7.5日目のきみに会いたい

今日は大学もバイトも休みの日。本当は丸一日シフトを入れられる日。
でも今日は特別に休みをもらって、茉大と一緒に外出することになった。
映画館デート以来の外出だ。付き合おうと正式に申し込んでからのデートは初だ。快翔も本当は茉大を狙っていたというが、俺に譲ると上から目線で言われた。それでも、茉大は澄矢のことを気にしていた。快翔のことは眼中になかったらしいと後から知った。

今日は水族館に行きたいと茉大の希望だった。くらげとイルカショーが絶対見るんだと張り切っていた。澄矢はレンタカーを人生初で借りて、隣に茉大を乗せた。運転免許は高校3年生の時に取得済だったが、大学に通うことになると電車移動が多く、めっきり車に乗る回数が減った。長期休みに実家に帰って父の車を運転するくらいだった。運転する機会は少なかったが、自信はあった。

「お願いします」

「はい、頑張って安全運転めざします」

「助手席って緊張するね。めっちゃ近い」

「ご、ごめん。ワゴン車の方良かったよね。狭いかな。これ、普通自動車だけど」

 澄矢は、乗りたかったトヨタのプリウスを選んでいた。電気自動車はガソリンを使わずにエコカーであることが魅力的だと思っていた。

「いや、別にいいんだけどね。なんか緊張するな」

 そわそわする茉大に澄矢もドキドキしてきた。

「だよね。俺も隣に家族以外の誰か乗せるって茉大が初めてだから」

「え、そうなの? 彼女いたって快翔くんに聞いた……あ、秘密なのに喋っちゃった」

「うそ、快翔がその話していたの? あいつそんなこと俺には何も……でも付き合ってたのって高校生だし。まだ免許も取れなかった時だから」

「ふーん。そうなんだ。高校生デートいいよね。制服デートだし」
 
茉大はうらやましそうに言う。

「本格的なデートしてないけどね」

「え? それって彼女なの?」

「まぁまぁ、いいじゃない。行こうよ、水族館。海沿いだったよね。新江ノ島水族館って」

「そうそう。綺麗なんだよね、ホームページ見て知った」

「ここからだと1時間ってところか」

 澄矢はナビをぽちぽちといじって目的地を設定する。茉大は一緒になって画面を見る。ふと、澄矢の腕が茉大にあたる。横からじっと顔を見た。よくよく間近で見ると全然雫羽に似ていなかった。澄矢は変なフィルターをかけて、雫羽と重ね合わせていたのかもしれない。この人が雫羽だったらいいなという願望があったと。そもそもほぼほぼ、夢でしか会っていない雫羽の顔をどう判別するというのか。自分で自分を呆れてしまう。自分の目は節穴だったとため息をつく。

「澄矢くん、どうかした?」

 上目遣いで見つめられて、さらにドキッとする。本当にいつもより顔も近ければ、体も近い。すれすれで茉大の胸があたりそうだ。いけないいけない変な妄想を掻き立てる。生身の人間との交流ができるというありがたさを身にしみて感じてしまう。澄矢はハンドルを切って、目的地の水族館に向かった。休日ということもあり、車線の多い国道は渋滞になりそうなくらい混んでいた。
青く広がる水槽の中、たくさんの魚たちが泳ぐ相模湾ゾーン。
本来ならば、太平洋に住む魚たちが悠々と泳いでいる。イワシの大群がぐるぐるとタワーのように連なっていた。マンタやサメも共存している。食物連鎖で食べられてしまわないかと気になってしまう。

「すごい大きいね。この水槽」

 水のぶくぶくという音が聞こえてくる。脇の方にはこんぶやわかめもあった。

「どうして、海の中で出汁とれないんだろうね」
「あれ、それって誰か芸人さん歌にしてなかった?」
「「テツandトモ」」

顔を見合わせてお互いに指をさす。くすっと笑い合う。

「古くない? なんでわかるの?」

「両親が好きでさ、YouTubeで何回の見てるんだ。過去作のネタ」

「うそ、家でも親が好きなの。お笑い芸人」

「え、茉大さんも?」

「……もう、茉大って呼び捨てでいいよ」

 澄矢は、だんだんと打ち解けてきたんだとほっとした。

「んじゃ、俺も澄矢って呼んでよ」

「え、嘘。いや、ちょっと、恥ずかしいかな。小早川くんでいい?」

「呼んだことないのに、急に苗字?」

 頭をかきあげて、照れる澄矢にくすっと笑う茉大だ。

「嘘だよ。冗談だから。澄矢って呼ぶね」

「……急に普通な対応でつまらないな」

「急な無茶ぶり。芸人じゃないよ、私」

 ぷっと噴き出す澄矢に頬を膨らます茉大だった。カクレクマノミの魚が海藻の脇からこちらの様子を伺っている。館内を歩きながら、少し遠くに幻想的なクラゲコーナーが見えた。

「うわぁ……超きれい」

「だね。くらげってこういうのなんだ。間近で見るの初めてかも」

 クラゲファンタジーホールと書かれていた。プラネタリウムのようなディスプレイになっている。

「幻想的だよね。海の中じゃなくて、星空みたい」

「確かに。ずっと見てられる。癒されるなぁ」

 天を仰ぎながら、クラゲがたくさん入ってる水槽を満喫した。
 青く、星空のようでぷかぷかと浮かぶクラゲはUFOかはたまた惑星か。
 2人はしばらく見つめた後、イルカショーを見に移動した。
 客席はまだ開演時間までだいぶ時間があったため、空いていた。

「これさ、前の方行くと、びしょぬれになるってやつでしょ」

「うん、注意事項書いているね」

「どうする?」

「服濡れるのはちょっと。透けたりしたら……ねぇ」

「……」

「何か変なこと考えてる?」

「俺も一応男ですから。でも、誰にも見せたくないよね。俺も見てないわけだから」

「……何を言ってるのかな。君は」
 
 なぜか何もしていないのに胸を隠して、じっと澄矢を睨む茉大だ。
 澄矢はどう対応すればいいのかわからなくなって明後日の方向を見る。

「とりあえず、少し上の方に座った方がいいっしょ」

「……まぁ、それはね。その通りだけど」

「あのさ、茉大って付き合ったことあるの?」

「え?」

「だから、元カレっていうか……」

「ふーん、気になる?」

「……うん」

 澄矢は、頬を少し赤くさせて聞く。

「まだ言わないでおく」

 口もとにしーのポーズをとってウィンクした。

「まだなんだ……」
 
 耳を垂らした犬のように寂しそうな顔をした。

「ゆっくり進めていきたいからさ」

「ゆっくりって?」

「澄矢と私の関係」

「……そっか。そうだね。急ぐよりゆっくりがいいな」

 お互いに気持ちが一致したようだ。笑みをこぼした。

 楽しみにしていたイルカショーは心ほくほくに大満足のイルカの演技を見ることができた。外は雲一つないくらいの青空に、イルカの尾ひれで水しぶきが飛んだ。そこに小さな虹ができていた。
高架橋の下、雨足が強くなっていた。

近くに流れる側溝の水が溢れそうになっている。橋の上を電車が通り過ぎた。
トンネルの中は車両の音が大きく響いた。壁には澄矢の体がぴたりとくっついて、茉大が、澄矢の首を抑えていた。緊迫した空気が流れていた。澄矢は唾をごくりと飲み込んだ。
 差していた相合傘が地面に転がっている。どうしてこうなったのか。

 数時間前、水族館にデートしてから数か月後のことだった。
 お互いに日々の生活も慣れて、彼氏彼女として安心感がだんだんと濃くなる頃、澄矢は茉大を自分の住むアパートにおいでよと誘ったその日は、不安定の曇り空で突然夕立が降り、びしょぬれになった。これから、高架下のトンネルを通ろうとした。その瞬間、茉大の様子が急に変わった。1本の傘を2人で仲良くぴったりと肩を寄せた時に、パッと表情が切り替わった。ドンッと、澄矢の体を両手で押し、首元に両手をつかみ始めた。目がすわっていて、いつもの茉大に見えなかった。電灯も遠く、暗くてよくわからなかったが、明らかに茉大ではない人が目の前にいる。さっきまでお笑い芸人の話で盛り上がっていたのに、突然のこの姿。澄矢は勇気を出して、口を開いた。

「……雫羽?」

 雷鳴が響いた。また電車が橋の上を走り始めた。雨の降り方がさらに強くなり、風も吹きすさぶ。

 雷の光で茉大の顔が見えた。雫羽の表情が見える。
 言葉を発することができなくなったらしい。澄矢の首に手をやっていた茉大の体はそっとおろした。

「澄矢くん……もう私の知っている澄矢くんじゃない」

 エコーがかかったように雫羽の声が茉大の口から聞こえてくる。彼女の体に憑依しているようだ。澄矢は、冷静に対応する。

「雫羽……変わってないよ。前と変わらない。俺はそのままだよ」   
「嘘だよ。だって、茉大さんと一緒にいるとき、ものすごく幸せそうだもん。私といるときより、ずっとずっと笑顔で、どうして隣にいるのが私じゃないのかが悔しいよ!!」
 
 茉大の体を借りて、雫羽は澄矢の胸に何度もこぶしをぶつけて、八つ当たりをした。黙って受け止めた。

「うん。俺もなんで雫羽じゃないのか。悔しいよ。どうして、茉大なんだろうって思う時ある。でも、もう、雫羽はこの世界にいないんだよ。会いたいけど会えないんだ。今ここにいるのは雫羽じゃない。茉大の体を借りた雫羽だ。自分にはなれないんだよ」

 死んだことをしっかりと見届けた澄矢は現実を伝えた。雫羽は、大量の涙を流し続ける。

「私、神様に頼んで、夢の中で澄矢くんに会わせてくださいって願ったの。河川敷で会った私は本当は病室のベッドの中にいたんだよ。寿命が短いからせめて最後に願うならと七夕の短冊に書いたんだ。神社の絵馬にも書いた。澄矢くんとデートができますようにって、好きになってくれるようにって……。本当に願いが叶って嬉しかった。でも、せっかくデートできたのに、寿命が切れて、澄矢くんに会えなくなって、2人の幸せを願おうとしたけど、どうしてもだめだった。茉大さんと過ごす澄矢くんがすごく幸せそうで、そのポジションに行きたいって思っちゃった。だから、もう、一緒に天国に来てくれれば、ずっと一緒に過ごせるんだろうなって……」

 ペタンと座り、顔を伏せて、泣き崩れた。自分のやってしまったことに後悔する。澄矢は、そんなドロドロの感情の雫羽をじっと見つめ続けた。そっと腕を伸ばして、ヨシヨシと雫羽の頭をなでる。不意にその行動があまりにも優しくて、さらに涙が流れる。同じ目線にしゃがみ、ぎゅっと体を抱きしめた。

「今は、茉大の体になっているけど、俺は雫羽を一度も忘れたことないよ。ずっと俺の心の中にいるから。死んでからもずっと好きでいるよ。連れていきたいなら連れてっていいよ」
 
 さらにヨシヨシと後頭部をなでる。その触れる手が優しかった。浄化された雫羽は茉大の体から離れて、空中に浮かび上がった。力の抜けた茉大の体は地面にふと倒れていく。澄矢はそっと腕に抱えて、静かに茉大を横にした。


「澄矢くん。もう、澄矢くんを天国に連れてくのはやめておくよ」

「……うん」

「私は死ぬ前から澄矢くんから愛されていたんだね。今でもずっと、変わらず好きでいてくれるなら、もう安心。着いてくなんて言わないで。まだこっちの世界には来ないでね。私よりもずっとずっと幸せな時間過ごさないと許さないから。生まれ変わったら絶対また一緒に過ごすんだからね。それまで楽しみに待ってるから」

 泣きながら、今の澄矢の気持ちを聞いて落ち着いた雫羽は、空高く浮いていく。手を振って別れを告げた。本当は一緒にいたい人といられない。この想いは雫羽と同じ気持ちだった。澄矢は、現実を受け止めなければいけないんだなと感じた。
 雷鳴が遠くの方で鳴っていた。雨が土砂降りから徐々に小雨になっていた。
曇り空では光る星は全く見えない。

「澄矢、大丈夫?」

 高架下の少し砂が膝についていた。茉大が体を起こして、心配している。むしろ自分のことだろうとクスッと澄矢は笑った。

「茉大、ごめんね。俺、大事にするからさ」

 ぎゅっとハグをした。

「え? 何かあったの?」
「ううん。何もない。明日ってさ、お祭りあったよね。行く?」
「え、花火大会? 雨降らないといいね」
「確かに……」

 澄矢は地面に落ちた傘を拾って丁寧に巻いて片づけた。高架下の外、雨がようやくやんで、夜空に淡月《たんげつ》が輝いていた。
なぜかわからないかとにかく月曜日になるのが嫌いだった。
どうして、早く起きなくてはいけないのか。どうして、ずっと寝ていてはだめなのか。高校生の澄矢にはそれにもがき続けてきた。学校なんて、稼ぎに行ってるわけじゃない。意味がないに決まっている。そう思っていた。

 ある時を境に水城雫羽という女子に会い、その子に夢中になった。不思議な感覚で、毎週月曜日の前の日。三日月曜日が発生して異空間にて夢のような世界で雫羽に会い、特別な時間を過ごしていた。蓋を開けてみるとそれは幻想で、現実ではなかった。現実の雫羽はずっと病院に入院していて、動くことさえ叶わなかった。そこから思いを飛ばして、澄矢と河川敷で水切りをする時間ができた。夢だと分かっていたが、澄矢にとってはそれがものすごく心救われていた。学校に行くと、もしかしたら、彼女に会えるんじゃないかと思いを作らせてくれた。実際は学校で会うことは叶わなかった。いつの間にか、病院のベッドの上、話すことのできない雫羽がそこにいる。会話を交わすことなく、亡くなってしまった。お葬式にも参列して、最近、また幽霊のように現れて、澄矢を一緒に天国に連れて行こうとした。でもそれは、澄矢にとってうれしいことだった。現実のように接してくれてるようで、そばにいてくれてるようで本心で一緒に逝きたいと思ってしまった。でも、それ叶わない。まだこの世界で生きろと神様が存在するならば、言われてる気がした。雫羽が時々出てくるのは、自分の活力をあげろとそういう力が雫羽という姿で出て来たのだとそう思った。
もう、雫羽のことを考えるのはやめよう。もう、考えなくても明日は明るい。そう信じれる自分になったのだと言い聞かせた。


「澄矢、これ、ここに置いていい?」

 茉大がコンビニで買ったものを袋ごと台所のまな板置きに置いた。不意に後ろからぎゅっと抱きしめた。心がなぜかぽっかりと開いたように寂しくなった。本当に雫羽はいないんだと思うと、また思い出して、泣きたくなった。なんて、未練がましいんだろう。

「どうしたの?」

 後ろ向きで頬を触る茉大に向かい合せでさらにぎゅっと抱きしめた。

「もう離さない」
「く、苦しいんだけど……」
「ご、ごめん。今日、泊まれる?」
「うーん、明日も講義あるし……レポート仕上げてないんだよね」
「そっか。んじゃ、送るから」
 
 夜道は危険だと、しっかりと送らないといけないなと思った澄矢は上着を着た。

「いやいや、まだまだ来たばかりじゃん。これ、飲んでからでもいい?」

 コンビニの袋に入ってるお酒とおつまみを並べる茉大ににこっと微笑んだ。

「それ、飲んだら、最後寝かしちゃうよ?」
「え? 寝かせないよじゃないの?」
「……寝かせなくていいの? 本当?」

「嘘、やっぱり帰るのやめる」
「どういうこと?」

 茉大は、澄矢のシャツの裾をつかんで言う。

「たまにはずる休みしちゃってもいいじゃん」
「あ、え? 嘘、茉大からそういう言葉出るとは思わなかった」
「風邪引いたら誰だって休むっしょ。私、明日風邪引く予定だから」
「マジか」

 澄矢は茉大の両手をぎゅっとつかんで、またハグをした。
 真面目に行くのもいいだろうけど、少し疲れたら休むのもありなんだなと茉大から教わった気がする。何のためにしてるのか。行きたいときに行くという気持ちにすっきりした時でもいいなと感じた。現実の世界でアドバイスをくれる茉大がいるのなら、もっと早く出会いたかったそんな気がしてならなかった。
紫とピンクを混ぜたような夜明けの空を眺めた。今朝は全然眠れなかった。

別に世の中に悲観したわけじゃない。

何となく、外の景色をずっと見ていて、眠くならなかった。
オルゴールを聴いても、映画を見ても、好きな本を見ても寝付けない。
そんな日もある。
スマホのこれまでの想い出の写真を眺めてしっとりした気持ちになる。
幸せなんだろう。きっと、今の自分は。なんだか、ホクホクした。
別に焼き芋食べたわけじゃない。

晴れた夜空には満月が煌々と輝いている。
天候の気圧や月の引力の影響で頭痛がしたからではない。
その日の出来事で体力も精神も使いすぎて、疲れたわけでもない。
ただ、ただなんでもない日をやり過ごしたはずだ。

ぼーと寝ずに朝を迎えた。
いつもはやらない観葉植物に水やりや、コーヒーをブラックで飲んでみるとかやってみた。普段やらないことをやった。
なんでだろう。ペースが乱れて、いつも家を出る時間より遅くなった。
早く起きたというか寝てないのに悔しい思いだ。
澄矢は、玄関のドアを施錠して、大学に向かう。
アパートから地下鉄に揺られて、10分の距離だ。
混みあう車両の中、ワイヤレスイヤホンをつけて、好きな音楽を聴く。
これは朝のルーティンだ。
 
 地下通路を抜けて、横断歩道を渡ろうとする。向かい側に茉大が手を振って待っていた。
 澄矢は夢中になって走った。その時に右折してくる車に気づかなかった。
大きなワゴン車に勢いよくぶつかった。空中に体が吹っ飛んだ。走馬灯が駆け巡る。澄矢は、スローモーションに動く。ドンッと、車体にぶつかった後、道路に体を打ち付けて、さらに頭から血がどくんどくんと広範囲に流れた。

(俺、死んだのか……)

 今、一体どういう状態なのかわからなかった。記憶がない。意識もない。最後に耳に入ったのは茉大の悲鳴だった。近寄ってきていたのが一瞬だけ見えた。

 ずっと起きていたせいか。いつもと違う行動したからか。何が原因かわからない。もしかして、昨日贅沢しすぎて、焼肉食べたせいか。いや、違う。バイトでお客さんに出した生クリームを乗せすぎたせいか。サービスしすぎたからか。それもなんだか違う。雫羽を裏切って茉大を好きになってしまったからか。いやそれも違う。それは理由じゃない。車を運転していた犯人のせいなのは知っている。
命はもう戻せない。
理由が何であろうとも、澄矢の意識は完全に戻ることはなかった。
 

救急車のサイレンが街中で響いている。
交差点の横断歩道には車のガラスの破片がちらばっていた。






 白い花畑が辺り一面に広がっていた。白いもやもかかっている。だだ広い草原が遠くにある。
 さらに奥には山々が続いている。なんとも自然豊かな場所だ。小鳥たちが優雅に飛び交う。
 蝶々たちも色鮮やかな花の蜜を吸って、飛んでいる。なんとも平和な世界だ。

 都会の喧騒で生きていると重苦しい空気を感じて生きてるのも嫌になる。
 いつの時代も自然豊かな場所は心も豊かにしてくれる。
 
 澄矢は体を起こして、両手を広げて深呼吸をした。

 どうしてここにいるかなんて今は考えたくなかった。
 過去の記憶は、車に轢かれたことくらいで他は覚えていない。
 きっと当たり所が悪くて死んだんだろう。
 人間いつ死ぬかわからない。家の中にいてもトラックが飛んできて、命落とす人もいる。
 自然の力だと雷にあたるだけでも死んでしまうのだ。
 外の世界というものは危険だらけだ。刃物を持った無差別殺人だってどこで発生するかわからない世の中。
 それでも生き抜いてきた。車に轢かれて一生を終えたのだ。
 生き返ることはできない。
 あの時、ああしておけばよかったとか、お金持ちになっておけばよかったとか今はどうすることもできない。
 お金は天国に持っていけないし、やり残したことをすることもできない。

 草原の上に寝ころんで、手を伸ばして、空に浮かぶ雲をつかもうとした。
 つかめるわけないのにとわかっていながら、おかしくなってきた。
 
 すると、見たことある人が顔を覗いて来る。
 まつ毛が長く、髪を揺らしていた。白いワンピースの彼女だ。

「澄矢くん、こっち来るの早いよ。まだ呼んでないのに、来てるし」
「雫羽! よかった。会えた。やっと会えたんだ!」
 
 無意識に近づいてきた雫羽をぎゅっと抱きしめようとしたら、するりと抜けた。

「お互いに幽霊なのに、無理だよ。生きてる間にしたかったけどさ。残念でした」

 悲しそうな顔で雫羽は澄矢を見る。澄矢は天を仰ぐ。

「でも、私はこの空間で一緒にいるってだけで幸せだよ。生きてる間は会えもしなかったわけだし、幻想の中の澄矢くんだったから。何か、へんな感覚なんだ。しっかりと見たことなかったけど、こんな顔していたんだね」
 
 左頬にぽつんとほくろが見える。眉毛は少しぼさっとしてて、下唇が厚い。間近でジロジロと見られて、急に恥ずかしくなる澄矢はぐるりと振り返った。

「後ろ向いたら、顔が見られないじゃない。雫羽ちゃんが見てるんだよぉ?」

 雫羽はさらに追いかけて、澄矢の顔を覗くとさらにくるりと回って、じゃれ合う犬みたいになっていた。

「いつまでもこんなことできないよ?」
「え?」
「さらに上、登らないとね」
「上?」
 
 その言葉を発したとたん、澄矢の背中に大きな白い翼が現れた。雫羽は背中に見えないように閉まっていたようだ。
 無意識の力で翼を大きく広げた。

「澄矢くん、ここから先は時間の感覚も体の感覚もない世界に行くよ。そうだなぁ、心だけの世界。やりたいことしたいこと心の思うままに過ごせるところ。もう私たち生きた世界には戻れない。行けると、したら、生まれ変わるしかできないの。神様が気まぐれだけど、来世で会わせてくれるといいよね」

「来世?」

「そう、生まれ変わるんだよ。新しい私、新しい君。ね、来世を楽しみにしよう」

 光輝く真っ白い世界にどんどんと吸い込まれていく。もう後ろには行けない。いや行く必要はない。前しか見えないのだ。
 澄矢と雫羽は、煌々と光る白い世界にあっという間に包み込まれていった。


その日は雲もひとつないくらい青空が広がっていた。風も清々しい。
家の屋根に巣を作るスズメたちも家族会議をしているのかチュンチュンと騒がしかった。

「ねぇ、あのさ保険証持った?」
「ううん、まだ。今入れるよ。えっと、このバックでいいの?」
「うん、それだよ。早くしてほしいよ。破水してるんだから」
「わかったよ……焦るなぁ、もう」
 
 新川茉大は月島快翔と大学卒業後、結婚して月島茉大になっていた。
 今は、結婚して3年目。ホルモンバランスのせいか原因は分からなかったが、なかなかできなった待望のやっとこそ子どもができた。一生懸命に頑張った不妊治療のおかげかもしれない。もう、まもなく、出産予定日でまさに今破水したようだ。

「でも、待って、計画出産じゃなかったっけ。帝王切開って話はどうなったんだ?」
「何を言ってるの。その前に破水したらすぐ電話して行かないといけないんだよ!」
「あ、そうなんだ。俺、男だし、そういうの全然わからないからさ。前もって言ってよ、ああ、もう」
「男でもちゃんと勉強してよ。良いから。早く病院連れてってよ。もう、快翔が本当に休みで良かったよ。安心だわ」
「……うん、それはね、マジで」

 快翔は、荷物をまとめて、すぐにエンジンをかけて、車のトランクに積んだ。茉大は大きなお腹をおさえて、助手席に座ってシートを倒して、横になった。ドリンクホルダーにペットボトルのお茶をセットする。

「無事に生まれてくれるといいよね」
「うん、もちろん。双子なんだから、本当に楽しみだよ」

 快翔は、車のアクセルを踏んで、かかりつけの産婦人科に向かった。少し心臓の音が早まった茉大の頭では不安がよぎっていた。破水して間に合うかなという心配だった。

―――数時間後、

「おめでとうございます。元気な男の子と女の子ですよ! すごいですね」
 
 産婦人科の看護師と担当医師が汗をかいて笑顔だった。もう命がなくなるんじゃないかというくらいの痛みに耐えて、茉大は、出産を終えた。横でサポートしていた快翔は、助けたくても助けられない状況に冷や汗をかいて茉大より水分補給をとっていた。茉大は快翔に怒りさえも覚える。

「ほんとに、出て来てくれてよかった!!」
「ああ、よかったな。元気な子供たちだな」
 
 茉大は、寝返りも打ちにくいお腹の痛さに早く解放されたくて仕方なかった。快翔は、双子の赤ちゃんがぎゃあぎゃあ泣く姿が愛しくて、ずっと眺めて、額をなでていた。

「ちょっと、名前決めてるんでしょう」
「ああ、もちろん。決まってるよ。清矢と雫葉だな。あいつらの名前は絶対、忘れたくないから」
 
 快翔は思い出を懐かしむように窓の外を見ながら言う。清々しい青空だった。

「漢字は違うんだよね」
 茉大は、笑顔で言う。

「ああ、全く一緒だと怒られそうだからな」

 女の子を抱っこして、ぎゅっとさらに抱きしめた。
 茉大は男の子を抱っこして、指を手の中に入れると、自然にぎゅっと握手するように握りしめてくれた。
 泣いてたはずの2人はいつの間にか泣き止んでいた。
 

 新たな2人の世界が始まった。双子同士で今度はいつも隣同士べったりと過ごせることだろう。
 

 前世の澄矢と雫羽の心は満ち満ちていた。
 望んでいたことが叶ったのだ。


 病院の窓の外には綺麗な虹が差し掛かっていた。


 【 完 】

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