平凡な会社員、今日から悪役令嬢の教育係

「はぁ…今日も残業か…。」

アキラはいつものようにデスクでパソコンとにらめっこをしていた。果てしないデータ入力と上司からの理不尽な指示に追われる日々。その日も夜遅くまで残業を続け、フラフラの状態で終電間際の電車に滑り込んだ。疲労で重くなった体が、座席に沈み込む。

「…さすがに眠いな」

眠気を感じて目を閉じた瞬間、不意に全身に鋭い衝撃が走った。何が起こったのか全く分からなかったが、強い痛みと共に、意識が遠のいていく…。

そして、ゆっくりと目を開けると、そこは見知らぬ天井だった。

「え? ここ…どこだ?」

木造の高い天井に、豪華なシャンデリアが輝いている。見渡すと、立派なベッドやアンティーク調の家具が並んでいた。まるでヨーロッパの貴族が住む館のような光景に、アキラはぽかんと口を開けた。

慌ててベッドから起き上がり、自分の体を確認する。スーツ姿だったはずが、見慣れない服に変わっている。ふわりと柔らかいシャツと上質なベスト…。

「え、なんだこれ? 衣装チェンジでもされたのか?」

恐る恐る周囲を見回しながら、頭の中で必死に記憶を遡る。昨夜の残業、終電、そして突然の衝撃。その後の記憶がまるで欠けている。

「夢…いや、でもこの感触…。」

自分の手を握り締め、その温かさを確認した。目の前の光景、空気の匂い、床の質感――すべてがリアルすぎる。鼓動が早まり、思わず深呼吸する。

その時、突然ドアがノックされる音が響いた。控えめでありながら、しっかりとしたリズムのノック。続いて、柔らかな女性の声が聞こえる。

「失礼いたします、教育係様。」

中に入ってきたのは、上品なメイド姿の女性だった。彼女は柔らかな微笑みを浮かべ、アキラに丁寧なお辞儀をする。

「え、教育係って俺のこと? なんかの間違いじゃない?」

混乱するアキラに、メイドはにっこりと微笑んだ。その笑顔は親しみやすいようでいて、どこか毅然とした雰囲気を漂わせている。

「あなた様はリリス様の教育係として任命されました。本日より、彼女の指導をお願いいたします。」

「リリス様? 誰それ?」

「公爵家のご令嬢です。」

メイドは微笑みながらも少し困った様子で答える。

「リリス様はとても個性的な方でして…教育係を務められる方は、これまで誰一人として長く続きませんでした。」

アキラの心には、一抹の不安がよぎる。どういう事だ…?

目の前のメイドの冷静な態度とは裏腹に、自分だけが事態に取り残されている感覚に陥る。

「つまり、俺が今からその子を教えろってこと?」

「はい、その通りです。」

言葉は簡潔で明快だが、アキラにとっては全く納得できない状況だった。頭の中で何度も「教育係」という言葉が反響する。

「ちょ、ちょっと待って。そもそも俺、教育なんてやったことないし…なんで俺なんだよ?」

メイドは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな微笑みに戻った。

「それは…おそらく、何か特別な理由があるのだと思います。ただ、詳細については私には分かりかねます。」

「理由が分からないって…。」

自分の中の疑問が渦巻く中、メイドに促されて広い廊下を歩き出した。途中、窓から外を見ると、美しい庭園が広がり、遠くには城のような建物が見えた。

「ここ、どこなんだ…? 俺、たしか電車に乗ってて…その後は…?」

記憶を辿ろうとするが、肝心な部分がぼんやりしている。

やがてメイドが大きな扉の前で立ち止まり、軽くノックをする。

「リリス様、教育係の方をお連れしました。」

中から聞こえたのは、少女の高飛車な声だった。

「ふん、また新しいのが来たのね。どうせすぐに辞めるんでしょ?」

扉が開き、アキラの目に飛び込んできたのは、豪華なドレスに身を包んだ美しい少女だった。長い金髪が背中で輝き、鋭い目つきが彼を射抜く。

「あなたが教育係? パッとしない顔ね。それで、私に何を教えるつもり?」

リリスの言葉に、アキラは呆然と立ち尽くす。頭の中は混乱でいっぱいだった。

(いやいや、状況がわからなさすぎる! 俺、昨日まではブラック企業の社畜だったんだぞ? 急に教育係って、何のジョークだよ!)

だが、周囲の豪華な内装やリリスの鋭い視線はあまりにも現実的で、夢のようには感じられない。

「教育係って言われても…俺に何ができるんだよ?」

つい口をついて出た言葉に、リリスは冷ややかな視線を向けながら「ふん」と鼻を鳴らす。

「その程度の覚悟で来たの? やっぱり無能ね。」

(くっ…なんなんだこの態度は! お嬢様キャラ全開すぎるだろ!)

内心でツッコミを入れつつも、リリスの鋭い視線に負けたくないという思いが湧き上がる。アキラは一度深く息を吸い込んで、心を落ち着けようとした。

「とにかく、話を聞いてみるしかないか…。でも、覚えておけよ。俺だってただの平凡な会社員じゃないんだからな!」

誰に向けて言ったのかわからない決意を胸に、アキラは小さく拳を握った。

初対面から手強い相手に圧倒されつつも、アキラの異世界での奮闘の日々が、少しずつ動き出そうとしていた。
「さて、教育係さん。あなたの手腕、見せてもらおうじゃない。」

豪華なドレスをまとったリリスは、玉座のような椅子に深々と腰掛け、挑戦的な笑みを浮かべた。その姿にアキラは思わず息を呑む。

(見た目は完璧なお嬢様だな…。でも、この性格がクセ者ってことか?)

「えっと…その、よろしくお願いします。」

アキラはぎこちなく頭を下げたが、リリスの返事は予想通り冷たかった。

「挨拶は結構よ。それより、あなたには何ができるのかしら?」

「何ができるかって言われても…。正直、教育係なんてやったことないんですけど。」

「はぁ? 教育係をやったことがない人間が、私の教育係を務めるっていうの?」

リリスの目がさらに鋭くなる。アキラは内心焦ったが、ここで怯むわけにはいかない。

「確かに経験はないですけど、俺だって社会で揉まれてきたんです。ブラック企業で培った、理不尽に耐えるスキルには自信がありますから!」

その言葉にリリスは眉をひそめ、やや驚いたように問い返した。

「ブラック企業? それは何かしら?」

「えっと…まあ、長時間労働と理不尽な要求が日常の職場ですね。要するに、適応力だけは鍛えられたってことです。」

リリスは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにふっとため息をついた。

「…なんだか、やる気があるのかないのか分からないわ。でも、まあいいわ。すぐに辞めていく教育係ばかりだったし、あなたもその一人だと思ってる。でも…少しだけ、ほんの少しだけ期待してあげる。」

(期待してあげるって、随分上から目線だけど…。まあ、とりあえずクビにはならなさそうだな。)

アキラは胸をなでおろしつつ、心の中でブラック企業時代の自分に感謝するのだった。

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初日から仕事の洗礼を受けるアキラ。リリスの「教育」と称した要求は予想以上に厄介だった。

「アキラ、紅茶がぬるいわ!」

「アキラ、この書類、字が汚すぎる!」

「アキラ、もっと早く動きなさい!」

次々と飛んでくる無理難題に、アキラは心の中で叫ぶ。

(俺って教育係じゃなくて、ただの執事じゃないか!?)

昼食の時間になり、豪華な食堂に案内されたアキラは、ようやく一息つけるかと思った。しかし、そこでもリリスの言動は止まらない。

「アキラ、このスープの味、どう思う?」

「え、普通に美味しいですけど。」

「ダメね。あなたの舌では私にふさわしい料理かどうか判断できないわ。」

(知らんがな!そんな舌センサーなんて俺には搭載されてねえよ!)

アキラは頭を抱えそうになるが、なんとか気を取り直す。

「リリス様、少し質問してもいいですか?」

「質問? まあ、いいわよ。何かしら?」

「リリス様が教育係を必要としている理由って、具体的には何ですか?」

その問いに、リリスは一瞬言葉を詰まらせた。その後、視線を逸らしながら答える。

「私には…その…婚約者がいるの。公爵家の娘として、ふさわしい振る舞いを学ばなければならないのよ。」

(婚約者? ああ、よくある設定か。でも、なんか話し方がぎこちないな…。)

アキラはリリスの様子に違和感を覚えたが、それ以上は踏み込めなかった。

彼女の表情には、何か隠し事をしているような曖昧さがあった。

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その夜、アキラは広い客間で一人、これまでの出来事を振り返っていた。金色のシャンデリアが天井から輝き、ふかふかのベッドが彼を迎える。

「豪華な部屋だな…。でも、なんか落ち着かない。」

思い返せば、この世界に来てから目まぐるしい一日だった。教育係という役目を押し付けられ、悪役令嬢に振り回され、挙句の果てには婚約者がどうとかいう話まで…。アキラは溜息をつきながら天井を見上げる。

「俺にできることなんてあるのかな?…いや、弱音を吐いてる場合じゃない。」

ふと、リリスがふいに見せた寂しげな表情が脳裏に蘇った。あの高飛車な態度の裏には、何か理由があるのだろうか?

「…明日は、もう少しリリスとちゃんと話してみよう。」
翌朝、アキラは爽やかな朝日とともに目を覚ました。だが、目の前に広がる異世界の光景に一瞬現実感を失う。

(そうだ、ここは異世界なんだった…。)

昨日の出来事を思い出しながら着替えていると、ドアをノックする音が響いた。

「おはようございます、アキラ様。リリス様が執務室でお待ちです。」

部屋の外にいたのは、リリス家の執事であるハロルドだった。彼の端正な顔立ちと無駄のない動きは、まさにプロフェッショナルを体現している。

「お待ちって、もう何か始まるんですか?」

「はい、リリス様の『教育』の一環として、本日最初の課題をご用意しております。」

(もう課題? 俺、まだ全然心の準備ができてないんだけど…。)

ハロルドの案内で執務室に到着すると、リリスが高そうな椅子に座り、優雅に紅茶を飲んでいた。

「ようやく来たわね、教育係さん。今日もあなたの実力を少し見せてもらうわ。」

「えっと、具体的に何をすればいいんでしょう?」

リリスは微笑みを浮かべながら机の上に一枚の紙を置いた。その紙にはびっしりと課題が書かれている。

「まずは、これをやってもらうわ。」

「え、これは…? エチケットの基礎? テーブルマナーに社交辞令?全部俺がやるんですか?」

「当然よ。教育係なんだから、それくらいできなければ話にならないでしょう?」

リリスの挑発的な視線に、アキラは苦笑しながら肩をすくめた。

「いやいや、いきなりハードル高すぎない?俺、ただの会社員だったんだけど。」

「ふふ、言い訳は結構よ。教育係として、しっかり働いてもらうわ。」

アキラはため息をつきながらも、逃げられないことを悟り、観念した。

「まぁ、やるしかないか…。社会人は適応力が命だからな。」

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課題の一環として、まずはリリスの朝食の席でテーブルマナーを披露することになった。豪華なダイニングテーブルに座るアキラの前には、異世界の食材を使った豪華な料理が並べられている。

「さて、どこまでできるのかしら? 見せてもらうわ。」

リリスの視線が突き刺さる中、アキラはナイフとフォークを手に取った。だが、異世界特有の料理は見た目も独特で、どのように食べればいいのか戸惑う。

「えっと、この紫色のゼリーみたいなやつは…?」

「それは『スライム果実のジュレ』よ。ナイフで形を整えて食べるのがマナーね。」

(スライム果実!? なんか名前だけで食欲が消えるな…。)

アキラは恐る恐るジュレにナイフを入れるが、ジュレはぷるぷると弾み、切るのが難しい。

「ふふ、案外不器用なのね。」

リリスのからかうような笑みに、アキラは焦る。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。

「こう見えて、俺は器用貧乏なんです。見ててください。」

アキラは慎重にナイフを動かし、ジュレをなんとか一口サイズに切り分けた。だが、その瞬間、ジュレが勢いよく弾け、リリスのドレスに飛び散ってしまう。

「きゃっ! な、何をしているの!?」

「す、すみません! まさかスライム果実が反撃してくるとは…!」

リリスは怒りを露わにしながら、ジュレの飛び散ったドレスを見てため息をつく。

「まったく…あなた、本当に教育係なの?」

「ちょっと待ってくださいよ! こんな活きのいいゼリー、俺の世界にはなかったんです!」

その光景を見ていたハロルドが静かに口を開いた。

「アキラ様、スライム果実のジュレを食べる時にはコツがございます。次回からは少し練習されることをおすすめします。」

「なんでそんな大事なことを先に言わないんですか!?」

「……申し訳ありません。ですが今後、教育係として予期せぬ事態への対応も必要になってくるかと。」

「いや、確かにそうかもしれませんけど! それでも最初にヒントくらいくださいよ!」

ハロルドは軽く咳払いをしながら、どこか楽しげな表情を見せた。

「次回は、事前にアドバイスを差し上げましょう。」

リリスは溜息をつきながら、ナプキンでドレスについたジュレを拭き取った。

「ほんと、手のかかる教育係ね。」

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その後、アキラはリリスから怒られながらも課題を進めていく。エチケットや社交辞令の練習は、彼の不器用さも相まって一筋縄ではいかない。

しかし、リリスの厳しい指導の中にも、時折見せる優しさやフォローが感じられる場面もあり、アキラは少しずつ彼女の人柄を知っていくのだった。

「意外と優しいんですね、リリス様。」

「な、何を突然…。勘違いしないでよね!」
翌日、アキラは昨日のスライム果実ジュレ事件を引きずりながらも、新たな課題に挑むこととなった。

「さて、今日の課題は…」

執務室に呼び出されたアキラの前で、リリスは優雅に扇子を広げながら微笑んだ。

「今日は社交界での挨拶と礼儀作法を学んでもらうわ。もちろん、実践形式で。」

「実践って…まさか…?」

「ええ、今からお客様がいらっしゃるわ。」

「聞いてない!まだ昨日のジュレのトラウマから回復してないのに!」

「教育係なら、いつ何時でも完璧であるべきよ。」

アキラはため息をつきながら、目の前に置かれた分厚い礼儀作法の本をめくった。

「えーと、『貴族への挨拶は、相手の身分に応じてお辞儀の角度を変えることが望ましい』…いや、細かすぎるでしょ!」

「当然よ。失礼のないよう、しっかり学んでおきなさい。」

そうこうしているうちに、執務室の扉が開いた。そこに立っていたのは、金髪の美しい青年だった。

「リリス、久しぶりだね。」

「レオン様、ようこそいらっしゃいました。」

(うわ、見るからに王子様キャラ…)

アキラは心の中でぼやきながらも、リリスに促され、挨拶した。

「初めまして、アキラと申します。リリス様の教育係を務めさせていただいております。」

「ほう、君が噂の新しい教育係か。リリスに教育…大変そうだね。」

「ええ、まぁ…その…想像以上に大変です。日々、胃に穴が開く思いですよ。」

「ちょっと、それ私の前で言うこと?」

リリスがじろりと睨むと、アキラは軽く肩をすくめた。

「いやいや、こ、これはちなみに悪口ではないですよ?」

「そう言いながら汗が出てるわよ?」

リリスが扇子をぱちんと閉じると、レオンは微笑みながらアキラをじっと見つめた。

「ふむ、君、なかなか面白いね。」

「あ、ありがとうございます」

「別に褒めたわけじゃないさ。あと、僕も貴族なんだ。まだ、君から正式な挨拶をしてもらってないんだけど?」

リリスの方をちらっと見ると、楽しげに頷きながら、扇子をぱたぱた仰いでいた。

(い、いや、ちょっと待ってくれ…俺、まだ礼儀作法の本を半ページしか読んでないんだけど…!?)

アキラは内心パニックになりながらも、必死で頭の中の知識を引っ張り出した。

「えーと、たしか…貴族に対する正しいお辞儀の角度は…」

リリスが楽しそうに見守る中、アキラは覚悟を決め、適当に角度をつけてお辞儀をした。

しかし。

「…君、どうして90度も頭を下げるんだい?」

「えっ!? 違いました!?」

「それは臣下が王に対して行う礼だね。僕はまだ王になっていないよ。」

リリスが溜息をつきながら扇子で口元を隠し、くすくすと笑った。

「ふふっ、あなたって本当に面白いわね。」

「笑い事じゃないですよ! いきなり貴族の礼儀作法って、ハードル高すぎるんですけど!」

レオンも苦笑しながら肩をすくめた。

「まぁ、徐々に慣れていけばいいさ。でも、リリスの教育係を務めるなら、しっかり学んでおいた方がいい。」

「はい…。」

その後、アキラは貴族らしい振る舞いや会話術を学ぶため、リリスとレオンによる徹底指導を受けることになった。
アキラの貴族教育はまだ始まったばかりだった。

「次の課題は食事のマナーよ。」

執務室で礼儀作法を学んだ後、アキラはリリスに連れられて城の豪華な食堂にやってきた。白いテーブルクロスが敷かれ、目の前には何十種類もの食器が並んでいる。

「……あの、フォークとナイフ、多すぎません?」

「当然よ。貴族の食事は格式がすべて。どの料理にどのカトラリーを使うか、一つ間違えれば笑い者になるわ。」

「えっ、そんなプレッシャーのかかる食事、楽しめなくないですか?」

リリスがため息をつきながら言った。

「これだから庶民は……。いい? これから基本の食事マナーを叩き込んであげるわ。」

アキラは半ば強制的に席に着かされ、リリスとレオンの見守る中、優雅な貴族の食事に挑むことになった。

「では、最初の料理よ。これは前菜のサラダね。」

給仕が銀のトレイに乗せた美しいサラダを運んできた。アキラはちらりとリリスを見る。

「えっと、この場合は……たぶん、一番外側のフォーク?」

「正解よ。まあ、初歩の初歩だけどね。」

アキラはホッとしながらサラダを口に運んだ。だが、次の瞬間——。

「うぐっ!?」

彼の口の中に広がったのは、まるで火を吹きそうな激辛ドレッシングだった。

「こ、これ……辛っ!?」(うがああぁあ!舌が燃えてる…!)

「ふふ、なかなか良いリアクションね。」

「ちょ、ちょっと待って、これ絶対わざとですよね!?」

リリスが扇子で口元を隠しながら笑う。

「貴族の世界では、どんな料理が出ても優雅に対応するのが基本よ。まさかこんなことで取り乱したりしないでしょう?」

「いやいや、これは想定外すぎる!」

レオンも苦笑しながら言った。

「まあ、気持ちはわかるけどね。でも、貴族の宴席では驚きを顔に出すのはタブーだよ。」

「それならせめて、辛いものが出るって事前に言ってくれれば……!」

そんな調子で、アキラの試練は続いた。

——そして。

「次はメインディッシュよ。ステーキを食べてもらうわ。」

「よし、これは大丈夫なはず……!」

アキラは意気込んでナイフを手に取った。しかし、ここで問題が発生する。

「……硬っ!?全然切れないんですけど!」

「ふふ、腕の力で切ろうとしてるわね。ナイフの使い方にもコツがあるのよ。」

「なるほど…?」

「角度を工夫して、刃を滑らせるように切るのよ。」

アキラはリリスの手本を見ながら慎重にナイフを動かし、ようやく一口大のステーキを切り分けることに成功した。

「……やった!」

「ステーキを切れたぐらいでそんなに喜ぶのか?」レオンが呆れたようにツッコミを入れる。

「合格ね。まあ、50点といったところかしら。」

「結構頑張ったのに50点かぁ……。」

こうして、アキラの貴族教育はまだまだ続くのだった。
「もう限界だ! 今日という今日は、はっきり言わせてもらう!」

アキラは、リリスの部屋の前で大きく息を吸い込んだ。

食事マナーの会から数日、彼はリリスの教育係?として奮闘していたが、成果はゼロどころかマイナスの域に達していた。

”教育係として”そろそろ成果を残さなければと、話しかければ『忙しいのよ!』とスルー、  本を渡せば『読む気分じゃないわ!』って拒否、  ちょっとでも忠告すれば『私の好きにさせて!』って逆ギレ……。

思い返すだけで胃が痛くなる。

「このままじゃ俺の胃が先にやられる……。」

深くため息をついたアキラだったが、今度こそしっかりリリスに向き合うと決意し、扉をノックした。

「リリス様、お話があります!」

すると、中からの返事はない。

「……おかしいな?」

不思議に思いながら扉を開けると、そこには意外な光景が広がっていた。

リリスは机に向かい、真剣な眼差しで絵を描いていたのだ。

「え……?」

普段の彼女からは想像もつかない静けさと集中力。

「リリス様……それ、絵?」

「……っ!」

リリスはハッとして絵を隠そうとしたが、アキラはそれを制した。

「ちょっと待ってください、見せてくれないですか?」

「ダメよ! 恥ずかしいもの!」

「リリス様が恥ずかしがるなんて、珍しいですね。」

「べ、別に珍しくなんてないわよ!」

頬を赤らめるリリスを見て、アキラは思わずクスっと笑った。

「少し見せてくれるだけでいいので…」

しぶしぶといった様子でリリスが見せたのは、驚くほど緻密で美しい一枚の風景画だった。

「……これ、本当にリリス様が描かれたのですか?」

「そうよ、悪い?」

「いや、すごいです…。リリス様、こんな才能があったのですね!」

リリスは少し気まずそうに視線を逸らした。

「……子供の頃から好きだったの。でも、貴族の令嬢がこんなものを描いてても意味がないって、母様に言われたのよ。」

「意味がないなんて、そんなこと…。」

アキラは感心しながら絵を見つめた。

「リリス様のこういう一面、もっと大事にされたほうがいいのではありませんか?」

「……そんなこと言われたの、初めてよ。」

小さく呟いたリリスの顔は、どこか寂しげだった。

アキラは、彼女の中にある“本当の姿”を少しだけ垣間見た気がした。

「よし! では今後は、絵を描く時間もきちんとスケジュールに組み込みましょう!」

「えぇ!? そんなの、教育に関係あるの?」

「もちろんです。リリス様の良いところを伸ばすのも、教育係としての大事な役目ですから。」

「……ほんと、変な教育係。」

リリスはふっと笑った。
「リリス様、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」

アキラは、夕食後のリリスに声をかけた。

「何よ、またお説教?」 (…また?)

「いえ、違います。リリス様のことを、もっと知りたくて。」

リリスは少し驚いたように目を見開いたが、やがて視線をそらしてソファに座った。

「……別に、話すことなんてないわよ。」

「子供の頃のことでも構いません。リリス様の好きなもの、嫌いなもの、どんなことでも。」

アキラは柔らかく微笑んだが、その心中は真剣だった。『リリス様を理解しなければ、適切な教育も支えもできない』——そう思ったからこそ、彼はリリスのことをもっと知りたいと心から願っていた。

リリスは一瞬迷ったが、ぽつりぽつりと語り始めた。

「……小さい頃はね、母様の期待に応えるために、ずっと勉強と礼儀作法ばかりしてたの。でも、どれだけ頑張っても“まだ足りない”って言われ続けて……。」

「……。」

「絵を描くのが好きだったの。でも、母様に見つかると『貴族の令嬢がそんなことしてどうするの』って叱られて、破られたこともあるわ。」

リリスの手は膝の上でぎゅっと握られていた。

「父様も忙しくて、私のことなんて全然見てくれなかったし。婚約者のあの王子様も……私に全く興味なんてないのよ。」

その言葉には、リリスの心に積もった孤独と寂しさがにじんでいた。

「リリス様……。」

アキラは静かにリリスの隣に座った。

「ご家族に認められたくて、必死に頑張ってこられたのですね。」

リリスは小さくうなずいた。

「けど、だからって他人に当たったり、わがままを通していいわけじゃありませんよ。」

「……分かってる。でも、どうしたらいいか分からなくて……。」

その瞬間、アキラはリリスの中に“悪役令嬢”としての仮面ではなく、一人の少女としての姿を見た気がした。

「リリス様、これからは一緒に考えていきましょう。どうすれば、ご自身の心を大事にしながら周囲とも上手くやっていけるか。」

「……一緒に?」

「はい。教育係としてだけでなく、リリス様の味方として。」

リリスは一瞬呆気に取られた後、少しだけ微笑んだ。

「……あなたって、ほんと変わった人ね。」

「よく言われます。」

アキラは照れくさそうに頭をかいた。

「ちなみに、よく言われるのは『変わり者』とか『空気読めない』とか、たまに『図々しい』ですね。」

「……ふふ、確かにね。」

リリスは小さく笑ったが、すぐに顔を背けた。「……でも、嫌いじゃないわ、そういうの。」

「今、最後聞こえませんでした!」

「聞こえなくて結構よ!」
ある日の朝、アキラは早速リリスのスケジュールを確認していた。

「さて、今日はリリス様と一緒に庭園を散歩しながら、軽く運動と世間話を……」

だがその時、扉がバンッと勢いよく開いた。

「アキラ!今日の予定、全部キャンセルよ!」

「は、はい?!」

リリスは腕を組んで仁王立ちしている。

「今日は一人で散歩に行くから、あなたはお城でお留守番してなさい!」

「いえ、それは教育係として……」

「わがままじゃないわよ!これも自主性を伸ばすための試練なの!」

「誰の?」

「私のよ!」

アキラは苦笑しつつも、リリスが何かを隠しているような雰囲気に気づいた。

(どうも怪しい……リリス様が自主的に動くなんて、これは何か裏があるな)

結局、アキラはこっそり後をつけることにした。

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リリスは城の裏庭を抜けて、誰も来ない森の奥の開けた場所に向かっていた。そこには、大きな木の根元に隠すように置かれたキャンバスと絵の具が。

「やっぱり、ここだったか……」

リリスは誰もいないことを確認すると、さっそく絵筆を握りしめた。

「……ふふ、やっぱり描いてる時が一番落ち着くわ。」

木漏れ日が差し込む中、リリスは楽しそうに筆を動かす。普段の高飛車な態度とは打って変わった、穏やかな表情だった。

そんなリリスの姿を、木陰から見つめるアキラ。

(……やっぱり、リリス様には素直な一面があるんだな)

アキラは嬉しくなりつつも、そっとその場を離れようとした――が、

「……見てたわね?」

「ひえっ!?」

振り返ると、リリスが絵筆を持ったまま、ジト目でこちらを睨んでいた。

「え、い、いえ、あの……その……通りすがりの……」

「木陰からじーっと見つめる通りすがりが、どこにいるのよ。」

「……ごもっともです。」

その後、アキラはリリスに小一時間説教を受ける羽目になったのだった。

「……まったく、次からは許可を取ってから見に来なさい。」

「はい、次からはこっそりじゃなく、堂々と見学させていただきます!」

「それはそれで、嫌なんだけど……。」