あの頃、きみと陽だまりで




「っ……」



噴き出す汗

回る視界

一気にゆがみだす世界に、逃げ出すようにその場を駆けだした。



いやだ

こわい

つらい

くるしい



消えない記憶が浮かぶたび、真っ黒な感情が波のように押し寄せる。

叫びたくなる衝動を抑え、無我夢中で細い道を抜け、坂道を駆けおりた。



そこにはちょうど小さな踏切があり、カンカンカン……と鳴り出す音とともに、遮断機が下り始めていた。



遠くから、電車の音が聞こえる。

オレンジ色の空

肌を伝う汗

すべてが、あの日と重なる



「……っ……」



ドク、ドク、ドク、と自分の心臓の音を聞きながら地面を蹴り、一歩、また一歩と近付く足。

それはこの先に、“ラクになれる世界”があると知っているかのように。



くるしい

こわい

この世界から連れ出して








「っ……なぎさ!!」



その瞬間、大きな声で名前を呼ばれると同時に、腕を力強く引っ張られた。


走っていた足を止められ、意識を現実に引き戻されるような感覚に我に返る。

見れば後ろには、私以上に汗だくの新太がいた。



「あ……ら、た……?」

「なにしてるんだよっ……あー……みつかって、よかった……」



はぁ、はぁ、と苦しそうに息をする度にあがる肩。それは、新太が全力で駆けつけてくれた証だ。

背後ではガタンゴトン、と電車が通り過ぎ、遮断機が頭上に上がる音がした。



「なんで……」

「気づいたらいないから!ったく、声かけてって言ったのに!」

「だって、新太寝てたから……」



突然現れた新太に驚きがかくせず、唖然としたまま言うと、新太は「うっ」と気まずそうな顔をする。

心配したり、怒ったり、渋い顔をしたり……コロコロと変わるその顔に安心感を感じて、心は徐々に冷静さを取り戻していく。



……私、今、新太が止めてくれなかったら、どうなってた?

きっと、衝動的に飛び込んでいた。

踏切に飛び込んで、そのまま電車に……。



自分の行く末を想像して、今更少し震えてきた。新太はそんな私に、掴んだままの腕をぐいっと引っ張り、頭を抱き寄せた。



新太……?



熱い体温が、体を包む。

いきなり、どうしたの。そう問いかけようとする言葉を遮るように、その胸からは、ドクン、ドクンと早い音が聞こえる。





「……引き止められて、よかった」

「え……?」



それって、どういう意味……?

その胸元から顔を上げると、新太は安心しきったように表情を緩めて私を見つめた。



なんで……そんな。

私がなにをしようとしていたか、なにを考えていたかがわかるかのような、顔をするの?



「それにしても、ずいぶん歩いてきたね」

「そうなの?」

「うん、うちから結構距離あるよ。俺は足速いほうだから、すぐ見つけ出せてよかったけど」



その『結構な距離』を、私がいないことに気付いてからすぐ、必死に走って探し回ってくれた。

そう思うと、これまで感じたことのないようななんともいえない気持ちが込み上げて、笑えるような泣き出すような、変な顔になってしまう。



そんな私を見て、新太は目を細めた笑顔で、汗でぬれた私の前髪にそっと触れた。



「また汗かいてる。高校生は代謝がいいねぇ」

「新太のほうが汗かいてるけど」

「あはは、本当だ」



そう笑いながら、額に触れて、汗を拭う。この彼の手が、現実へ引き戻してくれた。

この世界を、まだあきらめないでとでも言うかのように。



柔らかな笑顔のまま、ポンポンと頭を撫でると、新太はそっと手を離す。



「はーっ……暑い!近くのコンビニでアイスでも買ってこ!」

「お金は?」

「あ!財布家だ!ていうか家の鍵開けっぱなし!」



『しまった!』とはっとしながら、新太の足は家のある方向へと向けられる。

それに続くように歩き出そうとした私に、目の前にそっと左手が差し伸べられた。



「なに?」

「なぎさがまた迷子にならないように、ね」



この足が、心が、迷ってしまわないように、差し出された手。



その大きな手が導いてくれるのなら、夕焼けもこの世界も、今だけは逃げられずにいられる。

そんな気がして、彼の手をそっと握った。



「帰ろう」



そうだね、帰ろう。

焦らず、逃げず、ふたり手をつないで、ゆっくりと歩いて。











短い眠りの間に見た、夢の中。

カンカンカン……と踏切の音はうるさく鳴り続けて、私の耳を、塞いでしまう。



目の前にまた姿を現した彼は

やっぱり顔はよく見えないけど

口をひらいて、なにかを言っている。



なにか、伝えたいことがあるんだろうか。

口を大きく動かして、身振り手振りを繰り返す。

けど、踏切の音がうるさくて、その声は聞こえないよ。

伝えようとしてくれているのに

なにも聞こえないの。



耳を澄ましてみても

きこえ ないよ









「……、」



そっと目をひらけば、そこは湯気で曇った浴室の中。

お湯を張った湯船にちゃぷ、とつかった体は、熱い温度にほぐれたのだろう。ほんの一瞬眠ってしまったらしい。



……危ない、浴槽で寝るなんて事故の元だ。

目を覚ますようにお湯でばしゃばしゃと顔を洗って顔をあげると、のぼる湯気が、古い浴室内の小さな鏡を曇らせていた。



たぶん、ちょっと疲れていたんだと思う。体も、心も。

夕方の街を駆け抜け、新太とともにこの家に戻ってきてから、気付けば時刻は18時になろうとしていた。



新太に先にお風呂に入るように言われ、こうして湯につかっているわけだけれど……。

落ち着いてみると、つい数時間前に起きた出来事がまるで夢のように感じられた。



オレンジ色の空と、通りすがりの女の子たちの会話。

たったそれだけのことに、フラッシュバックを起こしてしまうなんて。

自分の心の弱さは全くと言っていいほど変われていなかったことを思い知る。



一瞬で心は恐怖に襲われて、飲み込まれそうになった。

あの時、あの瞬間、新太が腕を掴んでくれていなかったら、私は……きっと、



その先にあっただろう光景を想像し、また震えだす濡れた手をぎゅっと握りしめた。



けど新太は、家まで戻る道のりの間も、なにひとつ問い詰めることはなかった。

なにも聞かず、ただ黙って手を引いてくれた。そんな新太のおかげで、心は徐々に落ち着きを取り戻した。






どうして、だろう。

新太といると、心が軽くなっていくように感じられるのは。



「……ていうか、いいのかな」



思えば私、この家に来て新太に甘えっぱなしな気がする。



三食ご飯を作ってもらって、片づけも掃除も、全部新太がしている。

洗濯は、新太いわく買い替えたばかりだという最新式の洗濯乾燥機のおかげで、今こうしてお風呂に入っているあいだにできているけれど。



これらの家事に加えて、昼間も思ったように、新太には勉強もバイトもあるわけだし。



……なにか、私にも出来ることってないのかな。

けど私不器用だから料理も出来ないし、掃除も下手なんだよね。

ていうか、新太のほうが手際がいいから、下手にやったら邪魔かもしれない。



「はぁ……」



自分の女子としてのレベルの低さに溜息をつきながら、ザバッと浴槽からあがった。

そして脱衣所へと出ると、そこに置いてあったはずの白いタオルがないことに気付く。



「あれ……?」



たしか私、持ってきておいたはず……。

そうキョロキョロと辺りを見渡せば、脱衣所の茶色い引き戸がかすかにあいている。



もしかして、トラが……そう嫌な予感がした、その時。



「あれ、なぎさー。トラが向こうで遊んでたタオルってもしかし、て……」



ガラッと思いきり開けられたドアと、そこから姿を現した白いタオルを手にした新太。

当然そこにあるのは、まだ濡れたままの体に布一枚すらも身に着けていない私で……。



「あ、えーと……」

「っ~……イヤーーー!!!」



一気に込み上げる恥ずかしさをそのまま表すかのように手を振り上げる。

躊躇いなく新太の顔を平手打ちすると、パーンッ!!と大きな音とともに、新太の「ぎゃあっ!!」という短い悲鳴が響き渡った。












「昨日は、すみませんでした!!」



昨夜のお風呂場での大絶叫から一夜明け、新太の家にやってきて4日目の朝。

今日も明るい陽射しが照らす居間で、新太は私に手を合わせて謝った。



昨夜、新太に裸を見られたショックから、私は新太の顔も見ることなく部屋にこもってひと晩を過ごした。

朝になって多少は気持ちも落ち着いて、顔を見せてからというもの、新太はずっとこの調子だ。



不機嫌な私に対し、深々と頭を下げる。そんな彼の左頬は、私の力いっぱいの平手打ちによって真っ赤に腫れ上がっている。

痛そうにしながらも、まずは謝罪をする新太に私は容赦なくジロリと睨むような視線を向けた。



「……最低。変態」



『変態』、そのひと言に新太は慌てて顔を上げる。



「ご、誤解だって!トラが廊下でタオルで遊んでたからもしかしてと思って持って行っただけで……なぎさが出てきたところだったとは思わなかったんだって!」

「言い訳とか本当気持ち悪い」

「言葉が鋭利すぎるよ!!」



必死に弁解する新太に、恥ずかしさからつい冷たい言い方をしてしまうものの、本当はトラのせいで起こったただの偶然だということも分かっている。



けど……いくらトラのせいとはいえ、本当に最悪だ。

まさか、裸をみられるなんて。

しかも私の裸なんて、見てもなんの得にもならないようなもの……。



見られたことにも、自分の控えめの胸にも少し落ち込みながら、ふんと顔を背ける。






「でも大丈夫!一瞬しか見てないから!本当に!」

「一瞬でも見たんじゃん」

「不可抗力!!」



……けど、新太がこうしてあまりにも普通な態度でいることにも少し落ち込む。

そりゃあ新太みたいに、経験豊富そうな大学生にとっては子供の裸なんてなんとでもないんだろうけど……私ひとり恥ずかしくなってバカみたいだ。

いや、まぁ明らかに意識されても余計恥ずかしいんだけど……複雑。



よくも悪くも変わらない態度が、新太らしいというかなんというか。



「……バカ新太」

「え!?いきなり!?」



八つ当たりのように呟いた私に、新太はへこんだ。

かと思えば、ふとなにかを思い出したかのように「あっ!」と声をあげた。



「そういえば、なぎさにプレゼントがあるんだ。たしか向こうに……」



プレゼント……?

いきなりなにを、と不思議に思う私に、新太がそう縁側のほうへ顔を向けると、そこではなにやら白い袋に頭を突っ込んでいるトラの姿がある。



「って、あー!こらトラー!!それは食べ物じゃない!」

『ニャァーン!』

「鳴いてもダメ!いてっ!」



その光景に急いで袋へ駆け寄り、新太はトラを右手に、袋を左手に持ち、力ずくでトラを引き離す。

遊ぼうとしたところを邪魔されたと感じているのか、トラには爪をたてられパンチをされているけれど。





「新太、それなに?」

「今言ったでしょ。なぎさへのプレゼント」



ついていくように縁側へ行くと、新太はその袋を私に手渡した。



これが、プレゼント……?

いったいなにが、と見当もつかず、袋の中を覗き込む。

するとそこには、黒い小さなポットに入った苗がいくつかと、小袋に入った種らしきものが入っていた。



これ……花?

花束でも驚いてしまうけれど、まさか花になる前の形でもらうとは思わず、一瞬固まってしまう。

けれど冷静に考えて、袋を新太に突き返した。



「……いらない」

「って、えぇ!?まさかの受け取り拒否!?」

「もらったところでどうしたらいいかわからないし」



花なんて育てたことないし、園芸が似合うタイプでもない。

これで遊べるのなら、むしろトラの方が有効活用してくれる気がする。



袋ごと返そうとする私に、新太はトラとの戦いをやめ、その小さな体をそっと床におろした。



「なぎさ、おいで」

「へ?」



そして私を手招き、サンダルを履いて庭に出ると、端に置かれた古いプランターを取り出し、その場にしゃがみ込む。