それから、時間は早く流れていった。蒼太の未練を消すために、いろんなことをした。夏祭りに行ったり、誠也が出てるサッカー部の試合の応援にも行った。さらには新たに追加されたリストをこなした。
「これで本当に成仏できるのかな」
私はふと立ち止まり、心の中で問いかける。蒼太の未練は残りひとつ。けれど、私の気持ちは晴れなかった。どれだけ楽しんでも、心のどこかで蒼太のことが引っかかっていた。
「おい」
この未練がなくなれば、蒼太は―――
「おい!」
「わぁッ!」
私は思わず後ろに跳ねて、そのまま驚きの声をあげた。目の前には、逆さまに浮いている蒼太がいた。
「何回も呼んだのに、大丈夫か?」
私はようやく我に返り、息を吐いた。
「ごめん。ちょっとぼーっとしてた。で、どうしたの?」
「だからやっぱり家の話はなかったことにしてくれ」
蒼太は真顔で言った。
「えっ、どうして」
今日は最後の未練である『親に気持ちを伝える』ために蒼太の家に来ていた。
「とりあえず今日は一旦帰ろう。あっ、ほら俺他にも未練が」
「ちょっと蒼太!」
家から遠ざかっていく蒼太を追いかける。
「よく考えたら母さんは葬式にも来てくれてたし、これ以上未練は......」
蒼太はそう言いながら、ふっと視線を落とした。
でも、すぐに気づいた。
――嘘だった。そんなはずなかった。
本当はまだ、心の奥に引っかかっているものがある。分かっているのに、それを認めたくなくて、言葉にしてごまかそうとしている。
私はそっと息を吸った。深く、静かに。胸の奥にたまったものを吐き出すように。
蒼太の横顔を盗み見る。ふとした瞬間に見せる寂しそうな表情も、彼がごまかすように浮かべる笑顔も、ずっと見てきた。だから、気づいてしまった。
「蒼太、いつも夜の8時になると、どこかへ行っちゃうよね。最初は気にしてなかったけど……でも、気づいたんだ。たぶん、その時間にお母さんが帰ってくるんじゃないかって」
私がそう言うと、蒼太は何も答えなかった。
「本当は何よりも気になってるじゃないの?」
静かに問いかけると、蒼太の表情が一瞬、揺れた。
「......そんなことねぇよ」
絞り出すような声だった。
「俺は、もう死んでるんだぞ。今さら家に帰ったって、意味なんか――」
「意味ならあるよ!」
思わず叫んでいた。
「だってッ」
私が言いかけたその瞬間――
「......あのー、うちに何か用ですか?」
背後から、不意に女性の声がした。
私はびくっとして振り向く。
言われなくてもわかった。玄関の前に立っていたのは、蒼太のお母さんだった。
キリッとした雰囲気の中に滲む、どこか柔らかな目元が蒼太にそっくりだ。
疲れているのか、少しやつれた顔。それでも、どこか優しさを感じさせる表情をしていた。
「すみません......あの......」
言葉に詰まる私をよそに、蒼太は一歩も動かない。
いや――動けないんだ。
蒼太は、お母さんをじっと見つめていた。まるで、今にも消えてしまいそうな顔で。
「えっと......」
私がどう答えようか迷っていると、お母さんはふと小さく笑った。
「もしかして、蒼太の友達?」
蒼太が――息をのむ音が聞こえた気がした。
「......はい」
私は思わず頷いていた。
「そっか。ごめんね、こんな時間に。よかったら、中に入っていく?」
お母さんはそう言って、玄関の扉を開ける。
私は、ちらりと蒼太の方を見た。
蒼太は、ただ立ち尽くしたままだった。
今なら、伝えられるかもしれない。
彼がずっと言えなかった言葉を。
私は、静かに息を吸った。
「......蒼太のこと、お母さんと少しお話ししたくて」
そう言って、お母さんの家の中へ、一歩踏み出した。
蒼太の家に入ると、ふわりと懐かしい匂いがした。
木の温もりを感じるリビング。カウンターには湯気の立つマグカップが置かれ、その横には、小さな写真立て。
そこには、小学生の蒼太とお母さんが並んで笑っている写真があった。
「座っててね、お茶入れるから」
お母さんはそう言ってキッチンへ向かった。
私はふと蒼太の方を見た。
蒼太は、静かにその写真を見つめていた。
「蒼太......」
私がそっと名前を呼ぶと、蒼太は小さく息を吐いた。
「……母さん、女手ひとつで俺を育ててくれたんだ」
ぽつりと、蒼太は言った。
「父親はいない。物心ついた時からずっと、母さんと二人だった」
「うん......」
「仕事も忙しくてさ。でも、どんなに疲れてても俺のために晩飯を作ってくれて、運動会にも来てくれて……すげぇ、頑張ってた」
蒼太の声が震えた。
「......俺、ちゃんと恩返しできなかった」
私は、胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。
「バイトして、大学に行って、ちゃんと働いて......それが当たり前にできると思ってたのに」
「......蒼太」
「結局、俺は何もできないまま死んだんだ」
蒼太はぎゅっと拳を握った。
「俺がいなくなって、母さんをひとりにしちまった」
「......そんなことないよ」
私は、精一杯の声で言った。
「......っ」
蒼太が顔を伏せた、その時だった。
「ごめんね、お待たせ」
お母さんが戻ってきた。
「あの......」
私が緊張しながらも口を開くとお母さんはふっと微笑んだ。
「蒼太は、学校ではどんな子だったのかしら?」
少し寂しそうなその問いに、私は迷わず答える。
「蒼太は、本当にみんなに好かれていました」
言葉にすると、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「私、ずっとひとりだったんです。でも、蒼太は毎日話しかけてくれて......本当はすごく嬉しかったんです。蒼太のおかげで、嫌いだった自分の名前が好きになって、毎日が、楽しくなったんです」
お母さんは静かに目を伏せた。
「......蒼太、優しい子だったでしょ。あの子が生まれてすぐ、お父さんが事故で亡くなってしまったのだけれど......あの優しさは、きっとあの人譲りね」
ゆっくりと言葉を紡ぐお母さんの指が、ぎゅっと膝の上で握られる。
「そんなふうに蒼太のことを思ってくれて、ありがとう」
その一言に、蒼太の肩が小さく震えた。
「蒼太はね、いつも私のことを気にかけてくれていたのよ。小さい頃なんて、お手伝いもたくさんしてくれて......」
「......母さん」
蒼太が、今にも泣きそうな声でつぶやく。
だけど、その声はお母さんには届かない。
「私ね、毎日考えるの。もし、あの子が生きていたらって」
お母さんの声が、少しだけ震えた。
「もっと一緒にいてあげればよかった。もっと甘えさせてあげればよかったって、何度も思うの」
蒼太は俯き、ぎゅっと歯を食いしばる。
「でも......きっと、蒼太は向こうで元気にしてるわよね」
そう言って、お母さんはそっと目尻を拭う。
「だから、私も前を向かないと......」
お母さんの手が、そっと写真立てに触れた。
そこには、屈託のない笑顔を見せる蒼太の姿が映っていた。
しばらくの沈黙が流れた。
「......蒼太っ」
ぽつりと、その名前がこぼれる。
「蒼太......蒼太......」
震える声が、徐々に大きくなる。
「ごめんね......ごめんね!」
お母さんの肩が揺れたかと思うと、次の瞬間、彼女は崩れるように膝をついた。
「蒼太......会いたいよ......っ」
隠そうとしていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。
嗚咽がこぼれ、震える手で写真立てを抱きしめる。
蒼太は、もう耐えきれなかった。
「母さんっ......!」
震える声が漏れた瞬間、蒼太の目からも涙がこぼれ落ちた。
けれど、どれだけ手を伸ばしても、お母さんにその声は届かない。
「俺、ここにいるよ......!」
どうしようもない現実が、胸を締めつけた。
お母さんの泣き声が、静かな部屋に響いていた。
私が何を言っても、この悲しみは癒せないのかもしれない。
だけど――
「......蒼太は、今も隣にいます」
私は、そっと口を開いた。
お母さんは涙を拭いながら、少しだけ微笑んだ。
「ありがとね......」
きっと、励まそうとしてくれているんだと、そう思ったんだろう。
お母さんは、それ以上信じようとはしなかった。
でも、お母さんの隣には確かに蒼太がいる。
「母さん......俺だよ」
蒼太が、掠れた声で呟いた。
お母さんは、蒼太の言葉に気づかないまま、かすかに微笑んでいる。
蒼太は唇を噛みしめた。
「なぁ、母さん。俺さ、小さい頃、母さんに隠れてお菓子食べたことあったろ?」
私は、蒼太の言葉をそのまま繰り返した。
「ソファの下に隠して、夜にこっそり食べようとしたら......結局、アリがたかって大変なことになったんだよな」
お母さんの瞳が、かすかに揺れた。
「......それ、どうして?」
「母さん。俺が熱を出した時、ずっと手を握ってくれてたよな。その時、母さんが寝ちゃって」
「ふたりで夜まで寝てた」
私がいい切る前にお母さんが言葉を続けた。
「それは......蒼太しか、知らないはずなのに」
お母さんが、震える指で写真立てを握りしめる。
「本当なの......?本当に蒼太が......」
「はい。蒼太は、ここにいます」
私は、強くそう言い切った。
蒼太が、そっと微笑んだ。
「母さん、ずっと言いたかった。......ありがとう。俺を産んでくれて、育ててくれて、本当にありがとう」
私は、蒼太の言葉を、そのまま繰り返す。
お母さんの瞳から、再び涙がこぼれる。
「蒼太なの......?」
かすれた声が、震えていた。お母さんと蒼太は向き合っていた。
そして、お母さんはそっと、写真立てを抱きしめた。
「蒼太......」
その声には、もう確信が宿っていた。
蒼太の瞳が、優しく揺れていた。
「母さん――」
蒼太は、静かに微笑んだ。
「俺、母さんの子に生まれてこれて、本当に幸せだったよ」
お母さんの目が、大きく見開かれる。
そして、何かが決壊したように、崩れ落ちるように泣き出した。
「蒼太......!」
写真立てを胸に抱え、肩を震わせながら何度も名前を呼ぶ。
「そんなこと言われたら......もう、もう......っ」
蒼太が、そっとその場にしゃがみこむ。
「母さん、ごめん。俺、もっと一緒にいたかった」
蒼太の声が震えていた。
「もっと、母さんの料理食べたかったし、一緒にテレビ見たかったし……もっと、もっと……」
私の声も、涙で震えそうだった。
「......母さん、ちゃんと寝て、ちゃんとご飯だべろよ」
お母さんは、嗚咽をこらえきれずに泣きじゃくる。
「蒼太っ、あなたが私の子で本当によかったわ」
その声に、蒼太が静かに目を閉じた。
「......ありがとう、母さん」
私がその言葉を伝えた瞬間――
お母さんの涙が、ぽたりと写真立てに落ちた。
「もうよかったの?」
「......あぁ、大丈夫だよ」
蒼太はどこか晴れやかな顔をしていた。
「......やっぱさ、生きてるって当たり前じゃないよな。だから気持ちは言える時に言っとかねぇとって、今更だけど思ったわ」
蒼太は小さく笑った。
蒼太のお母さんには何度も感謝され私たちは家へと帰ってきた。
リビングには、いつもと変わらない光景が広がっている。食卓に並ぶ料理。テレビの音。最低限の会話だけが交わされる、静かな夕食。
私は黙々と箸を進めながら、さっきまでの光景を思い出していた。
――あんな風に、素直に気持ちを伝えられたら。
蒼太とお母さんの姿を見て、ふと、胸の奥がちくりと痛んだ。
「......ねぇ」
不意に口を開いた。
向かいに座る母が、驚いたように顔を上げる。
「......いつも、ご飯作ってくれてありがとう」
自分で言って、少し気恥ずかしくなる。
母は一瞬、呆気に取られたように私を見つめ――
「......急にどうしたの?」
そう言って笑った。
「いや、なんとなく」
気まずくなって、お味噌汁をすすった。
すると、母がふっと小さく笑いながら「どういたしまして」と返してくる。
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「明日、何か好きなもの作ろうか?」
「......ハンバーグ」
「はいはい、わかったわよ」
何気ない会話。
だけど、今までより少しだけ、家の空気が柔らかくなった気がした。
私は自分の部屋に戻った。扉を閉めるとそこにはまだ蒼太がいた。
「成仏、できないの?」
「みたいだな」
蒼太は苦笑する。
私は考え込んだ。未練はすべて解消したはずなのに。蒼太の母親も前を向き始めた。
なら、どうして?
私はベッドに腰を下ろし、ぽつりと呟いた。
「......もう、成仏しなくてもいいんじゃない?」
蒼太の目が大きく見開かれる。
「......えっ?」
「だって無理に消えなくてもいいじゃん」
私は勢いよく顔を上げた。
「それか、生き返る方法とか! 幽霊がいる時点で、なんでもありな気がするし!」
「おいおい......」
「絶対に何か方法があるよ!」
私は本気だった。
蒼太が死んだことも、幽霊になったことも、普通に考えればありえないことだった。でも、それが現実に起こったのなら――生き返る方法だって、きっとどこかにあるはずだ。
「ねぇ蒼太、生き返ろうよ」
蒼太は、私の必死な言葉を聞いて、ふっと力なく笑った。
「......そっか」
その声には、どこか納得したような響きがあった。
「え?」
私はきょとんとする。
「なんで俺が成仏できないのか、ようやくわかった」
蒼太は、自分の手を見つめる。透明な指先が、ぼんやりと揺れていた。
「陽葵が俺に未練があるんだね」
「......えっ?」
「お前だけが、俺の死を受け入れてなかったんだ」
私の心臓が、どくんと跳ねた。
「ち、違うよ! 未練があるのは蒼太でしょ?」
「だって、お前がさっき言っただろ」
蒼太は優しく、しかしどこか切なげに笑った。
「“もう成仏しなくてもいいじゃない”って。“生き返る方法があるかもしれない”って」
「それは......」
私は息を呑んだ。
「俺は、もう死んでるんだよ、陽葵」
蒼太の言葉が、胸に突き刺さる。
「でも、お前はまだ、俺がここにいることを当たり前のように思ってる」
「......違う」
「違わねぇよ」
蒼太は一歩、陽葵に近づく。
『なんか今にも『よっ』とか言って出てきそうなんだよな』
『むしろ、蒼太ってマジで真面目すぎてウザかったよな』
『誰よりも努力してたんだよ』
『もしあの子が生きてたらって』
「みんなが俺のことをもう過去として話すのに陽葵はさ。まるで俺がまだ生きてるみたいに話すんだよ」
私の胸に、ひやりとした感覚が広がる。
「......そんなわけ、ないじゃん」
ぽつりと呟くが、自分の声が妙に頼りなく聞こえた。
みんなは蒼太を“もういない人”として話している。
なのに、自分は――。
幽霊になった蒼太と、こうして話していることを当たり前のように受け入れていた。
「......私だけが、蒼太が死んだことを受け入れられていない?」
言葉にした瞬間、胸の奥が締めつけられる。
蒼太は黙って私を見つめていた。
窓の外から、ふっと夜風が吹き込む。かけていたカーテンが大きく揺れて、月の光が部屋いっぱいに差し込んだ。
蒼太の姿が、はっきりと浮かび上がる。
「......陽葵」
蒼太が、優しく私の名前を呼んだ。
夜風はさっきよりも穏やかになって、静かな光だけが私たちを包んでいる。
「俺、本当は言っちゃいけないと思ってたんだ」
蒼太の声が、微かに震えていた。
「死んだ人間が、こんな無責任なこと言っちゃいけないって思ってた。だって俺は、もういなくなるのに」
「......蒼太」
「陽葵はこれからも生きていかなきゃいけない。俺が『好きだ』なんて言ったら、陽葵を縛ることになる。そんなのダメだって、ずっと思ってた」
蒼太は、微笑んだ。だけど、その目は泣きそうだった。
「でも......やっぱり言わずにいられない」
蒼太は私の肩にそっと手を置く。
「陽葵。俺は、お前が好きだ」
心が、一瞬で張り裂けた。
「......ずるいよ。」
「ごめん。でも、これだけは言いたかったんだ」
「ずるい......」
泣きながら、私は言った。
「そんなの......ずるいよ、蒼太。私、ずっと気づかないふりをしてたのに......」
心の奥に閉じ込めていた感情が、とうとう溢れてしまう。
「私も......蒼太が好きだった。ずっと......ずっと、好きだったんだよ......!」
涙が止まらない。
「でも、言えないよ......だって蒼太、いなくなっちゃうんでしょ......?」
喉が詰まる。息が苦しいほど泣いたのは、いつぶりだろう。
「そんなの、嫌だよ......っ」
蒼太は、静かに微笑んだ。
「ありがとう、陽葵」
「......いやだ。」
「そんな風に思ってくれて、嬉しい」
「......いやだよ、蒼太、消えないで......っ」
震える声で縋る私を、蒼太はそっと抱きしめた。
あたたかい。
本当に、生きているみたいなぬくもりだった。
「俺、陽葵に出会えてよかった」
「そんなの、お別れみたいなこと言わないでよ」
「陽葵がいてくれたから、最後の最後まで楽しかった」
「やだよ......」
涙が止まらない。
「もっと、一緒にいたいよ......!」
「俺も」
「もっと、たくさん話したい......!」
「俺もだよ」
「ずっと、隣にいてよ......!」
「......俺も」
蒼太の声も、震えていた。
「もし、生まれ変わることができたら、また陽葵に会いたい」
「......っ!」
「今度は、最初からずっと隣にいたい」
私の心が、張り裂けそうだった。
「だから、待っててくれる?」
「......約束して」
「約束な」
蒼太が、優しく微笑む。
――― こんなに大好きなのに、もう触れられないのに。
胸が痛くて、壊れそうなのに。
それでも、私は頷いた。
涙を拭うこともせず、私はただ、蒼太を見つめた。
◆
夜が深まるにつれ、私たちはずっと話していた。
他愛のないこと。思い出話。もし蒼太が生きていたらしたかったこと。これからのこと――いや、これからなんてないんだけど。
それでも、ただ蒼太と一緒にいたかった。
部屋の時計が針を進める音がやけに響く。いつの間にか、もう日付が変わろうとしていた。
「......眠くない?」
「眠くない」
嘘だった。まぶたは重く、意識もぼんやりしてきていた。
だけど、寝たら――目を閉じてしまったら、次に目を開けた時には蒼太がいなくなっている気がした。
「無理するなよ」
「無理してない......」
「陽葵って、こういうとこ頑固だよな」
くすっと笑いながら、蒼太は私の頭を軽く撫でた。
「......今日はさ、最後くらい一緒に寝よう?」
「え......?」
「眠くなるまで話して、それで、一緒に寝よう」
私は迷った。眠ったら、きっと――でも、
「......うん」
小さく頷くと、蒼太は私の手を引いて布団に入る。
ふわりとした温もりが隣にあった。並んで横になりながら、ぽつぽつと言葉を交わす。
「......蒼太」
「ん?」
「いるよね?」
「ちゃんといるよ」
優しくそう言われて、安心したようにまぶたが落ちる。
――ダメだ、寝ちゃ……
「おやすみ、陽葵」
耳元で囁かれる声に、私は抵抗できず、ゆっくりと意識が沈んでいった。
そのぬくもりを感じたまま、私は眠りについた。
陽葵に話しかけたのは、ただの気まぐれだった。いつも一人でいる彼女を見かけて、なんとなく声をかけたくなったんだ。
最初はどう反応していいのかわからなかったし、明らかに煙たがられてるのを感じた。でも、なんだか放っておけなかった。
次の日も、また声をかけた。
すると、少しだけど返事が返ってきた。最初は短い言葉だけだったけれど、徐々に陽葵の表情が変わってきた。少しずつ笑ってくれるようになった。あの冷たく見える表情が、次第に柔らかくなっていくのがわかった。少しずつ心を開いてくれる陽葵を見て、俺は思わず胸が温かくなった。
そして、気づけば、陽葵のことが無意識に気になっていた。俺だけに見せるその表情に目が離せなくなっていた。
そんなこと、陽葵は知らないだろうけど......。
――夜の静寂が、部屋を包んでいた。
時計の針は深夜を指している。
陽葵は俺の隣で、静かに寝息を立てていた。
頬に涙の跡を残したまま、まるで小さな子供みたいに、安心しきった顔で眠っている。
俺は、その寝顔をずっと見つめていた。
――こんなに近くにいるのに、触れることができない。
手を伸ばしてみても、俺の指は彼女の髪に触れることさえできず、ただ空を切るだけだった。
「......陽葵」
呼んでみても、陽葵はもう返事をしない。
当然だ。
もう眠っているんだから。
でも、それがどこか寂しかった。
俺が死んだと知っても、こうして俺を必要だと言ってくれた。
俺のことを好きだったと、泣きながら伝えてくれた。
それなのに、俺は――
もう、ここにはいられない。
陽葵は生きている。
俺は、死んでいる。
それが変わることは、絶対にない。
「......っ」
喉の奥が、熱くなった。
込み上げてくるものを、もう抑えきれなかった。
生きたかった。
本当はまだ、生きたかったんだ。
もっと陽葵と一緒にいたかった。
学校に行って、他愛のない話をして、ふざけ合って、笑い合って――そんな日々を、まだ終わらせたくなかった。
「.....ずるいよな」
声が震えた。
――俺だって、本当はもっと生きたかったのに。
気づいたときには、涙がこぼれていた。
死んだ人間に、涙なんて流せるのか。そんなこと、どうでもよかった。
ただ、止まらなかった。
悔しくて、寂しくて、苦しくて。
生きていたかった。
陽葵の隣にいたかった。
もっと、たくさん笑いたかった。
もっと、たくさん話したかった。
でも、もうそれは叶わない。
俺は、いなくなる。
それが、決まっている。
「......陽葵」
最後の力を振り絞るように、俺は彼女の名前を呼んだ。
こんな俺のことを、好きになってくれてありがとう。
俺のために泣いてくれて、ありがとう。
俺のことを忘れないでいてくれて、ありがとう。
「......蒼太......」
微かな声が、静かな部屋に響いた。
陽葵の寝言だった。
俺は目を見開く。
まだ夢の中にいるはずなのに、それでも俺の名前を呼んでくれる。
胸が、強く締めつけられる。
俺は確かに、ここにいたんだ。
陽葵の中に、俺はちゃんと存在していたんだ。
それだけで、もう十分だった。
「......陽葵、大好きだよ」
そっと呟いた言葉は、夜の闇に溶けていく。
涙が頬を伝うのを感じながら、俺は静かに目を閉じた。
飛び起きた私は、部屋を見回した。目が覚めると、蒼太が隣にいるような気がした。でも、すぐに現実が私を引き戻す。蒼太はもういない。
彼の声が、私の耳に響く。
「陽葵。俺は、お前が好きだ」
その言葉が、さっきのことのように鮮明に思い出される。
私はベッドから飛び起き、部屋を駆け回った。蒼太の姿はどこにも見当たらない。窓の外を見ても、彼の姿はない。
「蒼太!どこにいるの?」
呼んでも、返事はない。私は何度も部屋を探し続けた。無駄だと分かっていても、私はやめられなかった。
その時、昨日の夜に彼が言った言葉が再び頭に浮かんだ。
「俺、陽葵に出会えてよかった」
その言葉に、胸が苦しくなった。やっと気づいた。蒼太はもういないんだ。
「私は......」
涙が一気に溢れ出てきた。蒼太がいなくなったことが、今になってようやく本当に感じられた。
涙を拭うこともできず、ただただ泣きながら、私は蒼太が残してくれた言葉を思い出していた。
「陽葵はこれからも生きていかなきゃいけない」
彼が言った通りだ。私はこれからも生きていかなきゃいけない。でも、それがどうしてもできそうになかった。
「どうして......」
その時、蒼太の最後の言葉が、もう一度胸の中で響いた。
「だから、待っててくれる?」
その言葉を私は必死で受け入れようとしていた。泣きながら、私はその言葉を胸に深く刻み込むように心の中で誓った。
「うん」
その誓いが、私を少しだけ強くさせてくれた気がした。
蒼太が残してくれたもの、彼の愛情、優しさ、それらは私の中に生き続けている。
◆
お花屋で買ったひまわりを手に、私は墓地の静かな道を歩いていた。鮮やかな黄色の花が、太陽の光を反射して、まるで蒼太の明るい笑顔を思い出させるようだった。その花を握りしめる手が少し震えて、胸が締めつけられる。
「これ、持ってきたよ、蒼太」
お花屋の店先で、思わず手に取ったひまわり。少し高かったけれど、どうしてもこれが蒼太にふさわしいような気がして、私は迷わず買った。
墓地に着くと、いつものように足を止めることなく、蒼太の眠っている場所に向かった。
ひまわりを墓前にそっと置く。花の香りが、どこか懐かしくて、心を温かくしてくれる。
蒼太が生きていた頃、こうして一緒に歩いた道や、ふざけ合って笑った時間が、ふと頭をよぎる。
でも今、私は一人でこの場所に立っている。
『それでも、ひまわりは咲こうとするよ。たとえ太陽が出なくても』
あの時は意味がよくわからなかったけれど、今なら少しだけわかる気がする。
太陽がなくても、ひまわりは咲こうとする。それが、どんなに辛くても、私は前を向いて生きていかなきゃいけないんだと。
蒼太がくれた、言葉。
その言葉が胸の中で響いて、ふと涙がこぼれた。
「蒼太、ありがとう」
ひまわりの花を見つめながら、心の中で何度も繰り返した。その花が少しでも、私の心を支えてくれるように願いながら。
少しの間、ただその場に立っていたけれど、やがて私はゆっくりと後ろを向いて歩き始めた。
蒼太がいなくなった世界でも、私は生きていく。ひまわりのように、どんな暗闇の中でも、少しずつでも咲いていこうと決めた。
その一歩を踏み出すことが、きっと蒼太が望んでいることだと思ったから。