「んーわかんないんだけど、桂木さんが倒れてるって聞いて、気づいたら走ってたんだ。行かなきゃって思って…」
嬉しかった。もしかしたら凛々ちゃんが言っていたように、小野寺くんの中で私は少しだけ特別なんじゃないかと勘違いしてしまいそうになる。
「なんて、そんなの怖いよな。もうすぐ先生戻ってくるかもしれないし、俺ももう戻るよ。安静にしてて…」
「行かないで…」
気づいたら、小野寺くんの腕を掴んで引き止めていた。
もし小野寺くんが体育館に戻ってしまったら、また女子たちに注目されてしまう。
これ以上、小野寺くんのことを好きにならないでほしい…。
小野寺くんが誰かを好きになるかもしれない未来を想像したくない。
小野寺くんの特別に、彼女に…私がなりたい。
「…桂木さん?」
「私じゃ釣り合わないってわかってるけど、それでもこの気持ちだけは消えてくれないの。今だって見つめられてるだけでドキドキするし、触れたり触れられたりするだけで何も考えられなくなる…」
–––「ちゃんと伝えないと、後悔したって遅いんだからねー?」
後悔したくない。
自分の気持ちを伝えられるようになったのは、他の誰でもない小野寺くんのおかげだから。
また今までみたいに気持ちを押し殺してなかったことにするなんて、嫌だった。
「小野寺くんのことが好きなの…」
緊張と恥ずかしさでじわりと涙が滲んできて、慌てて俯く。
い、言ってしまった…!
どうしよう、小野寺くんの返事を聞いてしまったらもう私たちは前のような関係には戻れない、
普通に会話をして、笑いかけてくれるだけで幸せだと思っていたのに。
いつからこんなに欲張りになっていたんだろう…。
「桂木さん」
小野寺くんにそっと頰に手を当てられて、顔を上げる。
「人と話すことが苦手なのに、花が相手だと眩しいくらい可愛く笑って、一生懸命頑張っている姿にいつからか惹かれていたんだ。守ってあげたいと思った。桂木さんのこともっと知って、隣にいたいと思った。…できれば、彼氏として」
「…え?」
「俺も桂木さんのことが好きです。付き合ってください」
必死に我慢していた涙が溢れて止まらなくなる。
「わ、私で、よければ…っ」
「はは、泣かないでよ」
私を引き寄せて抱きしめてきた小野寺くんが、子どもをあやすかのようにぽんぽんと優しく背中を叩いてくれた。
小野寺くんに抱きしめられるのは、ドキドキして恥ずかしいけど温かくてとても心地よかった。
ずっと、小野寺くんの特別になりたかった。
その願いが今、やっと叶ったんだ。
「莉奈、一緒に帰ろ」
「うん。ちょっと待ってて、先生に日誌出してくるから」
パタパタと急いで廊下に出ると、「りーな」と凛々ちゃんに引き止められた。
「今日も小野寺と一緒に帰るなんて、順調そうだね〜」
「う、うん…。まだ恥ずかしいけど、最近はやっと目を合わせて話せてきてるんだ」
小野寺くんと付き合った次の日、小野寺くんがクラスメイトの前で私のことを名前呼びしてきてクラスの男子に冷やかされているところ、「付き合ってるから名前呼びをして何が悪いんだ?」と公開告白をしたせいで私たちの交際はあっという間に知れ渡った。
最初の方は男子からも女子からも質問攻めに遭い大変だったけど、それも時間が経つにつれて徐々になくなっていき今ではみんな温かく見守ってくれている。
小野寺くんを密かに好きだった女子たちに陰口を言われることもあったけど、小野寺くんが笑いかけてくれるだけで幸せでそれも気にすることはあまりなくなった。
小野寺くんと付き合う前も私は前の嫌いだった自分より少しは変われたと思っていたけど、付き合ってからはもっと変わった気がする。
いつだって人の目を気にして空気のように生きていた毎日だったけど、今は小野寺くんの目に映るだけで嬉しくて少しでも可愛いと思われたくて努力をするようになった。
当たり前のように小野寺くんの隣にいられるこの関係がとても幸せだった。
「すっかり垢抜けて恋する乙女って感じで莉奈が遠くなったように感じてたけど、目を合わせて話すだけで手一杯だったとは安心したよ」
「えー何それ」
「ピュアで可愛いなって思っただけだよ。でもそんなに奥手だったら、どっかの積極的な女子に手出されちゃうんだからね?気をつけなよー」
「う…そんなの嫌だ…」
*
「…っ」
「…莉奈?」
…凛々ちゃんの予言はどうしていつも当たってしまうのだろう。
あれから凛々ちゃんと別れて先生に日誌を出してすぐに戻ってくると、同じクラスの女子力が高くて可愛いと有名な女の子と小野寺くんが二人きりで教室に残っていた。
どうやら告白をしているようで、その中に入っていく勇気もなく彼女のくせに私はじっと扉のそばで見守っていた。
ふと、女の子が不意に小野寺くんに顔を近づけていた。
あまりに驚きすぎて思わず扉に足をぶつけてしまい、ハッと振り返った女の子が逃げるように教室を出ていった。
そして小野寺くんと静まり返った教室に取り残され、二人で向き合っていた。
「莉奈、今のは…」
「わかってる。みんなが小野寺くんのこと好きになっちゃう気持ち、私が一番よくわかるもん…」
私にはもったいないくらい、小野寺くんは魅力的な人だ。
それでも小野寺くんが選んでくれた人は私で、その事実にどこか安心していたのかもしれない。
「誰から想われたとしても、俺の好きな人は莉奈だけだよ。さっきの告白もちゃんと断ったし、それに…」
ぎゅっと柄にもなく自分から小野寺くんに抱きつく。
小野寺くんは私が知らないだけできっと告白を何回も受けてきたに決まっている。
それなのに私は小野寺くんが今私を想ってくれていたとしても、いつか気持ちが揺らぐかもしれないなんて考えたことがなかった。
いつの間にか小野寺くんはずっと私の隣にいてくれるのだと自惚れていたんだ。
その油断のせいで、まだ私だってしていないのに他の女の子にキスをされている小野寺くんを見て頭が真っ白になった。
あれは小野寺くんの意思じゃないと、事故のようなものだとわかっていても、黒い感情が胸の中に渦巻いていて呑み込まれそうだった。
「…小野寺くん。どこか寄って帰りたい。私たち、デートだってまだだったでしょ…?」
「え?うん、いいけど…」
今は少しでも小野寺くんと一緒に過ごしたくて、心の穴を埋めるかのようにそんな大胆な提案をしていた。
小野寺くんの彼女は私なのだと安心したかった。
*
電車に乗って、小野寺くんと近くの水族館に来た。
平日の閉館間際の時間だからか、暗い水族館を歩いていてもすれ違う人は数人で静かな時間が流れていた。
「水族館来たのって小学生ぶりとかかも」
「本当?私はたしかずっと小さい頃に一度来たことがあるけど、それ以来来てないかも…?」
小学生の頃の記憶を思い出してみようとするけど、なぜかモヤがかかっているかのようにうまく思い出せなくて曖昧な答えを返す。
小野寺くんはそんな私に気にした様子もなく、大きなサメが泳いでいる水槽に駆け寄って行った。
「すごいよ、莉奈!すげぇでかい!」
「うん、すごいね」
無邪気に笑いながらキラキラとした目で水槽を眺めている小野寺くんに、微笑ましくその姿を見つめる。
「俺、小学生の頃に一度だけ家族で東京に来たことがあるんだ。その時に水族館に初めて来て、あまりにも綺麗で夢中になって、父さんと母さんが帰るよって言っても聞かなかったらしい」
「そうなの?なんだか小野寺くんらしいかも」
「はは、なんだか懐かしい。ずっと昔のことのように感じるなー。…もうずっと家族で出かけてないんだ。俺の母さん、病気でね。転校してきた理由も、田舎の小さな病院じゃなくて東京の大きい病院に移るためなんだ」
「え…?そう、だったの…?」
だからクラスメイトたちに転校してきた理由を聞かれた時、わざと違う話をして話題を変えていたんだ…。
「本当はあまりこの話したくなかったんだ。どうしたって暗い話になっちゃうだろ?だけど、莉奈は特別。俺の彼女で大切な人だから、俺のこと全部知ってて欲しいんだ」
ぎゅっとさりげなく手を握ってきた小野寺くんが優しく微笑んできた。
こんなに優しくて愛されているのだと実感しても、いつか私から小野寺くんが離れる日が来るんじゃないかとそんなネガティブなことしか考えられなかった。
だから離れないように、小野寺くんの手をそっと強く握り返した。
「綺麗だね」
一通り館内を回り終わり、最後に出口近くのたくさんのクラゲが泳いでいる水槽で囲まれた部屋に来ていた。
中には細長いベンチが真ん中に置かれているだけで人は誰もいなく、私と小野寺くん二人きりの空間となっていた。
「知ってる?クラゲって体の約90%が水分だから、ほとんどのクラゲって死ぬと溶けて消えちゃうんだって」
「え、そうなの?じゃあこんなにたくさんいると、どれか一匹死んじゃっても誰も気づかないのかな…」
今ここにいるクラゲのどれかが、明日起きた時には消えていなくなっていることもあり得るということだ。
こんなに儚くてずっと眺めていられるほど綺麗だというのに、死に方がとても残酷だったなんて知らなかった。
「誰にも知られないまま消えていくなんて、寂しいよな。こいつらはたしかに今、俺たちの目の前にいるのに。突然消えたら、そもそも本当に存在していたのかすらわからなくなる。イマジナリーだったんじゃないかって、疑ってしまうかもな」
「…生きていたのに、なかったことにされるのは私だったら悲しい。もしも私がクラゲだったら、小野寺くんと付き合っていた奇跡みたいな毎日も、今こうして隣に座ってクラゲを眺めているこの時間も全部なかったことになるんでしょ…?そんなの耐えられないよ。私は小野寺くんと一緒にいるこの瞬間だって一秒たりとも忘れたくない」
もしもの話だというのに、なぜか視界がじわりと滲み涙がこぼれ落ちた。
慌てて小野寺くんに隠すように両手で顔を覆い、そっぽを向く。
キス現場を見てしまってからずっと胸の中がモヤモヤとして不安で、絶対のないこの先が怖くてもう限界だった。
こんな醜い私を小野寺くんに見せたくなかった。
「こっち向いて、莉奈」
優しく語りかけてくる小野寺くんに、力なく首を横に振る。
「…こんな私、見せられない。小野寺くんに嫌われたくない…っ」
「莉奈」
きっとこの想いをぶつけてしまったら、さすがの小野寺くんでも面倒くさいと思ってしまうかもしれない。
私から離れてしまうかもしれない。
そう頭ではわかっているのに、小野寺くんに名前を呼ばれ触れられただけで私の体は言うことを聞かなくなってしまう。
小野寺くんに逆らえない。
優しく手を退けられて、涙でぐちゃぐちゃの汚い顔が露わになる。
「…ふ、不安なの。小野寺くんは私と違って人を魅了する力を持っているから。いつかとびっきり可愛い子が現れて小野寺くんに猛アタックしてきたとしたら、こんな私じゃ勝てる自信がないから。あんなの事故だってわかってるけど、小野寺くんが教室で女の子にキスされてるのを見てすごく嫉妬したの…。私は臆病だから気持ちを伝えるだけでいっぱいで、全然自分から行動できないから。愛想尽かされたっておかしくないもん…っ」
気づいたら、ぎゅっと力強く小野寺くんに抱きしめられていた。
「俺が莉奈を嫌いになるわけないだろ。俺はきっと何をされたって莉奈を嫌うことなんて絶対にない。本当は自分の気持ちを伝えることだって苦手だったのに、それでも一生懸命伝えてくれる姿が愛おしいと思うし、嫉妬でこんなに俺のこと考えてくれてたなんて嬉しいに決まってるじゃん」