「佐波」
洗面所から出たところで、ゼンさんが私の話を遮った。
振り向いたゼンさんに、後ろにくっついていた私ははたと止まる。
間近にあるゼンさんの顔。
カッコいいなぁ、相変わらず。
「なんですか?ゼンさん」
ゼンさんが何も言わず、私を抱き締めた。
ちょっとびっくりするくらい、勢いよく引き寄せられ、彼の腕の中へ。
私は軽く混乱して、思考をめぐらせる。
え?
いきなりハグですか?
脈絡なく抱き締めて、トゥナイト……あ、ドラマのタイトルとしてはダメだわ。センスないわ。
私、もしかして突然フェロモンが出る体質になったのかな。
そのフェロモンにゼンさんやられちゃった?
今日もめっちゃ主婦臭漂う、とれかけメイクにひっつめお団子ですけど。
いいんスか?ゼンさん。
そんな私にムラっときちゃうくらい、欲求不満だったとか?
「おまえが元気に、みなみの成長記録を教えてくれるのは嬉しいんだがな……」
ゼンさんが、私の髪に顔を埋めながら言った。
「最近、みなみの話ばっかで……なんというか……その……」
ゼンさんは言葉を濁し、そして黙ってしまった。それでも、私を抱く手は緩めない。
あのぅ、ゼンさん。
もしかしますと、これって久々に感じますアレな感情ですか?
「……嫉妬してる?」
私は恐る恐る口にする。
娘に嫉妬しちゃった感じですか?
女房をとられたようなキモチですか?
ゼンさんは、答えなかった。
でも、言葉がなくても充分伝わる。
「ゼンさん……、そんな……えーと……嬉しいです、私」
「もういい、気にするな」
ゼンさんは少しふてくされたような声で言って、もう一度私に絡めた腕に力を込めた。
あ、今、幸せで死にそう……かも。
「ゼンさん、大好き。みなみへの母性を取り戻せたのは、ゼンさんのおかげなんだよ」
私はゼンさんの鎖骨に顔をぐりぐり押し付け、言った。
ゼンさんの匂い、大好きだ。
あー、このままこうしていたいなぁ。
「いや、スマン。みなみのところに戻ろう」
ゼンさんが冷静に言って、これ以上本気にならないためか身体同士を引き剥がした。
あーあ、元のゼンさんに戻っちゃった。
私はもう少し、焼きもちゼンさんが見たかったんだけどなぁ。
仕方ないか、夕食の準備も途中だし。
リビングに戻ると、みなみはまたうつぶせに戻り、一生懸命お尻をぴょこつかせていた。
うーん、みなみも頑張ってるし、今夜は私が頑張ってみようかな。
愛しの旦那様へのアタック。
妙な気合を入れつつ、味噌汁用の小鍋を手にする私だった。
2月中旬の午前中。
外は寒そうだけど、昼間ではたっぷり陽射しが入るリビングで、私はみなみのハイハイ特訓に付き合っていた。
みなみは毛足の長いラグの上で脚を踏ん張り、お尻を高々と持ち上げている。しかし、前には進めず、脚がずるりと滑って終了。
うーん、フローリングに移してあげようかな。
いや、そんな問題じゃないな。
だって、みなみはまだ腕で上半身を起こせていない。脚で床を蹴る時、ほっぺたは同じく床に押し付けられ、身体を支えるはずの手は横にだらり。さっぱりハイハイの役にたっていない。
「ほら、こうするんだってば」
みなみの肘をつかんで床に着かせる。顎から胸までが床から浮く。
さあ、これで存分に練習したまえ。腕が使えりゃ、ちょっとは進むんじゃない?
だめだ。
みなみは脚を使おうとすると、上半身に気が回らなくなるようで、再びほっぺたを床につけお尻だけぴょこぴょこ。
「ヴヴーッ!」
みなみが低い声で唸り出す。うまくいかないのは本人もわかっているらしい。
「まあまあ、みなみ。気楽にやろうよ。先は長いんだから」
私は気分転換にと、みなみをお座りの姿勢に戻してあげる。手にビーズ入りのガラガラを握らせると、お気に入りのブツにみなみはニコニコと腕を振りだした。
私はそんなみなみを眺めつつ、昨夜のゼンさんを思い出しニヤニヤしてしまう。
『おまえが元気なのは嬉しいんだ』
みなみが良く寝てくれたことで実現した、久々に情熱的な夫婦生活の後、ベッドにつっぷしたゼンさんはこちらを見ずに言った。
『一時は育児がつらそうだったから。そりゃ、今だって楽ではないだろうけど、少し気持ちに余裕が出てきたみたいだろ?』
顔のほとんどを枕に埋めているので、彼の声はくぐもっていた。
どうやら、恥ずかしいことを言っているので、顔を見られたくないみたいだ。
部屋は常夜灯しかついていないんだし、気にしなくていいのに。
『たぶん、俺は期待してたんだ。佐波に余裕が出てきたら、俺の方を向いてくれるかなって。恥ずかしいことに、かまってもらえるのを待ってたんだよな』
『恥ずかしくないよ。嬉しい』
私が甘い声で彼の裸の背中に頬を寄せても、ゼンさんはこっちを見てくれなかった。
娘に嫉妬してしまったのが、恥ずかしく悔やまれる様子。
『ほったらかしてごめんなさい、ゼンさん』
みなみのことでいっぱいいっぱいだった私は、ゼンさんを放置しすぎていた。
夜泣きに付き合って一緒に散歩してくれたり、泣き止まないところをあやしてもらったり、手伝いばかり受け取って、愛情のお返しを忘れていた。
『ゼンさん、お願い。こっち向いて』
『佐波……』
ゼンさんが上半身を起こし、こちらを向く。私はその胸に飛び込み、彼の唇を奪う。
そうして、私たちは時間の許す限り、甘い夫婦の時間を味わった。
……そんな昨夜。
思い出すだけでニヤニヤが止まらない。
いや~、私、愛されてるなぁ~。
嬉しいなぁ~。
眠いけど元気!愛の力は偉大だぜ!
みなみがガラガラをしゃぶり出すのが目に映る。
おっと、調子にのっている場合じゃない。そろそろ離乳食の準備をしなくちゃ、みなみのお腹が減る頃だ。
今日はサツマイモがゆにとりささみのペースト。ささみは市販品だけど、食べなかったらおかゆにぶちこんでやろうっと。
キッチンで準備をする間、みなみはお座りに飽き、プレイマットまで寝返りで移動すると一人遊びを始めた。マットのカサカサ鳴るパーツが好きで、ぎゅっと握っては口に持っていこうとしている。
みなみのメニューは、まだペースト状のものばかりなので、離乳食の準備はレンジ調理が主体。温度も食べられるぬるめに冷まして、テーブルにセット。
「みなみー、ごはん食べよー」
早くあげてしまおう。
今日は午前中のお昼寝が短かったから、いつ眠くなって怒りだすかわからない。
機嫌を損ねると、みなみはテコでもごはんを食べなくなるから。
しかしだ。
こんな日に限って邪魔は入る。
みなみの離乳食が半分も進んでいないうちに私のスマホが振動を始めた。
表示は『一色禅』。
あら、ダーリン!
早速、寂しくなって電話!?
……いやいや、そんなことあるかい。就業中にゼンさんから電話ってことは、大事な用事のはず。
「もしもし?」
「佐波、悪いが今、少しいいか?」
「私はいいけど……」
みなみは待ってくれなさそう。今も口をもっちゃもっちゃと動かしながら、次の一匙をじっと見つめている。
「総務の吉田がおまえに話があるそうだ」
「総務の吉田さん?吉田課長が?」
私はゼンさんと同い年の温和そうなお兄さん社員のことを思い出す。吉田課長が私に用事?
スマホをスピーカーに切り替え、みなみに離乳食を与えつつ会話を試みる。
「梅原さん……あ、ごめんね。一色さんだよね」
吉田課長の声がスマホから聞こえる。
「あ、いいですよー。育休明け復帰の際は、紛らわしいし、皆さん慣れてる梅原で呼んでもらおうかと思ってましたから」
「……その復帰の件でご相談があってね」
「?」
復帰……現時点ではみなみが一歳になってからという話をしてある。保育施設が見つからなければ、さらに半年の延長も会社側にはお願いしてあった。
私たち夫婦が社長と懇意という理由だけでなく、うちの会社は社員の休暇取得が寛容だ。当然、産休育休もしっかり取る社員が多く、育休は最長で子どもが4歳になるまで、短縮勤務は小学校3年生終了時まで利用できる。
これって、一般企業ではなかなかない優遇だ。
吉田課長が言いづらそうに言葉を続けた。
「急で申し訳ないんだけど、4月から復帰ってできないかな?」