海の青より、空の青

 碁盤目状に区分けされた畑の中を、子ども時代の頼りない記憶を頼りにジグザグと進む。
 赤土の畑の間を走る道路には、ゆらゆらと陽炎(かげろう)が揺らいでいた。
 小学生だった時分の俺は、近づくと逃げて行くそれを何とか捕らえようとして、炎天下を全力で追い掛けたものだった。
 試しに少しだけ歩速を上げると、陽炎も同じ速さで遠退いてしまう。

 あみだくじの終着点には、背丈の倍ほどもある竹藪が行く手を遮っていた。
「確かこっちの方に……」
 青緑色の壁に沿ってしばらく進むと、かろうじて人一人分が刈払われた土の斜面の通路が現れる。
 薄暗いトンネル状のそこを足元に注意しながら慎重に下りてゆくと、とつぜん光が溢れ、反射的に手のひらを目の前にかざす。
 指の隙間から覗き見えた世界は、少しだけ色の異なる二つの青によって塗り潰されていた。

 砂の感触を確かめながら、波打ち際まで()を進めた。
 崩れて泡立った波が砂浜を撫でる時に発する、シュンシュンという小気味良い音がすぐ足元から聞こえてくる。
 扇状に広がりながら左右から迫る波を直立のまま迎え撃つ。
 俺の足首までしか濡らすことのできなかった波は、せめてもの抵抗だとばかりに足の裏の砂を奪いながら帰っていった。
 こうして波と戯れていると、今にも背後から『危ないで戻ってきなよ』と祖父の声が聞こえてきそうで思わず振り返る。
 そこには流木が一本横たわっているだけで、祖父の姿どころか人の気配そのものがなかった。
 
 十分もそうして遊んでいた。
 親が共働きだったので一人遊びは得意だったが、それにしても今日は羽目を外し過ぎてしまったようだ。
 なぜなら俺は今、下半身どころか頭の天辺までずぶ濡れにして、アホ面で誰もいない砂浜に立ち尽くしていたのだから。

 最初は足を湿らせる程度で満足していた波遊びは、徐々に徐々にとエスカレートしていった。
 ついには波が大きく引いた隙きを見計らって、海に向かって猛ダッシュをかました。
 再び波が打ち寄せる前に、砂浜へと戻る算段だった。
 だが、折り返す時に砂に足を取られて転倒したところに、本日一番の大波が押し寄せてきた。
 敢えなく海に翻弄(ほんろう)された俺は、浅瀬に迷い込んだクジラの如く砂浜へと打ち上げられ、そして今に至っている。
 濡れて困るようなものを持っていなかったことだけが幸いであった。

 手足を大の字に広げて砂浜に寝転ぶと、夏の日差しと海から吹いてくる風が、雨の日の捨て犬のように哀れな姿になった俺を、少々荒々しく乾かしてくれる。
 目を閉じると波の音と太陽の熱、そして体の下の砂の感触だけが感じられた。
(このまま昼寝をしたら気持ちいいだろうなぁ)
 後ろ髪を引かれる思いはあったが、真夏に日焼け対策もしないでする日光浴は毒でしかない。
 しかし、この心地よさは何物にも代え難かった。
 そうこうしていると、瞼を透過して見えていた日の光が(にわか)に弱まる。
 雲が太陽を覆い隠したのだろうか?
 それとも、夕暮れが駆け足でやってきたのだろうか?
 九分九厘前者だろうが、その真相を確認するためにゆっくりと目を開く。

「……あの、大丈夫ですか?」
 俺と空との間に、麦わら帽子を被った少女の姿があった。
 逆光で影になっていたその顔を確認するため、一度は開き切った目をふたたび細める。
 その行為が睨んでいるようにでも見えたのかもしれない。
「あ、ごめんなさい! あの、びしょ濡れで倒れていたから」
 少女はそう言って二歩ほど後ろに下がると、浅葱色のワンピースの裾を手で掴んだ。
 本来ならば弁明をすべきところだが、俺の両目は少女に釘付けになったままでいた。
 (まばた)きもせずに自身を見つめる若い男の様子に、少女はいよいよ申し訳無さそうな顔をすると、「あの……本当にごめんなさい」と弱々しく言い、ついには(うつむ)いてしまった。
「……志帆(しほ)ちゃん?」
 カラカラに乾いた喉の奥から声を絞り出す。
 少女は驚いた顔をすると、ワンピースの裾を握っていた手を自らの口元に当てた。
 そして、よく磨かれた黒曜石のような大きな瞳をさらに見開き、俺の顔をじっと見つめ返してくる。
「俺……ほら、杉浦(すぎうら)の」
 す、ぎ、う、ら……と、少女の薄い唇がゆっくりと動く。
「もしかして……夏生さん、ですか?」
 中学一年の夏休みは部活三昧(ざんまい)だった。
 そして今年、中学二年の夏休みはといえば、引退を目前に控えた三年の不祥事により一切の活動が禁じられ、人生最大級に暇を持て余していた。
 例年であれば、お盆の三日間だけ訪れていた祖母の田舎に少しだけ早くやってきたのもそのためだった。
 盆の入りの今日の夜には両親も合流し、十七日の昼まで滞在することになっている。

 時計を見ないで家を出たが、日の高さからして三時を少し回ったくらいだろうか。
 時間的には夕方の入口に差し掛かったところだというのに、夏の日差しというものはまるで容赦がなかった。
 田舎暮らしも二週間が経ちあまりに暇だった僕は、祖母の家から歩いてすぐのところにある海へと向かっていた。
 目的などは持ち合わせていなかったが、なぜか急に海が見たいと思った。

 矢竹のトンネルをくぐり抜けて砂浜に降り立ち、まっさらな砂の上に足跡のスタンプを押しながら波打ち際まで進む。
 遥か水平線の上では、縦にも横にも大きく広がった巨大な入道雲が、その真下で存分に水を(たた)える海を覆い隠そうと目論んでいる。
 しかし、海の広大さに比べてあまりにも矮小(わいしょう)なそれは、海面にほんのわずかに影を落とすのが関の山だった。
 海岸に人影はなく、プライベートビーチにいるような気持ちのよさと、禁足地に足を踏み入れているような後ろめたさが共存していた。

 三十分ものあいだ何もせずに、ただずっと海と空の青を眺めていた。
 このまま海に沈む夕日を見送ってやろうかとまで考えたが、その前に日焼けか喉の乾きで限界を迎えるのは目に見えている。
 少々名残惜しい気もするが、今日のところはこのくらいにして、家に帰って漫画でも読もう。
 そう思い勢いよく立ち上がった、まさにその時だった。

「それ、とってください!」
 反射的に声がした方向に顔を向ける。
 すると、浜風に舞い上がった麦わら帽子が、今まさに僕の頭上を通過しようとしていた。
 咄嗟(とっさ)に伸ばした手が虚しく空を掴む。
 世にも珍しい空飛ぶ麦わら帽子は、まるで意思をもっているかのように僕の手からするりと逃れると、高度を上げも下げもせずに、ただ空中を滑空していく。
 一体どんな力学的作用に()るものなのかはわからないが、小さなグライダーと化した麦わら帽子を追いかけているうちに、いつの間にか波打ち際を数十メートルも歩いていた。
 このまま日が暮れるまで砂浜を彷徨(ほうこう)することになるのではないか?
 そんなあり得ない懸念が脳裏を横切ったちょうどその時、それまで吹いていた風がほんの一瞬だけ止んだ。
(……いまだ!)
 数歩の助走をつけ、波に濡れて固くなった砂の地面を蹴りつける。
 我ながら絶妙なタイミングだった。
 レイアップシュートを決めるような格好で垂直に飛び上がった指先が、たったの数ミリだったが帽子のつばを掴んだ。
 心の中でガッツポーズ決めながら着地点に目を向けると、たったいま引いたばかりの波が早くも返ってきたところだった。
 
 何とか帽子は濡らすことなく確保したが、残念なことに僕の下半身は完全に終わってしまった。
 ズボンから水を滴らせてトボトボと砂浜へと戻ると、帽子の持ち主が向こうから駆け寄ってくる。
「……あの、大丈夫ですか?」
 少しだけ息を切らせてそう言ったのは、膝下丈の白いワンピースを着た少女だった。
「ギリギリセーフ」
「あの、ありがとうございます」
 彼女はペコリとお辞儀をしながら、大きな瞳を僕の下半身へと向けた。
「あ……ごめんなさい……」
 先方に(なら)い改めて自分の状態を確認した僕は、その酷い有様に込み上げてくる笑いを我慢することができなかった。
 突然笑い出した僕を見て驚いた様子の彼女に、下半身を指差しその理由を訴えかける。
「ふふっ」
 笑えてもらえてよかったと、心の底からそう思った。
 乾いた砂の上にどすりと腰を降ろす。
 彼女も少し離れたところで膝を曲げると、片手で帽子を押さえながらこちらに顔を向けた。
 黒く長い髪が海から吹く風にサラサラと揺れ、砂の上に波のようなシルエットを浮かび上がらせる。

「あの、このあたりの人ですか?」
「ううん。近くにある母親の実家に来てるだけ。杉浦っていうんだけど」
 薄く形の良い唇から、「あ」と小さな声が漏れる。
「あのお庭の立派な?」
 どうやら祖父の自慢の庭はこの辺りでは有名らしい。
「そこで合ってると思う。えっと――」
「あ、志帆っていいます」
 その容姿から少し年下だとばかり思っていた。
「僕は夏生。中学二年生」
「じゃあ、同級生ですね。ちょっと年上だと思いました」

 初めは敬語を使っていた彼女だったが、しばらく話をしていると徐々に同級生に対する言葉遣いへと変わっていった。
「夏生くんはバスケ部なんだ。それでさっきはあんなに高くジャンプできたんだね」
 そのことは今すぐにでも忘れて欲しかった。
「あんまり上手くはないけどね。志帆ちゃんは?」
「私は吹奏楽部。夏休みはほとんど練習がなくて」
 彼女の話によると、顧問があまり部活動に熱心なタイプではないらしく、夏休み中の活動は週に一度の全体練習を除けば、ほとんどは各自の裁量に委ねられているそうだ。

 四方山話を重ねているうちに、いつの間にか高度を下げた太陽が西の空を赤く照らし始めていた。
「……あ。私、そろそろ帰らないと」
 すっくと立ち上がった彼女はワンピースの裾を手で伸ばしながら、「夏生くんはいつまでこっちにいるの?」と尋ねてくる。
「十八日が登校日だから、十七日の昼には帰るつもりだけど」
 彼女は水平線へと視線を移して何かを考えるような素振りを見せたあと、再びこちらに向き直り口を開いた。
「夏生くん、明日はお時間ってある?」
 考えるまでもなく時間を持て余していた僕は、「うん」と即答する。
西(にし)(しま)にある、コジマさんっていう酒屋さんってわかる?」
 地名まではわからないが、その酒屋は母と一緒に何度か行ったことがあった。
「自動販売機がいっぱいあるところ?」
「そうそう! そこに明日の三時にって言ったら……どう?」
「わかった。どんなことがあっても必ず会いに行くよ」
 口にしてから言葉のチョイスを間違ったことに気づく。
 僕は昔からいちいち表現が大袈裟なのだ。
 案の定、彼女はただでさえ大きな目をさらに見開くと、次の瞬間には頬を夕日のように赤く染めてしまった。

「バイバイ夏生くん! また明日!」
 長い影を引き連れながら砂浜を去って行く後ろ姿を見送ると、すっかり乾ききった体を翻して海をあとにした。
 自らの足取りが軽やかなことに気が付き、自分は昆虫ほどに単純な精神構造をしているのではないかという疑念が生じる。
 まあ、ミミズはともかく、オケラだってアメンボだって楽しいときにはスキップくらいはするだろう。

 家につくと真っ直ぐに風呂場へと向かった。
 浴室に入ってから脱いだズボンからは大量の砂がこぼれ落ち、足元に小さな砂の山が形成される。
 シャワーで床を洗い流してから、ようやく自分の身体にシャワーを当てた。
「イ!」
 あれだけ長いあいだ海にいたのだから、当然といえば当然だった。
 今夜は湯船に入るのはやめておこう。

 夕食を終えると同時に催促されたわけでもなく宿題に着手した僕の姿を見て、母は「あんた本当に私の子?」とぼやく。
 母がその答えを知らないのなら僕にわかるはずもないので、何も言わずにノートと向かい合う。
 三十分が過ぎた頃になり、ようやく宿題を終えて壁の時計に目をやる。
 例年であればまだテレビを見ている頃だが、今日はちょっとだけ早く夏の一日を終了させることにした。
 僕は夏生という名前のくせに暑いのが苦手だ。
 そもそも夏の生まれではなく、誕生月は春も真っ只中の四月だった。
 冬の寒さであれば着込むことでどうとでもなるが、夏の暑さを前にしては、仮に全裸で過ごすことが許されたとしても耐え難いものがある。
 ただ、夏が嫌いかといえば、まったくそんなことはなかった。
 むしろ四季の中で一番好きな季節が夏だというのだから、自分でも少しややこしい性格だと思う。
 それはそうと、僕の夏好きの原因は毎年お盆に訪れている、この田舎の町の影響が強いように思う。
 今こうしている時にでも海から吹く風に混じった潮の香りは好きだし、祖母の家の縁側で食べるスイカも大好物だった。

 母に車で送ってもらわなかったことを後悔し始めた頃、ようやく目的地の酒店が目前にまで迫ってきた。
 コンビニほどのサイズ感の店舗の前に、色とりどりの自動販売機が十台近くも並んでいる光景は、まるで戦場の最前線に築かれた要塞のようにも見えるが、今の僕にとっては砂漠の中のオアシスになってくれるに違いない。
 ガラスの引き戸を開けた瞬間、まさに期待の通りのキンキンに冷えた空気が体の前面に直撃する。
「いらっしゃい」
 店の奥にある座敷から優しい笑顔の年配の女店主が、身体を半分だけ出して出迎えてくれた。
 壁に掛けられている時計の針は二時三十分を指しており、(おおむ)ね予想通りの時間に到着したことになる。
 赤い帯が巻かれたペットボトルのコーラを購入し、自販機の列の前に置かれたベンチに腰を下ろして待ち人が訪れるのを待つ。

 結露によって生じた水滴がボトルの表面を流れ落ちる様を眺めていると、視界の隅に麻製の小さなサンダルが映り込んだ。
 顔を上げると果たしてそこには、浅葱(あさぎ)色のノースリーブワンピースを着た彼女の姿があった。
「ごめんなさい。待たせちゃったよね?」
 その頬は僅かに紅潮しており、もしかしたら僕の姿を遠目に認めて走ってきてくれたのかもしれない。
「ぜんぜん。それにこっちが勝手に早く到着しただけだから」
 それも二十分近くも早く。
「よかった。それじゃ、いこっか?」
 先に歩き出した彼女に追従しながら、その背に行き先を尋ねる。
「お話をするのに丁度いいところがあるの」

 彼女に連れられて来たのは、酒店からほんの数分歩いたところにある学校だった。
 校庭の広さからして小学校だろう。
 すぐ背後が山という立地のせいか、まるで高原にでも来たかのように涼やかだ。
 木陰にあったブランコに並んで腰を下ろすと、彼女は顔をこちらに向け口を開いた。
「来てくれてよかった」
「約束したんだから来るに決まってるよ」
「うん。でも、ありがとう」
 当たり前のことを言っただけなのに、彼女はとても喜んでくれているようだった。
「夏生くんは毎年こっちに来てるの?」
 座ったままブランコを大きく漕ぎながら答える。
「うん。お盆と正月には必ず」
「うちもお盆はいつも親戚で集まって、それで夜中まで大騒ぎ」
「それ、うちの大人たちと同じだ」
 僕の言葉に彼女は口を抑えて笑ってくれた。

 そのあとも昨日の海であったことや、待ち合わせ場所に至るまでに太陽に()かれて死を覚悟したことなど、どうでもいいような話題ばかりを選んで話した。
 彼女は大人しそうなその見た目に反して、とてもよく笑う子だった。
 僕はその笑顔をもっと見たいと思い、そう饒舌(じょうぜつ)でもない口を一生懸命に動かし続けた。
 学年が同じだからか、僕と彼女の共通の話題は性別の違いを考慮しても多彩だった。
 小学校でも中学校でもクラスの女子とこんなに話すことはなかったので、女の子とこれほど仲良くなったのは生まれて初めてのことだった。
 もし昨日、何となしに海に行くことをしなかったら。
 もし昨日、彼女が麦わら帽子を風に飛ばされなかったら。
 いま僕たちがこうして、ここにいることはなかった。
 そう考えると、出会えたことがちょっとした奇跡のように感じられた。

 ほんの先ほどこの場所に着いたばかりだと思っていたのに、気がつくと校庭の鉄棒が地面に長い影を落としていた。
 ツクツクボウシに紛れて聞こえるヒグラシの鳴き声が、彼女との楽しい時間の終わりを予感させる。
 その時、校庭にチャイムの音が鳴り響く。
「あ、もうこんな時間なんだ」
 きっとチャイムの鳴る時間を知っていたのだろう。
 彼女は最後にブランコを大きくひと漕ぎすると、その勢いを利用してふわりと地面に舞い降りた。
 その拍子にワンピースのスカートの裾が少しだけめくれてしまい、僕は慌てて目をそらすと、彼女とは対象的にブランコを足で止めて静かに立ち上がる。
「夏生くん、今日はありがとう。すごく楽しかった」
 振り返ってそう言った彼女は、今日一番の笑顔を咲かせて見せてくれた。

 その瞬間、心臓を鷲掴みにされたように胸が痛くなり、同時に彼女と過ごす時間が終わってしまうことが酷く残酷なことのように思えた。
 誰に教えられたでもなく、僕はその理由を知っていた。
 僕は彼女の顔を真っ直ぐに見つめ、彼女もまた僕の顔をまじろぎひとつせずに覗き込んでいる。
 このままでは高鳴った心臓の音が、彼女の耳にまで届いてしまうのではないか?
 そうなる前に、咳払いをしてから声を発した。
「明日の夜、うちの近くのお寺で盆踊りがあるんだ。もしよかったら一緒に行かない?」
 一瞬だけ間を置いてから彼女は小さく頷き、向日葵のような笑顔をこちらに向ける。
「うん。何があっても必ず行くから」
 それは昨日、僕が彼女に言った言葉だった。
 午前、そして午後と祖母の手伝いをしながら、日が暮れるのを心待ちにしていた。
 ようやく太陽が真っ赤に熟し始めた頃、点けられたままで誰にも見向きされていなかったテレビで時刻を確認する。
 午後六時三十分。
 待ち合わせの時間は七時なので、そろそろ家を出たほうがいいだろう。
「お母さん。ちょっとお祭り見てくるね」
「ひとりで?」
「うん」
 少なくとも現地に到着するまではそういうことになる。

 宵の口の空はまだオレンジ色が優勢だった。
 玄関を出た時は微かに聞こえていただけの祭ばやしが、県道を渡り切った途端にはっきりと耳に飛び込んでくる。
 そのことで自然と身が引き締まり、何なら小さめの武者震いまで出てしまった。
 それはこれから彼女に会えるからに他ならなかったのだが、同時に僕の独りよがりなのではないかという不安からもきていたように思う。

 公園を転用した盆踊りの会場は、特別な夏の夜を謳歌する多くの人で賑わっていた。
 (やぐら)(くく)り付けられた音量重視のスピーカーから流れる、笛や太鼓の囃子(はやし)
 夜店の人たちが使う発電機の音や、そこかしこを楽しそうに走り回る子供たちの歓声。
 そんな幸せな音たちに囲まれながら、僕は広場の奥にあるタイヤ飛びの上に腰を下ろすと、彼女がやって来るのを待った。
 やがてスピーカーからは祭ばやしに代わり炭坑節が流れ出す。
 それを合図に一人、また一人と櫓のもとに集っていく。

 手持ち無沙汰から踊りの輪に加わろうかと思っていた、その時だった。
「夏生くん、おまたせ」
 背後から急に声を掛けられ、亀のように首を(すく)ませながら振り返る。
 そこには束ねて上げた髪に水色の髪飾りを付け、真夏の海のような藍色の浴衣を着こなした彼女の姿があった。
「どう? 似合ってるかな?」
「うん。すごく素敵だと思う」
 率直な感想を述べると、彼女は小さな声で「ありがとう」と言った。

「夏生くんって、ちょっとだけ変わってる」
 夜店でフランクフルトを購入してからタイヤ飛びまで戻った途端、彼女にそんなことを言われてしまった。
「変わってるって?」
 マスタードの付いていない方をプラスチックトレーごと手渡す。
「あ、ありがとう。……初めて会った時もだったけど、なんか――」
「ごめん」
 僕には昔から思ったことをそのまま口にしてしまう悪癖があった。
 何度も直そうとしたが、それはなかなかにして難しいことだった。
「あ、ちがくて! ……変わってる言っても、べつに悪い意味じゃないの」
 彼女は背筋をやや伸ばすと、真剣な面持ちで言葉を続けた。
「夏生くん、ぜんぶ言ってくれるから」
「全部?」
「……言ってもらって嬉しいこと」
 三度(みたび)顔を赤らめた彼女は、「いただきます」と言ってからフランクフルトを口にした。

 彼女がフランクフルトを食べ終えた頃合いを見計らい、勢いよくタイヤから立ち上がると右手を差し出す。
 それは彼女が手にしているトレーを受け取り、すぐそこにあるゴミ箱に捨ててこようと思っての行動だった。
 だが彼女は少し驚いたような顔をしたあと、僕の右手に自分の左手を重ねてくる。
 彼女の手は僕の手よりも一周りも二周りも小さく、それに少しだけひんやりとしていた。
「志帆ちゃん、行こっか」
 握ったほうの手で彼女を立ち上がらせ、反対の手で今度こそ串とトレーを受け取る。

 踊りの輪に加わるのは二年振りのことだった。
 最初の数分こそ違和感を覚えながらだったが、すぐに勘を取り戻して手足を大きく振りながら手拍子を打つ。
 すぐ後ろでは、彼女も遠慮がちに団扇(うちわ)を振りながら、やはり小さめな動きで音楽に合わせて手足を動かしていた。
「ごめん志帆ちゃん。ちょっと場所、替わってもらってもいい?」
 彼女は不思議そうな顔をしながら「どうしたの?」と尋ねてくる。
「志帆ちゃんが踊るとこ、もっとよく見ていたくて」
 彼女は振るっていた団扇を口元にあて、「……そういうところだよ」と言った。

 櫓の周囲を三周した頃になり、どちらからともなく盆踊りの輪からそっと抜け出す。
「夏生くん、踊るの上手なんだね」
 彼女はそう言いながら、手にした団扇で僕のことを扇いでくれる。
「志帆ちゃんこそ――」
 そのあと『すごく上手で、それに綺麗だった』と続けたかったが、今回ばかりは(すんで)の所で言葉を飲み込むことに成功した。
「お姫様みたいでかわいかったよ」
「だから……もう! 夏生くんって本当に変わってる」
 どうやら僕は本格的に変なようだ。

 少し休憩してから顔なじみのかき氷の夜店へと足を運んだ。
 強面の店主が僕の顔を見て、「今年はまた随分と若い女の子に乗り換えたな」と(からか)ってくる。
「おばあちゃんは観たいドラマがあるから今年は来ないって。この子は僕の大事な友達だよ」
 自分的には最大限に言葉を選んだつもりだった。
 店主は目を丸くすると「そうかい。じゃあたっぷりサービスしてやらんとな」と、慣れた手付きで見る見るうちに小高い山を二つ築き上げる。
 練乳が雪崩の如く山肌を埋め尽くしており、もはや見た目では何味のシロップが掛かっているのかすら判別できない。
 まるで南アルプスの山々を思わせる巨大な氷壁を目の当たりにした彼女は、その大きな瞳に隠しきれない不安の色を宿していた。
「これ、食べきれないかも……」

 二人してタイヤの上に座り、一心不乱にシャリシャリと氷山を崩す。
「夏生くん」
 すぐ横から聞こえた鈴の音のような声に、登山の手を一旦止めて顔を上げた。
「さっきはありがとう。その……大事な友達って言ってくれて」
「僕さ。志帆ちゃんとは海で初めて会ってお喋りをした時から、なんかだ昔からの友達みたいな気がしてたんだ」
 性懲りもなく思ったことをストレートに口に出してから、急いで視線を氷山に戻すと山崩しを再開した。
 視界の隅で、彼女が開きかけた口をそっと噤むのが見えた気がした。
 ようやく氷山を崩し切ると、その向こう側には見慣れた景色が広がっていた。
 小学生だった頃の国語の時間に、山の陰になるせいで半日しか陽が射さない村の住人が、長い時間を掛けて山の土や石を削り、一日中陽の光が得られるようになったという物語を読んだことがある。
 今の僕はまさにその村の住人だった。
 当時は、埋め立てられた湖に住む魚たちの安否が気になって仕方がなかったが、今は彼女のことが心配でならない。
「志帆ちゃんはどう? いけそう?」
 舌をブルーハワイ色に染めた僕の問い掛けに、彼女は弱々しく首を左右に振って答えた。
「貸して」
 力なく差し出されたカップに目を落とすと、そこにはまだ半分以上も氷が残されていた。
 僕はそれを丼ぶりの飯でも搔き込むかように、一気に胃袋へと流し込んだ。
 次の瞬間にはもう、激しい頭痛と胸痛が襲ってくる。
 もんどり打ちそうになるのを気力だけでなんとか堪え、平然を装い空になった容器を彼女に示した。
「夏生くんすごい!」
 称賛の言葉に手を振り応え、空になったカップを捨てに行くため立ち上がる。
 彼女に背を向けた途端、耐えに耐えていた苦痛が形相に反映され、途中ですれ違った小学生の女の子が「っひ!」と声をあげるのが聞こえた。

 かき氷のダメージが癒えるのを待ちながら、昨日の午後に話しきれなかった雑談の続きをする。
 それは学校にいる恐い先生の話だったり、最近買ったCDの話だったりと、本当に他愛もないことばかりだった。
 それは僕にとっては最高に楽しい時間で、彼女もきっと同じように感じてくれているはずだった。
 そう確信できるほどに、僕たちはよく口を動かし笑い続けた。

「あ、ごめんなさい。私、そろそろ帰らないと」
 広場の時計に目を向けた彼女は、申し訳なさそうに目を伏せた。
 まだ八時を少し回ったところが、中学生の女の子の門限を考えれば、いくら特別な日だからといっても当然だろう。
「家の人が迎えに来てくれるの?」
「あ、ううん。歩きなの」
「じゃあ送っていくよ」
「え、いいよ」
「いこ」
「あ! 夏生くん待って!」

 広場を出ると少しだけ早足で県道を西に向かう。
 暗がりの歩道で手のひらを上にして手を差し出すと、彼女は熱いものにでも触れるようにそっと手を重ねてくる。
「夏生くんってやっぱり、ぜったいに変わってる」
 その指摘に対する最適解を持ち合わせていなかった僕は、可能な限り有り体な返答でお茶を濁すしかなかった。
「そんなに変?」
 自覚があるくらいなのだから、実際にあってもそうなのだろうが。
「ヘンだよ。だって、うちの学校にはいないもん」
「僕の学校にもいないよ。志帆ちゃんみたいなかわいい女の子って」
 僕は思ったことをただ口から自動で出力するだけのコピー機のような男なのだが、故にその言葉の全てが偽りのない本心だった。
 だとしても、やはりもう少し言い方というものがあったかもしれない。
 なにせ僕たちはまだ中学生なのだし、それよりも何よりも、一昨日の夕方に知り合ったばかりなのだ。
 今からでも『な~んちゃって!』とでも言ったほうがいいのだろうか?
 それこそ大悪手だという予感もするが。
 そんなどうでもいいことに考えを巡らせていると、ふいに彼女が立ち止まった。
 手と手で繋がっている僕も必然的に動きを止める。
「どうしたの?」
「……うちの学校にもいないから」
「え?」
「夏生くんみたいな……素敵な男の子。うちの学校にはいないよ」

 昨日の待ち合わせ場所だったリカーショップの前まで来た時だった。
「あ、夏生くん、ここで大丈夫。うち、もうすぐそこだから。今日は本当にありがとうございました」
 彼女はそう言うと、浴衣の裾を正してから深くお辞儀をした。
 慌てて僕も「こちらこそ」と、かしこまって頭を下げる。
 そして互いに顔を合わせてクスリと笑った。
「……志帆ちゃん」
「うん?」
「明日。明日はどこに行こっか?」
 自身の口から発せられた言葉のそのあまりの気恥ずかしさに、首の後ろ側がゾクゾクと(あわ)立つ。
 一瞬だけ驚いたような顔をした彼女だったが、次の瞬間には手にしていた団扇で口元を隠しながらこう言った。
「いまね、私もおなじこと言おうと思ってたの」

 満天の星の下をひとりで歩きながら、今日あった様々な出来事を思い出していた。
 このあと僕は、帰宅が遅くなったことで母に怒られるだろう。
 だが今はただ、幸せな気持ちに胸を踊らせるがままでいた。
 周囲を見回し人も車も見当たらないことを確認すると、歩道と車道を隔てる縁石の上を歩く。
 
 今日は帰ったらすぐに風呂に入り、とっとと寝てしまおう。
 そうすればまた、すぐに彼女と会うことができるのだから。
 午前中は宿題をやっつけて過ごし、昼ご飯は家族と素麺を食べた。
 太陽が頭上を通過した頃になり、もはや定型文になりつつある「ちょっと出掛けてくる」と母に言い残し、海のある南へと足を向ける。

 今まで一度も人がいるのを見たことのなかった海岸を、一組の母子が並んで歩いているのが目に映った。
 楽しげに波を避けながら足元に目線を落とし歩く様子から、貝殻やシーグラスを探しているのだろう。
 幼かった日の僕も同じ目的で波打ち際を何往復も歩いたことがあった。
 あのとき手に入れポケットに仕舞ったはずのそれは、家に戻るまでの道中でいつの間にか失われてしまっていた。
 そのことに気づいた翌日の昼から必死になって探した宝物を、僕は結局みつけることができたのだったか?

 薄紫色の花が咲く砂の丘の上に腰を下ろし、彼女が目の前に現れるまでの時間を海を眺めながら待った。
 昨日の盆踊りの疲れが残っていたのか、それともこんな気持ちのいい場所にいる以上、仕方がないのか。
 急に激しい眠気に襲われ、ほとんど抗うこともできないままその場に横たわる。

「……」
 目を閉じているのに世界がやけに明るかった。
 恐る恐る瞼を開けると、紺碧の空を気持ち良さげに泳ぐ雲が目に入ってくる。
 その手前には、海から吹く心地の良い風に柔らかそうな黒髪の毛が揺れていた。
「おはよう、夏生くん」
「……おはよう」
 欠伸(あくび)をしながら体を起こすと、腕に貼り付いていた砂の粒を彼女が優しく払い落としてくれる。
 眠っていたのはわずかな時間だとは思うが、彼女を待たせてしまったことには違いなかった。
「ごめん。起こしてくれればよかったのに」
「ううん。今さっき来たところだし、それに夏生くんのほうが早く来てくれてたし」
 それは相変わらず僕が勝手に早く来ていただけなのだが、そこは彼女の厚意に甘えておくことにした。
「ね、夏生くん。このお花って知ってる?」
 僕たちの周りに、それそこ星の数ほど咲き乱れている花の一つを撫でるようにして彼女が尋ねてくる。
「わかんない。なんて花なの?」
「ハマゴウっていうの」
「へぇ」
 小さくて可憐で少し儚げなその花は、僕が彼女に抱いているイメージにどことなく似ているように感じた。
「花言葉はね」
 風に揺られて波打つハマゴウの花畑を眺めながら、彼女の口から続きの言葉が紡がれるのを待つ。
「……知らないんだけど」
 心の中で『なんだそりゃ!』とずっこける。
「でも、かわいい花だよね」
 それはその通りだったが、こんな過酷な場所に人知れず咲いている姿はやはり儚げにみえた。

「あの雲ってどのくらい遠くに浮いているんだろう」
「どうだろ? 泳いで行けるかな?」
「このずっと向こうにオーストラリアがあるんだね」
「私、飛行機ってまだ乗ったことがないんだ」
「あ、夏生くん。あそこにいるのってヤドカリかな?」
「……僕には空き缶か何かに見えるけど」

 八月の、二人だけの夏の時間がゆっくりと流れてゆく。
『このまま時間が止まってしまえばいいのに』
 唐突にそんな、ベタすぎる言葉が脳裏に浮かんだ。
 今までの僕であれば、躊躇(ちゅうちょ)せず口に出していたことだろう。
 だが、今までの僕ではなかった今の僕はそれをしなかった。
 言葉にしてしまうと、このかけがえのない時間がすぐにでも終わってしまうような気がして、(わず)かに開き掛けた口をきつく結ぶ。

 夏の海と空は徐々にその色を濃く変えながら、僕たちの視界の半分以上を青に染めあげ続けていた。
 そのとき不意に、風向きが変わった気がした。
 まるでそれを切っ掛けにしたように、彼女は少しだけ身を乗り出すとこちらに向き直る。
「あのね、夏生くん」
 彼女は音もなく立ち上がると、その白い手を静かに海岸線の向こうに向ける。
「あっちの方にね、おっきな灯台があるの。小さい頃、お父さんに連れてってもらったことがあるんだけど」
 その指し示す方向に目を向けたまま腰を上げる。
 そこには弓形の海岸が見渡す限りに続いており、遠くの方は潮風に(かす)んでしまっていて見ることができない。
 視線を彼女の方に戻すと、そっと手を上に向けて目配せする。
 その意図を汲み取った彼女は、白くて小さな手をそっと置いてくれた。
「行ってみよう。この海岸線の向こうまで」

 まだ見ることのできない目的地へと向かい、僕と彼女は同時に一歩を踏み出す。
 その足元ではハマゴウの花たちが、やがてやってくる凪の時間を待ちながら静かに揺れていた。
 海原を左手に眺めながら、かれこれ十五分は歩いていた。
 ラジオのノイズの音にもよく似た潮騒(しおさい)に混ざり、たまに遠くの方から海鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。
 振り返ると、亜麻(あま)色の砂浜に二人分の足跡が寄り添いながら、どこまでも果てしなく続いている。
 先ほどから僕たちは会話という会話をしていなかった。
 それは話すことが無くなったわけでもなければ、歩くのに疲れたからというわけでもない。
 互いに手と手を取り合い、同じ景色を見ながら同じ方向へと進む。
 そうすることで今、僕と彼女はひとつになっていた。
 もはや言葉を交わす必要もないほどに。

 やがて霞んだ景色の向こうにゴール地点である白い塔が見えてくる。
 不意に耳元で「夏生くん」と名前を呼ばれ、続け様に繋がっていた手がそっと離れた。
「私がいいよって言うまで目、つむってて」
 言われるがままに(まぶた)を閉じる。
 視覚が閉ざされると波の音が急に大きくなったように感じ、まるで自分が海の上に立っているかのような錯覚に陥る。
 時間にすればわずか十秒足らずだったはずだが、視覚からも触覚からも彼女が消えていたその時間は、それよりも随分と長く感じられた。
「もういいよー!」
 その声はやけに遠くから聞こえた。
 目を開くと、数十メートルも離れた場所でサンダルを両手に持ち裸足になった彼女が、こちらに手を振りながら「灯台まで競争ねー!」と言うや否や、くるりと身を(ひるが)して走り出す。
 呆気にとられ徐々に小さくなっていく後ろ姿を眺めていた僕だったが、状況を把握すると砂を蹴ってその背中を追った。

「夏生くんって足も速いんだね」
 ようやく追いついてきた彼女は、足の裏に付いた砂を払いながら少しだけ悔しそうな顔でそう言った。
「三週間ぶりくらいに全力で走ったよ」
 走力への言及は避けつつ、サンダルを履き終えたばかりの彼女の手を再び取る。
 そうして僕たちはまた、ひとつになることができた。
「小さい頃はすごくおっきいと思ってたけど、そんなでもなかったかも」
 目の前の塔を仰ぎ見ながら彼女がそう呟く。
 僕には十分巨大に見えるそれも、幼い彼女の目にはきっと今より何倍も大きく映っていたのだろう。

 灯台から少しだけ離れた木陰にはベンチが二基ならべて置かれており、僕たちは海側を向いたそれに並んで腰を下ろした。
 夏の日差しを受けて白く輝く光の塔は、海上交通の安全のために建てられた守り神であるのと同時に、休日を楽しむ人々の憩いの場でもあった。
 水平線の上にある巨大な入道雲を指差し歓声を上げる、幼い兄弟とその父と母。
 堤防の突端に三脚を立て高そうなカメラで写真の撮影をしている、革のジャケットに身を包んだ、髭面の中年ライダー。
 ただここに来ることだけが目的だった、僕と彼女。
 各々が同じ場所に居ながらにして、それぞれの夏の時間を過ごしていた。
「夏生くんって、やっぱり夏の生まれなの?」
 唐突に振られたその話題は、過去に何度も答えたことのあるものだった。
「ううん、四月。なんかうちの両親が夏に出会ったからだって」
 そんな大味な理由で付けられた、意味のあるような無いような夏生という名前だったが、当の本人である僕はそれなりに気に入っていた。
「志帆ちゃんは?」
「私は七月生まれ」
 夏に生まれたにしては、彼女は随分と白く透き通る肌の持ち主であった。
「夏生と志帆って、なんか海に似合う名前だよね」
 彼女はそう言うと、口に手を当てクスクスと笑う。 
 次に気がつくと、さっきまで灯台の下にいた子連れの家族がいなくなっていた。
「志帆ちゃん。あそこまで行ってみようよ」
 堤防の突端を指差しながら腰を上げ、彼女の手を取り引き上げる。

 その時だった。
「すみません」
 バリトン歌手を思わせる渋い声がした方向に顔を向ける。
 カメラと三脚を手にした中年のライダーが、再び「すみません」と口にしながらこちらに一礼した。
「ぶしつけで申し訳ない。僕は趣味で写真を撮っている者なんだけど、もし良かったらでいいんです。あなた方の写真を撮らせてもらえませんか?」
 その突然の申し出に、僕たちは顔を見合わせ目を白黒させた。
 彼の説明によると、近いうちに写真のコンテストがあるそうで、その題材として僕と彼女が目に止まったのだという。
「夏生くん、どうする?」
「僕はべつにいいけど……」
「夏生くんがいいなら、私も」
 ライダーに指示されるがままに、コンクリートの擁壁(ようへき)の縁に腰を下ろす。
「さっきお二人がされていたように、彼氏が彼女の腕を引っ張って立ち上がらせてください」
 彼氏彼女と言われたことに若干の照れと抵抗があったのだが、そんなことを指摘するのはもっと照れくさかった。
 言われたとおりに、先ほどと同じ動作を繰り返してみせる。
「思った通りだ! すごく良かったです!」
 そのあとも何度もポーズを変えながら、何十枚もの写真を撮られた。

「お疲れ様でした。最後にもう一枚だけ。これはお礼として後日あなた方に送らせてもらうので、どうぞお好きなポーズで」
 そう言われてしまうと、今度は逆にどうすればいいのかわからない。
「夏生くん、こっちきて」
 彼女は僕の手を引くと堤防の突端まで進み、カメラを構えたライダーの方にくるりと振り返る。
「お願いします」
 こうして最後の一枚は、紺碧の海原と群青の空を背景にして僕と彼女が手を握りあっただけの、非常にシンプルな構図の写真になった。
「出来上がった写真はどちらに送ればいいですか?」というライダーの問に、彼女は自分の住所を教えたようだった。

 ライダーは何度も礼を言い、自販機でジュースまでおごってくれた。
 引き受けてしまった直後は少し面倒だと思っていたのだが、これほどまでに感謝されると、何だか自分たちが偉業でも成し遂げたような気持ちになってくる。
 大きく手を振りながら去って行くライダーを手を振り返しながら見送り、そしてついに灯台の下にいるのは僕と彼女のふたりだけになった。
「ちょっとだけ疲れたね」
 自販機脇のベンチに並んで腰掛けると、彼女は静かに僕の肩に体重を預けてくる。
 突然のことに驚いてしまったが、すぐに彼女が疲れてしまわないように肩の角度を調整した。

 しばらくそのままの体勢で言葉を交わしていると、急に彼女からの返事が返ってこなくなった。
 代わりにすーすーとかわいらしい寝息が聞こえてくる。
 今度は僕が彼女の目覚めを待つ番だと決めながら、左肩に寄り掛かる安らかな寝顔を覗き見る。
 柔らかそうな髪が海風に流され、膝の上に置かれた僕の手の甲にその毛先が触れた。
 気づかれぬようにそっと触れると、シルクのようにサラサラとした感触を伴いながら、即座に手の中から零れ落ちていった。
 世界が終わるその瞬間まで、ずっとこうしていたいと思っていた。
 しかし、現実というやつはどうにも無粋で、いつしか頭上に広がる夏空からは青色の成分が失われ始めていた。

「志帆ちゃん、起きて」
 耳元で(ささや)きかけながら身体を揺さぶると、肩に掛かっていた重みが幾分か和らぐ。
「あ……ごめんなさい。私、寝ちゃってふぁ……」
 言葉尻に欠伸を混ぜてそう言った彼女は、目尻に涙を溜めたまま両手で口を押さえながら立ち上がると、おもむろに言葉を続けた。
「小さい頃にね。お父さんが急に『志帆、灯台に行こう』って言って、ここに連れてきてくれたの」
 彼女は海に向けていた視線を灯台に移しながら、さらに言葉を続ける。 
「その時にね、『パパはここでママにプロポーズをしたんだよ』って言うから、私が『プロポーズってなあに?』って聞き返したら、お父さん、顔を赤くしちゃって」
 そう言って笑う彼女の横顔は、少しだけ悲しそうにみえた。
「夏生くんと今日、ここに来られてよかった」
「僕もだよ。それじゃ、そろそろ帰ろっか」
「……うん」

 過去の自分たちがつけた足跡を辿りながら、まるで今日という一日を巻き戻すように、本日のスタート地点であり僕と彼女が初めて出会った場所でもある砂浜へと戻って来た。
 灯台を出発した時にはまだ青の陣地が広かった空も、西の端から徐々にオレンジ色に侵略され始めていた。
 海原を渡り吹きつける風に揺れるハマゴウの花が、やがて水の底へと沈みゆく運命の太陽を無言で見送っている。
「……夏、もう終わっちゃうね」
 斜めから差す陽の光を受け、黄金色に(きら)めく海を眺めながら言った彼女のその言葉は、自身に向けて発せられているように聞こえた。
 その続きが紡ぎ出されるよりも早く、今度は僕が口を開いた。
「まだ始まったばかりだよ。それに来年も再来年もその先もずっと、僕たちが生きている限り、何度でも夏は来るから」
「……そうだね」
 彼女の声は波の音にかき消されてしまいそうに弱々しかった。

 僕は明日の昼にはこの町を去る予定でいた。
 ただ、部活動がない今年の夏であれば、明後日の登校日を終えてさえしまえば、またここに戻ってくることができる。
 そのことを彼女に言おうとした、その時だった。
 彼女がクルリとこちらに向き直り、そして静かに歩み寄ってくる。
「……夏生くん」
 半歩も離れていない場所で歩みを止めた彼女は、次に僕の目をじっと見つめ、やがて静かに瞼を閉じた。
 その行動の意味を理解し、恐る恐るその両肩に手を置く。
 西日を受けて砂の上に浮かびあがった二人分の長い影が、互いの顔と顔とを接点にして、やがてひとつに繋がった。

 二つの影が繋がっていたのはたった数秒でしかなかったが、僕にはその時間が永遠に近しく感じられた。
 触れていた柔らかな感触が無くなったのと同時に、いつの間にか消え去っていた波の音がふたたび戻ってくる。
 息を深く吸い込んでから瞼を開くと、数歩離れた場所でこちらをじっと見つる彼女と目が合う。
 その表情はといえば、微笑んでいるわけでもなければ恥ずかしげというわけでもなく、かといって無表情だったかといえば、それもまた少しだけ違っていた。
 (たと)えようのない不安に駆られ、思わず目を閉じてしまいそうなる。
 だが、本当に閉ざしたほうがよかったのは、視覚ではなく聴覚のほうだった。
「夏生くん、ごめんなさい。もう会えないかもしれない」
 彼女はいま、何と言ったのだったか?
「ごめん、志帆ちゃん。意味がわからないんだけど」
「……あのね、私――」

 夜の(とばり)が下りきった砂浜で、たったひとり海に向かい立ち尽くしていた。
 彼女がこの場所を去ってから、一体どのくらいの時間が流れただろう。
 青褐(あおかち)色の空に浮かぶ黒い雲は昼間よりもその量を増し、今や月すらもその影に隠そうとしていた。
 きっと今ごろ親たちには、さぞ心配を掛けてしまっていることだろう。
 だが、そんな些細なことはどうでもよかった。

『明日、私もここからいなくなるの』
 彼女はそう言うと、無理に笑顔を作ってみせた。
 瞬きどころか呼吸をすることさえ忘れ、その言葉の意味を理解しようと努力する。
 しかし、そのために必要な情報を持ち合わせていなかった僕は、結局は彼女の説明を待つしかなかった。

 今を去ること四年前。
 彼女の父親は仕事中の事故で亡くなったのだそうだ。
 母親は突然のことに口も聞けないほどに憔悴(しょうすい)し、ついには葬儀の途中で倒れてしまった。
 それから半年間、家事をすることすらままないまでに塞ぎ込んでしまっていた母親だったが、そんな最中、近所に住む父親の幼馴染であり親友でもあった男性が、足繁く母親の元を訪れては静かに、そして根気よく寄り添い励まし続けてくれた。

 一年半が経ち、母親はようやく笑顔を見せるようになり、さらに二年後の今年の春、幼馴染のプロボーズを受けた。
 夫との思い出が詰まったこの地を去り、どこか知らない土地へと生活の拠点を移すことがその条件だった。

『だから、ごめんね』
 頬を涙で濡らした彼女は深々と頭を下げると、砂浜をもと来た方向へと歩き出した。
 僕はその背中を追いかけようと一歩踏み出したところで、それが彼女の決意を踏みにじってしまうのではないかと思い留まり、この場に立ち尽くしたままその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
 それが正解だったのか間違いだったのかを、ただの黒い大質量でしかなくなった海を眺めながらずっと考えていたのだが、いくら時間を掛けてもその答えは出そうもなかった。

 やっとの思いで足を動かし、赤土の農道を歩いている時にそれはやってきた。
 彼女の背を追い掛けなかったことへの後悔。
 二度と会うことができないことへの悲しみ。
 あまりに無力で無能な自分という存在への怒り。
 それらすべてが激しい慟哭(どうこく)となり、怒涛のように押し寄せてくる。
 たった数日ではあったが、彼女と過ごした日々を思い出すと、このまま胸が裂けて死んでしまうのではないかと真剣に思ったし、何ならそうなって欲しかった。

 もし、彼女と出会ったあの時に戻れるなら。
 真夏の空の下を紙飛行機のように舞ったあの麦わら帽子を、僕は決して追い掛けなどしない。