「お互いにね」


 男の子もつづけて言います。


「今日はどうして教室なの?」


「ここには、見覚えがあるでしょ?」

「うん、ここはぼくの学校だ。

でもぼくの教室じゃない。

ひとつ上の六年生のだ」


男の子は、教室の一番後ろの席にすわり、女の子は黒板の前に立っていました。

「今日はね、お別れを言いにきたの」


 男の子は、あまり驚きませんでした。

これが、最後の夢になるような気がなんとなくしていたからです。


「そうだろうと思っていたよ」


「それなら話は早いわね。

でも、これからする話はちょっとふくざつよ?」


「ぼくはきみと夢の中で海を泳いだり空を飛んだりしたんだ。

もう、なんだって受け入れられるよ」


女の子は、笑顔になり、じゃあ、と言って話しはじめました。


「わたしは、あなたに助けられたことがあるって言ったでしょう?」


「うん。

だから、きみはぼくのいいところを知ってて、教えてくれた。

でも、ぼくは結局、きみのことを思い出すことはできなかったよ」


「それが、思い出すのは不可能だったの。


なぜなら…


わたしを助けてくれたのは、あなたにとっては未来のことだから」


男の子は、その言葉にこんどは驚いてしまいました。

女の子は、未来から来たのだといっているのです。


でも、自分が言ったとおり、その言葉を受け入れました。


男の子には彼女がうそを言うとは思えなかったのです。