私だけが知らない話に不安になる。
居心地が悪いと同時に、聞いていいものかわからない。
結局、私はその場は何も言わなかった。
昼食後、お義母さんのいる施設に向かう途中、立ち寄ったコンビニでゼンさんはようやく私に口を開いた。
社長は一服してくると車外に出て、車中には私たちだけ。
「お袋のガン検査の結果が出るんだ」
「ガン……嘘……」
「乳ガンだとさ。もう、おおよそ確定なんだけどな。あとは、どのくらい進行してるかって話」
正直、思ってもみない話に、言葉がない。
お義母さんはまだ50代だ。とても若い。
「部位的には転移が怖いし、手術で取るのが一番いいんだが、本人が最近不調だからな。手術して体力的に大丈夫か、話してくる。その時は、みなみの授乳でもして待っていてくれ」
ゼンさんは淡々と言う。
いつから、そんな話になっていたのだろう。
私が計画した旅行の中に、お義母さんのガン告知が含まれていただなんて。
私の表情から、何か感じたのかゼンさんが言う。
「おまえを蔑ろにしたつもりはない。むしろ、佐波が言い出してくれなかったら、俺はお袋の告知や治療方針については叔父夫妻に一任するつもりだった。実の息子のくせに、薄情だろう?」
運転席のゼンさんは、前を向いてしまう。後部座席のいる私には、その表情を見ることはできない。
「俺にはまだ勇気が足りない。お袋の全部を受け止める覚悟が足りない。今だって、怖い。お袋がどれほど弱っているか見るのも、病気の告知をされるのも、怖くてしょうがない」
ゼンさんにとってお義母さんはたった一人の家族だった。
お義父さんを亡くして以来、頼るものは互いだけ。
大事な大事な、唯一無二の存在だ。
そのお義母さんが、人格も思い出も失ってしまった時、彼はどれほど辛かっただろう。
そして、今また、お義母さんの身体を病気が蝕んでいるかもしれない事実。
彼は、それを受け止め損ねている。
私は後部座席から手を伸ばし、彼の左腕に触れた。
「私とみなみがいる」
私は言い切った。なるべく、静かに落ち着いて、彼の心に届くように。
「ゼンさんの傍には私とみなみがいる」
彼の抱える圧倒的な不安は拭えないかもしれないけれど。
それでも、私たちは傍にいる。家族だから、彼の痛みに寄り添いたい。
ゼンさんは前を見たままだった。
でも、彼の右手が私の手の甲をしっかりと包んだ。
お義母さんのいる施設に到着すると、ゼンさんはひとり、隣接した病院に向かった。お義母さんの話を主治医としてくるそうだ。
私もついて行きたかったけれど、みなみが騒いでも仕方ないので断念。病院に未満児のみなみを連れていくことにも抵抗がある。社長と三人、施設の屋内で待つことにした。
「こっちにみなたんが遊べそうなスペースがあるから行こう」
社長が先導して歩く。廊下の突き当たりには歓談スペースがあり、四畳ほど畳敷きの空間があった。TVに雑誌、ソファなんかも近くにある。
ちょうど、施設の利用者は誰もいない。
春らしい陽気の昼下がり、デイサービス利用者や入所者は、日当たりのいい中庭や食堂兼広間にいるようだ。
私はみなみを畳に降ろす。
みなみは少し達者になったズリバイで狭いスペースを探検し始めた。
最近は家中どこにでも、私の後をついてくるみなみ。後追いというらしい。
「社長、詳しいですね」
私は社長を見上げて言う。
こんな休憩スペースを知ってるなんて。ここに来るまで、フロアの案内図も見なかった気がする。
「たまに来てるからね」
社長は缶コーヒーを買い、私にもホットのお茶を手渡してくれた。
「彼女は僕のことがわからないけれど、会いにくることは無駄じゃない」
ああ、そうか。
この人の気持ちは、まだ静かに燃えているんだ。
社長は、もう十年以上、お義母さんに恋をしている。
叶うことのない片想いをしている。
「二月にいっぺんくらい来てさ、彼女の機嫌が悪くなけりゃ、車イスを押して散歩したりするんだ」
「そうなんですか」
「僕はズルいからね。彼女にフラれてるのは重々承知してる。だけど、彼女の脳が判断機能を失っているのをいいことに、夫の真似事をしてるのさ。妻を見舞う夫の役を勝手に演じてる」
社長は自嘲的に笑った。
彼のしていることを悪く言うのは彼自身だけだ。
私から見たら、それはただの愛だ。
献身的な情愛にしか見えない。
「佐波くんには感謝してもしきれないな」
「急に何ですか」
社長がいきなり言うので、私は茶化そうと明るい声を出す。
社長は少し微笑んで言った。
「僕の好きな人の血を次に繋げてくれたのは、きみだからね。本当にありがとう」
そんなことを言われたら、茶化せなくなってしまう。
私たちはそれぞれ座り、みなみを眺めてゼンさんを待った。
やがて、ゼンさんが私たちを探し当てて戻ってきた。
思ったより早く、30分もかからなかった。
「どうだった?」
心配げな顔をする社長。その隣のベンチに腰掛け、ゼンさんは曖昧な表情で頷いた。
「初期の乳ガン。本当に初期だから、大きな手術にはならない。早く取ってしまおうってことになった」
「そうか」
ガンではあったわけだから、「よかった」とは言えない。でも、早い段階で見つけられたことはいいことだ。
「右の乳房は半分切除になるけど、それで悪いもんを一掃できるなら御の字だろ」
ゼンさんは感情を差し挟まないよう平坦な声音で言って、またすぐに立ち上がった。
「顔、見てこよう」
お義母さんの居室に行こうという意味だ。
社長が勝手知ったる様子で先に立って歩き出した。
私は眠そうにしているみなみを抱き上げ、さっと抱っこひもに入れた。
お義母さんと会う間は機嫌よくしていてほしい。
二人の後について進む。
施設は三階建てで敷地面積が広い。
お義母さんの居室は二階だった。フロアの職員室で挨拶をすると、職員さんがひとり同行してくれた。
六畳ほどのひとり部屋には『一色美津』とネームプレートがついている。
引き戸を開けると、お義母さんはベッドに横になっていた。
「一色さん、体調どうですかー?お客さんですよー」
職員の女性が声をかけながら、リクライニングベッドの背もたれを起こす。
お義母さんがベッドと一緒に身体を起こした。
お義母さんと会うのは二度目で、10ヶ月ぶりになる。
ドキッとした。
起き上がったお義母さんは、あきらかに小さく細くなっていた。
真っ黒だった黒髪は白髪が混じり、束ねた毛の量も少なく細く見える。
表情は以前同様ぼんやりとしていたけれど、それよりも頬がこけたのが目立つ。
秋に肺炎をしてから寝付いてしまったとは聞いていた。
ガンが見つかったくらいなのだから、体調に衰えが見えても仕方ないとは思っていた。
しかし、お義母さんのあまりの変化に私もゼンさんも息を飲んだ。
私ですら、ショックな変化だ。彼の心を想うと何と発していいのかわからなかった。
「美津さん、久しぶり」
明るい声をあげたのは、社長だ。
「この前プレゼントしたカーディガン、着てくれてるんだね。嬉しいなぁ」
社長がお義母さんに近付き、親しげに話しかける。
横で職員さんが答える。
「そうなんですよ。毎日ご自分で選んで着てるんです。お気に入りなんですよねー、一色さん」
「うわ、ホント!?よかったぁ!」
社長が大きくリアクションをする。
「今日は美津さんに会わせたい人がいるから連れてきたんだよ」
社長が言い、いまだ居室のドア付近に立ち尽くしていた私たちに視線を投げた。
心臓か跳ねた。行かなきゃ。
私はみなみを抱っこひもから降ろすと、ベッドに歩み寄る。
「こんにちは、ご無沙汰しています」
私はお義母さんに声をかけた。