「つ、つるば、みさま……っ」
身体は橡様の手によって丹念に、意味が分からないほどに、快楽へと落とされていた。
けれど、それでも橡様のそれが見えた時に俺は息をのんで、思わず名を呼ぶ。
橡様のそれは──男の徴は見るからに大きく、反り返っていて、俺のものとは比べものにならない。
意識がそれを目にすることにより一気に淫らな夢現から現実に引き戻された。
「ん?」
顔を上げた橡様は俺の足の間に入り込み、俺の足を開かせーー怒張の先を俺の入り口へと宛てがっている。
怒張の先があたる場所は入念に目の前の人に準備されたので、柔らかくはなっているのだろうが……幼子の手程ありそうなものに、俺は一抹の不安を覚えて息を飲み込んだ。
「む、むりです……それ、はいらない……」
俺は首を振って、身を引かせる。
橡様はそんな俺を見て、ふむ、と小さく頷いた。そして次の瞬間、嫣然と微笑む。
「じゃあ、自分で挿れてみようか」
「……へ?」
自分で?それを?身体の中に……??
……。
…………。
………………。
無理ッッッ‼絶対に無理だろ‼‼
俺が今度は大きく首を振ると、橡様の手が俺の足を掴んで、軽く引いた。
ぐぷ、と先っちょが肉の中に入り込む。
「ひあっ……!」
「僕が動いて怖いなら……自分で動くしかないでしょう?ほら、このまま……おいで……?」
受け入れるための肉輪は信じられないくらいにぐずぐずに蕩けている。
橡様の身体がわずかに動くと、入りそうで入らず、入口が開いては閉じた。
怖い、無理だ。そう思う反面で、期待と興奮が俺に生唾を飲ませる。
「……っ……」
羞恥に唇を噛む。けれど意地悪な橡様は、そこで動きを止めたままだ。
俺は観念して、自分から腰を動かした。
「う、くぅ……っん……」
腰を動かすと、先っぽが肉の中へと埋まる。
異物感とそれを勝る快感に俺は目をぎゅっと瞑る。
はじめて、なのに。俺は、はじめてなのに……!
まってくれまってくれ。怖いはずなのに──欲しい。
なんだよ、これ、意味が分からない。
はじめてなのに、痛みもなく欲に溺れて、怖いのに中に収めたい。
もっと奥に欲しくて、腰を進めると、ぐっぽりと亀頭の先が俺の中に挿った。
「あふっ……ぁ……」
「可愛いねぇ……ほら、まだまだあるよ?」
橡様がそこで腰を微動させた。
肉が擦れた場所からの気持ちよさに、目がちかちかとする。
「やぁっ……まって……!そんな、なんで……」
えもしれぬ感触に俺が首を左右に振ると、橡様の手が伸びて俺の頬を撫でた。
「大丈夫だよ……ここに来る前に、水を飲んだでしょう?」
水……。
言われて俺は思い出す。そういえば、あの無味無臭の水。
「あれはね、痛みをなくして身体を柔らかくするんだよ。だから、気持ちいはずだ。怖くないよ」
おいで、と言いながらまた橡様が少しだけ動く。
すると太い雄芯が肉を分けて中に進んでくる。
「く、ふ……っ……」
熱に息を何度も飲み込んだ。
受け入れる口は拡がって苦しさが少しだけ出ているのに、上回る程の快感が背中をせりあがってくる。
まさか、あの水にそんな効果があるとは……媚薬、みたいなものだろうか……?
しかし、そう言われても「はいそうですか」と動くことが出来るわけでもなく。
そりゃ、俺が遊郭にいるような綺麗なお姐さん方ならね!出来たかもだけど!
「これ以上は無理そう?」
橡様は依然と俺を見下ろすようにしながら、ふふ、と笑った。
恥ずかしいやら悔しいやら気持ち良いやら……頭の内がしっちゃかめっちゃかである。
もう無理。本当に無理……。
俺が観念して小さく頷くと、橡様は俺の腰へと手を下ろす。
「本当に、可愛い……」
と言い終わらないうちに橡様が大きく動いた。
「ひあああああっ!!やぁっ……ふかっ……ぃ!」
入り口付近にあったそれが、不意に、突然、奥まで入り込む。
腹の中を埋め尽くされて、俺の喉からは悲鳴に近い嬌声が出ていた。
びくびくと身体が震えて、涙が伝い落ちる。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ・・・!
理解が追いつかない刺激に、俺はしきりに頭を左右に振った。
圧迫感の凄まじさはあるものの、痛みなんかなくて、快感だけを拾い上げる。
「……っ……」
橡様の息も詰まっていた。
俺の足を抱え込んだ橡様が、身体を折り曲げると、俺の身体が倒れる。
そうしてより一層と深く、橡様のものが刺さる。
おかしい、こんなの。
だって、受け入れるようにできている場所じゃないのに……!
いくらあの水の効果があるとはいえ……!
なのに、俺のそこは喜んで橡様を迎え入れて、受け入れていた。
「ああ、あ、あ、あ、あ、あ、っ」
橡様が、動く。一定の間隔で、俺を穿つ。
解された場所が肉の切先で突かれるたびに、俺は色に塗れた悲鳴をあげていた。
「やぁぁぁっ、ひっ……つ、るばみ、さまっ!やだ、っ……なん、でぇっ」
「はっ……ああ、やっぱり君だけだ……」
橡様は時折、俺の涙を舐め取り、唇へと軽い口付けを繰り返す。
どうしようもなく、俺は感じていて。汗がいくつも肌の上から滴り落ちていた。
橡様の抽送に合わせて、自身の陰茎が熱くなる。
「長、くん……」
欲望を隠さない眼差しを向けられて、俺は益々と昂る。
それに加えて、橡様の手が俺のものを緩く握り込んだ。
「あっ、やっ、だっ!」
軽く擦られただけでも、目の裏に星が飛ぶ。
俺はとんでもない快感に打ちのめされて、喉を思い切り反らせていた。
ぎっちりと橡様を包む俺の肉が締まって、橡様が眉根を寄せる。
「はは、ちょっと、きついね……っ。一度……」
言い終える前に、橡様の動きが早くなる。
動きに合わせて俺は俺のものを扱かれて、俺は唇を噛んだ。
頭がおかしくなる……!
力の入らない指で、橡様の手を引っ掻いた。
けれど何が止まるわけでもなく。
ぐぷぐぷ、ぐちゅぐちゅと音が耳をも犯してくる。
何度も何度も何度も何度も、穿たれて、扱かれて。
何度も何度も何度も、繰り返される。
そして、途端に、終わりはやって来た。
ぐ、とさらに奥深くを突かれて、俺のものが精を吐き出して橡様の指を汚しーー、
「ひあああ、ああ、っあ、あ、あ、あっ」
「──……っ」
橡様も、達する。腹の奥底に、熱いものが撒き散らしていく。
「ごめんね、少し……長いよ……」
熱い声を漏らしながら、橡様が俺の瞼に口づけた。
それを感じつつ、俺はぐったりと、身体を寝具の上に投げ出す。
橡様が告げた通り、射精は人とは時間も違えば、量も比べものにならなかった。
どくりどくり、と長い間、それは精を吐き続け──長く、多く、俺を侵食する。
口付けを幾度も落とされながら、たっぷりと吐き出された精液は、俺の腹の中に溜まって、薄い腹をほんの少し押し上げていた。
橡様が起き上がり、満足げに、俺の腹を撫でる。
「ふふ、少し……膨れちゃったね」
「……っあ……」
肌を撫でられて、俺から息が漏れる。
再び、橡様が俺の唇へと口付けを落とした。
「馴染むまで、もう少し……こうして、いようね」
もう少、し……。
どうにか意識を繋ぎながら、俺は頷いた。
「馴染んだら、もう一度……ね」
嘘だろ、と目を見開いた俺に橡様が再び、嫣然と微笑んだ。
──身が持つのだろうか……、俺……。
目を覚ました時、俺は橡様の腕の中にいた。
……おん……まって、すごい抱きしめられている……。
寝ぼけながら身体を動かすが、俺の身体にはがっちりと橡様の腕が巻き付いていた。
この寝殿に入ったのは夜で、帳の隙間からは朝の気配が差し込んでいる。
「……おはよう、長くん」
橡様が優しく囁く。
その瞳には、今まで以上に深い愛情と、何かを確信したような輝きが宿っていた。
「……おはよう……ございます」
小さく答えながら、俺は自分の体が不思議と軽くなっていることに気づく。神域の空気が、昨日までとは違って心地よく感じられる。下半身の違和感は半端ないが、まあそこも……痛みはない。
え、すご…………。
「凄いですね……身体、軽いです……これが儀式の効果」
俺が思ったままにそう呟くと、橡様がなんとも言えない表情で俺を見る。
そして、
「ねえ、長くん。ひとつ、言い忘れてたことがあるんだけど……」
そういわれた瞬間、嫌な予感がした。虫の知らせってやつだ。
「……何でしょう?」
「実は、契りは一度だけでは完成しないんだ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
頭の中で言葉を反芻して、ようやく意味を理解する。
……え、完成しない?つまり……。
「完全に君の身体と神域が馴染むには、何度か契りを繰り返す必要があってね」
橡様はあくまでも穏やかにそう説明するけれど、俺は完全に固まった。
……嘘だろ……いやいやいやいや⁈
何度か……何度か⁉ あれを何度も⁉
心の中で思わず叫びながら、俺はなんとか言葉を絞り出した。
「……それって、どのくらい……必要なんですか?」
「そうだね……完全に馴染むまでに、少なくとも連続で数回は必要だと思うよ」
さらりと言われて、俺は頭を抱えそうになった。
あれを?
連続で?
数回?
いや、無理だって。そんなの……。昨夜だってあれだけ……。
あの情事を思い出してしまい、俺は耳が熱くなるのを感じる。
駄目だ、あれ、駄目だわ……!
痛いかと思えば気持ちよくて……俺は正気を保てなかった。
しかも俺、初めてなのに目の前の方は一度じゃ止まらなかったじゃないか⁈
俺は男女ともに経験がないので、ああいう行為の上で何が常なのかは判断できない。
けれども……あれは、その、うううううう……。
いやでも、神嫁ってそういうものなのか……?
「長くん?」
「あ、いえ……なんでもないです……」
橡様が不思議そうに俺の顔を覗き込む。ああ、なんてこった。
神様相手だからどうこう言えないし、あの行為が俺を馴染ませるためであって下心がないのだったらなお更に何も言えない。
「大丈夫だよ。君に負担がかからないよう、ちゃんと時間をかけながらするからね」
負担……。いや、そういう問題じゃない……。けれども。
橡様の説明によると、神域の力は人間にとって異質なものだから、一度の契りだけでは完全に馴染むことができないのだそうだ。何度か繰り返し契りを行うことで、少しずつ力が体に染み込み、完全に馴染んで初めて「神嫁」になるのだという。
「そういうものなんだよ。だから、焦らなくていいからね」
橡様は優しく微笑むけれど、俺はそれどころじゃなかった。
──これが……神嫁の運命ってやつなのか……。先輩神嫁にお話聞きたい……どこにいるか分かんないけど。
心の中で静かに涙を流しつつ、俺はどうにか平静を装う。
だが、橡様の言葉が追い打ちをかけてきた。
「その後はちゃんと祝言をあげて、夫婦になろうね」
あ、やっぱり夫婦になるんですね。
もうどうなんだろう、これ……。
橡様と契りを交わしてから数日。俺は神域での生活に慣れようと、毎日少しずつ動き回るようにしていた。
神使の子たちと話したり、庭で草花を見たりするうちに、最初の緊張は少し和らいできた。屋敷内についても色々とわかってきたように思う。
ただ、問題がないわけじゃない。
「長様、橡様がお呼びです!」
「あ、はい……」
宵が近づき身体を清めた後、神使たちが元気にやってきて俺を連れていくのは、決まって橡様の寝殿だ。理由はもちろん――契りを続けるためだ。
……もう何回目だっけ……毎日して、るんですけど……。
橡様の言う通り、回数を重ねるたびに体が軽くなっているのは確かだ。それに神域の空気も馴染んできて、吐く息さえ心地いい。けど、けれどもね⁈だからといってこの状況を簡単に受け入れられるかっていうと、それは別の話だ。
寝殿に入るたびに、ほんっとあれまずいって!と俺の心は静かに叫び声を上げている。
とはいえ、橡様と契りを交わす生活にも、さすがに少し慣れてきた。というか、慣れざるを得ない……。
「長くん、また少し馴染んできたみたいだね」
俺を寝台のある帳の内へと引き込みながら、橡様がそう言って微笑む。
その顔を見るたび、俺は「神嫁の運命ってやつ」を改めて痛感するしかなかった。
「ふふ、花の香りがするね」
促されるまま寝台の上にゆっくりと俺は横たわり、橡様を見上げた。
橡様の手が俺の頬を嬉しそうに撫でる。
いつ見ても整った顔だ。人の世ではいないであろう美しさ……。
毎晩、こうしたことが日課になりつつあるのだが、問題はその「慣れ」が俺の中で妙な感情を生み始めていることだった。
…………この行為、戸惑いは大きいが嫌じゃないのが困りもので…………。
嫌じゃない……むしろ、最近ちょっと……いや、かなり気持ちがよ……いやいやいや!俺、何考えてんだ⁈
自分で自分にツッコミを入れながらも、神域の空気に馴染んできたせいか、身体だけでなく心も少しずつ落ち着いているのを感じていた。
「長くん、今日もよろしくね」
その声には相変わらず優しさが満ちているけれど、どこか隠せない熱っぽさが含まれている気がした。
……よろしくお願いします、そう返そうとした俺の言葉は橡様の唇に奪われたのだった。
※
夜が更け、橡様の寝具に包まれながら、俺はぼんやりと天井を見上げていた。
疲労感はあるものの、それに勝る不思議な感覚が体を覆っている。
色々と橡様の行為を受け入れるうちに、俺の身体が変わっているのが、わかる。
いろんな意味で……。色々な意味で……。
「ねえ、長くん」
橡様の柔らかな声が耳元で響く。
「……はい?」
「君がこうして僕の隣にいてくれることが、本当に嬉しいんだ」
静かに囁かれる言葉に、俺は思わず顔を横に向けた。橡様の金色の瞳が、どこまでも真っ直ぐに俺を見つめている。
「君が僕と契るたびに、神域に馴染んで、僕のものになっていく感じがしてね」
「……っ!」
その言葉に、俺は息を詰める。
軽々しくそういうことを言わないでほしい……。
なんとも面映ゆい感情が湧き出てきて、俺は視線をそらした。
「ええと、まあ……そう、ですね……」
「ああ、本当に君は可愛いなぁ……君がいない時間はもう考えられない……」
その声には、穏やかさの中に深い執着心が滲んでいた。
俺の身体を橡様の腕が抱く。心地よい温かさと、少しの怖さ。
それはまだ完全にこの状況を受け入れられてない、ほんのちょっとの心の抵抗が生み出しているのかもしれない。
「……橡様」
俺は返す言葉を見つけられず、ただ彼の温かさに身を任せるしかなかった。
翌朝、目を覚ますと、隣には橡様の穏やかな寝顔があった。
どうやら少しだけ俺が先に目覚めたらしい。
普段は俺の方が少し遅いくらいなので珍しいことだな、と思いながら静かに布団から抜け出す。
寝台の外で身支度を整えたところで、神使の子たちが駆け込んできた。
「長様、おはようございます!」
「今日はお庭に新しい花が咲いてますよ!」
朝から元気な神使たちの姿に、俺は少しほっとする。
夜はどうしても……あの腕の中にいるので、夢うつつ気分で……彼らと話していると、どうにか現実に戻れる気がする。
「じゃあ、見に行こうか」
俺が笑いながら応じると、神使たちは元気よく跳ねながら庭に向かって駆け出した。
俺もそれに続いて、庭に降りた。
外は晴れ晴れと青空が広がっており、空気が清く花の香りを運んでくる
庭で神使たちと戯れていると、ふと誰かの視線を感じた。
振り返ると、そこには橡様に負けず劣らずの美しい男が立っている。
茶に近い長い髪を美しく束ね、繊細な模様の着物をまとった姿は、どこか優雅で洗練されて──それでいて、その瞳にはどこか冷たい光が宿っていた。
「浅葱様……」
神使の一人が小さく呟き、俺の後ろに隠れる。普段は元気いっぱいの彼らが急に静かになり、明らかに警戒している様子だ。
どうしてだ……?基本的に神使はなつっこい子が多いのだが……。
「君が橡様の……」
浅葱と呼ばれた男が俺に向けて、ゆっくりと歩み寄ってくる。足取りは花を散らすように軽やかで、気品すら感じさせるものだった。
「……君が、橡様が選んだ神嫁というわけか」
軽く微笑んでいるが、その目には遠慮も容赦もない。俺を値踏みするような視線が、上から下までゆっくりと動いていく。……ちょっと失礼すぎやしないか、この方……。
「初めまして。私は浅葱。……まあ、橡様が選ばれる方にしては……意外だな」
「……初めまして、俺は長です」
ぎこちなく頭を下げると、浅葱はどこか面白がるように口元を緩めた。
「なるほど、確かに人間だな。人間にしては悪くはない、けれど……ふふ、ずいぶんと“素朴”だ」
その声は柔らかいのに、どこか棘を含んでいる。その言葉に、俺の背後で隠れている神使たちの小さな息遣いが聞こえた。耳や尻尾の毛が逆立っている子もいる。
「それにしても、この屋敷は相変わらずだな。どこを歩いても獣の匂いがする」
浅葱の視線が神使たちに向けられる。
神使の一人が震えながら、俺の服の袖をぎゅっと掴むのが分かった。
「神嫁という存在も、屋敷の空気も――こういうものが、橡様にはお似合いだとおっしゃる方がいらっしゃるのだろうけれど……私には理解しかねるね」
言葉遣いは丁寧だが、その内容は一切の容赦がない。
神使たちが押し黙り、俺の後ろに隠れて震えている姿に、胸の奥がちくりと痛む。
少し……俺は苛ついていた。なんだ、こいつ。本当に……。
しかし、俺が何か言うよりも早く、
「浅葱」
静かだが低く力のある声が庭に響く。
その瞬間、浅葱が振り返り、表情にわずかな硬さが現れる。
「橡様」
浅葱は柔らかな笑みを浮かべて頭を下げるが、その声にはわずかな緊張が混じっている。
「あなた様が神嫁を取られたと聞いて……少し挨拶をと思いまして」
「そうか。でも、ここにいる者たちに不快な思いをさせるような挨拶なら、控えてほしいね」
橡様の瞳が鋭く光る。その言葉に、浅葱の表情が一瞬だけ曇った。
「そのようなつもりは……」
浅葱の視線が再び神使たちに向けられる。憎々しさを隠さないものに、俺としても我慢ならなかった。後ろにいる震えている神使を抱き上げてやる。
俺の様子を見つつ、橡様は厳しい声で言った。
「この屋敷にいる全ての者は、僕にとって大切だ。そして長は、僕にとって特別な存在だ。浅葱、これ以上彼らを侮辱するのは許さないよ」
橡様の言葉に、浅葱は少しだけ目を見開いた。しかし、すぐに微笑みを取り繕い、軽く頭を下げた。
「失礼しました。橡様のおっしゃる通りですね。それでは、また改めて伺います」
浅葱は静かに去っていく。その背中には、言葉には出さない苛立ちのようなものが漂っていた。
「驚かせてしまったね、長くん」
その姿が完全に消えてから、橡様が優しい表情で俺に声をかける。
「いえ……でも、この子たちが……」
神使はしっかりと俺にしがみついていた。
あの浅葱と言う人物がよほど恐ろしかったのだろう。
結構、俺としても苛つくんだが?
橡様は一つ息を吐くと、首を振った。
「浅葱の言葉を気にすることはないよ」
「だってさ……大丈夫。もういなくなったよ」
俺ができるだけ優しい声でそう言うと、神使の子が小さく「うん」と頷いた。その様子を見ていた他の神使たちも、恐る恐る俺の周りに集まってきた。
「浅葱様、怖い……」
「長様、ずっとここにいてくれる?」
その言葉に、俺は少し胸が痛んだ。普段は元気に跳ね回っている彼らが、こんなに怯えるなんて。浅葱の言葉が、どれだけ彼らを傷つけたのかが分かる。
いや、あれはないよな。獣の匂い、って。じゃあ来るんじゃねーよ。何様だっつーの。あ、神様ですね。フーン。どの子もお前より可愛いわい。
「もちろん、ずっとここにいるよ。お前たちは俺の大事な仲間……いや、家族……?だから」
そう言いながら、そっと神使たちの頭を撫でると、彼らは少しだけ安心したのか、尻尾をふりふりさせた。抱いていた子を、集まっていた中に戻す。
「……長くん、ありがとう」
橡様が静かに近づき、優しく微笑む。その瞳には、俺への感謝と何か深い想いが込められている。
「長くん。君がここにいることが、どれだけみんなを安心させているか分かるかい?」
橡様がふっと息をつきながら言った。
「君がこの屋敷に来てから、みんなの表情が明るくなった。それは……僕も同じだよ」
「橡様……」
突然の言葉に、俺は思わず彼を見上げた。その瞳は柔らかく微笑んでいるけれど、どこか揺るぎないものが見え隠れする。
「君は僕にとって、何よりも大切な存在だ。それが浅葱にも分かるように言ったつもりだけれど……」
穏やかな声で言いながらも、その瞳には一瞬だけ鋭い光が宿った。
「……浅葱様、どうしてあんな態度なんでしょうか?」
俺がそう尋ねると、橡様は少しだけ考え込むように視線を逸らした。
「そうだね……彼は、僕に執着しているんだと思うよ」
その言葉に、俺は驚いた。橡様のような存在が誰かに執着されるのは分かる。俺はまだ短い時間しかこの方と一緒にいないが、優しい神様だ。
神使に対しても人に対しても。そんな優しい方が、こんな風に告げるとは思っていなかった。
「でも、大丈夫だよ。君さえここにいてくれれば、僕はそれでいい」
橡様の言葉が耳に響くたびに、胸がざわつく。優しい声なのに、どこか逃れられないような重みを感じるのは、俺の気のせいだろうか?嫌じゃないけどさ……。
「そういえば、橡様」
「うん?」
「庭に新しい花が咲いたらしいですよ。見に行きませんか」
俺がそう言うと、静かだった神使達がわっと声を上げて、明るくはしゃぎだす。
橡様の周囲にも集まり、あっち!あっち!と指さして袖を引っ張った。
やっぱ可愛いじゃねーか。目が悪いわ、浅葱様とやらは。性格も悪かったな。はん!
俺は心の中で悪態をつきながら、神使にまじり、行きましょう、と橡様の背中を押した。
その日の夜、寝殿に向かう途中で、ふと背中に冷たい視線を感じた。振り返ると、庭の片隅に黒い影が揺れている。
「……誰だ?誰かいるのか?」
声をかけるが、応答はない。影はゆっくりと揺らめき、次の瞬間には闇に溶けるように消えていた。
……こっわ。なんだったんだ、今の……?
気味が悪いこともあって、急いで寝殿に走る。部屋に入ると、橡様が俺を待っていた。
「どうしたんだい、長くん。顔色が良くないよ」
「いえ、少し庭で……妙なものを見たような気がして」
橡様の表情がわずかに曇る。
「……気にしないでいい。ここは神域だ。外からの侵入は簡単ではないからね」
優しく微笑む橡様に頷いたものの、胸の奥には何か引っかかるものが残っていた。
「今夜は君の近くで様子を見るよ。君が安心できるようにね」
橡様は寝殿で俺を抱き寄せながら、小さく囁いた。
その腕に包まれながら目を閉じると、不思議と安心感が広がり、意識が遠のいていく。
――だが、深夜、ふと冷たい視線を感じて目を覚ました。
なんだ……?
背中に這うような違和感が肌に伝わる。音を立てないようにそっと橡様の腕を抜け出し、寝殿の外へ足を運ぶ。庭には冷たい夜風が吹き、闇が辺りを支配していた。
昨夜と同じ場所で、黒い影が揺らめいていた。だが、今度はそれが徐々に形を変えていく。次第に人の姿を取り、俺の前に立つ。
「初めまして……いや、正確には初めてではないかな?」
その声は低く、冷たさの中にどこか柔らかさを持っていた。影から現れたのは、蛇のような模様が肌のところどこにうっすらと滲む、白い髪の怪しげな男だった。顔の作りで言えば矢張り人の世にはいないような美丈夫とも言えなくない、が……。
「君が橡の神嫁か……なるほど。確かに面白そうだ」
「……お前は……誰だ?」
全身に冷たい汗がにじむ。俺が問いかけると、男は薄く笑った。
「私は、玖珂。君に少し興味が湧いてね」
「興味って……俺に何の用だよ?」
声を震わせないようにするのが精一杯だった。玖珂と名乗った男は微笑みながら一歩近づき、まるで俺を弄ぶかのように首を傾げた。
「簡単なことさ。君は神嫁だ。しかも、橡の――ね。それがどれほど特別か、君自身はまだ分かっていないんじゃないかな?」
その言葉に、胸がざわつく。俺自身も「神嫁」という存在の意味を理解しきれていないからだ。
玖珂がまた一歩近づき、指先で俺の髪に触れかける。
「少しだけ……橡の神嫁に触れてみても?」
その瞬間、橡様の手が素早く玖珂の腕を払った。
「触れるな。誰が許した?」
「……ずいぶんと独占欲が強い」
玖珂は目を細めて面白そうに笑うが、橡様の目は冷たいままだった。
「それがどうした?」
玖珂をねめつける様に見つめたまま橡様の腕が俺を後ろへと引き寄せる。
その仕草が、安心して、と言わんばかりで妙に心地よく──俺はただ、橡様の腕に身を委ねていた。
「玖珂……君がここまで入り込むなんて珍しいね。そうか、長くんが言ってたのは……君か」
橡様の金色の瞳が鋭く光り、その声にはいつもの穏やかさとは違う冷たさが混じっていた。玖珂は気にする様子もなく、肩をすくめる。
「挨拶に来ただけさ。君が手に入れた“宝物”がどんなものか、ちょっと見てみたかったんだ」
「僕の神域に入り込んで、挨拶とは随分と無礼な話ではないかな?」
橡様の声がさらに冷たくなる。玖珂は少しの間沈黙した後、薄笑いを浮かべて言った。
「長くん、だっけ?君には、君にしかない特別な力があるんだよ。橡が君を守りたくなる気持ち、分かる気がするなぁ」
「その特別さに手を出すなら、君と敵対することになる。それを覚悟しているんだよね?」
橡様の瞳がさらに鋭さを増す。玖珂はその視線を真正面から受け止めるが、平然と笑みを浮かべた。
「今日はこのくらいにしておこう。……また来るかもしれないけれどね」
玖珂はそう言い残し、再び黒い影と化して夜闇に消えた。
橡様は深く息をつき、俺へと視線を下ろした。その表情は穏やかでありながら、どこか緊張を孕んでいる。
「まだ夜も深い。戻ろうか」
俺の肩を抱いたまま、二人で歩き出す。
「ごめんね、長くん。怖い思いをさせた」
「いえ……でも、橡様が守ってくれたので……」
俺がそう言うと、橡様の腕が俺の肩をそっと抱きなおした。その力にはいつも以上の温もりと、何か強い決意が込められているように感じられた。
「橡様……」
思わず声をかけると、橡様は少しだけ振り向く。
「何かあったら、僕のそばから離れないようにね」
橡様の言葉は、優しさと強い決意が混ざっていた。
玖珂が来る前からずっとそうだったけど、橡様は俺のことを守ろうとしてくれている。
でも──。
「橡様はずっと、俺のことを守ってくれるんですね」
「もちろん」
橡様の声は変わらず穏やかだったけど、どこか思い詰めたようにも感じた。
これ、俺が橡様の重荷になっているんじゃないか……?大丈夫なんだろうか……。
そう思いながら、しばらく無言で歩き続けていると、橡様がふと足を止めてまだ暗い空を見上げた。
「明日は、幽世の街で市が立つよ」
「市?」
意外な言葉に顔を上げると、橡様はゆっくりと微笑む。
「幽世は神域に近い場所で……いや、神域の一部かな?神や妖怪が集まる場所でね。そこで市が開かれるんだ。屋台が立ち並んで、賑やかになるよ」
へぇ、と俺は思う。
そんな人間がしているようなことを……いや、この場合は人間が模倣しているのだろうか?
「行ってみたいです」
橡様は小さく頷く。
「じゃあ、明るくなったら少し出かけようか。長くんはもう少し休んだ方がいい」
その優しい声に、不安が少しだけ消えた気がした。
橡様と一緒に立ち入った幽世の街は、祭りみたいに賑わっていた。
屋台が立ち並び、神様や妖怪が楽しそうに品物を眺めている。
初めて神域に足を踏み入れた俺には、その光景がどこか夢の中みたいに思えた。
「橡様、この先には何があるんですか?」
隣を歩く橡様に声をかけると、橡様はゆっくり振り返る。
「そちらも市だよ。僕たちみたいな神や妖怪の子が集まって、いろんなものを売るんだ。面白いものもあるから、見て行こうか」
穏やかな声だった。橡様は普段、あまり多くを語らないけれど、その言葉にはどこか優しさがあって。安心できる。
「ゆっくり行きましょうか?」
俺がそう尋ねると、橡様はふっと微笑んだ。
「そうだね。せっかくだから、ゆっくり歩こうか。こうして」
橡様は俺へと返事をしながら、俺の手を取って握った。
そして歩き出す。
色とりどりの灯がともる屋台にはいろんなものが並んでいた。
光を宿す石、色鮮やかな香袋、不思議な模様が浮かび上がる鏡──。
どれも当たり前に初めて見るものばかりで、立ち止まるたびに自然と目を奪われてしまう。
「変わったものが多いですね」
思わず口にすると、橡様が隣から応える。
「ここでしか手に入らないものがほとんどだよ」
橡様は俺のを握ったまま歩きながら、ゆっくりとした声で話してくれる。
その声はまるで俺が不安にならないように気を遣ってくれているみたいだった。
ふと、俺は一軒の屋台の前で足を止めた。
そこには、色とりどりの組紐が綺麗に並んでいる。
赤色に桜色、橙色に藤色……その中でも気になるものがあった。
「これ……」
無意識に手を伸ばすと、屋台の主である小さな狐の妖が微笑んだ。
「旅の守りになる組紐ですよ。どこへ行っても帰る道を忘れないって言われてますこん」
「帰る道を……?」
それは紺色に金糸が組まれたものだった。
手に取った紐を、指にそっと巻き付けてみる。
ひんやりとして柔らかい感触が、なぜか懐かしく思えた。
「気に入ったのかい?」
橡様が、俺の上から静かに声をかけてきた。
「……いえ。ただ、なんとなく……」
否定しつつも、視線は組紐から離せない。
「ふふ、嘘だね」
橡様はくすっと笑いながら、俺の手を離すと、懐から巾着を取り出して狐に代金を渡した。
「……え、買うんですか?」
驚いて見上げると、橡様は迷いなく頷く。
「うん。似合うと思ったからね」
そう言いながら、橡様は俺の右手をそっと取る。
少し驚いたけれど、橡様の指先は驚くほど優しくて、何かを包み込むみたいだった。
ゆっくりと、組紐を手首に巻きつけていく。
「守りの代わりだよ。気にしないでつけておくといい。ちょっとだけ、僕の呪いを加えようか。いつでも君が僕のところだけに帰ってこれるように」
「え?」
言いながら、橡様は己の親指爪先でその中の指先をほんの少し押した。
赤い血が少量滲む。それを組紐の結んだ目に染み込ませた。
あっという間に組紐が血を吸い──そこは先ほどまでの色に戻る。
一連の動作は素早い動きで行われ、俺は言葉を挟む隙もなかった。
「これでいいね」
「あ、はい……」
少し照れくさかったけれど、手首に巻かれた組紐をじっと見つめた。
橡様の言葉は短いけれど、不思議と心に響いてくる。
──それが、橡様から初めてもらった贈り物だった。
橡様の優しさが詰まったその組紐の温もりを、俺はずっと忘れなかった。
たとえ何があっても、これだけは絶対に手放さない。そう心に誓う。
「お熱いお二人だこん!」
狐の妖が俺たちを祝福するように、ちょん、と跳ねた。
その様子が可愛らしく、俺も橡様も笑う。
「橡様がここまで入れ込むなんて、よっぽど好きなんだこんね~」
「うん。僕の大切なお嫁さんだからね」
さらりと答える橡様に、俺は思わず耳まで赤くなった。
狐の妖がくすくすと笑い、熱いこん!熱いこん!と尻尾をぱたぱたと振る。
そしてまた二人で市の中を歩いた。
時折、橡様が不思議な果物や菓子を買って俺の口の中に放り込む。
どれもこれも美味しいものばかりだった。
そのうちの一つを選び、橡様が神使の子達へのお土産にと包んでもらう。
本当に優しい神様だな、と思いつつ、この方の神嫁で良かったな……なんて俺は思ったのだった。
市を巡り、橡様とともに神域の寝殿へ戻ると、日が少し傾き始めていた。
「楽しかったです」
そう言いながら、俺は手首に巻かれた組紐を見つめる。
「なら良かった。ここは村に比べると遊興は少ないかもだからねぇ」
橡様は穏やかに微笑む。
「……でも、ちょっと疲れたかもです」
「うん。今日はよく歩いたからね」
橡様は庭先にある縁側へ座り、俺を手招きする。
俺もその隣に腰を下ろすと、どこからか神使の子供たちが駆け寄ってきた。
「長様!あそぼう!」
「えっ、今から?」
「いいじゃないか。僕はここから見ているよ。とはいえ、長くんも疲れてるだろうし、皆、少しだけだよ?」
橡様は俺の背を軽く押し、神使の子供たちと遊ぶよう促してきた。
まあ、疲れたといっても農作業を丸一日するよりはましというもので。
俺は一度伸びをしてから立ち上がると、言葉に頷きながら神使の子らが俺の手や袖を引っ張る。
「引っ張るなって」
そう言いつつ、俺は神使の子供たちに手を引かれて庭へと出ていく。
笑い声が響く中、橡様は縁側に腰を下ろし、穏やかな目でこちらを見守っていた。
神使たちが「こっちこっち!」と無邪気に手を引くたび、ふと目が合う橡様の柔らかな微笑みが胸に残る。
遊びながらも、俺の視線は時折橡様に向かってしまう。
──不思議と、目が離せなかった。
やがて、夕日が庭を橙色に染め始めた頃。
子供たちが「もう一回!」と駄々をこねる中、橡様が立ち上がって声をかける。
「そろそろ入ろうか」
その一言に、神使たちは「はーい」と名残惜しそうに解散していった。
俺も深呼吸をして、火照った体を冷ますように額を拭う。
「楽しかった?」
縁側から立ち上がり隣に立つ橡様が、少しだけ身を屈めて俺の顔を覗き込む。
子供扱いされている気がして、少しむっとするが、悪い気はしなかった。
「まぁ、たまにはこういうのも……」
言葉を濁しながら視線を逸らすと、橡様はふっと笑う。
「長くんの笑顔が見られると僕も嬉しいよ」
そう言いながら、橡様がふわりと俺の髪に触れる。
その指が耳元をかすめると、くすぐったさと妙な緊張感が同時に襲ってきた。
「……橡様」
「何かな?」
「髪……そんなに触らなくても」
自分で気づかないうちに声が少し震えていた。
橡様は気にする様子もなく、指を髪から滑らせながら静かに微笑む。
「触っていたいんだよ」
さらりとした声に、余計に心臓が早くなる。
「ずっと待っていたお嫁さんだからねぇ」
「っ……」
不意に耳元で囁かれ、体が固まる。
顔がますます熱くなるのを感じて、俺は手首の組紐をぎゅっと握りしめた。
「そんなに赤くなることじゃないよ」
「……橡様が近いから、ですよ……」
気づけば、俺の言葉は小さくなっていた。
橡様は俺を見つめたまま、少しだけ身を乗り出してきて、髪を触っていた手で今度は俺の手を包んだ。
「近い方が、僕は安心するんだけどな」
「橡様……」
逃げられずに視線が交わるまま、手首を包む橡様の指が優しく組紐をなぞる。
その動きにどこか焦らされるような感覚がして、目を逸らそうとしても橡様は許してくれない。
「長くんは、僕から離れないよね?」
「……離れませんよ」
今更、もうどこに行けるというものでもなし……行きたいとも思わない、し。
けれどそこだけは照れてしまって黙ったまま、俺が小さく短く答えると、橡様はようやく満足したように微笑んで、俺の耳へと唇を寄せてからそっと距離を戻した。
「それでいい」
そう言う橡様の表情は、どこか満ち足りているように見えた。
手を離されるかと思ったが、橡様の手はまだ俺の手首に触れたままだった。
「……橡様?」
呼びかけると、橡様は少しだけ考え込むように視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
「もう少しだけ、このままでもいいかな」
「えっ……」
視線を外そうとしても、橡様の指が組紐の上を優しくなぞる。
逃げることもできず、俺はただ小さく頷くしかなかった。
──こうして穏やかな時間が過ぎていった。
けれど、橡様の触れた感触だけは、その後もずっと頭から離れなかった。
今日の橡様はなんだかおかしい。
いつもは何かしら仕事についての書き物をしたり、たまに出かけたりと動いている姿もよく目にする。神様も働くのだな、と俺は思っていたりもした。
俺は村長の手伝いをしていたこともあり読み書きができるので、書簡の整理など雑用を少しさせてもらっているのだが……。橡様は普段より少し動きが鈍いように見える。
「橡様……疲れてませんか?」
「ん?いや、大丈夫だよ」
そう言いつつも、橡様の声はわずかに力が抜けていた。
「本当に……?」
少し不安になり、座っている橡様の顔を覗き込む。
「うーん……そうだね、少し休もうか……」
橡様はそう言いながら、目を伏せる。
立ち上がろうとした瞬間、橡様の体がふらりと揺れた。
「橡様!」
咄嗟に支えた俺の肩に、橡様がゆっくりと重みを預けてくる。
「大丈夫、大丈夫」
苦笑しながらも、体の力が抜けているのがわかる。
「……本当に無理してません?」
「少しだけね」
橡様が珍しく素直に認めたことに、俺は驚いた。
「寝殿で休みましょう……?」
「急ぐものはないし……そうしようか」
俺が袖を引くと、橡様はそのままゆっくりと歩き出した。
けれど、普段の軽やかさはなく、少し足取りが重い。
「やっぱり具合悪いじゃないですか……」
「病気とかではないから大丈夫なんだよ?でもお嫁さんに心配されるのもいいねぇ」
橡様がくすっと笑い、俺は思わずむっとする。
「調子に乗らないでください」
「はいはい」
寝台の上に橡様を寝かせ、布団を掛ける。
橡様は目を閉じたまま、気持ちよさそうに深呼吸をしていた。
「水を持ってきます」
「大丈夫だよ?横になっていれば回復するから」
「……いや、待っててください」
強引に部屋を出て、水を汲みに行く。
俺はここにきてほぼほぼお世話になりっぱなしだ。
村にいたころと比べるとかなり楽をさせてもらっている。
恩返しというほどではないが、せめて橡様が休んでいる間くらいは、俺が何かしてあげたい。
神使に頼んで水を汲み、干菓子を幾つか貰う。
疲れている、というならば甘いものは少しの癒しになるかもしれない。
それらを持って足早に戻ってくると、橡様は布団の中で目を閉じたままだった。
器を置き、傍らに静かに座る。
「……」
髪が額にかかっていたのが気になり、そっと手を伸ばして橡様の髪を撫でる。
絹糸のような黒の髪は手触りがとても良かった。
橡様は俺の頭をよく撫でては気持ち良いと言うが、橡様の髪の毛の方が俺からすれば数段も綺麗だし手触り良く感じる。
髪だけではない。その顔にしたってそうだ。
俺は未だに自分の容姿が綺麗だとはいまいち思えないし、橡様に比べれば見劣りどころか月とすっぽんではなかろうか?
自分を卑下するわけでもないのだが……何せ相手は神様なもので、人間と比べる方が烏滸がましい気もする。
「……俺よりお綺麗なんだけどなぁ……」
そう呟いた瞬間、橡様がふっと目を開けた。
「長くん?」
「あっ、起こしちゃいましたか?」
「ううん。髪を撫でられるのは悪くないね……懐かしい感覚だ」
そう言いながら、橡様が手を伸ばして俺の手首を軽く掴む。
「ちょ、橡様?」
「せっかくだし、一緒に休もう?」
調子に乗ったように言いながら、俺の手を自分の方に引き寄せた。
俺は体勢を崩して、そのまま橡様の腕の中に転がることとなってしまう。
「……橡様、調子が悪いんじゃないんですか?」
「疲れてるだけだよ」
橡様はそのまま俺を抱きすくめた。
「えぇ……おかしいですって……」
「長くんの体温が気持ちいいんだよ」
にこりと笑う橡様を見て、俺はため息をついた。
「……まあ、温められるならいいですけどね……」
温かいよ、とそう言いつつ、橡様は俺を抱きなおした。
橡様は目を閉じたまま、静かに口を開く。
「昔ね、浅葱もこうして僕を心配してくれたことがあったんだよ。昔の浅葱はね、僕が体調を崩したときには、必ず白い花を枕元に飾ってくれてたりね」
「浅葱様が……」
一度会ったことのある、あの神様だ。
橡様と同様に酷く美しいけれど、それよりも傲慢な印象が俺には残っていた。
思わず聞き返すと、橡様は「そう」と目を閉じたまま微笑む。
「今の浅葱からは想像できないでしょう?」
「……正直に言えば、まあ……」
橡様は少しの間目を伏せ、遠くを見つめるように続けた。
「昔の浅葱はね、もっと素直で優しい子だったんだ」
「それは、また……浅葱様は橡様とはどういうご関係なんですか?」
俺がなんとなくそう聞くと、橡様が目を開けて俺を見た。
「気になる?」
「え?あ、まあ……?」
橡様は俺の様子を見た後に、ふむ、と一つ漏らしてからまた目を閉じた。
なんだ、今の。
「橡様?」
俺は続きを促すように声をかけると、俺を抱いていた手が背中を撫でる。
「興味を持ってくれるのは嬉しいけど、ここは嫉妬してほしいなぁ……」
ぼそり、と橡様はそう言った。
嫉妬。なんで嫉妬……?
俺は首を傾げて思考をめぐらしてから、漸く気付く。
「お嫁さんが嫉妬してくれたら嬉しいのだけど……」
言いながら俺の身体を抱いたまま、橡様がくるりと身体をまわした。
俺はあっという間に橡様の身体の下にいて──押し倒されるような姿勢になっている。
そうして、俺の首筋に顔を埋める。
「何言ってるんですか、それに、ちょっと……!」
橡様がいわんとしていることはわからないでもない。俺も男である。
ただなぁ……嫉妬するような行為を見せられたわけでもないのだが……いや、まてよ?
「……昔の恋人だったりするんですか?」
えらく敵視されているような節はあったしな。
人と違い長く生きているならばそう言うこともあるのかもしれない。
けれど橡様は俺がそう質問した途端に顔を上げて、驚いた顔をして首を横に振った。
「ないよ、そんなこと。浅葱は……幼馴染みたいなものだよ」
「ならいいいじゃないですか。俺にだっていますよ、幼馴染。ろくなやつじゃないですけど」
「えぇ……僕はその子にも嫉妬しちゃいそうなんだけど……」
はあ、と俺の上で大きなため息が漏れた。
幼馴染にも嫉妬か。それはそれで凄いな……俺の好かれ方。
俺もそれくらいいつか好きになるのだろうか、この神様のこと。
今でもそりゃぁ嫌いではないしどちらかと言えば、好きな方では……。
なんだかそこで変に意識してしまい、俺は頬が熱くなってしまう。
「長くん?赤くなってどうしたの?」
「……何でもないです……ほら、休んでください」
俺は身を捩ってその腕から逃れようとした。
のだが、
「え、駄目だよ。そんな可愛い反応されたら、僕が離すと思う?」
「は?」
橡様がさくっと動いて、俺との間にあった上掛けを端へと追いやった。
「……君に触れたくなった」
不意に低く甘い声が俺の耳元で耳元で静かに囁く。
冗談っぽかった雰囲気が少し変わり、俺は一瞬ドキリとしてしまった。
そして俺の少し乱れた着物の裾から手を入れてきて、足を撫であげる。
「あっ……ちょ、やめ……っ!お疲れなんですよね⁈橡様……!」
「うん。だから、長くんに癒してもらう」
「何言って……んむっ」
俺の抗議は呆気なく、その唇に飲み込まれる。
こういうのも、お疲れの原因じゃないんですかね⁈
と心の中でだけ叫んだのだった。
ところで。
この時にそりゃ丁寧に丁寧に俺は可愛がられたので(意味深)、夜に呼ばれた際には「もう今日はしましたよ⁈」とご辞退申し上げたら「関係ないよ」とことさらまた可愛がられた。解せぬ。
幽世と人の世との間には明確な境界がある。
「境界」とは、人の世と幽世を隔てる目には見えぬ薄い膜のようなもので、普段はしっかりと保たれているが、時間や場所によってはその境が揺らぎ、人間が迷い込んだり、神や妖怪が現世に姿を現したりする。
この境界が不安定になると、両方の世界が混ざり合い、大きな災厄を招くことがある。
橡様は俺が屋敷にいる間に色々と教えてくれた。
そして境界の見回りは、橡様の大切な仕事のひとつでもあるらしく、今日はその手伝いを申し出て、荷物の持ち運び役を務めている。
「長くん、重くない?」
「大丈夫ですよ。村で荷運びしていたので慣れてます」
「頼もしいねぇ」
境界のある森は、神域の奥深くにある。
昼でも木々が生い茂り、光が細く差し込む程度だったが、不思議と怖さはなかった。
橡様は楽しげに微笑んで前を歩いている.それだけで、空気が柔らかく感じるからだろうか。
森の奥深く、ようやく辿り着いた境界の石碑は、静かにそこに佇んでいた。
苔むした石に、何か古い文字が刻まれている。
「これが境界を守る石碑だよ。触れてみる?」
「いいんですか?」
「大丈夫。少しならね」
俺は恐る恐る指先で石碑をなぞる。
ひんやりとしていて、どこか柔らかい感触がした。
「……すごいですね。生きてるみたいです」
「そうだよ。これは境界の力を受けているからね」
橡様は俺が持っている木箱から器を取り出し、静かに石碑の前に座る。
その動きは儀式めいていて、どこか神聖な空気が漂っていた。
「僕が今から少し力を注ぐから、見ていてね」
橡様がそう言うと、指先からふわりと光が生まれ、石碑の表面に流れていく。
その瞬間、石碑の周りに小さな花がぽつりと咲いた。
「花が……」
「うん、境界が安定すると、こうして花が咲くんだよ。分かりやすくていいでしょう?」
静かに咲く花は、なんとも言えない可憐さだった。
「橡様の力って、改めてすごいですね……」
「君が隣で見てくれるから、いつもより上手くいく気がするよ」
そんなことをさらりと言われると、耳が熱くなる。
俺はそれを隠すために横を向くと、橡様が小さく笑った。
どうもな……最近は結構転がされてる気がする。まあいいけど。
俺は一つ咳払いをして、橡様に向き直った。
「……それはよかったです」
「ふふ。可愛いなぁ……でもね、これはいつか君がすることでもある」
「え、俺が……?俺には無理ですよ」
「ふふ、神嫁の役割は案外大事なんだよ?」
冗談めかして橡様が言うが、俺としては神の御業なんて使えるもんでもないので、それを聞いて内心焦る。まあ、そのうちね、と橡様は俺の頭を柔らかく撫でた。
しかし、儀式が終わりかけた頃、橡様の表情がわずかに曇った。
「……あれ?」
「橡様?」
「境界に、小さなひびが入ってる」
橡様が石碑を指でなぞると、ほんの少し、細かなひび割れが浮かび上がった。
「大丈夫なんですか?」
「うん、すぐに直せるよ。ただ……少し気になるね」
橡様は指先でそっとひびに触れ、静かに力を注ぐ。
再び花が咲き、そのひびはすぐに消えていった。
「これでよし、と」
「……よかった」
「長くんがいると、安心して作業できるよ」
橡様がこちらを見て微笑む。
「僕の仕事、どうだった?」
「……すごかったです。俺、何もしてませんけど……」
「いやいや、君がそばにいるだけで、神嫁として十分役に立ってるんだよ?」
橡様はまた軽く俺の髪を撫でた。
そうして立ち上がり、また二人で歩きだす。
どうやら作業はこれで終わりらしい。
森を抜ける帰り道は、橡様の後ろを静かに歩いていた。
さっきの儀式がまだ頭に残っていて、ひびが入った境界のことが少し気になっている。
「橡様、さっきのひび割れ……」
「ん?」
声をかけると、橡様はゆっくりと振り返った。
「やっぱり、何か良くないことが起きてるんでしょうか」
俺が少し不安げに尋ねると、橡様はふっと微笑んだ。
「大丈夫だよ。ひびが入ること自体は珍しくないからね」
「そうなんですか?」
「うん。あれくらいならね」
橡様が森の木々を見上げる。
夕暮れの光が木漏れ日になり、橡様の横顔を照らしていた。
「やっぱり、誰かの仕業だったりするんですか?」
俺が恐る恐る尋ねると、橡様は小さく息をついた。
「可能性はあるね。例えば……浅葱や玖珂みたいな子がね」
「浅葱様と玖珂様……」
浅葱は以前会ったことがある。
でも玖珂は……。
「この前、君に触れようとした彼だよ」
そこで俺の頭のなかで、ああ、と繋がった。
「玖珂は蛇神だよ。長く生きてるけど、ちょっと変わった性格をしていてね。僕が境界を守っているのを面白がって、時々からかいにくるんだ」
「からかい……ですか?」
「うん、玖珂はそういうのが好きだからね。人間を攫ったりすることはしないけど、境界を少しいじって様子を見たりするんだよ」
「えぇ……それって……結構迷惑じゃないですか?」
俺が思わず眉をひそめると、橡様はくすっと笑った。
「そうなんだけどね。でも、玖珂は悪意があってやってるわけじゃないんだ。ただのいたずらみたいなものだから。まあ、君に触れたらいたずらじゃすまないけどね」
「神様のいたずらって……たちが悪いですね」
俺が苦笑いすると、橡様は「そうだねぇ」と少し楽しそうに応じた。
しばらく歩いていると、橡様がぽつりと呟いた。
「でもね、浅葱のことは少し気をつけておいた方がいいかもしれないね」
「浅葱様が……?」
「彼は、長くんのことをあまりよく思っていないようだからね」
「それは……なんとなく分かります」
以前会った時の浅葱様の冷たい目を思い出す。
あの人が俺を睨んでいた理由は、きっと俺が橡様の神嫁だからだろう。
「……橡様にとって、浅葱様ってどういう存在なんですか?」
何気なくそう尋ねると、橡様は「どういう存在か……」と少し考える素振りを見せた。
「前にも言ったけど、幼馴染で……大事な友達だよ。でも……今の浅葱は昔の彼とは少し違う気がするね」
「……俺がいるからですか?」
俺がそう口にすると、橡様はすぐに否定するように首を振った。
「違うよ、長くんが悪いわけじゃない。ただ、浅葱は少しだけ独占欲が強いだけなんだ。
本当はね、彼も優しい子なんだけれどね……」
橡様の言葉を聞いて、少しだけ浅葱様のことを考えてみる。
神様にもいろいろな感情があるんだな、と改めて思った。
気づけば森を抜けて、神域の境内が見えてきた。
夕暮れの中で、橡様が少しだけ振り返る。
「長くん、これからも一緒に境界を見回ってくれる?」
「もちろんです。俺でよければ」
「ありがとう」
橡様は穏やかに微笑むと、俺の手首に巻かれた組紐をそっと指でなぞった。
指がほんの少し長く触れていて、その仕草に心臓がほんの少し高鳴る。
「君が隣にいるだけで、僕は安心できるよ」
橡様の言葉にまた耳が熱くなって、俺は少し目を逸らした。
「そんなに触らなくても……」
「触りたいんだよ」
さらりとした声で言われて、思わず足を止めてしまう。
ふと橡様が俺の目の前に立ち、顔を覗き込んだ。
「……橡様?」
「長くんがどんな反応をするか、見たくなってね」
橡様は楽しそうに目を細めて微笑むが、その瞳はどこか真剣でもある。
俺は視線を逸らせず、橡様の目を見つめ返してしまう。
「僕のお嫁さんなんだから、もっと甘えてくれてもいいんだよ?」
「……これ以上、橡様に甘えたら俺、駄目になりそうです」
俺がそう口にすると、橡様はふっと笑い、そっと俺の髪を撫でた。
「それでもいいよ。君がどこにも行けなくしたいなぁ」
その声は、冗談めいたものだった。
だけど、その一言にどこか本音が混じっている気がして、俺は何も言えなかった。
俺は緩く息をつきながら、橡様と並んでゆっくりと歩き出すのだった。