「驚いただけ、びっくりしただけなの。だから、そんな風に言わないで。美月ちゃんを見て、嫌だなんて思うわけないじゃない!」
まくし立てるように言うと、美月ちゃんが大きな目をぱちくりさせた。
艶やかな唇が「ほんと?」と動く。
私は、嘘でないことの証にコクコクと何度も頷いた。
そうすると、美月ちゃんがいつものひまわりの笑顔を浮かべてくれた。
「だったら、すごく、嬉しい」
「ほんとだよ。本心だよ。だから、大丈夫」
「よかったあ。あたし、陽鶴ちゃんに拒否されることも覚悟してたんだ」
美月ちゃんの肩から、力が抜けた。それから、深々と頭を下げる。
「ありがとう。あの、あたし、陽鶴ちゃんから離れられるように頑張るので、少しの間、一緒にいることを我慢してください」
「我慢なんて、そんなことないよ」
彼女と一緒にいることを、そんな風に思うものか。
ただ、どうして私なんだろう、とは思う。
だから、私はそのことを美月ちゃんに言ってみた。
「うん、そうなんだよね。例えば、あたしに思い入れのある人、という条件なら両親やあーくんになると思うの。でも、三人ともあたしが見えなかった。
あたしのことが見えたのは、陽鶴ちゃんだけ。
で、陽鶴ちゃんとあたしの特別な繋がりを一生懸命考えたんだけど、他の人には無くて、陽鶴ちゃんにだけある、って条件は思いつかないんだよね」
顎先に手を添えて、考えながら言う美月ちゃんに頷く。
「……うん。そうだよね」
「他に思いつくのは、陽鶴ちゃんが霊感持ち、っていうの? そんな能力があるか、なんだけど」
チラリと私を見た美月ちゃんに対して、首を横に振る。
「ない。今まで霊的経験なんて、したことがない」
祖父母が亡くなった時も、愛犬のラブリが亡くなった時も、死後の邂逅みたいな特殊イベントはちっとも起きなかった。
心霊体験と呼ばれるようなことは、生まれてこの方一度も経験していない。
霊感と言われるような特殊能力は、残念ながらありません。
「ふうん、霊感なし、かあ。それが一番有力かなあって思ってたんだけどなあ」
はあ、と美月ちゃんはため息をついた。
「もしそうなら、あたしにこれからのアドバイスをくれるかも! とか期待してもいたんだよね。上手く行かないなあ」
「これからの、アドバイス?」
訊くと、美月ちゃんはこくんと頷いた。
「どうしていいのか、本当に分かんないの。でも、このままはよくないよね。だって私、成仏できてない浮遊霊とかっていうやつだよね」
ふむ、と私も考え込む。
確かに、一般的には死者は成仏して、あの世と呼ばれる世界へ旅立つはずだ。
そうして、罪を償ったり、はたまたこの世に転生したりする。
太古の昔から、死後はそんなシステムであるという話だ。
それならば、美月ちゃんは間違いなく極楽浄土に旅立って、幸せに暮らすか転生するかに決まっている。
私から離れられなくなって、あげくに私のアホな寝顔をぼんやり見ている暇なんて、ないはずだ。
「うー、ん……。どういう不具合が起きたのかは分かんないけど、本来なら成仏するはずなのに、できてないってことだもんね……」
考えながら言うと、美月ちゃんが「そうなの!」と言った。
「あたし、こんな年で死んじゃったからもちろん未練はいっぱいあるの! 死んでる場合じゃないって思ってるの! 未練たらたらだから、こんな状態になったのかなと思ったんだけど。でもね」
「でも?」
「でも、未練なくスッキリ死ぬ人なんてそうそういないと思うんだ。みんな、心残りを抱えてると思う。
その人たちみんなが浮遊霊になってたら、この世界って霊が溢れかえっていてもおかしくないよね⁉
そして、それだけ霊がいたら、この世の中はもっと幽霊が身近になっているはずじゃない?」
頷いた。
それは、その通りだ。
何年、何十年、何百年もの時の中で、未練を抱えて現世に残った人たちなんて何人いるかしれない。
その人たち全員が、今も空中をさまよっているなんて、ありえない気がする。
「だから、あたしの今の状況ってやっぱりおかしいんだよ。
滅多にない事なんじゃないかな、って思う。
どうにかしないといけないんだけど、それはすごく分かってるんだけど、でも誰にも相談できないし……」
頬にかかった髪を一筋払って耳にかけ、美月ちゃんがため息をついた。
その不安そうな、泣き出すのを堪えているような顔に、胸がぎゅっと痛む。
命を落としてしまったというだけでも、受け入れがたいことだ。
『はいそうですか、分かりました』、なんて、どんな人だって言えないはずだ。
まず私だったら泣いて暴れて、発狂したかもしれない。
その上、誰にも姿を認めてもらえない『浮遊霊』みたいな存在になってしまっている。
不安に押しつぶされていて当然だ。
なのに美月ちゃんは冷静に、話をしている。
それってすごいことだ。
「一体、どうしたらいいんだろ。こんな宙ぶらりんな状況、怖いよ」
「……あの、さ。美月ちゃんは他の人たちにも未練があるって言ったけどさ」
美月ちゃんが私に顔を向ける。
「でもさ、美月ちゃんの中の未練や心残りが、やっぱり上手く成仏できない原因かもしれないと私は思う。ていうか、それ以外今は思いつかないな」
「……うん」
美月ちゃんが頷いた。
「だから、その心残りを少しでも減らしてみる、っていうのは、どうだろう」
考えながら言うと、美月ちゃんが「え?」と言う。その顔を見ながら続けた。
「思い残しを、少しでも減らそう。例えば、園田くんにもう一度会いたいとか、話をしたいとかさ」
「あーくんと、話……」
美月ちゃんの目が、きらりと動いた。
「そう。あとは、えーと、えーと。ああ、なんでもいいよ。
やりたかったこととか、したかったこと。
思いついたこと何でもしよう。私、協力するよ」
「え? 陽鶴ちゃんが、協力?」
「うん。美月ちゃん、私と一緒にいないと動けないんでしょ?
てことは、私も一緒に行動しないといけないんだよ、きっと。
私に、美月ちゃんに協力してあげなさい、って神様が言ってるんだと思う」
園田くんでも、両親でも、誰でもなく。
私だけが彼女を見ることができるというのは、もしかしたらそこに何かがあるのかもしれない。
私じゃないとできない何かがあるのかもしれない。
それなら、私は何だってしよう。
彼女の為に、何だって手伝おう。
「そんな。陽鶴ちゃんにそこまで、頼っていいの? 迷惑でしょう?」
美月ちゃんが申し訳なさそうに眉尻を下げる。
声はとても頼りなくて、不安げだった。
私はもそもそとベッドから降りた。
頭が少しふらついて、捻挫した足に鋭い痛みが走る。
それでもどうにか彼女の正面に座った。
「陽鶴ちゃん?」
えへへ、と笑ってみせた。
私の笑顔は、人の気を抜けさせるという効果がある。多分。
姉みたいに美人じゃないというのも、たまにはいいことがあるのだ。
「私が一緒に、何でもやる。だから、安心して。
美月ちゃんの不安、私が半分貰う。だから、大丈夫。
美月ちゃんは、一人じゃないよ」
もう一度えへへ、と笑うと、美月ちゃんがびっくり顔で見た。
それから見る間に、美月ちゃんの大きな瞳から綺麗な涙が溢れた。
頬を伝ったその涙は、彼女のスカートの上にパタタッと音を立てて落ちた。
「陽鶴ちゃん、ありが、と……」
「う、うわ! 泣かないでよ、美月ちゃん」
私は慌てて美月ちゃんに手を伸ばした。
しかし、触れる前にぱっと止める。
私の目には、美月ちゃんははっきりと存在している。
栗色の髪は一本一本煌めいているし、桃色のほっぺたは柔らかそうだし、ぎゅっと引き結んだ唇は僅かに震えている。
しっかり、見えている。
しかし。
彼女の頬を伝う涙を拭おうと伸ばした私の指先は、空を舞った。
正確に言えば、彼女の体を何の抵抗もなくすり抜けた。
「あたし、幽霊だよ? なんでもすり抜けちゃう。ほら」
泣き笑いした美月ちゃんが私の手を掴んだ。
けれどそれもするりとすり抜けてしまう。私の手を握る感覚は、ない。
「……そっか。やっぱり、美月ちゃんには触れられないんだね」
分かってはいたことだけれど、そうなんだろうと思っていたことだけれど。
それでも、ものすごいショックを受けている自分がいる。
もしかしたら、温かな彼女の肌に触れることができるんじゃないかと、微かに期待していたのかもしれない。
彼女は生きていると、期待していたのかもしれない。
いや、していたんだ。
だって彼女は、あまりにも鮮やかなんだ。
なのに。
「ほんとに、死んじゃってるんだね……」
言葉を絞り出すと、美月ちゃんが目じりに涙を残して笑った。
「今さら何言ってるの。陽鶴ちゃんったら、あたしのお葬式にだって来てたくせに、おかしい」
「ごめ……。だってあまりにも、美月ちゃんは美月ちゃんで、私の前にいるから……」
美月ちゃんが、私に指を伸ばした。頬に触れるか触れないかのところで、止まる。
「やだなあ。泣かないでよ、陽鶴ちゃん」
私の目からは、気づかない間に涙が流れていた。
「だ、って……」
声が詰まる。視界が滲む。
だって、死んでなんて欲しくなかった。
世界中の奇跡を掻き集めてでも、私は彼女に生きていて欲しかった。
だから、こんなの、認めたくない。
嫌なんだ。
「泣かないで。陽鶴ちゃん、疲れるとまた倒れちゃうかもしれないから、ね?」
「だ、ってぇ……」
「陽鶴ちゃんが泣いたら、あたしだって、また泣いちゃうから……」
美月ちゃんの目に、涙があふれる。
私の拭えない涙が。
「ごめ……、美月ちゃ……」
私たち二人は、触れあうことのできないまま、向かい合ってただ泣いた。
それが、私と美月ちゃんの、夏の始まりだった――。
『ねえ、彼に伝えて』
2.どうか信じて。どうか、伝わって
どれだけでも言葉を重ねるから
何度でも言うから
だからおねがい
私の言葉に耳を貸して
彼女のために
君のために
あれから数日。
もう日常生活に戻ってよいとお医者さまから許可を頂いた時には、学校は夏休みに突入していた。
必要のない、存在を忘れ果てていた通知表と宿題の山をわざわざ家まで届けに来た担任を、私は許さない。
両親にこっぴどく叱られたうえ、塾に放り込まれかねなかった。
高校生にもなるのに、夏休みのドリルを買い与えられた。
泣ける。
いや、もっと勉強しろって話ですけどね。
ええ、分かってます。
バカでごめん。
「明日から、学校行くよ」
放置してもいられない宿題をしながら私が言うと、ベッドの上に寝ころんでテレビを観ていた美月ちゃんが「え!」と声を上げて起き上がった。
「どうして? 明日は出校日だっけ?」
「ううん、違う。私、美術部でしょ。夏休みの間に文化祭用の絵を描きたいから、毎日通うんだ」
「へえ、そうなんだ! え、じゃあ久しぶりに学校に行けるんだね」
美月ちゃんは嬉しそうに笑った。
私と美月ちゃんは、大した問題もなく共同生活を営んでいる。
特に不便なところは、今のところない。
美月ちゃんは私から3メートルほどの距離なら離れられるらしく、お風呂もトイレも一人で入れる。
美月ちゃんはやっぱりというべきか家族の誰もが見えないので、何を言われることもない。
ここ数日は私の足の怪我のせいで家に閉じこもりきりだったけれど、明日からは学校に行ける。
そして、学校に行くというのには、重大な目的があった。
それは、園田くんに、美月ちゃんの幽霊がこの世に存在していると伝えること。
園田くんには、真っ先に伝えなくてはいけない。
葬儀の時の、あの憔悴ぶりを思い返すと、胸が痛む。
きっと、彼女が魂だけとはいえここにいることが分かれば、彼は喜ぶんじゃないだろうか。
それに、美月ちゃんの『心残り』はきっと、園田くんが関わっていることだと思うのだ。
「ねえ、美月ちゃん。園田くん、どういう風に声を掛けたらいいと思う?」
英文と睨めっこをしていた私は早々にギブアップして、冊子を閉じた、
それから、体ごと美月ちゃんに向き合う。
彼女はくりんと目を丸めて、「簡単じゃない?」と言った。
「美月がここにいますよー、でいいんじゃないかな」
そんな美月ちゃんに、「それは却下」と私は切り捨てる。
「いきなりそんな話題振ったって、信じてもらえる訳がないよ。もっとうまい切り出しかた、ないかな」
「えー、そうかなあ。だって、見えるのは本当だもの。あーくん、ちゃんと話を聞いてくれると思う」
「ダメだよ」
ペンを机に放り、ため息をつく。
「あのね、園田くんがちょっとあり得ない話でも耳を傾けるのは、美月ちゃんだけなんだよ。多分、私が急にそんな事を言っても信じてもらえないと思う」
そうなのだ。
『美月ちゃんだけ』な園田くんに話しかけるだけでも、大変なのだ。
話をする時間をくれるのかどうかも怪しい。
そこに『美月ちゃんの幽霊が見えます』みたいな話を持って行って、果たして彼が素直に聞いてくれるかどうか。
答えはノーだ。
彼ときちんと話が出来て、しかも美月ちゃんの存在を信じさせるまで。
これは結構ハードルの高い問題だ。
美月ちゃんが思っているよりもずっとずっと難しい。