心電図の音が部屋に響く。ここは、病院の1つの個室。ベッドの上に1人の少女が酸素吸入を口につけ、横になって寝ている。苦しそうだ。時々、ゴホゴホと咳をしていた。すぐ隣のパイプ椅子に少女の母が心配そうに見つめていた。べッドの脇には千羽鶴が飾られている。左の腕には点滴のチューブが繋がっている。
回診に来た看護師が点滴の速さを確認していた。
「雫羽ちゃん、もうすぐ先生来るからねぇ」
肩にそっと触れて声をかける。
「お母さん、これから先生参りますので、お聞きしたいことがあればどうぞ
おっしゃってくださいね。検温しますね」
そう言うと担当看護師は雫羽の脇に体温計をはさんで、同時に血圧を計り始めた。
「はい、よろしくお願いします」
雫羽は、持病の症状に加えて、季節流行中の風邪にもかかり苦しい思いをしていた。 痰混じりの咳が止まらなかった。個室の引き戸が開いた。
「はい、こんにちは。えっと、水城 雫羽さんかな。どうかな。昨日から咳が出ているみたいだけど」
ヒョロながいメガネをつけた担当男性医師の石澤が入ってきた。白衣のポケットから聴診器を取り出す。ベッドの脇に行き、雫羽の胸と背中の音を確認する。石澤が声をかけるが、何も反応せずに咳を2つした。
「相変わらず、恥ずかしいのかな。全然、離さないね。はい、胸の音も許容範囲内だね」
「すいません、ご迷惑おかけします」
「いえいえ、高校生っていうお年頃ですから無理もないですよ。お母様から何か気になることありませんか?」
石澤は母の近くまで移動して、話を聞く。
「そうですね。もう、いつも不安です……」
雫羽はまた咳を2つして、寝返りを打ち、2人の話を聞いてないふりをした。
頭には母手作りの帽子をかぶっていた。母は泣きそうな声で言う。石澤は、そっと母の肩を撫でた。
「そうですね。ここまで一緒に頑張ってきましたもんね。大丈夫、お母様のやっていることは無駄じゃありませんよ。それは目の前で雫羽さんがよく見ていると思いますし、まぁ、体力や気力も本人次第ってところありますから。前向いていきましょう」
「……先生、そうは言いますけど、雫羽の寿命は私の命よりも短いんですよね」
その言葉を聞いて、石澤は何も言えなくなった。
心電図の音が静かに響く。いつの間にか、静かに雫羽は眠りについていた。
眠っている姿は天使のように綺麗で美しかった。
「もう暗く考えるのはやめましょう。今を生きていくことだけ考えるんです」
「雫羽は、雫羽の寿命は、もうこれ以上伸ばすことは不可能なんですか!! 先生、お願いします。私よりも長く長く、娘には生きて欲しいんです」
白衣にすがるように泣き崩れる。看護師は出入り口付近で顔をふせていた。
「お母様、雫羽さんは抗がん剤治療にも真摯に立ち向かって、頑張っていましたよ。苦しい思いをして、今の状態まで辿り着くことができたんです。私たちの医師の力ではここまでが限界です。これ以上は雫羽さんの体全てを傷つけてしまうことになるんです。そんな酷なことはできません。温かく見守りましょう」
石澤は、母の両肩をしっかりとおさえて、勇気づけた。涙が止めどもなく流れている。そんなことも知らずに雫羽はすやすやと気持ち良さそうに眠っている。眠っている方が、平和で楽しい夢を見れる。現実から逃げている雫羽がいた。病室の窓際の縁には、河川敷の川の写真が飾られている。いつも雫羽が眠るベッドからよく見える位置にあった。
水が落ちる音が聞こえる。水たまりに波紋ができた。河川敷で、白いワンピースの裾が揺らいだ。川の流れる音が心地よかった。麦わら帽子が突然の突風で飛ばされる。
「澄矢くん!!」
雫羽は叫んだ。高く手を伸ばして、風で流されて青空に浮かぶ麦わら帽子をつかんだ。どうにか間に合った。
「雫羽、ちゃんとかぶっておけって。ほら」
頭にかぶせられた。3ヶ月前の2人の異次元世界だ。いつからこうなったか、わからない。
病院の個室でぐっすりと熟睡すると、なぜか元気だった頃放課後に通っていた遊具のある河川敷に移動していた。そこでは、いつも小早川澄矢という人が優しく話を聞いてくれた。
そこがいつも2人の会える場所だった。
「こっち、こっち!!」
「今行くって!!」
澄矢は、学校の校庭でサッカーボールを蹴っていた。今日は他校の生徒との練習試合だった。澄矢のチームは黄色のゼッケンをつけ、相手のチームは赤いゼッケンをつけていた。今は黄色チームにボールが渡り、ゴールを目指してドリブルしていた。澄矢から快翔にボールが渡ると、敵チームのディフェンスが強く、次々とボールを奪おうとしてくる。逃げ切ろうと、股抜きしようとするが抜けた先に敵チームのキャプテンにボールを奪われた。
「ちくしょ!!」
快翔が悔しがり、地面を蹴った。澄矢は快翔の背中をポンとたたいて励ました。
「まだまだ点数入れるのこれからだから!!」
そう言って、すぐに澄矢はボールを奪いに行く。澄矢の気迫に負けた敵チームは、拍子抜けして立ち止まる。その隙を見て、仲間にパスを回し合い、また澄矢の元にボールが転がってきた。キーパーの待ち構えるゴール前で、ドリブルしながら、勢いよくシュートをした。キーパーとの心理戦は見事に勝利を勝ち取った。ホイッスルの音が響き、試合終了となった。澄矢はユニホームで額の汗を拭いた。腕を高くあげて、快翔とハイタッチした。夕方であるにも関わらず、ジリジリと太陽の熱が暑かった。広い校庭には蜃気楼が見えていた。
◇◇◇
蛇口をひねって、頭から水をかぶった。練習試合も終わり、ほっと一息着いた頃、快翔は、スポーツドリンクを飲んで、ベンチに座った。
「澄矢、あのさ、俺、学校辞めようかなと思ってるんだ」
突然の快翔からの衝撃的な発言に目を大きく見開いた。耳を疑い、カレンダーを見返して、今日は何曜日かと確認した。三日月曜日だったら、どうにか受け入れていたかもしれない。 通常通りの土曜日で残念なことに現実であった。
「なんで、そんなことになったんだ?」
「進学のことで親に反対されて、何かもう全部どうでもよくなってさ。なんでダメなんだろうな。やりたいこと、好きなことしたいのにお金稼げないからって決めつけられて、行く大学まで限られてさ」
もっともらしい親子関係で揉める内容だ。澄矢はそもそも大学なんていけるような頭をしてなかったし、快翔の気持ちがわからなかった。この高校に入ったのもなんとなくの気持ちで入れるところだった。
「俺は、むしろ、お前が羨ましいよ。大学いけるんだから。俺は成績なんてよくないし、勉強…嫌いだし。専門学校とか就職でもいいって思ってるし親からはなりたいものになれっていうけど、思いつかないんだよなぁ」
ベンチに2人、夕日が沈むのを見つめながら、ぼんやりと過ごす。
「お前はサッカーやればいいだろ。先輩からも認められてるし、コーチからだって……」
「いやいや、スポーツ選手になるくらいのスタミナ持ち合わせてないよ、休みがちなんだから」
しばし沈黙が続く。
「俺、エジプトに行きたいんだよ。ピラミッドとか、スフィンスってあるだろ?そう言う系の大学行きたいって言ったらさそんなの金なんて稼げないから普通のサラリーマンなれるような大学行けってさ。普通のサラリーマンになってこき使われてさ、自殺する人だっているのに何が楽しいだろな。ブラック企業に行くくらいなら、好きなことを研究して過ごしていた方がいいって言っても聞き入れないわけよ」
「……快翔の親は快翔に嫉妬してるかもしれないよな。自由に大学を選ぶのが羨ましいのかもしんねぇぞ」
快翔は澄矢を指さした。
「それ、親も言ってた。俺なんて、好きな大学選べなかったんだぞって不満たらたら……。そして、本当はシステムエンジニアになりたかったとか言ってるし。 親父は今じゃ、製薬会社の営業業務やってさ、給料は高いけど、やりたくないんだよなってブツブツぼやいているんだわ。親には盛大に喜ばれてここまで来たけどって言ってた」
頬杖をついてため息をつく。話の腰を折るように澄矢は話す。
「でも、学校辞める必要はないんじゃない?」
快翔に学校をやめてほしくない気持ちが全面に出ていた。
「……そうも思ったけど、俺の気持ちはここにはないんだよ」
「へ?」
「エジプトに留学することにした」
「マジか」
「止められないぞ」
「暴走タイプね」
「俺を止められるのはスフィンクスかピラミッドそのものだな」
「そもそも、動かないし、喋らないだろ」
「まぁな」
快翔の笑い声が響く。何となく、澄矢の心にぽっかりと穴が開いた感覚だ。からすが鳴いている。 一日の終わりを告げている気がした。
「澄矢はやり続けろよ。サッカー」
肩を叩いて、部室に荷物を取りに行った。澄矢はしばらく、ベンチから立ち上がることができずにぼんやりサッカーボールが転がる校庭を見つめていた。これが夢だったらよかったのにと現実に向き合うのが嫌だった。スパイクシューズについた土をほろって試合に勝ったのになぜかモヤモヤした気持ちになった1日だった。
街の喧騒の中、澄矢は歩道を人混みをかき分けて、走っていた。
部活以外のところでこんなに必死になって走ったのは何年振りだろう。
額に汗がほとばしる。ショルダーバックがあっちにこっちにと振り回されて、体にぶつかる。横断歩道の歩行者信号は、赤信号に切り替わった。急いで行きたくて、その場を足踏みをした。今すぐにでも行きたい。人の視線なんて気にしてない。澄矢は、青信号になってすぐに駆け出した。
たくさんの人に嫌気がさすが、今はそんなことを考えている暇はなかった。
ー回想シーンー
「失礼します」
職員室に静かに入室した。 つい数分前、放課後の校舎にて
放送された。澄矢のお呼び出しだった。担任の齋藤先生がデスク周りの整理整頓
しながら、澄矢を待っていた。澄矢が職員室に入るのが分かると、出入り口付近まで駆け寄った。
「先生、放送してまで呼ぶって俺、何をやらかしたんですか」
「ん? お前はやらかすようなことでもしてんのか?」
「いえ、何もしてないですけど、たぶん」
つばをごくんと飲み干した。
「まぁまぁ、落ち着けって」
「いや、俺は、普通に落ち着いてますって」
「あのな、この間、お前さ。水城雫羽のこと気にしていただろ?」
「え、まぁ、そうですけど……」
斉藤先生は耳打ちでそっと情報を教えた。
『個人情報だから、あまり大ぴらにしちゃだめなんだけどさ、その水城? 知ってると思うけど、ずいぶん前から入院してるのよ。そんでさ、容態がやばいらしいんだわ。余命何ヶ月とか前から言われてたらしいけどさ。今日、峠かもってさっき担任の佐々木先生言っててさ。今から見舞い行くらしいって……どこに行くんだよ!?』
小声がだんだんと大きくなる齋藤先生。職員室の情報は近くで電話で話してるため、間近で聞こえるらしい。澄矢は話の途中で職員室を出ようとした。急いで、行かないと行けない気がした。
「あ、その水城の病院に行こうかなって」
「場所も調べないで行くかよ??」
「そうだった。それもそうですね」
「ちょっと,待ってろ。今メモ書いてやるから」
齋藤先生は、ノートの紙を乱暴に破って、走り書きで雫羽の入院先である病院の名前と住所を書いた。
「あー、今更言うんですけど、スマホで写真撮れば良かったんじゃないですか?」
「確かに……仕方ないだろ!? まだアナログが抜けないんだから。デジタルな人は良いですね!!本当。ほら,良いからここに行けよ。大事な人なんだろ?」
斉藤先生は結局のところ、スマホの画面からメモに書きうつして、澄矢に渡した。
「先生、俺、何も言ってないですよ。大事な人なんて……」
「いいから。行けよ!」
澄矢の背中を押して、グッとな指を出す。先生からの情報がなければ、雫羽のところには行けなかった。感謝はするが、なぜそこまでしてくれるのか不思議だった。
今日は何曜日だったかと確認しようとしたが、それどころじゃないと首を振った。
ー回想シーン終了ー
額に汗が飛び散る。着ていたシャツで拭う。目的地である市内の総合病院に着いた。自動ドアが開き、入院病棟を探したが、雫羽がどこに入院しているかを確認するのを忘れていた。後ろから肩を誰かに叩かれた。
病院の待合室には長時間待たせられている患者でたくさん溢れていた。
澄矢は、人混みの中をかき分けて入院病棟に行けばいいのだろうかと
エレベーター前でうろうろしていると、後ろから肩をたたかれた。
「小早川くん、ここで何してるの?」
雫羽の担任の佐々木先生だった。
「えっと……」
「もしかして、水城雫羽さんのところに行こうとしてる?」
勘の鋭い佐々木先生が、質問する。澄矢は、静かにうなずいた。乗ろうとしていたエレベーターが止まった。
「んじゃ、これに乗らないと……」
佐々木先生は自動的に否定もせずに澄矢をエレベーターに誘導した。
断れるんじゃないと思っていた澄矢は、拍子抜けをした。
「どんな顔してるのよ。ほら、乗りなさい」
変な顔をしていたらしい。慌てて、ほかのエレベーターに乗る方に
ぺこぺこお辞儀しながら、通り抜けた。知らない人の背中を凝視しながら、
佐々木先生の横で何も言わずにおりる階数を待っていた。
「3階だから」
佐々木先生は上を指さして、小声で話す。丸くて細い眼鏡が光りに反射していた。
高校に通いはじめてから数か月しか経っていない。それにも関わらず、佐々木先生に顔と名前を覚えられている。不思議に思いながら、目でうなずいた。ポロンと音が鳴る。佐々木先生の後ろに着いていった。どこからか漂うのか、病室というのは
薬剤の匂いが鼻についた。佐々木先生がナースステーションに声を掛けに行った。
なんとなく、気配というか、空気というか、第6感というものだろうか。澄矢は、足が自然と動いていく。きっと右の病室なんだろう。調べもしない病室の前の名前を確認することなく、引き戸を開けた。
「小早川くん!」
後ろから佐々木先生の声がした。その声さえも気にしないで、先生より先に引き戸を開け切った。
病室には、雫羽の家族がベッドの周りを取り囲んでいた。口元につけていた人工呼吸器が枕もとの横に、 心電図の画面はスイッチは切れている。すすり泣く声が聞こえる。 現実を受け止めたくなかったが、雫羽の顔が真っ白く、安らかに目をつぶっている。 ただ静かに目をつぶっているだけだろうと思い込んでいた。
「小早川くん……」
呆然と立ち尽くしていると、佐々木先生はそっと隣に来て、腕をつかんで後ろに連れていかれた。
「……先走りすぎよ」
「え?」
「ここは、違うから」
「どういうことですか?」
パチンという高音が鳴り、一瞬にして、 異空間のトンネルに切り替わった。
背景が全体的に純白に切り替わった。 カレンダーを見る暇もなく、病室で突然変わる。 今日は月曜日でもなかった気がした。虹色の輪っかに包まれて、場面が切り替わる。もう現実か夢か異次元空間なのかわからなくなってくる。 澄矢は、頭を抱えて、しゃがみこんだ。さっき見た景色は本当だったのか。もう命絶えた雫羽だったのではないだろうか。 現実かどうかさえもわからなくなる。
下を向くといつも行く河川敷の砂地があった。水切り用の石もころころと転がっている。今の心境は、石を探すの気力もない。精神的に落ちている気がした。
川のせせらぎさえも今は落ち着いて聞けない。 小鳥のさえずりさえも、受け入れられない。もう、雫羽に会えないんじゃないかと感じて気が落ちている。砂を踏みしめる音が聞こえてこないかと想像したが、もう無理だろうなと思った。すると、目が両手でふさがれた。風がふわっと流されてきた。
河川敷で喉が詰まる思いで、しゃがんでいると突然、目を覆いがぶされた。
「だーれだ!」
「やめろよ」
一気にテンションが落ちた。両眼を手で覆ったのは、高音の声だったが、雫羽ではなかった。期待していたが、違うことにかなりショックを覚える澄矢。
「なんだよぉ。雫羽の真似してみたのに、喜べよ」
「今の俺はそんな気分じゃねぇんだよ」
「け、よく言うよ。心配して、こうやって、河川敷に連れて来たのに……」
「は? お前が俺をここに連れて来たのか?」
首をかしげたのはクラスメイトの快翔だった。澄矢は、今いるこの場所がてっきり次元のゆがみだと感じていた。さっきまで雫羽の入院していた病院にいたはずだった。 風が吹きすさぶ。周りの草木が揺れて、小鳥たちが飛び立った。
「なに寝ぼけたこと言ってるんだよ。俺が、学校からお前の腕を引っ張って、気分転換にってここに連れて来たんだろ?雫羽が亡くなって落ち込んでいたから」
「え?!」
澄矢は気が動転していた。快翔の言ってることを理解できなかった。
「な、亡くなったって、いつ?」
「亡くなったって、知ってるだろ?教室にいられないって、授業も受けずにずっと屋上にいたじゃんか。さすがに放課後だから、ここの方がいいだろって……」
澄矢は顔を両手で覆った。さっきまでの空間は過去の話で、ここはきっと未来。まだ病院での話すら終わってない。なんでここに飛ばされたのだろう。スマホをズボンから取り出し、カレンダーをチェックした。5月X日三日月曜日 という文字が浮かぶ。 現実にはあり得ない文字が表示されている。
ここは夢、なのか。ということは、まだ雫羽は亡くなっていないはずだ。
「なぁ、快翔。今日って、三日月曜日だよな? みんな欠席してたか?」
「え?あ、ああ。そうだな。ほとんどのやつは休みだな。斎藤先生は来ていたみたいだけどさ。もう、テッパンなメンバーだなって笑ってたぞ」
「あ、そうか。そうなんだ。快翔……俺、学校戻るわ」
「は? 今から行くの? 部活も休みなのに? さっき斎藤先生と別れたばかりだぞ。それに校舎のかぎも閉まってるって」
「俺だけ行くから。先帰ってていいぞ」
「あ……おい」
快翔は手をのばしたが、もうすでに澄矢は、学校の方へ向かって走り出していた。 落ち込む様子など全然なかった。不思議な澄矢を見て、快翔はバックを背負いなおして、家路を歩いた。
道路も車ひとつ通らない。信号機も黄色で点滅している。まるでここだけ昼間だというのに真夜中の世界に来ているみたいだ。信号機の機械さえも休日ってことなんだなと感じる。
静かな町の道路。人っ子ひとりいない。いつも散歩していたご近所のおばあちゃんもルーティン化して毎日同じ時間に走り込みをするおじさんも、グランドゴルフだと楽しみに毎日楽しみしていたおじいさんも、だれも歩いていない。こんな世界があるのかと少し背中が寂しくなった。冬じゃないのに、鳥肌が立つ。半袖じゃなく、長袖のシャツにすればよかったと左腕をさわさわと触った。快翔は雫羽が亡くなったと言っていたが、ここは次元の違う世界。現実でも亡くなっている可能性はあるが、澄矢は、きっとこの空間のどこかにいるんじゃないと淡い期待をよせていた。勘がそうさせている。完全に快翔の言葉は信じていない。うす暗い学校の校門がすっかり閉まっている。ものものしい雰囲気だ。鍵を閉まってる状態に学校に来たことがない。いつもの部活帰りでもまだ校門が開いてる。とても静かだった。警備員が来るんじゃないかという不安が消えた。ここは異空間だと信じている。澄矢は、校門を飛び越えて、
校舎の中に吸い込まれるように中に入って行った。
空間のゆがみがある学校の奥に進んだ。人の気配がしない。
澄矢は、ゆっくりと足を運んだ。誰もいないとわかっていても、何かに誘われるように歩いた。カラスが飛んで、鳴いている。
真っ暗な校舎にいつもなら不気味さを感じて入りたくない。
引き寄せられるように1人で奥に入る。鍵が閉まっているはずの昇降口の端の扉が開いていた。鍵の閉め忘れだろうか。長く続く青い床の廊下をまっすぐと見た。
そちらに向かえと言われている気分だ。薄暗い奥に行くとそこは、屋上につながる階段があった。
さっきまで快翔と一緒にいたところだ。ぼんやりと電気がついている。
上を見上げると、屋上の出入り口が開いていた。ドアからひょこっと顔が見えた。手を振って、こちらを見ている。
「澄矢くん」
にこにこして元気のよさそうな雫羽だった。やっと会えた。やっぱり、ここの世界にいたんだと安心した。ゆっくりだった足を急いで、階段を駆け上がる。屋上の重いドアを開けた。
「やっと会えたね。久しぶり。元気だった」
いつも河川敷で見る白いワンピースじゃなく、学校の制服だった。初めての姿で新鮮だった。澄矢は頬を赤らめる。ワンピースよりもミニスカートで、白のふわふわなルーズソックスを履いていていかにも女子高校生だというような恰好だった。
「俺、雫羽の制服姿、初めて見るかも」
「そうだっけ。学校で会ったことなかったもんね」
「うん、今日が初めてか。学校で会うの」
「そう、初めて。ううん、初めてじゃないよ。会いたかったんだ。本当はずっと前から」
「え?」
「うん、知っていたよ。私、澄矢くん、ここの学校の生徒って。私のこと知らなかったでしょう」
「う、うん。ごめん、知らなくて……」
「無理もないよ。私、学校で目立たないし、静かに過ごしていたから。でも、私は澄矢くんのこと知ってた。教室から中庭を見てたんだよ。澄矢くん、環境委員だったでしょう。花壇の手入れの」
「あ、ああ。そうだね。あまり乗り気じゃなかったけど、じゃんけんで負けたから、決まったんだ。マリーゴールド植えてた」
「それも知ってる。可愛いよね、マリーゴールド。麦わら帽子かぶっているみたいで」
「あ、確かに。あれ? 雫羽もかぶってた」
「そう、気づくかなぁと思ってさ……」
雫羽は、背中に両手を組んで笑顔で振り向く。澄矢は、ベンチに座って、雫羽を眺めていた。
「え?」
「声かけたんだよ。知らなかったでしょう」
「うん、気づかなかった」
「消しゴム、教室から落としたのを拾ってくれたでしょう」
「あー、あの時の。なんで消しゴムなんか落とすだよって不思議に思ってた」
「話、したかったから。昼休み返上で頑張ってる澄矢くんを応援したいっていうのもあったし。慌てて投げてみた」
「消しゴム、投げるもんじゃないよな」
「ご、ごめんなさい」
ふぅとため息をつく澄矢は、当時のことを思い出す。花壇に水やり中に突然上から消しゴムが落ちてきて、頭に当たった。地味に痛かったのを覚えている。でも顔が思い出せない。雫羽の前髪が長かった気がする。
「でも、うれしかったな。女子と話したことなかったから。ちょっとだけ会話しただろ」
「うん」
「どうぞって言われて、ありがとうって終わった」
「すっごい普通だな」
「河川敷での澄矢くんと全然違う。めっちゃおしゃべり。なんでかな。学校でいるときの自分とほかの場所だと私もだけど、全然違う
んだよ。緊張してるのかな」
「そんなものだよ」
「でも、やっぱり学校でもっと会いたかった。制服デートしたかったな」
その言葉を発すると、目の前が一気に真っ白になった。時空が乱れた。
今の話じゃなく、過去の話をしただけで何か問題が起きたらしい。雫羽が画像が乱れたように崩れていく。ビデオが流れているようだ。雑音へと変化する。
眩しい光に耐えられなくなって、澄矢は目を思いっきりつぶった。
走馬灯のように記憶がぐるぐるとまわっていく。
心電図の音が個室病室に響く。
人口呼吸器を口につけた雫羽の顔はとても白く、少し微笑んでいた。
雫羽の母はベッドの隣ですすり泣き伏している。
それを静かに眺めている本物の澄矢は、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
隣のクラス担任の佐々木先生も眼鏡越しに涙を流している。
時間の進むのが遅かった。
この状態はどうすればいいんだろう。
「ー……ご臨終です」
担当医が雫羽の脈を手首でまた瞳孔をライトで確認して発した言葉だ。
時刻も言っていた気がするが覚えていない。
記憶しておきたくなかった。
抗がん剤治療に熱心に取り組んでいて、最期まで頑張っていたと担当医から説明された。そんなこと雫羽から聞いたことがない。こんなに瘦せていて、頭には治療による毛髪の抜け毛でそれを隠すために帽子をかぶっていた。本物の雫羽は、セミロングの黒髪ではなかったのだ。その姿を見ただけでわなわなと自分は本当に何もできなかったのか。医者でも看護師でもなかったが、何か寄り添えなかったのかと悔しい思いをした。
泣き切った雫羽の母が起き上がって、冷静になり、澄矢の前に近づいた。
「あなたが雫羽のお友達?」
「え、えっと、たぶんそうかもしれないですね」
曖昧な返事だったかその言葉を聴き終えずに雫羽の母は、澄矢に渡す。
「これ、雫羽が渡してって言ってたから。亡くなる直前まで必死に書いていたの」
真っ白い封筒に入った手紙だった。澄矢は、鼓動の高鳴りをおさえきれずに震える手で受け取った。ゆっくりと手紙を開いた。
『小早川澄矢 様 はじめて手紙を書きます。私は、1年2組の水城雫羽です。ある日の昼休みに環境委員会の花壇植えを教室からじっと眺めていました。あの時、澄矢くんと話しをしたくてわざと消しゴムを放り投げました。頭にぶつかっていましたね。ごめんなさい。ーーーーーー私は、話をしたかっただけなんです。声が聞けて本当にうれしかった。ありがとう。す………』
後半の字は体力が無かったのが文字が崩れていた。書ききれなかったのか。すの字が伸びきっている。すって何を言いたかったのだろう。文面を見ても河川敷の内容が一切書かれていない。あれは本当に夢だったのか。現実に近いような感覚だった。その文を見ただけで涙が出た。手が震えて、手紙が濡れた。封筒の裏には澄矢には気づかない。手紙の続きが書いてあった。
『澄矢くんが好きな雫羽より』
この文字に気づいた頃にはお葬式が滞りなく終わった後のことだった。
葬式の当日は、雨が大きな音を立てて降っていた。傘にあたる雨が何度もリズムを刻んでいた。火葬を終えて、外に出た頃に土砂降りの雨が東の空に虹が出ていた。心がすっきりした。浄化された気がする。
月曜日でもない。日曜日でもない。三日月曜日というのが本当にあったとしたら、また水城雫羽に会えたのだろうか。7.5日目のきみは爽やかで陽気できれいな姿をしていた。元気な姿をずっと見ていたかった。夢でも現実だったとしても、もっとあの時間を大事にすればよかったと後悔していた。
雫羽が亡くなってから1年の月日が流れた。
もう、月曜日になるたびに嫌がることはしなくなった。それはなぜか。部活のサッカーに夢中になり、高校2年になってからレギュラーに抜擢された。ポジションはFWだ。それだけではない。もしかしたら、日曜日と月曜日の間に、また夢の中で雫羽に会えるんじゃないかという淡い期待をよせる。カレンダーを確認することもなく、学校を行くという目標ができる。学校に着いたときに屋上のあの場所で雫羽の長い髪がなびくことを想像する。
まぁ、それは澄矢の妄想でしかない。お葬式にも出たから現実に水城雫羽が存在はしない。墓石にも骨しかない。肉体はこの世に存在していない。そんなことは知っている。実際に火葬もしたし、骨も拾わせてもらった。49日までに霊体は存在するというが、迷信でしかない。不意に、肩に変な風が吹いたこともあるが、ただの風だ。
雫羽とツーショットを撮ったことがない。写真さえもない。
夢の中でしか会っていない。証拠がない。
本当は雫羽の片想いが現実だ。両想いにはなっていない。
夢の中で会った雫羽を好きになったのだから。
それでも気持ちは通じている。
昼休み、快翔とともに屋上でお弁当を食べた。
今日のメニューは母の手作りのから揚げだ。
いつも冷凍食品なのに、今日だけは特別なんだぞと念をおされた。
食べないと母は、鬼の形相になりそうだ。
カザミドリがカタカタと回った。
澄み切った青い空を見る。
河川敷で見たあの時と同じ空をしていた。
今、雫羽は天国でどんな過ごし方をしているのだろう。
苦しまずに平和に過ごしているのだろうか。
もっと彼女に切実に会いたかったなと感じる。
「澄矢、あれ見てみろよ!」
快翔は、東の空を指さした。
雨上がりの空に虹の橋ができていた。
何だかいいことが起こりそうな予感がした。
「明日の試合は優勝だな、きっと」
「だな! 絶対だぞ」
2人は、グータッチをして、気合を入れた。
◇◇◇
それから部活も勉強も意気揚々と過ごした高校生活もあっという間に終わっていた。卒業式に雫羽がいなかったことが寂しかった。第二ボタンは彼女に渡すという習慣が今でも残っている。付き合おうなんて言ったこともないが、純粋に好きだった澄矢は、水城雫羽の墓石の前にお供えした。喜んでいるといいだけどなと思った。
市内の大学に入学して、カフェのアルバイトを始めた澄矢は、緊張していた。
「今日から働くことになりました小早川澄矢です。よろしくお願いします」
緑色のエプロンをつけて、スタッフの前で深くお辞儀をすると拍手が沸く。
「右に同じく、今日から働きます。月島快翔です。よろしくお願いします」
快翔も金魚のフンのようにくっついて、同じ大学、同じバイト先を選んだ。また拍手が沸く。
「2人の新人さん入りました。仕事を教えないといけませんので、それぞれに指導係をつけますので、よろしくお願いします。ね、えっと茉大さんと理人さんお任せしますね」
「げ、俺っすか」
「指導係頑張りますね!」
茶色にパーマをかけたウルフカットの菅原理人、澄矢の指導係になった。
「えっと小早川澄矢くんですね。初めてと聞きました。何かわからないことがあったら、すぐに聞いてくださいね」
澄矢は茉大の隣に移動して、ふと、かがんだ時に香った匂いが記憶を呼び起こす。
小柄でセミロングの茶色のポニーテールの髪型が目に映る。
ビデオ画面を見てるように映る景色にノイズが入る。
「雫羽?」
突然発した言葉を信じられなかった。
澄矢は恥ずかしくなって、ブンブン首を振った。
「ん? どうかしました?」
「いえ、何でもないです!!」
「こいつ、昔の彼女でも思い出してんじゃないですかね?」
「おい、お前はこっち向け。人の話聞けよ」
「あ、すいません。菅原先輩、よろしくお願いします」
このカフェのバイトから新しい出会いが始まった。
お店の掃除から丁寧に教わっていく。
日常的な生活が潤す予兆が始まった気がした。
「いらっしゃいませ。ご注文どうぞ」
「えっと、キャラメルマキアートのトールサイズでお願いします」
「はい、キャラメルマキアートトールサイズですね。ホットでよろしいでしょうか?」
「はい、ホットで」
茉大は、手際よく注文を承っていた。横で見ていた澄矢は、メモを取りながら、やり方を教わっていた。
「お支払いはいかがいたしますか?」
「ペイでお願いします」
「かしこまりました。それでは、QRコードを端末にかざしてくださいね」
「はーい」
シャリーンと音が鳴り、支払いが終了した。レジ画面には、注文したメニューと金額、支払い方法など表示されていた。茉大は、笑顔でてきぱきこなす。レシートをお客さんに渡して会計は終わった。
「「ありがとうございました」」
挨拶だけは一緒に同時に行った。
「澄矢くん、わからないことがあったら、すぐ言ってね。教えるのが大変になるから」
「はい。わかりました」
メモを書き終えて、ボールペンをノックしてポケットにしまった。今できる作業をこなしていく。少しかがんで、下の引き出しをのぞいていると、お客さんが途切れたころに、茉大は澄矢に声をかける。
「ねぇ、澄矢くん。私たちってどこかで会ったことあったかな?」
「……え?」
「すいません!」
お客さんに呼ばれて、すぐに茉大は、対応する。
澄矢は雫羽と名前を呼んでしまったからかと思案顔になった。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
澄矢は、横から茉大の営業スマイルをじっと見つめていた。どこからどう見ても、雫羽の顔にそっくりだった。どうして、ここまで全く違う感覚なのかと不思議で仕方ない。生まれ変わったのか。いや、年上だから、それはありえない。もう、ここにいる茉大が雫羽でいてほしいと感じてしまう。できることなら一緒にいたいという願望がよみがえる。頬を赤くして、仕事に黙々と取り組んだ。
お客さん対応を終えた茉大は、また澄矢に近づいて、小さな紙をエプロンのポケットに入れた。
「澄矢くん、もしね、嫌じゃなければ、そこに連絡先書いてるから。
都合のいい時、連絡ちょうだい。バイトの仕事のことで聞いてきてもいいよ」
「あ……」
「ごめん、迷惑だったかな?」
「いや、全然。すぐ、登録します。ありがとうございます。先輩」
「茉大でいいよぉ。先輩だと距離遠いじゃない。そこまで年齢遠くないし」
「マジっすか。何歳ですか?」
「えっと今年19歳」
「一つだけ上ですね」
「でしょう。一個違いならいいじゃん」
「はい。茉大さん」
「うん、それでいいよ。私は澄矢くんって呼ぶね」
「はい。大丈夫です」
澄矢は、もらったメモを見返して、筆跡を確認する。
雫羽が書く字にそっくりだった。 双子なのかもしれない。
「茉大さん、双子の姉妹っていますか?」
「え? 双子いないよぉ? 私ひとりっ子だし」
「そうなんですね」
「わがままだよ?」
「別に気にしませんよ」
「あ、本当。ありがとう」
にこにこと頬を赤くして笑顔になる。
胸がきゅんと締め付けられた。
ちょっとした会話で茉大の性格が見えた気がした。もっと彼女のことが知りたくなった。もしかしたら、雫羽なのかもしれないと変な期待を込めている。