今日は始業前にくーちゃんが紅白合戦を宣誓することもなく、つつがなく一日が終わった。

 強いて言うならば、弟切くんのファンクラブの子たちからの視線がいつもよりも何倍も鋭利だったが、とくに気にはならなかった。ただ少し、好きな人に好きな人がいると知ったら、この子たちはどんな反応を示すのだろうかとは思った。私が弟切くんの恋心を周りに言いふらすような真似はしないけれど、いつかはばれるだろう。
 あるものはあるのだから、目を逸らせはしない。 
 逃れられない事実をまえにした時、彼ら彼女らはファンをやめるのだろうか。それとも、恋をしている彼をまるごと好きなままでい続けるのだろうか。

 改めて弟切くんを観察してみるとわかる。この人はすごーく、くーちゃんを見ていた。授業中、黒板を見ながらくーちゃんを見ている。さりげなく、見ていないようなふりをして、しっかり見ていた。匠の技だとたたえたいぐらいだった。そして、そのくーちゃんは久々津くんを見ていた。思いきり横を向いて、授業中でもうつむき気味の彼を見つめていた。

 今までもこれからもちゃんと黒板を見ている身としては、ちゃんと授業を聞いて黒板の内容をノートに書き記そうよと言いたいところだけれど、そこまでして学ばなくてはいけないほど、彼ら彼女らは勉強に苦労していない。私くらいだ。この教室で必死に、授業にしがみついているのは。そして、この教室で起こっている視線トライアングル(未完成)に気づいているのも、私くらいだろう。

「おつかれ。今日は久々津とのデートだね」

 明日は終業式だけだから、席に座って学ぶのは今日が今期最後だった。それらがすべて終わったあと、弟切くんが話しかけてきた。

「おつかれさまー。そうだよ、デート。まさか二日連続でするとは思わなかった」
「しかも相手はあの久々津ときた。僕も最初に訊いた時はびっくりしたよ」
「そうだよね。どんな風になるのか、まったく予想がつかない」

 昨日のデートがあったからか、弟切くんとの距離感が近くなった気がする。たぶんファンクラブの子たちからの視線が鋭いのもそのせいだろう。以前からとなりの席のよしみとして話しかけてきてくれはしていたけれど、休み時間とかにここまで軽い感じで話すのは、私はくーちゃん以外にはいなかった。
 そのくーちゃんも、学級委員長として忙しい日々を送っているから、話す機会は少ない。

 弟切くんは、喋りながらも教科書の類いをスクールバッグに仕舞っていっていた。

「まあ悪い結果にはならないと思うよ。いい奴ではあるし」
「弟切くん、久々津くんと仲いいの?」 
「ちょっと話すくらいだよ。体育の時とかペアを組んでもらってるんだ。あいつも朽さんみたいに、僕に興味のない人間のひとりだからね」
「ああ、なるほど」

 妙に納得した。そういえば、なんで気づかなかったのだろうか。体育のペア決めなんてイベント。ファンクラブの子たちが見逃すわけがないのに、毎回目立った事件は起こっていない。それは毎回、弟切くんが久々津くんとペアを組んでいたからだ。流石のファンクラブの子たちも、もう埋まっている席を奪い合うような真似はしない。

 もうひとつ変わったことといえば、弟切くんがくーちゃんのことを「委員長」ではなく「朽さん」と呼ぶようになったこと。その変化に、あからさまに驚くような生徒はこのクラスにはいなかった。このまま順調にいけば、私が言った通りに、弟切くんがくーちゃんのことを「なな」と呼び捨てにする日がくるかもしれない。

「じゃあまた明日ね」
 
 と、弟切くんは私の返事を待たずに颯爽と教室を出ていった。ファンクラブの子たちが彼を囲む隙を与えない素早さだった。昨日私に自分の想いを吐露したからか、弟切くんは今日、隙を見てはくーちゃんに会いに行っていた。おそらく放課後も、くーちゃんを探しに行くのだろう。

「うん。また明日」

 心のなかで応援旗を振る私がいた。昨日悩んでいたことは、眠ったら猫と共に消えていた。

 さて、と。机の下から教科書一式を取り出したその時──

「さっちゃーん!!」

 弟切くんと入れ替わるように、くーちゃんが前方の扉から顔を出した。彼は後方の扉から右に曲がって行ってしまったから、完全にくーちゃんとすれ違っている……と、それよりも今はくーちゃんだ。
 ただごとではない雰囲気があった。

 泣いているからだ。

 驚くクラスメイトたちのあいだを縫うように走り、一回も机にも人にも当たらず、くーちゃんは私に飛び付いてきた。危うく後ろに倒れるところだったけれど、なんとか持ちこたえた私の体幹。この体幹が昨日もあれば、パレードを途中退場することもなかったのに。

「さっちゃん!!」

 私がべつのことを考えているのがわかったのか、くーちゃんは口角泡を飛ばすかのように叫ぶ。

「ど、どうしたの?」
「なぐさめてえ……」

 完全に泣きべそをかいている。眼鏡はちゃんと外していた。でも私のスカーフで涙を拭かないで?

 なぐさめろって言われてもどうしたらいいのかわからず、私はくーちゃんの背中をぽんぽんと叩くしかなかった。頭を撫でるのは、やり過ぎな気がした。
 二年前に少女漫画を読み終わって泣いた私をなぐさめてくれたのはくーちゃんだったけれど、彼女もその時はこんな気持ちだったのだろうか。なにもできない。やるせない気持ちに……。

「しくしく」

 床に叩きつけてやろうかと思った。

 口で「しくしく」と明らかな擬音を言うぐらいの余裕はあるのかよ。拍子抜けした。でも、あまり深刻そうな事態ではなさそうで、少し安心した。
 しばらく教室中の注目を集めたあと、私はとりあえず、自分の席にくーちゃんを座らせた。私は机に腰掛ける。行儀は悪いけれど、弟切くんやほかの人の椅子に座るわけにもいかないからこうするしかない。教科書をまとめて山にして、くーちゃんのしくしくとした涙が収まるのを待った。

 しくしく音がなくなると、くーちゃんは身体をひくつかせてうつむいていた。

「なにがあったの?」
「……嫌われちゃったのよ」
「誰に?」
「……久々津くん」

 私は目を見張った。いろいろな意味で、驚いた。

「とうとうやらかしたのね」
「『とうとう』ってなによ」

 不服そうに、くーちゃんは肩をいからせた。
 
「くーちゃんの狂信っぷりは飽きるほど知ってるからだよ」
「……それなのよ」
「うん? どれ?」

 くーちゃんの感情はころころと変わっていく。さっきまで怒っていたのに、今はしょんぼりしていた。机の上に人差し指を置いて、いじいじと指紋を机に刷り込むかのような動作をしている。

「『あんたの狂信っぷりにはもう飽き飽きだ。うざい』って言われちゃったの」
「いつ?」
「さっき」
「久々津くんって授業が終わってからずっと教室にいたよね?」

 私は久々津くんのほうを見る。授業中とまったく変わらないせいで、本当は石像なんじゃないかと思ってしまうような背中がそこにあった。おそらく今も、せっせとお裁縫をしているのだろう。視線をくーちゃんに戻す。彼女は、久々津くんのほうを見ようとしなかった。

「授業が終わってすぐ、久々津くんのほうから私に近づいてきてくれて、なんだろうなあって思ってたら、さっきの言葉を言われて、なにかの聞き間違いだと思ったから、私、一回お手洗いに行ったのよ。それで、鏡を見て自分と話してたんだけれど、どう考えても確かに言われたことで、この私が久々津くんの言葉を聞き間違えるわけがなくて、一言一句正確に記憶してたのよ。眼鏡を取っても変わらない事実だったの。そうしたら、涙が出てきちゃって」

 くーちゃんは赤い目を再び涙で満たした。ティッシュをあげると素直に受け取り、畳んでから片目ずつ当てていく。白いティッシュはあっという間に灰色になった。限りのない灰色が、くーちゃんの周りに広がる。
 まさか久々津くんが、そうも明確にくーちゃんを拒絶するとは思わなかった。一年生の頃から積み上がってきてしまったものが、この選挙騒動で崩れてしまったのだろうか。最初から、ノリ気じゃないのは私でもわかった。
 
 うざい。

 とは、強い言葉だ。でも私は、久々津くんのほうに共感してしまう。

 だよね、と思う。

 今日一日中見ててわかったことだけれど、くーちゃんは授業中だったとしても、熱心な視線を送り続けていた。弟切くんのように、こっそりと視界の端で好きな人を捉えているわけではない。
 ばっちり。まっすぐ。ずっと。
 見ているほうはしあわせの時間なのかもしれないけれど、見られているほうにとってはただのストレスだ。芸能人でもないのに常に見られ続けて、神さまと言われるのは壮絶な違和感を覚えるだろう。そう思うと、ファンクラブまでできていてその人たちとそれとなくうまくやっている弟切くんが、すごい人なのだと気づく。

 久々津くんはくーちゃんに「うざい」と言う権利があると思う。
 誰かを拒否する権利は、誰にだってある。 

 といったようなことを、少しかいつまんで話すと、くーちゃんは得心がいったかのようにうなずいた。

「そうよね」

 鼻をすんと鳴らしながら、何度もうなずいていた。

「私、ちょっと調子のってたわ」
「仕方ないんじゃないの? それが愛ってものでしょう?」
「愛ね。さっちゃんも言うじゃないの」

『愛』は、昨日覚えた言葉だ。くーちゃんが久々津くんに向けている感情は、愛。最終判断をするのは当人同士だけれど、私は彼女から彼に流れる感情に『愛』と名付けた。
 愛は恋よりも難しい。ゆえに、衝突が多い──と思う。でもしょせん、全部想像だ。

「でも、これからどうしましょう」

 最近は先陣切って引っ張ることが多かった学級委員長も、学級委員直であるまえにひとりの人間だ。間違うこともあれば、迷うこともある。私がそういう時──というか今、彼女の役に立てるかはわからないけれど、やれることはする。それは選択肢を増やすことだ。

 飽きられてうざがられても狂信し続けるか。
 こじれたものを直してもとの日々に戻るか。 
 それとも、このまま完全に関係を切ってしまうか。

 でも今は。

「どうしようもないんじゃないかな。明日はもう終業式だし」
「そうなのよね……」
「せっかくチャットでつながってるんだし、夏休みのあいだに連絡とってみたら?」
「返事、くれるかしら」
 
 いつにもなく、くーちゃんは弱気だった。
 
「自分の非がわかってるなら、まずは謝らないとね」
「私の、非……」

 うつむいてティッシュを眺めているくーちゃんは、ここでないどこかをみているようだった。それからおもむろに顔を上げて、久々津くんを見た。
 
「用事があるのを忘れてたわ」
 
 くーちゃんはひとりごち、立ち上がった。
 
「じゃ、ささっと終わらせちゃいな」

 私はくーちゃんの背中を叩いて、押した。

 ▽

 小声で話しているらしく、久々津くんとの会話は聞き取れない。ただ、くーちゃんが苦しそうな表情をしていることと、久々津くんが心底めんどうくさそうにしているのはわかった。教室はまだ話し声やらなにやらで騒がしいのに、くーちゃんと久々津くんがいる教壇の周りだけは隔離された神聖な世界ようで、レースのカーテンに包まれているような気がした。傾き始めた太陽が教室に充満している埃を照らし、彼女の表情を隠す。

 プリーツスカートがシワになってしまうくらいに、くーちゃんは拳を握り締めていた。そしてそのままの状態で、私の方向へ帰ってくる。
 私は両手を広げて、彼女を受け入れた。泣いてはいなかった。

「私のさっちゃんが、あなたでよかったわ」
 
 くーちゃんは弱々しい呼吸と共に言った。それは事故で落ちてしまった言葉のようだった。私は脳の記録に残さないように、心の記憶に仕舞った。

 私も常々、思っているよ。くーちゃんがあなたでよかった。って。
 
 たとえ同級生に狂信的な感情を向けていたって、あの時少女漫画をこわがっていた私に笑いながらもこうやって抱きしめてくれたのは、まぎれもない朽奈々という人間だ。それは、偽造できない記録で変えられない記憶だ。

 クラスメイトたちは、何事かと私たちを見ていた。監視カメラのような視界をシャットアウトするように、私は視線を窓の外に向ける。

 くーちゃんの背中に回していた右手を、彼女の後頭部に持っていった。編み込みされている髪型を崩さないように、そーっと触れる。今のくーちゃんは、この世にあるなにものよりもほぐれやすく、こわれやすい。私にできるのは、ただ、彼女の気が済むまで抱きしめることだけだ。
 決して、ほぐさぬように。
 決して、こわさぬように。

「さっちゃん」
  
 身体が離れていく。私の前には、目の周りをほのかに赤く腫らした、ひとりの人間がいた。彼女が自分の眼鏡をかけると腫れは気配を消して、学級委員長らしい姿をしたくーちゃんが現れる。
 
「ありがとうね」

 くーちゃんは肩をつんと上げて、笑った。

「ほら、さっちゃん。これから久々津くんとデートでしょう? 楽しんでね。あ、でも。安易に触れたらゆるさないから」
「私はどんなものでも慎重にことを進めていくから、そこは安心していいよ」
「慎重に……? 昨日つまずいて転けたって訊いたのだけれど。それのどこが慎重なのかしら」
「誰に訊いた?」
「弟切くんに決まっているでしょっ」

 満面の笑みを浮かべて、くーちゃんは逃げるように私と距離を取った。互いにアリクイの威嚇みたいになりながらの膠着状態が何秒か続いて、ふいに笑いがこみ上げてくる。

「ふふふっ」
「あっはは」

 今はもう、周りのことなんてどうでもよくて、私たちは笑いあった。

「じゃあ今度こそ。ごきげんよう」

 スカートをつまんで、くーちゃんは膝を曲げた。

「ごきげんよう。また明日ね」
「あははっ。また明日〜」

 憑き物が落ちたかのように笑いながら手を振って、くーちゃんは自分の席に戻っていく。その間、久々津くんのほうは一度も見なかった。そしてそのまま素早く荷物をまとめてリュックサックを背負い、教室から出ていった。 
 
 私も素早く身支度を終わらせる。くーちゃんと話し込んでいたせいで、だいぶ放課後の時間がなくなってしまった。スクールバッグに荷物をすべて入れて、ファスナーを閉める。ずれた机を整えてから、久々津くんに声をかけようとした。──のだけれど、なんと言えばいいのかわからず、私は彼の席の近くで固まる。弟切くんの時は彼のほうからメッセージをくれたりと色々リードしてくれたけれど、久々津くんとのトーク画面には最初に私が送った『よろしく。』のメッセージと彼が付けた既読のマークしかない。
 しばらく逡巡してから、私は言う。

「……ねえ。一緒に帰ろうよ」

 帰ってきたのは、完全なる無言だった。
 久々津くんの手元を見ると、昨日はなにものかわからなかった逆さまの雪だるまが、ねこに変化していることに気づいた。いつの間にか耳や手足がついて、ひとつのぬいぐるみができあがったようだ。昨日からずっと、このねこを作っていたのだろうか。しかも、ただの真っ白なねこではなくて、頭に王冠を付けて赤いマントまで羽織っていた。だから、ねこのおうさまにみえる。

「かわいい」

 思わず、声が出た。

「ちょっと待ってて」

 久々津くんは、自分の机の横にかけてある自分のリュックサックに教科書の類いを仕舞っていく。ねこのおうさま(仮)は裁縫箱の中に窮屈そうに収納されていった。
 私は両手に持ったスクールバッグを握り締めながら、待つ。

 さっきくーちゃんに言われた言葉が、頭のなかで再生された。

 ──安易に触れたらゆるさないから。
 
 肩に触れるな、よりも制限が緩和された気もするけれど、そもそも身体に触れていいのかどうか本人による。弟切くんはそのあたりゆるくて、それこそ安易に手を繋いできたりしてきたけれど、久々津くんはそういうタイプにはみえない。まあ私も、べたべた触りあうのは性に合わないほうだし、お互いのためにも三十センチ定規でもそれぞれ両肩に付けとけておいたほうが良いだろうか。そうでもしないと、肩にすら触れないようにするのは不可能だ。

 今だって、リュックサックの中身をなにやら熱心に覗き込んでいる久々津くんの気をこちらに向かせるために、私が肩を叩くという選択肢は存在する。それには、下心なんてなにもない。
「ねえ、だいじょうぶ?」といったような、ただの確認だ。だから、私は彼の肩を叩こうとした。シワひとつないセーラー服に指が触れようとした時、久々津くんが予備動作もなく立ち上がった。椅子が後ろの机にぶつかる。私の指の側面が彼の背中にかすり、空中で止まった。
 行こうか、の一言もなく、久々津くんは椅子を机の下に押し込んで、リュックサックを背負って教室から出ていってしまった。

「え。ちょ、ちょっと待ってよ」

 私は慌てて彼を追いかける。でも意外とすぐに追いつけた。久々津くんは、エレベーターの前でボタンを押したまま立っている。彼は下に向かうことを示すボタンを連打していた。

「早く乗ってくんない?」
「わ、わかった。ごめん」

 うながされるがままに、私はエレベーターに乗り込んだ。
 つい反射で謝ってつい乗り込んでしまったけれど、エレベーターの使用は基本的に校則で禁止されている。車椅子の生徒など、身体的に階段を使用できない理由がある生徒はオーケーだけれど、私や久々津くんのような生徒はアウトだ。教師は知らない。おじいちゃん先生が使っているくらいだから使用条件は生徒と同じなのだろう。でも、実際に確かめたことなんてなかった。

 久々津くんはそんなこと気にしていないのか、なに食わぬ顔で閉じるボタンを連打している。多く押せば早く動くわけでもないのに、意外とせっかちなのだろうか。

「久々津くん、エレベーターは使っちゃ駄目じゃなかったっけ」
「あ。まあでも、教師が納得できる理由があれば乗っていいんだよ」

 その顔は、掟の抜け道をみつけたいたずら小僧の表情だった。
 
「その理由はなに?」
「一日中針仕事してて指が疲れた」
「全然関係ないじゃん」

 見つからなきゃいいんだよ、と呟いて、久々津くんは一階のボタンを押した。今度は連打しなかった。たった一回押しただけで、エレベーターが動く。けれど、なにかがひっかかっているのか、エレベーターは急ブレーキをし続ける車みたいにつんのめった動きをしていた。酔いそうだった。

 正方形の対角にいるとはいえ、今こうして久々津くんとふたりきりで狭い密室にいることをくーちゃんに知られれば、二重の規則違反を理由に刺されかねない。彼の言うとおり、見つからなければ平穏無事に終わるけれど、一階に着いて扉が開かれた瞬間誰かと会ってばったり、なんてこともある。
 その時に、一日中針仕事していて指が疲れたから、なんていう理由が通るとは思えない。それに私には、そんなこじつけに近い理由すら持ち合わせていなかった。ただの元気なひとりの生徒だ。学力以外で進学が危ぶまれる。今まで生真面目に校則に則って得ていた内申点が……、なくなる。

 そんなことを考えていると、エレベーターが止まった。もう一階に着いたのかと思えば、上部にある液晶には『2』の文字が表示されていた。私は、誰が乗り込んでくるのかと身構える。けれど、扉が開く気配はなかった。
 扉は開かず、エレベーターは動いていない。あのひっかかりを、今は感じない。

「え。もしかして、止まった?」

 最近はさらによく止まると訊いてはいたけれど、まさか自分が利用している時に止まるとは思わなかった。いや、まあ、そもそも私がエレベーターを使うのは校則違反だから、罰が当たったのかもしれない。なにも考えずにノリで乗り込んだ結果。動かず開かない鉄の箱に閉じ込められた……?

「ど、どうしよう……」

 私の頭のなかは一瞬で真っ白になった。

「管理センターとかに問い合わせるんだっけ? 電話マークのボタンを連打すれば繋がるんだっけ? っていうかこれ説教ルート確定……」
「ルート確定とか、オタクみたいなこと言ってんじゃねえよ」
「べつになに言ったって勝手でしょ。オタク用語じゃないし」
「完全にオタク用語。ラノベの題名とかに使われてるじゃん」
「そういうので判断するのは危険だよ。後ろから刺されるよ」
「今刺されそうになってるのは早蕨のほうでしょ」
「はあ?」
「肩に触れるのも禁止なんじゃなかったっけ?」

 言われて、はじめて気づいた。慌て過ぎて、気づかなかった。

 今私は、久々津くんの肩を掴んでいる。『開く』のボタンをカチカチカチと一心不乱に押し続けている久々津くんを見ていると、彼がここではないどこかへ行ってしまうような気がして、不安が募って、無意識のうちに引き留めたくなってしまったのだ。久々津くんの肩をわしづかみにしている手を急いで離す。引き留めるもなにも、閉じ込められているのだからどこにも行けないというのに、私はなにをやっているのだろう。

「ごめんなさい。あ、痕とかなってない?」
 
 戦々恐々、私は尋ねた。肩に触れた上に傷もつけたら、私は本当にくーちゃんに刺される。

「そんなやわい身体してないし、へーき」
「あっそ、か」

 肩のちからが抜ける。スクールバッグを落とすところだった。私は一歩二歩と後ろへ下がる。久々津くんに触れないようにするためだ。再び、彼とは対角の位置に立った。
 慌てるとろくなことが起きないのはわかっているのに、どうにも、私はすぐに我を失いがちだ。もっと冷静でいなくては……。

「ったく。これだから」

 久々津くんは額をおさえていた。

 これだから──キマジメは。とでも、言いたいのだろうか。でもこれはもう直らない私の癖で、直そうとも思っていない。私からキマジメを取ったら、入試合格がもっと危ぶまれる。今は無断でエレベーターを使用し、あまつさえ停止させたことでもっともっと危うい状態になった。
 キマジメさだけが、取り柄なのに。

「なあ」

 久々津くんがボタンを押しながら言った。リュックサックに覆われたくーちゃんくらいの小さな背中が、いつもよりも大きく頼もしくみえる。エレベーターに閉じ込められるというイベントが、私の心を弱くさせているのだろうか。

「なんでそんな角にいんの? めり込みそうじゃん」
「触れないようにするにはこうするしかないかな、と思って」
「そんなに委員長のことが怖いのかよ」

 久々津くんは振り返り、おもしろいものを見たといった風に笑った。小さく口角が上がっただけだけれど、確かに「ふふっ」と笑い声が聞こえた。普段から仏頂面な人が笑った姿を目撃すると、胸にくるものがある。
 これはまたくーちゃんに刺されそうだ。私は何回、刺されるのだろう。それにしても、怖い? 私が、くーちゃんのことをおそれている?
 
「どうだろう……喧嘩で負けたことはあるけど、怖いって思ったことはないよ。突飛な思いつきに振り回されることはあっても、基本的には常識人だし」
「あ。互いに頬骨を折ったっていう喧嘩のこと?」
「聞いてたんだ」
「同じ部屋にいたんだから、聞こえるだろ」

 その時、ドンッ、と。
 久々津くんが、エレベーターのボタンの下にある部分を蹴った。するとエレベーターがガタゴトと揺れだした。

「なにしたの?」
「叩けば直るんだよ」
「ブラウン管テレビじゃあるまいし。蹴っちゃいけないでしょ」

 私が呆れていていると、久々津くんはもっと呆れているような表情をしていた。

「これ、不具合じゃなくてただのいたずらだから」
「いたずらって、誰がやったの」

 尋ねた瞬間、動き出したエレベーターの扉が開いた。一階に着いたんだ。幸いにも、エレベーターの前には誰もいなかった。

「早く出ろよ」
「ちょっとは落ち着かせてよ」
「エレベーターに乗ってるところ、誰かに見られていいのかよ」

 それはまずい。

 私は急いでエレベーターから出た。辺りを見渡して誰もいないのを確認してから、ほっと息を吐く。エレベーターはその口を閉ざして、再び誰かを乗せるために上昇していった。この場にいるのもまずいと思った私は、薄暗い廊下を歩いて校舎の外に出る。たった数分間の閉じ込めだったのに、何日間も自由を失った気がして、私は思い切り息を吸って、吐いた。

 深呼吸しているあいだ、てっきり久々津くんはどこかで待っていてくれているのだと勝手に思っていたのだけれど、見渡す限り彼の姿はなく、私はひとり、ぽつんと立ち尽くす。

 エレベーターの停止についてなにか知っていそうな感じがしたから訊きたいことがあったのだけれど、いないのならば仕方がない。次の機会に。訊けそうだったらチャットで訊いてみよう。教室や廊下で訊いたら、必然的に私たちがエレベーターに乗ったことが露見してしまう。
 
 正門の辺りでぼーっとしていると、松葉杖を持った生徒が歩いてきて、私を追い越した。おそらく、さっき上へ昇っていったエレベーターに乗って降りてきたのだろう。私たちが乗ったことで、この人は上階で負傷した足を松葉杖で支えたまま、しばらく待たなくてはいけなかった事実を目の当たりにして、私は、なんてことをしてしまったのだろうかと、後悔した。次からはどんなに急かされようとも学校のエレベーターには乗り込まないぞと意気込み、私は帰路へつこうとした。 

「あれ?」

 いつも通り学校の最寄り駅へ向かっている道中──ちょうど真ん中あたりまで歩いてきた頃──私は気づいた。

「私、久々津くんとデートするんじゃなかったっけ……」

 そんな私の呟きに答えてくれる人はどこにもいなかった。急に立ち止まり考え込む私を邪魔に思う人はいても、そんな私を心配するような人はいなかった。
 カラスの大群がカアカア鳴きながら、私の頭上を滑るように飛んでいく。夕陽はもう半分以上顔を隠していた。
 道端で途方に暮れた私に手を差し伸べてきてくれたのは、親切な通行人でも頭上を飛ぶカラスでもなく、携帯電話のバイブレーターだった。久々津くんとのトーク画面に、位置情報が送られてきていた。

 ここに来い。

 ということらしい。
 気を取り直して、私は目的地まで歩いた。
 
 ちょっと。いやだいぶ雑というか。心が休まらない合流の仕方だった。待ち合わせ場所は、駅直結のショッピングモール。そこはうちの学校の生徒も放課後に寄る場所で、私自身も何度かくーちゃんと遊びに来たことがある。でも行ったことはあるとはいえ、巨大なショッピングモールの中からひとりの人間を探すなんてことは困難だった。大まかな場所がわかっていても、細かい場所まではチャットに書かれていない。何度携帯電話を見ても、久々津くんがショッピングモールのどのエリアのどの場所にいるのか、わからない。

 私は再び、途方に暮れた。

 ぐう、とお腹が空く。自然と足はフードコートへ向かっていた。でもそれが、功をなした。

 久々津來くんはフードコートにいた。
 さまざまな匂いが充満するフードコートエリアに着いた途端、私は久々津くんを見つけることができた。彼がとても目立っていたからだ。一瞬人違いかと思ったけれど、あの薄めの金色とふわふわした髪は、確かに久々津くんだった。私はすっかり迷子の気分だったので、早歩きで彼に近づく。
 私の足音に気づいたのか、久々津くんはおもむろに顔を上げた。

「あ。遅かったな」

 久々津くんをまとう雰囲気が、学校で会った時とは異なっていた。

「遅れちゃってごめんなさい。でもくわしい合流場所がわからなかったんだよ」
「なら連絡しろってば」
 
 その手はすっかり忘れていた。

「忘れてたのかよ。間抜けだな」

 雰囲気は異なっていても、久々津くんは久々津くんだった。つばでも吐き出すかのように言いやがった。

 久々津くんはフードコートの角にある席にひとりで座っていて、テーブルにはご飯が乗ったトレーではなく裁縫箱や布、綿が入った袋を広げていた。だからか、周りの視線が痛い。まあこの視線は本来、四人席をひとりで占拠している久々津くんに向けられたものだ。けれど、その席に近づき周りから『連れ』として認識されていた私にも流れ弾が飛んできた。
 今、後ろを通った人に舌打ちをされた。
 心のなかで舌打ちを打ち返す。流石に、見ず知らずの人に突っかかるほど私も子供じゃない。でも、むかつきはする。

 そんなことよりも。私としては混み合う時間帯において席の長時間占拠は見逃せない。合流できたし、さっさとほかの場所へ行ってしまおう。

「それで、どこに行くの?」

 私は席に座らず、傍らに立ったままで、久々津くんの行動を待った。今回のデートプランも弟切くん同様、すべて候補者側に委ねられている。私は親鳥についていく雛のようにしていればいいんだ。

「どこってここだけど?」

 久々津くんは私を見ずに、手に持っていた針を針山に刺した。それからテーブルを指さす。もう片方の手には絆創膏が貼ってあって、あのねこのおうさま(仮)がいた。

 後ろのほうで注文の品ができあがったことを知らせる端末が鳴り始め、それに驚いたのか、子供の大きな泣き声も一緒に聞こえてくる。人々の話し声が、一段と大きくなった。

「ここ?」
「そう、ここ。突っ立ってないで座れば? あ。四人席をふたりで使うのはマナー違反、とか思ってんなら、それは杞憂だって教えてやるよ。どんなに混んでたって、ここには誰も座らない」

 じゃあ、どんなに混んでても座らない席に座っている久々津くんはどういう人間なのだろう。いろいろとひっかかることはあるけれど、四人席にふたりで座るよりも通路にずっと立っている私のほうが周りの迷惑であることは明白だった。
 久々津くんの正面に、私は座る。そこしか空いていなかった。彼の両側にはそれぞれ、リュックサックと革製っぽい大きなトランクが置かれていた。

 目的地は、ここ。
 目的地は、ここ?
 
 何度反芻しても、最終的には疑問符がうかんでくる。比べちゃいけないのだろうけれど、弟切くんとの遊園地デートとはだいぶ差があるというか、ジェットコースターに乗った気分というか……。こういうのも、投票に反映させなくてはいけないのだろうか。いや、比べちゃいけないのではなくて、私は比べないといけないのだ。
 選挙とは、そういうもの。最後の一票を預かる者として、厳密に審査しなくてはいけない。

 スクールバッグを膝の上に置いて、私は久々津くんを見る。

 久々津くんが目立っていた要因は、その髪色ひとつではなかった。学校からそのままの格好(セーラーの制服にスクールバック)で来た私と違い、彼は胸元がふりふりした白いブラウスに黒いショートパンツ。黒いソックスガーターに白いソックス。そして黒いローファーと、全身をモノクロで染めたものだった。彩度がないのに、きらびやかな格好だった。

 放課後デートというくらいだからてっきり制服で執り行われるのだと思っていた私が間違っているみたいに、久々津くんの衣服はちゃんとしていた。私と並んでいるとただの『連れ』というよりかは、主人と従者みたいだ。私が従者で久々津くんが主人。
 ジャンクフードに興味を示したお坊ちゃんが従者と共にハンバーガーを食べに来た──みたいな。そんなドラマのワンシーンが脳内で再生される。

「エレベーター出てすぐにいなくなったのって、着替えるため?」
「そうだよ。デートに制服はないだろ」
「いやそれ私の前で言う? ばりばり制服なんだけど」
「あくまでも『俺は』制服でデートしたくないってだけ。勝負だからな」
「ふーん。そんなに勝ちたいんだ。意外」
 
 そう言うと、久々津くんは露骨に顔をしかめた。意外と思ったのは私の本心だ。くーちゃんの思いつきに彼はいつだって不満げで、迷惑そうにしていた。今回だってそれは同様だったはず……。

 なに言ってんだこいつ、とでも言いたげな久々津くんは頭を振って、
「その服なんだって思ってるだろ」
 と話を変えた。
 
「まあね。高そうで汚れそうだし」

 ジャンクフードを食べるにしろ食べないにしろ、放課後出掛けるために着る服というよりかは、パーティーとかそういう高級そうなところに行くための服にみえた。
 
「これが俺の普段着なの。それと、べつに高くはない」
「普通の服屋さんには売ってなさそうだけど……」
「売ってないだろうね。これは俺が作ったんだからさ」
「え。そうなの?」
「嘘なんて吐かねえよ」

 裁縫が得意だとは知っていたけれど、まさか一から服を作れるとは思わなかった。まさか、去年の文化祭の時の衣装も、久々津くんの手作りだったのだろうか。てっきり、どこかのお店で買ってきたものだとばかり思っていたけれど……、いやいや。流石に、十何着も短時間で手作りするのは不可能だ。
 それに、系統が違う気がする。久々津くんが着ている服とあの時の文化祭での服は、ジャンルが違う。
 
 子供の泣き声が小さくなり始めた頃、久々津くんは再び、ねこのおうさま(仮)に針を通していた。その作業の邪魔をするのは憚れるのだけれど、どうしても訊きたいことがふたつあった。
 
「あの、訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「実は、ふたつもあるんだけど」
「だからなに」

 針を針山に戻し、ジト目になりながら言った久々津くん。このままだと答えてくれるものにも答えてくれなくなると思い、私は思いきって言う。

「なんで、この席には誰も座らないの?」
「んだよそんなことか。簡単単純。ここは電波が弱いんだよ。ほら、そこに張り紙があるだろ」

 久々津くんが指さした方向を見ると確かにそこには、真っ白な人のような形をしたものが、汗をかきながらお辞儀をしているポスターが貼ってあった。
 本当に、簡単で単純な理由だった。
 携帯電話を見てみると、アンテナは半分になっていた。メッセージを送り合うくらいだったら影響はないだろうけれど、動画を観たりするのは大変そうだ。現代人にとって手放せないものは、もしかしたら携帯電話よりも電波なのかもしれない。

「ふたつめは?」

 久々津くんが急かすように言った。実際、早く済ませたいのだろう。ねこのおうさま(仮)を握る手にちからは入っていないけれど、空いている右手の指はテーブルの上にある布を忙しなく叩いていた。

「エレベーターが止まった理由を、久々津くんは知ってるの?」
「…………」

 小声でなにかを呟いた久々津くん。この距離でも、くちびるが動いたということしかわからなかった。
 
 再び、後ろが騒がしくなる。今度は誰かがうどんかおそばをこぼしたらしい。「拭くもの! 拭くもの!」という慌てた声や、「お怪我はありませんか」という冷静な声が聞こえてきた。フードコートは、いつ来ても混沌としている。老若男女さまざまな人々が集まる場所だから仕方がないのだろうけれど、その混沌は、少し、苦手だった。
 
 久々津くんがひとつ息を吐いた。エレベーターが止まった理由を、話してくれるらしい。
 
「エレンのせいなんだよ」
「エレン?」

 整備の人の名前だろうか。

「エレベーターにいるやつだから『エレン』。本名は知らねえ」
「え? ん? 『エレベーターにいるやつ』? は?」
 
 話に、暗雲が立ち込めてきた気がする。

「そういう反応が普通だよな。でも本当にあのエレベーターにはツいてるらしい」
「ツいてるって、幽霊がツいているとかの、『憑いている』?」
「そうだよ」
「うっそだあ」
「嘘は吐かねえよ──まあ俺も、実際にそいつをみたわけじゃない。卒業した先輩から、エレベーターが止まった時の対処法を聞かされてて、試してみたらあたってたってだけだ」

 幽霊どうこうよりも、久々津くんに親しくしてる先輩がいたという事実のほうに驚きを隠せない。その先輩は、みえる人だったりするのだろうか。

「その聞いた対処法っていうのが、蹴ることだったの?」
「いいや。エレンは構ってちゃんだから、こっちが知っていることを知らせればいたずらはやめるんだとさ」
「ああ。だから久々津くんは、ボタンを連打したり蹴ったりしたんだね」
「連打は関係ねえよ」

 なんだ。ただせっかちなだけだったのか。

「へえ……、そんなことがあるんだ。びっくり」
「信じるんだな」

 ぽつり、と。一瞬ひとりごとかと思ったその言葉は、しっかりと私の耳に届いた。

「幽霊だのなんだのって、そう簡単には信じないだろ」
「いや。神さまが言うなら本当なのかなって、妙に納得しちゃって」
「早蕨まで俺を神さま扱いすんじゃねえよ。もうただの人間だっつーの」

 弱々しく口角を上げる久々津くん。
 しまった、と思った頃にはもう遅くて、私は口を開けたまま固まるしかなかった。

 忘れたわけではなかった。

 くーちゃんが久々津くんという『神さま』に拒絶されてから、まだ一時間も経っていない。あの場はとりあえず収まったけれど、彼が『神さま』という単語に敏感になっているのは、部外者の私でも予想できることだった。
 
 久々津くんはくーちゃんの『神さま』だった。もう、過去の話だ。たとえ私が今日、久々津くんに触れてくーちゃんに刺されたとしても、それは久々津くんがくーちゃんにとっての『神さま』だからではない理由で刺されるのだと、知っていたはずだ。彼と彼女のあいだをつなぐ感情がなんというのか今は曖昧なままで、それはやっぱり『愛』に変わりはないのだけれど、ほかの名前が付くのかは誰にもわからない。

 私が固まっていると、久々津くんは作業を再開させた。いつもみたいに手元に視線を落としている彼の姿を、真正面から見るのははじめてだった。久々津くんは無表情だけれど、絡まり過ぎたこの世の摂理をすべて忘れたかのような表情をしている。忘れたがっている、といったほうが近いのかもしれない。今はただ、自分の手の中に存在する小さな世界にだけ集中したい──そんな意思が伝わってきた。

 すべて、私の妄想だけれど。

「怒ってねえの」

 ふいに、久々津くんが言った。下向きの言葉は聞き取りにくかったけれど、叱られている子供みたいな声だった。

「なにを」
 
 本当に心当たりがない私は尋ねる。

「なにを、私が怒るの?」

 なにかを誤魔化すようにテーブル上の布をかき集め始めた久々津くん。しばらく見守り、待っていると、布で彩られていたテーブルがひとつの裁縫箱とねこのおうさま(仮)以外なくなって、クリーム色の、シミがあるただのテーブルになっていった。そして裁縫箱すらテーブルの上からなくなり、すべてが茶色いトランクに仕舞われると、久々津くんは口を開いた。
 
「俺が、委員長に『うざい』って言ったこと」
「ああそのことね」

 なんだそのことか、とは思った。傍から見れば、くーちゃんと私の関係はさぞ親密に見えるだろうし(教室で人目もはばからずに抱き合うくらいには仲が良いと思われている)、それによる、『傷ついた友だちのためにその子の友だちが怒る』という現象を、久々津くんは予想していたのだろう。けれど実際、私たちのあいだには片方のためにもう片方が怒るなんてことはない。

「わるいのは、久々津くんの気持ちを慮らなかったくーちゃんのほうでしょ」
「そういうもんなのか? おまえたち同士の友情って」
「友情がなんなのかは私にはわかんないよ。くーちゃんとはべつに、友だちってわけじゃないし」
「……じゃあなんなんだよ。早蕨と委員長の関係って」
 
 久々津くんは、突然無理難題を押しつけられたかのような表情をしていた。そんな彼の疑問に、私はすぐ答えられる。そんなものは最初から決まっているからだ。

「『さっちゃんとくーちゃん』だよ」
「んだよ、それ」

 ふふっ、と久々津くんが笑った。張り詰めていたものが、少しはゆるくなったみたいだ。
 私──早蕨計と朽奈々は『さっちゃんとくーちゃん』という関係で、それ以上でもそれ以下でもない。だから、そう言うしかない。

「あーあ。びびってた俺がばかみたいじゃん」
「びびってたの?」
「そりゃあね。人を拒絶するって大変なんだよ」
「心労お察しします」
「なんか腹減ってきた。食うか」

 その時、私のお腹が鳴った。フードコートに響きわたる、どんななき声よりも大きい音。一気に体温が上がっていくのを感じた。

「ライトにいく? それともハード?」
 
 久々津くんが笑いを抑えているのが、はっきりとわかった。けれどそれに突っかかることもできずに、私はうつむく。
 
「夜ご飯が食べれなくなっちゃうから、軽めで」
「だとするとここならデザート系か……。ちっさいドーナツぐらいなら奢るぞ」
「それでおねがいします」
「じゃあ待ってろ」

「はい……」と、我ながらとても弱々しく返事した私は、火照った頬を室内のクーラーのちからでどうにか冷まそうと、顔を手であおぐ。時間が自然と流れていくことを忘れてしまうくらいに、脳は熱されていた。

 ▽
 
 カツカツといった、上品そうな音が聞こえて顔を上げてみれば、それぞれ違うチョコレートがかかったドーナツを両手に持った久々津くんがいた。

「ホワイトとブラック、どっちがいい?」
「ブラック」

 私は、とくに考えもせずに即答した。

「よかった。俺、ブラックチョコ食べれないんだよ」
「じゃあなぜそのふたつを選んだの?」
「安いやつはこのふたつしかなかったんだよ」

 くちびるを尖らせながら、久々津くんはブラックチョコレートがかかったドーナツを私に手渡してきた。

 桃色と白色のストライプに包まれたドーナツは、冷えてぼそぼそしていた。チョコレートだけが、本領発揮と言わんばかりにそのほのかな苦みを主張させていて、温度差で白くなった部分すら武器にしているようだった。

「食い終わったらちょっと付き合えよ」
「どっか買い物にでも行くの?」
「いや。そういうわけじゃねえ」

 手に付いたホワイトチョコレートをなめながら、久々津くんは言った。

「ここ、本当はヤなんだろ」

 最後の一口を思わず喉に詰まらせそうになった。胸を叩いて、どうにか胃の中に落とす。

「な、なんでわかったの?」
 
 ドーナツに水分を取られてぱさぱさになった口内をそのままに、私は言った。

「なんとなくだよ」

 久々津くんは荷物を持って、歩いて行ってしまった。
 どこかのお坊ちゃんみたいな服装にリュックサックは似合わなかったけれど、茶色いトランクは特注品なんじゃないかと思うくらいに、とても似合っていた。まさか、トランクもお手製? そんな『まさか』を考えながら、私は敏捷な久々津くんの後を追った。

 少し歩き、振り向いてみる。トレーを持って辺りを見渡している人は何組もいるというのに、私たちが座った席は空いたままで、まるでそこにだけ結界が張られているかのようだった。誰も座らないという四人席に、電波が弱い以外の理由がありそうだと思うのは、勘ぐり過ぎだろうか。

「なにしてんだよ。行くぞ」
「ああ、うん……」

 エレベーターから降りる時にはなかった「行くぞ」という言葉が、頭のなかで反響する。手を繋がれたわけでもないのに、私の身体は、久々津くんのほうへぐいと引っ張られた。みえない糸でつながれているよう──と表現すると、まるで私が迷子紐をくくりつけられた幼子か、リードを付けられた動物みたいな感じになるけれど、実際そんな感じで、私は久々津くんの後ろを必死についていった。
 歩くのが、異様に早いのだ。小走りしないとあっという間においていかれる。

「ちょ、ちょっと待って」

 胃の中にある、まだ消化しきれていないドーナツが踊って、私は思わず柱に手をつく。これ以上動いたら、胃酸が逆流してきそうだった。しかも、昨日傷つけた膝が痛んできた。

「もう少しだよ。気張れ」
「気張れっつったって、歩くのが速いんだよ。久々津くん」
「あ。まじか」

 久々津くんが戻ってきた。改めて見ると、本当に、中学生の放課後デートの格好ではない。私のほうが間違いで、不釣り合いだ。今すぐにでも服屋さんに飛び込んで、彼と並んでも違和感のない格好に着替えたほうがいいだろうか。

「いや。これは俺がすきでやってることだから」
「……口にでてた?」
「うん。言っとくけど、服っていうのは相手に合わせるものじゃなくて自分に合わせるものだからな。あとTPO」
「含蓄のあるお言葉をありがとう。普段着って、迷うよね」
「早蕨は、下手にごてごてするくらいならシンプルなもののほうが似合うと思う。素材がいいし」
「参考にさせてもらうよ」

 少し話をしていたら、胃の中も膝の痛みも落ち着いてきた。ちゃんと両足で立って、床に落としていたスクールバッグを拾い上げる。スクールバッグも私同様、くったりとしていた。

「さっきもう少しって言ってたけれど、目的地があるの?」
「あ。まあな。たぶん、気に入ると思う」
「ふーん。楽しみにしといてあげるよ」
「なんで上から目線なんだよ」

 苦笑しながら、久々津くんは先を行った。その足はゆっくりで、私は早歩きしなくても彼のとなりに並んで歩くことができた。
 くーちゃんと同じくらいの背丈。視界の端には、久々津くんのつむじが見える。薄い金色をなんというのかはわからないけれど、そういえば、焼く前のドーナツに似ているなと思った。私の髪は一回も染めたことのない自分でも自慢の黒髪だから、たとえるならブラックチョコレートだろう。そうなると、私の髪は久々津くんの苦手なものだということになる。その事実に、少し、胃の上の辺りがぐっとなった。私の胃は、ドーナツの消化にまだ手間取っているのだろうか。ドーナツは、軽食ではなかった?

「ついたぞ」

 前を向くと、そこはバルコニーだった。人っ子ひとりいない少々寂れた空間。ベンチの類いもない。ただただコンクリートの床が広がって、錆びた鉄パイプの柵があるだけの場所。けれど、確かに、気に入った。
 私のすきな場所だ。混沌がない世界が、そこにはあった。

「ここ、立ち入り禁止区域とかじゃないよね?」
「流石の俺もそこまでやんちゃしねえよ」

 ほとんど黒に染まった空には星があった。腕時計を見ると、もう二十時を回っていた。遊園地の時よりもデートの時間が長いことに気づく。でも今回もちゃんと、家族には帰りが遅くなる旨を伝えてある。それに、ここは駅直結だから帰ろうと思ったらすぐに電車に乗り込める。私の自宅がある駅は、この駅からたったの二駅だ。

「そういえば、久々津くんってこの街に住んでるんだよね」

 だから、一旦着替えに帰るなんていうことができた。

「そうだよ。ちょうど、あの辺」

 久々津くんは柵に寄りかかり腕を伸ばした。

「いいなあ。学校と家が近いのって、寝坊しても平気だ」
「たった三年間だけ距離が近くても得じゃねえだろ」
「そっか。そういうもんか。私たちもう三年生だし、久々津くんが寝坊できるのも今のうちだね」
「俺、寝坊なんてしたことねえし。来年からは時間なんてないようなもんだ」
「そんなに自由な校風の高校にいくの?」
「高校にはいかねえよ」

 強い風が吹いて、久々津くんの髪が荒ぶった。私は彼の横に並んで、横顔を覗き込む。冗談を言っている表情ではなかった。

「なんでって、訊いても平気?」
「へーき」
「なんで?」
「俺の家、雑貨屋なんだ。継ぐんだよ」
「じゃあもしかして、お裁縫してるのって」
「そのための修行。まあ、俺なりの受験勉強だな。将来的には俺が作ったやつも店に出すんだ」

 久々津くんの表情は今日一番輝いてた。風が彼の前髪を巻き上げて、顔の輪郭をはっきりと私に見せつけてくる。
 授業中も熱心にしていた針仕事は、本当に『お仕事』だったんだ。私が入試のためにノートを黒く染めていたように、久々津くんもまた、将来のために針に糸を通していた。急に仲間を見つけた気分になった私は、頭のなかにうかぶいろいろな疑問を整理するのに精一杯で、柵の手すりを握り締めていた。錆びて剥がれてひっくり返った鉄が、手のひらに刺さる。

「ちなみにこれ、誰にも言ってない。早蕨にだけ言った」
「なんで?」
「早蕨は勉強がまったくできないうえに真面目過ぎる。で有名だからな。言いふらすようなことはしないだろうし」

 面白がっているように笑う久々津くん。
 
 ん? ちょっと待って。

「え!? わ、私が勉強できないってみんな知ってたの!?」
「逆になんで知られてねえと思ってたんだよ」
「だってうちの学校、成績の順位とか発表されないし……」
「早蕨のテストを覗き見ることは一組の誰にだってできるだろ」

 私は頭を抱えた。手にくっついていた鉄の粉が顔に降りかかる。久々津くんは、ふふふと笑っていた。
 
「そうへこむなよ。ほかのクラスには早蕨よりも成績の低い奴がいるって」
「いやでも私だけじゃん。一組で入試合格が危ういのって」
「一組では、な」
「そこがあれなんだよ」
「なんなんだよ。煮え切らねえな」

 煮え切るわけがなかった。今まで──ばれていたとはいえ──ずっと言えなかった。優秀なクラスメイトには誰にも。くーちゃんにだって、言ったことはない。自分の学力が低いことや、それをコンプレックスに思っていることを、告白したことはない。
 お腹の奥に溜め込んで、消化も吸収もされなくて、こぶになった想い。今それが、暴れ出している。言え。言ってしまえ。頭のなかで声が響く。言っても楽になるわけじゃないのに、私の口は開き、舌がまわる。
 
「……高校って普通、浪人しないけど、私の学力って浪人しないといけないくらいのものなんだよ。希望の高校は、とおい世界なんだ」

 久々津くんはなにも言わない。たぶん、「知ってる」と思っているのだろう。私のテストを覗き見た生徒がいて、その生徒が私の成績を言いふらしていたのならば、点数だって知っているはずだ。どの高校に進学するのかも、知られていそうだ。だとすると、身の程知らずで無謀な願いを抱えていると知っていながらもみんな、私のことを『キマジメ』と呼んでいたのだろうか。
 なにそれ。はずかしい。

「もう、ね。ふあん、なんだよ」

 久々津くんはなにも言わない。どんな表情をしているのかもわからない。私が現実から目を逸らしているからだ。

「みんなみたいな余裕なんてないから、今回だって選挙だなんだって騒げなかった。そんなことしてたら成績がもっと落ちちゃうから。でもさ。みんなが楽しんでいる状況に私一個人の事情で水を差すなんて、そんなの、サイテーじゃん」

 私のどこが、『キマジメ』なのだろうか。
 真面目に勉強しても身にはならず、誠実さなんて毛ほどもなくて、なんにもない。
 今回の選挙だってそうだ。本当の生真面目ならちゃんとした理由を持ってふたりのうちどちらかを責任持って選ぶ。それなのに私は、ただの休息としか認識していなかった。
 わかっていなかった。
 休息を努力しない理由にして受験勉強から逃げている──いや。逃げきれていない。足すら動かせなくて、ただ目を逸らし続けているだけだ。視界の端には『受験』の文字がしっかりと刻印されている。

「確かに、サイテーかもな」

 久々津くんが言った。

「自分がなにかから逃げきれなかった理由を、ただ周りに流されたからだって言うのは、サイテーかもな」

 久々津くんは淡々と言った。

「でも、どっちもそんな大層なもんじゃねえよ」
「……え?」
「選挙って言ってもただの遊びだ。いつもの委員長の思いつきだ。早蕨にとってはただの休息でいいんだよ。普段から、手ぇ真っ黒にしてんだからさ」
「でも、みんなは真面目に選んだんでしょ? 弟切くんと久々津くん。恋愛するならどっちって」
「どうだろうなあ。存外テキトーなんじゃねえの」
「でも、それは選挙として駄目なんじゃ……」
「そんなだから早蕨はキマジメなんて呼び名がつくんだよ」

 すべてを吹き飛ばすかのように、久々津くんは快活に笑っていた。今日一番の輝きが更新される。

「逃げろ。早蕨」

 一変、真剣な表情に変わった。バルコニーの入り口から差し込む白い室内灯の明かりが、久々津くんの横顔を照らしている。

「真面目であることは美徳かもしれねえ。けど、それで自分の首を絞めちゃあ元も子もねえだろ。んで、受験は確かに大切だ。みんなだって、本当に余裕綽々ってわけでもねえだろうよ。だから『恋愛するならどっち』なんていう選挙が始まったんだ。現実から逃げたいんだよ、みんな。でさ。俺は思うんだけど、落ちたって網はあるんだ」
「……滑り込み合格ってこと?」
「違う。危険を冒してまで普遍的なルートを辿らなくても、人生なんとかなるってことだ」
「ならないよ。なってたら、みんな高校なんていかないでしょ」
「そりゃあな。なんせ『網』だからな。歩くのが大変なんだよ」

 久々津くんは空を見上げた。彼は視線の先に、みえない星を捉えているようだった。

「でも、早蕨なら歩けるさ」

 背中をばしっと、叩かれた気がした。それは完全に錯覚だ。だって、久々津くんと私の距離は、そんなに近くない。
 上を向いて、首元をぱたぱたさせる。風が暑さを軽減してくれていたはずなのに、私の身体は妙にあつかった。

「落ちたらうちに店員として雇ってやるから、資金面は安泰だな」
「笑えない冗談はやめてよ。私はしっかり、ちゃんと、高校に進学するんだから」
「真面目だなあ」
「……それが、取り柄ですから」

 真面目に勉強して、地道に努力すれば、手の届かない世界でも、触れることくらいならできるかもしれない。と、私は得意げに言った。
 
「俺に投票する気になった?」

 …………そうだった。これは人生相談ではなくて、選挙のためのデートなのだった。それにしても、久々津くんは意外にも露骨に選挙の話をしてくる。そんなに勝ちたいのだろうか。本当に意外だ。いや。もしかしたら、楽しみたいのかもしれない。
 受験をしなくても、彼には実家のお店を継ぐという将来が決まっている。

『恋愛するならどっち』

 なんていう『あそび』に参加できる時間は、久々津くんには今しかないんだ。誰にも知らせないまま、彼は普遍的な世界から姿を消す。久々津くんが歩む人生が網の上なのかどうかはわからないけれど、今私ができるのは、目の前のことに真剣に、生真面目に取り組むことだけだ。
 ただ、それだけだ。
 
「どうだろうね。今のところ優勢なのは……」

 私は時間をたっぷり使って、

「ひ・み・つ!」

 笑った。さっきの久々津くんの笑顔に負けないくらいに、思い切り笑った。

「んだよ、それ」
 久々津くんは呆れ顔だった。
「じゃ、もうちょい好感度を稼いでおくか」

 ほいこれ、と久々津くんは茶色いトランクを少し開けて、なにかを取り出した。それは、王冠を被り赤いマントを羽織ったねこのおうさま(仮)だった。

「なあに。これ」
「御守りだよ。商品名は『ねこのおうさま』」
「まんまじゃないの」
「うるせーよ。──マントの裏、見てみ」

 言われた通りにめくってみると、そこには『ラッカヨウ ノ アミ ハ ツクッテ アル』というカクカクした文章が縫い込まれていた。

「これって」
「落下用の網は作ってある──ってことだ。やるよ。そこらへんの御守りよりも効果あるから」
「でもこれ、落ちる決定じゃないの」

 ねこのおうさまの(仮)は取れたが、私の不安は募った。まるで落ちることを望まれているみたいだ。

「誰も合格祈願の御守りだとは言ってねえだろ。これは万が一の時に効果を発揮するもんなんだよ」
「じゃあ久々津くんは、私の合格を祈ってくれてるの?」
「当たり前だろ。俺、そんなに性格悪くみえてんのか?」
「おもに口調からの印象だね」

 けっ、と。久々津くんは首をすくめた。

 空は完全に真っ黒で、ブラックチョコレートよりも濃くて青い色に染まっていて、アラザンのような星々が輝いていた。風はひんやりと冷たくて、それは空がこの場所に雨を降らそうとする前兆だった。

「雨の匂いがする」

 久々津くんが鼻をひくつかせた。

「風も冷たいし、一雨来るかもね」
「……そろそろ、解散するか」
「うん」

 改札まで送る、と久々津くんはわざわざ駅構内までついてきてくれた。道中のショッピングモールには家族連れや仕事帰りの人々が増えていて、雑踏はその熱を増していた。人の波に押されて私の足が止まっても、久々津くんが先に行ってしまうなんてことはなく、腕をひっぱって人混みの中からすくいあげてくれた。
 
「これも好感度稼ぎ?」
 と問えば、
「違う。ただのシンセツシンだ」
 と明らかに言い慣れていない言葉を発していた。

「わかってねえと思うけど!」

 改札を通ったあと、久々津くんが叫んだ。

「俺も、くーちゃんだからな」

 どういう意味、と尋ねる隙も与えてくれずに、久々津くんは踵を返した。彼が言った言葉の真意は、この一瞬ではどう頭をひねってもわからなかった。少しのもやもやを抱えながら、私はひとり電車に乗り込む。

 改めて『恋愛するならどっち』という問題を考えた。恋も愛もわからない私にとっては、どんな過去問よりも難しい。恋のほうは、つい昨日恋をしている人と一緒の時間を過ごしたことで、少しだけその色を身をもって知った。それは愛も同様だった。それらがひどくきれいなことも、知った。

 自分に一切の興味を示さないくーちゃんに恋をしてる弟切くん。
 久々津くんという神さまを失いながらも彼を愛するくーちゃん。 

 私が今この瞬間感じたものは、昨日や今日知ったそれらのどれでも──恋でも愛でも違うような気がした。

 スクールバッグのなかにある『ねこのおうさま』は、無表情のままだろう。あれは、裁縫をしている時の久々津くんと同じかおだ。

「……答え、わかっちゃったかもな」

 思わず出てきた言葉は、極めて不真面目なものだった。
 またひとつ、『誰にも言っていないこと』が増えてしまったな、と思った。帰宅ラッシュでぎゅうぎゅう詰めの電車内。私はスクールバックを胸の前に抱えて、扉にある窓の外を見ていた。たったの二駅のあいだにできることは少ないけれど、それでも私はここでの時間がすきだ。

 今日は単語帳も参考書も広げられないから、入口付近の角にぴったり肩を当てて、ぼーっとするしかない。いつもなら、たったの十分でも勉強に費やすというのに、今日の私はそれどころではなかった。

 わかってしまった答え。

 不真面目にも、なんの確証もなく呟いた言葉は人と人にぶつかってなくなった。最初から言っていなかったみたいになった。でも私は、ちゃんと言った。小さくても聞き取れなくても、言ったことに間違いなかった。

 今日の久々津くんとのデート。評価するならば『良』だ。弟切くんよりも、低い。それは、初手の待ち合わせ方で決まった。たまたまフードコートで再会できたからよかったものの、あのままだったらなにもできずに放課後が終わっていた。そう言うと、久々津くんからは「連絡すればいいだけだろ」と言われそうな気もするけれど──実際そうだけれど──そうじゃない。
 勝手にいなくなったのは久々津くんのほうだ。エレベータに強制的に乗らされたと思ったら、降りた次の瞬間にはいなくなってた相手に『優』はあげられない。私が久々津くんの立場だったら、絶対に連絡する。でも、立場を変えたところでどうしようもならないのが、『恋愛』なのだろう。言ってもしょうがないことだとは、わかっている。それにそんなことが気にならなくなるくらいに、彼は私にいろいろなものをくれた。でも『良』だ。

 いろんな言葉をくれても、それが私にどんな影響を与えたとしても、これは『恋愛』とは違うから、選挙とは関係ないと考えるべきだろう。今日は『恋愛』を、微塵も感じなかった。

 あれだけ重いと感じていた『誰にも言っていないこと』を、私は久々津くんに与えてしまった。学力の劣等感を。受験への不安を。将来への不安を、話した。それは、実はみんな知っていたことだったけれど、『私が自分から言った』という事実が重要なんだ。私に『誰にも言っていないこと』を言った弟切くんやくーちゃんの気持ちが、少しわかったかもしれない。
『誰にも言っていないこと』が『あの人だけには言ったこと』になると、自分のなかにあった重さがなくなる。なくなったと感じるのは、その重いものが外へ出て相手の胸の上に香箱座りしているからだろうけれど……、はっきり言おう。

 楽になる。

 弟切くんもくーちゃんも久々津くんも、楽になれたのかな。もしなれていたら、私の胸の上に乗っかっているものも、受け入れられる。助けになっているならば、いい。そう思える。

 そう思えるくらいの人たちだったことに、はじめて気づいた。

 友だちという言葉が適しているのかはわからない。けれど、ただのクラスメイトではないことは明らかだった。今は、胸の重みが苦じゃない。スクールバッグと共に、潰れないように抱えているこれを、私は大切にしたいと思う。

『誰にも言っていないこと』を受けとる。それは『誰にも言ってはいけないこと』になって、重さとなる。私はそれを受け入れよう。抱きしめよう。そして、もしそれらが『誰にも言ってはいけないこと』ではなくなった時は、そーっと離して自由にしてあげよう。みんなのもとへいってらっしゃい、と言って背中を押してあげよう。

 ……そう考えると、私から『誰にも言っていないこと』を引きずり出した久々津くんのほうに軍配が上がりそうな気もするけれど、それとこれとは──『恋愛するならどっち』とは関係ないから、やっぱり別の問題だ。

 窓にいくつもの斜線が描かれていく。雨が降り始めたようだ。窓に映った私の顔や、横にいる人の後ろ姿に斜線が走る。とくに後ろ姿のほうは、黒いスーツがストライプ模様になったみたいで、真面目な雰囲気が一気にお茶目になった。思わず、頬がゆるんだ。スクールバッグを顔に持ってきて口元を隠す。
 だいぶ考えていたら、てっきりもう駅かと思ったけれど、実際はなんのアナウンスもなく、車内にいる皆が線路にある隙間の衝撃で揺れていた。

『俺も、くーちゃんだからな』

 久々津くんの声が再生された。最初はなんのことを言っているのかわからなかったけれど、ちょっと考えれば簡単にわかった。
 私が『くーちゃん』と呼ぶのは、彼女が朽奈々だからだ。つまり──

『くちるなな』の、“く”
 同じ法則で、
『くぐつらい』の、“く”

 両方『くーちゃん』だ。

 でも、だからなんだというのだろうか。ここまではわかったけれど、それ以上はわからなかった。
 久々津くんは『くーちゃん』って感じではない。どう呼ぶのかと問われれば、『らいくん』って感じだ。『らいくん』っていう顔をしている。
 くーちゃんは『くーちゃん』だったから、くーちゃんと呼んでいる。

 なんか、だんだんと『くーちゃん』がゲシュタルト崩壊してきた。『く』と『ー』と『ち』と『ゃ』と『ん』がばらばらになって、新たな文字を形成し始めている気がする。ぐるぐると転がって、曲がって、知らない文字になっている。
 これを考えるのは、私の頭のためにもやめよう。くーちゃんはくーちゃんだし、久々津くんは久々津くんだ。あまり考え過ぎると、今日の受験勉強に支障が出てしまう。

 窓に打ち付ける雨はどんどん強くなっていった。斜線はもはや横線のようで、五線譜がいくつも描かれているかのようだった。しかしその五線譜は、電車の速度が落ちると共に崩れ落ちる。
 一つ目の駅に着いたのだ。一度外に出て降りる人たちの、拘束から解放された清々しそうな表情を眺める。ぼーっとし過ぎて危うく戻りそこねそうになったけれど、ぎりぎり乗車することができた。次の駅で、私は降りなければならない。再び扉が閉じて、私の顔が反射している。冷房の効いた車内は涼しいはずなのに、人だらけなせいか、私の顔は赤くなっていた。
 
『逃げろ。早蕨』

 まただ。また、久々津くんの声がする。耳元で囁かれているみたいだ。身長的に、彼が私の耳に囁くには台座を使うか私がしゃがまなければならないから、これは幻だ。みえない久々津くんが、私のすぐとなりにいて、ないしょ話をするかのように話しかけてくる。

 久々津くんが言った通り、私が選挙から逃げきれなかった理由を、ただ周りに流されたからだって言うのはサイテーだ。でも彼は、どっちもそんな大層なものではないとも言った。
 大層じゃない。意外とみんな、テキトーにやっている。真面目であることは、確かに美徳だと思っていた。唯一、私が誇れるところだった。ほめられるべきだとは思っていないけれど、人として望ましい姿であると信じている。でもそれで、私は自分の首を絞めてしまっていた。久々津くんの言う通り、それでは元も子もない。

 私ばかり躍起になっていると思い込んでいた『受験』も、私がみえていなかっただけで、みんなも突き当たっている壁なんだ。余裕綽々なわけじゃない。切羽詰まっている。何度再生し直しても、教室においてのみんなの行動は受験生のそれではなかったけれど、逆の見方をすれば、切羽詰まり過ぎているからこその行動だったのかもしれない。
 壁にぶつかり過ぎて、その壁を嫌いになる前にすきになろうとしているような、そんな感覚なのかもしれない。『恋愛するならどっち』なんていう選挙が始まったのも、壁を有効活用しようとした結果なのかもしれない。
 私にとって選挙が休息だったように、みんなにとっても選挙は休息だったかもしれない。
 全部『かもしれない』だ。

 私には、三年一組というクラスがわからない。
 みんながどんな場所を歩いているか知らないし、みんなの前にどんな壁がいくつあるのかも知らない。現実を押し退けて逃げたいくらいにきらいなのか、現実を抱きしめたいくらいにだいすきなのか、わからない。彼ら彼女らが歩く道の下に網があるのかさえも、わかりようがない。しょせん、自分の道しかみえないから。その自分の道すら、行ってみないとわからないんだ。

 私なら歩けると言ってくれたその『網』の道。私が歩けるのならばみんなだって歩けると思うのに、久々津くんの口振りからはそういう雰囲気は感じられなかった。

 なぜだろう、と考える。

 私たちがもう少し子供だったら、『網』はただの遊具だ。歩くなと言われても進んで歩きそうなものだけれど、中学一年生になってしまった私たちには、難しいのかもしれない。不安定なところでの身体の使い方なんて、もう忘れてしまった。網の上で遊ぶのは難しく、歩くのはおろか立つことすら精一杯だ。その地面は不安定で、危なっかしい。昔はあれほど、無邪気に飛び跳ねていたというのに。今では膝が震える。──私が子供だって言われているのか? それはちょっと心外だ。大人びていると言われる回数のほうが多いというのに。

 電車が傾き、となりに立つ人と肩がぶつかる。私の身長がもう少し低ければ埋もれてしまう状況だった。でも中学で急速に伸びた背はそれを回避してくれた。息は簡単にできる。高校生に間違えられてバイトの勧誘を受けたぐらいだ。正直いって、セーラー服が似合わない身長になっている。うちの学校のセーラーはかわいいデザインをしている。だからこそ、私には似合わない。一年生の時は、まだ見ていられる姿だったと思う。

 そう思うと、三年間でだいぶ変わった。

 一年生のはじめの頃は、くーちゃんが久々津くんを『神さま』だといって狂信的になるとは思っていなかったし、それが原因で選挙が始まるとは思いもしなかった。そして、最後の一票を自分が投じることになるとも、思わなかった。先生に呼び出されることもなかった三年間。今回の選挙騒動では、一組全員がお説教をされそうだ。

 受験シーズンに『あそび』をしているのは一組ぐらいで、ほかのクラスはちゃんと受験生をしている。担任や普段から関わりのある教師からはもうあきらめの色がみえているが、今回ばかりは見逃せないだろう。下手したら、事件の発端になりかねない。それを賢いみんなならわかっているだろうし、くーちゃんからもその辺りのことは訊かされている。でも、そんなつもりはなかった、ということもある。一組に影響はなくても、選挙のことを知ったほかのクラスに影響を及ぼす可能性は大いにある。
 ああ、頭が痛くなってきた。

『そんなだから早蕨はキマジメなんて呼び名がつくんだよ』
 
 またまた、久々津くんの声だ。今日はおかしいな。昨日はこんなこと、なかったのに。耳に小さい記憶再生機でも付いているのだろうか。

 そういえば、キマジメと呼ばれ始めたのはいつからだっけ。
 いつの間にかキマジメになっていて、それが正しいと納得していた。不満なんてなかったし、それが悪意からきているものではないと知っていたから、否定もしなかった。生真面目であることを肯定してくれたみたいで、うれしかったと思っていたくらいだ。でも、キマジメという私が、キマジメではない時の私自身をがんじがらめにしていた事実はある。
 キマジメであろうとすればするほど、私は生真面目から遠くなる気がしたから、私はキマジメなままそれを意識しないようにしてきた。わざとらしくならないように、さも当たり前のことをやっているかのように、日々を過ごしてきた。
 黒板に書かれたことや、授業内で発せられた教師の言葉はちゃんとノートに書き写して、休み時間には予習復習。部活には入っていなかったけれど、その分掃除当番の代わりをしたり、教師の手伝いをしたり、文化祭などでのイベントは率先的に動いた。

 今思えば、わらっちゃうくらいにわざとらしいキマジメだっただろう。当たり前を自ら進んで作っていた。それが自然なわけがない。一組のみんなに私の成績のことがばれたのも必然だったんだ。こうもわかりやすい奴、少なくともクラスのなかにはいない。私ぐらいだ。『まじめ』を見せつけるように『き』ているのは。

 込み上げてくる笑いをスクールバッグで押し戻す。周りにいる数名が私の異変に気づいたのか、横目で見ては皆、ふしぎそうな顔をしていた。

 アナウンスが流れる。大雨のせいでダイヤが乱れているらしい。でも、自宅の最寄り駅には定刻通り着きそうだった。徐行し始めた電車。急にかかったブレーキのせいで、車内の人々が斜めになる。窓に貼りついた斜めの雨の跡を、同じ目線で見ようと試みているような格好だった。そんな格好もすぐにもとに戻り、電車は駅のホームに入っていく。

 ちゃんと降りなきゃ。
 と思ってホームに足を置いた瞬間、落とし物に気づいた。さっきまであった、投票の答えを落としてしまった。後ろを振り返っても、もう電車の扉は閉まっていて、戻ることはできない。なにかを忘れた時は、その時の行動を再現するといいとどこかで訊いたことがあったけれど、今回ばかりは、その手は使えない。もうその時間は過ぎ去ってしまった。

 どちらに投票するかの答え。理由のあるちゃんとした答えがさっきまであった場所に、手を当てる。そのなかには臓器が入っているけれど、今は、なんにもないがらんどうだった。

 なくなってしまったものにいつまでも手を伸ばし続けるのは不格好かもしれない。でも、それは確かにぴったりとはまった答えだった。それなのに、なぜなくなってしまったのだろうか。
 考えていればまた違う答えが──もっとぴったりとはまる答えが見つかるだろうか。

「とにかく、帰ろう」

 私はからっぽになってしまった頭にいろいろなものを再び詰め込んだまま歩き出した。いつまでも突っ立っているのは、たとえ端にいたとしても邪魔でしかない。

 頭のなかにあるいろいろなものは、あとでちゃんと整理すればいい。

 駅舎を出ると、雨はさっきよりも強くなっていた。スクールバッグから折り畳み傘を引き抜き、開く。しばらく使っていなかった折り畳み傘は、布の部分がぱりぱりと鳴っていた。これで足りるだろうか、と思いながら、私は肩を小さくさせて歩き出した。
 ようやく肩にかけられると思ったスクールバッグは、再び胸の前でおちついた。

 自室の机の上で待っているであろう過去問集に思いを馳せながら、私は歩みを早めた。傘から出ないように小さな歩幅で歩いているものだから、せかせか歩く姿は傍からみれば、なにかの小動物に見えるかもしれない。まあ私の図体は明らかに大きいから、その可能性はないか。

 くーちゃんからの電話は、今日もある。久々津くんとのデートの評価は訊かないと言っていたけれど、たぶん、デートの内容は根掘り葉掘り訊かれるのだろう。となると私は、明日どちらに投票するかを、悟られないようにしなくてはいけない。まだちゃんとした答えはでていないけれど、でももうでているようなものだ。話の流れで、私が気づかないうちにうっかり核心を話してしまうかもしれない。それでなくしたものを、思い出せたらいいのだけれど。

 痛む頭を押さえながら私は、スクールバッグのなかで教科書に潰されていたねこのおうさまを外に出した。それから、小さな折り畳み傘の中に入れて、一緒に歩いて帰った。
 ねこのおうさまが、くるしゅうない、と言った気がした。
 教室のなかは静寂に包まれていた。
 話し声。笑い声。ゲーム。動画。拍手。
 そんな音は一切ない。静寂を邪魔しないように、みんな息をひそめていた。もう授業はすべて終わり、生徒たちは夏休みという甘美な時間に飛び込むのを必死に抑えながら、一瞬では終わらない『今』に耐えている。

 そんな私たちは中学三年生。つまり、受験生。

 本当は『夏休みという甘美』なんていっていられない。学校説明会に行ったり等、忙しくて忙しくてたまらない期間に突入するだけの話だ。しかし、この教室にいるほとんどは忙しさとは別の世界にいて、私が知る『忙しさ』とは違うものに、背中を押され続けている。
 文字と数字ががんじがらめになった檻のなかに放り込まれて、必死にその絡まった糸をほぐし、すべてを明らかにする。くーちゃんは教室の真ん中に座り、投票箱に手を突っ込んでいた。そして一枚ずつ投票用紙を取り出している。宝石でも扱うかのように丁寧に、ぺら、ぺら、ぺらと投票用紙をすべて外に出した。最後に、本当に一枚も残っていないかを確かめるために、投票箱をひっくり返す。出てきたのは埃だけだった。

「十五票対十六票で弟切くんの勝利です」

 ごとん、とくーちゃんの手から投票箱が落ちる。この一瞬で、彼女からなにかが抜け落ちた気もした。

「そんな露骨にテンション下げないでよ」

 我が三年一組の学級委員長──朽奈々をなぐさめるのは、いつだって私の役割だ。それは、変わらない。どんなものが抜け落ちても、私はそれをひろう。私は逆さまになった手作りの投票箱を、あるべき姿に戻した。

 大掃除をして綺麗になった教室の床に、私たち一組の生徒は全員座り込んでいる。机は後ろに集められて、椅子はその机の上に逆さまになって乗っかっていた。いつもは教室の端に座っている私も、今日ばかりは真ん中付近で正座していた。すっかり意気消沈してしまったくーちゃんにだけ届く声でなにかを言おうとした時。彼女の左側で胡座をかいている久々津くんが、大きなため息を吐いた。

「まあ、当然だろうな。弟切に勝てるやつなんてこの学校にいねえだろ」
「そう言うわりには、悔しそうなかおしてるけど?」

 私の右側にいる弟切くんが言った。楽しそうな声音で、仲の良さがひしひしと伝わってくる。だてに体育の時間でペアを組んでいるわけではなさそうだ。
 久々津くんは露骨に無視した。

「ねえ、さっちゃん」

 私の左側にいるくーちゃんが、覇気のない声で言う。

「弟切くんに投票した理由を、訊かせてちょうだい」
「なにその公開処刑」
「納得できる理由がないと、私、怒っちゃうわよ」
「今の状態で言われても説得力ないよ」

 もう座ってる体制を保つ気力もないらしく、くーちゃんは前傾気味になっていた。理由を話せという声は彼女だけではなく、久々津くんに投票したであろう者たちもまばらに声を上げている。糾弾されているみたいでこわいが、真横から聞こえてくる連続音が一番、背中をぞわりとさせた。

「一から十まで。十全に。言いなさい。言いなさい言いなさい言いなさい……」

 ずれた眼鏡をそのままに、くーちゃんは「言いなさい」と言い続けている。

「ん。僕も気になるな。教えてよ」
「あ。俺も。納得できる回答を求める」
「なんでふたりまで……」

 両側どころか全方位からせめられて、私は仕方なく口を開く。そんな大した理由ではないのだけれど。一度は落としてしまった、あっけない理由なのだけれど。

「『恋愛するならどっち』っていう問題に対して『もしも』を考えたとき、どっちかっていうなら弟切くんだなって思っただけだよ。もちろん久々津くんにもいいところはあるよ? でも総合的に見て──ふたりとのデートをそれぞれ鑑みて考えたら、『恋愛』っていうものに合っているのは弟切くんと言わざるを得ないんだよ」

 半分は納得し、半分は不満げだった。

 くーちゃんの「言いなさい」攻撃は止まっていない。

 すべてが終わっている教室にクーラーは効いていない。みんな首元を緩めたりスカーフで互いをあおぎあっていたりしながら、昼間特有の真っ直ぐな光で自分の汗を蒸発させている。熱され続ける教室。表面温度は下がらない。

「なんか言いたげだよね、早蕨さん。いつものはっきりとした物言いはどこに忘れてきちゃったの?」
「さあ? 一昨日のデートの、パレードのなかじゃない?」

 冗談のつもりが、弟切くんのファンクラブの子たちからナイフのような視線を向けられてしまった。まあ、彼ら彼女らから見れば、私は『みんな』と弟切くんのあいだに入ってきた闖入者だから仕方ない。「パレード? まさか一緒に見たって言うの!?」なんていう、当たり前だろデートなんだから、と返したくなる言葉も上がった。

「……本当はね。まだよくわかってないんだよ」

 恋愛だとか、わからない。

 その一言に尽きた。選びはした。そうすべきだと思ったから。
 なくしてしまった答えを探すために、くーちゃんとの電話が終わったあとも一晩中考えていたせいで、昨晩はまったく眠れなかった。隈がないか鏡で何度も確認してから、今日は登校してきた。そのあいだも、まだ考えた。

 弟切くんか。
 
 久々津くんか。

『恋愛するならどっち』の当事者が自分なら私はどちらに心惹かれるのか。それを考える時間がとても少なかったから、できるだけ濃密にシミュレーションした。

 もし、本当のデートをしたら。
 もし、手を繋いだら。
 もし、
 もし、

 顔が真っ赤になるくらいに、考えた。そして思い出した。答えは、あっけないものだった。

 そもそも、弟切くんには好きな人がいる。朽奈々という想い人がいる。その事実を知っているのはこのクラスでは私だけだ。それを知っていても弟切くんを選んだのは、彼の熱がうつってしまったからだと思う。触れた感じたせいで、その熱を錯覚してしまった。錯覚したまま、私は投票用紙にボールペンで名前を書いてしまった。やはり、睡眠不足は駄目だ。判断能力が落ちる。けれど、だからといって、じゃあ久々津くんと恋愛したいかと問われれば、それははっきりと『ノー』を出せた。
 べつに、彼に関心がないわけではない。

 ──と、いろいろ考え込んで導きだした答えを、私は話した。

「恋愛をちゃんと擬似体験させてくれたほうに、今回は軍配が上がったってだけ。遊園地とショッピングモールだったら、『恋愛』っぽいのは前者でしょ」

「ああ……」
 と、久々津くんと弟切くんが異口同音。そろって呆れ顔のふたりを私が交互に見ていると、弟切くんが、

「なんか僕たち、ちゃんと勝負できてない感じがひしひしとするね」

 ひっくり返った亀でも見ているかのような瞳をした。

「おい委員長。今回の選挙は振り出しに戻ったほうが良さそうだぞ」

 久々津くんは、前傾気味のくーちゃんの顔を覗き込んだ。バネのように身体を起こしたくーちゃんの顔は真っ赤になっている。血が昇ってしまったようだ。

「委員長。私としてもなんか、釈然としな〜い」

 土屋さんが挙手をして言った。すると、堰を切るかのように次々と『やりなおし』を求める声が複数響いた。やいやいとざわめく教室の室温は、本日の最高温度に達する。くーちゃんは、まあまあ、と片手を上げた。少し落ち着きを取り戻せたらしい。学級委員長らしく胸を堂々と張って、眼鏡のずれを直す。
 
「流石に、今すぐにもう一度選挙はできないわ」

 えー、と落胆の声が教室の床に落ちる。それでも、くーちゃんは構わず話を進めた。

「だから少なくとも中学を卒業する前に、もう一度みんなでやりましょう。そこでもう一度──今度はみっちり、さっちゃんに『恋愛』というものを叩き込んでから──やりなおしの投票をしましょう」

 どっ、と場が沸く。高校の合格発表がもう公開されたみたいだった。

 久々津くんと弟切くんは、てっきり微妙な表情をするかと思ったけれど、存外真剣な面持ちで、次の戦いのために刀の手入れをする剣士のようだった。
 
 そのまま流れるように、合計三十一名の名前が入ったグループチャットが作られた。万が一、卒業までに準備が間に合わなかった時のためらしい。

〈第二回『恋愛するならどっち』〉

 という、そのままの名前だった。私もいつの間にかその一員に入っていて、もう始まっている会話を見る限り、また私が最後の一票を務めることになっていた。

「キマジメ、次はちゃんと選んでよね〜」
「今回もちゃんと選んだよ」
「いや。あれは。選んだとは。言わない」

 土屋さんは言葉を区切って、一言一言を強調しながらにじり寄ってきた。思わずのけぞり、私は自分の後ろに手をつく。

「理屈じゃないんだよ。問題じゃないんだよ。答えをだしちゃ、それはもう恋愛じゃないの」
「…………?」

 どういう意味だろう。答えをだしてはいけない問題とは、土屋さんは無理難題をいう……。理屈で考えなくて、じゃあ、なにで考えるのだろうか。

「委員長だけじゃ偏るから。私らも叩き込むからね」
「な、なにをですか」

 つい敬語になってしまうほど、土屋さんの口調には鬼気迫る勢いがあった。

「当たり前でしょ〜。弟切くんの魅力よ。うちのファンクラブはべつに、弟切くんに恋愛感情をむけるものじゃないけれど、なかにはそういう子もいるからね。弟切くんの恋愛的魅力を、好きになるくらいに教えてあげる」

 その弟切くんには好きな人がすでにいるんですよ、とは言えない。私は目をつぶってうなずくことしかできなかった。

「ちょっと〜!」

 という土屋さんの声で目をあける。そこには彼女の肩を押しのけて、私の目の前に陣取ったくーちゃんがいた。

「神さまでなくなったとしても久々津くんの良さは消えないわ。絶対にさっちゃんの票を獲得してみせる!」
「いやいや。一度傾いた天秤は簡単に覆らないってば〜」
「傾いたのはたったの一票よ」
「その一票が重要なんだよ。ふっふっふっ。こうだったら最初から限定にしておけば勝算あったかもね〜。もうあきらめな」
「あきらめるわけがないでしょう?」

 当事者の私を目の前にしながらも、完全に私を置いていっているふたりは、今にも胸ぐらを掴みあいそうな勢いだった。実際、格闘ゲームの待機モーションみたいな格好をしていた。

「そもそも、クラス全員を巻き込もうって言ったのは土屋さんじゃなかったかしら」
「そうだったっけ?」
「選挙をするきっかけになったトラブルも土屋さんのほうからだったでしょう」
「そうだったっけ?」
「とぼけないでちょうだい」

 久々津くんの良さを広めるためにチラシ配りをしてたくーちゃんに突っかかってきたとある子って、土屋さんのことだったのか。だから初日に、くーちゃんに助け船をだすようなことをしたのか。実際は敵同士だったわけだけれど。

「でも差が一票っていうのは意外だったな〜。絶対、弟切くんの圧勝だと思ってたのに」

 土屋さんはきょとんとしたかおをして、首をかしげていた。

「それ私も思った。久々津くんと恋愛したい生徒がクラスに半分もいるなんて」
「おい」
「久々津くんには隠れファンが多いのよ」

 久々津くんが私の言葉に突っ込み、くーちゃんが腕を組んでうなずく。彼女のまわりには、自分だけが知っている秘密を告白するみたいな雰囲気がただよっていた。

「かわいいといったら久々津くん。かっこいいといったら弟切くん。っていう具合にこのクラスは二分化されているわ──もちろん。ほかのクラスや学年もね。アンケートを取ったら、ほとんどがきれいに半分だったのよ」

 一組にはそんなに影響力のある生徒が所属してたのか。しかもふたりも。ほかのクラスはともかく、ほかの学年にまで広がっている久々津くんと弟切くんの人気っぷりは、まったく予想していなかった。

 ……ん? 待て。アンケート? それだったら選挙なんてしなくても、もう結果がでているじゃないか。
 と言えば、くーちゃんは、

「あのアンケートは二年前のものだし、今回はうちのクラスだけで確かめたかったのよ」

 と、土屋さんを睨み付けたまま言った。

「次の選挙は卒業までに全校生徒(教員職員含む)で執り行うわ」
「教員職員含む、は駄目だってば」

 即座に突っ込みをいれる私。教師が生徒を選り好みしちゃいけないでしょ。

「校長の許可はもらってるわ」
「もう終わりじゃんこの学校」

 その時、ふふっ、と笑い声が聞こえてきた。それは伝播して、みんなに伝わる。三十一名全員が笑えば、教室が震えた。
 なんとなく、懐かしい気持ちになった。終業式までの三日間、デートをするだの投票するだの、異常な日々だったせいだろう。いつもの三年一組は『こう』だった。毎日のように起こる学級委員長の突飛な思いつきにノリノリでノっかって、それを私が突っ込む。久々津くんはいつも外から眺めていて、弟切くんは中にいながら楽しんでいる。ほかのみんなも、一線は越えずにはしゃぐ。
 これが私たちだった。
 今回みたいに、ぴりぴりした雰囲気は今までなかった。

 日常が、戻ってきたんだ。

「さあ!」

 私は、勢い良く立ち上がった。みんなの視線を一気に浴びる。それはまったく痛くなかったし、くすぐったくもなかった。

「あそびはここら辺でしまいにしようよ」

 私は、キマジメとして言う。

「受験生としての、私たちに戻ろう」

 同意の声はなかった。その時ちょうど、帰宅を促す鐘が鳴ったからだ。みんなはぞろぞろ立ち上がり、それぞれカバンを手に持つ。一ヶ月後ねという声もあれば、また明日という声もあり、連絡しろよーという声もまた、あった。
 午後になり、傾き始めた太陽の熱線が教室の床に突き刺さる。座っている時は気づかなかったけれど、三十一名の中学生にとってこの部屋は狭過ぎた。肩と肩をぶつけ合いながらぞろぞろとうごめく私たちの額には、滝のような汗が流れている。

「『受験生としての私たちに』なんて、キマジメはやっぱり生真面目だね〜」

 土屋さんが寄ってきた。

「まあそのおかげで、私たちはバラバラにならずに済んでるんだろうけどっ」

 じゃね、と。可憐に、自信たっぷりに言った土屋さんは、即座に猫なで声に切り替えて弟切くんの名を呼んだ。そして、名を呼ばれた彼はそのままファンクラブの子たちに囲まれて、わいわい笑いながら教室から出ていった。
 あれが、弟切くんが言っていた『みんなとのデート』になるのだろう。

 たのしそうでなにより。
 と、私は心のなかで呟く。

 教室から半分の生徒がいなくなったことで、風の通りが良くなった。残り半分のほとんどは、久々津くんの周りにいる。中心に立っている彼は、無表情のまま顔を上げていた。

 ▽

「早蕨」
「うわっ」

 誰に話しかけられたのかと思ったら、久々津くんだった。

「……みんなと話してなくていいの?」
「そもそも話してねえよ。あいつらが勝手に喋ってるだけ。それに、今は委員長の演説を聴いてるからいいんだよ」

 久々津くんが指さしたほうを見ると、そこには教壇に手をついたくーちゃんがいて、周りには熱心に耳を傾けているみんながいた。まれに起こるくーちゃんによる久々津くんの広報活動の一環である演説が始まったようだ。

 私は顎を引いて、久々津くんと向き合う。彼は顎を上げて、スラックスのポケットに手を突っ込んでいた。態度がでかい。

「悪かったな。態度がでかくて」
「あれ? また口にでてた?」
「思いきりな。俺の前だと口がゆるくなってんじゃねえの」
「まっさかー。私はほら、嘘がつけないはっきりとした物言いが取り柄ですから」
「生真面目」
「褒め言葉です」

 なにげない言葉で心が軽くなることも、ないわけではないのだと知った。土屋さんが言ったように、私が生真面目でいるせいでみんなの団結力が確かなものになっているのは事実だと思う。扇の要である頭は、片方だけでは役に立たない。ふたつの頭があってこそ、扇は広がる──なんていうと、とんだ自画自賛が過ぎるのだけれど、ちょっとぐらい天狗になったっていいのではないかと、今は思っている。
 キマジメとして、ちゃんと、最後の一票を投じたのだから。
 役はしっかり務めたのだから。

「なにやりきった感だしてんだよ」
「事実、やりきったからね。もう私の役目は終わったよ」
「終わってねえよ。委員長、休みが終わったら全校生徒強制参加の選挙をやるってよ」
「……候補者が増えるの?」
「いや。投票するのが強制ってこと」

 くーちゃんの演説には熱が入り始めていて、耳をかたむけてみると、本当に、必ず選挙をすると息巻いていた。嵐は去ったけれど、また帰ってくるらしい。新学期になったらあの手作り感満載だった今にも崩れそうな投票箱も、ちゃんとしたやつに変えるらしい。実際の選挙で使われているような、鈍色の固い箱に。
 まあ、今回の投票箱は結果発表の時にくーちゃんが落として潰れてしまったから、次は彼女がうっかり落とすような結果にならないように努めるか、落としても潰れないものにしなくていけない。

「分水嶺は早蕨だろうな」
「選挙の方向性を決めるなにかになった覚えはないよ」
 
 互いのかおを見ないまま、私たちは横に並んでくーちゃんの演説がする姿を見ていた。彼女は頬を赤らめて、笑顔で久々津くんの良さをこれでもかと語っている。以前と違うのは、くーちゃんが久々津くんのことを『神さま』と言わないこと。彼が彼女を拒絶したあの一件は、もう周知の事実だ。あくまでもひとりの人間として、くーちゃんは久々津くんを褒めまくっている。彼女の肌からあふれだす汗が目元に流れて、涙みたいになっていた。聴衆の汗も涙になっている。
 熱中症にならないか、ちょっと心配だ。
 私は、教室の窓をすへで開けた。ぬるくてほそかった風がふとくなって、みんなの髪を揺らす。久々津くんのドーナツ生地色の髪も、ふわふわ踊っていた。

「気づいたことがあるんだけど」
「なんだ?」
 
 私がぽつりと放った言葉に、なぜか、久々津くんは跳ねた声で反応した。プレゼントを渡された時みたいな声だった。それに気づかぬふりをして、私は世間話でもするように話す。

「十五票対十六票ってことは、久々津くんたちもどっちかに投票したの?」
「んだよ。それかよ」
「自分に投票したの?」
「当たり前だろ」

 やっぱり人間は、勝負ごとには勝ちたいと思うのだろうか。久々津くんはデート中、これが選挙のためのものだとはっきり自覚しているような行動をしていた。反対に弟切くんには、それほど勝ちたい欲というものを感じなかった。事前に感じ取った印象では、久々津くんはノリ気ではなかったけれど実際は勝つ気まんまんで、弟切くんのほうはノリ気だと思ってたら本当は最初はノリ気ではなかった。
 弟切くんのほうが選挙とか抜きにしてデートを楽しんでいた気がする。もしかしたらそれも投票に関係したかもしれない。
 
 選挙に勝つか、それともデートを楽しむかの、目的の違い。

 弟切くんに投票した自分をふしぎに思う己がいたけれど、これは理由のひとつになりそうだ。選挙の要である『恋愛』を体験させてくれたのはどっちだったかと問われれば、それは弟切くんのほう。くーちゃんに恋していることを告白してくれたのは、決定打としては大きかった。『恋愛』を感じさせてくれたのは、何回考えても弟切くんのほうだ。

 久々津くんが自分に投票したとなると、弟切くんも自分に投票したことになるのか……。それか、彼に投票したのが、本当に彼以外の十六名という可能性もある。でもそれは、本人に訊かないとわからないことだ。今日にでもメッセージを送ってみようかな。それ以外に方法はあるといえ、手間がかかる。

 でも今はそれよりも──

「あともうひとつ気づいたんだけど」
「なんだよ……」
「久々津くん、今日は裁縫してなかったよね」

 終業式だけとはいえ、いつもの彼ならその終業式の最中でも裁縫箱を傍らに針仕事をしていたというのに……。
 顔を見て尋ねれば、久々津くんはなぜか目を泳がせていた。しかも顔が赤い。教室の熱にあてられてしまったのだろうか。窓からの風は涼しいのだけれど、うまく彼には当たらないみたいだ。

 くーちゃんの演説はいよいよ最終段階に入ったらしく、嵐の前の静けさのような凪が、教壇の周りにただよっていた。

「……あーっと……」

 ポケットから両手を取り出して、その手を首の裏を回している久々津くんは、なにやら言いづらそうにしている。くちびるが波打ち、時折舌がちょろりと覗いた。
 私は待つ。どうせ、くーちゃんの演説が終わらないと今日は帰れない。今学期最終日は学級委員長の仕事もないから、久しぶりに彼女と一緒に帰ることになっている。同じ駅から同じ駅へ共に電車に揺られるのは、今まで数えるほどしかなかった。
 
 久々津くんはくちびるを内側に巻き込んで、教室と廊下を遮る壁のほう──その先を、透視しようとしているみたいだった。

「急いで作りたいもんは、もう完成したから」

 ゆっくりと、小さな子供に絵本を読み聞かせるように言う久々津くん。視線はまっすぐ前を向いていた。

「次に作る商品の、予定はあるの?」

 私はそんなことを訊いてみる。本当は、「『作品』はあるの?」と訊きたかったけれど、ねこのおうさまを渡してくれた時、彼はそれを『商品』と言った。なんとなく、将来必ず自分が作ったものを家の雑貨屋さんで必ず売るんだという強い意思がみえた。だから私は、久々津くんが作るものは『商品』というほうが適していると感じた。

「次のは今、型を考えてんだよ」
「ぬいぐるみにも型ってあるんだ。服だけかと思ってた」
「あるよ。帽子にだって靴にだってあるだろ」
「そっか。そうだったね」

 そこでちょうど、くーちゃんの演説が終わった。「ご静聴ありがとうございました」と深々頭を下げて、くい、と眼鏡を上げる。聴いていたみんなはこちらを向きもせずに教室から出て行く。残ったのは、私とくーちゃんと、久々津くんだけになった。

「ごめんさっちゃん。待たせちゃったわね」
「ううん。平気。久々津くんが話し相手になってくれたからね」
「あら。私を目の前にして自慢しているのかしら。久々津くんに投票しなかったくせに」
 
 とげとげしているくーちゃんの言葉をしっかり両方の鼓膜で捉えた私は、苦笑いするしかなかった。普通、選挙においては誰が誰に投票したのかは伏せられるはずなのだけれど、このクラスはその辺りがやけにオープンで、私でも誰がどちらに投票したのか知ることができる。投票用紙に自分の名前を書く欄があったのだ。プライバシーもなにもない。

 この三名が揃うと、少しの気まずさを覚える。でもそう思っているのは私だけらしく、くーちゃんも久々津くんも、けろりとした表情をしていた。

「早蕨」

 開けていた窓を閉めていると、久々津くんが寄ってきて私の肩に手をついた。それから、ぐい、と下に押す。そのせいで、片膝のちからだけが抜けてしまったかのような格好になってしまう。
 なにするの、と問おうとした時、視界の端に入り込んできたのは久々津くんの顔だった。私の右耳に、彼は口を近づけてくる。そっちはいつも、弟切くんの言葉を聴いている耳だった。

「気に入ってくれてよかったよ」

 そう囁いて、久々津くんは私の肩から手を離した。そしてその手で、私が左肩に掛けているスクールバッグを指さす。そこには、ねこのおうさまがいた。
 
「────」

 なにかを言わないといけない気がしたのに、私の口からはなにもでてこなかった。普段からやさしい声を聞き慣れているはずの右耳は突然の出来事に凍ってしまったみたいだった。久々津くんは満足そうに微笑んでいる。それは小さな変化だったけれど、彼がとてもよろこんでいるのは、ひしひしと伝わってきた。
 久々津くんの髪と同じ色の、ドーナツ生地色の花が舞っている幻がみえた。

 ▽

「なあにを、していたのかしらん」

 くーちゃんが私と久々津くんのあいだに身体を滑り込ませてきた、と思ったら、実際はさっきまで久々津くんがいた場所に席を外していたくーちゃんが戻ってきただけだった。いつの間にか、彼は帰ってしまったらしい。なんだか、突然ナイフを連続で突きつけられたような気分だ。

 一回目は久々津くんから。
 二回目はくーちゃんから。

 前者は笑顔だったけれど、後者は目が据わっている。単純に、こわいと思った。はじめて彼女をこわいと思った瞬間だった。

「教室から出てきた久々津くんがやけに上機嫌だったのだけれど、なにかしたのかしら」
「私からはなにもしてないよ」
「じゃあ久々津くんからなにかやられたのね。さっちゃん、顔真っ赤だもの」

 指摘されて、私は窓を見た。おぼろげに映る自分の顔は、茹でたタコのようだった。

「こ、これはあれだよ」

 顔を隠しながら、私は取り繕うように言う。

「全部、夏のせい」
「そんなわけないでしょう」

 くーちゃんから突っ込まれるという珍事。私の顔はさらに熱を持って、隠すための手も熱いから、どちらからも熱は逃げられなくなっていた。すると、冷たいものが手の甲に触れる。指と指のあいだから様子を伺ってみると、くーちゃんが私の手を掴み、顔から引き剥がそうとしていた。抵抗するも無駄に終わり、真っ赤っかな私の顔が外気に触れる。でも次の瞬間、顔に溜まった熱が、どんどん奪われていくのを感じた。
 くーちゃんが私の頬を包み込んでいた。

「私のさっちゃんに手を出すなんて。久々津くん、恨むわよ」
「え。え? そっちなの?」
「当たり前でしょう。神さまとしての一番は久々津くんだったけど、人間の一番はさっちゃんよ。さっちゃんに手を出すなら、たとえ久々津くんでも容赦しないわ」
 
 手を出すというか、ただ耳元で囁かれただけなのだけれど……。

 くーちゃんの冷たい手が、私の頬のなかで右往左往していた熱をうまく誘導していく。手のひらの熱は、くーちゃんの腕へ走っていく。おかげで、赤みはだいぶ引いたと思う。でも、くーちゃんはなかなか手を離してくれなかった。私も彼女の腕から手を離す機会を見失った。春夏秋冬変わらず氷のように冷たい彼女の手は、私の体温をどんどん奪っていく。夏なのに、凍えそうだ。もうすでに凍っている右耳は、解凍されそうにない。

「くーちゃん、そろそろ離して」
「いやよ。今充電中なんだから」

 つかまれた私の顔はどんどん下がっていって、同時に背骨が鳴っていく。椎骨がぽきっと鳴きながら、ひとつずつ離れていってしまうような感覚を覚えた。
 何分経ったかはわからないけれど、くーちゃんは名残惜しそうに私の頬に手を滑らせて、離していった。
 
「充電満タン。これで帰れるわ」

 椎骨をひとつずつ元の場所に戻しながら、私は上半身を起こした。腰を伸ばして、くーちゃんを見据える。充電満タンという通りなにかが満たされたのか、彼女の肌がつやつやしていた。手を引かれて、教室を出る。私の熱を奪っていったくーちゃんの手はぬくくなっていて、いつもの、剣山のような冷たさの手のひらではなかった。会議室の時とも、また違うあたたかさだ。

 ちょっと首をかしげて下を見れば、やさしいよこがおがある。ちゃんと編み込まれた三つ編みは肩甲骨の辺りで揺れていて、赤いリボンはからまってしまったのか、蝶々結びではなく固結びになっていた。それでも学級委員長らしい格好のくーちゃんは、私よりも小さな足で私よりも早く歩いて行く。

 私はいつも、誰かに引っ張られてばかりだ。

 引っ張られながら、階段をくだる。踊り場から見えた一瞬の景色は、昨日のデートで見たバルコニーからの景色と似たようなものだった。私の左側には今、くーちゃんとねこのおうさまがいる。

 王冠と赤いマント。そのマントの裏には御守りの言葉が縫い付けられていて、実際に久々津くんの声で発せられたその言葉は、一日経っても私の脳に縫い付けられていた。なぜ、こんなにも彼のことを考えてしまうのだろう。

『気に入ってくれてよかったよ』

 はっきりと再生できる彼の言葉や動作。それらに頬を赤らめる自分。
 ねこのおうさまをスクールバッグに付けたのは、ただそこにいてほしかったからだ。御守りなら、守ってくれと思った。そばにいて、いつ私が落ちても網を手に待ち構えていてくれと、願ったからだ。私は久々津くんのことを愛しても恋してもいない。これは絶対、恋愛じゃない。弟切くんがくーちゃんに向けている感情とは違う。くーちゃんが久々津くんに向けている感情とは違う。──と思う。確かなことはいえない。けれどあの『恋愛するならどっち』という問いに対して彼の名前を書いたら、私にくれたねこのおうさまがいなくなってしまうような気がした。御守りの効果が、なくなる気がした。

 私が投じた一票があっているのかどうか不安になる。ちゃんと、『恋愛するならどっち』というのが判断基準にそって判断しているのか、と。

 私は、恋や愛という感情を弟切くんから知ったというだけだ。弟切くんとそういう感情を向け合いたいわけではない。彼とは、よき隣人としての関係をきづきたい。そのあいだにどんな名前の感情がかよっているかは、わからない。無理矢理付けるならば、それはおそらく親愛だろう。

 でも、確かにわかっていることはある。

 久々津くんとの関係には、恋だの愛だのなにか特定の名前を、付けたくないと思ったんだ。
「デートなんてしたことない!?」

 私の叫び声に、どこかの犬が遠吠えを返してきた。住宅街には下校中の学生がちらほら。その中でも、目も口もあんぐりと開けて歩いている学生は私くらいだろう。
 
「ええ。人間とのデートはないわね」

 よほどおもしろいのか、くーちゃんは片手で口元を隠して喉の奥を鳴らしていた。私がオーバーな反応をしたのはこの人のせいだというのに。
 確かに会議室で訊いた、「私だってしたことあるのに」という言葉はなんだったのだろうか。人間ではないとかいう、叙述トリック?

「私がデートしたのはイマジナリー久々津くんよ」
 
 開いた口は閉まらない。目は乾いていくばかりだった。このままでは干からびる、と私は開いていたものを無理矢理閉じる。

「楽しかったわ〜。あの時の水族館デート」

 その時の光景を思い出しているのか、くーちゃんは恍惚とした表情をうかべていた。

 イマジナリー久々津くんは人ならざるもので、そしてそれはただのひとり水族館……。いや、まあ、本人が楽しそうならいいか。もう過ぎたことだ。たぶん、彼がまだ彼女にとって『神さま』だったからできた。今だったら、不可能だろう。久々津くんはもう、ただのひとりの人間だ。

 私たちは、並んで駅までの道のりを歩いていた。手を繋いで。ゆっくりとした足取りで。

 選挙という一大イベントが終わり、燃え尽き症候群になる前にもう次の選挙の準備もしなくてはならないくーちゃんは存外タフだった。
 それで、と選挙の話を切り出してくる。

「アナログな紙の投票も捨てがたいけど、デジタルな方法もアリよね。そのほうが投票率が上がりそう」

 確かに。私はうなずいて、答える。

「それと、やっぱり匿名のほうが投票のハードルは低いよね。名前がわかってると。ほら、友だち同士で争いとか起こっちゃうかもだし」
「選挙なんかで争いが起こるような関係性は、周りがどう対策しても火花が散るものよ」
「選挙『なんか』って言ったね今。選挙『なんか』って」

 くーちゃんは辛辣な言葉と共に、選挙を軽んじているような言葉を言い放った。私が突っ込めばすぐに首をすくめて、
「言葉の綾よ」
 と、舌を出した。

「そもそもデジタルな投票ってどうやるの?」
「それは……」

 薄いくちびるから覗く舌が隠れて、ぽっかりと穴が開く。さっきの私みたいに口を大きく開けているわけではないけれど、同じくらい、すっとんきょうな顔だった。

「どうやるのかしら?」
「どうやるんだろうね」

 私にもさっぱりだった。なにかそういうアプリかなにかがあればいいのだけれど、全員が全員自分の携帯電話を持っているわけではない。

「やっぱりアナログが一番ね」
「そうだね」

 くーちゃんも私と同じ結論に至ったらしく、デジタルでの投票は早々に却下となった。

「ありがとうねさっちゃん。このままだったら全校生徒に投票させるという一番の目的が果たされないところだったわ」
「いいよ。おやすいごよう」

 なんやかんや選挙の話にのってしまうのは、今回の選挙ではまったく仲間に入れてもらえなかったからだろう。流されるがままに、私は最後の一票を託されてしまった。自分の周りで物事が勝手に進んでいくのには、とてつもない違和を感じる。それに、さみしい。それを知ってか否か、くーちゃんはどうにかして私の意見を次回の選挙に取り入れようとしているみたいだった。

 まだ本物の選挙権すらない中学生が揃って選挙だなんだと言いながら歩いているせいか、すれ違う人々からふしぎそうな表情をしていた。でも、そんなことを気にする暇はなかった。私の五感は今、くーちゃんからの質問を聞いて答えることだけに集中しなければならない。頼りにしてくれるのは、うれしい。

 次なる選挙をどう運営するかを相談し合う私たち。くちびるも喉も渇いてきた。けれど水筒を取り出そうにも、片手は塞がっている。左肩に掛けているスクールバッグから右手で水筒を取り出すことはできるとしても、そこから蓋を回して開けるのは難しい。
 駅に着いたら一旦手も離れるだろう。と、私は渇いた口腔内をそのままにした。

 選挙の話が底を尽きはじめて、無言の時間が多くなった頃──同時に、駅舎の頭がちょぴっと見えはじめた頃──私はぱさぱさになっている口をどうにか動かして、気になっていることをくーちゃんに尋ねた。

「エレベーターのエレンって知ってる?」
「知ってるわよ」

 即答だった。

「あれでしょう? 構ってほしくてエレベーターを止めちゃう女の子の名前。先輩から訊いたことがあるわ」
「知ってたんだ……」
「学校内じゃ、結構有名な話よ」

 学校の七不思議のひとつね、とくーちゃんは人差し指を立てて説明してくれた。うちの学校に七不思議があったことを、私ははじめて知った。

「気づいていることに気づかせてあげればエレベーターは動くのよ──っていうか、なんで急にそんな話を?」

 あ、と声にならない声がこぼれた。それはただの呼吸同様だったけれど、戸惑いは十二分に伝わったみたいだ。

「さっちゃん、エレベーターなんて乗らないじゃないの。私は委員長の仕事で大きな荷物を運ぶ時とかに使っててそれで知ってたのだけれど、さっちゃん、エレベーター使わないわよね?」

 くーちゃんは首をぴったり横に九十度曲げて、少しだけ顎を上げる。私を見つめる視線が痛かった。

「有名って言っても、それはそれだけエレベーターを無断で利用している生徒がいるからってことなんだけれど?」

 その視線は、ここ最近で一番深いところまで刺さった。私のまぶたの裏まで見透かされているみたいだった。

「怒らないから、ワケを話してごらんなさい」

 それ絶対に怒るやつですよね。心のなかで呟く。繋がっている手がどんどん握り締められていって、ちからが、どんどん加わっていった。もちろん隠し通せるわけがなく、私は正直に白状した。
 久々津くんとのデートの日、エレベーターを使用したこと。そしてその時、エレベーターが止まったことを。

「なるほどね。それは久々津くんが悪いわ」

 あっけらかんとくーちゃんは言った。
 
「なんか、久々津くんへのあたりが強くない? 明らかに私も共犯でしょ」
「久々津くんを犯人にしてるのはさっちゃんだって同じでしょう?」

 久々津くんを人間としてみているからこそなのか、彼女が彼に向けるそれが以前と違うのをひしひしと感じた。

「でもエレンの対処法って名前を呼ぶだけでいいのに。久々津くんったら蹴るなんて……、破天荒ね」
「彼、なにも新しいことなんてしてないよ?」
「新しいわよ。『蹴る』なんて対処法は訊いたことないわ。みーんな、名前を呼ぶの」

 いわく、エレベーターのエレンは地縛霊とか怨霊とかの類いではなく、ただのお茶目な幽霊で、本当に心の底から誰かに構ってもらいたいだけの存在らしい。彼女はいろいろといたずらを試した結果、エレベーターに乗った人間に『エレベーターが止まる』という異常を体験させると構ってもらえる確率が高いことを知った。そして、味を占めた。それ以降うちの学校のエレベーターはどれもよく止まるようになり、そのたびに中にいる生徒や教員職員が名前を呼ぶようになったそうだ。

 きみのこと、ちゃんとわかっているよ。──そう伝えるために。

 エレベーターを止めるなんて肝が冷えることだけれど、名前を呼ぶだけで満足するなんて、かわいらしい幽霊もいたものだ。

 というか、くーちゃんはなぜそんなにも詳しいのだろうか。

「定期的に手紙が来るからよ」

 さもありなん、とくーちゃんは言いはなった。ちなみにその言葉のどこにも当然のことは含まれていない。

「幽霊って手紙出せるの?」
「ボトルシップみたいなものよ」

 くーちゃんは空いている左手で、空に瓶の形を描いた。

「砂浜に打ち上げられたみたいに、気がついたら、エレベーターの中に転がってるの」
「その噂こそ有名になりそうだけど」
「パッと見、ただの落とし物よ。見つけ次第生徒会に引き取られちゃうから、ほとんどの生徒は見れないわ」
「それを、くーちゃんは見たっていうの?」
「ええ。うちの学校では学級委員長は必ず生徒会に所属することが決まっているでしょう? だから、そこで見たの」

 ため息混じりに、くーちゃんは肩を落とした。
 生徒会長や副会長、会計や書記といった面子のほかに、各学年各クラスの学級委員長が生徒会に属しているのは知っている。くーちゃんが日頃から忙しくしているのも、ほとんどが生徒会の仕事が立て込んでいるせいだ。今のため息も、日頃の職務の多さに辟易している証拠だろう。

「学校に蔓延しているエレンのことは、『エレベーターが止まったらエレンという名を呼べ』のみなの。信じてない人もいるけれどね」
「そうなんだ……」
「だからふしぎなのだけれど、どうして久々津くんはエレンのことを知っていたのかしら」

 カラスが相づちをうつように鳴いた。確かに。確かに。と言っているようだ。自分が疑われているような気がして、私は乾いたくちびるを舐めた。

「久々津くんが、エレベーターをよく使っていたから、じゃないの?」
「ええ。それでエレンの噂自体は知ることができるでしょうね。でも、エレンが構ってちゃんなのは、生徒会のなかでしか共有されていない情報よ。彼はエレンのこと『構ってちゃん』って言ったんでしょう?」
「それはほら。もう卒業しちゃったっていう先輩から訊いたんじゃない? 久々津くん、そう言ってたよ」
「そうなんだけど、なんかひっかかるのよね……」

 生徒会の人しか知り得ないようなことを知っていたのなら、その先輩とやらが生徒会所属だったと考えるほうが自然だろう。久々津くんが嘘を吐く理由もわからないし、今はそういうものだと、納得するしかない。
 くーちゃんのいう通り、ひっかかりは残るけれども。確認するすべを持っていない。喉に引っかかった小骨を取るために白米を飲み込むかのように、私は次の話題を取り出した。疑いの視線から逃れるためとも言える。

「ほかの話をしよう。これも久々津くんから訊いたんだけど、駅のショッピングモールにあるフードコートには──」
「知ってる。カドノさんよね」
「カドノサン??」

 続けざまに即答されて、私は拍子抜けした。てっきり、あまり知られていないことだと思っていたのに……、と思ったけれど、後ろについてきた聞き慣れぬ名前に首をかしげる。くーちゃんは前を見据えながら、その『カドノさん』について説明してくれた。

「フードコートにある隅っこの四人席。そこにはいつもカドノさんという女性が座っている。彼女は友だちを待っていて、席が取られないように空いている三つの席にはカバンや羽織り物が置いてある。カドノさんが待っている友人とは何者なのか、それは地獄の獄卒であり、そしてその四人席はあの世と繋がっている。っていう話でしょう?」

 地獄の獄卒とは……、エレベーターのエレンよりも攻撃力が高いお話が降ってきたものだ。でも、私が訊いた話とはまったくもって趣向が異なっている。

「電波か弱いから誰も座らないって訊いたんだけど……」
「あら。そんなこと誰から訊いたの?」
「久々津くん。昨日フードコートに行った時に彼、その四人席に座ってたんだよ」

 そう言うと、くーちゃんは黙ってしまった。歩く速度もゆっくりになる。私も歩幅を合わせるために、ゆっくりと歩いた。

「……久々津くんって、なにものなのかしら」
「え?」

 それは、くーちゃんが一番知っていることではないのだろうか。中学一年の途中から『久々津來』という神さまに魅入られた彼女のほかに、久々津くんのことを知り尽くしている人間はいない。私のほうが、知りたいくらいなのに。

「電波が弱い、ね。謳い文句としては合格ってところかしら」
「どういう意味?」
「電波。──つまり波長。あの世とこの世では波長が違うのよ。まれに波打ったそれがぶつかって重なることもあるけれど、その可能性はゼロに近い。だから、あの世と繋がっているあの四人席の周辺を『電波が弱い』というのは、間違ってはいないのよ。通っている電波が異なるからね」
 
 つらつらとでてくる話に、私の口はまた開いた。湿った風が吹き込んでくる。

「……そういうくーちゃんこそ、やけに詳しいね」
  
 私としては、くーちゃんも久々津くんも同じくらいに『なにものなのか』という感覚が拭いきれない状況に陥っている。なぜ、そこまで知っているのか……。なぜそんな、電波とか、波長とか、専門家っぽいことが言えるのか……。

「そりゃあ、私はただの人間を神さまにしちゃったからね」

 くちびるを尖らせて、くーちゃんは呟いた。悪いことをして、それを親に報告する時みたいなかおをしている。

「簡単に『神さま』にしちゃいけないのに、やっちゃったからね。本当は、私たちってあちら側の世界に入り込んじゃいけないの。住む世界が違うから。ルールも違うから。すべて異なるから。でも、私はそれを破った。だから、いろいろ知ってるの。体験したからね」
「なにを──って、訊かないほうが良さそうだね」

 尋ねようとした瞬間、くーちゃんはすがるように眉をひそめて、私を見てきた。

「さっちゃんは知らないままでいいのよ。そのまま、人間の早蕨計でいてちょうだい」
「……それは、くーちゃんの助けになる?」

 私が立ち止まれば、くーちゃんも遅れて止まった。腕が伸びて、私と彼女に距離ができる。そのあいだに、重たそうな風に乗った葉っぱが二枚通った。
 くーちゃんは、暗かった表情をぱっと明るくさせて、
「なるわよ。大助かり」
 と微笑む。けれど、それは無理をしているような明るさだった。ちかちかと呼吸する電球を彷彿させた。

「あんまり近いと私、また間違えちゃうから」
「間違うって?」
「また『神さま』を作っちゃう。さっちゃんを『神さま』にしちゃうかも」
「そう簡単には作れないでしょ。私、神さまって器じゃないよ」

 私は笑う。私が笑わないと、くーちゃんの明かりが切れてしまいそうだった。

「……一回作っちゃうと、危ないのよ」

 うつむいていたくーちゃんの表情を伺うことはできなかった。たったの二本──中学生の腕二本分しか離れていないというのに。かおをみないまま、私たちは会話を続ける。今は、道の真ん中でもお構いなしに。

「神さまになったら、私はどうなるの?」
「久々津くんの時は、誰も見向きもしていなかった彼のことをみんなが見るようになったわ」
「じゃあ私、人気者になっちゃうのか」
「まったく同じ事態になるとは限らないけれど、可能性は高いわ」
「そっかあ。大変そうだな」
「でもそんなの、私は嫌よ。くーちゃんは、私のくーちゃんだもの」
「そう思ってるなら、平気じゃないの」
「えっ」

 私は今、無責任なことを言った。なんの根拠もない言葉だった。「そうだったらいいな」といったような、希望的観測の言葉だった。キマジメとしては、許されない言葉だった。

「神さまっていうのは、総じて『みんなのもの』でしょ? くーちゃんが私を独り占めしたいって思ってるうちは、だいじょうぶだよ」

 だいじょうぶ。
 という言葉は呪いだ。無責任な言葉だ。けれど、強い。だいじょうぶだと思えば、だいじょうぶになってしまうことも、ある。それが良い方向に向くのか悪い方向に向くのかは、くーちゃん次第だ。これは賭けだ。危ない『あそび』同然。でも私は、私のくーちゃんのために呪い(まじない)の言葉を使おう。

「絶対、だいじょうぶ」

 くーちゃんが顔を上げる。そのかおはくしゃくしゃで、今にも泣き出しそうだった。つい昨日見た泣き顔とはまた違う、かなしみではなさそうな表情。でもそれがうれしさなのかと言われれば、違う。それは断言できた。名前の付けられない感情が、くーちゃんのなかにうまれたのだろう。
 私は、繋がったままの腕を揺らす。揺り篭で赤ん坊をあやすかのように、ゆったりと。

「さっちゃんが言うなら、間違いないわね」

 くーちゃんは笑ってくれた。苦しそうなのは変わらないけれど、目とくちびるは弧を描いている。
 私たちは隙間がなくなるように近づいた。あいだに挟まるスクールバッグは右側に移動させた。一瞬だけ手を離した時、彼女は迷子みたいなかおをした。でもそれも、再び手を繋いで肩を寄せたら気配を消した。

「さっちゃん。ほんとに、この三年間で身長が伸びたわよね。一年生の時は一緒の高さだったのに」
「私からすれば、くーちゃんが縮んだように見えるよ」
「不動の身長の持ち主なのよ。私は」
「なんかかっこいいね。『不動の身長』」
「ただ伸びないだけだけどねー」

 くーちゃんと私の視線は違う。頭ひとつ分異なっている。目の前にある街路樹の見え方も違って、一度に進める距離も違う。横断歩道で並んだ時にかかとを揃えてスクールシューズを比べてみれば、レンガが敷き詰められた地面に寝そべる靴が、家族みたいな形をしていた。

「ねえさっちゃん。私の身長、これから伸びるかしら」
「親戚に成人になってからも地味に身長が伸び続けてる人がいるから、可能性はあると思うよ」
「本当? じゃあ、将来の私に期待しておくわね」

 私はもう、自分の身長が伸びないことを願っている。くーちゃんとの距離が離れてしまうし、合う服もなくなる。
 久々津くんに頼んだら、ぴったり合うかわいい服を作ってくれたりするのだろうか。

「って、なに考えてるんだよ」
「あら? どうしたのさっちゃん。また顔が真っ赤よ」
「全部、夏のせいだ」
「だからそれは通らないってば──、って言おうとしたけれど、本当に赤いわよ。熱中症かしら。お水飲む?」
「うん。そうする」

 促されて、私は水筒から水──実際に入っているのは麦茶──を飲んだ。冷たい液体が食道から胃へ落ちて、冷気が五臓六腑に染み渡る。ふう、と一息ついて、日陰で汗を拭った。
 くーちゃんも水分補給をしていた。よほど渇いていたのか、喉が上下に激しく動いてる。

 昼を過ぎて暑さは激しさを増しているという音声が、どこからか聞こえてきた。それは、私たちと同じく日陰で涼んでいる大学生っぽい人の携帯電話からの音声だった。耳にイヤホンをさしているけれど、本体にイヤホンジャックがちゃんと刺さっていないのだろう。動画でも観ているのか、音が漏れ聞こえてくる。
 私以外にも、なにもしなくても聞こえてくる気象情報に耳を澄ませている人がいた。でもそれも、大学生っぽい人が本体にイヤホンジャックがささっていないことに気づいてしまってからは、シャットアウトされてしまった。
 セミの鳴き声と車の走行音が辺りを包み込む。

「行こう」

 私はくーちゃんに手を差し出した。

「そうね」

 と、くーちゃんは答えた。

 今までとどまっていたものが、崩壊してきている。この三日で変わった、私からみる一組の印象。選挙は、みんなにとってはただの『あそび』。私にとっては受験の休息だった。と、思っていた。

 本当は、みんなのみんなによる、みんなのための『いとま』だった。みえなかっただけで、『受験』というものはみんなのなかにもちゃんとあった。この先あと半年はずっと続くそれを断ち切って離した状態が、この三日間だった。

 貴重な『いとま』だった。

 夏休みまえの今しか、こじあけられる時間はなかったんだ。少し考えれば、わかることだった。

「私って、本当に生真面目なのかな」
「突然どうしたの?」
「久々津くんのと会話で気づいたんだけどね。今回の選挙が私にとっては休息だったなら、みんなにとってはなんだったんだろうって」
「それは『あそび』でしょう? いつもさっちゃんが言ってるじゃないの。私たちがやるのは『あそび』だって」
「つまり休息だったわけでしょ」

『あそび』=休息。
 休息=『いとま』だ。
 
「みんなは私よりも、休息が必要だったんだよ。だから『あそび』が多かった。私はそれに気づけなかった。キマジメなのに」
「うーん。それ当たり前のことじゃないかしら」

 まっすぐ前を見ていているから、先を行く彼女が今どんな表情なのかはわからない。けれどたぶん、微笑んでいるのだと思う。
 仕方ないわねえ、と言わんばかりに。

「だってそれを感じとるのは学級委員長の仕事よ? 奪っちゃいやよ」

 ぎゅっ、と繋がっている手の形が変わった気がした。でも見ると、いつものくーちゃんの手だった。
 
「ただでさえ忙しいのに、請け負い過ぎだよ」

 うつむいたまま、私は言った。まるでいじけてるみたいだ。

「私がすきでやってるのよ。みんなが楽しそうなかおをするの、見るのすきだから」

 くーちゃんの顔を見る。学級委員長のかおをしていた。くーちゃんであってくーちゃんではない人がそこにいる。今この瞬間、私と手を繋いでいるのは学級委員長だったから、さっき、手の形が変わったように感じたのだ。
 私は、くーちゃんは学級委員長もどきで、クラスのことなんて微塵も考えていないと思っていたけれど、違った。くーちゃんはちゃんと、学級委員長としての顔を持っていた。

「この三日間、一組はちょっとさみしかったわよね」
 
 学級委員長は言った。それはクラスを率いる者として、心からの心配の色がうかがえる声音だった。

「確かに。なんだかしずかだったよね。ぴりぴりもしてた」
「みんな、さっちゃんの一票にドキドキしてたのよ。まあなかには、さっちゃんがふたりとデートすることを憤懣やるかたない気持ちで爪を噛んでた子もいたけど」
「爪を噛んでたって……、比喩?」
「現実よ」
 
 開いた口が塞がらなかった。この下校で私の口は何度開きっぱなしになるのだろうか。
 実際に爪を噛んでいた子がいたなんて……、駄目じゃないか。誰かのストレスになるなんて……、キマジメとして許されないだろ。

「心配しなくても平気よ。土屋さんのあれはストレスじゃなくてパフォーマンス。授業中も見せつけてたの、さっちゃん気づかなかったの?」
「全然気づかなかった……。っていうかなんで一番前にいるくーちゃんが後ろ側で行われてた戦いを知ってるのよ」
「私には背中にも目があるのよん」

 流石に冗談だと思いたいけれど、ただの人間を神さまにしちゃうのが朽奈々という人間だ。背中に目があってもおかしくない。今この瞬間も、少しだけ後ろにいる私をその目で捉えているのだろうか。

「さっちゃん、キマジメって言葉を気に入ったの?」

 急に、すっかり忘れていたものを思い出したかのように言ったくーちゃん。
 
「どいうこと?」

 私はなんとかしてくーちゃんに追いつき、となりに並んだ。
 
「だって今まで、呼ばれるたびに微妙なかおしてたじゃないの」
「うそ」
「ほんと」

 そんなに表情に出でたのか。と、空いている片手で、ぺたぺたと顔を触ってみた。中指が口の端にたどり着いた時、私は自分が今笑っていることに気づく。くちびるを内側に巻いて固く結んでも、口角は微妙に上がったままだった。自分では、無表情なほうだと思っていたのだけれど、違ったみたいだ。

「それが今じゃ──というか今日は、すごいうれしそうなかおをしてたわ。キマジメであることを誇っているみたいに......、あ。誇っちゃいけないってわけじゃないわよ」
 と、くーちゃんは慌てて注釈を入れる。そんなに慌てなくても、べつにいいのに。

 ああでもそうか。そんなに変わっていたのか、キマジメとしての私は。表情が変わった理由としては、ちょっとだけ、生真面目な自分を受け入れられるようになったからだろうか。と、適切な言葉を探る。

「……生真面目だからって、ずーっとキマジメでいなくちゃいけないわけじゃないってわかったから、表情がゆるくなったと思う……。たぶん」
「それも久々津くんとの会話のなかで?」
「うんそう……」

 って、なんでわかったの?
 驚く私に、学級委員長からくーちゃんに戻ったくーちゃんは「なんでって」と顔をほころばせた。我が子を見送る親みたいな、やさしいかおをしている。

「みてればわかるわ」

 その言葉も、親のようだった。
 
「久々津くんとのデート、よっぽど印象に残ってたのねえ。いやあ。まさかさっちゃんと久々津くんが──」
「ちょっと待って!」

 このままでは話がべつの方向にいってしまうと思い、私は大声をあげた。すれ違う人々が振り向く。私たちは、話しながら歩いているうちに喧騒に包まれた街のなかへ移動していた。その喧騒のなかでも、私の声はやけに響いて、目立った。

「ちょっとさっちゃん、声が大きいわよ」
「うんそれはわかってる。でももとはといえばくーちゃんはおかしなことを言い出すから」
「私はまだ、『さっちゃんと久々津くんが』までしか言ってないわよん」

 確かに、そうだった。私が変な想像力を膨らませただけの話だ。それだから、余計に恥ずかしくなってきた。

「やっぱり。久々津くんのことを考えると顔が赤くなっちゃうのね」

 納得したかのように、くーちゃんがうなずく。

「さっちゃん」

 至極真剣な眼差しで、彼女は私を見据えてきた。

「それが、『恋』よ!」

 今度はくーちゃんが大声を出す番だった。再び周りの人たちが振り向く。私は二重の意味で恥ずかしくなった。

「今は魚の話をしている場合じゃないでしょ」
「そんなボケは通らないわよ。ちゃんと漢字で理解してるでしょ」
「……してます」
「まさかあの早蕨計の初恋が久々津來だとはね〜」
「決めつけないでよ」

 わかっている。私が久々津くんに、ほかの人とは違う感情を向けていることぐらい。でもそれは、恋とか愛とかではない。断じて違う。なにかがあるのは認める。けれど、その『なにか』に、恋とか愛とかいう名前を付けたくないし、つけられたくない。
 
「そういう、きゃぴきゃぴしたものじゃないよ。簡単につけられないよ、名前なんて。私は名前のないこの感情を、そのままにしておきたい。だってどれもあてはまらないんだから」
「いいじゃないの、名前を付けたって。これに恋はきゃぴきゃぴじゃないわよ」
「とにかく、いやなの」

 私とくーちゃんの距離が少し離れる。駅から二個手前にある信号機で止まると、私たちのあいだには無言が流れた。

「わかったわよ。さっちゃんがそうしたいなら、私はこれ以上なにも言わない。名前も付けないし、呼ばないわ」

 我慢比べみたいになって、くーちゃんはそれに耐えきれなさそうに、はあーと大きな息を吐いた。

「でもそれを──名前のないそのなにかを、絶対手放しちゃ駄目よ。それは、さっちゃんにとって必要なものなのだから」

 信号機がぴよぴよ鳴いている。私たちは歩き出した。次の信号機はすぐについてしまうから、わざとゆっくり歩いた。周りの人たちは、そのまま青信号で次に進むために、頑張ってまっすぐ前を見て早歩きをしていた。
 私たちだけが、ぽつぽつと、迷子になった子供みたいにきょろきょろ辺りを見渡しながら歩いていた。まるでここだけ時間が遅くなったみたいだ。

 くーちゃんの言う通り、久々津くんが私にとって必要なものなのかどうか。『必要』という言葉すら適さないくらいに、大切な感情なのだとは思う。必要とか不必要とか関係なく、当たり前にあるべきもの。きっと、くーちゃんにだってある。弟切くんにも。土屋さんにも。もちろん、久々津くんにも。三年一組に限らず、この世界にいるすべての人間に備わっているのが、この『名前のない感情』だろう。

「高校受験が終わったら、さっちゃんは誰かに恋をしたり誰かを愛したりするのかしら」

 微笑しながら、くーちゃんはさらに肩を寄せてきた。思わず足が止まる。信号機まであともう少しなのに、その少しが進めない。

 三年後にまた大学受験がある。なんて野暮な答え方はしたくなくて、私はなんて答えようかと頭を働かせる。恋や愛。それらが私にとってわけがわからないものなのは変わりない。ただでさえ今は、この名前のない感情におっかなびっくりしているというのに。
 逡巡し、とりあえず出てきた言葉は、「ううん」という否定の言葉。首を振って、私はビルの窓に反射した太陽の光に目を細めながら言う。

「私にはやっぱり、恋愛よりも勉強だよ。キマジメだからね」

 まずは勉強第一! と、やっぱり野暮なことを言ってしまった。

「そんなキマジメの心に棲んじゃうなんて、久々津くんは人間のままでもすごいわね」

 くーちゃんは小さく呟いた。

「そんな久々津くんだから、神さまになれたんだよ」

 私は、もっと小さく呟いた。

 彼が神さまだったのはもう、昔の話だ。その話をするのは、なにかのルールに違反する気がした。

 すぐとなりにいるくーちゃんのことでもなく、弟切くんのことでもなく、久々津くんのことでもなく、今日やる過去問のことを考えながら、ちょうど青になった、駅に一番近い横断歩道を渡る。どこまでもキマジメでいたいんだな、と自嘲しながら歩く。
 白い線の外側にはちゃんと網が張ってあるのだろうか。私はわざと黒いアスファルト部分だけを踏んで、ゆっくり歩いた。くーちゃんと手が離れる。まるで手のひらにバターでも塗っていたかのように、私たちの手はなめらかに離れた。
 黒を踏む。そして私は、どこにも落ちはしなかった。

 くーちゃんが、「なにやってるの?」と叫ぶ。

「なんでもない」

 私は肩をすくめて、スクールバッグに付けたねこのおうさまの胴体を持ち手と一緒に握った。マントの裏に縫われている『ラッカヨウ ノ アミ ハ ツクッテ アル』が手のひらを通して伝わってきた。
 くーちゃんの声で、
 久々津くんの声で、
 弟切くんの声で、
 それは再生される。

 一番声が大きかったのは、久々津くんだった。

 私はくーちゃんに追いつき、ねこのおうさまから手を離して、再びくーちゃんと手を繋ぐ。それは改札まで。
 点滅する信号機が私たちの背中を押して、早く帰りたいと胃がないた。

 私は夏休みの過ごし方を考える。まずは学校説明会に行かなくてはいけない。それに宿題もある。受験勉強は変わらず進めて、少しでも偏差値を伸ばそう。桜が舞う頃に、私は私が望んだ場所にいれているかはわからない。それは、誰にもわからない。くーちゃんとは進む道が違うから、同じ桜を見て写真を撮ることは叶わないだろう。でも、桜の写真を送りあうことくらいは、できるかもしれない。

 セミが鳴く。
 ツクツクツクツクないている。

『だいじょうぶ』

 私は呪い(まじない)の言葉を唱えた。私が底につくことはない。なぜならば、私が歩む道には網が張られているから。そしてそれはとても頑丈だ。それに、肌を傷つけない親切設計。久々津くんが縫い込んでくれた網がそこにあることを確かに感じながら、私は自動改札機に定期券をかざした。

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