「じゃあ、明日の新幹線で帰るってお父さんに連絡しようっと」
帰りのタクシーで母は言った。
母は私の退院2日後から我が家に泊まり込んで、私とみなみとゼンさんの面倒を見てくれた。
産後3週間の産褥期、私をゆっくり休ませるためだ。
「でも本当にもう大丈夫?ひとりで、みなみちゃんのお世話できる?」
「大丈夫だよ。この1ヶ月でだいぶ馴れたし」
そんなことを言いながら、正直不安だったりはする。
なにせ、今まで家事はほぼ母がやってくれたので、私はみなみの世話しかしていない。
みなみの世話だって、みなみが泣き止まない時や、夜間の頻回授乳に疲れた時は、母が抱っこを変わってくれた。
今後、そういう手助けはなくなる……。
不安……だけど、これ以上母に頼りっきりのダメ娘じゃいかん……。
「ゼンさんもいるし、どうにかなるからさ!」
わざと明るく言った私の腕の中で、みなみがもぞもぞと動き出す。
あ、もしや。
「あっぎゃああああ!!」
みなみが目覚め、いきなり出力全開で泣き出した。
グズるというプロセスはないことが多いんだ、この娘。
「きた!おっぱいだ!」
たった2時間の外出ももたないみなみの空腹。
こんなことなら、病院の待合室で授乳してくればよかった。
「もう少しでおうちだから、我慢して!」
私はみなみをスリングごと揺すってみる。
みなみは大声を張り上げるばかり。
「あんた、授乳ケープ持ってるんでしょ。タクシーだけど、あげちゃいな!」
ええー?あと5分ほどで我が家なのに!
しかし、降りる瞬間まで泣いていたら、運転手さんにも迷惑だろう。
私は運転手さんにひとこと断り、みなみをスリングから出すと、代わりに授乳ケープを羽織った。
いつでもどこでも授乳がスマートにできるというのが、このケープ。
今後、出番がめちゃくちゃ増えそう……。
みなみはケープが邪魔で押し退けたいのか、しきりに顔回りで手をバタつかせていたけれど、最終的には目の前の食料の魅力に負けた。
おっぱいに吸い付き、やっとこ黙るみなみ。
私と母はほーっとため息をついた。
「……今夜、ゼンさん早いみたいなんだ。お母さんも明日帰っちゃうし、外食にしよっか?」
「あんたね、みなみちゃんは今日からやっと外気浴ができる程度よ?それをファミレスになんか連れてくのはダメ」
「だ……大丈夫だと思うけど……。気になるなら、駅前のイタリアンなんかどう?静かだし、大人ばっかりだし」
「静かなレストランは、暗黙の了解で子どもNGなもんよ。みなみちゃんが大泣きしたらあんた料理も食べられず外であやしてる羽目になるんだから。外食なんてそのうちいくらでもできるし、今夜は最後だから私が作るわ」
母に押しきられてしまった。
私としては、母にお礼もしたかったんだけど。
子どもが小さいうちってできないことが多そう。
妊婦時代の方がまだ、一緒に行動できる分、自由だったかもしれない。
タクシーが自宅マンションの玄関に到着した。
みなみの授乳を中断すると、みなみが「ぎゃああん」と不満げな泣き声をあげた。
私は構わず清算し、暑い日差しを避けるようにマンションのエントランスに飛び込んだ。
翌日午前中に母は実家に帰っていった。
駅まで送ると言ったのだけど、
「この暑い最中にみなみちゃんを連れ出すのはダメ」
と怒られてしまった。
でも、お母さんがいなくなったら、連れ出さないわけには行かないと思うんだけど……。
「買い物や病院なら仕方ないよ。でも、みなみちゃんはあんたよりも全然この世界に慣れてないんだからね。あんたが思うより無茶が利かないってことだけ覚えておきなさい」
大雑把で天然の母にしては、強い言葉だった。
子育ての年季を感じる。
ママの大先輩なわけだ、この人は。
母は言うだけ言ってあっさり帰路についた。
荷物は送ってしまったから、身ひとつで呑気に気楽に。
来た時と変わらず、なんの未練もない後姿。
ま、群馬はそれほど遠くないもんね。
新幹線で一時間くらいだし、すぐ会えるか。
母の後姿をベランダから眺め、見えなくなるまで見送る。
妙なことに、涙が出てきた。
まるで、留守番の子どもみたいな心細さだった。
そういえば、大学から東京に出ていた私にとって、母とこんなにベッタリ過ごしたのは、成人してから初めてだったんだ……。
実感する。
いつまで経っても私はあの人の娘なんだ。
離れることがこれほど寂しいなんて……。
ホルモンのせいもあるかもしれない。
とにかく、やたら泣けてくる。
すぐにみなみがふぎゃふぎゃと騒ぎだし、私は涙を拭って、みなみの元へ走った。
みなみは日中の居場所、ソファ前のラグを敷いた一角に転がって、手足をバタつかせていた。
「みーなみー」
私が顔を見せると、反射的に唇が尖るみなみ。
完全に私を食糧だと思っていやがるわね。
そうだ、私はみなみの母親なんだから。
泣いてなんかいられない。
頑張らなきゃ!
夕方、日が傾いて来た頃、ようやく私はみなみと買い物に出掛けた。
多少涼しくなってきたとはいえ、まだ8月だ。
今日は安全策、ベビーカーで一番ご近所のスーパーに行ってみる。
ママ友・美保子さんと相談して選んだのは、やっぱり国内メーカーの新作ベビーカー。
タイヤは小さいけど、何より軽い。
しかし、すぐに問題点がわかった。
ベビーカーって、買い物かごが持ちづらいんだ。
うーん、スリングで来ればよかったかな。
いやいや、スリングだって片手を添えなきゃいけないし、かごは持てても、商品を手に取りづらい。
やっぱり準備してある抱っこ紐の出番かな?
こちらも美保子さんと相談して買った、最近のママ御用達の腰ベルト付き抱っこ紐。
でも、あの抱っこ紐、低月齢用の中綿がすごく暑そう。
縦抱きの形で抱っこなので、不安はまだある……。
色々考えて、結局現時点ではベビーカーが一番いいと再判断。
はぁ、大きな買い物はひとりじゃ無理だ。
週末にゼンさんと来ようっと。
私は不便そうに買い物をしながら、今朝のゼンさんの様子を思い出した。
うちの母にお礼を言いながら、彼がワクワクしていたのは、今夜のこと。
「なるべく早く帰る。みなみのお風呂は俺が入れるから」
ゼンさんは、みなみとお風呂に入るのを死ぬほど楽しみにしていた。
この1ヶ月、みなみはビニールのベビーバスで午前中に入浴を済ませていた。
新生児の間は大人と同じお風呂に入れないし、石鹸で洗って流しながらの入浴なので、彼女ひとりの方が効率よかった。
でも、1ヶ月を過ぎたら、お風呂は同じでOK。
ゼンさんはこの日を待ちわびていた。
可愛い愛娘の人生初のお風呂。
これを誰かに譲ったら、死んでも死にきれないだろうな。
私はゼンさんの好物の夏野菜カレーを作ろうと、かごに茄子やトマトを放り込む。
夕飯食べるのが確定なら、彼の好きなもの作ろう。
その夜、ゼンさんは本当に早く帰ってきた。
もしかして、定時直後に席を立ったんじゃ……というくらい。
権限をこんなところで発動させちゃダメじゃん、一色部長。
「ただいま!みなみは?」
「今、寝てるよ。先にごはんにしちゃう?」
ゼンさんは頷きつつも、ウズウズしている。
早く初お風呂したいのね。
待ちきれず、リビングのみなみゴロ寝スペースにすすっと近付き、正座してみなみを見下ろしている。
「可愛いな、みなみは」
「美人っていうか、愛嬌で勝負の子になりそうだよね」
私はようやく板についてきたタメ語で、ゼンさんに話しかける。
「私に似ちゃったかなぁ?」
「おまえに似てたら、可愛いだろ?」
さらっと言ったゼンさんを睨む。
「嘘だ~!ゼンさん、私の顔『惜しい』って言ってたもん。『残念』だって」
「バカ、いつの話してんだ。おまえはフツーに可愛い。惚れた女房に娘が似てたら、嬉しいだろうが」
ゼンさんの言葉はお世辞じゃなくて、本心みたい。
そういう、純粋な気持ちにグラッときちゃう私。
みなみを見下ろすゼンさんの後ろに近づくと、正座してる彼の背中にガバッと抱きついた。
「ゼンさん、好き」
「バカ、飯前に変な気起こすぞ」
そんなことを言いながら、ゼンさんが振り向き、私の頬にキスをした。
あーもう、大好きゼンさん!
この1ヶ月はもうひとつ、大事な意味もある。
私たちのエッチ解禁も産後1ヶ月からなのだ。
たった一回のエッチでみなみを授かってしまった私たちは、できたてカップルくらいこの時をドキドキ待っていた。
「佐波」
ゼンさんの声が甘くなる。
私はゼンさんと向かい合い、視線を絡める。
これからごはんだけど、お風呂だけど……、
なんかイイムード!!