ちょうどカンカンカン……と鳴り出す警告音に引き寄せられるように、一歩一歩、踏切へ近付いた。
死のう
ラクになろう
痛いかな、つらいかな
だけどもう、生きる方が苦しい。
遮断機をくぐると、ガタンゴトン……と近付く電車が視界の端に見えた。
迫る音に、止まる足。
あと一歩進めば、体は確実に電車にあたる
三歩進めばど真ん中だろう
息を止め、踏み出すその時を待つ。
……なのに。
『死にたい』、そう強く思っていたはずなのに、足が一ミリも動かなかった。
なんで動かないの、なんで踏み出せないの。あと一歩、あと少しなのに。
混乱したように自分の足を殴る。けれど、動かないまま電車は近づき、なにもできないまますぐ目の前を電車が走り抜けた。
鼻の先ぎりぎりのところを、物凄いスピードで通り過ぎる。激しい風圧に肌がビリビリと痺れるのを感じた。
『君!なにをしてるんだ!』
偶然通りがかった人に連れられ、なんとか踏切の外に出た。
その時、触れられた肩の感触に、自分がまだ生きていることを実感した。
生きて、いるんだ。
その瞬間、ほっとした自分が憎い。
生きる方がつらいと感じたはずなのに、死を選ぶことが出来ずに生きている。
それどころか、安堵まで感じるなんて。
自分はどこまで弱い人間なんだろうと、そのまま地面に座り込んで泣いた。
警察に保護された後も、ひとりずっと泣いて、連絡を受け数時間後に駆けつけてきた両親も、そんな私を見て泣いていた。
その日から私は、心を塞いだ。
家から出ず、誰との会話も拒み、両親とすらも極力顔を合わせることもせずに。
そんな風に夏休みを過ごし、それは2学期になっても変わらず、学校へ行くことはなかった。
いや、正確には『行けなかった』。
教室へ行く、可奈子たちと顔をあわせる、それを想像しただけで吐き気がした。
自分以外誰もいない家は、相変わらず静かで
朝焼けの空を見ては
のどかな昼間の住宅街を見ては
夕暮れの踏切の音を聞いては
夜空に広がる星を見ては
毎日毎日、生と死のことを考えた。
存在意義を考えた。
どうして
どうして
どうして
生きているんだろう
死ねないんだろう
心が悲しいんだろう
この胸を覆うこの闇は、これから先もずっと続く。
終わることなくずっと私にまとわりついて、いつか今度こそ、私は自ら飛び込んで、自分の人生を終わらせるだろう。
そう、思っていた。
けど、飛び出してきた先のこの場所で、新太は短い時間の中で教えてくれた。
『寂しい』と、言ってくれた。
こんな私のことを思ってくれている誰かがいる。
視野を広げれば、小さな希望はいくつもある。
そんなことに今更気付いた自分が少し悔しい。
だけどその感情があるだけで、心が軽くなったんだ。
私、変われるかな。
時間は少しかかってしまうかもしれないけど、まだ世界は怖いものであふれているけれど。
それだけじゃないって、信じられる日がくるかな。
……くる、よね。
だからまずは一歩、ここから始めよう。
生きていく理由と、やっと出会えたから。
「……、」
そっと目をひらくと、そこはあたたかな日差しが照らす明るい居間。
……朝……。
少し重い瞼をゆっくり上げると、目の前には右腕を私の枕にして、左腕で抱きしめるような形で私を包む新太がいた。
ふたりの体には毛布がかけられ、足元ではトラが寝ているのだろう。ふわふわとした感触が足に当たる。
「すー……」
小さな寝息をたてる新太の綺麗な寝顔を見つめて、なんで新太とここに……そう考え、昨夜のことを思い出す。
そういえば昨夜は、新太と動物病院から戻って、ごはんを食べて、一晩中話をした。
『なぎさのこと、聞かせて?すこしずつ、ゆっくりでいいから』
時間をかけて、少しずつ話した私のことを、新太は全部聞いてくれた。
『うん、うん』とうなずいて、ひと言すらも聞き逃すことなく。
やわらかな声と笑顔で、全てを包んでくれる。その優しさが眩しい。
あたたかくて、愛おしくて、涙があふれて
心が、満ちていく。
ありがとう、新太
ありがとう
ありがとう
何度心の中で繰り返しても、伝え切れないほどの気持ち。
それを伝えるように、新太の胸に顔をうずめた。
今日も、私は生きている。
新太と、トラと
ここに いる
結局、新太と1日中眠り、なにもしないまま過ぎて行った5日目。
だけど、限られた時間をそうやって過ごすことに、不思議と『もったいない』という気持ちは感じられなくて。
今はただ、居心地のいい彼の胸に甘えていたい。
そう、思ったんだ。
それから、迎えた6日目の早朝。
早坂家の台所には、真剣な顔つきで手を震わせながら大根を切る私と、トラをかかえハラハラとした様子でその光景を見守る新太の姿があった。
「なぎさ……大丈夫?代わろうか?」
「い、いい!私がやるの!」
いつもならこの時間は、ラジオ体操を始める前に新太がひとり朝食づくりをしている時間。
けれど今日は私がめずらしく早起きをしたうえに『作りたい』と申し出たことにより、ラジオ体操そっちのけで朝食づくりをしている真っ最中だった。
「手切らないでよー?指入り味噌汁なんてやだよ」
「わ、わかってる……」
私だってそんなのいやだ。
切らないように、気をつけて……肝に銘じながら、固い大根を包丁でダンッと勢いよく切る。
その衝撃で手元を離れてしまった包丁はくるりと宙を舞い、新太の足元の床へと刺さった。
「……うわぁ……」
新太の絶句する声が漏れ、まさしく危機一髪、といった状況に、お互いサーッと血の気が引く音が聞こえた。
「……な、なぎさ。切るのは俺がやるからさ、鍋と味噌の用意してくれる?」
「……はーい」
うぅ、一応女子であるにもかかわらず、こんなにも料理ができないなんて……!
今まで自分ひとりだけのご飯だからと、買ってくるだけで、まともに料理もせずに暮らしてきた自分が憎い。
そうこれまでの自分を恨めしく思いながら、私は片手鍋をひとつ取り出し水を入れた。
となりでは新太がトントンと綺麗に大根を切っていく。
「でもいきなりどうしたの?なぎさが料理するって言い出すなんて」
「……たまには、したことないこともしてみようかと思って」
それは、自分の中の小さな変化。
ここにいたいから手伝う、とか、そういうのじゃなくて、ほんの少し、些細なことでも変わっていきたい。そんな気持ちからの行動だ。
短いひと言から私の気持ちを察するかのように、新太は「そっか」と笑った。
「あ、そうだ。朝ごはん食べたら出かけようと思うんだけど……なぎさも一緒にどう?」
「え?」
出かける……って、どこに?
首を傾げた私に、新太はあっという間に切り終えた大根をボウルに入れて言った。
「なぎさに、会わせたい人がいるんだ」
朝食後、いつものようにパーカーにデニムを着た私は、新太のバイクの後ろに乗せられ、連れられるがまま家を出た。
向かい風に耐えるように、バイクの後ろで新太にぎゅっと抱きつくと、あの家の洗剤の香りとかすかに新太の香りがする。
そんなささやかな香りひとつを感じられるほど、最初の時ほど恐怖感を感じなくなっている証なのだと思う。
……新太の、匂い。いい匂い。
安心感に甘えるように、抱きつく手に力を込めた。
そのうちにだんだんと辺りにはビルが増えて行き、景色は見慣れたものになっていく。
あれ、ここ……。
通り過ぎていく家やマンション、ビル、公園……それらから、ここが私の自宅からそう遠くない場所であることに気付いた。
けど、私の家の近所になんの用が……?
「はい、到着」
新太のその声を合図にするように停められたバイクから降りると、そこはこのあたりでは名の知れた大きな霊園前の駐車場だった。
「霊園……って、ことは」
「うん。お墓まいり」
そう言ってヘルメットを外すと、新太は霊園前の小さなお店で小さな花束をひとつ買い、それを私に持たせた。
そして自分は手桶と柄杓を持つと、沢山のお墓がならぶ敷地の中を慣れた様子で歩いて行く。
「……と、ここだ」
少し歩いてきた先で足を止める新太の前には、少し古いお墓がある。
墓石には『早坂家之墓』と書かれており、ここに新太のおじいちゃんが眠っているのだと気づいた。
もしかして、会わせたい人って……このこと?
「おじいちゃんのお墓、ここの霊園にあったんだ」
「うん。じいちゃんの実家はこっちのほうでさ、この前なぎさと出会った日も、実はお墓参りの帰りだったんだ。めずらしくトラの顔も見せてあげたくて連れてきたはいいけど、あいつその時も逃げ出しちゃって」
「あ……だからあの時、うちの近くに?」
あの日、新太と出会った日のことを思い出しながら聞くと、新太は小さくうなずく。
「そ。今思えば、トラが逃げ出さなかったらなぎさに会えなかったんだから、不思議なものだよねぇ」
へへ、と笑いながら、新太はお墓の前に腰を下ろす。
そう、だ。
普段は違う街にいる新太と、あの家の中にいる私。そんなふたりが出会えたことは、いくつもの偶然が重なったから。
そう思うと、偶然ではなく、奇跡に近いのかもしれない。……なんて都合のいい呼び名をした私を笑うように、穏やかな風が髪を揺らした。
「なぎさ、ここに花お供えしてくれる?」
「うん」
新太に言われ、私は手にしていたお花を墓石の前にそっと供えた。
「新太は、おじいちゃんとはいつから一緒に暮らしてるの?」
「中3のときかな。でももともと子供の頃から、毎日のようにじいちゃんの家には行ってたし、よく泊まったりもしてたから」
「へぇ、おじいちゃんっ子なんだ」
思えば、自ら質問をして新太についてのことを聞こうとしたことがあまりなかった。
本来ならもっと先に聞いておくべきだったようなことを、ひとつひとつ問いかける。
「うちも両親共働きでさ。学校帰りとか土日とかは、よくじいちゃんのところに預けられてたんだよね」
「そうだったんだ……」
「ちなみにいつもなぎさが座ってる席はじいちゃんが座ってたところ。だからそこに人がいると、安心するんだ」
言いながらこぼす笑顔はその日々を思い出しているのか、うれしそうで優しい。
その笑顔に、胸は小さく音を立て、つい私もつられて笑った。
「なに?どうかした?」
「ううん。新太、本当におじいちゃんのことが好きなんだと思って」
くす、と笑って言った私に、新太はちょっと照れたように笑みを見せる。
けれど、その表情は一瞬、悲しげに影を落とした。
「じいちゃんは俺にとって、たったひとりの家族だから」
「え……?」
たったひとりの、家族……。
それって、どういう意味?
そう問いかけるように聞き返すと、新太は手桶の中の水を柄杓でそっと墓石にかけた。
「俺、家族から絶縁されてるんだよね」
「絶縁……?」
「俺さ、中学の頃問題児って言われてたんだ。喧嘩ばっかりしてて、頭も金髪で、いきがって煙草吸ったりして」
その口から話されたのは、予想もしなかった彼の過去。
も、問題児?
喧嘩、金髪、煙草……どれも今の新太からは微塵も想像つかないような言葉に、耳を疑う。