「え!?そこのスタジオですか!!私も会員なんです!」
彼女が驚いた顔で答える。
私はぱっと彼女の全身を見渡した。
コートを羽織っているけど、お腹のふくらみはわからない。
でも、初期の妊婦さんかな。
彼女がゆっくりと屈み、買い物袋をアスファルトに下ろす。感慨深そうに純誠くんの手を握った。
純誠くんは大きな目で知らない女の人を見つめている。
「私、スタジオのプレマタニティビクスに通ってるんです。妊活中なんです」
彼女は純誠くんの手の甲を撫でている。いとおしそうに、ゆっくりと。
私は自分の疑いと間違いを瞬時に恥じた。
「結婚して5年、なかなか授からなくて。先々月から通ってるんです。早く赤ちゃんがやってこないかなって、毎日ベビ待ち中です」
「そうなんですね……」
私は言葉を見つけられず、ようやく相槌程度の言葉を発した。
彼女は純誠くんの手を離し、立ち上がった。
「パワーをもらえました。急にすみませんでした」
にっこり屈託なく笑う彼女には、『パワーをもらいたくなる』ほど切ない日があるのかもしれない。
今度は美保子さんが彼女の手に触れた。親愛の情がこめられていることは傍で見ていて痛いほどわかる。
「いいえ、いいんです。いいんですよ」
美保子さんには、きっと言いたいことがたくさんあったのだと思う。
流産と不妊治療を乗り越えて、純誠くんを産んだ美保子さん。
目の前の女性は自分の分身みたいに見えたかもしれない。
だけど、聡明な美保子さんはそれ以上言えなかった。
妊娠出産に『絶対』はないから。
自分がうまくいったように彼女がうまくいくとは限らないから。
ぬか喜びさせるようなことは言えない。言ってはいけない。
応援することしかできない。
祈ることしかできない。
女性と別れ、私たちは電車に乗った。
私はぽつりと言った。
「彼女のところにも、赤ちゃんがやってくるといいね」
私のように偶然で授かってしまう命もある。美保子さんのように悩みぬいて授かった命もある。
欲しいと授かるはイコールじゃない。
だけど、母になりたい女性すべてに子どもができたら、そんな幸福は他に無いのに。
「ええ、本当に」
言葉すくなに答えた美保子さんは、目頭に涙を浮かべていた。
私たちは母親。
苦しくても、大変でも、母親。
子どもたちに、母親にしてもらえた感謝を忘れちゃいけない。
私は自分の胸に手を当てた。
みなみの離乳食がスタートして、二週間。メニューにはタンパク質が加わってきた。
白身魚のすりつぶしたものや、かたゆで卵黄などなどがそれ。
卵はアレルギーの心配もあるので、もし症状が出ても病院に行ける午前中にあたえてみる。
これは、ポソポソするせいか不評だ。
みなみは変な顔をして、口をモッタモッタと動かして、やがて口のへの字にした。
おかゆに混ぜたら、あっさり食べてくれたけど。
アレルギーらしきものも出ず、ホッと一安心だ。
白身魚は繊維質なのが気になるらしく、私がゆでて潰したタラは食べてくれなかった。
こんなこともあろうかと、フリーズドライの白身魚をお湯でとかし、あたえてみる。
こちらはすんなり食べた。
もしかして、食感や舌触りが食べる食べないの境目?
ともかく、少しずつだけど、食べられるものが増えていく。
おっぱいも変わらずグビグビ飲むので、みなみは目に見えて太りだした。
ムッチムチのコッロコロだ。
羽二重餅か白いすあまを想像してもらうとわかりやすい。
自分では体勢は変えられないけど、お座りは保持でき、寝返りは左右どちらもできるようになった。
お餅がコロコロ転がって移動する様は可愛い。
私は、スマホの動画機能で、転がるみなみを撮影しまくった。
久しぶりだ、こんなに夢中でみなみを撮ったの。
そして、本日は6ヶ月健診。
今回は集団健診ではなく、小児科でやってもらう。
1ヶ月健診で利用した産院提携の小児科は、これまでも予防接種で利用してきた。
でも、バスかタクシーで行くのは結構大変。
一度なんかみなみが37.7度のお熱で、行ったものの予防接種が受けられず出なおしたっけ。
色々考えたけれど、かかりつけ医は近所にあったほうがいい。
今回を機に、最寄り駅前の小児科に行ってみることにした。
健診は予約制で、通常診療のお休み時間に診てもらう。
風邪なんかで受診した子どもたちから、うつされる心配がないようにって配慮だ。
思ったより簡素でシンプルな待合室には、みなみより月齢の高そうな赤ちゃんとママが二組いた。
9・10ヶ月健診の子かな。
ソファの上をはい回り、自分でお座りの姿勢になっている。
おおー、すごい。
みなみもこんなになるのかな?
やっとこ寝返りができたばかりの、うちのお餅女子が。
「一色みなみちゃーん」
診察室から顔を出したエプロンをつけた看護師さんが呼んでいる。
私とみなみは、呼ばれるままに診察室のお隣の部屋へ。
どうやら、こちらで計測みたい。
みなみはご機嫌だ。
看護師さんのエプロンに、プレイマットで親しんでいるパンのヒーローのワッペンを見つけたせいかもしれない。
「あー、たたー」
普段よりさかんにおしゃべりしている。
オムツ一丁になったみなみは、身長、体重、頭囲を計られてもおりこうだった。
しかし、いざ診察室に呼ばれるとみなみの顔つきが変わった。
腰が座ってきたみなみは、最近は抱っこ紐でなくても、縦抱っこが多い。
診察室に入る時も、彼女のお尻と背中を支え、そろってお医者さんにお辞儀したんだけど、私の肩にくっついたみなみの手に、ぎゅうっと力が入った。
おや?
みなみの顔を見ると、あきらかに表情が強張っている。
「やああああ!なああああ!」
みなみは恐れおののくような悲鳴をあげ、私にしがみついた。
え?
どした?
もしかして、目の前にいる白髪で眼鏡のおじさん先生が怖いの?
「人見知りは始まっているようですね」
おじさん先生はにこりともせず、無愛想に言った。
人見知り?
お医者さんだから、ビビってるだけじゃなくて?
あ、そういえばこの前……。
「親戚の……おじさんに大泣きしたんですけど、それも人見知りですか?」
みなみは先日、我が家に来た社長に対して、大号泣したのだ。
その泣き方が夜泣きなどとは違って、逃げようと顔をそむけ、社長が抱っこすると大暴れ。
結局私に戻されたみなみは、私の肩にかじりついて泣いたのだった。
社長は「俺はみなたんのじいじなのに……」と、それはもうしょんぼりして帰って行った。
「そうでしょう。正常な発達ですね」
「ふやああああああっ!!」
おじさん先生の声をかき消さんばかりにみなみが泣き叫ぶ。
診察の間中、泣きとおしたみなみは異常もなく、発達も順調。帰りのベビーカーではくたびれたのかグースカ寝ていた。
私はおじさん先生に指摘された人見知りについて考える。
思えば、最近のみなみは他人に対して不安そうな顔をしていた。
買い物中微笑みかけてくれたおばさんとか、ベビービクスで会う他のママさんに対して。
脳がきちんと成長している証拠だよね。
私やゼンさんのことは「知ってる!」って思って、安心してるんだもん
そうだ、このことを早く社長に報告してあげなきゃ。
この前の来訪は、それはもう切ない後姿で帰って行った彼。
人見知りは正常な発達の証拠で仕方ないって。時機に顔を覚えたら、みなみも泣かなくなるって。
帰宅し、一転ご機嫌で遊び始めたみなみを尻目に、夕飯を作る。
今日はゼンさんが早いって言っていた。
健診の結果と人見知りのことを話そうっと。
煮物と鮭のバターソテーという夕食を手早く作り、お味噌汁の準備をしていると、みなみがごろんと転がるのがキッチンから見えた。
みなみはプレイマットでおすわりし(この体勢は私がさせた)マットの支柱にくっついたぬいぐるみをかじっていた。そこから後ろに転げたようだ。
最初こそ、この「ごろん」で頭を強打していたみなみも、最近は上手に受身らしきものを取り、頭を守って転がる。なので、私は今回も助けには行かず見守る。
すると、みなみはそこから腹ばいに寝返り。
油揚げを切りながら、ちらちら見ている私の目に、みなみがぴょこんとお尻を持ち上げるのが見えた。