午前、そして午後と祖母の手伝いをしながら、日が暮れるのを心待ちにしていた。
ようやく太陽が真っ赤に熟し始めた頃、点けられたままで誰にも見向きされていなかったテレビで時刻を確認する。
午後六時三十分。
待ち合わせの時間は七時なので、そろそろ家を出たほうがいいだろう。
「お母さん。ちょっとお祭り見てくるね」
「ひとりで?」
「うん」
少なくとも現地に到着するまではそういうことになる。
宵の口の空はまだオレンジ色が優勢だった。
玄関を出た時は微かに聞こえていただけの祭ばやしが、県道を渡り切った途端にはっきりと耳に飛び込んでくる。
そのことで自然と身が引き締まり、何なら小さめの武者震いまで出てしまった。
それはこれから彼女に会えるからに他ならなかったのだが、同時に僕の独りよがりなのではないかという不安からもきていたように思う。
公園を転用した盆踊りの会場は、特別な夏の夜を謳歌する多くの人で賑わっていた。
櫓に括り付けられた音量重視のスピーカーから流れる、笛や太鼓の囃子。
夜店の人たちが使う発電機の音や、そこかしこを楽しそうに走り回る子供たちの歓声。
そんな幸せな音たちに囲まれながら、僕は広場の奥にあるタイヤ飛びの上に腰を下ろすと、彼女がやって来るのを待った。
やがてスピーカーからは祭ばやしに代わり炭坑節が流れ出す。
それを合図に一人、また一人と櫓のもとに集っていく。
手持ち無沙汰から踊りの輪に加わろうかと思っていた、その時だった。
「夏生くん、おまたせ」
背後から急に声を掛けられ、亀のように首を竦ませながら振り返る。
そこには束ねて上げた髪に水色の髪飾りを付け、真夏の海のような藍色の浴衣を着こなした彼女の姿があった。
「どう? 似合ってるかな?」
「うん。すごく素敵だと思う」
率直な感想を述べると、彼女は小さな声で「ありがとう」と言った。
「夏生くんって、ちょっとだけ変わってる」
夜店でフランクフルトを購入してからタイヤ飛びまで戻った途端、彼女にそんなことを言われてしまった。
「変わってるって?」
マスタードの付いていない方をプラスチックトレーごと手渡す。
「あ、ありがとう。……初めて会った時もだったけど、なんか――」
「ごめん」
僕には昔から思ったことをそのまま口にしてしまう悪癖があった。
何度も直そうとしたが、それはなかなかにして難しいことだった。
「あ、ちがくて! ……変わってる言っても、べつに悪い意味じゃないの」
彼女は背筋をやや伸ばすと、真剣な面持ちで言葉を続けた。
「夏生くん、ぜんぶ言ってくれるから」
「全部?」
「……言ってもらって嬉しいこと」
三度顔を赤らめた彼女は、「いただきます」と言ってからフランクフルトを口にした。
彼女がフランクフルトを食べ終えた頃合いを見計らい、勢いよくタイヤから立ち上がると右手を差し出す。
それは彼女が手にしているトレーを受け取り、すぐそこにあるゴミ箱に捨ててこようと思っての行動だった。
だが彼女は少し驚いたような顔をしたあと、僕の右手に自分の左手を重ねてくる。
彼女の手は僕の手よりも一周りも二周りも小さく、それに少しだけひんやりとしていた。
「志帆ちゃん、行こっか」
握ったほうの手で彼女を立ち上がらせ、反対の手で今度こそ串とトレーを受け取る。
踊りの輪に加わるのは二年振りのことだった。
最初の数分こそ違和感を覚えながらだったが、すぐに勘を取り戻して手足を大きく振りながら手拍子を打つ。
すぐ後ろでは、彼女も遠慮がちに団扇を振りながら、やはり小さめな動きで音楽に合わせて手足を動かしていた。
「ごめん志帆ちゃん。ちょっと場所、替わってもらってもいい?」
彼女は不思議そうな顔をしながら「どうしたの?」と尋ねてくる。
「志帆ちゃんが踊るとこ、もっとよく見ていたくて」
彼女は振るっていた団扇を口元にあて、「……そういうところだよ」と言った。
櫓の周囲を三周した頃になり、どちらからともなく盆踊りの輪からそっと抜け出す。
「夏生くん、踊るの上手なんだね」
彼女はそう言いながら、手にした団扇で僕のことを扇いでくれる。
「志帆ちゃんこそ――」
そのあと『すごく上手で、それに綺麗だった』と続けたかったが、今回ばかりは既の所で言葉を飲み込むことに成功した。
「お姫様みたいでかわいかったよ」
「だから……もう! 夏生くんって本当に変わってる」
どうやら僕は本格的に変なようだ。
少し休憩してから顔なじみのかき氷の夜店へと足を運んだ。
強面の店主が僕の顔を見て、「今年はまた随分と若い女の子に乗り換えたな」と誂ってくる。
「おばあちゃんは観たいドラマがあるから今年は来ないって。この子は僕の大事な友達だよ」
自分的には最大限に言葉を選んだつもりだった。
店主は目を丸くすると「そうかい。じゃあたっぷりサービスしてやらんとな」と、慣れた手付きで見る見るうちに小高い山を二つ築き上げる。
練乳が雪崩の如く山肌を埋め尽くしており、もはや見た目では何味のシロップが掛かっているのかすら判別できない。
まるで南アルプスの山々を思わせる巨大な氷壁を目の当たりにした彼女は、その大きな瞳に隠しきれない不安の色を宿していた。
「これ、食べきれないかも……」
二人してタイヤの上に座り、一心不乱にシャリシャリと氷山を崩す。
「夏生くん」
すぐ横から聞こえた鈴の音のような声に、登山の手を一旦止めて顔を上げた。
「さっきはありがとう。その……大事な友達って言ってくれて」
「僕さ。志帆ちゃんとは海で初めて会ってお喋りをした時から、なんかだ昔からの友達みたいな気がしてたんだ」
性懲りもなく思ったことをストレートに口に出してから、急いで視線を氷山に戻すと山崩しを再開した。
視界の隅で、彼女が開きかけた口をそっと噤むのが見えた気がした。
ようやく氷山を崩し切ると、その向こう側には見慣れた景色が広がっていた。
小学生だった頃の国語の時間に、山の陰になるせいで半日しか陽が射さない村の住人が、長い時間を掛けて山の土や石を削り、一日中陽の光が得られるようになったという物語を読んだことがある。
今の僕はまさにその村の住人だった。
当時は、埋め立てられた湖に住む魚たちの安否が気になって仕方がなかったが、今は彼女のことが心配でならない。
「志帆ちゃんはどう? いけそう?」
舌をブルーハワイ色に染めた僕の問い掛けに、彼女は弱々しく首を左右に振って答えた。
「貸して」
力なく差し出されたカップに目を落とすと、そこにはまだ半分以上も氷が残されていた。
僕はそれを丼ぶりの飯でも搔き込むかように、一気に胃袋へと流し込んだ。
次の瞬間にはもう、激しい頭痛と胸痛が襲ってくる。
もんどり打ちそうになるのを気力だけでなんとか堪え、平然を装い空になった容器を彼女に示した。
「夏生くんすごい!」
称賛の言葉に手を振り応え、空になったカップを捨てに行くため立ち上がる。
彼女に背を向けた途端、耐えに耐えていた苦痛が形相に反映され、途中ですれ違った小学生の女の子が「っひ!」と声をあげるのが聞こえた。
かき氷のダメージが癒えるのを待ちながら、昨日の午後に話しきれなかった雑談の続きをする。
それは学校にいる恐い先生の話だったり、最近買ったCDの話だったりと、本当に他愛もないことばかりだった。
それは僕にとっては最高に楽しい時間で、彼女もきっと同じように感じてくれているはずだった。
そう確信できるほどに、僕たちはよく口を動かし笑い続けた。
「あ、ごめんなさい。私、そろそろ帰らないと」
広場の時計に目を向けた彼女は、申し訳なさそうに目を伏せた。
まだ八時を少し回ったところが、中学生の女の子の門限を考えれば、いくら特別な日だからといっても当然だろう。
「家の人が迎えに来てくれるの?」
「あ、ううん。歩きなの」
「じゃあ送っていくよ」
「え、いいよ」
「いこ」
「あ! 夏生くん待って!」
広場を出ると少しだけ早足で県道を西に向かう。
暗がりの歩道で手のひらを上にして手を差し出すと、彼女は熱いものにでも触れるようにそっと手を重ねてくる。
「夏生くんってやっぱり、ぜったいに変わってる」
その指摘に対する最適解を持ち合わせていなかった僕は、可能な限り有り体な返答でお茶を濁すしかなかった。
「そんなに変?」
自覚があるくらいなのだから、実際にあってもそうなのだろうが。
「ヘンだよ。だって、うちの学校にはいないもん」
「僕の学校にもいないよ。志帆ちゃんみたいなかわいい女の子って」
僕は思ったことをただ口から自動で出力するだけのコピー機のような男なのだが、故にその言葉の全てが偽りのない本心だった。
だとしても、やはりもう少し言い方というものがあったかもしれない。
なにせ僕たちはまだ中学生なのだし、それよりも何よりも、一昨日の夕方に知り合ったばかりなのだ。
今からでも『な~んちゃって!』とでも言ったほうがいいのだろうか?
それこそ大悪手だという予感もするが。
そんなどうでもいいことに考えを巡らせていると、ふいに彼女が立ち止まった。
手と手で繋がっている僕も必然的に動きを止める。
「どうしたの?」
「……うちの学校にもいないから」
「え?」
「夏生くんみたいな……素敵な男の子。うちの学校にはいないよ」
昨日の待ち合わせ場所だったリカーショップの前まで来た時だった。
「あ、夏生くん、ここで大丈夫。うち、もうすぐそこだから。今日は本当にありがとうございました」
彼女はそう言うと、浴衣の裾を正してから深くお辞儀をした。
慌てて僕も「こちらこそ」と、かしこまって頭を下げる。
そして互いに顔を合わせてクスリと笑った。
「……志帆ちゃん」
「うん?」
「明日。明日はどこに行こっか?」
自身の口から発せられた言葉のそのあまりの気恥ずかしさに、首の後ろ側がゾクゾクと粟立つ。
一瞬だけ驚いたような顔をした彼女だったが、次の瞬間には手にしていた団扇で口元を隠しながらこう言った。
「いまね、私もおなじこと言おうと思ってたの」
満天の星の下をひとりで歩きながら、今日あった様々な出来事を思い出していた。
このあと僕は、帰宅が遅くなったことで母に怒られるだろう。
だが今はただ、幸せな気持ちに胸を踊らせるがままでいた。
周囲を見回し人も車も見当たらないことを確認すると、歩道と車道を隔てる縁石の上を歩く。
今日は帰ったらすぐに風呂に入り、とっとと寝てしまおう。
そうすればまた、すぐに彼女と会うことができるのだから。
午前中は宿題をやっつけて過ごし、昼ご飯は家族と素麺を食べた。
太陽が頭上を通過した頃になり、もはや定型文になりつつある「ちょっと出掛けてくる」と母に言い残し、海のある南へと足を向ける。
今まで一度も人がいるのを見たことのなかった海岸を、一組の母子が並んで歩いているのが目に映った。
楽しげに波を避けながら足元に目線を落とし歩く様子から、貝殻やシーグラスを探しているのだろう。
幼かった日の僕も同じ目的で波打ち際を何往復も歩いたことがあった。
あのとき手に入れポケットに仕舞ったはずのそれは、家に戻るまでの道中でいつの間にか失われてしまっていた。
そのことに気づいた翌日の昼から必死になって探した宝物を、僕は結局みつけることができたのだったか?
薄紫色の花が咲く砂の丘の上に腰を下ろし、彼女が目の前に現れるまでの時間を海を眺めながら待った。
昨日の盆踊りの疲れが残っていたのか、それともこんな気持ちのいい場所にいる以上、仕方がないのか。
急に激しい眠気に襲われ、ほとんど抗うこともできないままその場に横たわる。
「……」
目を閉じているのに世界がやけに明るかった。
恐る恐る瞼を開けると、紺碧の空を気持ち良さげに泳ぐ雲が目に入ってくる。
その手前には、海から吹く心地の良い風に柔らかそうな黒髪の毛が揺れていた。
「おはよう、夏生くん」
「……おはよう」
欠伸をしながら体を起こすと、腕に貼り付いていた砂の粒を彼女が優しく払い落としてくれる。
眠っていたのはわずかな時間だとは思うが、彼女を待たせてしまったことには違いなかった。
「ごめん。起こしてくれればよかったのに」
「ううん。今さっき来たところだし、それに夏生くんのほうが早く来てくれてたし」
それは相変わらず僕が勝手に早く来ていただけなのだが、そこは彼女の厚意に甘えておくことにした。
「ね、夏生くん。このお花って知ってる?」
僕たちの周りに、それそこ星の数ほど咲き乱れている花の一つを撫でるようにして彼女が尋ねてくる。
「わかんない。なんて花なの?」
「ハマゴウっていうの」
「へぇ」
小さくて可憐で少し儚げなその花は、僕が彼女に抱いているイメージにどことなく似ているように感じた。
「花言葉はね」
風に揺られて波打つハマゴウの花畑を眺めながら、彼女の口から続きの言葉が紡がれるのを待つ。
「……知らないんだけど」
心の中で『なんだそりゃ!』とずっこける。
「でも、かわいい花だよね」
それはその通りだったが、こんな過酷な場所に人知れず咲いている姿はやはり儚げにみえた。
「あの雲ってどのくらい遠くに浮いているんだろう」
「どうだろ? 泳いで行けるかな?」
「このずっと向こうにオーストラリアがあるんだね」
「私、飛行機ってまだ乗ったことがないんだ」
「あ、夏生くん。あそこにいるのってヤドカリかな?」
「……僕には空き缶か何かに見えるけど」
八月の、二人だけの夏の時間がゆっくりと流れてゆく。
『このまま時間が止まってしまえばいいのに』
唐突にそんな、ベタすぎる言葉が脳裏に浮かんだ。
今までの僕であれば、躊躇せず口に出していたことだろう。
だが、今までの僕ではなかった今の僕はそれをしなかった。
言葉にしてしまうと、このかけがえのない時間がすぐにでも終わってしまうような気がして、僅かに開き掛けた口をきつく結ぶ。
夏の海と空は徐々にその色を濃く変えながら、僕たちの視界の半分以上を青に染めあげ続けていた。
そのとき不意に、風向きが変わった気がした。
まるでそれを切っ掛けにしたように、彼女は少しだけ身を乗り出すとこちらに向き直る。
「あのね、夏生くん」
彼女は音もなく立ち上がると、その白い手を静かに海岸線の向こうに向ける。
「あっちの方にね、おっきな灯台があるの。小さい頃、お父さんに連れてってもらったことがあるんだけど」
その指し示す方向に目を向けたまま腰を上げる。
そこには弓形の海岸が見渡す限りに続いており、遠くの方は潮風に霞んでしまっていて見ることができない。
視線を彼女の方に戻すと、そっと手を上に向けて目配せする。
その意図を汲み取った彼女は、白くて小さな手をそっと置いてくれた。
「行ってみよう。この海岸線の向こうまで」
まだ見ることのできない目的地へと向かい、僕と彼女は同時に一歩を踏み出す。
その足元ではハマゴウの花たちが、やがてやってくる凪の時間を待ちながら静かに揺れていた。
海原を左手に眺めながら、かれこれ十五分は歩いていた。
ラジオのノイズの音にもよく似た潮騒に混ざり、たまに遠くの方から海鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。
振り返ると、亜麻色の砂浜に二人分の足跡が寄り添いながら、どこまでも果てしなく続いている。
先ほどから僕たちは会話という会話をしていなかった。
それは話すことが無くなったわけでもなければ、歩くのに疲れたからというわけでもない。
互いに手と手を取り合い、同じ景色を見ながら同じ方向へと進む。
そうすることで今、僕と彼女はひとつになっていた。
もはや言葉を交わす必要もないほどに。
やがて霞んだ景色の向こうにゴール地点である白い塔が見えてくる。
不意に耳元で「夏生くん」と名前を呼ばれ、続け様に繋がっていた手がそっと離れた。
「私がいいよって言うまで目、つむってて」
言われるがままに瞼を閉じる。
視覚が閉ざされると波の音が急に大きくなったように感じ、まるで自分が海の上に立っているかのような錯覚に陥る。
時間にすればわずか十秒足らずだったはずだが、視覚からも触覚からも彼女が消えていたその時間は、それよりも随分と長く感じられた。
「もういいよー!」
その声はやけに遠くから聞こえた。
目を開くと、数十メートルも離れた場所でサンダルを両手に持ち裸足になった彼女が、こちらに手を振りながら「灯台まで競争ねー!」と言うや否や、くるりと身を翻して走り出す。
呆気にとられ徐々に小さくなっていく後ろ姿を眺めていた僕だったが、状況を把握すると砂を蹴ってその背中を追った。
「夏生くんって足も速いんだね」
ようやく追いついてきた彼女は、足の裏に付いた砂を払いながら少しだけ悔しそうな顔でそう言った。
「三週間ぶりくらいに全力で走ったよ」
走力への言及は避けつつ、サンダルを履き終えたばかりの彼女の手を再び取る。
そうして僕たちはまた、ひとつになることができた。
「小さい頃はすごくおっきいと思ってたけど、そんなでもなかったかも」
目の前の塔を仰ぎ見ながら彼女がそう呟く。
僕には十分巨大に見えるそれも、幼い彼女の目にはきっと今より何倍も大きく映っていたのだろう。
灯台から少しだけ離れた木陰にはベンチが二基ならべて置かれており、僕たちは海側を向いたそれに並んで腰を下ろした。
夏の日差しを受けて白く輝く光の塔は、海上交通の安全のために建てられた守り神であるのと同時に、休日を楽しむ人々の憩いの場でもあった。
水平線の上にある巨大な入道雲を指差し歓声を上げる、幼い兄弟とその父と母。
堤防の突端に三脚を立て高そうなカメラで写真の撮影をしている、革のジャケットに身を包んだ、髭面の中年ライダー。
ただここに来ることだけが目的だった、僕と彼女。
各々が同じ場所に居ながらにして、それぞれの夏の時間を過ごしていた。
「夏生くんって、やっぱり夏の生まれなの?」
唐突に振られたその話題は、過去に何度も答えたことのあるものだった。
「ううん、四月。なんかうちの両親が夏に出会ったからだって」
そんな大味な理由で付けられた、意味のあるような無いような夏生という名前だったが、当の本人である僕はそれなりに気に入っていた。
「志帆ちゃんは?」
「私は七月生まれ」
夏に生まれたにしては、彼女は随分と白く透き通る肌の持ち主であった。
「夏生と志帆って、なんか海に似合う名前だよね」
彼女はそう言うと、口に手を当てクスクスと笑う。
次に気がつくと、さっきまで灯台の下にいた子連れの家族がいなくなっていた。
「志帆ちゃん。あそこまで行ってみようよ」
堤防の突端を指差しながら腰を上げ、彼女の手を取り引き上げる。
その時だった。
「すみません」
バリトン歌手を思わせる渋い声がした方向に顔を向ける。
カメラと三脚を手にした中年のライダーが、再び「すみません」と口にしながらこちらに一礼した。
「ぶしつけで申し訳ない。僕は趣味で写真を撮っている者なんだけど、もし良かったらでいいんです。あなた方の写真を撮らせてもらえませんか?」
その突然の申し出に、僕たちは顔を見合わせ目を白黒させた。
彼の説明によると、近いうちに写真のコンテストがあるそうで、その題材として僕と彼女が目に止まったのだという。
「夏生くん、どうする?」
「僕はべつにいいけど……」
「夏生くんがいいなら、私も」
ライダーに指示されるがままに、コンクリートの擁壁の縁に腰を下ろす。
「さっきお二人がされていたように、彼氏が彼女の腕を引っ張って立ち上がらせてください」
彼氏彼女と言われたことに若干の照れと抵抗があったのだが、そんなことを指摘するのはもっと照れくさかった。
言われたとおりに、先ほどと同じ動作を繰り返してみせる。
「思った通りだ! すごく良かったです!」
そのあとも何度もポーズを変えながら、何十枚もの写真を撮られた。
「お疲れ様でした。最後にもう一枚だけ。これはお礼として後日あなた方に送らせてもらうので、どうぞお好きなポーズで」
そう言われてしまうと、今度は逆にどうすればいいのかわからない。
「夏生くん、こっちきて」
彼女は僕の手を引くと堤防の突端まで進み、カメラを構えたライダーの方にくるりと振り返る。
「お願いします」
こうして最後の一枚は、紺碧の海原と群青の空を背景にして僕と彼女が手を握りあっただけの、非常にシンプルな構図の写真になった。
「出来上がった写真はどちらに送ればいいですか?」というライダーの問に、彼女は自分の住所を教えたようだった。
ライダーは何度も礼を言い、自販機でジュースまでおごってくれた。
引き受けてしまった直後は少し面倒だと思っていたのだが、これほどまでに感謝されると、何だか自分たちが偉業でも成し遂げたような気持ちになってくる。
大きく手を振りながら去って行くライダーを手を振り返しながら見送り、そしてついに灯台の下にいるのは僕と彼女のふたりだけになった。
「ちょっとだけ疲れたね」
自販機脇のベンチに並んで腰掛けると、彼女は静かに僕の肩に体重を預けてくる。
突然のことに驚いてしまったが、すぐに彼女が疲れてしまわないように肩の角度を調整した。
しばらくそのままの体勢で言葉を交わしていると、急に彼女からの返事が返ってこなくなった。
代わりにすーすーとかわいらしい寝息が聞こえてくる。
今度は僕が彼女の目覚めを待つ番だと決めながら、左肩に寄り掛かる安らかな寝顔を覗き見る。
柔らかそうな髪が海風に流され、膝の上に置かれた僕の手の甲にその毛先が触れた。
気づかれぬようにそっと触れると、シルクのようにサラサラとした感触を伴いながら、即座に手の中から零れ落ちていった。
世界が終わるその瞬間まで、ずっとこうしていたいと思っていた。
しかし、現実というやつはどうにも無粋で、いつしか頭上に広がる夏空からは青色の成分が失われ始めていた。
「志帆ちゃん、起きて」
耳元で囁きかけながら身体を揺さぶると、肩に掛かっていた重みが幾分か和らぐ。
「あ……ごめんなさい。私、寝ちゃってふぁ……」
言葉尻に欠伸を混ぜてそう言った彼女は、目尻に涙を溜めたまま両手で口を押さえながら立ち上がると、おもむろに言葉を続けた。
「小さい頃にね。お父さんが急に『志帆、灯台に行こう』って言って、ここに連れてきてくれたの」
彼女は海に向けていた視線を灯台に移しながら、さらに言葉を続ける。
「その時にね、『パパはここでママにプロポーズをしたんだよ』って言うから、私が『プロポーズってなあに?』って聞き返したら、お父さん、顔を赤くしちゃって」
そう言って笑う彼女の横顔は、少しだけ悲しそうにみえた。
「夏生くんと今日、ここに来られてよかった」
「僕もだよ。それじゃ、そろそろ帰ろっか」
「……うん」
過去の自分たちがつけた足跡を辿りながら、まるで今日という一日を巻き戻すように、本日のスタート地点であり僕と彼女が初めて出会った場所でもある砂浜へと戻って来た。
灯台を出発した時にはまだ青の陣地が広かった空も、西の端から徐々にオレンジ色に侵略され始めていた。
海原を渡り吹きつける風に揺れるハマゴウの花が、やがて水の底へと沈みゆく運命の太陽を無言で見送っている。
「……夏、もう終わっちゃうね」
斜めから差す陽の光を受け、黄金色に煌めく海を眺めながら言った彼女のその言葉は、自身に向けて発せられているように聞こえた。
その続きが紡ぎ出されるよりも早く、今度は僕が口を開いた。
「まだ始まったばかりだよ。それに来年も再来年もその先もずっと、僕たちが生きている限り、何度でも夏は来るから」
「……そうだね」
彼女の声は波の音にかき消されてしまいそうに弱々しかった。
僕は明日の昼にはこの町を去る予定でいた。
ただ、部活動がない今年の夏であれば、明後日の登校日を終えてさえしまえば、またここに戻ってくることができる。
そのことを彼女に言おうとした、その時だった。
彼女がクルリとこちらに向き直り、そして静かに歩み寄ってくる。
「……夏生くん」
半歩も離れていない場所で歩みを止めた彼女は、次に僕の目をじっと見つめ、やがて静かに瞼を閉じた。
その行動の意味を理解し、恐る恐るその両肩に手を置く。
西日を受けて砂の上に浮かびあがった二人分の長い影が、互いの顔と顔とを接点にして、やがてひとつに繋がった。
二つの影が繋がっていたのはたった数秒でしかなかったが、僕にはその時間が永遠に近しく感じられた。
触れていた柔らかな感触が無くなったのと同時に、いつの間にか消え去っていた波の音がふたたび戻ってくる。
息を深く吸い込んでから瞼を開くと、数歩離れた場所でこちらをじっと見つる彼女と目が合う。
その表情はといえば、微笑んでいるわけでもなければ恥ずかしげというわけでもなく、かといって無表情だったかといえば、それもまた少しだけ違っていた。
喩えようのない不安に駆られ、思わず目を閉じてしまいそうなる。
だが、本当に閉ざしたほうがよかったのは、視覚ではなく聴覚のほうだった。
「夏生くん、ごめんなさい。もう会えないかもしれない」
彼女はいま、何と言ったのだったか?
「ごめん、志帆ちゃん。意味がわからないんだけど」
「……あのね、私――」
夜の帳が下りきった砂浜で、たったひとり海に向かい立ち尽くしていた。
彼女がこの場所を去ってから、一体どのくらいの時間が流れただろう。
青褐色の空に浮かぶ黒い雲は昼間よりもその量を増し、今や月すらもその影に隠そうとしていた。
きっと今ごろ親たちには、さぞ心配を掛けてしまっていることだろう。
だが、そんな些細なことはどうでもよかった。
『明日、私もここからいなくなるの』
彼女はそう言うと、無理に笑顔を作ってみせた。
瞬きどころか呼吸をすることさえ忘れ、その言葉の意味を理解しようと努力する。
しかし、そのために必要な情報を持ち合わせていなかった僕は、結局は彼女の説明を待つしかなかった。
今を去ること四年前。
彼女の父親は仕事中の事故で亡くなったのだそうだ。
母親は突然のことに口も聞けないほどに憔悴し、ついには葬儀の途中で倒れてしまった。
それから半年間、家事をすることすらままないまでに塞ぎ込んでしまっていた母親だったが、そんな最中、近所に住む父親の幼馴染であり親友でもあった男性が、足繁く母親の元を訪れては静かに、そして根気よく寄り添い励まし続けてくれた。
一年半が経ち、母親はようやく笑顔を見せるようになり、さらに二年後の今年の春、幼馴染のプロボーズを受けた。
夫との思い出が詰まったこの地を去り、どこか知らない土地へと生活の拠点を移すことがその条件だった。
『だから、ごめんね』
頬を涙で濡らした彼女は深々と頭を下げると、砂浜をもと来た方向へと歩き出した。
僕はその背中を追いかけようと一歩踏み出したところで、それが彼女の決意を踏みにじってしまうのではないかと思い留まり、この場に立ち尽くしたままその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
それが正解だったのか間違いだったのかを、ただの黒い大質量でしかなくなった海を眺めながらずっと考えていたのだが、いくら時間を掛けてもその答えは出そうもなかった。
やっとの思いで足を動かし、赤土の農道を歩いている時にそれはやってきた。
彼女の背を追い掛けなかったことへの後悔。
二度と会うことができないことへの悲しみ。
あまりに無力で無能な自分という存在への怒り。
それらすべてが激しい慟哭となり、怒涛のように押し寄せてくる。
たった数日ではあったが、彼女と過ごした日々を思い出すと、このまま胸が裂けて死んでしまうのではないかと真剣に思ったし、何ならそうなって欲しかった。
もし、彼女と出会ったあの時に戻れるなら。
真夏の空の下を紙飛行機のように舞ったあの麦わら帽子を、僕は決して追い掛けなどしない。
「あの、大丈夫ですか?」
空の青を背景にして覗き込んでいたのは、中学二年の夏にこの場所で出会い、この場所で別れを告げられた少女だった。
言葉が出てこなかった。
それどころか、自分がどこで何をしていたのかすら思い出せない。
すぐ近くから波の音が聞こえる。
――そうだった。
俺はいま、海にいたのだった。
「……志帆ちゃん」
乾ききった喉の奥から渾身の思いで少女の名を口にする。
改めて目にした彼女は、あの夏と同じような大きな麦わら帽子を被り、あの夏と同じような膝丈のワンピースを身に纏っていた。
三年前のあの日と寸分違わぬその容姿に、自分までもがその時代に戻ったように錯覚する。
だが、俺はあの頃に比べると、体格も顔の印象も随分と変わっていたはずだ。
彼女は自身の名を口にしたその男が、一体どこの誰なのか気付けないでいるように見えた。
「あの……俺、杉浦の」
杉浦とは祖母の姓だが、初めて会った時にそう名乗った記憶があった。
薄く形の良い唇が『す・ぎ・う・ら』と動く。
次の瞬間、長い睫毛の下にある大きな瞳に、急に明かりが灯ったようにみえた。
「もしかして……夏生さん、ですか?」
彼女はあの夏、俺のことを夏生くんと呼んでいたはずだった。
二人の間に以前は存在しなかった溝のようなものを感じた。
「久しぶり。こっちに戻ってきたの?」
情けないことに声が震えていた。
「……あの、こっちのおじいちゃんが去年の今頃に亡くなって。それで今日は法事で」
「……そっか」
そこで会話が途切れてしまう。
何を話せばいい?
いまはどこに住んでいるのか聞きたかった。
いつまでこっちに居るのかも聞きたかった。
話したいことは沢山あったはずだし、何より伝えたい気持ちがあった。
それなのに言葉が出てこない。
あまりの歯がゆさと情けなさに、手を突いていた地面の砂を握りしめる。
「あの」
少し遠くから聞こえた声に慌てて顔を上げると、先ほどよりも数歩離れた場所に立っていた彼女が再び口を開く。
「ごめんなさい。私、そろそろ行かないと……」
ああ。
そうか。
そうだったのか。
そういうことだったのか。
あの夏の思い出をいつまでも宝物のように、ずっと胸の奥底に大事に仕舞い込んでいたのは、どうやら俺だけだったのだ。
「……うん。元気で」
もう少しくらい気の利いた言葉は幾らでもあったはずだ。
ただ、そんな味気のない別れの挨拶が、今の俺の精一杯だった。
本当はすぐにでもここから走り出し、彼女の視界から消えてなくなりたかった。
でも、それではあまりに惨め過ぎる。
俺は座ったまま海に向き直ると、まるで何もなかったかのように水平線の上に浮かぶ入道雲へと視線を向けた。
その直後、背後から「夏生さん」と、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
彼女の記憶にある俺の最後の顔が、情けのない泣き顔などということだけは、絶対に避けたかった。
故に振り返ることはせずに、代わりに小さく頷いて見せる。
「私、明日の夕方にまた、ここに来ます。だから――」
思わず振り向きそうになるのを、既の所で耐える。
「……何があっても必ず来るよ」
掠れてしまいはしたが、何とか声にすることができた。
庭仕事に勤しむ祖母に声を掛けてから家を出ると、期待と不安を一緒くたに背負い、約束の場所を目指して赤土の耕作地を進む。
幼少の頃より何回この道を通って海まで足を運んだことだろう。
そのすべてで夏の日差しは容赦なく俺の肌を灼いた。
ただ、今日に限っては少しだけ時期が早く、また時間も遅いせいだろうか。
涼しいかと言われればそんなことはなかったが、少なくとも今夜風呂に入った時に、湯が肌に染みるといったことにはならずに済みそうだった。
やがて突き当たった竹藪のトンネルを潜り抜けた途端、じきに訪れるであろう黄昏をわずかに匂わせる瑠璃色の空と、それを反映して青藍の深みを増した海とが目の前に広がる。
足元に咲き乱れるハマゴウの花たちを踏みつけないように気をつけながら、その中ほどに居場所を見つけて腰を降ろす。
遥か水平線の上に浮かぶ入道雲に目を向けると、綿菓子のようなその表面に白い稲光が走るのが見えた。
だが、遠く離れたこの場所にまで雷鳴が届くことはなく、打ち寄せては崩れ去る波の音だけが聞こえてくる。
そうして三十分も経っただろうか。
気づかないうちに少しだけ風が出てきていた。
ともに海を見下ろしていたハマゴウたちが、その可憐で小さな花をサラサラと小さく揺さぶる音が、さざ波の音に混じりかすかに聞こえてくる。
すぐ近くにあった一輪のそれを手のひらでそっと包む。
本当はすべてをそうしてやりたかったが、この世界にはいくら望んだところで叶えられぬ願いがあることを、十七歳になった俺は知ってしまっていた。
「おまたせしました」
唐突に鈴の音ような涼し気な声が耳に届き、その方向に顔を向ける。
「俺もいま来たところだよ」
この形式張ったやり取りをするのは何度目だったか。
彼女は俺と目が合うと、両手を身体の前で重ねて小さく頭を下げた。
その他人行儀な姿に再び胸が痛み、昨日の夜から用意しておいた言葉が喉の奥へと引っ込んでしまう。
俺は無言のままで立ち上がり、彼女の方に歩み寄った。
そこでようやくひとつだけ取り出すことに成功した台詞を、浜風にかき消されぬギリギリの声量で投げかける。
「少しだけ歩かない?」
彼女の方を向くことはできず、かといって真っ直ぐ顔を上げる気にもなれなかった。
足元から一メートルほどの地面を見下ろしながら、波打ち際から少しだけ離れた砂浜の上をゆっくりと歩く。
すぐ後ろからは彼女が踏んだ砂の乾いた音が、ラジオのノイズにも似た波の音に紛れて聞こえてくる。
たまに足元を過る黒く小さな影は、塒へと帰ってゆく海鳥たちのものだろうか?
その姿を捉えようと見上げた空は、東の端から徐々に消炭色のコントラストを強めつつあった。
「夏生さん」
後ろから呼び掛けられて足を止める。
いつの間にか立ち止まっていた彼女は、肩に掛けた小さなポシェットから何かを取り出すと、二歩三歩とこちらに歩み寄ってくる。
そして、無言でそれを俺の胸の前に差し出した。
それは水色の小さな封筒だった。
「これは?」
ほとんど反射的に受け取りながら尋ねると、彼女はその小さく薄い唇を静かに開いた。
「それはお姉ちゃんが夏生さんに書いた手紙です」
手にした封筒に目を落としたまま、彼女がいま何を言ったのかを理解しようとした。
お姉ちゃん?
なぜ彼女の姉が俺に手紙を?
手元から視線を上げて彼女の顔を見ると、ふたたびその小さな唇がゆっくりと動き、言葉の続きを発した。
それは今しがた抱いた疑問に対する明確な回答だったのだが、それでも尚、彼女が一体何を言っているのかまったく理解できなかった。
「お姉ちゃんは二年前に亡くなりました。私は志帆の妹で美帆といいます」
「え」
彼女は何を言っているんだろう?
「あ」
もしかして、この子が志帆ちゃんの妹だと?
「ああ」
だから容姿があの夏とまったく変わって――。
「え」
亡くなったって?
「……」
亡くなった? 誰が?
「……あ」
あ。
「……志帆ちゃんが」
ああ。
ようやく俺は、理解してしまった。
その瞬間、後頭部をバットで殴られたかのような強い衝撃を受け、温かな砂の上に膝から崩れ落ちた。
そのまま土下座でもするような格好で額を強く砂に擦りつける。
息ができない。
声がでない。
涙もでない。
「あの……」
すぐ近くから聞き慣れた声が聞こえた。
顔を上げれば見慣れた姿もそこにあるはずだ。
しかし、その聞き慣れた声と見慣れた姿の少女は、彼女の妹であって彼女ではない。
鼻先にある砂の上に大きな雫がポタポタと落ち、みるみるうちに砂の色を白から黒へと変えていく。
やっと涙が出てくれた。
「……あああ……あああああ!」
やっと声が出てくれた。
あの夏の日に出会った少女は。
会ってすぐに惹かれ合った少女は。
夕暮れの砂浜で口づけを交わした少女は。
俺の大好きだった少女は、志帆ちゃんは。
志帆ちゃんはこの世界から、永遠に失われてしまったのだ。
どのくらいの時間が経っただろう。
ようやく顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、志帆ちゃんの妹――美帆ちゃんが肩を激しく上下させ、瞳から溢れ続ける涙を両手の甲で懸命に拭っている姿だった。
よろよろと立ち上がって彼女に歩み寄り、その白い肩にそっと手を置く。
途端に彼女は膝から崩れ落ち、砂の上に突っ伏してしまう。
すぐ横に腰を降ろして背中を擦ると、彼女は俺の膝の上に顔を埋め、その小さな身体を大きく震わせる。
彼女の涙を吸った俺のジーンズは、麦わら帽子を追いかけて海に落ちたあの夏の日のように、その青色をみるみるうちに深く濃くしていった。
しばらくのあと、ゆっくりと顔を上げた彼女の目はウサギのように真っ赤に充血しており、涙の伝った頬には沢山の砂が貼り付いていた。
白磁の肌を傷付けぬよう細心の注意を払い、親指の腹でそっと砂の粒を落とす。
「……ありがとうございます」
乱れた髪を手櫛で整えた彼女は俺の横で膝を曲げると、おもむろにその顔をこちらに向け、そして口を開いた。
「夏生さんのことは、お姉ちゃんから何度も聞いていたんです」
彼女はそれだけ言うと、今度は水平線の方向に顔を向けた。
その横顔は本当に姉の志帆ちゃんにそっくりで、またしても俺はあの日の夏に戻ったかのような錯覚を起こす。
「あの年の夏は私たち家族にとって、すごく特別な夏でした」
当時小学五年生だった私は、突然決まったお母さんの再婚と、やはり急な転校の予定に胸を痛めていた。
お父さんが亡くなってから心を弱らせていたお母さんに代わり、甲斐甲斐しく家事をしたり私の世話を焼いてくれていたお姉ちゃんも、どうやらそれは同じだったようだ。
家族の会話は日に日に減っていき、やがて家の中には常に冷たい空気が漂うようになっていた。
お盆初日の、八月十三日の夕方。
自室で机に向かい、夏休みの宿題をしていた時だった。
何やら玄関の方からバタバタと大きな足音が聞こえてくる。
その大きな足音の主は、次の瞬間にはもう私の部屋の前までやってくると、そのままの勢いでドアをバタンと開けて入ってきた。
そこに居たのはお姉ちゃんで、その顔は久しく見ていなかった笑顔で満たされていた。
「美帆ちゃん聞いて! お姉ちゃん今日ね、すっごい面白い人とお友達になったよ!」
お姉ちゃんが息を弾ませて語ったのは、風に飛ばされた帽子をびしょ濡れになりながら取ってくれた、同い年の男の子の話だった。
その日からお姉ちゃんは毎日のように出掛けていき、帰ってくる度に『彼』の話をしてくれた。
会ったこともない『彼』の話を聞くと、私も自然と笑顔になることが出来た。
引っ越しを翌日に控えたお盆の終わりの日も、いつものように出掛けていったお姉ちゃんが帰って来たことに気がついて、今日も『彼』の話を聞かせてもらおうと部屋のドアの前に立った。
ノックをしようとしたその時、ドアの向こう側から泣き声が聞こえた。
結局その日お姉ちゃんは、一度も部屋から出てこなかった。
引っ越し当日の朝。
お姉ちゃんは昨日の昼までそうだったように、笑顔で「おはよう」と言ってくれた。
でも、それ以降お姉ちゃんの口から『彼』の話を聞くことはなかった。
引っ越し先は全く知らない土地だった。
気候も方言も前に住んでいたところとはだいぶ違ったが、それでも友達はすぐに出来たし、クラスに馴染むこともできた。
新しいお父さんもとても優しくて、何より嬉しかったのは、お母さんが前より笑顔をみせてくれる機会が多くなったことだった。
引っ越してから一年が過ぎた、ある日。
学校から戻り、部屋でランドセルの中から教科書やノートを取り出していた時だった。
隣のお姉ちゃんの部屋で大きな物音がした。
お姉ちゃんは朝から体調が悪く、今日は学校を休んでいたはずだった。
ノックをしてからドアを開けると、お姉ちゃんはベッドの上で膝を抱え込むようにして体を丸めていた。
苦痛に歪ませた顔は深い海のように真っ青で、私が部屋に入ってきたことにすら気付いていないようだった。
すぐにお母さんの職場に電話を掛けると、お母さんが帰ってくるよりも早く到着した救急車で、お姉ちゃんは病院へと運ばれていった。
そして、次の日の夜。
顔に白い布を掛けられ戻ってきたお姉ちゃんは、もう二度と話してくれることも、もう二度と笑顔を見せてくれることもなかった。
詳しい病名は教えてもらっていないが、心臓の筋肉に異常が起きたのが原因だということだけは、お通夜の席で大人たちが話しているのを聞いて知った。
「この春にやっと、ずっとそのままだったお姉ちゃんのお部屋をお母さんと一緒に片付けたんです。その手紙はその時に机の引き出しから見つけたものです」
いつの間にかまた溢れ出していた涙で濡らしてしまわないよう、細心の注意を払いながら封筒に手を掛ける。
丸く可愛らしい字で『夏生くんへ』と書かれたその中には、手紙と一枚の写真が入っていた。
二度、三度と深く呼吸をしてから覚悟を決め、彼女が残してくれたその内容に目を通す。
夏生くんへ
ごめんなさい。
夏生くんと初めて会った日にはもう、私はあの町からいなくなることが決まっていました。
でも、あなたにそのことを言えませんでした。
それはきっと話してしまったら、笑顔であなたと会うことが出来なくなってしまうような、そんな気がしていたからだと思います。
風に飛んだぼうしをびしょぬれになって取ってくれた時、私はすぐにあなたのことを好きになっていました。
夏休みの小学校でデートをして、盆おどりを一緒におどって、山みたいなかき氷を一緒に食べて、それに灯台にも一緒に行きましたね。
私はその一日一日で…ううん、一秒ごとにあなたのことをどんどん好きになっていきました。
夕方の海であなたと別れたあと、私は家に帰ってからいっぱい泣きました。
でも、もう悲しくはありません。
家族にはナイショですが、今おこずかいを貯めてあなたに会いに行く計画を立てています。
来年の夏にはあの海でまた、あなたと一緒に灯台まで歩いて新しい思い出を作りたいです。
そして、高校を卒業するまでにはもっといっぱいお金を貯めて、あなたと同じ大学に通うのが私の夢です。
だから、それまでは絶対に彼女を作らないでください。
絶対に!
あなたと過ごした夏の日々は、私にとって一生の宝物です。
次に会った時には、あの時に言えなかった言葉を伝えたいです。
P.S.
もうひとつだけ、ごめんなさい。
ハマゴウの花言葉を知らないって言ったのはウソです。
でも、はずかしいのでここには書きません。
図書館に行く機会があったら調べてほしいです。
志帆
手紙を封筒に仕舞い、次に一緒に入っていた写真を取り出す。
そこには、海を背景にして真顔でカメラに目を向ける俺と、海風に髪を靡かせながら笑みを浮かべる彼女が写っていた。
「お姉ちゃんが夏生さんのお話をしてくれる時、いつもこんな顔で笑ってました」
俺たちは涙を拭うことすらせずに、写真の中で幸せそうな笑みを浮かべている彼女のことをずっと見ていた。
しばらくそうしたあとに顔を上げると、いつの間にか夏の夜空に一番星が瞬いていた。
彼女が行ってしまった遠い場所と比べれば、あの星など少し手を伸ばせば簡単に届いてしまうことだろう。
「俺は君のお姉さんの……志帆ちゃんのことが大好きだった」
「お姉ちゃんもです。夏生さんのおかげでお姉ちゃんは幸せでした」
彼女はそう言うと、先ほどとは逆にその白く細い指で俺の頬の雫を拭ってくれた。
茜色に支配されつつある空の下、赤土の畑の間を真っ直ぐに伸びる道を並んで歩く。
言葉も交わさずに足を動かし続けているこの状況は、あの日の海で彼女の姉と過ごした時とよく似ていた。
だが、目指しているゴールはとても対照的に思えた。
「……お姉ちゃんに聞いていた夏生さんと、実際に会って話してみた夏生さんって、なんだか少しだけイメージが違いました」
ふいに彼女がそんなことを言い出す。
発言の意図を問うために、ちょうど頭ひとつ分だけ低い位置に目を向ける。
その場所にあった小さな顔が、あまりにも初恋の人のそれと瓜二つで、止まったばかりの涙がまた溢れてきてしまう。
そのことを悟られないよう、わざとらしく咳払いをして空を見上げると、改めて言葉の意味を彼女にたずねる。
「違ったって、どんなふうに?」
「夏生さんはヘンな人だって。お姉ちゃん、そう言ってました」
『夏生くんって、ちょっと変わってる』
確かに彼女の姉には幾度となくそう言われたことがあった。
しかし、変わってると変な人だと、後者の方が随分と印象が悪い気がしてならない。
「ちょっと変わってるだけだよ」
自分でそう言ってから、どちらにせよ変であることには違いないことに気づく。
「……でも、夏生さんはお姉ちゃんが好きだった人です。だからもしヘンな人だったとしても、それはきっと……」
頬を赤らめながらそう言った彼女は、まるでスキップでもするかのように軽い足取りで俺の前に躍り出ると、長い黒髪を手で押さえながら勢いよく振り向く。
そして、はにかんだような笑顔を見せながら、さらに短く言葉を続けた。
「夏生さんは私が想像していた通りで、とってもとっても素敵な人でした」
そのあと俺たちは言葉を交わすようなこともなく、ゆっくりでも急ぐでもなく歩みを進めた。
やがて景色はさみしげな耕作地から、人の営みの気配がする小規模な集落へと変わっていった。
窓に明かりを灯す家々が目に入ると、久しぶりに人の住む世界に戻ってきたような気分になる。
それと同時に、長かった少年時代が今まさに終わってしまうような、そんな不確かな予感が胸をよぎった。
「夏生さん。うち、もうすぐそこなので。送ってくれてありがとうございました」
「……こちらこそ、今日は本当にありがとう」
「いえ。……あ、そうだ」
彼女はポシェットから取り出した何かを手のひらの上に載せ、俺のすぐ目の前に差し出した。
それは夏の空と同じ色の小さなシーグラスで、今日という日の残滓であるわずかな自然光を受け、宝石のようにキラキラと輝いていた。
「今日、夏生さんに会う少し前にみつけたんです。これ、もらってください」
「いいの?」
「はい。私とお姉ちゃんからのプレゼントです」
「……ありがとう」
俺たちは最後に数秒だけ見つめ合い、申し合わせていたかのように同時に頷く。
彼女はそのまま何も言わずに背を向けると、わずかに歩幅を広げて歩き出す。
幼い後ろ姿がやがて夕闇に紛れて見えなくなる、その寸前。
突如として振り返った彼女は口の横に両手を当て、驚いてしまうほどの大きな声で、こう叫んだのだった。
「夏生さんにお願いがあります! これからもずっと! ず~っとヘンな人でいてくださいね!」