
高校二年の夏休みに入り一週間が経った頃には、早くも曜日感覚が失われつつあった。
そんな八月一日の、たぶん金曜日の朝。
「夏生、ちょっと話があるんだけど」
いつになく険しい母の表情を見て、それが良い話でないことはすぐにわかった。
「話って?」
「おばあちゃんがね、具合が良くないみたいなの」
「良くないって、病気かなにか?」
「本人はちょっと風邪をひいただけだって言ってるんだけど」
「……なんだ。驚かせないでよ」
そう胸を撫で下ろした一方で、たかが風邪とはいっても一人暮らしの高齢者が罹ったともなれば、母が心配するのも無理はない。
「それでね、夏生にお願いがあるんだけど――」
母は仕事の都合で連休を取ることが難しく、かといって祖母を放っておくわけにもいかない。
そこで白羽の矢が立ったのが、夏休みで暇と時間を持て余していた俺だった。
母の盆休みが始まる十三日までの間、隣県に住む祖母の身の回りの手伝いをしに行ってほしいのだという。
「それは別に構わないけど。でも、おばあちゃんのところにはどうやって行けばいいの? 確か電車は通ってなかったよね?」
「私が送っていくから」
「え? 送ってくって、今から? 仕事は?」
「無理を言って半休にしてもらったの」
どうやら俺の返答などは完全に後回しだったらしい。
スポーツバッグに着替えと勉強道具を詰め込むと、たったそれだけで出発の準備が整う。
炎天下に駐車していた車はサウナの様相を呈しており、窓という窓をすべて開けてもそれは変わらなかった。
「今年は冷夏だって聞いてたけど」
日焼け防止の黒いアームカバーを着けた母が、どこかの天気予報士に文句を言いながら車を発進させる。
「出掛けに電話で夏生が行くって言ったら、おばあちゃんすごく喜んでたよ」
祖母は人口一万人にも満たない町の、そのまた外れにある小さな集落に住んでいた。
俺が最後に足を運んだのは今から三年も前で、中学二年の夏のことになる。
車はやがて海沿いを走るバイパスに乗ると、その速度とエンジンの唸りを二割ほど増大させる。
車窓を流れる風景は、幼い頃から目にした見慣れたものだったが、以前と比べると随分と色褪せてしまっていた。
防砂林の切れ目から時折のぞく海と空の色でさえ、子どもの頃に見たそれよりコントラストが低く感じる。
「夏生。着いたら起こしてあげるから寝ててもいいよ」
前屈みでハンドルを握る母の提案を受け入れ、助手席のシートを倒して目を閉じる。
背もたれ越しに伝わる単調なロードノイズの音だけは、今も昔もなにひとつ変わっていなかった。
「夏生、着いたわよ」
母の呼び掛けに欠伸で答えながら身体を起こす。
車から降りた途端、目と鼻の先にある植え込みの隙間から祖母がひょっこりと顔を出した。
「あんたら、随分早かっただね」
「ちょっとお母さん、寝てなくていいの?」
語気を少々荒らげながら母が祖母に詰め寄る。
「だから電話で大丈夫だって言ったじゃないの。あんたが私を大病人にしただけでしょうが」
重そうな枝切り鋏を携えた祖母は、どこからどう見ても健康そのものにみえた。
引き戸の玄関の三和土で靴を脱ぎ家に上がると、まずは祖父に挨拶をすることにした。
母が生まれた頃に建てられたというこの家は、襖で間仕切られた和室が三つ繋がっており、その一番奥の部屋が仏間になっている。
仏壇の前に置かれた座布団の上に座り、真正面に置かれた遺影の祖父と対面する。
「おじいちゃん、ただいま」
四年前に亡くなった祖父は、無口だがとても優しい人だった。
虫取りでも魚釣りでも山登りでも、俺がやりたいと言ったことにはすべて付き合ってくれたし、近くにある海にもよく連れて行ってもらった。
何かの集まりの時の写真を加工された祖父の遺影は、不義理だった孫を満面の笑みで迎えてくれた。
「夏生にもいらない心配を掛けちゃって悪かったね」
祖母は外したエプロンを立ったままで畳みながらそう言った。
正直なところ、拍子抜けというか肩透かしというか、とにかくそんなふうな思いも多少はあった。
だが、もし祖母が健勝だとわかっていれば、俺は今日ここに来ていなかった。
それどころか来年も再来年も、ずっとその機会を作れずにいたに決まっている。
「いいよ。それに久しぶりにおばあちゃんに会いたかったから」
「あらま。ありがとう、夏生。おばあちゃん嬉しいよ」
祖母はそう言うと、首に掛けていた手ぬぐいで目元を拭った。
「お母さんはもう少ししたら帰るけど、夏生はどうする?」
母にあっても祖母の体調への不安は消え去ったようで、どうやら俺は早くもお役御免になったらしい。
しかし、ここで俺まで帰ってしまっては、せっかく喜んでくれた祖母に申し訳ない気がした。
「ん。帰っても暇だし、週末くらいまで泊めてもらおうかな」
母たちが四方山話を始めたのを見計らい、何気ないふうを装いながら居間をあとにする。
このままここに居ようものなら、そのうち俺の進学や生活態度の話題になることは目に見えていた。
祖母の家の正面には、車が一台通れるだけの狭い道がまっすぐ南へ伸びている。
樹齢何十年という太くて背の高い木々が茂るこの道は、幼かった頃には少しだけ怖い場所だった。
日中にして薄暗いそこを抜けると、急速に視界が開けた。
目の前には赤土の耕作地が見渡す限りに広がり、そのさらに向こうに見える真夏の空の下には、長大な海岸線を擁した太平洋の大海原が待ち構えている。
そこは最後にこの町を訪れて以来たったの一度も行ったことはなく、また行こうとも思わなかった場所でもある。
「……行ってみようかな」
それはただの気まぐれだった。
ただ、いま行かなければ二度と訪れることができないような、そんな予感がした。