*
美月ちゃんがいなくなってから、一年が過ぎようとしていた。
校舎の窓から見える桜は落葉し、冬を超え、薄桃色の花を開かせ、散らせた。
今は青々とした葉を茂らせている。
窓際の席に座った私は、その葉をぼんやり眺めていた。
「福原ぁ! お前、最高賞だぞ! やったぞ!」
現在、数学の授業中である。
しかしそんなことお構いなしに飛び込んできた杉田先生は、私を見つけるなり、抱きしめてきた。
「ふ、ふお! な、なんですか杉田先生!」
「やったぞ、お前、内閣総理大臣賞だぞ。我が高初の快挙だ。やったぞ、おめでとう!」
「は……? それ、『こうこうび』の?」
二年生の夏の終わりから、集中して描いた絵。
それが、受賞した?
茫然とした私に、杉田先生が頬ずりする。
「ああ。そうだ! ほら、喜びあおうじゃねえか!」
「ぎゃ! 止めて! 痛いキモイ! このセクハラ教師!」
大暴れする私を抱きしめて、杉田先生は歓喜の声を上げる。
「ちょっと、離してってば!」
「ああ、教師冥利ってこのことだな。すげえ嬉しい。俺に喜びを与えてくれたお前をこれからミューズと呼ぼう!」
「呼ぶな!」
「あ、あの。杉田先生? 今授業中でして」
「いやこれは失敬! しかし、俺のミューズの快挙です! 許して下さい!」
そんな騒ぎのせいで、私が『こうこうび』という美術展で開校以来初の快挙を成し遂げたという話は、一気に校内中に広まったのだった。
「おめでとう、ヒィ」
「あー、どもども」
福原が授業中に杉田先生に愛の告白をされたという、碌でもない噂が広まった昼休み。
私は穂積くんと園田くんと三人でお弁当を食べていた。
美月ちゃんがいなくなっても、あの夏からの習慣はなくならなかった。
私のお弁当にはいつでも、美月ちゃんから教わった卵焼きが入っている。
「すっげえ真剣に描いてたよな。どんな絵なんだ?」
私のお弁当箱からその卵焼きを一切れ摘み上げた園田くんが言う。
園田くんは、あれから少しだけ荒れた。
タイムリミットを黙っていた私と穂積くんに怒って、怒鳴って、手が付けられなかった。
だけど、それが美月ちゃんの意思だったと分かってくれて、それから『ありがとう』と言った。
『最後の瞬間まで、美月と永遠に一緒に居られるって信じていられた。それは、幸せなことだったのかもしれない』
と、言ってくれた。
今は随分落ち着いた。
だけど、今でも美月ちゃんの話をするときは寂しそうな顔をする。
それはそうだ。
だって、美月ちゃんが亡くなってまだ一年も経っていない。
思い出を懐かしむには、まだ早すぎる。
「あ、俺も見てない。どんなの、ヒィちゃん?」
穂積くんは私のお弁当箱からミートボールを取り、代わりに私の好きな唐揚げを入れてくれた。
穂積くんとは、あれから特に進展も何もない。
私は絵にかかりきりになってそれどころではなかったし、園田くんと同様、まだ美月ちゃんを失った悲しみを抱いている。
穂積くんも同じなのか、私を気遣ってくれているのか、何も言わない。
園田くんと同じくらい、穂積くんは大事だ。
だから、私はこの距離をとても大事にしたいと思う。
それは、ズルいのだろうか。
答えはまだでない。
「うーん。説明するより、直接見て欲しいかな」
「え?」
「今度、受賞式があるんだ。二人とも、来て」
「そりゃあ、いいけど」
「よかった、約束ね!」
私は唐揚げをぱくりと食べて、二人に笑いかけた。
そして、当日。
感極まっている杉田先生と、園田くん、穂積くんの四人で私たちは会場入りした。
「ああ、泣ける。俺の生徒が、最高賞だぞ。くそ、俺、教師やっててよかった」
「先生、最近そればっかり」
「そうか? そう言えばこの間、津川にも『ウザイです』って真顔で言われた」
「そりゃあ、言うでしょ」
クスクスと笑っていると、スタッフの腕章をした男性が私を呼びに来てくれた。そろそろ私の番らしい。
「行ってきます。二人とも、みててね」
「おう!」
「ばっちり録画しておくね!」
園田くんは仁王立ちをし、穂積くんは手にしたカメラを振った。
そんな二人に笑いかける。
名前を呼ばれて、私は壇上に上がった。
私の絵は、仰々しく緋色の布がかけられていた。
「福原、陽鶴殿……」
テレビで見かける、オーラ溢れるおじさんから賞状と盾を手渡される。
そして、布がはらりと外された。
「内閣総理大臣賞受賞作『目覚め』です」
園田くんと、穂積くんが息を飲むのが見えた。
キャンバスの中には、うっすらと目を開けようとしている美月ちゃんがいる。
眠りから目覚める瞬間の、あどけない美月ちゃん。
揺れる睫毛も、「ふにゃ」と声を零しそうな艶やかな唇も、薄桃色の柔らかな頬も。
私は全てをキャンバスに写し取った。
何度も何度も美月ちゃんを思い出し、夏の間に山ほど描いたスケッチに埋もれて。
他愛ない会話も、瞬間も、何度も再生した。
私の知る美月ちゃんを、凝縮した。
私は、美月ちゃんを永遠にする。
誰が忘れさせるものか、
誰が忘れるものか。
あなたが生きてきた証は、私が永遠に残す。
だって、絵はそれを可能にする。
そして。
「では、受賞の挨拶を」
マイクが手渡される。私は、キャンバスの中の美月ちゃんを見ながら、口を開いた。
「……私は、ドガが大好きです。永遠を切り取って、次の瞬間を見る者に与え続けるドガを尊敬しています。
キャンバスの中に永遠の生を与える、ドガのような画家になりたいと思います。
……絵の中の彼女の『目覚め』は、私の永遠です。
私はずっと、ずっと、彼女が目覚める次の瞬間を待ちわびて、この絵を描きました。
彼女が微笑んでくれる次の瞬間を、ずっと待っています」
『またね』
美月ちゃんはあの時確かにそう言った。
だからきっと、いつか彼女はこの世界で目覚める。
どんな形かは、分からないけれど。それでもきっと。
そんな、彼女の『目覚め』を祈って筆を取った。
「は、はあ? 不思議な感性、ですねえ」
司会の女性が戸惑ったように瞬きをする。
私はそんな彼女に笑いかけた。
「この子、今にも起きだして笑いかけそう。そう思ってくれたら、いいんです」
私のコメントに首を傾げる人々の中で、たった二人が、分かってくれた。
「ああ、彼女は、生きてる!」
「いつかきっと、笑ってくれる!」
二人は、私の為に、惜しみない拍手を贈ってくれた。
その拍手が、だんだんと大きな波となる。
顔を見合わせるようにしていた人たちが、「そうね」と口を開き、笑顔で手を叩いてくれる。
「福原、お前最高だ! お前の、永遠のミューズに幸あれ!」
杉田先生が、男泣きに叫ぶ。
やだ、先生。
それはさすがにクサいし、恥ずかしい。
だって彼女は、私の大切な友達なだけだ。
巻き起こる拍手に、マイクを手にした司会の人が驚いたように「すごい」と言う。
それから、我に返ったようにマイクを握り直した。
「では受賞者の、福原陽鶴さんに大きな拍手を!」
いっそうの、温かい拍手が起きた。
その中で、私はキャンバスの中の美月ちゃんに笑いかけた。
またね、という言葉を、私は信じてる。
あのひまわりのような笑顔ともう一度、巡り合えるってずっと信じてるから。
「ねえ、彼に伝えて」
6.永遠の、次の瞬間
元気にしていた?
幸せにしていた?
ああ、たくさん話したいよ
私のこと
彼らのこと
君のこと
「いやあ、ありがとうございます。素敵な講演でした」
「今活躍中の画家さんのお話を直に聴けて、生徒たちもいい刺激を受けたことでしょう。お忙しい中、本当にありがとうございました、先生」
「やだ、先生なんてやめて下さい。私は、久しぶりに堂々と母校に来れると思って、嬉しくて来たんですよ」
時は、流れた。
私はどうにか画家としての道を進んでいる。
この一年でようやく、画家と名乗れる自信をつけた。
とかく、現実はシビアなものだ。世界は広い。腕を磨かなければ。
「いやいや。素晴らしいご活躍ではないですか。今度はフランスまで行かれるとか」
「絵画保存修復要員としてお声がけ頂いたんです。それだけでも有難いんですけど、ドガの絵だと言うので、いてもたってもいられなくって」
原画をこの目でみられるのは、この上ない幸せだ。
しかも、それをこの手で在りし日の姿に戻すことが出来るなんて。
二か月後の、フランスの空の下の自分を思うと、ニヤニヤしてしまう。
「でも、おひとりで行かれるんでしょう? 先月、ご結婚されたばかりと伺ってますけれど」
退職した杉田先生の代わりに美術部の顧問となったという女性教諭が言う。
私はえへへ、と笑った。
「ええ。旦那には、少しだけ我儘を聞いてもらいます。でも、新婚旅行もしてないから、途中で会いに来てくれるって言ってました」
左手の薬指には、まだ慣れないマリッジリングが光っている。
この指輪をそっと薬指に嵌めてくれたときの、彼の緊張した顔を思い出すだけで笑みが零れる。
「確か、旦那様も我が校の出身だとか」
「そうなんです」
私たちは、いつも三人でいた。
余りに三人でいすぎて、私は二股女だとかクソビッチだとか呼ばれたこともあったっけ。
とても懐かしい。
好きとか嫌いとか、遠慮とか思い出とかごちゃ混ぜにした時期を越して、私は二人の内一人の手を取った。
『ずっと一緒に居たい』
そう言った私を彼は受け入れてくれたし、もう一人の大切な人は、笑顔で祝福してくれた。
「よく、彼と友達と三人で、ここを歩いたんですよ」
廊下を見渡して、私は懐かしくなる。
少しだけ古くなった校舎。
ここを三人で、束の間四人で笑いながら歩いた日々は、遠い。
だけど、思いだせばすぐにでも、鮮やかに蘇る。
「あ、そうだ。正面玄関にはまだあの絵が飾られているんですよ。『目覚め』が」
「え、そうなんですか?」
「ええ。我が校の誇りですもの。それに、私もあの絵が大好きです。無くてはならない物だわ」
「ありがとうございます。じゃ、見て帰ろうかな」
私は、あの絵をずっと飾ってくれることを、当時の校長と杉田先生にお願いした。
美月ちゃんのことを、みんなが忘れないでいて欲しくて。
だけど十数年経った今でも正面玄関なんていうセンターに飾ってもらえているとは思わなかった。
「ええ、ぜひぜひ!」
女性教諭と話をしながら廊下を歩く。
今にも明日香が飛び出して来たり、前田くんがぎこちなく笑ったりしそうだ。
私は一歩進むたびに、自分が女子高校生であった時の感覚が戻ってくるような気がしていた。
「あ」
正面玄関の、絵の前に一人の女の子が立っていた。
少しだけ上を向くようにして絵を眺めている髪の長い彼女は、気配を感じたのかゆっくりこちらを見る。
大きな黒い瞳と目が合う。
その瞬間、彼女はひまわりが咲くように笑った。
「ヒィ!」
呼ばれた名前に、時が止まった。
息を忘れる。
彼女は、今、なんて?
「ふわ! あ! あたしったら噛んだ! ひ、陽鶴先生ですよね!」
顔を真っ赤にした彼女は、「変な呼び方してすみません!」と私に深く頭を下げた。
「あ、なた……は?」
「あの、あたし、小池美衣と言います! 美術部です! 先生のこの絵を体験入学の時に見て、一目ぼれしてこの学校に入りました!」
天真爛漫な笑顔。
記憶の中の彼女と姿かたちは全く違う。
だけど、私は知っている。
彼女がどう笑ったか、喋ったか。
私を、どう呼んだか。
まさか。
でも。
「大好きなんです! だからずっと、先生に会いたくって!」
彼女は背中にした絵を振り返り、ため息をついた。
「この女の子を見ると、すっごく懐かしくなるんです。今にも起きそうで、笑ってくれそうで、その笑顔が見たくって。彼女は先生の絵の中で永遠に生きてるんだって、当たり前なんだけど、感動しちゃうんです」
「そ、う……」
「この絵を描いてくれて、ありがとうございます! 会って、お礼を言いたかった。会いたかったんです!」
私に顔を戻した彼女が、笑った。
息を飲む。