高校二年の夏休みに入り一週間が経った頃には、早くも曜日感覚が失われつつあった。
 そんな八月一日の、たぶん金曜日の朝。

夏生(なつお)、ちょっと話があるんだけど」
 いつになく険しい母の表情を見て、それが良い話でないことはすぐにわかった。
「話って?」
「おばあちゃんがね、具合が良くないみたいなの」
「良くないって、病気かなにか?」
「本人はちょっと風邪をひいただけだって言ってるんだけど」
「……なんだ。驚かせないでよ」
 そう胸を撫で下ろした一方で、たかが風邪とはいっても一人暮らしの高齢者が(かか)ったともなれば、母が心配するのも無理はない。
「それでね、夏生にお願いがあるんだけど――」

 母は仕事の都合で連休を取ることが難しく、かといって祖母を放っておくわけにもいかない。
 そこで白羽の矢が立ったのが、夏休みで暇と時間を持て余していた俺だった。
 母の盆休みが始まる十三日までの間、隣県に住む祖母の身の回りの手伝いをしに行ってほしいのだという。

「それは別に構わないけど。でも、おばあちゃんのところにはどうやって行けばいいの? 確か電車は通ってなかったよね?」
「私が送っていくから」
「え? 送ってくって、今から? 仕事は?」
「無理を言って半休にしてもらったの」
 どうやら俺の返答などは完全に後回しだったらしい。

 スポーツバッグに着替えと勉強道具を詰め込むと、たったそれだけで出発の準備が整う。
 炎天下に駐車していた車はサウナの様相を呈しており、窓という窓をすべて開けてもそれは変わらなかった。
「今年は冷夏だって聞いてたけど」
 日焼け防止の黒いアームカバーを着けた母が、どこかの天気予報士に文句を言いながら車を発進させる。
出掛(でが)けに電話で夏生が行くって言ったら、おばあちゃんすごく喜んでたよ」
 祖母は人口一万人にも満たない町の、そのまた外れにある小さな集落に住んでいた。
 俺が最後に足を運んだのは今から三年も前で、中学二年の夏のことになる。

 車はやがて海沿いを走るバイパスに乗ると、その速度とエンジンの(うな)りを二割ほど増大させる。
 車窓を流れる風景は、幼い頃から目にした見慣れたものだったが、以前と比べると随分と色()せてしまっていた。
 防砂林の切れ目から時折のぞく海と空の色でさえ、子どもの頃に見たそれよりコントラストが低く感じる。
「夏生。着いたら起こしてあげるから寝ててもいいよ」
 前屈みでハンドルを握る母の提案を受け入れ、助手席のシートを倒して目を閉じる。
 背もたれ越しに伝わる単調なロードノイズの音だけは、今も昔もなにひとつ変わっていなかった。

「夏生、着いたわよ」
 母の呼び掛けに欠伸(あくび)で答えながら身体を起こす。
 車から降りた途端、目と鼻の先にある植え込みの隙間から祖母がひょっこりと顔を出した。
「あんたら、随分早かっただね」
「ちょっとお母さん、寝てなくていいの?」
 語気を少々荒らげながら母が祖母に詰め寄る。
「だから電話で大丈夫だって言ったじゃないの。あんたが私を大病人にしただけでしょうが」
 重そうな枝切り(ばさみ)を携えた祖母は、どこからどう見ても健康そのものにみえた。

 引き戸の玄関の三和土(たたき)で靴を脱ぎ家に上がると、まずは祖父に挨拶をすることにした。
 母が生まれた頃に建てられたというこの家は、襖で間仕切られた和室が三つ繋がっており、その一番奥の部屋が仏間になっている。
 仏壇の前に置かれた座布団の上に座り、真正面に置かれた遺影の祖父と対面する。
「おじいちゃん、ただいま」
 四年前に亡くなった祖父は、無口だがとても優しい人だった。
 虫取りでも魚釣りでも山登りでも、俺がやりたいと言ったことにはすべて付き合ってくれたし、近くにある海にもよく連れて行ってもらった。
 何かの集まりの時の写真を加工された祖父の遺影は、不義理だった孫を満面の笑みで迎えてくれた。

「夏生にもいらない心配を掛けちゃって悪かったね」
 祖母は外したエプロンを立ったままで畳みながらそう言った。
 正直なところ、拍子抜けというか肩透かしというか、とにかくそんなふうな思いも多少はあった。
 だが、もし祖母が健勝(けんしょう)だとわかっていれば、俺は今日ここに来ていなかった。
 それどころか来年も再来年も、ずっとその機会を作れずにいたに決まっている。
「いいよ。それに久しぶりにおばあちゃんに会いたかったから」
「あらま。ありがとう、夏生。おばあちゃん嬉しいよ」
 祖母はそう言うと、首に掛けていた手ぬぐいで目元を拭った。
「お母さんはもう少ししたら帰るけど、夏生(あんた)はどうする?」
 母にあっても祖母の体調への不安は消え去ったようで、どうやら俺は早くもお役御免になったらしい。
 しかし、ここで俺まで帰ってしまっては、せっかく喜んでくれた祖母に申し訳ない気がした。
「ん。帰っても暇だし、週末くらいまで泊めてもらおうかな」

 母たちが四方山話を始めたのを見計らい、何気ないふうを装いながら居間をあとにする。
 このままここに居ようものなら、そのうち俺の進学や生活態度の話題になることは目に見えていた。
 祖母の家の正面には、車が一台通れるだけの狭い道がまっすぐ南へ伸びている。
 樹齢何十年という太くて背の高い木々が茂るこの道は、幼かった頃には少しだけ怖い場所だった。

 日中にして薄暗いそこを抜けると、急速に視界が開けた。
 目の前には赤土の耕作地が見渡す限りに広がり、そのさらに向こうに見える真夏の空の下には、長大な海岸線を(よう)した太平洋の大海原が待ち構えている。
 そこは最後にこの町を訪れて以来たったの一度も行ったことはなく、また行こうとも思わなかった場所でもある。
「……行ってみようかな」
 それはただの気まぐれだった。
 ただ、いま行かなければ二度と訪れることができないような、そんな予感がした。
 碁盤目状に区分けされた畑の中を、子ども時代の頼りない記憶を頼りにジグザグと進む。
 赤土の畑の間を走る道路には、ゆらゆらと陽炎(かげろう)が揺らいでいた。
 小学生だった時分の俺は、近づくと逃げて行くそれを何とか捕らえようとして、炎天下を全力で追い掛けたものだった。
 試しに少しだけ歩速を上げると、陽炎も同じ速さで遠退いてしまう。

 あみだくじの終着点には、背丈の倍ほどもある竹藪が行く手を遮っていた。
「確かこっちの方に……」
 青緑色の壁に沿ってしばらく進むと、かろうじて人一人分が刈払われた土の斜面の通路が現れる。
 薄暗いトンネル状のそこを足元に注意しながら慎重に下りてゆくと、とつぜん光が溢れ、反射的に手のひらを目の前にかざす。
 指の隙間から覗き見えた世界は、少しだけ色の異なる二つの青によって塗り潰されていた。

 砂の感触を確かめながら、波打ち際まで()を進めた。
 崩れて泡立った波が砂浜を撫でる時に発する、シュンシュンという小気味良い音がすぐ足元から聞こえてくる。
 扇状に広がりながら左右から迫る波を直立のまま迎え撃つ。
 俺の足首までしか濡らすことのできなかった波は、せめてもの抵抗だとばかりに足の裏の砂を奪いながら帰っていった。
 こうして波と戯れていると、今にも背後から『危ないで戻ってきなよ』と祖父の声が聞こえてきそうで思わず振り返る。
 そこには流木が一本横たわっているだけで、祖父の姿どころか人の気配そのものがなかった。
 
 十分もそうして遊んでいた。
 親が共働きだったので一人遊びは得意だったが、それにしても今日は羽目を外し過ぎてしまったようだ。
 なぜなら俺は今、下半身どころか頭の天辺までずぶ濡れにして、アホ面で誰もいない砂浜に立ち尽くしていたのだから。

 最初は足を湿らせる程度で満足していた波遊びは、徐々に徐々にとエスカレートしていった。
 ついには波が大きく引いた隙きを見計らって、海に向かって猛ダッシュをかました。
 再び波が打ち寄せる前に、砂浜へと戻る算段だった。
 だが、折り返す時に砂に足を取られて転倒したところに、本日一番の大波が押し寄せてきた。
 敢えなく海に翻弄(ほんろう)された俺は、浅瀬に迷い込んだクジラの如く砂浜へと打ち上げられ、そして今に至っている。
 濡れて困るようなものを持っていなかったことだけが幸いであった。

 手足を大の字に広げて砂浜に寝転ぶと、夏の日差しと海から吹いてくる風が、雨の日の捨て犬のように哀れな姿になった俺を、少々荒々しく乾かしてくれる。
 目を閉じると波の音と太陽の熱、そして体の下の砂の感触だけが感じられた。
(このまま昼寝をしたら気持ちいいだろうなぁ)
 後ろ髪を引かれる思いはあったが、真夏に日焼け対策もしないでする日光浴は毒でしかない。
 しかし、この心地よさは何物にも代え難かった。
 そうこうしていると、瞼を透過して見えていた日の光が(にわか)に弱まる。
 雲が太陽を覆い隠したのだろうか?
 それとも、夕暮れが駆け足でやってきたのだろうか?
 九分九厘前者だろうが、その真相を確認するためにゆっくりと目を開く。

「……あの、大丈夫ですか?」
 俺と空との間に、麦わら帽子を被った少女の姿があった。
 逆光で影になっていたその顔を確認するため、一度は開き切った目をふたたび細める。
 その行為が睨んでいるようにでも見えたのかもしれない。
「あ、ごめんなさい! あの、びしょ濡れで倒れていたから」
 少女はそう言って二歩ほど後ろに下がると、浅葱色のワンピースの裾を手で掴んだ。
 本来ならば弁明をすべきところだが、俺の両目は少女に釘付けになったままでいた。
 (まばた)きもせずに自身を見つめる若い男の様子に、少女はいよいよ申し訳無さそうな顔をすると、「あの……本当にごめんなさい」と弱々しく言い、ついには(うつむ)いてしまった。
「……志帆(しほ)ちゃん?」
 カラカラに乾いた喉の奥から声を絞り出す。
 少女は驚いた顔をすると、ワンピースの裾を握っていた手を自らの口元に当てた。
 そして、よく磨かれた黒曜石のような大きな瞳をさらに見開き、俺の顔をじっと見つめ返してくる。
「俺……ほら、杉浦(すぎうら)の」
 す、ぎ、う、ら……と、少女の薄い唇がゆっくりと動く。
「もしかして……夏生さん、ですか?」
 中学一年の夏休みは部活三昧(ざんまい)だった。
 そして今年、中学二年の夏休みはといえば、引退を目前に控えた三年の不祥事により一切の活動が禁じられ、人生最大級に暇を持て余していた。
 例年であれば、お盆の三日間だけ訪れていた祖母の田舎に少しだけ早くやってきたのもそのためだった。
 盆の入りの今日の夜には両親も合流し、十七日の昼まで滞在することになっている。

 時計を見ないで家を出たが、日の高さからして三時を少し回ったくらいだろうか。
 時間的には夕方の入口に差し掛かったところだというのに、夏の日差しというものはまるで容赦がなかった。
 田舎暮らしも二週間が経ちあまりに暇だった僕は、祖母の家から歩いてすぐのところにある海へと向かっていた。
 目的などは持ち合わせていなかったが、なぜか急に海が見たいと思った。

 矢竹のトンネルをくぐり抜けて砂浜に降り立ち、まっさらな砂の上に足跡のスタンプを押しながら波打ち際まで進む。
 遥か水平線の上では、縦にも横にも大きく広がった巨大な入道雲が、その真下で存分に水を(たた)える海を覆い隠そうと目論んでいる。
 しかし、海の広大さに比べてあまりにも矮小(わいしょう)なそれは、海面にほんのわずかに影を落とすのが関の山だった。
 海岸に人影はなく、プライベートビーチにいるような気持ちのよさと、禁足地に足を踏み入れているような後ろめたさが共存していた。

 三十分ものあいだ何もせずに、ただずっと海と空の青を眺めていた。
 このまま海に沈む夕日を見送ってやろうかとまで考えたが、その前に日焼けか喉の乾きで限界を迎えるのは目に見えている。
 少々名残惜しい気もするが、今日のところはこのくらいにして、家に帰って漫画でも読もう。
 そう思い勢いよく立ち上がった、まさにその時だった。

「それ、とってください!」
 反射的に声がした方向に顔を向ける。
 すると、浜風に舞い上がった麦わら帽子が、今まさに僕の頭上を通過しようとしていた。
 咄嗟(とっさ)に伸ばした手が虚しく空を掴む。
 世にも珍しい空飛ぶ麦わら帽子は、まるで意思をもっているかのように僕の手からするりと逃れると、高度を上げも下げもせずに、ただ空中を滑空していく。
 一体どんな力学的作用に()るものなのかはわからないが、小さなグライダーと化した麦わら帽子を追いかけているうちに、いつの間にか波打ち際を数十メートルも歩いていた。
 このまま日が暮れるまで砂浜を彷徨(ほうこう)することになるのではないか?
 そんなあり得ない懸念が脳裏を横切ったちょうどその時、それまで吹いていた風がほんの一瞬だけ止んだ。
(……いまだ!)
 数歩の助走をつけ、波に濡れて固くなった砂の地面を蹴りつける。
 我ながら絶妙なタイミングだった。
 レイアップシュートを決めるような格好で垂直に飛び上がった指先が、たったの数ミリだったが帽子のつばを掴んだ。
 心の中でガッツポーズ決めながら着地点に目を向けると、たったいま引いたばかりの波が早くも返ってきたところだった。
 
 何とか帽子は濡らすことなく確保したが、残念なことに僕の下半身は完全に終わってしまった。
 ズボンから水を滴らせてトボトボと砂浜へと戻ると、帽子の持ち主が向こうから駆け寄ってくる。
「……あの、大丈夫ですか?」
 少しだけ息を切らせてそう言ったのは、膝下丈の白いワンピースを着た少女だった。
「ギリギリセーフ」
「あの、ありがとうございます」
 彼女はペコリとお辞儀をしながら、大きな瞳を僕の下半身へと向けた。
「あ……ごめんなさい……」
 先方に(なら)い改めて自分の状態を確認した僕は、その酷い有様に込み上げてくる笑いを我慢することができなかった。
 突然笑い出した僕を見て驚いた様子の彼女に、下半身を指差しその理由を訴えかける。
「ふふっ」
 笑えてもらえてよかったと、心の底からそう思った。
 乾いた砂の上にどすりと腰を降ろす。
 彼女も少し離れたところで膝を曲げると、片手で帽子を押さえながらこちらに顔を向けた。
 黒く長い髪が海から吹く風にサラサラと揺れ、砂の上に波のようなシルエットを浮かび上がらせる。

「あの、このあたりの人ですか?」
「ううん。近くにある母親の実家に来てるだけ。杉浦っていうんだけど」
 薄く形の良い唇から、「あ」と小さな声が漏れる。
「あのお庭の立派な?」
 どうやら祖父の自慢の庭はこの辺りでは有名らしい。
「そこで合ってると思う。えっと――」
「あ、志帆っていいます」
 その容姿から少し年下だとばかり思っていた。
「僕は夏生。中学二年生」
「じゃあ、同級生ですね。ちょっと年上だと思いました」

 初めは敬語を使っていた彼女だったが、しばらく話をしていると徐々に同級生に対する言葉遣いへと変わっていった。
「夏生くんはバスケ部なんだ。それでさっきはあんなに高くジャンプできたんだね」
 そのことは今すぐにでも忘れて欲しかった。
「あんまり上手くはないけどね。志帆ちゃんは?」
「私は吹奏楽部。夏休みはほとんど練習がなくて」
 彼女の話によると、顧問があまり部活動に熱心なタイプではないらしく、夏休み中の活動は週に一度の全体練習を除けば、ほとんどは各自の裁量に委ねられているそうだ。

 四方山話を重ねているうちに、いつの間にか高度を下げた太陽が西の空を赤く照らし始めていた。
「……あ。私、そろそろ帰らないと」
 すっくと立ち上がった彼女はワンピースの裾を手で伸ばしながら、「夏生くんはいつまでこっちにいるの?」と尋ねてくる。
「十八日が登校日だから、十七日の昼には帰るつもりだけど」
 彼女は水平線へと視線を移して何かを考えるような素振りを見せたあと、再びこちらに向き直り口を開いた。
「夏生くん、明日はお時間ってある?」
 考えるまでもなく時間を持て余していた僕は、「うん」と即答する。
西(にし)(しま)にある、コジマさんっていう酒屋さんってわかる?」
 地名まではわからないが、その酒屋は母と一緒に何度か行ったことがあった。
「自動販売機がいっぱいあるところ?」
「そうそう! そこに明日の三時にって言ったら……どう?」
「わかった。どんなことがあっても必ず会いに行くよ」
 口にしてから言葉のチョイスを間違ったことに気づく。
 僕は昔からいちいち表現が大袈裟なのだ。
 案の定、彼女はただでさえ大きな目をさらに見開くと、次の瞬間には頬を夕日のように赤く染めてしまった。

「バイバイ夏生くん! また明日!」
 長い影を引き連れながら砂浜を去って行く後ろ姿を見送ると、すっかり乾ききった体を翻して海をあとにした。
 自らの足取りが軽やかなことに気が付き、自分は昆虫ほどに単純な精神構造をしているのではないかという疑念が生じる。
 まあ、ミミズはともかく、オケラだってアメンボだって楽しいときにはスキップくらいはするだろう。

 家につくと真っ直ぐに風呂場へと向かった。
 浴室に入ってから脱いだズボンからは大量の砂がこぼれ落ち、足元に小さな砂の山が形成される。
 シャワーで床を洗い流してから、ようやく自分の身体にシャワーを当てた。
「イ!」
 あれだけ長いあいだ海にいたのだから、当然といえば当然だった。
 今夜は湯船に入るのはやめておこう。

 夕食を終えると同時に催促されたわけでもなく宿題に着手した僕の姿を見て、母は「あんた本当に私の子?」とぼやく。
 母がその答えを知らないのなら僕にわかるはずもないので、何も言わずにノートと向かい合う。
 三十分が過ぎた頃になり、ようやく宿題を終えて壁の時計に目をやる。
 例年であればまだテレビを見ている頃だが、今日はちょっとだけ早く夏の一日を終了させることにした。
 僕は夏生という名前のくせに暑いのが苦手だ。
 そもそも夏の生まれではなく、誕生月は春も真っ只中の四月だった。
 冬の寒さであれば着込むことでどうとでもなるが、夏の暑さを前にしては、仮に全裸で過ごすことが許されたとしても耐え難いものがある。
 ただ、夏が嫌いかといえば、まったくそんなことはなかった。
 むしろ四季の中で一番好きな季節が夏だというのだから、自分でも少しややこしい性格だと思う。
 それはそうと、僕の夏好きの原因は毎年お盆に訪れている、この田舎の町の影響が強いように思う。
 今こうしている時にでも海から吹く風に混じった潮の香りは好きだし、祖母の家の縁側で食べるスイカも大好物だった。

 母に車で送ってもらわなかったことを後悔し始めた頃、ようやく目的地の酒店が目前にまで迫ってきた。
 コンビニほどのサイズ感の店舗の前に、色とりどりの自動販売機が十台近くも並んでいる光景は、まるで戦場の最前線に築かれた要塞のようにも見えるが、今の僕にとっては砂漠の中のオアシスになってくれるに違いない。
 ガラスの引き戸を開けた瞬間、まさに期待の通りのキンキンに冷えた空気が体の前面に直撃する。
「いらっしゃい」
 店の奥にある座敷から優しい笑顔の年配の女店主が、身体を半分だけ出して出迎えてくれた。
 壁に掛けられている時計の針は二時三十分を指しており、(おおむ)ね予想通りの時間に到着したことになる。
 赤い帯が巻かれたペットボトルのコーラを購入し、自販機の列の前に置かれたベンチに腰を下ろして待ち人が訪れるのを待つ。

 結露によって生じた水滴がボトルの表面を流れ落ちる様を眺めていると、視界の隅に麻製の小さなサンダルが映り込んだ。
 顔を上げると果たしてそこには、浅葱(あさぎ)色のノースリーブワンピースを着た彼女の姿があった。
「ごめんなさい。待たせちゃったよね?」
 その頬は僅かに紅潮しており、もしかしたら僕の姿を遠目に認めて走ってきてくれたのかもしれない。
「ぜんぜん。それにこっちが勝手に早く到着しただけだから」
 それも二十分近くも早く。
「よかった。それじゃ、いこっか?」
 先に歩き出した彼女に追従しながら、その背に行き先を尋ねる。
「お話をするのに丁度いいところがあるの」

 彼女に連れられて来たのは、酒店からほんの数分歩いたところにある学校だった。
 校庭の広さからして小学校だろう。
 すぐ背後が山という立地のせいか、まるで高原にでも来たかのように涼やかだ。
 木陰にあったブランコに並んで腰を下ろすと、彼女は顔をこちらに向け口を開いた。
「来てくれてよかった」
「約束したんだから来るに決まってるよ」
「うん。でも、ありがとう」
 当たり前のことを言っただけなのに、彼女はとても喜んでくれているようだった。
「夏生くんは毎年こっちに来てるの?」
 座ったままブランコを大きく漕ぎながら答える。
「うん。お盆と正月には必ず」
「うちもお盆はいつも親戚で集まって、それで夜中まで大騒ぎ」
「それ、うちの大人たちと同じだ」
 僕の言葉に彼女は口を抑えて笑ってくれた。

 そのあとも昨日の海であったことや、待ち合わせ場所に至るまでに太陽に()かれて死を覚悟したことなど、どうでもいいような話題ばかりを選んで話した。
 彼女は大人しそうなその見た目に反して、とてもよく笑う子だった。
 僕はその笑顔をもっと見たいと思い、そう饒舌(じょうぜつ)でもない口を一生懸命に動かし続けた。
 学年が同じだからか、僕と彼女の共通の話題は性別の違いを考慮しても多彩だった。
 小学校でも中学校でもクラスの女子とこんなに話すことはなかったので、女の子とこれほど仲良くなったのは生まれて初めてのことだった。
 もし昨日、何となしに海に行くことをしなかったら。
 もし昨日、彼女が麦わら帽子を風に飛ばされなかったら。
 いま僕たちがこうして、ここにいることはなかった。
 そう考えると、出会えたことがちょっとした奇跡のように感じられた。

 ほんの先ほどこの場所に着いたばかりだと思っていたのに、気がつくと校庭の鉄棒が地面に長い影を落としていた。
 ツクツクボウシに紛れて聞こえるヒグラシの鳴き声が、彼女との楽しい時間の終わりを予感させる。
 その時、校庭にチャイムの音が鳴り響く。
「あ、もうこんな時間なんだ」
 きっとチャイムの鳴る時間を知っていたのだろう。
 彼女は最後にブランコを大きくひと漕ぎすると、その勢いを利用してふわりと地面に舞い降りた。
 その拍子にワンピースのスカートの裾が少しだけめくれてしまい、僕は慌てて目をそらすと、彼女とは対象的にブランコを足で止めて静かに立ち上がる。
「夏生くん、今日はありがとう。すごく楽しかった」
 振り返ってそう言った彼女は、今日一番の笑顔を咲かせて見せてくれた。

 その瞬間、心臓を鷲掴みにされたように胸が痛くなり、同時に彼女と過ごす時間が終わってしまうことが酷く残酷なことのように思えた。
 誰に教えられたでもなく、僕はその理由を知っていた。
 僕は彼女の顔を真っ直ぐに見つめ、彼女もまた僕の顔をまじろぎひとつせずに覗き込んでいる。
 このままでは高鳴った心臓の音が、彼女の耳にまで届いてしまうのではないか?
 そうなる前に、咳払いをしてから声を発した。
「明日の夜、うちの近くのお寺で盆踊りがあるんだ。もしよかったら一緒に行かない?」
 一瞬だけ間を置いてから彼女は小さく頷き、向日葵のような笑顔をこちらに向ける。
「うん。何があっても必ず行くから」
 それは昨日、僕が彼女に言った言葉だった。
 午前、そして午後と祖母の手伝いをしながら、日が暮れるのを心待ちにしていた。
 ようやく太陽が真っ赤に熟し始めた頃、点けられたままで誰にも見向きされていなかったテレビで時刻を確認する。
 午後六時三十分。
 待ち合わせの時間は七時なので、そろそろ家を出たほうがいいだろう。
「お母さん。ちょっとお祭り見てくるね」
「ひとりで?」
「うん」
 少なくとも現地に到着するまではそういうことになる。

 宵の口の空はまだオレンジ色が優勢だった。
 玄関を出た時は微かに聞こえていただけの祭ばやしが、県道を渡り切った途端にはっきりと耳に飛び込んでくる。
 そのことで自然と身が引き締まり、何なら小さめの武者震いまで出てしまった。
 それはこれから彼女に会えるからに他ならなかったのだが、同時に僕の独りよがりなのではないかという不安からもきていたように思う。

 公園を転用した盆踊りの会場は、特別な夏の夜を謳歌する多くの人で賑わっていた。
 (やぐら)(くく)り付けられた音量重視のスピーカーから流れる、笛や太鼓の囃子(はやし)
 夜店の人たちが使う発電機の音や、そこかしこを楽しそうに走り回る子供たちの歓声。
 そんな幸せな音たちに囲まれながら、僕は広場の奥にあるタイヤ飛びの上に腰を下ろすと、彼女がやって来るのを待った。
 やがてスピーカーからは祭ばやしに代わり炭坑節が流れ出す。
 それを合図に一人、また一人と櫓のもとに集っていく。

 手持ち無沙汰から踊りの輪に加わろうかと思っていた、その時だった。
「夏生くん、おまたせ」
 背後から急に声を掛けられ、亀のように首を(すく)ませながら振り返る。
 そこには束ねて上げた髪に水色の髪飾りを付け、真夏の海のような藍色の浴衣を着こなした彼女の姿があった。
「どう? 似合ってるかな?」
「うん。すごく素敵だと思う」
 率直な感想を述べると、彼女は小さな声で「ありがとう」と言った。

「夏生くんって、ちょっとだけ変わってる」
 夜店でフランクフルトを購入してからタイヤ飛びまで戻った途端、彼女にそんなことを言われてしまった。
「変わってるって?」
 マスタードの付いていない方をプラスチックトレーごと手渡す。
「あ、ありがとう。……初めて会った時もだったけど、なんか――」
「ごめん」
 僕には昔から思ったことをそのまま口にしてしまう悪癖があった。
 何度も直そうとしたが、それはなかなかにして難しいことだった。
「あ、ちがくて! ……変わってる言っても、べつに悪い意味じゃないの」
 彼女は背筋をやや伸ばすと、真剣な面持ちで言葉を続けた。
「夏生くん、ぜんぶ言ってくれるから」
「全部?」
「……言ってもらって嬉しいこと」
 三度(みたび)顔を赤らめた彼女は、「いただきます」と言ってからフランクフルトを口にした。

 彼女がフランクフルトを食べ終えた頃合いを見計らい、勢いよくタイヤから立ち上がると右手を差し出す。
 それは彼女が手にしているトレーを受け取り、すぐそこにあるゴミ箱に捨ててこようと思っての行動だった。
 だが彼女は少し驚いたような顔をしたあと、僕の右手に自分の左手を重ねてくる。
 彼女の手は僕の手よりも一周りも二周りも小さく、それに少しだけひんやりとしていた。
「志帆ちゃん、行こっか」
 握ったほうの手で彼女を立ち上がらせ、反対の手で今度こそ串とトレーを受け取る。

 踊りの輪に加わるのは二年振りのことだった。
 最初の数分こそ違和感を覚えながらだったが、すぐに勘を取り戻して手足を大きく振りながら手拍子を打つ。
 すぐ後ろでは、彼女も遠慮がちに団扇(うちわ)を振りながら、やはり小さめな動きで音楽に合わせて手足を動かしていた。
「ごめん志帆ちゃん。ちょっと場所、替わってもらってもいい?」
 彼女は不思議そうな顔をしながら「どうしたの?」と尋ねてくる。
「志帆ちゃんが踊るとこ、もっとよく見ていたくて」
 彼女は振るっていた団扇を口元にあて、「……そういうところだよ」と言った。

 櫓の周囲を三周した頃になり、どちらからともなく盆踊りの輪からそっと抜け出す。
「夏生くん、踊るの上手なんだね」
 彼女はそう言いながら、手にした団扇で僕のことを扇いでくれる。
「志帆ちゃんこそ――」
 そのあと『すごく上手で、それに綺麗だった』と続けたかったが、今回ばかりは(すんで)の所で言葉を飲み込むことに成功した。
「お姫様みたいでかわいかったよ」
「だから……もう! 夏生くんって本当に変わってる」
 どうやら僕は本格的に変なようだ。

 少し休憩してから顔なじみのかき氷の夜店へと足を運んだ。
 強面の店主が僕の顔を見て、「今年はまた随分と若い女の子に乗り換えたな」と(からか)ってくる。
「おばあちゃんは観たいドラマがあるから今年は来ないって。この子は僕の大事な友達だよ」
 自分的には最大限に言葉を選んだつもりだった。
 店主は目を丸くすると「そうかい。じゃあたっぷりサービスしてやらんとな」と、慣れた手付きで見る見るうちに小高い山を二つ築き上げる。
 練乳が雪崩の如く山肌を埋め尽くしており、もはや見た目では何味のシロップが掛かっているのかすら判別できない。
 まるで南アルプスの山々を思わせる巨大な氷壁を目の当たりにした彼女は、その大きな瞳に隠しきれない不安の色を宿していた。
「これ、食べきれないかも……」

 二人してタイヤの上に座り、一心不乱にシャリシャリと氷山を崩す。
「夏生くん」
 すぐ横から聞こえた鈴の音のような声に、登山の手を一旦止めて顔を上げた。
「さっきはありがとう。その……大事な友達って言ってくれて」
「僕さ。志帆ちゃんとは海で初めて会ってお喋りをした時から、なんかだ昔からの友達みたいな気がしてたんだ」
 性懲りもなく思ったことをストレートに口に出してから、急いで視線を氷山に戻すと山崩しを再開した。
 視界の隅で、彼女が開きかけた口をそっと噤むのが見えた気がした。