夕方。帰りの電車を降りたとき、別の車両から降りてきた彼女を見つけた。
「森下さん」
「あっ、日比野くん。ごきげんよう」
もう、彼女のその挨拶にぎこちなさを感じなかった。とても、自然だった。
「ごきげんよう。森下さんも学校に残ってたの?」
「ううん、別のところに用があってこの時間になっちゃった。日比野くんは部活?」
「うん」
改札を出て、僕らは並んで歩く。見ると、彼女の手にはビニール袋があった。そこ
には学校の近くにある総合病院の名前が印刷してある。
「……風邪でも引いたの?」
「えっ。ああ、うん、ちょっとね」
彼女は、ビニールを反対の手に持ち替えて答えた。
心配だ。彼女は細くて白いから、ただでさえか弱そうなのに、風邪なんて引いたら
消えてなくなっちゃうんじゃないかと思ってしまうくらい。
「お大事にね」
「ありがと。大したことないから心配しないでね」
彼女はそう言うと、ひとつ咳をした。心配するなと言われても無理な話だ。
「帰り道、公園までは一緒だよね? よかったら、一緒に帰らない?」
彼女と一緒に帰るのは初めてで、素直に嬉しいと思った。口には出せないけど。
あ、と僕はひとつ朝に言い忘れていたことを思い出した。
「森下さんにここで会えてよかったよ」
「ん?」
「ノート持ってきてたんだ。朝、渡すの忘れてて」
明日から夏休みで、彼女とは学校や電車では会えなくなる。まだ絵は途中だけど、
物語を止めたくはないからノートを返しておきたかった。
「わざわざありがとう。じゃあ、公園でもらってもいいかな?」
公園に着く頃には、もう僕らの影は長く伸びていた。遊具やキャンバスがすっかり
オレンジ色に染まっている。
僕らはまた、ベンチに座る。僕の左隣で、彼女は僕がノートを取り出すのを待って
いた。
「はい、ノート」
「ありがとう」
彼女は両手でそれを受け取ると、じゃあ一旦預かるねと言ってそれを鞄にしまった。
森下さんと毎日会えなくなると思うと、彼女に話したいことがたくさんあることに
気が付いた。自然と次の話が口から飛び出す。
「話は変わるんだけど……あっ、大丈夫? そういえば風邪引いてたんだよね」
「大丈夫だよ。話聞かせてほしいな」
彼女はそう言ったけれど、なるべく手短に話そうと思って、内容を頭でまとめた。
「自分の可能性、見つけたんだ。あの男の子が見つけたように」
僕は、まだ自分には足りないことも含めて、彼女に話した。
あの物語を書いた、つまりあの男の子を生み出してくれた彼女には報告しておきた
いと思ったのだ。
「……だから、可能性が見つかったとは言っても、まだまだ越えなきゃいけない壁が
たくさんあるんだ」
彼女はううん、とかぶりを振った。
「でも、よかったよ。日比野くんは確実に前進してる」
「森下さんのおかげだよ。ありがとう」
それは、本心だった。あの物語の世界に触れていなかったら、僕はやる気も出せず自分の可能性すら見い出せないまま夏休みを迎えていただろう。
「どういたしまして。明日から夏休みだけど、練習は忙しいの?」
「ほぼ毎日。っていうか明後日からもう合宿なんだ」
「そっか。身体、壊さないでね」
「ありがとう。それでね、しばらく絵を描くのが遅くなっちゃいそうなんだけど……」
そう言うと、彼女はぶんぶんと音が鳴りそうなくらい強く首を横に振る。
「大丈夫! 無理しないで。合宿がんばってね。パス、うまくできるようになるとい
いね」
「うん。男の子もこれからがんばって自分の苦手なことに立ち向かっていくんだろう
からね。負けないようにがんばるよ」
森下さんは「そうだね」と笑顔で答えたあと、なにかを考えているような表情に
なった。そして、思い切った様子で口を開く。
「じゃあ、日比野くんが合宿に行く前に少しだけ続きを話してもいいかな」
「え、いいの?」
それは意外な言葉だった。彼女が、物語の続きを話してくれることは今まで一度も
なかったから。
「うん。もしかしたら合宿で役に立つかもしれないし……あのね、男の子はあることをやめるんだ」
「あることって?」
「〝自分の苦手なことに、ひとりで立ち向かうこと〞。それを、やめるんだ」
彼女の言葉に、今日の練習後のことを思い出した。相良が練習に付き合ってくれた
とき『これからも練習に付き合ってほしい』と僕は口にしていた。
「やっぱり、僕と彼は似てるよ」
「私もそう思う。日比野くんになら、いろんな人が力を貸してくれると思うよ。あの
男の子みたいに、日比野くんが誰かのためにがんばろうとしていること、みんなわ
かってると思うから」
「……ありがとう、合宿から帰ってきたら、きっといい報告をするよ」
彼女は、「ふふっ」と笑って僕の目の前に右手をかかげた。その手は、小指がピン
と立っている。
「じゃあ、約束して。私も、元気になって、続きしっかり書いて合宿明けに渡せるよ
うにしておくよ。あ、あと、怪我しないでね。心配しちゃうから」
「わかった。約束する。森下さんも風邪が治るようにゆっくり休んでね」
「うん、ありがと」
僕らは、ゆびきりをした。
彼女の小さい小指と僕の小指がそっと触れる。ゆびきりをするのは何年ぶりだろ
う? 思い出そうとしたけれど、最後にした日はいつなのかわからなかった。
もしかして、失われている記憶の中に、そんな場面があったのかもしれない。もし
そうだったら、やっぱり僕は思い出したい。
なぜなら、ゆびきりというのはこんなにも嬉しい気持ちになれるものなんだって、
今気付いたから。
おぼろげながら、誰かとゆびきりをした記憶が頭に浮かんだ。それが本当にあった
ことなら、その相手はきっと、僕にとってすごく大切な人だ。絶対に思い出したい、
と僕は強く思った。
僕らは、合宿が終わって次の日にまたこの公園で会うことを約束して別れた。
まだ、小指に彼女の肌の感覚が残っている。指も、すごく細かった。
帰り際、彼女は咳込んでいた。できることなら代わってあげたいと思ったけれど、
彼女がそんなことを望んでいるはずがなかった。
僕がやるべきことは、目の前のことに全力で取り組むこと。そして合宿明けにいい
報告をする。
それが今、僕にとっての一番のモチベーションになっていた。
毎年、合宿は標高の高い山間部にある合宿所で行われる。
全国からチームが集まり、秋の全国大会予選に向けた最後の力試しをする場所だ。
周辺には多くのグラウンドがあり、その数は百面以上。
小さな地域のどこでも目につくのが、練習試合だ。
みんな、この地に来るときにはいろんな気持ちを抱えている。
地獄の日々が始まることに憂鬱になっている者。試合が楽しみでしょうがない者。
チームのキャプテンとして自信が持てずにいる者。
怪我をして、試合に出ることができずに悔しい気持ちを抱える者。
この合宿でレギュラーの座を狙っている者。
僕はといえば、チームの一員としてできることを精いっぱいやろうという気持ちだけ。
本当にただ、それだけだった。
合宿が始まってすぐは、試合に出る機会が少なかった。
試合の終わりの十分だとか、途中の五分とか。
短いときはチームメイトが鼻血を出したときの交代としてだとか。
だからこそ、その少ないチャンスを大切にした。
ディフェンスはもちろん、苦手な攻撃にも積極的に参加した。
一日目の夜、僕は宿舎近くの芝で相良と一緒に練習をしていた。
ーー自分の苦手に、ひとりで立ち向かうことをやめる。
僕が頼むと、相良は快く「いいよ」と言って練習に付き合ってくれる。
練習の合間に、僕は相良にいろいろと質問するようにした。
彼は、僕が持っていないものをたくさん持っているから。
「ディフェンダーとして攻撃に参加する方法?」
相良は、リフティングをしながら答える。
まるでボールがその身体に吸い寄せられているようだ。
コントロールがうまく、ボールがまったく落ちる気配がない。
「そう、それを教えてほしいんだ」
守りだけではなく、攻撃においてもチームの役に立ちたい。
それが僕の願いだ。
今の僕は、攻撃の歯車にはまることができていない。
相良は、少し考えてから口を開く。
そして一際高くボールを蹴り上げると、音も立てずにボールを手の中にスッと収めた。
「よし、力になるよ。
でも、答えは日比野の中にしかないと思うぞ。
日比野がボールを持つのって、どういう場面だろう。
まずはそこからだ。イメージするんだ。
そして自分はそこでどういう動きをするか考えるんだ」
「イメージ……」
「試合に出てない時間、特に相手をよく観察するといいよ。
そこで自分がプレーしている姿を想像するんだ。
そして、自分だったらどういう動きをするかなって考える。
イメージトレーニングってやつだな」
彼はそう言いながらドリブルで相手をかわす動作をした。
「なるほど……やってみる。
でも、相良っていつも試合に出てるよね。
どうしてそんなことがわかるの?」
「……あるよ。中学時代にね。
ずっと補欠で、悔しかった」
そうだったのか。
今の相良からは、そんな姿は想像できなかった。
「そしたらいつの間にか、そういう目で試合を見るようになってたんだ。
少ない試合のチャンスが巡ってきてピッチに立ったとき、それが活かされてるのがわかったよ。
あ、なんか見たことあるっていう感覚になるときが必ずあるんだ。
そのとき、迷わず自分がイメージしてたプレーをする。
そうすると、びっくりするほどうまくいったよ」
そう言うと彼は笑って、「まあ騙されたと思ってやってみな」と言った。
相良が、今の僕に必要なことを、自分の経験から教えてくれた。
やらない理由は、ない。
次の日から、試合を見る目が変わった。
相手のチームはどんな特徴を持っているのか。
自分だったら、その場面でどうするか。
イメージしながら心の中でどんどん判断を下していった。
転機が訪れたのは三日目の試合のとき。
このときも僕は、途中からの交代だった。
状況は一対一の引き分けだ。
相手の選手の多くはスピードがあり、速攻を得意とするチームだった。
それまで試合を見ていて、長いパスが多いと感じていた。
縦にも横にも、大きくパスを出してディフェンスを散らせ、そこから瞬足のフォワードに切り込ませる、という戦法だ。
僕はピッチに立つと、ひとつ深呼吸をした。
外でイメージしていたことをやるだけだと自分に言い聞かせる。
ーー姿勢がいいからさ。
体幹がしっかりしてる証拠だよ。
そういう奴って、身体のバランスを取るのがうまいから、長く走れるんだ。
ーーサッカーって、走ってなんぼの競技だよ。強いチームは選手の運動量が圧倒的に多い。
相良と初めて会ったときに言われた言葉だ。そう、僕にはこの走りがある。
僕は、攻撃の中心となっている相手の選手をしつこくマークし続けた。
相手の選手から飛んでくる長いパスを奪うことは考えなかった。
意識したのは、相手のボールを奪うことではなく相手にスピードを出させないことだ。
ひたすら、相手と自チームのゴールとの間に身体を入れ続けた。
そんなことを繰り返していると、相手の息遣いもだんだん荒くなってくる。
僕は後半出場ということもあるが、身体の軸がぶれないように意識していたのでまだまだ元気だった。
また、長いパスが来た。
マークしている選手もその着地点を目指して走るが、今までのようなスピードがない。
ーーこれなら、取れる!
僕は走りながら、グラウンドの中央を見て、周りのスペースが空いていることを確認した。
そして、ボールの着地点に相手よりも先に入り、そのパスを胸で止めた。
まだ走れる。
僕はそう思い、大きくボールを蹴った。
それで、僕をマークしていた選手は意表を突かれる。
身体を反転させる時間が必要な分、今度も僕のほうが早くそのボールに追いついた。
ボールを持ったあとのイメージは、短いパスでつなぐことだ。
自分のチームには相手のような瞬足の選手はいないが、パス回しはとてもうまい。
その歯車に、僕は入る。
相良にアドバイスされて、試合を観察するようになってから、パスをするときに大事なのは出すタイミングだとわかった。
相手に距離を詰められる前に、パスの受け手がディフェンダーに阻まれる前に。
思い切って、パスを出して次のフォローに回る。
パスをとにかくつなげ続けるんだ。
これが自分のやるべきことだと思った。
そんな意識の中で、僕は走り続けた。
するといつの間にか、全体的にラインが上昇し、相手陣地内に深く入り込んでいた。
そこでも、こちらのチームの早いパス回しが続く。
相良も、相手のゴールを狙うタイミングをうかがっていた。
そのとき、相手の足がボールをはじいた。
僕は、その軌道を見て走り出した。
相手陣地、右奥のスペースでのことだ。
相手チームは一斉に攻撃に転じようと、こちらへ
向かってくる。
いつもであれば、その瞬間に僕は自陣に戻り相手をマークしていただろう。
しかし、僕が向かった方向は、相手ゴールだった。
それも、全力で。
もう三十メートルもない。
すると視界の右端から、すっと、パスが出された。
ちょうどいい場所と、強さ。
顔を上げると、キーパーは右側に寄っている。
僕は走りながらタイミングをつかみ、右足を思い切り、振り抜いた。
ドンッ、と音が鳴り、放たれたボールは相手ゴールの左上に吸い込まれた。ネットが大きく揺れる。
「ピーッ!」
審判の笛が晴れ渡る空に響いた。
わっと、チームの歓声が湧いた。
僕はたくさんの仲間にもみくちゃにされた。
すげーよ、
やったな、
ナイスシュート。
そんな声をかけられながら。
試合でゴールを決めたのは、これが初めてだった。
自分の蹴ったボールがゴールに吸い込まれていくのを見るのも、
仲間に声をかけられることも、
身体が震えるほどの喜びに満たされることも、
全部、初めて。
今までは、自分がゴールを決めるなんて、考えたこともなかった。
それは自分の役目ではないと思っていたのだ。
しかし、それではチームの一員とは言えない。
ゴールは、全員で狙わなければならない。
だから僕は、合宿が始まってからずっとイメージをしていた。
条件が揃ったときには、遠慮なくシュートを打とうと心に決めていた。
僕にパスを出したのは、相良だ。
相手がボールをはじいたとき、近くにいたのだ。
相良なら、そのボールを中央に運べると思った。
そう思っているところに、相手チームは攻撃に転じようとしていた。
だから、僕はゴールに向かって全力で走ったのだ。
僕の出した答えは、小さなチャンスを逃さず、活かすことだった。
何度も、試合を
見ているなかでイメージしていたプレーだった。
……ありがとう。
僕は心の中でたくさんの人を思い浮かべ、感謝をした。
言葉に言い表せない高揚感が、いつまでも僕の体を熱くさせていた。