スマートフォンを握りしめたまま呆然としている。
頭がぐるぐる回っていて、前後不覚で、どっちが上でどっちが下かわからない。
なんにもわからない。嘘だ、ぜんぶ嘘。でたらめ。ぜったいに信じない。
だって最後に会ったとき、きみは。
「顔に触ってあげて」
いま、わたしはどこにいるんだろう。
泣き腫らした目で、でも精一杯のほほえみにもなりえないぎこちない最大限の薄っぺらを貼りつけて、立ち尽くすわたしの手を取ろうとする喪服姿のおとな。
自分の子どもが死んだのに、理不尽な暴力で奪われたのに、赤の他人のわたしにまで気を配ろうとするおとなといういきもの。
おとなってそうなの、そうやって偽りを塗りたくって生きているの。だって親のあなたが一番つらいに決まっている。なんでおとなは、泣き喚いて蹴散らさないの?
わたしはされるがまま、きみの頬に触れる。
つめたい。そこにひととしての温もりもいのちの輝きもなにもない。わたしは叫び出したくなる。
到底許せなくて怒りが煮えたぎっていて、ずらりと並んだパイプ椅子を片っ端から一脚ずつ蹴り飛ばしたくなる。
だって悲しみを飲み込んだら、きみが死んでしまったのだと認めたら、そうしたらきみはどこへ行ってしまうの? きみはほんとうにいなくなってしまったの? わたしの行き場のない気持ちはどこへ連れていけばいいの? なんできみはいないの?
お願いだから、だれか教えて。
幼なじみの玲は産まれたときからそばにいた。
同じ産院でまったく同じ日に産声を上げたわたしたちは、首がすわっていないころからいつも一緒だった。どこへいくにも、となりにはあたりまえのように玲がいた。保育園も、小学校も、中学校も。
これから先の気が遠くなるほど長い年月も、玲とわたしは幼なじみであり続けるのだろうと信じていた。
根拠なんてなかった。
ドラマで観る不治の病や、報道で知る凶悪事件、神のみぞ知る天災などは、心を痛めることこそあれど、どこか自分ごととは切り離されたところにあった。現実にはそういうことが起こりうると知っていても、ひとはなぜか自分と自分のまわりには起こらない絵空事だと思い込みがちだ。
たとえその裏にどんな苦しみや悲しみがあったとしても、まるで自分たちはべつの世界を生きているかのように錯覚して、自分のこころの深いところを抉ることもなく日常生活を送っている。
それなのに。いや、それだから天罰が下ったのだろうか。だとしたら。神さまがもしどこかにいるのだとしたら、どうして神さまはわたしではなく玲を選んだのだろう。なにかの間違いだと思いたかった。
「栞奈」
ノックの音と同時に、閉ざされた自室のドアが軋みながら開いた。
顔を出した兄は、真っ赤に充血した目を情けなくくしゃりと歪めて、わたしのことを見ている。
「おれ、おばさんのところに手伝いにいくけど。栞奈はどうする?」
「いかない」
「そっか。うん、わかった」
「お兄ちゃん」
部屋から出ようとしていた兄は、顔だけ振り返って「ん?」と必死に取り繕った顔を見せた。
その表情だけで充分だった。
それだけで、わたしは。
「なんで?」
「うん?」
「なんで玲はいなくなっちゃったの?」
「それは……」
「どうして? 玲、なにか悪いことした? なんで玲だったの? あんなに優しくて、だれのことも悪く言ったりしなくて、みんなに好かれてて、家族思いで友だち思いで、そんな玲が、玲が、なんで? 玲のどこに落ち度があったの?」
「……栞奈」
「わたしが悪かったの? わたしのせいで、玲があんな目に遭ってしまったの? だったらわたし、自分なんか、自分のいのちなんか、削ったってなんだっていいから、お願いだから、お願い、お願いだから……」
お願いだから、玲を返して。
わたしは床に両方の拳を力強く打ちつけた。みるみるうちに瞳の表面に水膜が張り、お通夜でもお葬式でも出なかった涙がぼたぼたと音を立てて落下した。
兄も唇を色が変色するくらい噛み締めて、それでも堪えきれない嗚咽がこぼれ落ちて、その場に力なく崩れ落ちた。いつも格好つけてばかりの兄が、子どものように声を上げて号泣した。
五歳離れた兄は、玲が天使のようだと言われていた赤ちゃんのころからずっと、玲を実の弟のように可愛がってきた。
兄があまりにも玲ばかり優遇するので、子どものころのわたしは不貞腐れたこともあったけれど、そんな鬱憤を一瞬で吹き飛ばすような晴々とした引力が、玲にはあった。
さらさらした黒髪で、瞳は黒曜石のようにきらめいていて、笑うと目尻がふにゃりとやわらかくなる。
玲の姿なら頭の先から爪先まで詳細に思い出せる。我ながら気持ち悪いなと思いつつ、素っ裸の赤ん坊のころから一緒に過ごしているので許してほしい。
玲はわたしのことを「かんちゃん」と呼んだ。どんなときも穏やかな物腰と丁寧なことばづかいで、まるでちいさな紳士が歩いているみたいだった。
優しい玲はわたしをお姫さま扱いして常にエスコートしようとしてくれたけれど、がさつな性格のわたしはその枠には収まりきらず、破天荒な行動をしてはまわりのおとなを呆れさせていた。
でも、玲は一度もわたしを咎めなかった。
兄は「おれから言えることがあるとしたら、栞奈はなにも悪くないってことだけだ」と涙に濡れた声で言った。なんの慰めにもならなかった。
「通り魔だったんだよ」
あの日、玲とわたしは塾帰りで。
「運が悪かった、みんなわかってる」
夜道を案じた玲が、わたしを家まで送り届けて。
「だれも栞奈を責めたりなんかしない」
玲はその帰りに、通り魔に遭った。
街灯が煌々と照らす片側二車線の大通りだった。その日は外気温が十度ほどの肌寒い夜で、新月だったためか、街の明かりがネオンのように浮かび上がっていた。
歩行者用信号機が赤から青に変わって、十人前後の歩行者が一斉に横断歩道を渡りはじめたとき、自転車に乗った凶悪犯が現れた。被害者は玲だけではない。
兄はわたしの様子を窺いつつ、涙でぐしゃぐしゃになった顔をパーカーの袖でごしごしと拭い、わたしの部屋を出ていった。玲の家へ行くのだろう。
憔悴しきっていたおばさんの顔が思い浮かぶ。どんな顔をしておばさんに会えばいいかわからなかった。
ふと、窓のほうを見上げたら、そこには濃紺の闇が広がっていた。カーテンを閉める気力も起きず、わたしは床の上にへたり込んだままだった。
「……お願い」
なにも、いらない。もうなにもいらないから、玲を返してください。わたしなんていなくなっていいから、どうか玲を連れていかないで。
わたしは玲のことがすきだった。幼なじみに向ける情、以上のものを抱いていた。大好きだった。
中学校のクラスメートが付き合ったり別れたりを繰り返しているのを横目で見ながら、わたしはいつも机に頬杖をついてぼんやり空想していた。
付き合うなら玲がいい。玲以外の男の子と手をつなぐ未来なんて想像できない。手をつなげないなら、キスだってそれ以上のことだってぜったいむり。
玲でなければ。
だけど、玲がわたしのことをどう想っているのかまではわからなかった。幼なじみとして大切にしてくれていることは実感していたけれど、恋愛感情があるのかどうかまではわたしには読み取れなかった。
それは歯痒くもどかしいことだったけれど、わたしはそのままでいいと思っていた。
一生幼なじみのままでもいい。下手に告白して玲を失うことに比べたら、現状維持のほうが百倍ましだ。
でも、こんなことになるのだったら、玉砕覚悟で告白のひとつくらいしておけばよかった。
そのときだった。
「あ、れ」
リン、と鈴の音が鳴った気がした。焦点を定めるわけでもなくただ床を見下ろしていた視線を上げて、あたりをゆるゆると見渡す。
なにもない。あるのはいつもの自分の部屋だけだ。
リン、リン。鈴は二度鳴った。もう一度周囲を見渡して、そしてこんなのは気が触れた自分の頭が幻聴を聴かせているだけだと落胆したとき、違和感に気がついた。
机の上に無造作に置かれた英語のノートが開きっぱなしだった。
しかしあの日以降ノートを開いた覚えはなかったし、そもそも塾の教材は鞄に入れたままだったはずだ。とてもそんな気分にはなれなかったから。
だから、震える手でからだを支えて立ち上がって、力の入らない足を動かして、なにかに取り憑かれみたいに机の前まで行った。そして、真っ白いノートに指先が触れた。
瞬間、突風が吹いて、ページがばらばらとめくられていった。後半の空白のページから、どんどん遡るように前半のページへと進んでいく。
「あ」
あの日の、塾で学んだ内容が目に飛び込んできて視界が歪んだとき、世界から音が消えた。
§
「かんちゃん?」
訝しげに声をかけられた。はっと顔を上げたら、制服姿の玲が心配そうにわたしを覗き込んでいた。
「大丈夫? 具合、わるい?」
わたしは何度か瞬きを繰り返して、わけがわからず首をのろのろと左右に振る。
夢を見ているのだろうか、そうに違いない。そう思ってあたりを見渡してみたら、自分がいま塾の教室にいることに気がついた。あまりにも見覚えのある光景だ。
頭がぼうっとしている。不明瞭な視界の隅に、壁掛け時計が見えた。午後七時半。
「玲?」
「うん、そうだけど。どうしたの?」
「夢かあ」
「え?」
「玲のことを考えすぎて、あの日の夢を見てるんだな、たぶん……」
玲は難しそうな顔をしてわたしの話を聞いていたけれど、不意にはっと目を見開いた。
「かんちゃん」
「なあに」
「きみは……」
迷いながらことばを続けていた玲が、なにかを吹っ切るみたいに首を横に振ると、ほんの少し眉を下げながら柔い笑みを浮かべた。
「帰ろ、かんちゃん」
「えっ」
「講義はすべて終わったよ。昼寝してて忘れちゃったの?」
くすくす、と玲の穏やかな笑い声が空気をふるわせる。
講義。終わった。昼寝。胸の内で反芻しているうちに、自分がひどく疲れていることに気がついて、教材を置いたままの机に突っ伏した。
「ほんとうに体調わるい? 家まで送るよ」
「ううん、わるくない。なんか疲れたみたい。でも、自分ひとりで帰れるから平気」
「危ないよ。外は暗いし送らせて」
「だめ、だめ。それだけはだめ。真っ直ぐ帰って」
たとえ夢だとしても、玲を二度も同じ目には遭わせたくなかった。わたしを家に送り届けなければ、玲は無事に帰宅できる。
せめて夢のなかだけでも、大切な玲を助けたかった。
「かんちゃん」
なのに、なぜか玲は泣き笑いのような表情で、わたしの手首を掴んだ。
「お願いだから、送らせて」
「……どうしたの?」
「頼むから」
いつもわたしの意見を尊重してくれていた玲が、珍しく自分の意思を通そうとしている。その珍しい姿にわたしは目を丸くし、黙り込んだ。
「ぼくの一生のお願い」
玲の必死な声色にわたしは困惑した。そのような玲を見るのは初めてだったので、玲の気持ちを拒絶してまでひとりで帰るべきだろうかと首を捻る。なんとなく、拒否したところで勝手に着いてきてしまいそうな気もする。
どうせ夢なんだし、とこころのなかで呟いたら、目頭が燃えるように熱くなった。
夢であれば、どんなに願ったってやり直せない。そうだとしたら、だいすきな玲と少しでも長い時間一緒にいられたほうがいいかもしれない。
こんな都合よく夢のなかで玲と会えることなんてないのだから、と自分に言い聞かせる。
「わかったよ、玲」
玲はほっと胸を撫で下ろしたあと、嬉しそうな笑みを浮かべた。
玲の笑顔がすきだった。無邪気で、温かくて、相手まで幸せな気持ちにさせるような、ひだまりみたいな笑顔だった。
もう二度と見られないんだと思ったら泣けてきて、懸命に目に焼きつけようとした。そんなわたしを玲は澄んだ瞳でじっと見ている。
「今日のかんちゃん、様子がへんだけど、なにかあったの?」
「そうだなあ……」
机の上に開きっぱなしだった英語のノートを鞄にしまい、立ち上がった。玲が自然な仕草でわたしの手を握り、一緒に塾の教室を後にする。
「悪夢を見てたの」
「そうなんだ」
「でも、そっちのほうが現実なの。だからいまは現実逃避なのかなあ」
つないだ手に力を込めたら、玲が意外そうに眉を跳ね上げた。夢なのに、その手は熱っぽかった。つめたくなった玲を思い出してしまい、わたしは鼻を啜る。
このまま永遠に夢の世界にいたい。現実には戻りたくない。玲がいない世界なんて、わたしには受け入れられない。心臓がびりびりに千切れそうだ。
「どんな悪夢だったの」
「玲がいなくなる悪夢」
死んだ、とはとても言えなかった。
「玲がいないなんて耐えられないや」
言葉尻がふるえていた。
はじめからわかっていた。玲のいない世界で生きていくことなんてできない。夢から醒めたくない。もし醒めたら、わたしは自分を消してしまいたくなる。
「ぼくだって、かんちゃんがいてくれないと困るよ」
「玲は優しいね」
優しいから、奪われたのだ。現実の世界では、優しい人から損なわれていく。わたしのような浅ましい罪人のほうがのうのうと生きている。
「ああ、やだな」
街灯に照らされた舗道をふたりで歩いていた。アスファルトの上に濃い影が浮かび上がっていて、その手はしっかりとつながれていた。
「夢のなかにずっといたいな」
夢なのだからと、深く考えずに自分の本音がぼろぼろ落ちていく。涙と一緒に落下して、アスファルトに歪な楕円模様が点々と広がっていく。
「終わりたくないなあ」
「かんちゃん」
突然手首を引かれて、玲の腕のなかにすっぽりと収まった。わたしのつむじのところに玲の顎が乗る。
保育園に通っていたころはわたしのほうが背が高くて、小学生で同じ目線になって、中学生になったら玲の背が伸び始めた。成長途中の玲はこれから男の人になるはずだった。
わたしが奪った。
わたしが玲の未来を踏み躙った。
「時間がないから手短に言うけど。いや、時間がないんじゃなくて夜遅いからということにしておいて」
「え?」
「かんちゃんのせいじゃない。かんちゃんはなにもわるくない。これはぼくが望んだことなんだよ。それだけは覚えていて」
「夢だからそんなこと言うの? 夢のなかの玲はぜんぶわかっているから、そんなこと言うんだね?」
大粒の涙が玲のブレザーに吸い込まれていく。わたしは自分のふるえる腕を玲の背中に回した。
「でも、夢でもわたしを庇わないでよ……。わたしのこと責めてよ。お願い、だれも責めてくれないの。玲くらいはわたしを突き放してよ」
「それはできないよ。だってぼくは、きみが」
玲がことばに詰まった。その先のことばは途切れたまま、玲は黙ってわたしをきつく抱きすくめた。
夢から醒めたくないのに、夢でなければいいと思ってしまう。夢でなければ、わたしの気持ちを玲に伝えることができるのに。それさえ叶わない。
死んでしまったらなにもできない。
それでも、止まらなかった。
「わたし、玲のことがだいすきだったの。クラスの子みたいにちゃんと付き合って、デートしたかった」
「……」
「あんなに一緒にいたのに今更デートって少し恥ずかしいけど、デートするなら玲がよかった」
「……うん」
「わたしは玲じゃなきゃだめだった。どうしよう、玲がいない現実なんて見れない。なんでいなくなっちゃったの? なんでわたしを置いていったの? わたしのせいなのに、なんで優しくするの? なんでおまえのせいだって言わないの? 否定してよ、お願い、玲だけはわたしを……」
玲が両手でわたしの肩を掴んで、悲しそうな瞳で見下ろした。月明かりのない世界で、人工的な街灯の灯りに青白く照らされていた。
「これはぼくの望んだ世界なんだよ」
そして、ふっと儚い微笑みを口許に浮かべて。玲の細長い指先がわたしの頬の涙を拭い、その手はそのままわたしの後頭部に回った。
「だいすきだよ、かんちゃん。だから、二度とこちらに来てはいけないよ」
そして、触れるだけのキスが降った。
頭がぐるぐる回っていて、前後不覚で、どっちが上でどっちが下かわからない。
なんにもわからない。嘘だ、ぜんぶ嘘。でたらめ。ぜったいに信じない。
だって最後に会ったとき、きみは。
「顔に触ってあげて」
いま、わたしはどこにいるんだろう。
泣き腫らした目で、でも精一杯のほほえみにもなりえないぎこちない最大限の薄っぺらを貼りつけて、立ち尽くすわたしの手を取ろうとする喪服姿のおとな。
自分の子どもが死んだのに、理不尽な暴力で奪われたのに、赤の他人のわたしにまで気を配ろうとするおとなといういきもの。
おとなってそうなの、そうやって偽りを塗りたくって生きているの。だって親のあなたが一番つらいに決まっている。なんでおとなは、泣き喚いて蹴散らさないの?
わたしはされるがまま、きみの頬に触れる。
つめたい。そこにひととしての温もりもいのちの輝きもなにもない。わたしは叫び出したくなる。
到底許せなくて怒りが煮えたぎっていて、ずらりと並んだパイプ椅子を片っ端から一脚ずつ蹴り飛ばしたくなる。
だって悲しみを飲み込んだら、きみが死んでしまったのだと認めたら、そうしたらきみはどこへ行ってしまうの? きみはほんとうにいなくなってしまったの? わたしの行き場のない気持ちはどこへ連れていけばいいの? なんできみはいないの?
お願いだから、だれか教えて。
幼なじみの玲は産まれたときからそばにいた。
同じ産院でまったく同じ日に産声を上げたわたしたちは、首がすわっていないころからいつも一緒だった。どこへいくにも、となりにはあたりまえのように玲がいた。保育園も、小学校も、中学校も。
これから先の気が遠くなるほど長い年月も、玲とわたしは幼なじみであり続けるのだろうと信じていた。
根拠なんてなかった。
ドラマで観る不治の病や、報道で知る凶悪事件、神のみぞ知る天災などは、心を痛めることこそあれど、どこか自分ごととは切り離されたところにあった。現実にはそういうことが起こりうると知っていても、ひとはなぜか自分と自分のまわりには起こらない絵空事だと思い込みがちだ。
たとえその裏にどんな苦しみや悲しみがあったとしても、まるで自分たちはべつの世界を生きているかのように錯覚して、自分のこころの深いところを抉ることもなく日常生活を送っている。
それなのに。いや、それだから天罰が下ったのだろうか。だとしたら。神さまがもしどこかにいるのだとしたら、どうして神さまはわたしではなく玲を選んだのだろう。なにかの間違いだと思いたかった。
「栞奈」
ノックの音と同時に、閉ざされた自室のドアが軋みながら開いた。
顔を出した兄は、真っ赤に充血した目を情けなくくしゃりと歪めて、わたしのことを見ている。
「おれ、おばさんのところに手伝いにいくけど。栞奈はどうする?」
「いかない」
「そっか。うん、わかった」
「お兄ちゃん」
部屋から出ようとしていた兄は、顔だけ振り返って「ん?」と必死に取り繕った顔を見せた。
その表情だけで充分だった。
それだけで、わたしは。
「なんで?」
「うん?」
「なんで玲はいなくなっちゃったの?」
「それは……」
「どうして? 玲、なにか悪いことした? なんで玲だったの? あんなに優しくて、だれのことも悪く言ったりしなくて、みんなに好かれてて、家族思いで友だち思いで、そんな玲が、玲が、なんで? 玲のどこに落ち度があったの?」
「……栞奈」
「わたしが悪かったの? わたしのせいで、玲があんな目に遭ってしまったの? だったらわたし、自分なんか、自分のいのちなんか、削ったってなんだっていいから、お願いだから、お願い、お願いだから……」
お願いだから、玲を返して。
わたしは床に両方の拳を力強く打ちつけた。みるみるうちに瞳の表面に水膜が張り、お通夜でもお葬式でも出なかった涙がぼたぼたと音を立てて落下した。
兄も唇を色が変色するくらい噛み締めて、それでも堪えきれない嗚咽がこぼれ落ちて、その場に力なく崩れ落ちた。いつも格好つけてばかりの兄が、子どものように声を上げて号泣した。
五歳離れた兄は、玲が天使のようだと言われていた赤ちゃんのころからずっと、玲を実の弟のように可愛がってきた。
兄があまりにも玲ばかり優遇するので、子どものころのわたしは不貞腐れたこともあったけれど、そんな鬱憤を一瞬で吹き飛ばすような晴々とした引力が、玲にはあった。
さらさらした黒髪で、瞳は黒曜石のようにきらめいていて、笑うと目尻がふにゃりとやわらかくなる。
玲の姿なら頭の先から爪先まで詳細に思い出せる。我ながら気持ち悪いなと思いつつ、素っ裸の赤ん坊のころから一緒に過ごしているので許してほしい。
玲はわたしのことを「かんちゃん」と呼んだ。どんなときも穏やかな物腰と丁寧なことばづかいで、まるでちいさな紳士が歩いているみたいだった。
優しい玲はわたしをお姫さま扱いして常にエスコートしようとしてくれたけれど、がさつな性格のわたしはその枠には収まりきらず、破天荒な行動をしてはまわりのおとなを呆れさせていた。
でも、玲は一度もわたしを咎めなかった。
兄は「おれから言えることがあるとしたら、栞奈はなにも悪くないってことだけだ」と涙に濡れた声で言った。なんの慰めにもならなかった。
「通り魔だったんだよ」
あの日、玲とわたしは塾帰りで。
「運が悪かった、みんなわかってる」
夜道を案じた玲が、わたしを家まで送り届けて。
「だれも栞奈を責めたりなんかしない」
玲はその帰りに、通り魔に遭った。
街灯が煌々と照らす片側二車線の大通りだった。その日は外気温が十度ほどの肌寒い夜で、新月だったためか、街の明かりがネオンのように浮かび上がっていた。
歩行者用信号機が赤から青に変わって、十人前後の歩行者が一斉に横断歩道を渡りはじめたとき、自転車に乗った凶悪犯が現れた。被害者は玲だけではない。
兄はわたしの様子を窺いつつ、涙でぐしゃぐしゃになった顔をパーカーの袖でごしごしと拭い、わたしの部屋を出ていった。玲の家へ行くのだろう。
憔悴しきっていたおばさんの顔が思い浮かぶ。どんな顔をしておばさんに会えばいいかわからなかった。
ふと、窓のほうを見上げたら、そこには濃紺の闇が広がっていた。カーテンを閉める気力も起きず、わたしは床の上にへたり込んだままだった。
「……お願い」
なにも、いらない。もうなにもいらないから、玲を返してください。わたしなんていなくなっていいから、どうか玲を連れていかないで。
わたしは玲のことがすきだった。幼なじみに向ける情、以上のものを抱いていた。大好きだった。
中学校のクラスメートが付き合ったり別れたりを繰り返しているのを横目で見ながら、わたしはいつも机に頬杖をついてぼんやり空想していた。
付き合うなら玲がいい。玲以外の男の子と手をつなぐ未来なんて想像できない。手をつなげないなら、キスだってそれ以上のことだってぜったいむり。
玲でなければ。
だけど、玲がわたしのことをどう想っているのかまではわからなかった。幼なじみとして大切にしてくれていることは実感していたけれど、恋愛感情があるのかどうかまではわたしには読み取れなかった。
それは歯痒くもどかしいことだったけれど、わたしはそのままでいいと思っていた。
一生幼なじみのままでもいい。下手に告白して玲を失うことに比べたら、現状維持のほうが百倍ましだ。
でも、こんなことになるのだったら、玉砕覚悟で告白のひとつくらいしておけばよかった。
そのときだった。
「あ、れ」
リン、と鈴の音が鳴った気がした。焦点を定めるわけでもなくただ床を見下ろしていた視線を上げて、あたりをゆるゆると見渡す。
なにもない。あるのはいつもの自分の部屋だけだ。
リン、リン。鈴は二度鳴った。もう一度周囲を見渡して、そしてこんなのは気が触れた自分の頭が幻聴を聴かせているだけだと落胆したとき、違和感に気がついた。
机の上に無造作に置かれた英語のノートが開きっぱなしだった。
しかしあの日以降ノートを開いた覚えはなかったし、そもそも塾の教材は鞄に入れたままだったはずだ。とてもそんな気分にはなれなかったから。
だから、震える手でからだを支えて立ち上がって、力の入らない足を動かして、なにかに取り憑かれみたいに机の前まで行った。そして、真っ白いノートに指先が触れた。
瞬間、突風が吹いて、ページがばらばらとめくられていった。後半の空白のページから、どんどん遡るように前半のページへと進んでいく。
「あ」
あの日の、塾で学んだ内容が目に飛び込んできて視界が歪んだとき、世界から音が消えた。
§
「かんちゃん?」
訝しげに声をかけられた。はっと顔を上げたら、制服姿の玲が心配そうにわたしを覗き込んでいた。
「大丈夫? 具合、わるい?」
わたしは何度か瞬きを繰り返して、わけがわからず首をのろのろと左右に振る。
夢を見ているのだろうか、そうに違いない。そう思ってあたりを見渡してみたら、自分がいま塾の教室にいることに気がついた。あまりにも見覚えのある光景だ。
頭がぼうっとしている。不明瞭な視界の隅に、壁掛け時計が見えた。午後七時半。
「玲?」
「うん、そうだけど。どうしたの?」
「夢かあ」
「え?」
「玲のことを考えすぎて、あの日の夢を見てるんだな、たぶん……」
玲は難しそうな顔をしてわたしの話を聞いていたけれど、不意にはっと目を見開いた。
「かんちゃん」
「なあに」
「きみは……」
迷いながらことばを続けていた玲が、なにかを吹っ切るみたいに首を横に振ると、ほんの少し眉を下げながら柔い笑みを浮かべた。
「帰ろ、かんちゃん」
「えっ」
「講義はすべて終わったよ。昼寝してて忘れちゃったの?」
くすくす、と玲の穏やかな笑い声が空気をふるわせる。
講義。終わった。昼寝。胸の内で反芻しているうちに、自分がひどく疲れていることに気がついて、教材を置いたままの机に突っ伏した。
「ほんとうに体調わるい? 家まで送るよ」
「ううん、わるくない。なんか疲れたみたい。でも、自分ひとりで帰れるから平気」
「危ないよ。外は暗いし送らせて」
「だめ、だめ。それだけはだめ。真っ直ぐ帰って」
たとえ夢だとしても、玲を二度も同じ目には遭わせたくなかった。わたしを家に送り届けなければ、玲は無事に帰宅できる。
せめて夢のなかだけでも、大切な玲を助けたかった。
「かんちゃん」
なのに、なぜか玲は泣き笑いのような表情で、わたしの手首を掴んだ。
「お願いだから、送らせて」
「……どうしたの?」
「頼むから」
いつもわたしの意見を尊重してくれていた玲が、珍しく自分の意思を通そうとしている。その珍しい姿にわたしは目を丸くし、黙り込んだ。
「ぼくの一生のお願い」
玲の必死な声色にわたしは困惑した。そのような玲を見るのは初めてだったので、玲の気持ちを拒絶してまでひとりで帰るべきだろうかと首を捻る。なんとなく、拒否したところで勝手に着いてきてしまいそうな気もする。
どうせ夢なんだし、とこころのなかで呟いたら、目頭が燃えるように熱くなった。
夢であれば、どんなに願ったってやり直せない。そうだとしたら、だいすきな玲と少しでも長い時間一緒にいられたほうがいいかもしれない。
こんな都合よく夢のなかで玲と会えることなんてないのだから、と自分に言い聞かせる。
「わかったよ、玲」
玲はほっと胸を撫で下ろしたあと、嬉しそうな笑みを浮かべた。
玲の笑顔がすきだった。無邪気で、温かくて、相手まで幸せな気持ちにさせるような、ひだまりみたいな笑顔だった。
もう二度と見られないんだと思ったら泣けてきて、懸命に目に焼きつけようとした。そんなわたしを玲は澄んだ瞳でじっと見ている。
「今日のかんちゃん、様子がへんだけど、なにかあったの?」
「そうだなあ……」
机の上に開きっぱなしだった英語のノートを鞄にしまい、立ち上がった。玲が自然な仕草でわたしの手を握り、一緒に塾の教室を後にする。
「悪夢を見てたの」
「そうなんだ」
「でも、そっちのほうが現実なの。だからいまは現実逃避なのかなあ」
つないだ手に力を込めたら、玲が意外そうに眉を跳ね上げた。夢なのに、その手は熱っぽかった。つめたくなった玲を思い出してしまい、わたしは鼻を啜る。
このまま永遠に夢の世界にいたい。現実には戻りたくない。玲がいない世界なんて、わたしには受け入れられない。心臓がびりびりに千切れそうだ。
「どんな悪夢だったの」
「玲がいなくなる悪夢」
死んだ、とはとても言えなかった。
「玲がいないなんて耐えられないや」
言葉尻がふるえていた。
はじめからわかっていた。玲のいない世界で生きていくことなんてできない。夢から醒めたくない。もし醒めたら、わたしは自分を消してしまいたくなる。
「ぼくだって、かんちゃんがいてくれないと困るよ」
「玲は優しいね」
優しいから、奪われたのだ。現実の世界では、優しい人から損なわれていく。わたしのような浅ましい罪人のほうがのうのうと生きている。
「ああ、やだな」
街灯に照らされた舗道をふたりで歩いていた。アスファルトの上に濃い影が浮かび上がっていて、その手はしっかりとつながれていた。
「夢のなかにずっといたいな」
夢なのだからと、深く考えずに自分の本音がぼろぼろ落ちていく。涙と一緒に落下して、アスファルトに歪な楕円模様が点々と広がっていく。
「終わりたくないなあ」
「かんちゃん」
突然手首を引かれて、玲の腕のなかにすっぽりと収まった。わたしのつむじのところに玲の顎が乗る。
保育園に通っていたころはわたしのほうが背が高くて、小学生で同じ目線になって、中学生になったら玲の背が伸び始めた。成長途中の玲はこれから男の人になるはずだった。
わたしが奪った。
わたしが玲の未来を踏み躙った。
「時間がないから手短に言うけど。いや、時間がないんじゃなくて夜遅いからということにしておいて」
「え?」
「かんちゃんのせいじゃない。かんちゃんはなにもわるくない。これはぼくが望んだことなんだよ。それだけは覚えていて」
「夢だからそんなこと言うの? 夢のなかの玲はぜんぶわかっているから、そんなこと言うんだね?」
大粒の涙が玲のブレザーに吸い込まれていく。わたしは自分のふるえる腕を玲の背中に回した。
「でも、夢でもわたしを庇わないでよ……。わたしのこと責めてよ。お願い、だれも責めてくれないの。玲くらいはわたしを突き放してよ」
「それはできないよ。だってぼくは、きみが」
玲がことばに詰まった。その先のことばは途切れたまま、玲は黙ってわたしをきつく抱きすくめた。
夢から醒めたくないのに、夢でなければいいと思ってしまう。夢でなければ、わたしの気持ちを玲に伝えることができるのに。それさえ叶わない。
死んでしまったらなにもできない。
それでも、止まらなかった。
「わたし、玲のことがだいすきだったの。クラスの子みたいにちゃんと付き合って、デートしたかった」
「……」
「あんなに一緒にいたのに今更デートって少し恥ずかしいけど、デートするなら玲がよかった」
「……うん」
「わたしは玲じゃなきゃだめだった。どうしよう、玲がいない現実なんて見れない。なんでいなくなっちゃったの? なんでわたしを置いていったの? わたしのせいなのに、なんで優しくするの? なんでおまえのせいだって言わないの? 否定してよ、お願い、玲だけはわたしを……」
玲が両手でわたしの肩を掴んで、悲しそうな瞳で見下ろした。月明かりのない世界で、人工的な街灯の灯りに青白く照らされていた。
「これはぼくの望んだ世界なんだよ」
そして、ふっと儚い微笑みを口許に浮かべて。玲の細長い指先がわたしの頬の涙を拭い、その手はそのままわたしの後頭部に回った。
「だいすきだよ、かんちゃん。だから、二度とこちらに来てはいけないよ」
そして、触れるだけのキスが降った。