秋の金魚と彼女の方法論
                       


 海岸というのはいつでも、他の場所に比べて酷く寒い。風が強い為だ。
 晩秋のこの時期、なおさらそれは例外ではなく、海に足を投げ出すように堤防の端に座る俺の顔には潮風が吹き付け、不快感を禁じえない。
 そうしたこちらの気持ちにはお構いなしに、隣でぼうっと明後日の方向を見てしまっている柳沢(やなぎさわ)秋花(しゅうか)は、くしゅんと一つ小さなくしゃみをした。
 全く――と呆れてしまう。いったい誰のせいで、こんな事になったと思っているのだろうか。俺も秋花も、ずぶ濡れだった。世の中広しといえども、こんな場所でこんな事をしている高校生は俺達くらいだろう。
 それにしても、『海の中』とは書いてあったが、まさか本当に海に飛び込むとは。
 堤防で飛び込んでくれたのが、まだしも救いだった。これで飛び込んだ場所が崖っ縁だったりしたら、今頃二人とも仲良く水死体だ。
 秋花が俺の方を見て、笑みを漏らした。それを見て、僅かながらに取っておいた怒りの言葉も掻き消されてしまう。彼女の笑顔に癒された――という面白くもなんともない理由からではなく、更に呆れて何かを言う気力も無くなったというだけの話だが。
「ほれ、帰んぞ」
 立ち上がり手を差し出すと、彼女は嬉しそうに立ち上がって、それを握る。
 随分と背丈の違う影がアスファルトに伸び、その先端は帰り道の方向を指している。
 大きく深呼吸すると、胸を潮風のやるせない匂いが満たした。
 秋花は繋いだ手を離そうとする俺の手を更に強く握り、嫌そうな顔をした俺を見て、してやったりといった不敵な笑みを浮かべる。
 その様子を見ながら、こう思わざるをえない。
 しかし何でこいつは――こうも執拗に、しかも不可解な手順を踏んで、自殺未遂を繰り返すのだろうか、と。

     ※

 話は変わるが、確か中学生位の、とにかく大分前の記憶だ。
 級友から俺は、将来結婚するならどんな女性がいいかと聞かれた経験がある。
 その時、自然に自分の口から出てきた言葉を未だに覚えている。
 俺はこう答えた。
「死んでいる女がいい」
 ……別に俺が死体を愛でる異常性欲者だったとか、そういうわけではない。
 単にこう思ったのだ。一緒にいるなら、余計な事を話さない人間がいいと。とかく女は、どうでもいい事をよく喋る。隣にいて疲れる事しきりだ。俺は自分が口下手な事も棚に上げて、そんな小さな頃からわずらわしいものを、掘り下げて言えば周りの人間全てに対して感じていた気がする。
 だがまあ、先述の返答は、考え直すとひどく格好が悪いものだった。ウィットに欠けるし、質問の意図にも沿っていない。第一、女性蔑視の見本のような答えだ。
それでもそれから大分年を取った俺は未だにそんな風に考えているし、結婚なんて面倒な事をするくらいなら死体と一緒に暮らしたほうがマシかな、と不遜に考えていた。
 ああ、そうだ。確かにそんな風に考えて生きてきた。
 死体同様、何も喋らない人間との同居を、余儀なくされるまでは。

     ※

 八月の終わりから、十月の半ばまで。三ヶ月程度の期間、期限付きで柳沢秋花を預かる事になった経緯については、複雑のような単純のような、とにかく説明しにくい事情がある。
 現在彼女は、俺――沢木(さわき)耕介(こうすけ)の血縁でも恋人のような関係だったわけでもないにも関わらず、俺と二人で同居している。
 一言で言えば、隣町に住む秋花の母親の知り合いだった俺の姉が、彼女の世話を俺に押し付けたのだ。
 両親が共働きで忙しかった俺にとって、年の離れた姉は半ば親代わりだった。一年以上前に俺が親から勘当されて以来、俺の中で姉の存在は、より大きなものとなっている。
 姉は地元の国立大学を卒業し、友人と共同で事業を立ち上げ、今のところは成功している。彼女の事を尊敬もしているし、恩義も感じていた。
 しかしどのような経緯があったのか詳しくは知らないが、人様の子供を勝手に預かってしまい、その世話を弟に押し付けるというのは冗談が過ぎると思わざるをえない。
 簡単に事情を説明されたところでは、秋花の母親は姉の年の離れた友人なのだが、夫に既に先立たれたその人に長期の入院が決まった為、その娘である秋花を姉が預かる事になったそうだ。
 それはそれだけ姉に人望があると言う証拠なのかもしれないが、これを世間一般に、安請け合いと言う。
 秋花は最近、母親の件を含めた様々な事情から、三年の前期も半ばで、それまで通っていた高校を中退していた。その為姉は彼女が後期から編入できる環境の高校を探し、そしてそれが俺の通う同じ高校だと知るや否や、一人暮らしをしている俺の元に彼女を送りつけた。
 それはまあいい――いいとしよう。とりあえず。
 しかし電話口で預かる事を渋々了承した俺に、姉貴は更に驚くべき事実を告げたのだ。
 それを聞いて俺は、安易に秋花の世話を請け負う事を約束した姉貴に、心底呆れた。
 柳沢秋花は――生来の自閉症と、それに伴う失声を含む障害を抱えていた。
 そうした障害を持つ人を差別する気はない。しかし何の予備知識もない俺に預けられても、戸惑うのは当然だと思う。
 実際に秋花と接している内に理解できるようになったのだが、彼女は知能程度はむしろ健常者よりは優れているものの、対人関係の能力に関しては、大いに問題のある人物だった。
 例えば秋花は急にこちらの話を無視したり、突発的におかしな行動を取ったり、そうかと思えば突然、無気力にうずくまったりする。それでもまだ、相手とある程度の意思疎通が可能であり、多少は表情も顔に出せるだけ、彼女の障害は随分軽いと言えるらしい。
 しかし何より困った事は、彼女が自分からは全く言葉を発しようとしない事だった。それは彼女が他人との上手な接し方を知らない事の傍証のように、厳然とした事実として存在していた。
 そんな状態でよく今まで生きてこられたものだと、そもそもそうした障害者に対して全く関心を持たずに生活してきた俺は無遠慮に感心した。
 とにかく秋花は、今に至るまでも、一度も俺と声を出して会話した事が無い。発声器官に異常があるわけではなく、姉の弁を信じるならば「話す必要が無いと思っているから話さない」らしい。
 なんだそりゃ――と正直思う。話さないと生きていけないだろ、と、その障害に対して知識の無い俺は思ってしまうのだ。
 しかし彼女には、いわゆる裏技がある。
 簡単な筆談はできるのだ。
 それを知った時、何かに裏切られたような、妙な気持ちになった事を覚えている。話したくないなら話したくないで――いっそ全ての意思疎通を放棄しろよ、と心の中で理不尽な突っ込みを入れてしまったのは、俺の心が狭いせいなのだろうか。
 しかしその筆談すら彼女は気に入ってはいない様子で、いつも小さなメモ帳とペンを携帯しているにも関わらず、どうしても必要な時にしかそれを行うことは無い。要するに、殆ど話ができない事とあまり変わりは無いのだ。
 とにもかくにも――こんなのはお話の取っ掛かりに過ぎない。柳沢秋花が異常な行動を起こしはじめたのは、俺の家から高校に通うようになって、間もない頃だ。

     ※

 その発端は、秋花と暮らし始めて二週間が経過した頃に遡る。
八月も終わりに差し掛かった時期だ。道端の草むらは連日の雨を受けているにもかかわらず、翳る日差しにかつての力強さを無くしていた。思えば蝉の鳴き声もいつの間にか、褪色する晩夏の空気に霧散している。
 俺は一応、まだ高校三年生だが、実家でもアパートでもマンションでもなく、一戸建てに一人で暮らしていた。
 姉貴が知り合いから、半ば道楽で安く買った物件だ。
 しかし姉貴は家を買ったはいいが特に使い道も無く、学校の近場に住居を探していた俺に、それを安く貸し出す事にした。
そうした住居を安価で借りる事ができたのは、学費を含む生活費の殆どを奨学金と、親からの所謂手切れ金で賄っていた俺にとって、幸運な事だった。
 現在では部屋の一つを俺が、もう一つを秋花が使っている。
 隣の部屋から物音がする度に、否応なしに自分が他人と同居している事を思い知らされる。
 相手が男であれば或いは同居生活に、さして頭を悩ませる必要も無かったかもしれない。しかし相手が女となると、さすがに話は別だ。
 期間が学校への通学に一区切りが付くまでの三ヶ月間とはいえ、何となく様々な面で気を遣ってしまう。秋花に対して、女性に対しての例の欲望が沸かなかったのだけが、救いと言えば救いだったかもしれない。
 何というか――秋花は整い過ぎているのだ。背が低いのでスタイルがいいというわけではないが、人形的な綺麗さを持ち合わせている。そうした相手に、劣情は抱きにくい。
 秋花は料理を含め家事が殆どできないので、洗濯物を干す事と、自室の掃除だけをやってもらっている。残りの家事は全て俺がやっている。一人暮らしも半年も続くと流石に色々と慣れてきているし、人が一人増えたからといって大して手間が増えるわけでもない。
 対人関係の能力に問題があるとは言え、秋花は物覚えがいい。突然同居する事になった身としては、それは存外に助かる事だった。入浴も一度シャワー等の使い方を教えたら、次からは問題なく自分でできるようになった。もしも入浴も一緒にしなければならない等と言われたら、俺の方が慌てただろう。
 毎朝七時頃に起床して、朝食を摂る。特に何もない日は各自適当に時間を潰す。俺は受験生なので参考書と向き合っている時間が多いが、秋花は三ブロックほど隣にある公園が気に入ったらしく、そこでぼうっとしている事が多い。以前そこをたまたま通り掛ると、秋花は何を考えているのか幸せそうに、遊ぶ子供達を眺めていた。
 学校がある日は一緒に通学しなくてはならない。勿論、秋花が途中で事故に遭えば、俺の責任問題に発展しかねない為だ。
 しかも秋花は自転車の運転ができないので、二人乗りするしかない。
 この歳になって、彼女でもない女と二人乗りとは。自分で自分を笑ってしまう。しかも俺は私服で、秋花は制服という、奇妙な取り合わせだ。
 しかし笑おうが泣き喚こうが、俺はそれを受け入れるしかなかった。
 何せ、あの姉貴の命令なのだ。
 逆らえない。
 ――ああ、話が逸れた。
 俺達の通っている高校は、月に二週間、一週間おきに通えばいい事になっている。
 それが起こったのは、二人で学校から帰宅し、俺が夕食を作り終わった頃だった。
 俺は料理を皿に盛り付け、大声で秋花を呼んだ。キッチンは居間の中にあり、廊下を挟んだ居間の向かいの部屋が秋花の自室になっている。俺の声が聞こえなかった筈は無い。
 しかし、秋花の返事は無かった。
 寝入ってしまっているのだろうか。俺は秋花の部屋の前に立つと、その扉をノックした。
 秋花の自閉症は軽度のものだが、自室などの個人的な空間に他人が立ち入る事を極端に嫌う傾向があると、姉から伝え聞いていた。それを思い出し何となく背筋が伸びる。
 しかし数回のノックの後も返事は無く、仕方なく俺は、ゆっくりと扉を開けた。
「秋花……?」
 秋花は制服姿のまま、部屋の中ほどで物憂げに佇み、扉を開けた俺に目を向けていた。
 秋口なので、ターコイズグリーンのブラウスの制服の袖は長い。しかしそれは今、左腕だけが軽く捲り上げられていた。
 縛る事もなく。長く下ろされたままの髪。穏やかな瞳が、俺を見詰めている。
 部屋のオレンジ色のカーテンは閉じられ、それが灯り始めた外の街灯の光を透写して、まるで秋花は夕日の中にいるようにも見える。
 そろそろ見慣れてきた筈の彼女の姿に、一瞬息を呑んだ。
 秋花の幼子のような瞳の透明さを――綺麗だ、と思ってしまったのだ。
 そしてそれからやっと、彼女の異常に気が付いた。
 ぽつり、ぽつり。
 彼女の左手首からは、血液が流れ出している。それがフローリングの床に、一滴、また一滴と滴り落ちている。
 右手には――緑色の柄の、カッターナイフ。
「おい――」
 慌てて駆け寄って、秋花からカッターを奪い取った。人形のように表情を無くした秋花が、くらりと揺れる。そのあまりの力の無さに再度動揺して、俺はカッターを放り投げ秋花の腰を支えた。
 秋花はそれから逃れるように、踊るようにくるりと半回転して俺と対峙した。
「何――やってんだよ」
 俺は悪態をついて秋花を睨んだ。手首からの出血は止まったように見える。
「腕、見せてみろ」
 秋花は切った方の手首を、すっと俺に差し出した。その手首からは、血液が形作った二本の線が黒く伸ばされている。
 しかし傷の具合は、部屋が暗いので良く分からない。仕方なく救急箱のある居間へ、秋花を促して移動した。彼女は後ろから、黙々と付いてきた。
 蛍光灯の下で見ると傷は存外に浅かったらしく、既に出血は止まり傷口は黒く凝固を始めていた。救急車を呼ぶ必要は無さそうだ。
 それを確認して、救急箱から消毒液と包帯を取り出す。
「ほれ、もう一回、腕」
 促すと秋花はまた手首を差し出す。手早く処置をして、俺は平然としたままの秋花を睨みつけた。
「何で――こんな事したんだ?」
 学校で何かあったのだろうか。しかし見ている限り、彼女の様子は普通だったと思う。
だとすればやはり……そういう事か。
「まいったな……」
 俺は頭を抱えた。
 今は包帯の巻かれた秋花の手首。部屋の暗がりから居間に出てきた時に気が付いた。
そこには既に薄く、二本の古いリストカットの跡があったのだ。
 時折、自分のストレスを発散させる為に、手首を切る人間がいる。そういう話は聞いている。
 しかしまさか自分が預かった人間が、そうした自傷癖の持ち主だとは思わなかった。
恐らくは母親が入院し、俺や姉貴の元を盥回しにされたストレスが、そうした行為として今また表れてしまったのだろう。頭の片隅がそう、冷静に判断していた。
 取り敢えず秋花を食卓の椅子に座らせ、自分もそれに倣い隣の椅子に座る。一息ついてから、再び頭を抱えた。
 どうするべきか――事情を話して、姉貴に再度引き取ってもらうべきなのかもしれない。しかしすぐに首を横に振る。姉貴の所で預かれないからこそ、こいつは俺の所にいるのだ。
 それに――。
「……まあ、いいか」
 俺は考える事を放棄した。機会があれば、姉貴に事情を話そう。こいつも、そう度々こんな迷惑な事をしでかすわけではないだろう。
「おい、秋花」
 まだ包帯をしげしげと眺めていた秋花が、ゆっくりと俺の方を向いた。
「今度こんな事をしたら、出て行ってもらうからな」
 精一杯不機嫌な顔を作り、俺は念を押した。
 秋花は驚いたように、何度か頷いた。
 だからそれを見た俺は、少しだけ安堵する事ができた。

 結局、その安堵が間違いだったと気付くのは二週間後の事になる。
 つまり秋花を預かってから、一ヵ月程経った頃だ。
 秋花は再度、自殺未遂を起こした。
 また、リストカットだった。

     ※

 傑作――と言ったら良識のある人間には蹴り飛ばされるのかもしれないが、その時の自殺は意表をついたものだった。
 日曜日なので学校は無く、俺は夕方、近所のコンビニまで出掛けることにした。
 一応秋花も誘ったのだが、断られた。その日の秋花はコンディションが悪かったのか、朝からやけに物憂げで、自室から窓の外ばかりを見ていた。
 俺はその姿に何となく「深窓の令嬢」という言葉を思い浮かべたが、思えばこの時、俺は異変の端緒に気付いておくべきだったのだ。
 家に戻ったのは、家を出て一時間ほど経ってからだった。
 家に入って一番初めに目に付く、廊下の棚に置かれた古い固定電話機の隣には、普段メモ帳が備え付けられている。それは要するに、相手からの用件の詳細をメモしておく為の物だ。しかしそれはその時、何故か狭い廊下に落ちていた。
 秋花が落したのだろうか。片手で拾おうとして俺は、息を呑んだ。
 そこには大きく、こう書いてあった。

『手首』

 不器用に書かれたその文字を見た途端、嫌な予感が全身を駆け巡った。血管に毒を流し込まれたような不安感と、床が急に抜けてしまったような浮遊感。腕の力を無くし俺は、コンビニの袋を取り落とした。
 それから、廊下の突き当たりにある秋花の部屋をノックもせずに開く。
 しかし秋花はいない。
 今度はその向かいにある居間のドアに駆け寄り、つんのめるようにして、開けた。
 そこに――彼女は、いた。
 白い肌。手首。物憂い瞳。長い髪。コマ送りのように色々な物が、ばらばらに目に映る。
 そして最後に焦点が合ったのは、また――緑色の、カッターナイフ。
「馬鹿野郎――」
 俺は叫んで秋花の次の行動を牽制した。秋花はその声に驚き、カッターを取り落とした。
 それを見て俺は、一気に肩の力が抜けた。
 今度は手首に、傷は見られない。
 間一髪、間に合ったようだ。
 俺はゆっくりと歩み寄ると、カッターを拾い上げた。そして飛び出ていた銀色の刃を元に戻す。チキチキチキ、という音が、やけに大きく、虚しく聞こえた。
「秋花……」
 俺はもう、怒る気力も無くしていた。端的に言えば、呆れていた。
「お前、ここに居たくないのか?」
 前回こいつが自殺未遂をした時、俺はこいつに、同じような事をしたら追い出すと明言しておいた。それにも関わらず同じような事をしたという事は……そういう事なのかもしれない。
 俺と一緒に、居たくないのかもしれない。
「なあ、あのさ――」
 しかし次の言葉を言い掛けて秋花の顔を見た途端、俺の視界は大きく揺れた。
 腹部に強い圧迫感。
 秋花が抱きついてきたのだ。
「おい――」
 秋花の腕を解こうとして俺は、体を揺する。しかし秋花は離れない。
「腹、痛いぞ……」
 数分抵抗してから俺は観念して、彼女の成すがままにさせた。
 秋花は俺に抱きつきながら、泣いていた。
 こんな時でも声も上げずに、泣いていた。
 ひきつけを起こした子供のような、悲鳴にも似た声未満の音を喉から漏らし続け、泣いていた。
「なんで泣くんだよ……」
 まるで自分が、何か悪い事をしたような罪悪感がある。
 そして同時に――考えた。俺はこいつが何を考えてこんな事をしているのか分からない。どういう事を考えて顔を涙と鼻水まみれにさせて、なおかつそれを俺の服にべったりとくっつけて泣き続けているのかも分からない。
 分からない。
 分かってやれないのは――悪い事なのかもしれない。
だから、罪悪感、だ。
 何なんだよ……と呟き、深呼吸をする。
 こいつの考えている事は、本当に分からない。
 ただ――分かった事もある。
 少なくともこいつは、この場所に居たいのだ。
 だから親に捨てられかけた子供のように、俺に必死になって抱きついてきている。
「ほんと、参ったよ……」
 本当に俺は、参ってしまった。
 秋花は、しばらくして泣き止むと俺から離れた。
 気を取り直した俺は服を着替えて、それから秋花と、今日のニュースを居間のソファーで並んで見た。秋花は特に悪びれた様子はなかった。
 どうもこいつの中には、俺に迷惑を掛けた事に対する罪悪感は、あまり無いようだ。
 それを思うと、さすがに少し腹が立った。
 そして、同時にある事に気が付いた。
 電話帳の横にあった、メモ帳に書かれていた言葉。
 秋花の筆跡による『手首』という文字。
 あれは、どう考えても「今からわたしはリストカットをします」という意思表示だった。
 何故そんなメモを残す必要があるのだろうか。
 わけが分からない。

 ――そして予期せず起こったその不可解な『殺人予告』ならぬ『自殺予告』とも言える自殺前の予告は、相変わらずの不可解さを残したまま、迷惑にも繰り返される事となった。

     ※

 次の日は月曜日という事もあり、学校に通わなければならなかった。
 俺は半年程前から通い始めたこの学校が、嫌いだった。
 正確に言うと、この学校に通う自分が、嫌いだった。
 この学校は、一般的な学校とは多少異なっている。今は詳細を省くが、良い悪いに関わらず、それは間違いない。
 だからこそ秋花のような、対人能力が欠如した特殊な生徒も編入できたのだが。
 俺のいる窓際の席からは、斜め前の席に座る秋花が、良く見える。
 中退した高校の制服を着た秋花は、授業科目である古典の授業の板書を、熱心にノートに書き込んでいた。
 秋花は頭が良い。
 最近少しだけ秋花の症状について知る為に、俺はそうした障害が紹介されている本を何冊か購入した。それ等の本に拠ると、知的能力が平均値以上の自閉症者の割合は、僅か二割に満たないという。語弊があるかもしれないがそういう意味では、彼女は恵まれているのかもしれない。
 しかし秋花は将来、その能力を何に活かそうと思っているのだろうか。彼女は人と話す事ができないのだ。それ以外の対人能力も酷く幼い。どんなに学力があろうと、そうした人間が就ける仕事など限られている気がする。
 それなのに秋花は黙々とノートをとり、何の疑問も心配も持たずに、知識を頭に溜め込んでいるように見える。
 何故だかその姿に、腹が立った。苛々した。
 消しゴムを小さく千切り、教師の見ていない隙に秋花の後頭部に飛ばした。
 ――ヒット。
 秋花が振り返る前に、窓の外に視線を逸らした。俺の仕業とは悟られていないだろう。
 しかし今度は俺の後頭部に、視線が突き刺さるのが分かる。
 うかつにも、ちらっと秋花の方を見てしまう。秋花は俺が狙撃してくる事さえ事前に分かっていたというように、したり顔で大きく一つ頷いた。
 前言撤回。
 悔しいがこいつは、軍隊なんかでは働けるかもしれない。

     ※

 秋花と始めて出会った時の事を思い出す。
 姉貴に連れられて俺の家の最寄駅に降り立った秋花を見た時、初めに目に付いたのは、大きな金魚鉢だった。
 しかも、ちゃんと水と一匹の赤い金魚が入ったままの金魚鉢だった。ぐにゃぐにゃと曲がった縁と、ボールのように丸い水を貯める部分の底面付近が、清涼な薄い青に染められている。古式ゆかしいタイプの金魚鉢だった。
 背の低い秋花は背の高い姉貴の横でそれを、もういっぱいいっぱいといった感じで抱えていた。
 取り敢えず、その金魚が秋花にとって大切な物だという事は、鈍感な俺にも分かった。
 同居を始めてからは結局、鉢は秋花の部屋の窓際に据え置かれる事になった。
 毎日朝食後、秋花は餌を摘み入れた後、じっと十数分間は鉢を眺めている。
 どことなく「水棲」というイメージのある秋花の透明感と金魚鉢は、お似合いだった。
 だから前回に続き三度目の自殺未遂を秋花が起こした時にも――俺が気にしたのは、自身に万一の事があった場合、金魚のその後を秋花はどう考えているのかという事だった。
 今回のそれは、前回の自殺未遂から、さして間もない頃に起こった。
 事件の当日、秋花は思い詰めたような顔をして、どこかへ電話を掛けていた。廊下にある、今どき珍しい固定電話機からだ。秋花も俺も、携帯電話やスマートフォンは持っていない。
 朝から暮れ方まで、何度も、何度も――秋花は電話を掛け続けていた。しかし相手には繋がらないらしく、受話器を取り番号を押しては耳に当て、しばらくしてから置くという動作を繰り返していた。
 夕方頃、秋花はようやく諦めたように、電話機から離れた。
 話す必要がないから話さない――と姉貴は言っていた。だとすれば今回は、余程話をしたい相手に電話を掛けていたのだろう。秋花の肉声を聞いてみたい気持ちから耳をそばだてていた俺は、見事に肩透かしを食らわされた形になる。
 ところで、その固定電話には「リダイヤル」という機能が付いている。
 前回電話した番号に、番号を押さずにワンプッシュで掛け直す事のできる便利な機能だ。比較的新しい俺の家の固定電話機にも、その機能は内蔵されている。
 とにかくワンプッシュで押せてしまうので、うっかり受話器を持ってしまった時に、うっかり押してしまう可能性がある事は、誰しも否定はできないだろう。
 その日の俺がまさにそうだった。うっかり廊下に向かい、うっかり受話器を持ち、うっかりリダイヤルボタンを押してしまった。勿論、全くの偶然である。他意はない。
 僅かな沈黙の後、受話器の向こうで、どこかに繋がりそうな気配があった。その感触に思わず背筋が伸びる。途端にそれでまでの好奇心は息を潜め――繋がったら何も言わず切ってしまおうと、自分の中の臆病な部分が、緊張の中で瞬時に決定していた。
 しかしそれは結局、杞憂に終わった。
「――お客様のお掛けになった番号は、現在お客様の都合により……」
 無感情なその声。俺は受話器を置いた。
 秋花は居間でテレビを見ていた。いや、見ていたというよりも――虚ろに、ただ眺めていた。まるで遠い何かの記憶をなぞっているような、そんな瞳だった。
「秋花」
 呼び掛けると、俺の方を悄然としたまま見遣る。
「あの携帯の着信音はな、料金滞納だぞ」
 親切な俺は、そう教えてあげた。契約会社にも拠るが、相手の携帯電話が解約されていた場合と料金滞納の場合では、自動応答の音声は異なる。一時期携帯電話を持っていた事のある俺は、その事を知っていた。電話料金が払えない――という人は稀だし、その場合は解約する可能性が高いから、電話の相手は恐らく料金をコンビニ払いにし、それを払い忘れているか、事情があり払えない状態にあるのだろう。
 漠然としたその推理を、秋花に披露した。
 しかし秋花は特に納得した様子も感謝した様子もなく、一つ頷いただけだった。そしてそのまま無表情になると俺の前を通り、自室に引き篭もってしまった。
 俺は少しだけ面白くない気分だったが、まあ仕方ないと思い、夕食の準備を始めた。
しばらくして料理が出来あがり、秋花を呼んだ。
「おい秋花。スパゲティーっぽいものができたぞ」
 しかし返事はない。俺は居間を出て、再び秋花を呼ぼうとした時点で、外れたままの受話器と、その隣のメモ帳に書かれた文字に気付いた。

 『首』

 多分俺は、勘が鋭くなってきている。前回ほどの焦りも感じずに、手早く秋花の部屋が無人である事を確認すると、真っ直ぐに早足で縁側に向かった。
 秋花の部屋の向かいが廊下を挟んで居間だとすれば、俺の部屋の向かいは、誰も使っていないデッドスペースになっている。雨戸を開けると、そこには縁側がある。夕涼みの時期も既に終わっていたので最近は使っていなかったが、幸いにも採光の為に雨戸は開けたままで、普通のガラス窓を開けるだけで外に出られる状態になっていた。
 刈り取られずそのままになっていた雑草の中、庭の中程には一本、大きな松の木が聳えている。前の住人が植えたものらしいが、姉貴が家を買い取った後も抜き取る事無く、そのままになっていた。
 秋花はその枝の特に太い一本に、ビニールロープをくくり付けていた。ぐいぐいと何度か引っ張り、強度を確かめている。
 足元には、どこから見付けてきたのか、錆ついた脚立らしきもの。
 それはどう考えても、首吊りの道具一式だった。
 秋花は用意を終えると、窓越しに自分を見遣る俺の姿を認めた。
 空からもたらされる茜色に降り込められて、ガラス越しに俺を見詰める秋花は、どこか遠くの人のようにも見える。秋花の中に閉じ込められた虚ろな感情が、俺に向けて別れの為に緩やかに手を振っているような、そんな心地さえした。
 しかし感傷に浸っている場合でもなく、俺はガラス窓を開けて、裸足のまま庭に飛び出した。秋花がロープに首を入れ脚立を蹴るのと同時だった。
 脚立の高さが低かった事と、背の低い秋花が紐をくくりつけた枝の高さも低かった事が幸いした。俺は後ろから、秋花を両腕で抱え込み、紐が彼女の首に食い込まないように持ち上げた。
「ぐお――」
 この位置からだと、秋花の臀部――現代語訳で尻が俺の頬に当たる。秋花の穿いた白のジャンパースカートは案外と薄く、その丸まった形が良く分かる。
 しかし勿論、全く嬉しくない。断じて嬉しくない。第一そんな状況ではない。
 秋花を全力で持ち上げる。たわんだロープの輪から秋花の首が抜けたところで素早く後ろに引き、俺は地面に背中から、秋花と一緒に倒れこんだ。片腕が反射的に伸び、秋花の頭を抱えていた。直後背中に、鈍痛が走る。
 もっとも痛みを覚えたのは俺だけで、俺の体をクッションにした秋花は腹立たしい事に、取り敢えず無傷だったようだ。
 倒れたまま、俺達は二人で少しの間、真上に広がる、暮れる夕空を眺める事になった。
 背中から伝わる硬い感触に、久し振りに土の匂いを間近で嗅いだと、俺は思った。それは乾いた血の匂いに少しだけ似ているような気がした。
 秋花の身体をゆっくりとどかし、起き上がる。
 自殺を阻止できた事に対する安堵感と、それにしては大して沸いてこない達成感が、同時にあった。間の抜けた感覚だと我ながら思った。身体の脇を流れる風が、やけに気持ち良い。
 それから不意に、思い出した。秋花が電話を掛けていた相手についてだ。何故今頃になって思い出したのだろう。秋花が僅かながらにでも肉声で話す事のできる相手は一人だけだと、俺は姉貴から聞いていた筈だ。
 秋花が電話しようとしていたのは――自分の、母親だ。
 秋花はいつの間にか縁側に腰掛け、惚けた顔のまま空を見ている。その表情は全ての力が抜けきってしまった人間の、それに見えた。瞳に光は無く、それが彼女の整った造型を、景色の中でより人形的に映し出している。
 つられて見上げた夕暮れの茜は、既に水底のような群青に侵食されつつあった。だから俺は同じような色をした、目の前の馬鹿が所有している金魚鉢の事を思い出す。
「お前、死んだら金魚……どうすんだよ」
 俺は万一の事があっても自分は面倒を見ない事を、暗に匂わせつつ言った。
 しかし秋花は無表情のまま、俺の方を見ようともしなかった。
 仕方なく縁側に座る秋花の手を掴み強引に立ち上がらせると、並んで玄関へと向かう。
「金魚もきっと、お前が死んだら悲しむぞ」
 ふらつき俯きながら付いてくる秋花に、ついでにそんな胡散臭い台詞を吐いてみた。しかし先に玄関に辿り着いた秋花は、くるりと振り返りメモ帳を取り出し、ペンを滑らせて俺に突きつけた。
 酷く寂しそうな、諦めたような表情が、その後ろで揺れていた。

『わたしが死んでも、だれも悲しまないよ』

     ※

 キュルキュルキュル。自転車の車輪が回る。辺りの景色も回ってゆく。
 俺の住む田舎町……よりは少し上等な程度の地方都市の真中には、大きな川が一つ流れている。その両側に設置された、無駄に税金を使用したらしい立派過ぎる遊歩道の片側を、俺は秋花を後ろに乗せて走っていた。
 周囲に生える夏の名残のような青草には既に生気は無く、季節は既にその手で、秋を掴み取っていた。
 学校の帰りだった。時刻は午後二時。俺達の学校は、終わるのが普通の学校よりも少しだけ早い。
 だがその分、出される課題は多い。今日も古文のプリントをしこたま渡されて、俺は少しだけ落ち込んでいた。ちらりと後ろを見ると秋花は涼しい顔で、所謂女の子座りをしたまま、緩やかな風を頬に受けていた。長い髪が、僅かになびいている。
 全く、たまには運転を代わって欲しいものだ。
 昨日の自殺未遂の件は結局、うやむやのまま収束を迎えてしまった。
 普通に夕食をとり、互いに普通に自室に戻り、次の日に備え通学の準備をして、寝た。
 そして次の朝目覚ましの音に叩き起こされ、俺と秋花はいつも通りの日常を繰り始めた。
 つくづく、習慣とは恐ろしいものだと思う。俺は、秋花が自殺未遂を繰り返す事に、慣れ始めている。日常の一部のように感じ始めている。そろそろ何か、本格的な対策を練らなければまずいというのに。
 秋花が自殺未遂の前に『自殺予告』をメモ帳に残す理由に関しても、未だに謎のままだ。それも多分、今のうちに問い質しておいた方が良いのだろう。
 しかし後ろに座って遠くの景色を眺めている秋花には何を言っても通じないような、そんな気がしていた。
 こいつはこんな状態で、将来どうやって生きていくのだろうか。
 俺は、秋花の抱える障害について、詳しくはない。症状はもう一ヶ月以上も同居しているので多少は理解しているつもりだが、そうした障害を抱えた人間が人並みに生活していくことは、多分障害の無い人よりは、難しいのだろう。
 そして一番の問題は、俺の後ろで完全にお荷物になっている迷惑な居候が、そうした自分の未来について全く頓着していないように見える事だと思う。第一自殺未遂を起こすという事は――自分の前にある道を自ら絶とうとしているという事に、他ならない。
 俺はそれを思い、何となく精神的な疲労を感じて、嘆息してしまう。
「なあ、秋花……お前、そんなんで大丈夫なのか?」
 だから思わず俺は、愚痴るように漏らしていた。秋花は、「ん?」というように、俺の方に顔を向けた。
「俺のさ……兄貴は、俺には兄貴がいるんだけどさ、昔、凄い奴だったよ。有名高校に進学して、その高校でも二年くらいまでは、勉強も常に学年でトップクラスで……」
 ペダルを漕ぐ足に力が入った。何となく、この話はしない方が良かったのかもしれないと思った。しかし今更、流れを止める事は難しい。
「でも結局、壊れちまったよ。二年の後半から成績が落ち始めると、親がパニックになって、それが余計プレッシャーになって……気付いたら重度の鬱病になっていて、ストレスで検査と入院が続いて……高校も中退して、親からは見離されて、まあ、そんな人生だ」
 ちらりと後ろを向くと、秋花は神妙な顔をして聞いていた。なかなか笑える話だろ。目線を前方に戻しながら俺は、そう言ってみる。
「……だからまあ、人生にはそんな、単純な落とし穴が、山ほど掘ってあるんだよ。だからお前も変な事している場合じゃなくて……少し真面目に生きろよ。人に迷惑掛けないように……」
 そこで俺は気付いた。数秒前から、やけに快適に自転車が進む。
 ブレーキを掛ける。振り返ると、秋花がいなかった。更にその後ろを見遣ると、髪の長い女が道路に突っ伏して伸びていた。
 落ちていやがった。
 せっかく俺が、シリアスな話をしてやっていたというのに。

     ※

 暮らし始めて、一ヶ月半が経過しようかという、九月の中旬の事だ。既に初秋の風はあの生温い夏の空気を払い、涼しげな風が辺りを席巻していた。
 正午も間近のその時間、俺が居間でテレビを見ていると、秋花の部屋のドアがゆっくりと開くのが見えた。
 本当に、ゆっくりと。
 その隙間から、秋花の頭が辺りを窺うように出てくる。
 俺は気付かない振りをした。何となく、その方がいいような気がしたからだ。
 秋花は満足したように、そのまま音を殺して滑るように玄関に向かった。
 しかし玄関の扉というものは大抵厚いので、なかなか開閉の音は殺せない。ガタン、と一つ大きな音がして、扉が閉まったことが分かる。
 当然俺は立ち上がり、後をつける事にした。
 無論、保護者故の責任感からである。そこには微塵の好奇心も含まれないという事を、是非了解しておいて欲しい。
 大抵の場合、秋花は出掛ける時には俺に断ってから出て行く。
 近所の公園に一時間程度出掛ける時ですら、自室か居間に居る俺に行き先のメモを見せて、一礼してから外出するのだ。
 それが居候なりの礼儀だと思っているのだろう。俺も秋花のそういうところは、しっかりしているなと感心していた。
 しかし今回は、それが無かった。どうにも嫌な予感がする。
 電話帳の隣のメモ帳には、今回は何も書かれていなかった。だから、そうした心配はないと思うが、まあ、念の為だ。
 俺は靴を履いて玄関を出ると、すぐ先に見える角を曲がろうとしている秋花の後ろを追った。
 秋花は真っ直ぐ電車の駅に向かった。かさこそ後ろから付いていく自分の姿を、客観的に眺めてみる。
 ああ……まずいな。
 どう考えてもストーカーだ。
 自分を高潔な人間だと思っていた俺は、少しだけ落ち込んだ。
 無事に駅の中に入れた秋花は、しかし券売機の前でメモを片手にきょろきょろしている。
 どうやら、十七歳にもなって電車の乗り方も分からないらしい。どこの箱入り娘だお前は、と心の中で突っ込みを入れる。
 やきもきしていると、秋花の隣にいたお婆さんがメモを覗きこんで代わりに券を買ってあげていた。普通は逆だろうと思いながらも、俺も胸を撫で下ろす。
 もしも子供を持ったら、こんな感じなのだろうか。妙に微笑ましくなっている自分に気付いて、一瞬愕然とした。俺はまだまだ若いつもりなのだが……もしかして、内面は老け込んできているのかもしれない。
 取り敢えず一番遠い駅までの券を買って、俺は秋花の後に続きホームに入った。
 秋花には気付かれない位置で、柱に隠れながら様子を窺う。幸い、そこそこ人通りが多いおかげで、俺の追跡は気付かれていないようだった。
 やがて来た車両に、秋花は乗り込む。俺も隣の車両に、素知らぬ顔で乗り込んだ。
 電車は駅を四つほど通り過ぎ、秋花は駅の柱に書かれた駅名とメモ帳を見比べて、辺りを見回しながら恐る恐るといった感じで電車から降りた。俺もそれに続く。
 駅を出てからは……ずっと歩きだった。
 初秋の涼しさに、思わず感謝した。これがもしも真夏の陽気だったら、とっくに俺は追跡を諦めていただろう。
眼前に広がるのは、俺と秋花の住んでいる町よりも更に田舎の地域だった。
 三十分程も歩いただろうか。秋花はようやく立ち止まった。彼女の目の前には白く大きな、立派な建物が存在し、ふらつく彼女を威圧しているような印象さえ受ける。
 広大な敷地を持つその建物の前には芝生が敷き詰められ、数人の子供が遊んでいた。その様子を、ベンチに座った老人が二人、眺めている。
 その建物の屋上から立てられた看板には、『心療内科』の四文字が並んでいる。
 ああ……そういう事か。
 俺は納得した。秋花がここに来た理由も理解する事が出来た。
 正直なところ、分かりたくはなかった。認めたくはないが、迷惑な居候でしかない秋花を一瞬、可哀想だと思ってしまったからだ。
 この病院には恐らく、重度の鬱病になった秋花の母親が、入院しているのだ。
 確か秋花の母親は、他人と面会などできない筈だ。特に、秋花とは。
 秋花の母親は夫の死後、満足に休みも取らずに仕事を続け、心労を溜めてしまった。疲れ果てた彼女は神経を病み、入院する事になったという。
 最近姉から電話で聞いた話では、鬱状態の秋花の母親は、最後には秋花にも酷い罵声を浴びせはじめたらしい。見るに見かねた姉貴が精神科への検診と入院を勧め、一時的に秋花を預かる事を決断したのだそうだ。
 とにかく今は、例え家族であろうと、秋花が面会を申し出ても、医師か看護師に優しく諭されて帰らされる可能性が高い。
 俺は中までは入らず、門柱の前で秋花を待つ事に決めた。酷く喉が渇いていたので、近くにあった自動販売機でコーラを買って、ちびりちびりと飲みながら、門の前で秋花が出てくるのを待った。
 秋花がようやく出てきたのは、コーラが三分の一まで減ってしまった頃だった。
 やけに重い足取りでこっちに向かってくる様子から、俺は自分の予想が正しかった事を知った。
「よう」
 コーラの缶を持った方の手を、努めてさり気なく上げてみる。秋花は驚いたような、困ったような顔をして、それでも俺に片手を挙げて見せた。
 よく見ると秋花は汗だくで、前髪が額に張り付いていた。院内で相当粘ったのだろう。表情にも疲れが見えていた。
 秋花はそれからメモ帳を取り出し、『つけてたの?』と切り出した。
 責めているような顔つきではなく真実意外そうな表情だったので、逆に罪悪感を覚えた。
「ああ……なんていうか、また自殺されると困るからな。何となく後ろから付いていっただけだ」
 言い訳にもならない言い訳だった。
 秋花は『別にいいよ』と書いて寄越す。
「親とは、会えたのか?」
 何となく気まずい雰囲気の中、俺はそう問い掛ける。秋花は首を横に振った。会う事はできなかったという、意思表示だった。それからまた、メモ帳に文字を走らせる。
『わたしのせい?』
 母親の病気の事を言っているのだろう。
「……知らねぇよ」
 俺はそう答えた。
 実際には、母親が入院した原因は、彼女にもあるのだろう。残酷だが、それが現実だ。
『わたしのせい』
 そして秋花は、今度は疑問符の無い言葉をメモ帳に書く。
「だから……」
 苛立ちを綯い交ぜに答えようとした俺を遮るように、秋花は素早くメモ帳にペンを走らせる。
『おとうさん』
 胸につかえている何かを、すっと抜き取られたように――俺は沈黙した。秋花の父親が一年程前に亡くなっている事――そしてその理由も、俺は姉から聞かされていた。
 過労死だったそうだ。
 今時過労死なんてものが存在するという事自体が、俺にとっては意外だった。何だか随分前にその問題がニュースで流れて……それからぱったりと、その話題は世間から消え失せていた気がする。
 しかし良く考えれば、仕事のし過ぎで体を壊して倒れる人間など、いつの時代にも存在するのだろう。ましてや秋花の父親には、正しい表現を心掛けるならば自閉症と失声を抱えた娘がいたのだ。彼女の父親は秋花の将来の事も考えて、頑張ったのかもしれない。頑張り過ぎたのかもしれない。
 もしもそうではなくても、単に仕事が好きで疲れが溜り倒れたのだとしても……それでも秋花は思ってしまうのだろう。
 自分のせいだと。
 そして、その死のショックから、母親も神経を病んだのだろうと。
 色々な事に鈍感で、毎日ぼうっと過ごしているくせに、秋花は嫌になるくらい、そうした細かい事を気にしてしまうのだ。短い付き合いだが、こいつのそういうところだけは分かっているつもりだった。
 だから今、隣に居る秋花の顔は曇り、視線は虚ろだった。
「……今は色々考えても仕方ないだろ」
 それを見て、俺はそう呟く。
 慰めるような言葉が自分の口から出た事が、自分自身、少し意外だった。
 それからコーラの缶を秋花に渡す。俺なりの「お疲れ様」の意味だったが、一口含むなり秋花は「ぬるい」という表情をした。
 まあ、一時間近く手に持っていたのだから、ぬるくなっていて当然だ。炭酸も殆ど抜けてしまっている。
 迷惑な居候に予期せず嫌がらせができて、俺は少しだけ気分が良くなった。
「ほれほれ、行くぞ」
 俺は先に立って歩き出す。
 ちらりと後ろを見ると、秋花は何故か、嬉しそうな顔をして後を付いてきていた。
 おいおい……何を楽しそうにしているんだお前は。
 今病院で、現実と対面してきたんだろ?
 柳沢秋花。
 お前は――親に見捨てられたんだぞ。
 嫌な性格の俺は、途端にそんな嗜虐的な事を考えてしまう。
 それでも俺は、そんな気分の裏側で、秋花が笑みを見せた事について安堵している自分がいる事にも気付いていた。
 見上げれば、午後三時半の青空。ああ、そうだな。伸びをしながら、隣に居る馬鹿に告げる。
「今日は絶好の、ストーカー日和だったよ」

     ※

 俺が図らずしもストーカーに転身したあの事件から、一週間が経過したある日の事だ。
 九月も終わりに差し掛かり、目に付く広葉樹はその色を、橙と紅に染め始めている。
 次の事件は、そんな時期に起こった。
 秋花の親友の、死によって。
 秋花が目覚めると、金魚が腹を背に、水の上に浮いていたのだ。
 土曜日の朝の事だった。いくら呼んでも返事をしない秋花の様子を見に俺が部屋に入った時、秋花は身動きもせずに、金魚鉢の中に突然訪れた「死の形」を静かに見ていた。
 目の前で呆然としている秋花を見て、その金魚が彼女にとって大切な存在だったと理解しているにも関わらず、俺は自分の中に白けた気分が沸き起こっている事を感じていた。
 たかが、金魚じゃないか。俺はそう思ったのだ。これが犬や猫なら、俺はもっと同情しただろう。それらの動物は、少なくとも人間と意思疎通の真似事くらいはできるからだ。
 しかし金魚には、そんな芸さえない。単に口をパクパクさせて泳ぐだけだ。だから、金魚が死んだ程度でここまで落ち込む人間はおかしい。そう思った。
 多分俺は、冷たい人間なのだろう。
「早く埋めろ。そして、忘れろ」
 棒読みの口調で、俺はそう言った。
 しかし秋花は無反応だった。金魚鉢の前で、じっと座り込んだまま、なおも動こうとはしなかった。感傷に浸っているようにも見える秋花に、正直なところ苛立ちを覚えた。
 俺は溜息をつく。
 けれどもそれ以上何も言えなくなった。
 とにかく秋花の大切なものが、また、彼女の目の前から唐突にいなくなってしまったという事は分かった。
 過労死した父親。会う事のできない母親。死骸になった金魚。
 秋花は幾つもの大切なものを失い続けている。
 そこに、世界の残酷さを思った。
 目の前には、長い秋花の髪。縁と底が青く塗られた金魚鉢。白い腹を浮かばせた金魚。
 ゆらり、ゆらり。開いた窓から流れ込む風が、オレンジ色のカーテンを揺らす。同時に部屋の空気も、俺の感情も、不条理な世界も、全てが綯い交ぜになったまま静かに、朝のくすんだ匂いの中を、揺すられる。
 掛ける言葉も見つからないまま俺は、秋花の背中を見ていた。

     ※

 そうして迎えた次の日。ようやく話は、始めの場面に行き着く。
 要するに、次に秋花が選んだ自殺方法は、入水だったのだ。
 電話の横のメモ帳には、こう書かれる事になった。

『海の中』

 その日は日曜日だったので、お互いに朝食は遅い時間にとった。
 朝食を食べながら見た秋花は、少なくとも外見上は、落ち着いた雰囲気を取り戻しているように見えた。夜に金魚埋めるのは暗くて大変だっただろ、と聞くと、秋花は少し驚いたように俺の方を見て頷いた。
 昨日の夜中、秋花が部屋を出て玄関へ向かう音に、俺は起こされた。眠気が残っていたせいもあり、後を追うかどうか少しの間迷った後、俺は目を擦りながら取り敢えず廊下に出た。
 電話の横の、メモ帳を見る為だ。
 しかし既に何枚かを破り取られ薄くなってきたメモ帳には、今回は何も書き込まれてはいなかった。胸を撫で下ろす。どうやら今回は、自殺する気は無いらしい。
 それから視線を玄関に落とし、秋花の行動の意味を悟った。
 そこには金魚鉢が置かれていた。玄関のガラス窓から漏れる街灯の光の中で、青く澄んだ水が静かに揺れていた。その中に、金魚の死骸はない。
 薄い壁を通し、庭の方から、かすかな物音がする。
 秋花は死んだ金魚の墓を作っているのだ。
 それを確認した俺は、今回の出来事には取り敢えず秋花の中では区切りがついたのだと納得し、自室に戻った。そしてそれからは、夢も見ずに眠りについた。
 秋花は、そうして夜中、俺に観察されていた事を知らない。驚いたように向けられる視線が面白かった。だから俺は、にやっと意地悪く笑って見せ、「全てお見通し」の表情を作ってやった。
 秋花は俺に向かって、案外怒った表情をするかもしれないと思った。机を握り拳で一発叩いてもおかしくない。こいつは意外に、そういう子供っぽいところもある奴なのだ。
 ――しかし、秋花は無反応だった。
 束の間浮かばせた、驚いたような表情すら急に消え去り、そのまま空になった皿を持ち上げ立ち上がると、淡々とそれを流し台に置き、俺の顔も見ずに自室に戻ってしまった。
 一人取り残された俺は、少しの間悩んだ。もしかすると、秋花を怒らせてしまったのかもしれない。食事を一旦中止し、居間から音を殺し忍び出て、秋花の部屋の前に立った。
 薄く開けてあったドアから中を見ると、秋花は本を読んでいた。
 俺は取り敢えず秋花が変な事を起こす気はないと判断し、安心した。そしてそれから居間に戻るとソファーで、うたた寝をしてしまった。昨日夜中に起きてしまったせいか、予想以上に良く寝る事ができた。
 だから起きた時には、時刻は既に昼の一時を過ぎていた。
 目覚めた時から、予感はあった。何かに手酷く裏切られたような、欠落感。
 虫の知らせというか、嫌な予感というものは、確かに存在する。そしてそれは良く言われるように、大抵の場合、当たるのだ。
 俺は起き上がると同時にそのままメモ帳のある廊下に直行した。そしてそこに書いてある文字と、大きく開いたままの秋花の部屋のドアを確認し、愕然とした。
「冗談だろ……」
 確認するように、秋花の部屋を覗き込む。
 迷惑な居候の姿は見えなかった。
 そして代わりに、有ってはならないものがあった。有ってはならないものが、窓際の金魚鉢の中で揺れていた
 それは昨日の深夜に秋花が埋めた筈の、金魚の死骸だった。白く腹を浮かせたその身体には、僅かに泥の付着した跡がある。水底にも薄く、もやのように土が積もっている。その事実が、全てを象徴していた。
 秋花は一旦死骸を埋めた後、それを掘り起こし――そして再度、金魚鉢に金魚の死骸を戻してしまったのだ。
 それは秋花が金魚の死を乗り越える事ができなかったという事実を、如実に示していた。
 俺は無言のまま玄関に向かい、Tシャツとジーンズという軽装のまま、靴を履いて海の方向に駆け出した。
 家から海までの距離は、それなりに近い。最短で、歩いて四十分程度で辿りつく事ができる。走れば二十五分といったところだろう。
 二週間程前、散歩のついでに一度、秋花とも立ち寄った事がある。恐らく秋花の向かったのは、あの場所で間違いない。
 とにかく何も考えないまま、俺は走った。息が上がり脳内麻薬が分泌され、肺には程よく冷えた空気が忍び込み、思ったよりも気分は悪くない。それが逆に、酷く癪に触った。
 ――そして案の定、秋花はそこにいた。
 埠頭の先に一人で立ち、いつも自殺の前に見せる、酷く穏やかな、透明な視線を、汗だくのまま息を切らし膝に手をついた俺に向けていた。
 強い海風を受けて、長い黒髪が揺られる。その後ろに広がる海原には、流れ着いた発泡スチロールの欠片や流木が揺れていて、お世辞にも綺麗とは言い難い。
 そして空だけは、残酷なほどに鮮やかな午後の藍色に染められている。
 そんな風景の中、秋花は一時、目を細める。まるで世界の全てに「ばいばい」と別れを告げているような、そんな儚い仕草。
 そして――飛び込んだ。
 俺も続けて飛び込んだ。
 何かを思い切り叫びながら。

     ※

 ……結局。
 助けられた後、得意げに俺と手を繋いだ秋花は、疲れた為だろう、やがて歩きながら眠そうに、こっくりこっくりと、舟を漕ぎ始めた。
 そしてそれから唐突に、それに抗うように俺から手を離すと、眠気を払うように首を強く振り、海水でぐしゃぐしゃになったメモ帳と、同じく濡れそぼったペンを取り出す。そしてそのメモ帳に無理やり文字を書き込むと、俺の前に突き出した。
 そこには、へなへなになった文字で『ありがとう』と書かれていた。何の事か分からず混乱した俺は、数秒経ってからやっと、それが「助けてくれてありがとう」という意味なのだと気付く。
「……なら初めから、自殺しようなんて思うなよ」
 俺は呆れたまま呟いた。秋花はいつも見せるような悪戯っぽい笑顔を浮かべると――そのまま目を閉じて、くらりと後ろに倒れた。
「――っつ、おい」
 慌てて支えた俺の腕の中で秋花はうなされるように数回首を振り、それから軽い寝息を立て始めた。文字を書くことで最後の力を使い果たし、寝入ってしまったようだ。
「ほんとこいつ、どうしようもないな……」
 ぼやく俺は仕方なく、秋花を背負う事になった。
 まるで親子だ。
 女だろうが幼児体型だろうが、人間一人というのはそれなりに重い。おまけに俺も、相当に疲れている。服も当然乾燥しておらず、肌に張り付いた生ぬるい感触と纏わりつく潮の匂いが、気持ち悪い。
 歩みを続ける足元で、海水を含んだ靴が、べちゃべちゃと間の抜けた音を立てていた。
「やれやれ……」
 秋花に対して感じていた呆れ果てた気持ちは、いつしか自分に対するそれに変換されていた。
 自分はいったい、何をやっているのだろう。思わず溜息が漏れる。
 背中にある重み。心地良さそうに聞こえてくる寝息。その両方を手放しても、俺は大して困らない筈だ。
 確かに俺は、姉貴からこいつを預けられた。監督責任も無いわけではない。しかし秋花も、もう十七歳なのだ。障害はあるが、幼児ではない。何度も自殺未遂を起こしているのだから、その全てを防ぎきれなくても、誰も俺を強く責める事はできないだろう。
 それなのに俺は、何度も何度もこいつを助け続けている。
 俺は再度嘆息した。それから沈黙して立ち止まり、視線を移ろわせた。
 気持ちが落ち着いてきた為だろうか。周りの景色が、やけにはっきりと目に映った。
 ポスターの剥がれかけた電柱。目の前に長く続くアスファルトの道路。どこかで子供達の上げる歓声。漂い始めた、秋の澄んだ匂い。そこにはもうどこにも、むせ返るように濃い草いきれの気配や、全ての生物と無生物を等しく蹂躙した、真夏の日差しの暑苦しさは存在しない。
 ただ上空に広がる、高い高い、茜色の秋の空。
 視覚が、嗅覚が、聴覚が――知覚の全てが急に研ぎ澄まされたような、そんな空気に自分が置かれている事を、俺は感じていた。肩の力が緩やかに抜けてゆく。心が穏やかに、周りの全てに溶け込んでいく。ああ、こんな気持ちになったのは、いつ以来だろうか――。
 感動的な映画のラストシーンを見た時にも似た、全てを俯瞰してしまえるような透明な開放感。
 ――しかしそんな気分を感じていられたのも、僅かな時間だった。
 俺はそんな空気の中、唐突に、本当に唐突に、気付かされてしまったのだ。
 他ならぬ、自分が秋花を見捨てない理由について。
 それを自覚すると同時に、胸に吸い込んだ気持ちのいい空気は、腹の底から込み上げてきた、黒々とした感情に変換された。
 ……だから俺は思いついてしまったその結論と、それにまとわりつく自分の感情を、強く頭を振って心の中から追い出した。
 俺にとってその感情は、要らないものだった。そんな甘ったるい感情は、不必要なものだった。
 少し前まで感じていた清涼感とは違う、酷く苛々した気分になっている自分に気付かされる。自分の中に生まれた様々な感情をごまかすためにも、俺は足早で歩き出した。
 秋花は夢でも見ているのだろうか。何かを呟きながら、猫のように俺の背中に自分の額をこすりつけていた。その仕草も何故だか急に、酷く不愉快なものとして感じられた。
 
 ――そして俺に、俺を勘当した親から六ヶ月振りに電話が来たのは、その晩の事だった。

     ※

 次の日は、朝から最悪の気分だった。
 まず、目覚ましをセットするのを忘れた為に、起きると既に始業時間は目前だった。普段、秋花は俺が起こしているので、こうなると二人とも遅刻を余儀なくされる。
 おまけに朝食を抜いて外に出ると――自転車の後輪が、パンクしていた。
 子供のような性格の秋花は逆に、俺の苛々した気持ちを敏感に察したようだった。
 軽く舌打ちをした俺の隣で、おどおどと通学鞄を両手で前に持ち、佇んでいる。
 その仕草も妙に、気に障った。
「歩きだな。遅刻だ」
 俺はそう言って自分の鞄を持つと、秋花を置いて、さっさと一人で歩き出した。
 昨日の、母親からの電話を思い出す。俺をなじり続ける、あの言葉。あんたはもう、どうしようもないんだから――。
 ああ、そうなのかもな。それでも俺はこれから、そのどうしようもない人間のまま、学校に通学しなければならない。
 息苦しさを感じた。自分に対するやるせなさと情けなさが、同時にあった。
 空は曇天で、下界に存在する全てを静かに否定しているようだった。
 まるで今の、俺の心のように。
 ――不意に。
 右の手首を掴まれた。秋花が俺の手首を掴んでいた。
 乱暴に振りほどこうとしたが、なおも力を入れて、秋花は俺の手首を掴んでいた。
 途端に俺は、頭に血が上った。
 自分の事だけでも精一杯なのに、俺は何故こんな奴の面倒を見ないとならないのだろうか。
 こいつなんて――どこかに、いなくなればいいのに。
 そう思った矢先。
 秋花はゆっくりと、優しく、俺の右手首を親指の腹でなぞった。
 俺の右手首にある傷跡を――なぞった。
 すっ、と――その傷跡から何かを抜き取られるような、喪失感があった。それは多分、安心感に似ていた。続いて押し寄せたのは羞恥と、それに伴う怒りが綯い交ぜになった、燃え上がるような激しい感情だった。
 そんな筈はないと思っていた。秋花は自分の事も満足に処理できない、ただの子供だと思っていた。俺はこいつの保護者であり、秋花は俺にすがる事しかできない、情けない人間だと思っていた。
 しかし俺は、俺が一番気付かれたくない部分を、既に秋花に悟られている事を理解してしまった。
 傷跡をなぞり続ける、秋花の細い指。「大丈夫だよ」と慰めるような、優しいその仕草。
 その両方が、俺の中にある弱々しい部分を、秋花が理解し、心配しているという証拠として存在していた。
 しかし秋花から俺の中に注ぎ込まれるその温かい感情は、見る間に不快感へと変わる。
「――触るなよ」
 だから俺はそう言って、身を寄せていた彼女を、軽く突き放した。
 拒絶された秋花は驚いたように両目を開けて――それから風に揺すられるように、ゆらりと後退りした。交差点の角の方へ力無く数歩、後退した。
 ――それからの出来事は、一瞬だった。
 ぶうん――と空気が、世界全体が、大きく揺すられたような気がした。
 飛び出してきた、白く大きな影。耳を劈くような自動車の急ブレーキの音。
 その後に続く、嫌になるくらい現実的な、何かが地面に叩きつけられる、鈍い音。
 いや、何かではなく――叩きつけられたのは紛れも無く、

 秋花だった。

     ※

 それからの事は、良く覚えていない。
 気付くと俺は病院の集中治療室の前の長椅子に、両手を握り締めたまま座っていた。
 隣には仕事先から連絡を受けて飛んできた姉貴がスーツ姿のまま、無言で座っている。
 秋花が乗用車に跳ねられた一瞬。その一瞬を、酷く長く感じた事を覚えている。まるで死の淵に立った人間が、それまでの人生の全てを、スローモーションで振り返るように。
 その中で、俺は秋花に謝っていた。事故の原因を作った事に対してではなく、何故だか全く違う事について、必死に謝っていた。
 それはいつか自転車に二人乗りした放課後の川原で、秋花に話して聞かせた逸話についてだ。
 俺の兄貴についての話。
 不器用で無様な兄の話。
 しかし実際には――俺には兄など存在しないのだ。
 俺はあの時秋花に、嘘をついていた。
 そうして嘘をついた事に対して、俺は何故だか必死に謝っていた。
 人生のレールから脱落した男。
 ストレスを抱え込んで高校を中退し、入院までした不器用な馬鹿。
 あのみじめな話は全部、そっくりそのまま――数年前の、俺自身の過去だ。
 だからこそ俺は二十歳になった今、月に二週間だけ通えば良い――語弊を恐れずに言えばドロップアウトした人間の多い、通信制高校という学校に通っている。高校卒業の資格を得る為だ。
 勿論、学校の存在そのものを貶める事はしない。秋花や俺のように一度高校を中退した人間や、社会人になった後に高校卒業資格を得ようとする人など、様々な事情を抱えた人間が様々な目的を持ち、再度前進しようと集まってきている、そうした学校だ。そこに通学するという事はむしろ、誇れる事なのかもしれない。そう、頭では分かっている。
 だが元優等生という下らないプライドを抱えたままの俺にとって、落伍した人間の多いその学校へ通学を続ける事は苦痛でしかなかった。
 誰の所為、とは言わない。しかし幼い頃から優劣を意識し自分のレベルを計り生きてきた俺にとって、ドロップアウトしていた期間が出来てしまった事は、もはや取り返しのつかない傷がついてしまったように感じられた。
 そうした精神を抱えたまま、俺は長い入院生活と療養期間が終わり、通信制高校に入ってからの半年の間、かつての友人とも連絡を取れないまま、新しく友人も作らないまま、毎日を送っていた。
 俺に完璧を求めていた親は、既に俺を見捨てていた。俺は一人暮らしを余儀なくされながら、鬱々と毎日を送っていた。
 鬱々と、それでも寂しさを抱えて生きていた。
 ああ、そうだ――。
 俺は、寂しかった。
「――耕介」
 隣に座る姉貴がぽつりと、しかし次にはいつもの毅然とした口調で、俺に言葉を告げた。
「秋花をあんたに預ける事に決めたのは私だから――何かがあれば、私が責任を取る」
 俺を気遣っての言葉だと、すぐに分かった。俺は無言でそれに応えた。何と言って良いのかが分からなかった。申し訳ないという気持ちだけが募り、同時に自分はまだ子供なのだと、強く意識した。
 姉貴が秋花との同居を薦めたのも、秋花だけでは無く、俺の事を考えたからなのだろう。
 俺の孤独を――考えたからなのだろう。
 自分の右手首に引かれた傷跡を眺める。人生のレールから脱落してしまい、親の期待も信用も、かつての友人も無くし、孤独の中で絶望した俺は――一度だけ、自殺を図った。
 何も考えずにただ上を目指して生きてきた俺は――落伍してからは尚更、自分が何故生きているのかが分からなくなっていた。だからその時、生きているのも死んでいるのも変わりがないのならば、死んだ方が良いかもしれないと思ったのだ。
 心は追い詰められていた筈なのに、思考は奇妙な程に冷静に、俺の手首に鉛色の刃を食い込ませた。
 秋花と出会う、二ヵ月ほど前の事だ。
 出血は多かったが大事には至らず、俺は生き延びた。
 しかし自分が自分の人生を見限ったという事実は――自分は単なる死に損ないに過ぎないという意識は、俺の中に深く刻まれた。俺は手首と同時に 自分の心にも、深い傷を残してしまっていた。
 つい数時間前。秋花はその傷跡を、俺の心に引かれた傷跡を、優しくなぞった。
 ――ああ。
 俺は多分、色々な事を分かっていた。それにも関わらず、それを見ないようにして、迷惑な同居人と暮らしてきた。
 秋花。
 お前の抱えているものは、そして喪失したものは、多分俺のそれと似ているんだよ。だから俺はお前を、受け入れる事が嫌だった。お前の心を直視する事が嫌だった。自分自身の像を見せ付けられるようで――怖かった。
 今まで認められなかった事が、次から次へと、思い出される。
 ああ、そうだ――。
 俺は駅で姉の隣に立つ秋花と始めて会った時、金魚鉢を抱えたまま不安げな表情を浮かべる秋花を見て、安堵する自分に気が付いていた。
 これで一人ではなくなると――俺は安堵していた。
 そいつが自殺未遂を繰り返し俺がそれを止める事になっても――それは本当に面倒で、下らなくて、やっていられなくて――それでも俺はその繰り返しに、満足している自分にも気付いていた。海からの帰り道、寝入ってしまった秋花を背負ったまま立ち止まった景色の中、その事実を俺は、はっきりと理解してしまった。
 ぐちゃぐちゃのメモ帳に書かれた、『ありがとう』の言葉。
 それを見て俺は、自分自身の感情を、再認識せざるをえなかった。
 俺は秋花に頼りにされている事を、嬉しいと思っている。
 こんな、もうどうしようもない、砕け散った自我を抱えたまま将来が不安で震え続けている俺でも、こいつに頼りにされているのだ。必要とされているのだ。
 俺はそれを、嬉しいと思ってしまっていた。
 自分はこれから、一人で生きていかなければいけないと思っていた。一人で誰とも触れ合うことなく生きていく事ができれば、それが最善だと、俺は思い込もうとしていた。そうすれば、無用な期待を背負うことも無い。俺の親が俺にそうしたように、誰かに見限られる事もない。もうストレスで、精神を病むこともない。
 だから俺は、自分の中に生まれた優しい感情を憎んだ。忘れようとした。ごまかそうとした。
 ――そして、そう。
 秋花が自殺前に自殺方法を電話の横のメモ帳に残す理由についても、多分俺は途中から気付いていた。
 秋花は本当は、死ぬ気なんかない。少なくとも二回目の自殺未遂からは、こいつは俺に止めてもらうためだけに、自殺をする真似をしていただけだ。
 だから俺に分かるように、自殺方法をメモ帳に書き込んでから行動を起こした。首に縄をかけようとした時にも、俺が来るのを待ってから脚立を蹴った。海に飛び込む時にも、俺の目の前で安全な場所に飛び込んだ。
 親に、友達に、世界に見捨てられた秋花は、そうした絶望的な状況に立ち、そして俺が心配して助けに来てくれる事で――何とか自分の存在意義を、確かめていたのだ。
 少なくとも自分は、俺には必要とされているのだと、必死で確認していたのだ。
 俺は、秋花が抱え込んだそうした寂しさに、ずっと気付いていた。それなのに、気付かない振りをしていた。気付かない振りをして、自分で自分をごまかしていた。
 そうしていつまでもこいつの自殺を止め続ける、「命の恩人」でありたかった。
 秋花が俺に助けてもらう事で自分の価値を見出していたように、俺もまた、秋花を助ける事に、自分の生きている価値を見出していたというのに。
 それにもかかわらず俺は、ただ被害者面をして、迷惑を掛けられているのは自分だけだと思い込もうとしていた。自分も秋花に救われている事を理解していたにもかかわらず、けれどもそれを認める事は自分自身の弱さを認める事に繋がるように思えて、その事実を自覚する事を避けてきた。
 大馬鹿の、卑怯者だ。
 一発殴ってもらわないと、自分の気が済まない。
 だから――早く、出てきてくれよ。
 無事な姿を、見せて欲しい。
 少しの間でいいから、また一緒に暮らしたい。
 そう思う。

 ――治療室のランプが消える。数分後、治療を終え退室してきた医師が、秋花の容態を、俺の目の前で告げた。

     ※

「まったくなぁ――」
 俺は、もう何度目かになる台詞を呟いた。場所は病院のベッドの隣に設置された、椅子の上だ。
 そしてベッドの上では秋花が、半身を起こして俺を見ている。
 治療室から出てきた医師に告げられた秋花の容態は、呆気に取られる程軽いものだった。
 右脚にヒビが入り、後は軽い脳震盪を受けているだけだった。打ち身や擦り傷も少々あるが、数時間もすれば意識を取り戻すだろう。医師はそう告げた。
 若干時間が掛かったのは、検査中に意識が戻らなかった為と、右脚にギブスをつける為、そして頭を打っていたので念の為にCTと脳波検査を行った為だという。
 あくまで思っていたよりは良い意味で予想を裏切られた俺は、多分相当間抜けな顔をしていたのだろう。姉貴はその表情を見て、皮肉げに、しかし安心したように、声を殺して笑っていた。
 怪我自体は大した事は無かったが、それでも頭を打ったという事で、経過を見る為に一週間程度は入院する事が決まった。
 そして結局、退院後の秋花の面倒は、秋花の母親が退院するまでの少しの間、姉貴が見る事になった。事故の責任の一端が俺にあったという事もあり、このまま一緒に暮らす事は好ましくないという結論に落ち着いたのだ。秋花の親の意向も汲んだ上で、俺もその方がいいかもしれないと、姉の提案を呑んだ。
 事故に関する保険の手続き等は、俺の気付かないうちに姉が纏めてしまっていた。だからそうした条件を素直に呑む事が、今回の事故に対する俺の責任の取り方だと思った側面もある。
 学校の方には俺から連絡を入れた。秋花が卒業できなくなるのではないかと懸念したのだが、これ以上通わなくても、取り敢えず問題はないらしい。
 学校によっても基準は違うが、俺達の通う学校は、十月も半ばを過ぎれば、後はレポートを郵送し、そこそこの成績を取れば、高校の卒業資格を貰える事になっている。秋花は後期から編入したとはいえ出席率も良く、これまでのレポートも全て提出していた為、後は自宅からのレポート郵送で事足りるそうだ。
 俺は秋花の枕元で世間話をするように、そうして彼女の手近に用意された未来を語った。
 それでも秋花の顔は晴れやかとは言い難かった。学校を卒業してからの事、母親の事。不安な事は幾つもあるだろう。その気持ちが分からないほど、俺も鈍感ではない。
 だが秋花には一つだけ、話していない事があった。
 秋花が集中治療室で検査を受けている、ちょうどその時。連絡を受け病棟に、一人の女性が入ってきた。姉が一礼するまでも無く、俺はその肌の白い人物が誰なのかを悟った。
 それは自分の入院先から駆けつけた、秋花の母親だった。
 その人は姉と少しの間声を交わした後、俺達からは若干離れた場所に座り込むと、両の手の平で顔を覆った。
 俺は自分の監督不行き届きを、その人に謝罪するべきだったのだろう。しかし今はその時ではないのだと悟り、沈黙した。
 秋花の母親は泣いていた。その唇からは祈るように何度も、娘の名前が零れ続けていた。
 思い出したのだろうと思った。自分にとって、秋花がどれほど大切な存在だったのかを。
 意地の悪い俺は、知っている。こうした極限状態になると、大抵の人間は、涙もろくなるのだ。特に秋花の母親は、精神を病み、自分を責めやすくなっている。
 だから胸の中に後悔が後から後から押し寄せて、ぼろぼろ涙を流しているのだ。
 もしも秋花が助かったら、病んだ心の完治していないこの人はまた、秋花を遠ざけるのかもしれない。その可能性はきっと、それなりに高いのだろう。その時の俺はそう考えた。
 多分それは秋花の母親が酷い人間だからではなく、多分世界にはそんな意地の悪い現実が、どうしようもないくらい、溢れ返っているんだ。
 でも――なぁ。
 秋花。
 例え一瞬でも、お前の母親は、お前の事を想って泣いていたんだぞ。いつかお前、言ったよな。自分が死んでも誰も悲しまないと。少なくともそれは、間違いだったんだ。
 俺も、お前の母親も不器用で、多分この世界にはそんな人間が多すぎて、噛み合わないままの歯車をギシギシ言わせながら、ゆっくりと明日へ向かっている。
 それでも手を触れて、片時でも温かさを感じる事ができる思い出があれば、生きていくのも少しは、マシだと思えないか?
 お前の母親の泣き顔を見て、その時の俺は、そう思えたんだ。
 だから秋花が母親の元に帰っても、何とか上手くやっていけると信じたい。
 ……でも多分、今の秋花にそれを上手く伝える事は、俺にはできなかった。
 だから代わりに俺は、今までずっと言えなかった言葉を伝える事にした。
「――秋花」
 俺の緊張が伝わったのか、秋花はシーツをめくり水色の寝巻きのまま、ベッドの上で正座した。いや、正座しようとして自分の片足にギブスが嵌っている事に気付き、右足を伸ばし左足だけを折り曲げた、不思議な正座をして、居住まいを正した。
 何だかその間の抜けた仕草を見ているだけで、緊張感が抜けた。
 それでも言うべき事は、言わなければならない。
 多分秋花が求めていたのも、この言葉なのだろうから。
「俺はお前に、死んで欲しくないよ」
 秋花は驚いたような表情を見せた後――笑顔を作った。よく見せるような悪戯っぽい笑みではなく、見る人を安心させるような、そんな、自然な笑顔だった。
 それから秋花は何かを確認するように、大きく一つ頷いて……俺は数ヶ月に及んだ奇妙な救出劇の全てが、終わりを告げた事を知った。
 恐らく秋花はもう、あんな自殺未遂は起こさないだろう。
 前よりは少しだけ強く、生きていけるだろう。
 そう思う。
「……ああ、そう言えばお前、しばらく外に出てないな」
 俺は照れ臭さもあり、そう言葉を続ける。
 検査が続いたせいもあり、秋花はもう五日も院内で暮らしている。そろそろ、ここでの生活にも飽きてきただろう。
 しかし秋花の方を見ると、今度はどことなく落ち込んだ表情をしている。
 理由は察する事ができる。入院は一週間程度と言われているのだから、入院生活が続いているという事は、そろそろ退院しなければならないという事を同時に示している。
 母親の事も含めた退院後の事を――やはり秋花は、気にしているのだ。
 僅かな猶予期間の後、秋花は、そして俺は、またあの底意地の悪い日常に戻らなければならない。
 風のせいか、半開きの窓が小刻みにカタカタと鳴った。それが秋花と、そして俺の不安感を煽り立てた。
 その時、急に俺の中に、おかしな衝動が沸き起こってきた。今思い出しても、何故自分がそんな事を考えたのか、理解できない。
 でもまた同じような状況になったら、俺は同じ行動を起こす気がする。
「――秋花」
 俺は椅子から降りると屈みこみ、秋花に向かって背中を見せた。
 秋花の、きょとんとした様子が分かるようだった。
「いいから乗れよ」
 そう言うと、秋花もようやく俺の意図が掴めたらしい。ゴトゴトという物音の後で、背中に重みが掛かる。ギブスが軽く背中に当たる感触があった。
 そして俺は秋花を背負ったまま、開け放されていた扉を抜け、廊下に飛び出した。

     ※

 あれからもう、一年以上が経つ。

 俺は無事に通信制高校を卒業し、何とか県内の国立大学に合格する事ができた。
 あの同居生活の後、福祉系の分野に興味を持ち、そうした学部を受けた――というようなありがちな展開もなく、俺はごく普通の、人間関係の軋轢の薄そうな文学部を受けた。どうにも人間は、そう簡単には変われないらしい。
 ただし、変わった部分も無いわけではない。
 まず進学に伴い、あの家からは出る事になった。旧式な電話機もメモ帳も、今では引越しのダンボールの中で整理もされないまま眠っている。
 アルバイトをしながら大学に通い始めた俺の借りた古い木造のアパートは、家賃の割には随分と広く、自由に使える部屋が二つもあった。一つは俺が勉強をする為の部屋として利用し、もう一つの部屋は半ば物置として利用している。

 秋花とは、あれから連絡を取っていない。
 姉貴によると母親は無事退院し、今では秋花と問題なく暮らしているらしい。母親の病気にも公的扶助が出る事になり、経済的な面であまり逼迫する事もなくなったという事だ。再婚の予定まであるらしい。
 秋花とは、いつかまた会いたい気もするし、会わなくてもいい気もする。複雑な気分だ。
 ただ、元気でいて欲しいとは、いつも空の向こうから願っている。
 
 大学でも、落ち込む事は多い。大抵の同級生が年下という状況で、俺の劣等感はまだ少しだけ、刺激される。自分の性格はなかなか変えられない。嫌らしい世界も相変わらず嫌らしいままで、どうにも忘れがたい不愉快な出来事も、短い期間に幾つか経験した。俺自身も、何度も無神経に他人を傷付けた。
 そしてその度に、俺は思い出した。
 病院から秋花を無理やり担ぎ出した、あの日の事を。

     ※

 あの風の強い日。
 秋花を背負い病院を飛び出すと、俺は一直線に前に続く道を走り抜けた。行き先も何も考えず、ただやみくもに走り抜けた。
 陽は既に暮れ始め、空の端には早く出過ぎた感もある白く薄い三日月が、薄闇の中に、ぽつんと所在無く置かれていた。その有様は孤独だった俺や秋花の心に相似している。俺はそれを追い越す勢いで更に加速した。遊歩道の、まるで金魚の鱗のような紅に染まった広葉樹の木々が、清涼感を高め呼吸を助ける。
 その中で俺は少しだけ不安になり振り返り、背中に乗った相方の――秋花の顔を確かめる。それから俺は、酸欠でグルグル周る思考を追い払うようにして、更にがむしゃらにスピードを上げる。
 ああ、その時――確かに言葉は必要なかった。
 振り返った時、秋花は俺の突発的で不器用で大馬鹿な暴走行為に、笑顔だった。
 笑顔でいてくれていた。
 だから俺は秋花を元気づける為の作戦が成功したと分かり――そして少しだけ、こう思う事ができた。
 そう。
 俺にも、生きている意味はあるのかもしれない、と。

     ※ 

 それからこれは、余談になる。
 物置として使っている部屋の、窓際に適当に置かれた低い棚の上には、秋花が残していった金魚鉢が置いてある。
 水と、俺が新しく買ってきた金魚を一匹入れたまま。
 大学に行く十分ほど前に餌を摘み入れ、少しの間様子を見る。
 こいつが死んでも俺は、大して悲しんだりはしないだろう。
 ただ少しだけ、寂しいと感じるかもしれない
 忙しい日には餌を入れ忘れる事もあり、気が抜けない。
 だから俺は、多少の面倒事には目をつぶるから、こうした金魚の世話に慣れた人が同居してくれると助かるかもなと、時折思う。
 そして口下手の俺は、その人が死体のように何も喋らない人間だとありがたいかなと、窓外で深まる秋の景色の中で、まだ少しだけ不遜に、そう考えている。

                                            〈 了 〉









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