教室のなかは雑踏で溢れていた。
 話し声。笑い声。ゲーム。動画。拍手。
 それぞれの音がそれぞれ音を増幅させて、それぞれの音がそれぞれの音を邪魔する。まだ授業が始まる前。生徒たちは未だ覚めぬ脳を働かせながら、ひとときの『あそび』を堪能している。忙しない日々のなかにあるひとときを手放さないないように、必死にもがいていた。

 そんな私たちは中学三年生。つまり受験生。

 勉強以外にすることがほとんどなくなる時期。私たちは今、そのなかにいる。文字と数字でがんじがらめになった檻のなかに放り込まれて、必死にその絡まったものをほぐそうとしている。
 私は机の上に予習用のノートを取り出して、シャーペンの芯をカチカチカチと出した。それから、最初の一文字を書こうとページに芯を置く。

「これより紅白合戦を開始する!!」

 ぽきり、と芯が折れた。同時に、胸のなかにあるなにかも折れた。

「まったく、突然なに言ってんだか」

 我が三年一組の学級委員長──(くちる)奈々(なな)の突飛な言動に突っ込みを入れるのはいつだって私の役割だ。それは受験シーズンに入っても変わらない。これはどんなものが折れてもやらねばならない。
 窓際にある一番後ろの席に座る私は、教壇に立ってまるで教師かのように振る舞う朽──くーちゃんに届く声で、けれども決してうるさくならないように、言う。

「くーちゃん、今は始業前だよ。みんなの邪魔をしちゃいけない」
「大丈夫。これはみんな同意の上なのよ。早蕨(さわらび)(けい)!」
「なぜフルネーム……。っていうか同意の上って」
 そんなわけない。
 と思って見渡してみると、そこには予想とは違う光景が広がっていた。

「イエーイ!!」
 といった風に、教室が一気に沸き上がった。

 携帯電話を片手に、昨晩のバラエティー番組やドラマの感想をあいだにはさみながら、彼ら彼女らは壇上にいるくーちゃんをどんどん煽っていた。もっと盛り上げろ、という神さまからのお告げがあったみたいに。耳にイヤホンを差した生徒も、片手を上げてその波にノっている。くーちゃんはそれを、まあまあ、と片手を上げてあしらっていた。

 そうだった。そんなわけがあった。このクラスはこれが正常だった。受験の時期だからといって殊勝な気持ちで勉強するような人たちではない。雑踏にまみれても、『あそび』を堪能していても平気で、それが普通で、いつもはしゃいでいて、そして余裕がある人たちだった。

 私とは、ちがう。机にノートを広げているのは私だけだった。

「なにか質問はあるかしら。さっちゃん」

 冷静さを取り戻したのか、くーちゃんは先ほどまでの妙にハイなテンションをローに切り替えて、私に問いかけてきた。私を『さっちゃん』と呼ぶのはくーちゃんだけだ。折れていたなにかが時間経過で少し修復された私は、頭に浮かんできたものをそのまま口に出す。

「紅白合戦ってなに? 男女に分かれてじゃんけん大会でもするの?」

 このクラス──勉学においてとくに優秀かつノリが良過ぎる生徒がなぜか集まっている三年一組ならば、ありえそうな話だった。事実。それいいね、という声がいくつかあがった。全然よくないよ、と私は心のなかで突っ込んだ。
  くーちゃんの返答を待つ。彼女は腕を組み、なんだか煮え切らなさそうな雰囲気をかもしだしていた。

「まあ、似たようなものね。競うって意味では」
「回りくどいよ……」

 笑いが起こる。なんの笑いだろうか。
 もう、わけがわからない。いや、私はずっと、このクラスがわからない。私は受験勉強とか関係なく、彼ら彼女らが自ら進んで勉強している場面を見たことがない。それなのに、みんな、中間テストや期末テストはクリアしているのだ。私のほうは自ら進んで勉強していても、ひーひー言っていても、赤点すれすれだというのに。

 今日だってそうだ。いざ予習をしようと思ったら、くーちゃんが妙な宣誓を始めた。そしてそれにみんなはノっかった。もうすぐ一時限目が始まるというのに教師はやってこない。勉強以外のものを競っている場合ではないのが、私たち受験生というものではないのか?
 高校という、選択によっては今後の己の人生の道が定まるかもしれない出来事を前にして、余裕のあるみんなは今、どうしてなにを競うのだろうか。余裕があるからこそ、ほかのことを競うのだろうけれど。無理矢理な考え方をすれば、もし、受験生らしいことでみんなが競うならば、やはり勉強……、独自で模試でも始めるのだろうか。男女に分かれて?

 そんなわけ、ないか。

 流石に、無理矢理な考えが過ぎる。模試なんてしなくても、この人たちはみんな、入試なんて赤子の手を捻るかのように余裕で乗り越えられる。だから本当に、じゃんけん大会なんていう──そういう『あそび』を始める可能性があった。
 私としては余裕のある彼ら彼女らに少しの怒りや嫉妬を覚えないわけではないけれど、それぞれ人生をどう生きるかなんて勝手だし、それでみんなが自分で納得しているのならば、それは突っ込むべきところではない。私が突っ込めるのはせいぜい、くーちゃんの突飛な言動についてのみだ。さっきみたいに後ろのほうから、くーちゃんのみに届くように声を発することしかできない。それが私にふりわけられた役だ。けれど私の頭のなかは、今までにない教室の混沌とした状況にショート寸前だった。

 笑って手を叩いて教室を沸かすみんなに。それを見ながら静かにたたずむくーちゃん。そして、ひとり立ち尽くす私。机の上にある折れた芯を指先でつついて、焦る気持ちを押さえようとする。

「はっきり言ってくれないかな」

 もやもやとして中途半端な状態は嫌だった。くーちゃんは、できれば言いたくないのだけれど、といったような表情をしていた。そんなことが今の状況で通るわけがないでしょ、と私が言いたくなるような表情でもある。彼女は組んでいた腕をほどいて、教室の天井に付いているプロジェクターを見ていた。
 
「端的に言えば、選挙ね」
「はあ……?」

 ショートどころか、ぶち切れた。
 
「この重要な時期になに言ってんの!?」

 ──つい、口調が強くなってしまった。つい、机を叩いてしまった。うるさくしないように努めていたというのに、これではただの癇癪だ。私は次から次へと出てきそうな言葉をつばと共に喉の奥に押し込んだ。それから机の上にある拳をほどいて、ひとつ息を吐いた。折れた芯はどこかへいってしまった。
 落ち着け。頭を冷やせ。すぐに血が上ってしまうのは、私のわるい癖だ。
 クーラーが効いているとはいえ、私の席は窓際にある。太陽の光が突き刺さり、暑かった。熱されていた。半袖から出てる自分の腕がひりひりと焦がされていく。
 それがひどく、痛い。

「そんな『あそび』、してる場合じゃないでしょ」

 痛みをおさえながら、私は言った。
 くーちゃんは肩をすくめて、クラスメイトたちは笑った。

 でたキマジメさん。
 
 と言いながらこちらを見てくるクラスメイトの視線は、生暖かくて気色が悪かった。私からそちらを見れば、クラスメイトは視線を逸らすわけでもなく、まじまじと見つめてくる。耐えかねて目を逸らすのは、いつだって私だった。自分の目つきが鋭くなっていないかどうか。それを確かめるすべを今は持っていない。ぎゅっと目をつぶって、目のあいだを揉む。

「なんの選挙をするの?」
「『恋愛するならどっち』選挙よ」
「それでなんで紅白戦?」
「候補者が二名だからね」

 目を開いてみれば、くーちゃんはブイサインをしていた。学級委員長らしく頼もしい表情をして、堂々と胸を張っている。それから教壇の下からなにかを取り出した。それは大小ふたつのハートが描かれた、シンプルな正方形の箱だった。くーちゃんは大切そうに、その箱を胸の前で抱えている。
 
「まずひとりめ──久々津(くぐつ)(らい)。神さまよ」

 朽奈々という人間を知らない人からすれば、「なにいってんだこいつ」と思われかねない発言だけれど、私には彼女の言っていることがわかる。クラスメイトたちもわかっている。

 このクラスには、くーちゃんにとっての神さまがいる。

 それが、久々津來くん。
 教壇に一番近い席に座る男子生徒。いつも小さな背中を丸めていて、なにか作業をしている。私の位置からは彼がなにをしているのかを知ることはできない。このクラスでは変わり者とされることが多い久々津くんのことをくーちゃんが神さまと言って狂信的なほどまでに崇めているのは周知の事実だった。

 ……選挙。……紅白合戦。
 くーちゃんの性格を考えると。久々津くんと誰かを競わせるのは手段で、その結果で(勝つことを前提すると)、久々津くんの存在を絶対的な神さまとしてみんなに周知させることが目的なのだろう。それはもうすでに達成されている気もするけれど、だとすればこの選挙はいつもの、くーちゃんのわがままに付き合わされた結果ということになる。
 みんなはそれに同意しているというのか? ……しているんだろうな。くーちゃんの突飛な思いつきに自ら振り回されにいくのが、三年一組に属する生徒の性というものだ。

「今から行う選挙は、つまり人気投票ね。久々津くんととある男子生徒を俎上にのせた争いよ」

 くーちゃんは、すぐ目の前に自分にとっての神さまがいるというのに、まったく臆することはなかった。遠いとはいえ、私の目つきが鋭くなっているのにも気づいているはずなのに、我関せずと語っている。とても、楽しそうだった。それを見ているみんなも、楽しそうだ。後ろから見ていてもわかる。遊園地にでも来ているかのような雰囲気がこの教室を包み込んでいた。さながらくーちゃんは、パレードの先頭に立っているきらきらした衣装を着たキャストで、みんなはそのキャストが踊るダンスに倣って身体を揺らす観客だ。

 例外はいる。久々津くんだ。彼が現在の状況にまったく興味を示していないことは明白だった。久々津くんはどんなことがあってもくーちゃんの思いつきには付き合わないし、周りに同調することもない。ひとりだけ、ぽつんと、雰囲気が違っている。『ひとりだけ』という意味では私と同じだけれど、私のそれとはまったく異なる完全に隔離された世界が、そこにはあった。どこまでも私は、誰とも違うのだと突きつけられる。当たり前のことだけれど。無人島に取り残されたような孤独感を覚えた。

 私は、教壇にいるくーちゃんに近づいた。なんだなんだとクラスメイトたちがざわめく。

 くーちゃんは、一回も染めたことのない黒髪をおさげにして、三つ編みにした髪の先を赤いリボンでまとめていた。丸顔にぴったりと似合う眼鏡が窓から差し込んできている陽光で光り、彼女の両目を遮っている。学級委員長だから学級委員長らしい格好にしていると、本人から訊いたことがあった。

「どうかしたの? さっちゃん」 

 教壇のすぐ近く──久々津くんの席の横まで移動した私に、くーちゃんは手に箱を持ったまま尋ねた。
 クラスメイトたちの視線が身体中に刺さってくるが、これはゆずれない。みんなはお茶の子さいさいで『あそび』呆けることができるけれど、私は違う。優秀なみんなとは、違うんだ。

「それをして、なんになるの?」

 受験勉強を放ってでもやるべきことなのかどうか、はっきりさせなくてはならない。
 私の意見は『ノー』だ。
 
 くーちゃんはふっと息をもらして、笑った。
 その表情が癇に触って、思わず手が出そうになった。スカーフを掴むことで、衝動を抑える。くーちゃんが顔の向きを変えたことで眼鏡に反射していた光がなくなり、瞳が見えた。細くなった茶色い虹彩が、震える拳を抱えた私をつらぬく。
 返ってきた言葉は──

「なんにもならないわよ」

 淡々とした声に乗った、ただの事実だった。余裕のある言葉は続く。

「でも受験に行き詰っているみんなのために、少しくらい『あそび』の期間を設けたっていいでしょう?」

 行き詰まっている……? 『飽きている』の間違いでしょ。私は心のなかで毒を吐いた。でもすぐにそんな自分を恥じて、後悔した。
 くーちゃんを睨む目はそのままに、私は負けじと体勢を立て直す。彼女が心の底からそんなことを──みんなのためにだなんて──思っているわけがない。
 
「……本音は?」
「久々津くんの良さを確かなものにするためよ」
「やっぱりね」
「当たり前でしょ」

 くーちゃんは歯を見せて、けらけらと笑った。
 わかりきっていたことだ。予想は見事的中。くーちゃんはあくまでも学級委員長もどき。クラスみんなのためになにかをしようとする人間ではない。学級委員長の皮を被った狼が、そこにはいた。さらに目を細め、手に持った箱をいとおしそうに撫でる。まるで獲物を見つけた猛獣のようだった。そしてその視線は自然な流れで久々津くんに向けられる。私もその視線を追ったけれど、久々津くんはうつむいたまま動かない。
 当たり前だった。彼こそ、このクラスの本物の一匹狼なのだ。

「くーちゃんは、久々津くんのことを独り占めしたいのかと思ってたんだけど、違うんだね」

 私は久々津くんを見たまま尋ねた。

 くーちゃんはいつも、久々津くんのことを「私だけの神さま」と言っていた。
 
 私だけ。

 と、言っていた。くーちゃんは、そう簡単に自分の大切なものを手放すような真似はしない。神さまとして扱う久々津くんの良さを確かなものにするのは、まあ、予想できたけれど、選挙の結果で彼の良さが広まってしまった場合、久々津くんのことを神さまと扱う人間が増えるということだ。くーちゃんが今まで独り占めできていた『久々津くんという神さま』を手放すことになる。自分だけの神さまが、みんなの神さまになる。
 それは、彼女が望んでいることなのだろうか。
 
「心外ね。私は聖なる神の存在を皆に広めたいだけよ」
「その台詞だけ聞くと怪しげな新興宗教の代表みたいだ」
「残念でした。私はこのクラスの学級委員長なのです」
「なら委員長らしく、クラスのためになる行動を取ったらどうなの」
「どういう意味かしら」
「さっさとこの茶番をやめろって言ってるの」

 脅しも含めて、低い声で私は言った。スカーフを掴む手にちからが入る。シワになってしまうが、くーちゃんを殴るよりかはマシだ。シワはアイロンでどうにかなるけれど、殴った陥没痕はアイロンではどうにもならない。取り返しがつかない。

 でたキマジメさん。

 また、声がする。私の背中には視線のダーツが何本刺さっているのだろうか。すべて見事なブルズアイだ。心臓のど真ん中に刺さっている。でも私は、このまま下がるわけにはいかない。痛くてもくすぐったくても、ここに立っていないといけない。

 行き詰まってるなら眠ればいいし、すきなことをやるほうが絶対に気分転換になる。みんなに流されてやる選挙なんて、『恋愛するならどっち』なんていうわけのわからない選挙なんて、疲れるだけだ。無駄に時間を使うだけだ。
 始業の時間は、入試の日は、刻々と近づいてきている。私には『あそぶ』時間なんてない。けれど、くーちゃんは首を横に振った。仕方のないことなのよ、という副音声が聞こえた。

「絶対やめないわ。やめられないの。これはみんなの、確固たる意思でもあるのだから」
「本当に?」

 私はくーちゃんにではなく、クラスメイトのみんなに問いかけた。

「本当に、みんな、選挙なんてしようとしてるの?」

 みんなは一斉に首肯する。あったりまえだろ、という声が笑い声と共に耳に入ってきた。前から見るともっとわかる。本当にみんな、楽しそうな顔をしていた。いたずらを仕掛けた小さい子供が、誰かが引っ掛かるのを待っているような表情。みんなして秘密を共有して愉しんでいるような、そんなかお。
 まるで私が邪魔者だ。

「やるよ〜。やらないといけないの」
 ひとりの女子生徒──土屋さんが立ち上がり、力強い笑みを浮かべながら言い放った。
「そうしないと、もう、受験勉強なんてしようにもできないんだよ。選挙が気になり過ぎてね〜。私を含めたみんながそうだよ。だからこれは、いつもの委員長のやつじゃない」

『いつもの委員長のやつ』とは、持ち上がり式のこの学校において、一年の時から一組の学級委員長であるくーちゃんが時たま起こす突飛な思いつきによるイベントのことだ。
 一番最近だと、体育の時間にみんなで一斉に三点倒立をしてしりとりをするゲームが執り行われた。体育教師は呆れて、ただ一組の生徒たちが三点倒立してしりとりをする姿を見ているだけだった。教師すらあきらめてしまうほど、くーちゃんの思いつきは強制的に周りを巻き込んでいる。そしてみんな、それを楽しんでいた。久々津くんや私を除いて、だが。
 もう、日常と化したものだった。
 でも、今回はそれではないと?

「委員長は久々津くんの神々しさを確固たるものにしたいんだよね〜」
「それがなんで選挙に繋がるの?」
「う〜ん。私からは言えないかな〜」

 ねえ?
 と、土屋さんは自分の席の近くにいるクラスメイトに同意を求めた。そして、荒々しく席に座る。くすくすとした笑い声が、私の鼓膜を震わせた。
 土屋さんはくーちゃんが選挙をはじめたワケを知っているのだろうか。彼女に追求しようと口を開こうとした時、くーちゃんに肩を叩かれた。

「独自にやってる久々津くんの広報活動──チラシ配りをしていた時に、私にちょっかいを出してきた子がいたのよ。それでトラブっちゃって」
「待って。そもそもその広報活動は本人に許可──」
「取ってますよ、ちゃんと。ねっ」
 
 くーちゃんは満面の笑みで尋ねた。尋ねられた久々津くんは、どうせ答えないと思っていたけれど、顔を上げた。その動作はとてもゆっくりで、彼のふわふわした薄い金色の髪の先が、クーラーの風で揺れていた。

「あ。まあ」

 それだけ言って、久々津くんは再び視線を下に落とした。一体なにをしているのかと彼の手元を覗き込めば、そこには小さくてまるっこいなにかがあった。逆さまのゆきだるまみたいな、なにかが久々津くんの手の中にいた。
 右手の指で糸の通った針をつまんでいて、逆さまのゆきだるまみたいなものに刺していく。
 そういえば、久々津くんの趣味は裁縫だったっけ。そして特技でもあって、去年の文化祭では大活躍していた記憶がある。今日みたいにあまり喋らないまま、サイズが合わなかった私の衣装を縫い直してくれたのを思い出した。

「それで、トラブルってなに?」

 逆さまのゆきだるまに縫い込まれていく糸を眺めながら、私はくーちゃんに尋ねた。私も大概、自由だ。

 あれは……、ひげを縫い付けているのだろうか。

弟切(おとぎり)草太(そうた)くんのファンクラブの子に、神さまはクラスにひとりでいいって言われちゃったの」
 くーちゃんは肩をすくめて舌を出した。
「だからこれは、久々津來vs.弟切草太の戦いなのよ」

 土屋さんが物知り顔だった理由がわかった。彼女は、弟切くんのファンクラブのリーダー的存在だ。ばりばりの当事者なんだ。
 
「私はその子の言葉を宣戦布告と取ったわ」
「なんでそう好戦的なの……」
「神さまなんていくらいたっていいじゃいの。この国に、一体、何名の神さまがいると思っているの?」
「私に言わないで──え。なに。それでどっちがこのクラスの神さまなのかを決めるために選挙なんて始めたの?」
「ご明察!」

 ため息しか出てこなかった。ご明察! じゃねえよ。くーちゃんがいう『神さま』とファンクラブの子たちがいう『神さま』は意味合いが違うだろ。同じ土俵に立つものでは、ないはずだ。
 ちからが抜けて、立っていられなくなって、くーちゃんの肩に両手を置く。頭は自然と下がっていった。

「そんなの……くーちゃんとファンクラブだけでやってよ。一組全体を巻き込まないで」
「最初は投票も任意だったのよ。でもどうせやるならみんなでやろうって、その子と意見が合っちゃって」
「なんでそこで意気投合してんの」
「投票箱も一緒に作ったわ」
「仲良くなってんじゃんか」
「で、その光景を見てたほかの子たちも巻き込んでいったら案外スムーズにクラス中に広まったの。もう和気あいあい。早めの文化祭気分だったわ」
「巻き込むな。広めるな。和気あいあいするな。どんなウイルスよりも強い感染力持ってんじゃないよ」

 そこまで和気あいあいしているなら、なんで競ってるのよ。なんでみんな巻き込まれてるのよ。なんでやる気満々なのよ。なんでもう文化祭気分なのよ。まだ七月ですよ?
 私だけが、ぽつりと置いていかれている。水面下でことが動いているどころか、私だけが水の中に沈んでいるみたいだ。だからか息もしづらい。もう口からは言葉が欠落して、ため息しか出てこない。

「ちなみに投票は既に終わっています」

 もう、吐く息もなくなった。

「残るは早蕨計! 貴女のみなのよ!」

 またフルネーム。くーちゃんのマイブームなのかな。
 なにかをいう代わりに、私は思い切り顔を歪めた。それから顔を上げて、くーちゃんに見せつけた。再び、強く睨みつける。

 本当に、私だけが水の中に沈んでいたらしい。私抜きですべてが進んでいて、そして、終わっていた。まったくみなさん団結力のあることで……。三年目にして我が一組の結束力をひしひしと感じましたよ。
『みんなでやろうと思って』の『みんな』に、私は入れてもらえなかったらしい。なんで、言ってくれなかったのだろうか。
 そんな意味も込めて、私はくーちゃんをもっと睨んだ。

「さっちゃんに言ったら絶対に止めるでしょう? 今みたく、反対するでしょう?」

 確かに、そうですね。絶対に反対する。今よりももっと大声を出して、くーちゃんの胸ぐらを掴んで、揺らして、軽い脳震盪を起こさせる自信がある。今も揺らしてやろうかと思っている。あぶないし、怪我をさせたくないから、やらないけれど。
 我慢、するけれど。

「この選挙は『恋愛するならどっち』っていう問いで優劣を決めるものだから、下手をしたらただの人格否定だし、それに不毛かもしれないけど、でも久々津くんも弟切くんも、投票するみんなも、十全に納得してる。そしてちゃんと準備してきたの。それをここで全部無しにしたくないのよ──みんな、楽しんでるのよ」
 私が見る限り、だけれど。
 と、くーちゃんは自分の肩に置かれたままになっていた私の手を掴む。すがるようなうるうるした瞳で、私の睨みを一蹴した。

 学級委員長が学級委員長らしくクラスをまとめた結果が、この人気投票(私以外投票済み)につながったわけだ。そして、『みんな楽しんでる』に、またもや私は入っていないわけだ。私は『みんなの楽しみ』を全部無しにする存在で、それはまあ、事実だ。現在進行形で、私はみんなの楽しみを奪おうとしている。

 キマジメな私が、前にでてきてしまった。
  
 胸が痛くなる。でもその痛みのおかげで、呼吸ができるようになった。何度か呼吸を繰り返して、私は、乾いてひっついたくちびるを剥がす。

「わかったよ。もうとめない。とめるもなにも、終わっちゃってるし」
「あら。聞いてなかった? 終わってないわ。まださっちゃんの分が残ってるのよ」
「……私もどちらかに投票しろと?」
「ええ」
「任意じゃないの?」
「強制になりました」

 くーちゃんはひどく冷酷なことを告げた。
 ああでも、私が投票しなかったらすべての投票数が偶数になっちゃうから半分半分でドローになっちゃう可能性が……、いや。そのほうが平和に終わるのでは? 片方を蹴落とすこともなく、片方を過度に持ち上げることもなく、優劣をつけない結末だっていいはず──

「強制だからね?」

 拒否権はないようだった。くーちゃんはぐい、と箱と共に一枚のメモ用紙を押しつけてきた。メモ用紙は投票用紙のつもりなのか名前を書く枠があって、それは手描きなのか少し波打っていた。……これを三十一枚も描いたのか? 大変そうだ。──いや、みんなでやったのならばそれほど苦でもないか。自分の分だけ、描けば良いのだから。

「名前を書いたら折りたたんで中に入れてね。いつでも投票できるように、投票箱も期限まで渡しておくわ」
「期限っていつ?」
「終業式の日よ」
「……わかった」

 チャイムが鳴る。教師はまだ現れていないけれど、私は投票箱と投票用紙を持って自分の席に戻った。くーちゃんも自分の席──一番前の廊下側に座っている。

「巻き込んでごめんね」

 席に座った瞬間、となりから声がした。それはやさしく、ちょっと傷ついた部分に沁みて痛かったけれど、でも聴いていたいと思えるものだった。そんなふしぎな声の持ち主の名は、弟切草太。
 私のとなりの席に座るのは、選挙にて久々津くんと『恋愛するならどっち』という問いで争っている、学校内にファンクラブができるほどみんなから大人気な、弟切草太くんなのだった。

 机の下に投票箱を置き、投票用紙はふでばこの中に仕舞った。弟切くんと目立つ形で話すとあとでファンクラブの一部の子からの視線が痛いから、小声で話しかける。

「いやいや。巻き込まれたのは弟切くんのほうでしょう? くーちゃんが──朽がごめんね」
「まあ、委員長の思いつきにはもう慣れちゃったけどね」
「ほんと、慣らしてごめん」

 止められるわけではないけれど、できれば殴ってでも止めたいのがくーちゃんの突飛な思いつきだった。 
 
「早蕨さんって委員長の幼馴染みなんだよね」
「うん。幼稚園の頃から同じ場所にいた。けど、話すようになったのは最近だよ」
「そうなんだ。いいなあ」

 弟切くんの声に被さるように、扉が開いた。
 一時限目を担当するおじいちゃん先生が息を切らしながら現れる。どうやらまた、エレベーターを使えなかったらしい。足腰を悪くしているおじいちゃん先生は普段からエレベーターを使っているけれど、そのエレベーターはよく止まる。だから必然的に階段を使わないといけなくなるのだ。始業のチャイムから時間が経ってもなかなか来なかった理由がわかった。

 まあ。だからこそ、選挙だのなんだのの話し合い(ほぼ私とくーちゃんの一騎討ち)ができたわけだけれど。なんか、全員で事前に打ち合わせでもしたかのようだ。
 私だけが、疎外されている感じ。

 授業は静かに始まった。
 教科書を広げて、ノートに黒板の文字や先生の言葉を書き込む──のは、見たところ私だけだ。赤いボールペンをふでばこから出そうとした時、投票用紙が目に入った。終業式までに、久々津くんか弟切くんのどちらかの名前を書いて、投票しなければならない。

 終業式……。
 しゅうぎょうしき?

「あと三日もないじゃん……」

 私のひとりごとに、弟切くんが反応した。戸惑いの色が入ったやさしい視線が送られてくるのを感じる。
 授業中に大声を出すほど、私は常識から外れていない。けれど、思わずこぼれでた本音を止めることはできなかった。口を手で押さえて、考える。

 今日は月曜日で、終業式は水曜日だ。今日の時間はもう何時間か使ってしまっているから、やっぱり三日もない。たったの二日で決めろと?

 足元にある投票箱に視線を落とす。それはちょっとでも蹴ったら壊れそうで、早く投票しなければ立方体が崩れそうだった。
 今は私のほうが崩れそうだった。
 
 マナー違反なのはわかっているけれど、私は机の下で携帯電話を操作した。チャットアプリをひらき、『くーちゃん』とのトークボタンを押す。

 ──ちょっと、猶予が三日もないじゃん

 すぐに既読がついた。そして、すぐにメッセージが届く。

 ──そうよ。でも安心して。今日の放課後から、久々津くんと弟切くんには全面協力してもらうから

 本来なら、授業中の携帯電話の使用は禁止されているし、くーちゃんは一番前の席だから見つかる可能性が高いのだけれど、おじいちゃん先生はそのあたりのルールが、ゆるい。
 だからたとえ見つかっても、ちょぴっとのお説教で終わらせてくれるし、ワケがあるならちゃんと聞き入れてくれる。そんな光景を何度も見てきた。
 心のなかで見つかった時の言い訳をたくさん考えながら、授業を聞き流さないように注意しつつ、くーちゃんとのやりとりを進めていく。
 不良行為だとはわかっていても、わいて出てきた疑問をそのままにはできなかった。

 ──なにも安心できないよ。そんな短時間で決めろって、私、ふたりとあんまり話したことない
 ──だから協力してもらうのよ。っていうか、弟切くんとはとなりの席じゃないの
 ──だとしても挨拶程度だってば。好き嫌い語れるほど関係性きずいてない
 ──案はあるわ。安心して
 ──できるかい

 つい、と。
 半袖の先を引っ張られた感覚で、現実世界に連れ戻される。顔を上げると、机の上に一枚のメモ用紙が置かれていた。
 
『だいじょうぶ? 弟切』
 
 弟切くんからのお手紙だった。私はメモ用紙の空きスペースに素早く、
『へーきだよ。ありがと さわらび』
 と書いて、こっそり返した。

 携帯電話が震える。もう一度視線を落とすと、くーちゃんからのメッセージだった。

 ──なんやかんや言いつつもちゃんと投票してくれる姿勢をみせてくれるさっちゃんが、私はだいすきよ

 このまま頭を下げて机に打ち付けたい気持ちを抑えつつ、私は指を動かす。

 ──おだててもなにもでないからね、くーちゃん

 それだけ書いて、私は携帯電話をスリープにした。頭のなかに授業の内容は入っていなかった。
 その後、授業は無事に終わった。合間の休み時間に予習を邪魔され、ちょっかいを出されることはあったけれど、そのたびにとなりの席の弟切くんがさりげなく受け流してくれたおかげで、大したイベントもなく午前中は終わった。そして昼休みの時間になると、私はくーちゃんに呼び出された。

 第一会議室に来い。

 と、メッセージが来ていた。時間を見る限り、明らかに授業中に送信されたものだったけれど、今日は私もそれをやってしまったので、なにも言えない。

 会議室なんて一介の生徒が使えたっけとは思った。でも、そこはくーちゃんだ。無断で貸しきったか、隠しコマンド的な存在で教師に問い合わせれば可能だろう。そんなことを考えながら第一会議室に向かえば、そこにいたのはくーちゃんと久々津くんと弟切くんの三名だった。
 一瞬、なぜこのメンツなのだろうとふしぎに思ったけれど、答えはすぐにわかった。この集まりは、授業中にしたくーちゃんとのチャットで知った『久々津くんと弟切くんに協力してもらう』ことに、関係している。つまり選挙活動の一種だ。今それ以外になにがある、と自分で自分に突っ込んだ。

「ごめんなさい。私が最後だったね」
「いいのよ。そんなに待ってないから」

 くーちゃんは嫋やかに返答してくれたけれど、久々津くんと弟切くんは無言だった。普段から無口な久々津くんはともかく、いつもなら気さくに挨拶してくれる弟切くんの周りには、なにやら不穏な雰囲気がただよっていた。なぜだろう……。なにかを思い悩んでいるような、それを必死に取り繕おうとしているような、そんなかおだった。
 久々津くんは仏頂面だ。

「どういうことなのか説明してもらいましょうか」
「どういうことなのか説明させていただきますよ」

 コの字に置かれたテーブルに腰掛けながら、くーちゃんは肩をすくめた。

「久々津くんと弟切くんにはもうあらかた説明したんだけれど、さっちゃんには、ふたりとデートをしてもらうわ。今日の放課後に弟切くん。明日の放課後に久々津くんと、ね」
 
 指パッチンをして格好つけている学級委員長は、とんでもないことを言い放ちやがった。
 絶句する私。突飛な思いつきも甚だしかった。
 なんでそんな、二日連続で違う人とデートするなんて不誠実なことをしなくちゃいけないんだ。
 なんでそんな、誰かに後ろから刺されるような真似をしなくちゃいけないんだ。ただでさえ今日は、いつもに増してみんなから孤立している感じがひしひしとするのに、そんなことをしたら弟切くんのファンクラブの子たちからリンチにされる。
 受験勉強どころじゃなくなる。
 久々津くんは、まあ、怒るとしてもくーちゃんぐらいだろうけれど、発案者だし、刺してはこないと思いたい。
 そもそも。デートなんてしている暇はない。私は、放課後は家で勉強しなくてはいけないんだ。塾に行くお金なんてないから、すべて自力でやらないといけない。自室の机にちゃんと向かって、ペンを握らないと──

「そんなの」

 無理。
 と言おうとした時、くーちゃんが思いっきりため息をついた。

「久々津くんとデートだなんて烏滸がましいこと本当はやらせたくないんだけど仕方がないわよね。私がはじめたことだし。しょうがないのよ。ちなみにデートと言ってもふたりきりで出掛けるだけでそれ以上は駄目よ? 手を繋ぐのも肩に触れるのも禁止。これは恋の始まりじゃない。ただの選挙活動の一環。まあ? 本物の選挙ではこんなことしないんだろうけれど恋愛のわからないさっちゃんにふたりのうちどちらかを選ばせるには一番手っ取り早い方法だと思ってね。仕方なくよ。もし。万が一でも久々津くんに触れようものならたとえさっちゃんでも夜道を歩けなくしちゃうからね」
 
 発案者、刺す気満々だった。
『仕方がない』をちょっとずつ変えて三回も言った。全然息継ぎをしていなかった。夜道を限定的に歩けなくさせられるのか、道すら歩けなくなるのかは訊けない。くーちゃんの瞳孔は開いていた。こんなに危なげのある人だったっけ、と小首をかしげる私。背中には嫌な汗が流れていた。

 肩に触れるのも禁止って、電車にでも乗ったら一発でアウトじゃないか。

 確かに私は恋愛というものがわからないから、『恋愛するならどっち』という選挙に投票するのは難しい。けれど、仕方がないと何度も自分に言い聞かせたくーちゃんが私を慮ってくれた結果が、デートなのか?

「そんなことしてる暇はないよ。私、受験勉強しなきゃ」

 やっと言えた拒否の言葉は、直前のくーちゃんの脅迫じみた言葉にあてられて、少し弱々しかった。

「デートはたったの二日間。投票の終業式の日を入れても三日間よ。それが終わってから勉強に身を入れたって平気でしょう? たまには休まないと、頭が爆発しちゃうわよ」

 遊び過ぎた子犬を落ち着かせるような声音だった。でもそれは勉強に──高校入試に余裕と自信がある人間が言う言葉だった。私は下唇を噛む。

「たったの三日間。つかの間の休息を挟みましょうよ──ほんとは久々津くんとデートなんてさせたくないんだけど」
「……わかったよ」

 こうなったくーちゃんには、なにを言ったって暖簾に腕押しだ。あきらめるしか、ない。でも、そんなに久々津くんとデートしてほしくないならやらせなきゃいいのに。デートなんて手段を使わずに、ここにいる四名全員で出かけるとかにすればいいのに。なぜそんなにも『恋愛するならどっち』という選挙のお題を重要視しているのだろうか。べつに『人間としてどっちのほうがすき?』とかでもいいのではないだろうか。ああでもそれだと、負けたほうのダメージが凄まじい。ただの人格否定になってしまう。すきの反対は無関心。月並みな言葉だけれど、無関心はつらい。
 私だってさんざん経験してきた。勉強したい私の気持ちに、まったく関心を持ってくれないクラスメイトの姿は、どんなホラー映画に出てくるクリーチャーよりも不気味に思えるものだ。 

「ふたりはいいの? 私とデートするのは」

 私は、壁際に並んで立っている久々津くんと弟切くんに尋ねた。

「…………」
「ん。僕ら?」

 久々津くんはうつむいたまま携帯電話を操作していて、弟切くんは顔を上げて虚をつかれたような表情をした。まったくもって、ふたりとも、当事者意識がなさそうだった。一大事なのに緊張感がない。不安感もなさそうだ。やっぱり、私だけが浮き足立っている。それがばれないように、私は平然を装いながらふたりに向き合った。

「そうだよ弟切くん。急に私とデートだなんて言われても困るでしょ」
「ん。まあ最初は戸惑ったけれど、やったことないわけじゃないから僕は平気だよ」
「……へえ。そうなんだ」

 流石は一組が誇る弟切草太。言うことが常人とは異なっていた。
 私にとってはたった一回のデートでも、弟切くんにとっては、数あるうちのひとつで、気にとめるまでもないただのおでかけなのだろう。デートという単語に浮き足立っている私がばかみたいだ。くーちゃんが言う通り、これはなにも起こらないイベントだ。友だちと一緒に、スーパーへ買い物しに行くようなものだ。
 ただの、おでかけだ。
 なにも、変わらない。

「久々津くんも、デートはお手のものなの?」

 少しだけ緊張の糸がほぐれた私は、黙ったままでいる久々津くんに尋ねた。ちょっと、ふざけるように。

「あ?」

 そうしたら、すごまれた。携帯電話から顔を上げて、私を鋭く睨みつけてくる。言われたくない言葉を言ってしまったのかな……。弁解の言葉を頭のなかの戸棚から探っていると、久々津くんは大きなため息をついた。
 見せつけるように、「はーあ……」と。

「デートがお手のものって、それ、ただの遊び人じゃん。俺がそんな奴に見えるわけ?」
 
 携帯電話をポケットに仕舞い、腕を組んでおとがいを上げる久々津くん。弟切くんよりも頭ひとつ分低い背。薄い金色の髪の先は無造作に広がっていて、触るとふわふわしていそうだった。デートがお手のものな人間というよりも、デートがお手のものな人間にのまれる側な人間な気がする。だから、私はそのままの印象を伝えた。もちろん『のまれる側っぽい』なんて言わない。
 ただ、「まったく見えないよ」と言うだけだ。

「じゃあそれが答えだよ」

 久々津くんは吐き捨てるように言った。

「言っとくけど、少女漫画みたいなこと期待するなよな。俺だってできればやりたくねえし」
「私だってこんな形で貴重なデートを久々津くんに捧げるとは思わなかったよ」
「そりゃご愁傷さん」

 あなたもね。
 と突っ込みたくなったが、なんだかそれは不毛な気がして、やめた。不測の事態なのはお互い様だ。

「まるで僕が遊び人みたいになってるけど、違うからね?」
「わかってるよ。でも、どっちもはじめてだったらぐだぐだになるでしょう? ちょっとでも慣れてるなら、私も安心なんだよ」

 どっちも戸惑ってよくわからないままに終わったら、なんの判断もできない。私には、デートのリードなんてできやしない。
 
「さっちゃん、デートはじめてなの?」
「そうだよ。知らなかった?」

 吐き捨てるように、私は言った。見本はさっきの久々津くんだ。
 最近の中学生は成熟してるから彼氏彼女だのデートだのは当たり前。みたいな特集を組んだ夕方のワイドショーを思い出して、その時の怒りが降って沸いた。奥歯が軋む音がする。
 
「私だってしたことあるのに。いがーい」

 くーちゃんは、くすくすと、口を片手で隠してにやついていた。この顔は……。
 
「絶対知ってて計画立てたでしょ」
「どうでしょうかねえ」
「ふ・ざ・け・ん・な!」

 はぐらかすくーちゃんに近づき、鼻と鼻がくっつく距離で啖呵を切る。くーちゃんはテーブルに腰掛けたまま、けらけら笑っていた。
 もう隠そうとすることすらしていない。絶対、知ってた。そして完全に、ばかにされている。

「さっちゃん、顔真っ赤。うぶいわねえ。そういえば昔、少女漫画が読めなくて私に助けをもとめてきたことあったわよね。『お願いだから一緒に見て』って……、ホラー映画じゃあるまいし」
「それ以上話したらあの投票箱ごとあなたを燃やすから!」 
「そんなのやっちゃいや。さっちゃん煎餅布団で眠ることになるわよ」
「眠るのはあなたのほうだよ」
「でもあの時のさっちゃんの必死さっていったらねえ。かわいかったわ」
「も・や・す!!」
「ちょっと早蕨さん落ち着いて」

 スカーフごとくーちゃんの胸ぐらを掴んでいる私の肩を、弟切くんが掴んだ。そして、くーちゃんから私を引き剥がす。流れるような動作に、私の手からは自然とちからが消えて、重力にそって両腕は垂れた。
 驚いたのは、弟切くんの声がいつものやさしいものではなく、人違いかと思うほどまでに冷たいものだったということ。頭から冷や水をかけられた気分だった。そのおかげで熱されていた脳が、彼の言葉の通りに落ち着きを取り戻せた。──でも、いくらなんでも、弟切くんの指にちからが入り過ぎな気がする。彼の爪が、セーラー服のカラー越しに、肌に食い込んでいる。

 いたい。

 振り向いて弟切くんの顔を見る。枝毛なんて一本もなさそうな黒い髪の下にある瞳は鋭かった。この瞬間、私は、美人が怒ると怖いということを身をもって知った。まるで雪女にでも囚われてしまったかのようだ。振り払おうと少しでも彼の手に触れたら、こちらが凍傷を負ってしまいそうだった。だから私は彼から目を逸らして、うつむいた。自分の右手と左手を握手するように握り締めて、時間が経つのを待った。先に手を出したのは、私だ。
 すると突然、固く結ばれた私の両手を上から包み込むように、くーちゃんが掴んできた。彼女の手はいつも冷たいけれど、今はなぜかあたたかいと思えた。うつむくとよく見えるくーちゃんのかおは、いつもよりも、もっとやさしかった。

「やっぱあったかーい」

 くーちゃんが、私にしか聞こえない音量で呟いた。そして私の後ろにいる弟切くんを覗き込み、
「弟切くん。先に煽ったのは私なんだから、いいのよ」
 と、微笑みながら言った。それと同時に、くーちゃんは自分の横に私を移動させる。彼女の手も、弟切くんの手も、私から離れた。身長が私と同じくらいの弟切くんは、くーちゃんを見下ろしながら眉をひそめている。

「それでも、喧嘩はだめだよ」
「こんなの、喧嘩のうちに入らないわよ」

 くーちゃんは、けらけらと笑い、

「私とさっちゃんは互いに頬骨を折るような喧嘩をしたことがあるんだから」

 そして、だんだんと声を低くさせた。

「だから、さっちゃんに、謝って。万一でも傷が残ったなら、それこそ、駄目よ」
「……そう、だね」

 学級委員長らしからぬ学級委員長は、存外、みていた。私の肩に食い込む弟切くんの爪を、確かに見ていた。痛みがまだ、私の右肩にしっかりとあることを知っている。

「ごめん。ちょっと強く掴み過ぎた」
「あ、いや。平気だよ。私も頭に血が上ってたし。とめてくれてありがとう」

 弟切くんは、申し訳なさそうに己の頬を掻いていた。さっきまでの冷たい声ではなく、いつもの、聴いていたいと思えるようなやさしい声だった。本当に悪いと思っているらしく、一気に彼の表情が暗くなっていった。

 痛いけれど、あのままだったら本当にくーちゃんを燃やしていた可能性がある。ライターなんて持っていないけれど、一発殴っていた可能性はもっとあった。だから本当に、よかった。

「ねえ」
 
 重くなりはじめた空気に切り込みを入れるような声が上がる。

「そろそろ教室に戻りたいんだけど。説明も終わったし、いいよね?」

 この場にいる誰よりも冷静だった久々津くんは、だるそうに言った。

 私たちは今、貴重な昼休みである三十分を消費し続けている。謝ったり謝られたりしている場合ではない。
 久々津くんをハブったみたいになってしまったからか、くーちゃんが慌てたように、
「そ、そうよね。ごめんなさい」
 と声をうわずらせて言った。

「でも解散の前に、みんなで連絡先を交換してくれないかしら。さすがにデートの段取りを私が手取り足取りするわけにもいかないわ。ついでに、グループも作っちゃいましょう。十全にね」

 くーちゃんは携帯電話を取り出して楽しそうに肩を上げている。どさくさに紛れて久々津くんの連絡先を入手できるから、うれしいのだろう。さっきまでの剣呑な雰囲気は、あっという間に吹き飛んだ。
 
〈最終審査組〉

 という名のグループチャットができあがり、私たちはそれぞれの連絡先を入手した。その上で私は、『久々津くん』と『弟切くん』のトーク画面を作成する。両方に『よろしく。』と打ち込み、ちゃんと相手に届いたかどうかを確認してから、私たちは第一会議室から退出した。

 ▽

 私は、昼休みのあいだ席に座って考え続けた。お昼ご飯もそこそこにして蓋を閉じ、考えた。

 まさか、はじめてのデートがあの弟切くんになるとは思いもしなかった。

 くーちゃんは学級委員長の仕事があるとかで、会議室から出たら別々の方向に別れてしまった。ちなみに私は今ひとりで、くーちゃんの席に座っている。なぜくーちゃんの席にいるのかというと、昼休みになると私の席は、ちょっと目を離した瞬間、弟切くんのファンクラブの子たちに占領されてしまうからだ。今、彼の周りには男女問わず、一組に限らず、生徒で溢れている。

 久々津くんは自分の席でなにか──たぶん裁縫──をしている。この席からだと、彼の真剣そうな横顔がしっかりと見えた。

 その他のクラスメイトたちは、愉快そうな表情で私のほうを見てきていた。興味津々というか。私が久々津くんや弟切くんと選挙のために放課後デートすることはもうすでに広まっている。弟切くんのファンクラブの子たちからは、くーちゃんに言われたようなことを言われた。

 ──身体のどこにも触れるな。

 私だって怪我はしたくないけれど、どこにも触れるなとは、ちょっと難しいのではないのだろうか。何事にも意図しない事象はある。
 それに私だって、すきでデートを執り行うわけではない。そんなことをしている暇があるなら勉強していたい。過去問を解いていたいし、単語帳を開いていたい。勉強机と向き合って、ペンを持っていたい。

 なんで私が、最後の一票になってしまったのだろうか。

 反対されると思っていたから言い出せなくて……、とかなんとかくーちゃんは言っていたけれど、そんな責任重大なことを一番ノリ気ではない奴に任せちゃ駄目だろ。文句のメッセージをくーちゃんに送ってやろうかと思ってチャット開くと、弟切くんからメッセージがきていた。それは、バスで一本のところにある遊園地の、デジタルパンフレットのURLだった。そして、

 ──たのしみだね

 という、彼の笑顔が画面から溢れて飛び出してくるような文言があった。やっぱり、デートはお手のものなのではないだろうか。

「ねえねえ。キマジメ〜」

 土屋さんが話しかけてくる。

「デートできるからって調子ノって、弟切くんにコクらないでよね。まあ、そんなことしてる暇ないだろうけど」
「そうだね。私は受験勉強しなくちゃだから」

 私は即答した。私だけがみんなと違って受験勉強にちからを入れているのは知られている。でも私だけが合格を危ぶまれていることは知られていない──と思う。そこは先生方の情報管理の賜物というか。この学校が期末テスト等の順位が発表されるタイプの学校ではないからこそ、私は『キマジメ』をやれている。
 もし私の模試の結果を知られたら、日頃の成績を知られたら、私は『偽キマジメ』だ。真面目に取り組むことにしか取り柄がないのに、真面目に取り組んだことの結果が微塵もないとなると存在理由が揺らぐ。なんにもない人間になってしまう。だからここで。受験でちゃんと成果を出して、希望の高校に進まなければいけない。
 私が決めた道を、ちゃんと歩むために。

「やっぱ、キマジメは生真面目だね〜」

 土屋さんはそう言い残し、猫なで声を発しながら弟切くんのほうへ歩いていった。その姿からは自信が溢れていて、高校受験に懊悩している私が、なんだかばかみたいだった。

 私のニックネームであるキマジメは生真面目という意味ではあるが、もうひとつ意味がある。

 『まじめ』が服を『き』ている。

 という意味での、キマジメ。
 それは、優秀な一組の生徒が考えたにしては妙に安直な、ばかっぽいニックネームだった。今の私よりもばかみたい。いや、呑気という感じだ。みんなは谷の上にいて、そこでピクニックをしているけれど、私はひとり谷底にいて、どうにか上へのぼろうと岩壁に爪をひっかけているような、そんな圧倒的差。私の爪は剥がれ落ちて、指先が真っ赤に染まっている。
 やっぱり、私はみんなと違う。悪い意味で、ちがう。 

「さーっちゃん」

 両肩にちからが加わった。振り向けば、くーちゃんがいた。

「しょげないでよ。そんなに嫌?」
「嫌っていうか戸惑ってるんだよ──学級委員長のお仕事は終わったの?」
「終わったわよ。十全にね」

 十全という言葉を、くーちゃんはよく使う。完全ではなく、十全。
 一から十まですっかり整っている。──そんな言葉が、私はすきだ。
 
「ねえ。くーちゃんはどんなデートをしたの?」
「水族館デートよ。イルカショーを観たわ」

 私の肩を揉みながら、くーちゃんは言った。いつもは下から聞こえてくる声が、今は上から降り注いでくる。その非現実感が、私が今日、放課後に弟切くんとデートする現実を明確にしていった。

「弟切くん。デートはしたことあるって言ってたじゃないの。ちゃんとリードしてくれるわよ」
「そもそも『デート』っていう単語がまず駄目な気がする。そういうのは恋人とやるものでしょう?」
「どうかしら。今じゃ人によっては、ただのおでかけでもそれを『デート』って呼ぶわよ。だから今回もそう気負わずに、ちょっとおでかけ〜って感じで構えてればいいじゃないの」

 肩と一緒に、凝り固まった脳をほぐしてくれるくーちゃん。
「そうかなあ……」と、私は呟いた。
 頭ではわかっているつもりでも、納得はできていなかった。
 ただのおでかけ。ただのおでかけ。薬を飲むように言い聞かせても、その効果はあまり期待できない。

「そうよ。そういうものっ」
「いっ──!」

 ぐり、と指を肩の筋肉にめり込ませてきた。ちょうど、さっき弟切くんに掴まれた場所に、見事に当たった。思わず身体がのけぞり、背筋が伸びた。

「あらま。ちから加減をミスったわ」

 なにも失敗していないという風に、くーちゃんは言った。解放された私の肩はじぃんと、内側から膨らんでいるようだった。

「なんでまだ何分も経っていないのに忘れるかな……」
 
 私はわしづかみにされた肩を撫でた。でも撫でてもあまり、癒し効果は望めなさそうだった。

「ごめんなさい。覚えてはいたのよ、十全にね。でもつい、興が乗っちゃって」
「おもしろがらないでよ」
「だって、思い出しちゃったんだもの」

 空いているとなりの席──私の左側に座ったくーちゃんは、三つ編みの先を指でくるくる回しながら遠くを眺めていた。
 一体なにを、思い出したのだろうか。

「さっき会議室でも言ったけれど。さっちゃん、少女漫画をひとりで読めなかったじゃない?」
「黒歴史を掘り起こさないでよ」
「私にとっては、真っ白な雪のように輝いている思い出なのよ」
「すてき風に言わないで」

 しかも、その思い出は二年前の夏休みの話だ。中学一年生の夏。くーちゃんのことを『くーちゃん』と呼ぶようになってからまだ日が浅かった頃。私は少女漫画が読めなかった。こわかったから、ページを開けなかった。くーちゃんは「ホラー映画じゃあるまいし」と言っていたけれど、私にとって少女漫画は、ホラー映画と同様にこわいものだった。読むのが恥ずかしかったわけではない。

 理解ができなくて、こわかった。

 なぜ漫画のなかにいる人たちは、勉強もせずに異性や同姓に夢中になり、進学し、卒業する頃にはその恋がみのるのか、理解できなかった。
 その不可解さが心地悪くて、胸に住み着いたその心地悪さが、こわかった。恋というものがわからなくて、でもわかりたくて、だから読みたかった。恋を題材にした少女漫画を読んでみたかった。けれどページをめくるのがこわくて、くーちゃんに助けを求めた。

 その時に、お腹を抱えて笑い転げながらも私のとなりに寄り添って少女漫画を読んでくれたくーちゃんには、感謝してもしきれないと思っている。

 ページがめくれないなら私がめくるわ。
 と言って、至れり尽くせりだった。

 まあ結局。何十巻もある少女漫画を読んでも、恋というものがなんなのかはわからなかったけれど、くーちゃんという無二の存在を得たのはその瞬間だったと思う。

「持ってる少女漫画を全部読み終えたあと、さっちゃん泣いてたわよね」
「そうだっけ?」
「そうよ。忘れたの?」

 お茶を濁してみたけれど、泣いたのは、ばっちり覚えていた。でもそれこそ恥ずかしい思い出で、思い出したくなかった。答えを見てもわからない問題を目の前にすると、今でも泣きたくなる。流石にこの二年で、実際に泣くことは減ったけれど。

「あの時思ったのよね。『ああ、この子は私が守らないと』って」
「守る? 誰から」
「うぶなさっちゃんを狙うケモノからよ」
「ケモノって……大袈裟な」
「大袈裟じゃないわ。あの時あの場所に私以外の人間がいたら、絶対にさっちゃんを抱きしめて愛の告白をしてたわよ」
「ちょっと恋愛脳が過ぎるんじゃないの? 水道はあっちにあるよ」

 頭を冷やしてこい、と遠巻きに言ってみたら、くーちゃんは頬を膨らませた。

「さっちゃんは自分のかわいさを自覚したほうがいいわよ」
「おだててもなにもでないって言ったよね。冗談はやめて」
「もう。そんなだから恋愛がわからないのよ」

 脈打つ身体が、硬直する。
 テストで間違えた部分を何度も指摘されるような、そんな気持ちになった。赤いバツ印を指差されて、こんなだからおまえは駄目なんだと言われているような……、それは流石に被害妄想か。恋愛がわからないのと勉強ができないのは、関係ない。

「ま。そんなさっちゃんでも、弟切くんとデートすれば恋ってものがわかるわよ。十全にね」
「十全に、ねえ?」

 そういう風にわからないのが、恋のおそろしさなのではないのだろうか。一から十まで説明してくれる誰かが近くにいてくれたらいいのに。

「くーちゃんは恋を十全に説明できる?」
「無理よ。だって私、恋してないもの」

 椅子から転げ落ちるところだった。万事心得た、みたいな表情しておいて実際は中身からっぽじゃないか。堂々と、恋がわかるわよとか語っておいて言った本人は恋してないって、本末転倒じゃないか。
 無言の抗議が伝わったのか、くーちゃんは首をすくめた。
 
「まあ恋愛って、さっちゃんにとっては本当に恋してみないとわかんない感情かもしれないわね」
「そうだとわかってるなら無責任なこと言わないでよ」
「あら。ごめんなさい」

 微塵も申し訳ないと思っていないであろう謝罪が、ここにあった。
 
 恋愛がわからない私に、『恋愛するならどっち』という選挙の最後の一票を任せるなんて、そもそも間違ってる。本当はやりたくなかった。けれど、みんなは選挙をやりたがっているし(久々津くんは除く)、重要な最後の一票をつっぱねるのはキマジメとしては無責任な気がして、拒絶することができなかった。

 でも本当に、なんで私が……。

 もう、頭を抱えるしかなくなる。

「さっちゃん」

 うなだれている私の身体を、誰かが叩く。

「ちゃんとお弁当食べないと、午後の授業に集中できないわよ」

 くーちゃんはなぜか、仕舞ったはずの私のお弁当箱を持っていた。どこまでもお見通しらしい学級委員長が蓋を開けると、三分の一残されたお米や具材が顔を覗かせる。
 箸を手渡され、机の上は再び昼ご飯仕様となった。

「さあ。たんとお食べなさい」

 身体ごと私のほうを向いて、両手を広げるくーちゃん。彼女が作ったわけではないのに、なぜか自分が作り上げたかのような雰囲気をかもしだしていた。
 思わず、笑いがこぼれる。恋や選挙よりも、今は目の前のご飯だ。

「いただきます」

 昼休みは、あと五分しかなかった。
 弟切くんとの待ち合わせ場所は、学校の裏手にあるバス停だった。そこは生徒があまり利用していない、雨風にさらされて寂れた時刻表がぽつんと突っ立っているだけの、翳りのある場所。
 そこで輝くひとりの男子生徒は間違いなく、弟切草太くんだった。

「こっち」

 ひっそりと、手招きをする弟切くん。私の横をバスが通った。足を早めて、彼に導かれるがままにバスに乗り込む。交通系ICカードを入り口で読み込ませると、ぴろんと威勢の良い音が鳴った。

 これからはじまるんだぞ、と言われている気がした。

 バスの中は空いていた。私たちと運転手以外、誰もいなかった。はじまるどころか、どこか別の場所につれていかれて、終わってしまいそうな雰囲気があった。
 
「座ろうか。早蕨さん」
「そうだね。弟切くん」

 私たちは走り出したがらんどうの車内にある席のうち、左側の真ん中あたりにあるふたり席に座った。弟切くんが通路側で、私が窓側。教室での席と同じ位置だった。
 肩と肩が、触れる。

「…………」
「もしかして、委員長が言ってたこと気にしてる?」

 めざとく、通路側にいる弟切くんが言った。

「あれは久々津とのデートにおいて、じゃなかったっけ」
「いや。弟切くんのファンクラブの子たちからも言われたんだよ」
 
 身体に触れるなって言われたんだよね。と、ため息混じりに言うと、弟切くんは申し訳なさそうな表情をして、席から立ち上がった。彼はスクールバッグを肩まで上げて吊り革に手首を通す。私のとなりの席が、ぽっかり空いた。

「これで平気でしょ」

 物理的に上からのへにゃっとした微笑み。見下ろされながら言われた言葉に、私は少しの安心を覚えた。ファンクラブの子たちから刺される心配がなくなったからか、それとも、弟切くん自体に安心を覚えたのかはわからない。けれどどこか、今はちゃんと守られているんだなと思えた。

「弟切くんは、何回くらいデートしたことあるの?」

 目的地まで何分かはかかる。私は情報収集も兼ねて、雑談をしようと話を切り出した。

「デートって言っても、みんなでだからなぁ。もう数えきれないよ」
「ん? 『みんな』?」
「そう。『みんな』」
「どういう状態なの? それ」
「傍から見れば、普通に、中学生が団体で出掛けてるように見える状態だよ」

 弟切くんはおかしそうに笑った。

「それって、デートっていうの?」
「たぶんいわないだろうね。みんなが『デート』って言ってたからそのままにしてたんだよ。ふたりきりとかにもならなかったし、今思えばどこがデート? って感じだね」
「そうなんだ……」

 つまり、『弟切くんとデートをした』という事実が欲しくて、みんなはただの集団行動を『デート』と呼んでいるということなのだろうか。だとしたらグロテスクだ。弟切くんは男女問わず人気がある。だから本当に、第三者から見ればそれはただの中学生のかたまり。でもその中身は、『弟切くんとデートをした』という事実を必死に掴み取ろうとしている血気盛んな子供たちの群れだ。世の中、猛獣だらけじゃないか。

「あのね」

 車内はクーラーが効いているというのに、弟切が吐いた息は熱そうだった。

「『デート』は何回かしたことあるけど、ふたりきりのデートははじめてだったりする」
「え……」
「だから結構、自信ないんだよ。僕」

 顔を見てみれば、弟切くんの頬は紅潮していた。たぶん、暑さのせいではない。 

「今までのは、ただ楽しんでたらみんなも一緒に楽しんでくれたってだけで、僕はなにもしてない。場所を決めるのだって、そこでなにをするのかだって、決めるのははじめてなんだ」

 耳まで真っ赤にして、弟切くんは言った。

 沈黙が流れる。
 なにを言うべきだろうかと、私は口を、鯉みたいにぱくぱくさせた。けれど、なにも、言うべきことはみつからなかった。
 バスが揺れ、止まる。アナウンスに耳を澄ませば、遊園地前に到着したことがわかった。バスから降りれば、すぐ目の前が遊園地のゲートだった。入場料は学生ひとり八百円と書いてある。お財布を取り出そうとすると、弟切くんに手で制止された。
 
「ここは僕が払うよ」
「いやそういうわけには……」
「格好つけさせて?」

 美人に首をかしげてお願いされると、受け入れるしかなくなる。園内でかかる費用は自分で支払うぞと思いながら、私はお財布をスクールバッグの奥に仕舞った。
 
「格好もなにも、たったの千六百円だけどね」
「いや。千六百円は大金でしょ」
「そうかな?」
「そうだよ!」

 私のお財布には三千円しか入っていなかった。その半分以上を『たった』と言える弟切くんは、やはり、私とは住む世界が違う。今日は一段と、彼が眩しくみえてきた。

「普段の『デート』じゃ、みんな払わせてくれないんだよ」

 悔しそうに苦笑する弟切くん。普段はお姫さまみたいな扱いを受けているらしい。

「僕としては、与えられるだけってのは嫌なんだ」
「へえ。かっこいい」
「そう? なら作戦成功だ」

 行こうか。と弟切くんは自然な流れで私の手首を掴んだ。つんのめりそうになるのをどうにか踏ん張って、私は引っ張られながらも彼についていった。

 平日だからか、遊園地はがらんと空いていた。バスの中と一緒だ。この様子なら誰か同じ学校の子に見られるようなことはないだろう……。ないと、信じたい。

 弟切くんにどんな意図があるかわからないけれど、こんな光景──手を繋いでいるように見える構図──を見られたら、受験勉強どころじゃなくなる。ただでさえ、今は受験勉強を無理やり頭のすみに追いやって、こうしてデート(もどき)をしているんだ。移動中も、単語帳を開くわけにはいかなかったから、これが終わったら真夜中まで参考書を広げなくてはいけない。私の頭のなかは、どうやっても『受験勉強』で覆い尽くされていた。すみになんて、おいておけるわけがなかった。でも同時に、くーちゃんから言われた言葉も再生される。

『つかの間の休息を挟みましょうよ』

 休息。これは休息。日頃から真面目に努力している私から私へ贈る、二日間の休息──。

「パレードは十八時からだからアトラクションには二、三個ぐらい乗って空いた時間はなにか食べようか。それとも先に食べる? 定番過ぎるけど、ここのチュロスが美味しいんだよ」

 のべつまくなしに語る弟切くんは、明らかに、はしゃいでいた。ずーっと笑顔だ。斜め後ろから見てもわかるくらいに、口角が上がっている。語り口からは、よろこびがみえた。自分で決められる『デート』が、よほどうれしいのだろう。クリスマスを直前にした子供みたいな弟切くんの姿に、内心ほほえましい気持ちになりながら、私は余裕のある風な言い方で言う。

「せっかく遊園地に来たんだしなにか乗ろうよ。おすすめはある?」
「メリーゴーランド」
「じゃ、そこ行こう」

 最初のアトラクションはメリーゴーランドに決まった。
 弟切くんが方向をぐるりと変えると、遠心力に振り回された私はバランスを崩す。思わず、彼にしがみついてしまった。

「ごめん。強く引っ張り過ぎた」
「いいや。私の体幹がよわいだけだから」
「怪我は?」
「ないよ」

 繋がれていた手が離れて、身体も離れる。私は後ろ手に、掴まれていた手首をさすった。そこだけひどく熱を持っていて、目玉焼きでも焼けそうだった。掴まれていたせいで熱されたのだろうか──と、思っていたけれど、熱を持っているのは自分の手のひらのほうだったことに気づいた。メリーゴーランドについた時に、気づいた。掴まれたのが手首でよかった。これの熱は、地に足がついていない証拠みたいなものだ。照れている事実に照れて、目の前にあるすべてのことから顔を背けたくなる。

「お乗りになりますかぁ」

 のんびりとしたメリーゴーランドの受付の人に尋ねられて、私は顔を上げる。

「乗ります」

 まるで合戦場にでも赴くような気持ちで私は、弟切くんと声を揃えて共にメリーゴーランドに乗り込んだ。

 きらびやかな馬車に着飾った木馬たち。なぜかティーカップや小型の船まである、ふしぎなメリーゴーランドだった。
 弟切くんはシンプルな白い木馬に。私は迷いに迷った結果、彼の斜め後ろにある茶色い馬に乗った。その馬のぴんと立った耳と耳のあいだには、小さな王冠がちょこんと乗っかっていた。それだけで、この木馬のモデルになったであろう本物の馬の毛並みが、艶やかなものであるという確証が持てた。このなかで一番気高く、ちからが強いのが、王冠を乗せたこの茶色い木馬だ。よじ登り、木馬に突き刺さった手すりを掴む。それは夏の陽気で熱くなっていたけれど、私の手も負けじと熱かったから、難なく掴むことができた。

「あっつ──早蕨さん、よく持てたね」
「たぶん、弟切くんの馬よりも内側にいるから、そっちよりも熱くないんだと思う」
「そっか。ちょっと失敗したかな」
「でも似合ってるよ。白馬の王子さまみたいで」

 ふいに、弟切くんから笑みが消えた。

「そういうのは、あんまり、ね」

「ど──」

 どういう意味?
 と訊こうとした時、チャイムが鳴った。

「それでは皆様ぁ、手すりにしっかりとおつかまりくださぁい。ベルの音が鳴って、完全に止まるまで、決して立ち上がらないよう、お願いいたしまぁす」

 のんびりとした声がスイッチだったかのように、メリーゴーランドが回り始める。陽気な音楽に合わせて上下する木馬たち。遠くを見ればティーカップがその場でぐるぐる回っていた。小型の船は暴れ牛のようになっている。
 私は落ちないように手すりを掴むことに必死で、弟切くんを気遣うような言葉を発することはできなかった。互いに無言のまま、メリーゴーランドは回り続ける。一般的なものよりも長い気がした。私たちふたりしか乗っていないメリーゴーランドは、あののんびりした人の計らいでいつもより多く回っているようだった。
 弟切くんも、首をかしげている。

「ながいね。このメリーゴーランド」
 可もなく不可もない言葉を、私は発した。
 弟切くんは振り返らずに首肯して、
「そうだね」
 とだけ言った。

 周りの景色を見る余裕なんてなくて、何周回ったのかも数えられないまま、ベルの音と共にメリーゴーランドは止まった。さて降りよう、と下を見ると、木馬はさっきよりも高い位置で止まっていた。飛び降りることはできなくはないけれど、恐怖を伴うものだった。横座りになってまごついていると、先に木馬から降りた弟切くんが手を差し伸べてきた。

「はい。どうぞ」

 私はどうしたらいいかわからず、手すりを掴んだまま固まっていると、

「これはね。ちょっとした罰だよ」
「罰?」

 弟切くんははにかみ、馬の背に置かれている私の右手を手に取った。さっきみたいな手首を掴むやり方ではなく、手のひらと手のひらを合わせたやり方。
 熱が、奪われていく。

「僕のことを『王子さまみたい』って言った、罰」

 肩をすくめた弟切くんは、やさしい声で言った。

「……その罰、受けてたつよ」
「たちむかうんだね」
「そうしないと、私はあなたのファンクラブの子たちに殺されちゃうからね」
「そうだった。じゃあ二重で罰だ」
「わかってて言ってるでしょ」
「さて。どうでしょう」

 私はその手を頼りに、王冠を被った茶色い木馬から飛び降りた。メリーゴーランドから出ると、私たちは一旦ベンチに座って、携帯電話でデジタルパンフレットを眺めていた。

「ごめんね。気分悪くさせて」

 ちょうど軽食のメニューを見ていた時に、私は言った。

「いいよ。僕もちょっと大人げなかった」
「いいんだよ。私たちはまだ子供でしょ──って、私が言えることじゃないね。先に悪いことしたのはこっちだし」
「いい言葉だよ。『私たちはまだ子供』。早蕨さんの口から出てくると思わなかったけれど」
「それは私がキマジメだから?」
「そういうわけじゃ──うん。ごめん。そういうわけだ。なんかそういう言い訳? みたいことを早蕨さんが言うとは思わなかった」

 私は常にキマジメとして三年一組に存在しているから、弟切くんがそう思うのも仕方がないことだった。

「言いたくはなるよ。とくに今日みたいな、相手を困らせちゃった時とかね」
「もう気にしてないよ」

 笑いまじりに、弟切くんは言った。

「そう? 結構怒りの色がみえたんですけれど」

 ちょっと茶化すように言えば、彼は笑みを深めて、
「それよりもご飯を探そうよ。パレードの前に腹ごしらえしておかないと、もたないからね」
 と言った。

 そんなにハードなパレードなのかと問いたかったけれど、話題はもう軽食のことに変わってしまった。弟切くんいわく、この遊園地ではフィッシュバーガーを推しているらしい。けれど今食べるには、ちょっと重たいかなと思った。小さくて丸いドーナツくらいが、ちょうど良いかも……。でもおすすめだというチュロスも捨てがたい。クレープもあるし、結構メニューが充実していた。お財布と相談しないとだけれど、迷う。端から端までじっくり見ていると──

「あ!」

 突然、目の前にあった画面が消えた。弟切くんが私に見せてくれていた携帯電話を自分の近くに戻したのだ。なにやら真剣そうな表情で、画面を食い入るように見ている。

「どうかした? 電池が切れそうとか?」
「いいや。今日って第三月曜日だよね?」
「うん。そうだけど……」
「今日のパレードは参加型なんだよ!」

 嬉々とした声音で身を乗り出してきた弟切くんは、再び私に携帯電話の画面を見せてきた。そこにはパレードの項目が記されていて、月曜日の欄には括弧があり、その中に『第三月曜日のみ参加可能』と書かれていた。
 パレードに参加? どういう状態だろうか。一緒に踊るとか? と考えていると弟切くんが、「フロートと一緒に園内を歩けるんだよ」と、答えを教えてくれた。

「それ、危なくない?」
「うん。だからいつもよりもフロートの速度が遅くて、ゆっくり見られるんだ」

 興奮冷めやらない彼は、私にぐいぐい身体を寄せてくる。もう、ファンクラブの子たちからの忠告なんて気にしている暇はなかった。

「どうする? 参加するか。見てるか。僕のおすすめは、断然、参加のほう!」

 弟切くんのテンションは上がり続けている。携帯電話を片手に、いかに参加型が楽しいかを語ってくれた。フロートの細かい装飾が見えるとか、運が良ければキャストとツーショが撮れるとか、色々。参加するにはまず受付を済ませて、事故が起こらないようにするための注意事項が書かれた書類をよく読み、この遊園地に十回以上来園している証拠を提出しなければならない──って。

「私、この遊園地はじめてだけど」
「僕はもう何十回も来てるから平気だよ。ひとりにつきひとりは、はじめてでも参加できるんだ」

 弟切くんがそんなに遊園地ヘビーユーザーだとは思わなかった。でも今までの口ぶりからすると、みんなとの『デート』で何回も来園してるのだろう。

「ちなみに一回でもパレードで事故を起こしたり、邪魔をしたりしたら出禁になる」
「うん。まあ。そりゃあそうだよね」
「でも参加するのが楽しいんだよ。まるで自分がキャストのひとりになったみたいでさ」

 この人のことを、王子さまみたいだと思い実際にそう言った数分前の自分を、殴りたくなった。弟切くんは単純に、ただひとりの中学生──子供としてこの遊園地を楽しんでいる。楽しんでいたいんだ。

 忘れていた。

 みんなから『王子さま』とはやし立てられる弟切くんの姿は、教室で何回も見ていたというのに。その時、彼がとても苦い表情をしていたことを、何回もしっかり見ていたというのに。なんですっかり、忘れてしまっていたのだろう。
 画面を見つめて一心不乱に、パレードの良さを滔々と語る弟切くんの姿は、教室で見ていたどんな彼よりも生き生きとしていた。

「いいよ。参加しよう」
「ほんと!? やった。みんなと来る時は無理なんだよね。絶対に事故るから。いつもこっそり、ひとりで来てたんだ」
「ああ。みんな、元気だもんね……」

 あきらめの色をみせながら笑う弟切くんは、じゃあ早速受付しに行こう、と立ち上がった。

 絶対に事故らないように。そしてパレードの邪魔をしないように。
 と二回も同じ言葉で説明を受けた私たちは、腕に腕章を着けてパレードまでの残り三十分間を持て余していた。パレード参加の受付をしたことで本来なら乗れるはずだったアトラクションに乗れなくなってしまったけれど、弟切くんが楽しそうならいいかな、と思えたので不問とした。

 ちらほらと、同じ腕章を着けた人たちがゲートから園内に這入ってくる。パレードに参加するためだけに来る人もいるんだなあと思っていると、肩を叩かれた。

「今さらなんだけど、門限とか平気?」
「本当に今さらだね。平気だよ。ちゃんと連絡はいれてある」

 パレードの受付で落ち着きを取り戻したのか、その前にはしゃぎ過ぎたのか、弟切くんの声はしなしなしていた。元気がないわけではないけれど、ガソリンを使い切ってしまったかのようだ。

「弟切くんのほうは? 門限とか平気なの」
「うん。前はあったんだけどね。みんなと『デート』するようになってから、自然消滅しちゃった」
「自然消滅……か」

 みんなと『デート』する、という不可思議な単語に慣れてきてしまっている自分に戸惑いながらも、それほどまでに弟切くんの生活に『みんな』がめり込んでいることには、もっと戸惑いを覚えた。
 安易な表現になってしまうけれど、人気者は大変だ。私にはわからない大変さがたぶん──いや絶対、もっと、あるのだろう。

『みんな』とではできないことでも、私とふたりきりできる──なんて思うのは、思い上がりにも甚だしい。でも、たとえ選挙のためとはいえ、弟切くんにとってはじめてであるふたりきりの『デート』で、私は、彼になにかを与えられるだろうか。

 楽しみや、安らぎを。

 最初は、デートなんてする暇があったら受験勉強をしたかった。選挙なんて、どうでもよかった。けれど、今は違う。

 これもキマジメがゆえに、だろう。

 やるからには、ちゃんとやろう。明日の久々津くんのデートだって、ちゃんとやろう。今日はちゃんと、弟切くんを弟切くんとしてみて、彼とのデートを楽しもう。一緒にいる人が楽しければ、自然とそれは伝播する。

 パレードの時間が迫った頃、私たちはフロートが集まる園内の端にいた。私たち参加者はフロートの横やあいだ──つまりパレードを見る来園者に一番近い場所を歩く。それだとフロートを見たい人の邪魔になってしまうのではないかと思ったが、第三月曜日という日の来園者はほとんどパレード参加者で、見る人は少ないらしい。だから心置きなく、園内を行脚できる。

 フロートと写真を撮ったり、買ってきたグッズを装着する人々の声が、がやがやと音を奏で始めた。園内アナウンスでは受付で言われたことを再三告げられて、私の心臓は悪い意味で高鳴る。
 
「そんなに心配しなくても平気だよ」

 人にもみくちゃにされないように、と弟切くんは私を一番端に立たせてくれた。いつもの位置──右側に弟切くんがいて、私の左側にはロープが張られている。
 私たちは、一番後ろにあるかたまりのなかにいた。

「ここは初心者向けの場所だからね」

 弟切くんは、一番事故の可能性が少ない場所を選んでくれた。前にしかフロートはなく、もし歩く速度を見誤っても後ろから轢かれることはない。
 人の多さはどこも変わらないけどね、と彼は笑っていた。確かに。どこもかしこも。園内にこんなにも人がいたとは思えないほどまでに、パレードの開始地点は人で溢れていた。熱気が熱気を呼び、背中に汗が伝う。左側が空いているから私は夕方特有の風で汗を乾かせるけれど、弟切くんはそうはいかない。彼の額には汗がいつくも流れていた。けれど決して不快さを覚えるものではなく、炭酸飲料のCMのような、爽やかなものだった。
 つい、また、『王子さま』と思ってしまう。私は、駄目だ駄目だと頭を振った。

「暑い?」
「ううん。そういうわけじゃ……」

 ないけれど、気になることがあった。

「訊いていいのかわからんないんだけど、訊いていい?」
「訊きたくてたまらないって表情してる。いいよ。なんとなく予想はつく」

 すぐ近く──真横に弟切くんの顔があった。私は見知らぬ誰かの後頭部越しに見えるフロートをしっかり見据えたまま、言う。

「なんで、『王子さま』って言われたくないの?」

 周りの雑踏が一段と大きくなる。すぐ近くにはカップルが複数いるらしく、仲の良さを周りに主張する惚気のような会話が聞こえてきた。

 また気分を害してしまったか、と質問を撤回しようとした時、パレードが始まった。背中を押されて、足を踏み出す。人でぎゅうぎゅうになったパレードの道は、どういう歩幅で歩けばいいのかわからなくなって、何度もつんのめりそうになったけれど、その度に、弟切くんが手を差し伸べてくれた。
 進むにつれて、詰まっていた人々の距離感は離れていく。ようやくしっかり地面を踏みしめることができるようになった頃、弟切くんが口を開いた。
 手は握られたままだった。

「位置が違うからね」
「位置?」
「位置が違うと、こうして手を繋ぐことすらできないんだよ」

 弟切くんの左手と繋がった私の右手が、目線の先まで上がる。下から掬い上げられるような形になっている私の手は、熱を帯びていた。

「手を繋ぐのって、幼稚園くらいだと普通だったよね。でも中学にもなると、それこそ恋人じゃない限り、手なんて繋げない」

 遠い昔話を語るかのように、弟切くんは大人びた表情をした。

 パレードは滞りなく進んでおり、目の前にあるフロートはきらびやかに光っていた。そのフロートに乗っている人が、あのメリーゴーランドの人だったことに気づく。衣装や髪型は変わっているけれど、のんびりとした顔はそのままで、その和やかな雰囲気のおかげで、私はぎりぎり平常心を保てているのだと思った。

「それがわかった時に、僕はみんなと位置が変わっちゃったんだなって思ったんだよ。身長と一緒に、立っている場所すら変わってしまった」

 陽気な音楽が流れている。パレードを見ている人は、携帯電話やカメラを片手にパレードの一部となった私たちを撮っていた。

「僕はそれが嫌なんだ。もっと気軽に手が繋げる関係でいたい。でも、それは不可能だった」
「……弟切くんが、『王子さま』だから?」
「うん。自分で言うのもなんだけどね」
「じゃあ、今回の選挙。心の底から嫌だったりする?」
「最初はめちゃくちゃ嫌だったよ。なんせ相手は委員長の神さまだし、『またか』って思った」

 でも──と弟切くんは一度息を吐いた。

「投票する理由が、『恋愛するならどっち』だからね。ああこれなら、王子さまは王子さまでも、いつもみたいな位置の違う扱いはされないかなって思ったんだ」
「そう、かな。恋愛って、弟切くんが言う位置が大きく変わるイベントなんじゃないの? 友だちと恋人の位置は、違うでしょ」
「僕にとっては変わらないよ」

 確かな自信をもって、弟切くんは言いきる。彼は笑っていた。

「じゃあ弟切くんは、恋人がいてもほかの子と手を繋いじゃうような人なんだね。今みたいに」
「これは罰だよ」
「また罰? 私、『王子さま』って言ったっけ」
「僕が今までひた隠しにしてたことを暴いたから。その罰」
「言いたくないなら言わなくてもよかったのに」
「真面目な早蕨さんは、そういう『はぐらかし』は嫌でしょ」
「……否定できないね」

 パレードが中盤に差し掛かった頃、一度フロートが止まった。確か、ダンスタイムがあるんだっけ……。

「ちょっと端に寄ろうか」

 体育の時間みたいに、参加者が両手を広げながら距離を取っている。音楽が変わり、幼子でも簡単に覚えて踊れるダンスが始まる。繋がっていた手が離れて、弟切くんはハキハキと、私はオドオドしながら踊った。
 三分間のダンスタイムが終わると、今度は終わりに向けてフロートが進み始める。

「弟切くんは、恋人にしたい人いるの?」

 再び手繋ぎの刑に処される可能性があったけれど、私は頭にうかんできた疑問をおさえることができなかった。

「いるよ」

 周りにいるパレード見学者に向かって、弟切くんが左手を振る。手繋ぎの刑は免れたらしい。

「僕、朽さんが好きなんだ」

 周りのざわざわが大きくなった。なぜならば、私が派手に転んだからだ。アスファルトのでっぱりに足をひっかけて、転けた。
 幸いにも周りの人との距離はあったから誰も巻き込まなかったけれど、私はその場で動けずにいた。服越しでもわかる。両膝を擦った。いやそんなことよりも。しまった。事故を起こしてしまった。弟切くんが出禁になってしまう。どうしよう。どうすれば……。
 頭のなかが真っ白になっていると、弟切くんが私の腕を掴んで立ち上がらせた。それから私をロープの外に出して、見学者の脇をすり抜けて近くにあるベンチに座らせてくれた。
 スタッフのひとりが駆けてくる。

「大丈夫ですか!?」
「擦っちゃったみたいで、あの、絆創膏とかありますか?」
「あります。少々お待ちください」

 私は、スタッフの人と弟切くんの会話をぼんやりと聞いていることしかできなかった。服をめくると、両膝が真っ赤になっていた。でも、そんなに派手な傷ではなさそうだ。

 スタッフの人が救急箱のようなものを抱えて走ってきて、私の膝に消毒をしてから大きい絆創膏を貼ってくれた。
 私は、「ありがとうごさいます」と、小さな声で言うことしかできなかった。

「早蕨さん?」
 
 弟切くんが私の顔を覗き込んでくる。弟切くんの、心底心配してくれているような表情が刺さって、痛かった。膝よりも痛んだ。

「ごめんなさい。弟切くん、出禁になっちゃう」
「え? なに言ってるの」
「だって、事故を起こしちゃった。そうしたら出禁なんでしょう?」

  そう言うと、弟切くんはため息を吐いた。今からでも、彼と私は無関係なのだと遊園地の人に訴えたほうがいいだろうか。

「事故を起こしたら、ね。さっきのは起こっちゃった事故だよ」
「起こっちゃった?」

 私が言葉を反芻すると、弟切くんは「そうだよ」と私の肩に手を置いた。

「だってさ。転ぼうとして転んだわけじゃないでしょ。アスファルトがでっぱってたのが原因だし、早蕨さんに過失はないよ。さっきスタッフの人もそう言ってたでしょ」
「言ってたっけ……?」
「言ってたよ……」

 呆れているかのように目をつぶった弟切くん。私は思いきり息を吐く。安堵の息だ。──よかった。私は、弟切くんの大切な場所を、彼から奪うような真似をしたわけじゃなかったんだ。

「まあ、急に転んだら混乱しちゃうよね」

 仕方ない、と弟切くんは呟いた。
 
「でもごめんなさい。パレード、途中退場になっちゃった」
「第三月曜日は今日だけじゃないからね。また次があるよ」

 ベンチからは、夕陽がよく見えた。橙に染まった空が、私をどんどん現実に連れ戻していく。
  
「くーちゃんの、どこが好きなの?」

 気づいた頃には、そんなことを口走っていた。
 
「ん。言語化するのは難しいかな」

 私の右側に座った弟切くんは、しゃんと背筋を伸ばしていた。

「どうして言語化できないの?」
「恋ってそういうものだよ。知らなかった?」
「知らないよ。私、恋愛とは無縁なんだから……。少しもできない?」

 弟切くんは頭を必死に動かしているようだった。うーん、と、うなっている。

「強いて言うなら、僕のことなんて一瞬も見てないところ、かな」

 ……どういう意味だろう?
 確かに、くーちゃんは久々津くんばかり見ている。弟切くんのことは、ただのクラスメイトとしか思っていないだろう。しかし、それがどうして『好き』という気持ちにつながるのだろうか。
 
「朽さんとは位置どころか場所すら違うんだ。それに気づいた時、なんかもやもやして、どうにかして振り向かせたいって思ったんだよ」
「それを人は恋というの?」
「僕がそれを恋だと思ったんだよ」

 わかんないかなあ、と弟切くんは苦笑いした。耳が赤くなっている。
 くーちゃんのことを好きだと思い、恋人にしたい気持ちは、偽りないのだろう。なんだか、はじめて触れる感情だ。教室の中では、誰と誰が付き合ったとかいう噂話が飛び交うこともあったけれど、こんなにも間近で──すぐとなりで感じるのははじめてだ。

 恋というものを、感じるのは。

 もっと甘いものだとおもっていたけれど、実際は違うみたいだ。少し、苦味がある。
 私が知る限りではくーちゃんに恋人はいなかったけれど、恋人ができたかどうかなんて逐一伝え合う仲ではないし、真実はわからない。ああでも、自分だけの神さまである久々津くんに夢中になってるくらいだから、いなさそうだな。

「この話、誰にも言ったことなかったんだよね」

 弟切くんが言った。

 そりゃあそうだろう。あの弟切草太に好きな人がいるとか知ったら、学校中が上を下への大騒動になる。けれど彼の告白は冗談やおふざけではない。本気だ。瞳が違う。覚悟が、違うんだ。私と繋いだ手よりも遠いものを、弟切くんは掴もうとしている。

「くーちゃんを攻略するのは、難しいと思うよ」

 じくじく痛む膝を眺めながら、私は言った。弟切くんが眩しかったから、直視できなかった。
 
「そうだね。朽さんは、久々津くんにぞっこんだし」
「そのぞっこんは、恋とは違うと思う」
「恋とか知らないのに、わかるの?」
「わかるよ」

 なぜか。自信があった。くーちゃんが久々津くんに送る感情に名前を付けるなら、それは『愛』だ。愛も私にはよくわからない感情だけれど、恋と愛の違いはなんとなくわかる。炎の色が違う。それは熱量という意味ではなく、そもそも同じ土俵にのせられないもので……、これは、言語化するのが難しいな。
 弟切くんが恋した理由を言語化できなかった気持ちが、今わかった。

 やっぱり私には、恋や愛はまだ早いのかもしれない。

「くーちゃんがどこの高校に進学するか教えようか?」
「いいや。それには及ばないよ。ちゃんと知ってる」
「そうなの?」
「声が通るからね。朽さんは」
「確かに」

 大きな声を出さなくても教室中に声を響かせることができるのが、朽奈々という人間だった。

「朽さんの声は、なんであんなにも通るんだろうね」
「ふしぎだね──あ。弟切くんがくーちゃんに恋してるからじゃない?」
「そうかもね」
「恋のちからはすごいね」

 パレードはもうすでに終わっていて、帰宅のためにゲートに向かう人が多かった。私たちのあいだにはまだ、帰る気配がない。

「恋か……。私もする時がくるのかな」
「くるよ。絶対くる」
「そう?」
「ん。僕が保証する」
「弟切くんに保証されちゃったら、くるね」
「くるよ。そういうものだからね」

 日はもう完全に落ちていて、空は半分青褐色になっていた。帰宅を促すアナウンスは流れないけれど、帰らなければいけないことはわかっていた。
 膝の痛みが、ひいてきた気がする。私は立ち上がり、腰を伸ばした。

「ひとつ言っておくよ」

 振り返り、余裕の笑みを浮かべる。それはたぶん、キマジメがやるような笑顔じゃなかっただろう。

「朽奈々のことを『くーちゃん』って呼んでいいのは私だけだからね。弟切くんはあの子のことを、『なな』って呼べるようになってよ」

 応援してるからさ。
 とは言わずに、私は右手を差し出した。今日はずっと弟切くんの左手を占領していた、今は砂利で擦れた手だ。
 
「わかった」

 そう言って、クラス一の人気者は、普通の男の子のような笑みを浮かべながら、私の右手を握った。
 
 もう、私は彼の手を握ることはないだろう。なぜならば、その場所にくるべきなのはくーちゃんの手だからだ。ふたりの恋路が舗装されているかどうかはわからないし、それは私の知るところでもないけれど、私の出る幕ではないことは、わかった。

「じゃ、帰ろうか。恋する少年」
「そういうこと言うんだね。早蕨さん」
「ちょっとしたお返しだよ。今日はめちゃくちゃ罰せられたからね」

『恋愛するならどっち』という選挙において、その俎上にのせられている人がもうすでに恋をしている場合を、くーちゃんは考えていなかったのだろうか。こんなの、もう、弟切くんに投票したくなってしまうではないか。あなたは恋愛というイベントをちゃんとこなせる人間ですよ、と太鼓判を押してあげたくなってしまうではないか。
 実際に恋をしているその姿があまりにも、きれいだから。かっこいいとかかわいいとかは置いておいて、ただただきれい。

 恋をすると人はどうなるか。それを私は、少し知ることができた。投票の決定打になりうる想いを擬似的に、肌で感じた。まだ始まったばかりだというのに、天秤は弟切くんに傾いている。明日の久々津くんとのデートのことを忘れて、投票したくなってしまった。ふでばこに仕舞ったままの投票用紙に書く名前はもう決まっているような気配を感じて、はじめてのデートは終わった。

 私たちは、行きよりも互いの距離を離して、帰りのバスに乗り込んだ。
 ──無事に終わった──。
 ただ、それだけだった。誰かに見られることもなく、無事に私は仕事を終えた。

 クラス一の人気者、弟切草太くんとのデートを。

 くーちゃんが、恋愛の知らない私を慮って設けてくれた機会。転んで膝を擦りむくというちょっとしたイベントはあったけれど、それ以外はそこそこ良いできなのではないかと、私は思う。思いながら、ゲームをしていた。これは、ごほうびだ。『デート』という大仕事を終えた私が私に送るごほうび。

 自室に置かれた控えめなサイズのテレビには遠い昔に買ったRPGが映し出されている。現代のような3Dではないドット絵がたまに恋しくなる。とくに今日みたいな、『まさか』な出来事があった時は──。

「まさか。まさか、ね。本当にまさか」

 あの弟切くんが、くーちゃんのことを好きだと言っていた。

 弟切草太は朽奈々のことが好き。

 そのことを頭に思い浮かべるたびに、膝小僧が痛んだ。べつに嫌なわけではない。よろこばしいことだ。花吹雪でも買ってきて彼らの周りを、はらはらと飾り付けたいと思っている。それはふたりがうまくいったら、の話だけれど。もしうまくいったのならば、私は全力で花を降らそう。その花たちはきっと、突如発覚した人気者のスキャンダルに慌てふためく人々に踏まれて、あっという間に薄汚れてしまうのだろうけれど。

 そのくらい、一大イベントだ。
 
 ちょっと待て、と。私は頭を振る。ゲームじゃないんだ。人の恋路をイベント化するのは、いけないことではないのか? ゲームのように、選択肢で『はい』を選んだら結婚式までストーリーが進むわけではない。そのあいだにはさまざまな壁があって、それらをすべてのカップルが越えられるとは限らない。そもそもまず、あのくーちゃんが、恋愛するのだろうか。
 
 デートをしたことはあると言っていたけれど、恋はしていないとも彼女は言った。久々津くんを心から神さまとして愛している彼女が、ほかの人間に視線を向ける機会なんて、今はないはずだ。あるかもしれないのが、恋なのだろうか……。

 自分をまったくみないからこそ惹かれた、みたいなことを弟切くんは言っていたけれど、ならば、少女漫画みたいなことが、これからあの教室内で起こるのだろうか。さりげなく好きアピールをしたり、ドキドキするようなイベントがくーちゃんと弟切くんのあいだに発生したり、そしてそれがみのった時、弟切くんのほうから告白したり、するのだろうか。

 受験生が? 勉強そっちのけで?

 まあ、あのふたりは一組のなかでもとくに勉強ができるほうだし、そのあたりは私が心配するまでもないか……。恋愛してても、べつに支障はない。誰かに恋して勉強がおろそかになってしまうなんてことは、ない。

「恋愛、か」

 私もそのうち恋するのだろうか。弟切くんに断言されて、さっきは妙に納得してしまったけれど、私の恋愛下手ぶりは自他共に認める筋金入りだ。『他』といっても、それはくーちゃんにしかあてはまらないけれど。

 こわいこわいと言いながら少女漫画を読んでもわからなかった『恋愛』。そんな私でも、初恋のようなものはあった。
 相手は幼稚園の先生だ。それこそ漫画ではベタなもの。あの人はすらりとしていて、背中が曲がったところなんて一度も見たことがなくて、凛々しい表情が似合う格好いい人だった。たったの一年だけだったあの先生との時間は、それこそ恋に恋した状態だと思っていた。ずっとなにかに溺れているようだった。

 でも本当は、違った。

 あの時の私が先生に向けていた感情は感情は恋ではなく、すきなアーティストに向けるような感情だった。ついその人の一挙手一投足に視線を送ってしまうのは、すきなアーティストがテレビに出ていたらご飯も忘れて見入ってしまうのと同じ。その人と同じものを欲しくなるのも、同様。胸が高鳴るのだって、身体が硬直するのだって、すべてそれは恋ではなかった。それが判明したのが中学一年生の頃。だから、あれは初恋のようなもの。それで私は、少女漫画を読もうとした。そして一巻を読んだだけで音を上げて、くーちゃんに助けを求めることになった。
 結局、持っている本をすべて読んでも理解できなかった。だから、泣いた。わからない感情が確かにあったはずなのに、それがぽっかりと抜け落ちてしまったから、かなしかったのだ。思い出すと、今でも鼻の奥がつんとする。視界がぼやけて、ゲーム画面がみえなくなってきた。そのせいで選択を間違えてゲームオーバーになった。
 瀕死状態だったのを、忘れていた。

 電源を落としてゲーム機を片付ける。もとの居場所に戻ったごつごつとしたゲーム機一行は、そうそうここがいいんだよ、とでも言いそうな顔で箱のなかに収まっていた。ケーブルはちゃんとした輪になり、コントローラーと共に本体と箱の壁の隙間に滑り込んでいる。狭いわけではなく、ぴったりなのがポイントだった。
 満足げになる私。あるべきものがあるべき場所にあるのは、すきだ。……こういう『すき』と恋という意味での『好き』はなにが違うのだろう。見分ける方法が、あったらいいのに。

 ベッドに寝転がり、携帯電話を手に取る。通知は動画投稿サイトの新着動画を知らせるものだけで、あとはなにもなかった。買った当初から変わっていないホーム画面をただ見つめる。そろそろ来るはずなのだけれど、忘れてるのかな。

 と思っていたら、震えた。私は表示された名前を確認してから、すぐに通話ボタンを押した。

「こんばんは」
 
 そう言ってみたものの、がさごそと風が吹き込んでいるような音がするだけだった。私は一度、耳から携帯電話を離して画面を見る。間違いなく『くーちゃん』からの電話だ。
 
 スピーカーに切り替えてしばらく待っていると、
「こんばんは。待たせちゃったわね」
 あくび混じりなくーちゃんの声がした。

「さっきの音、なんだったの?」
「ドライヤー」
「どうりで風っぽいと思った」
「ごめんなさいね。うるさかったでしょう?」

 まあ、うるさかったけれど。髪を乾かすのは大切だし、くーちゃんは私よりも髪が長いから仕方がない。

「へーき。ただ、なにかあったのかって心配になっちゃった」
「あらそう? でも心配してるのはこっちのほうよ。どうだった? 弟切くんとのデートは」

 彼があなたに恋しているってことが判明したよ、とは言えない。秘密を抱えるのが大変だということを、久しぶりに感じた。歯の隙間から音もなく抜けていく息にひっそりと潜ませた秘密を覆い隠すように、私ははっきりとした声で言う。

「楽しかったよ。おかしなメリーゴーランドがあってね。木馬や馬車のほかに、コーヒーカップや小さな船があったんだ」
「わかった。あの遊園地に行ったのね。あそこのはどのアトラクションもデザインが凝ってるのよ。フィッシュバーガーは食べた?」
「いいや。食べてない」

 そういえば結局、なにも食べずに終えてしまったことを思い出す。でも晩ご飯はしっかりと食べたから、私の胃は膨れていた。

「パレードに参加することになってね。そんな暇はなかったよ」
「ああ。今日は第三月曜だものね」
「うん」

 秘密を抱えているせいか、会話が弾まない。それをくーちゃんもわかっているのか、声の波がだんだん下がっていく。

「弟切くんに告白でもされた?」
「…………」

 思わず、それはあなたのほうだよ! と言いたくなった。でもそんなことはなにがあっても言ってはならなくて、返せる言葉もない。無言をつらぬくしかなかった。そのせいで、私が本当に弟切くんに告白されたかのような雰囲気が、携帯電話から放たれている。
 
「違うよ」

 真剣に答えたせいで、余計に真実味が増してしまったような気がした。「きゃっ」と、くーちゃんが跳ねた声を出す。

「どうかした?」
 
 私は平然とした態度で言った。

「どうしたもこうしたもないわ。今、蚊が腕にくっついてたのよ。思わず潰しちゃった」
「それであの声? 『きゃっ』なんて言うから、てっきり大きな虫でも出たのかと思ったよ」
「果敢にも立ち向かった声よ」
「たくましいことで」

 本当にたくましい。想像力が、たくましい。私が弟切くんに告白されるわけがないのに。

「まあ、さっちゃんが弟切くんに告白されるわけがないわよね」
「それは確かにそうなんだけど、はっきり言われると傷つくよ」

 奇しくも思考がリンクした驚きよりも、はっきりとしたその物言いに驚いた。そこまで言うか? とも思った。

「安心して。私はさっちゃんのことだいすきよ。告白したいくらいにね」
「すきって言った時点でもう告白してるようなものじゃない?」
「そうかしら。告白って花束や指輪を持参するものでしょう?」
「それはプロポーズだよ」

 弟切くんに、くーちゃんに告白するときは少なくとも花束を持参してねって伝えておこう。
 
 再び、なにも音がしない時間が流れる。先にどちらが沈黙に耐えかねて喋りだすかのゲームをしているかのようだった。でも、そう思っているのは私だけだったようで、携帯電話からは足音が聞こえてくる。くーちゃんが移動している音だ。扉が閉まる音がして、しばらく。彼女の息が聞こえる。
 
「それで、総合評価は?」
「……しなきゃ駄目?」
「だ・め・よ」

 くーちゃんには事前に、デートが終わったらそれぞれの評価を考えておけと言われていた。言われたというか書かれていたというか、そういう趣旨のメッセージがきたというだけなのだけれど、それが憂鬱だった。
 私は、私が他人を評価するなんて烏滸がましいと思っている。失礼だと、思っている。でもはぐらかすことはできない。嘘なんてもっと吐けない。だから一応、評価は出した。最初は百点満点中何点なのかにしようと思ったが、百ある選択肢を選べる気がしなくて、やめた。代わりに『優・良・可』のどれかで判断することにして、選択肢を狭めた。
 そして、私が弟切くんに下した評価は──

「『優』」
「おお。──って、私的にはよろこんじゃ駄目よね。敵軍だもの」
「敵軍って。大袈裟な」
「先に『優』を取られちゃったのは忸怩たる思いよ」

 くーちゃんのため息は、携帯電話を通して私のところまで届いてきた。
 
「くーちゃんがどうにかできる問題じゃないでしょ。弟切くんがただ優秀だったってだけで」
「久々津くんだって負けないわよ!」

 スピーカーの音量を慌てて小さくする。一応、勉強していることになっているのだ。さっきまでゲームしていたのは不真面目極まりない行動だったけれど、それくらいのごほうびを自分に許したくなるくらいに、今日は疲れた。……疲れたことに気づいたら、もっと疲れてきた。くーちゃんが話す久々津くんの良さも耳を通過してしまって、鼓膜で受けとめられない。適当に相づちをうつわけにもいかず、ただ傾聴していた。それは、何度も聞いたことがある演説だった。

「──久々津くんは神さまなのよ」

 くーちゃんの演説が終わる。私は寝返りを打って、携帯電話に背中を向けた。明日は久々津くんとのデートだ。それは、狂信的なほどまでにくーちゃんが愛している相手と私が、ふたりきりでおでかけをすることを意味する。なんだか憂鬱になってきた。それはたぶん、もう投票するのは弟切くんでいいのではないかという、妥協が見え隠れしているからだろう。
 デートも、その発端となった選挙も、すべて大きな間違いだと思いたい。大不正解の判子を押されても、なにも文句は言えない事態がこれから起ころうとしている気がした。

「くーちゃんはさ、なんで久々津くんのことを神さまだと思うの?」

 背中越しの独り言のようなものでも、携帯電話のマイクは優秀で、くーちゃんから戸惑ったような「え?」という声が聞こえてきた。肩甲骨の辺りにある携帯電話を取って手で抱える。スピーカーをオフにして、ないしょ話をするように声を潜めた。

「どっちかって言ったら人気者の弟切くんのほうが、『神さま』っぽいと思うんだけど」

 禁忌に触れてしまったような気持ちのまま、私は尋ねる。

「ねえ、どうして?」

 言葉はなく、ただ、沈黙が返ってくる。なにを言おうか考えているのか。私のばかみたいな質問に腹を立てて、電話を切ろうとしているのかはわからない。向こう側でくーちゃんがなにをしているのかなんて、知ることはできない。

「まぎれもない神さまだと、私が思ったからよ」

 とても静かな声で、くーちゃんは言った。

「はじめて会った時。久々津くんの後ろには大勢の天使がみえたの。その子たちは無垢な光をまとって、じぃーっとみないとわからない小さい羽を持っていたわ。そんな子たちを後ろに侍らして授業を受けている彼を見て、思ったの。ああ、神さまはここにいた。ってね。天使が懐いているのは、神さまだけでしょう? わらわないでね。これ、誰にも言ったことはないの。だってみんなにはみえないから、信じてくれないのよ」

 耳たぶに直接、息が吹きかけられているみたいだった。そのくらい、彼女の吐息が聞こえた。ないしょ話は終わり、明日のためにも私たちは繋げていた糸を鋏で切る。携帯電話を握ったまま、私はまぶたを閉じた。熱を持ったそれは手の中で暴れていて、あついから冷ましてくださいと懇願しているようだった。でも私は無視をして、両手で包み込む。

 くーちゃんと弟切くんは、存外似た者同士かもしれない。

 それが恋だと思ったから恋していると言った弟切くんに、それが神さまだと思ったから神さまだと言ったくーちゃん。そしてふたりとも、誰にも言ったことがないことを私に言った。
 
「お似合いだなあ、まったく」

 ついこぼれてしまった言葉は、拗ねた子供みたいだった。すべて投げ出したくなった。応援しているとは言わなかったけれど、応援するつもりだった。弟切くんの密やかな恋路を、それ以上に密やかに応援するつもりはあった。彼はよき隣人だし、わるい人ではないから。でもこんな気持ちになるなら、すべて聞かなかったことにしたい。

 応援もしない。
 話も信じない。

 全部つっぱねるようにして、伸びをした。携帯電話は、手から解放されて床に落ちた。痛いだろうに、そんなことよりも自由になったことがうれしいのか、音を出さずに静かに落ちていった。

 今の私は、すごくすごく不真面目で、とてつもなく不誠実な人間だ。

 誰にも言っていないことを告げてくれたのは、私を信用してくれている証拠で、過去の私の行動が、ふたりの固く結ばれた口元をゆるめた。名誉なことだと、思いたい。心して受け入れて、大切に仕舞っておかなければならない。
 つっぱねるなんて、もらっておきながら投げ捨てるなんて、しちゃいけない。けれど、たったふたつの『誰にも言っていないこと』が、私の胸にどっかりと座り込んでいる。香箱座りをしている猫を二匹抱えているみたいだ。もふもふしていて、その重さが心地良いけれど、動けなくて、困ってしまう。

 飼ってもいない猫二匹を抱えて、私は眠った。その猫たちは夢のなかで、それぞれくーちゃんと弟切くんに変化した。猫たちは『にゃあ』と鳴かずに、『誰にも言っていないんだよね』と、何度もないた。それは朝目覚めるまで続いた。
 うるさいはずなのによく眠れたのは、なぜなのだろう。
 今日は始業前にくーちゃんが紅白合戦を宣誓することもなく、つつがなく一日が終わった。

 強いて言うならば、弟切くんのファンクラブの子たちからの視線がいつもよりも何倍も鋭利だったが、とくに気にはならなかった。ただ少し、好きな人に好きな人がいると知ったら、この子たちはどんな反応を示すのだろうかとは思った。私が弟切くんの恋心を周りに言いふらすような真似はしないけれど、いつかはばれるだろう。
 あるものはあるのだから、目を逸らせはしない。 
 逃れられない事実をまえにした時、彼ら彼女らはファンをやめるのだろうか。それとも、恋をしている彼をまるごと好きなままでい続けるのだろうか。

 改めて弟切くんを観察してみるとわかる。この人はすごーく、くーちゃんを見ていた。授業中、黒板を見ながらくーちゃんを見ている。さりげなく、見ていないようなふりをして、しっかり見ていた。匠の技だとたたえたいぐらいだった。そして、そのくーちゃんは久々津くんを見ていた。思いきり横を向いて、授業中でもうつむき気味の彼を見つめていた。

 今までもこれからもちゃんと黒板を見ている身としては、ちゃんと授業を聞いて黒板の内容をノートに書き記そうよと言いたいところだけれど、そこまでして学ばなくてはいけないほど、彼ら彼女らは勉強に苦労していない。私くらいだ。この教室で必死に、授業にしがみついているのは。そして、この教室で起こっている視線トライアングル(未完成)に気づいているのも、私くらいだろう。

「おつかれ。今日は久々津とのデートだね」

 明日は終業式だけだから、席に座って学ぶのは今日が今期最後だった。それらがすべて終わったあと、弟切くんが話しかけてきた。

「おつかれさまー。そうだよ、デート。まさか二日連続でするとは思わなかった」
「しかも相手はあの久々津ときた。僕も最初に訊いた時はびっくりしたよ」
「そうだよね。どんな風になるのか、まったく予想がつかない」

 昨日のデートがあったからか、弟切くんとの距離感が近くなった気がする。たぶんファンクラブの子たちからの視線が鋭いのもそのせいだろう。以前からとなりの席のよしみとして話しかけてきてくれはしていたけれど、休み時間とかにここまで軽い感じで話すのは、私はくーちゃん以外にはいなかった。
 そのくーちゃんも、学級委員長として忙しい日々を送っているから、話す機会は少ない。

 弟切くんは、喋りながらも教科書の類いをスクールバッグに仕舞っていっていた。

「まあ悪い結果にはならないと思うよ。いい奴ではあるし」
「弟切くん、久々津くんと仲いいの?」 
「ちょっと話すくらいだよ。体育の時とかペアを組んでもらってるんだ。あいつも朽さんみたいに、僕に興味のない人間のひとりだからね」
「ああ、なるほど」

 妙に納得した。そういえば、なんで気づかなかったのだろうか。体育のペア決めなんてイベント。ファンクラブの子たちが見逃すわけがないのに、毎回目立った事件は起こっていない。それは毎回、弟切くんが久々津くんとペアを組んでいたからだ。流石のファンクラブの子たちも、もう埋まっている席を奪い合うような真似はしない。

 もうひとつ変わったことといえば、弟切くんがくーちゃんのことを「委員長」ではなく「朽さん」と呼ぶようになったこと。その変化に、あからさまに驚くような生徒はこのクラスにはいなかった。このまま順調にいけば、私が言った通りに、弟切くんがくーちゃんのことを「なな」と呼び捨てにする日がくるかもしれない。

「じゃあまた明日ね」
 
 と、弟切くんは私の返事を待たずに颯爽と教室を出ていった。ファンクラブの子たちが彼を囲む隙を与えない素早さだった。昨日私に自分の想いを吐露したからか、弟切くんは今日、隙を見てはくーちゃんに会いに行っていた。おそらく放課後も、くーちゃんを探しに行くのだろう。

「うん。また明日」

 心のなかで応援旗を振る私がいた。昨日悩んでいたことは、眠ったら猫と共に消えていた。

 さて、と。机の下から教科書一式を取り出したその時──

「さっちゃーん!!」

 弟切くんと入れ替わるように、くーちゃんが前方の扉から顔を出した。彼は後方の扉から右に曲がって行ってしまったから、完全にくーちゃんとすれ違っている……と、それよりも今はくーちゃんだ。
 ただごとではない雰囲気があった。

 泣いているからだ。

 驚くクラスメイトたちのあいだを縫うように走り、一回も机にも人にも当たらず、くーちゃんは私に飛び付いてきた。危うく後ろに倒れるところだったけれど、なんとか持ちこたえた私の体幹。この体幹が昨日もあれば、パレードを途中退場することもなかったのに。

「さっちゃん!!」

 私がべつのことを考えているのがわかったのか、くーちゃんは口角泡を飛ばすかのように叫ぶ。

「ど、どうしたの?」
「なぐさめてえ……」

 完全に泣きべそをかいている。眼鏡はちゃんと外していた。でも私のスカーフで涙を拭かないで?

 なぐさめろって言われてもどうしたらいいのかわからず、私はくーちゃんの背中をぽんぽんと叩くしかなかった。頭を撫でるのは、やり過ぎな気がした。
 二年前に少女漫画を読み終わって泣いた私をなぐさめてくれたのはくーちゃんだったけれど、彼女もその時はこんな気持ちだったのだろうか。なにもできない。やるせない気持ちに……。

「しくしく」

 床に叩きつけてやろうかと思った。

 口で「しくしく」と明らかな擬音を言うぐらいの余裕はあるのかよ。拍子抜けした。でも、あまり深刻そうな事態ではなさそうで、少し安心した。
 しばらく教室中の注目を集めたあと、私はとりあえず、自分の席にくーちゃんを座らせた。私は机に腰掛ける。行儀は悪いけれど、弟切くんやほかの人の椅子に座るわけにもいかないからこうするしかない。教科書をまとめて山にして、くーちゃんのしくしくとした涙が収まるのを待った。

 しくしく音がなくなると、くーちゃんは身体をひくつかせてうつむいていた。

「なにがあったの?」
「……嫌われちゃったのよ」
「誰に?」
「……久々津くん」

 私は目を見張った。いろいろな意味で、驚いた。

「とうとうやらかしたのね」
「『とうとう』ってなによ」

 不服そうに、くーちゃんは肩をいからせた。
 
「くーちゃんの狂信っぷりは飽きるほど知ってるからだよ」
「……それなのよ」
「うん? どれ?」

 くーちゃんの感情はころころと変わっていく。さっきまで怒っていたのに、今はしょんぼりしていた。机の上に人差し指を置いて、いじいじと指紋を机に刷り込むかのような動作をしている。

「『あんたの狂信っぷりにはもう飽き飽きだ。うざい』って言われちゃったの」
「いつ?」
「さっき」
「久々津くんって授業が終わってからずっと教室にいたよね?」

 私は久々津くんのほうを見る。授業中とまったく変わらないせいで、本当は石像なんじゃないかと思ってしまうような背中がそこにあった。おそらく今も、せっせとお裁縫をしているのだろう。視線をくーちゃんに戻す。彼女は、久々津くんのほうを見ようとしなかった。

「授業が終わってすぐ、久々津くんのほうから私に近づいてきてくれて、なんだろうなあって思ってたら、さっきの言葉を言われて、なにかの聞き間違いだと思ったから、私、一回お手洗いに行ったのよ。それで、鏡を見て自分と話してたんだけれど、どう考えても確かに言われたことで、この私が久々津くんの言葉を聞き間違えるわけがなくて、一言一句正確に記憶してたのよ。眼鏡を取っても変わらない事実だったの。そうしたら、涙が出てきちゃって」

 くーちゃんは赤い目を再び涙で満たした。ティッシュをあげると素直に受け取り、畳んでから片目ずつ当てていく。白いティッシュはあっという間に灰色になった。限りのない灰色が、くーちゃんの周りに広がる。
 まさか久々津くんが、そうも明確にくーちゃんを拒絶するとは思わなかった。一年生の頃から積み上がってきてしまったものが、この選挙騒動で崩れてしまったのだろうか。最初から、ノリ気じゃないのは私でもわかった。
 
 うざい。

 とは、強い言葉だ。でも私は、久々津くんのほうに共感してしまう。

 だよね、と思う。

 今日一日中見ててわかったことだけれど、くーちゃんは授業中だったとしても、熱心な視線を送り続けていた。弟切くんのように、こっそりと視界の端で好きな人を捉えているわけではない。
 ばっちり。まっすぐ。ずっと。
 見ているほうはしあわせの時間なのかもしれないけれど、見られているほうにとってはただのストレスだ。芸能人でもないのに常に見られ続けて、神さまと言われるのは壮絶な違和感を覚えるだろう。そう思うと、ファンクラブまでできていてその人たちとそれとなくうまくやっている弟切くんが、すごい人なのだと気づく。

 久々津くんはくーちゃんに「うざい」と言う権利があると思う。
 誰かを拒否する権利は、誰にだってある。 

 といったようなことを、少しかいつまんで話すと、くーちゃんは得心がいったかのようにうなずいた。

「そうよね」

 鼻をすんと鳴らしながら、何度もうなずいていた。

「私、ちょっと調子のってたわ」
「仕方ないんじゃないの? それが愛ってものでしょう?」
「愛ね。さっちゃんも言うじゃないの」

『愛』は、昨日覚えた言葉だ。くーちゃんが久々津くんに向けている感情は、愛。最終判断をするのは当人同士だけれど、私は彼女から彼に流れる感情に『愛』と名付けた。
 愛は恋よりも難しい。ゆえに、衝突が多い──と思う。でもしょせん、全部想像だ。

「でも、これからどうしましょう」

 最近は先陣切って引っ張ることが多かった学級委員長も、学級委員直であるまえにひとりの人間だ。間違うこともあれば、迷うこともある。私がそういう時──というか今、彼女の役に立てるかはわからないけれど、やれることはする。それは選択肢を増やすことだ。

 飽きられてうざがられても狂信し続けるか。
 こじれたものを直してもとの日々に戻るか。 
 それとも、このまま完全に関係を切ってしまうか。

 でも今は。

「どうしようもないんじゃないかな。明日はもう終業式だし」
「そうなのよね……」
「せっかくチャットでつながってるんだし、夏休みのあいだに連絡とってみたら?」
「返事、くれるかしら」
 
 いつにもなく、くーちゃんは弱気だった。
 
「自分の非がわかってるなら、まずは謝らないとね」
「私の、非……」

 うつむいてティッシュを眺めているくーちゃんは、ここでないどこかをみているようだった。それからおもむろに顔を上げて、久々津くんを見た。
 
「用事があるのを忘れてたわ」
 
 くーちゃんはひとりごち、立ち上がった。
 
「じゃ、ささっと終わらせちゃいな」

 私はくーちゃんの背中を叩いて、押した。

 ▽

 小声で話しているらしく、久々津くんとの会話は聞き取れない。ただ、くーちゃんが苦しそうな表情をしていることと、久々津くんが心底めんどうくさそうにしているのはわかった。教室はまだ話し声やらなにやらで騒がしいのに、くーちゃんと久々津くんがいる教壇の周りだけは隔離された神聖な世界ようで、レースのカーテンに包まれているような気がした。傾き始めた太陽が教室に充満している埃を照らし、彼女の表情を隠す。

 プリーツスカートがシワになってしまうくらいに、くーちゃんは拳を握り締めていた。そしてそのままの状態で、私の方向へ帰ってくる。
 私は両手を広げて、彼女を受け入れた。泣いてはいなかった。

「私のさっちゃんが、あなたでよかったわ」
 
 くーちゃんは弱々しい呼吸と共に言った。それは事故で落ちてしまった言葉のようだった。私は脳の記録に残さないように、心の記憶に仕舞った。

 私も常々、思っているよ。くーちゃんがあなたでよかった。って。
 
 たとえ同級生に狂信的な感情を向けていたって、あの時少女漫画をこわがっていた私に笑いながらもこうやって抱きしめてくれたのは、まぎれもない朽奈々という人間だ。それは、偽造できない記録で変えられない記憶だ。

 クラスメイトたちは、何事かと私たちを見ていた。監視カメラのような視界をシャットアウトするように、私は視線を窓の外に向ける。

 くーちゃんの背中に回していた右手を、彼女の後頭部に持っていった。編み込みされている髪型を崩さないように、そーっと触れる。今のくーちゃんは、この世にあるなにものよりもほぐれやすく、こわれやすい。私にできるのは、ただ、彼女の気が済むまで抱きしめることだけだ。
 決して、ほぐさぬように。
 決して、こわさぬように。

「さっちゃん」
  
 身体が離れていく。私の前には、目の周りをほのかに赤く腫らした、ひとりの人間がいた。彼女が自分の眼鏡をかけると腫れは気配を消して、学級委員長らしい姿をしたくーちゃんが現れる。
 
「ありがとうね」

 くーちゃんは肩をつんと上げて、笑った。

「ほら、さっちゃん。これから久々津くんとデートでしょう? 楽しんでね。あ、でも。安易に触れたらゆるさないから」
「私はどんなものでも慎重にことを進めていくから、そこは安心していいよ」
「慎重に……? 昨日つまずいて転けたって訊いたのだけれど。それのどこが慎重なのかしら」
「誰に訊いた?」
「弟切くんに決まっているでしょっ」

 満面の笑みを浮かべて、くーちゃんは逃げるように私と距離を取った。互いにアリクイの威嚇みたいになりながらの膠着状態が何秒か続いて、ふいに笑いがこみ上げてくる。

「ふふふっ」
「あっはは」

 今はもう、周りのことなんてどうでもよくて、私たちは笑いあった。

「じゃあ今度こそ。ごきげんよう」

 スカートをつまんで、くーちゃんは膝を曲げた。

「ごきげんよう。また明日ね」
「あははっ。また明日〜」

 憑き物が落ちたかのように笑いながら手を振って、くーちゃんは自分の席に戻っていく。その間、久々津くんのほうは一度も見なかった。そしてそのまま素早く荷物をまとめてリュックサックを背負い、教室から出ていった。 
 
 私も素早く身支度を終わらせる。くーちゃんと話し込んでいたせいで、だいぶ放課後の時間がなくなってしまった。スクールバッグに荷物をすべて入れて、ファスナーを閉める。ずれた机を整えてから、久々津くんに声をかけようとした。──のだけれど、なんと言えばいいのかわからず、私は彼の席の近くで固まる。弟切くんの時は彼のほうからメッセージをくれたりと色々リードしてくれたけれど、久々津くんとのトーク画面には最初に私が送った『よろしく。』のメッセージと彼が付けた既読のマークしかない。
 しばらく逡巡してから、私は言う。

「……ねえ。一緒に帰ろうよ」

 帰ってきたのは、完全なる無言だった。
 久々津くんの手元を見ると、昨日はなにものかわからなかった逆さまの雪だるまが、ねこに変化していることに気づいた。いつの間にか耳や手足がついて、ひとつのぬいぐるみができあがったようだ。昨日からずっと、このねこを作っていたのだろうか。しかも、ただの真っ白なねこではなくて、頭に王冠を付けて赤いマントまで羽織っていた。だから、ねこのおうさまにみえる。

「かわいい」

 思わず、声が出た。

「ちょっと待ってて」

 久々津くんは、自分の机の横にかけてある自分のリュックサックに教科書の類いを仕舞っていく。ねこのおうさま(仮)は裁縫箱の中に窮屈そうに収納されていった。
 私は両手に持ったスクールバッグを握り締めながら、待つ。

 さっきくーちゃんに言われた言葉が、頭のなかで再生された。

 ──安易に触れたらゆるさないから。
 
 肩に触れるな、よりも制限が緩和された気もするけれど、そもそも身体に触れていいのかどうか本人による。弟切くんはそのあたりゆるくて、それこそ安易に手を繋いできたりしてきたけれど、久々津くんはそういうタイプにはみえない。まあ私も、べたべた触りあうのは性に合わないほうだし、お互いのためにも三十センチ定規でもそれぞれ両肩に付けとけておいたほうが良いだろうか。そうでもしないと、肩にすら触れないようにするのは不可能だ。

 今だって、リュックサックの中身をなにやら熱心に覗き込んでいる久々津くんの気をこちらに向かせるために、私が肩を叩くという選択肢は存在する。それには、下心なんてなにもない。
「ねえ、だいじょうぶ?」といったような、ただの確認だ。だから、私は彼の肩を叩こうとした。シワひとつないセーラー服に指が触れようとした時、久々津くんが予備動作もなく立ち上がった。椅子が後ろの机にぶつかる。私の指の側面が彼の背中にかすり、空中で止まった。
 行こうか、の一言もなく、久々津くんは椅子を机の下に押し込んで、リュックサックを背負って教室から出ていってしまった。

「え。ちょ、ちょっと待ってよ」

 私は慌てて彼を追いかける。でも意外とすぐに追いつけた。久々津くんは、エレベーターの前でボタンを押したまま立っている。彼は下に向かうことを示すボタンを連打していた。

「早く乗ってくんない?」
「わ、わかった。ごめん」

 うながされるがままに、私はエレベーターに乗り込んだ。
 つい反射で謝ってつい乗り込んでしまったけれど、エレベーターの使用は基本的に校則で禁止されている。車椅子の生徒など、身体的に階段を使用できない理由がある生徒はオーケーだけれど、私や久々津くんのような生徒はアウトだ。教師は知らない。おじいちゃん先生が使っているくらいだから使用条件は生徒と同じなのだろう。でも、実際に確かめたことなんてなかった。

 久々津くんはそんなこと気にしていないのか、なに食わぬ顔で閉じるボタンを連打している。多く押せば早く動くわけでもないのに、意外とせっかちなのだろうか。

「久々津くん、エレベーターは使っちゃ駄目じゃなかったっけ」
「あ。まあでも、教師が納得できる理由があれば乗っていいんだよ」

 その顔は、掟の抜け道をみつけたいたずら小僧の表情だった。
 
「その理由はなに?」
「一日中針仕事してて指が疲れた」
「全然関係ないじゃん」

 見つからなきゃいいんだよ、と呟いて、久々津くんは一階のボタンを押した。今度は連打しなかった。たった一回押しただけで、エレベーターが動く。けれど、なにかがひっかかっているのか、エレベーターは急ブレーキをし続ける車みたいにつんのめった動きをしていた。酔いそうだった。

 正方形の対角にいるとはいえ、今こうして久々津くんとふたりきりで狭い密室にいることをくーちゃんに知られれば、二重の規則違反を理由に刺されかねない。彼の言うとおり、見つからなければ平穏無事に終わるけれど、一階に着いて扉が開かれた瞬間誰かと会ってばったり、なんてこともある。
 その時に、一日中針仕事していて指が疲れたから、なんていう理由が通るとは思えない。それに私には、そんなこじつけに近い理由すら持ち合わせていなかった。ただの元気なひとりの生徒だ。学力以外で進学が危ぶまれる。今まで生真面目に校則に則って得ていた内申点が……、なくなる。

 そんなことを考えていると、エレベーターが止まった。もう一階に着いたのかと思えば、上部にある液晶には『2』の文字が表示されていた。私は、誰が乗り込んでくるのかと身構える。けれど、扉が開く気配はなかった。
 扉は開かず、エレベーターは動いていない。あのひっかかりを、今は感じない。

「え。もしかして、止まった?」

 最近はさらによく止まると訊いてはいたけれど、まさか自分が利用している時に止まるとは思わなかった。いや、まあ、そもそも私がエレベーターを使うのは校則違反だから、罰が当たったのかもしれない。なにも考えずにノリで乗り込んだ結果。動かず開かない鉄の箱に閉じ込められた……?

「ど、どうしよう……」

 私の頭のなかは一瞬で真っ白になった。

「管理センターとかに問い合わせるんだっけ? 電話マークのボタンを連打すれば繋がるんだっけ? っていうかこれ説教ルート確定……」
「ルート確定とか、オタクみたいなこと言ってんじゃねえよ」
「べつになに言ったって勝手でしょ。オタク用語じゃないし」
「完全にオタク用語。ラノベの題名とかに使われてるじゃん」
「そういうので判断するのは危険だよ。後ろから刺されるよ」
「今刺されそうになってるのは早蕨のほうでしょ」
「はあ?」
「肩に触れるのも禁止なんじゃなかったっけ?」

 言われて、はじめて気づいた。慌て過ぎて、気づかなかった。

 今私は、久々津くんの肩を掴んでいる。『開く』のボタンをカチカチカチと一心不乱に押し続けている久々津くんを見ていると、彼がここではないどこかへ行ってしまうような気がして、不安が募って、無意識のうちに引き留めたくなってしまったのだ。久々津くんの肩をわしづかみにしている手を急いで離す。引き留めるもなにも、閉じ込められているのだからどこにも行けないというのに、私はなにをやっているのだろう。

「ごめんなさい。あ、痕とかなってない?」
 
 戦々恐々、私は尋ねた。肩に触れた上に傷もつけたら、私は本当にくーちゃんに刺される。

「そんなやわい身体してないし、へーき」
「あっそ、か」

 肩のちからが抜ける。スクールバッグを落とすところだった。私は一歩二歩と後ろへ下がる。久々津くんに触れないようにするためだ。再び、彼とは対角の位置に立った。
 慌てるとろくなことが起きないのはわかっているのに、どうにも、私はすぐに我を失いがちだ。もっと冷静でいなくては……。

「ったく。これだから」

 久々津くんは額をおさえていた。

 これだから──キマジメは。とでも、言いたいのだろうか。でもこれはもう直らない私の癖で、直そうとも思っていない。私からキマジメを取ったら、入試合格がもっと危ぶまれる。今は無断でエレベーターを使用し、あまつさえ停止させたことでもっともっと危うい状態になった。
 キマジメさだけが、取り柄なのに。

「なあ」

 久々津くんがボタンを押しながら言った。リュックサックに覆われたくーちゃんくらいの小さな背中が、いつもよりも大きく頼もしくみえる。エレベーターに閉じ込められるというイベントが、私の心を弱くさせているのだろうか。

「なんでそんな角にいんの? めり込みそうじゃん」
「触れないようにするにはこうするしかないかな、と思って」
「そんなに委員長のことが怖いのかよ」

 久々津くんは振り返り、おもしろいものを見たといった風に笑った。小さく口角が上がっただけだけれど、確かに「ふふっ」と笑い声が聞こえた。普段から仏頂面な人が笑った姿を目撃すると、胸にくるものがある。
 これはまたくーちゃんに刺されそうだ。私は何回、刺されるのだろう。それにしても、怖い? 私が、くーちゃんのことをおそれている?
 
「どうだろう……喧嘩で負けたことはあるけど、怖いって思ったことはないよ。突飛な思いつきに振り回されることはあっても、基本的には常識人だし」
「あ。互いに頬骨を折ったっていう喧嘩のこと?」
「聞いてたんだ」
「同じ部屋にいたんだから、聞こえるだろ」

 その時、ドンッ、と。
 久々津くんが、エレベーターのボタンの下にある部分を蹴った。するとエレベーターがガタゴトと揺れだした。

「なにしたの?」
「叩けば直るんだよ」
「ブラウン管テレビじゃあるまいし。蹴っちゃいけないでしょ」

 私が呆れていていると、久々津くんはもっと呆れているような表情をしていた。

「これ、不具合じゃなくてただのいたずらだから」
「いたずらって、誰がやったの」

 尋ねた瞬間、動き出したエレベーターの扉が開いた。一階に着いたんだ。幸いにも、エレベーターの前には誰もいなかった。

「早く出ろよ」
「ちょっとは落ち着かせてよ」
「エレベーターに乗ってるところ、誰かに見られていいのかよ」

 それはまずい。

 私は急いでエレベーターから出た。辺りを見渡して誰もいないのを確認してから、ほっと息を吐く。エレベーターはその口を閉ざして、再び誰かを乗せるために上昇していった。この場にいるのもまずいと思った私は、薄暗い廊下を歩いて校舎の外に出る。たった数分間の閉じ込めだったのに、何日間も自由を失った気がして、私は思い切り息を吸って、吐いた。

 深呼吸しているあいだ、てっきり久々津くんはどこかで待っていてくれているのだと勝手に思っていたのだけれど、見渡す限り彼の姿はなく、私はひとり、ぽつんと立ち尽くす。

 エレベーターの停止についてなにか知っていそうな感じがしたから訊きたいことがあったのだけれど、いないのならば仕方がない。次の機会に。訊けそうだったらチャットで訊いてみよう。教室や廊下で訊いたら、必然的に私たちがエレベーターに乗ったことが露見してしまう。
 
 正門の辺りでぼーっとしていると、松葉杖を持った生徒が歩いてきて、私を追い越した。おそらく、さっき上へ昇っていったエレベーターに乗って降りてきたのだろう。私たちが乗ったことで、この人は上階で負傷した足を松葉杖で支えたまま、しばらく待たなくてはいけなかった事実を目の当たりにして、私は、なんてことをしてしまったのだろうかと、後悔した。次からはどんなに急かされようとも学校のエレベーターには乗り込まないぞと意気込み、私は帰路へつこうとした。 

「あれ?」

 いつも通り学校の最寄り駅へ向かっている道中──ちょうど真ん中あたりまで歩いてきた頃──私は気づいた。

「私、久々津くんとデートするんじゃなかったっけ……」

 そんな私の呟きに答えてくれる人はどこにもいなかった。急に立ち止まり考え込む私を邪魔に思う人はいても、そんな私を心配するような人はいなかった。
 カラスの大群がカアカア鳴きながら、私の頭上を滑るように飛んでいく。夕陽はもう半分以上顔を隠していた。
 道端で途方に暮れた私に手を差し伸べてきてくれたのは、親切な通行人でも頭上を飛ぶカラスでもなく、携帯電話のバイブレーターだった。久々津くんとのトーク画面に、位置情報が送られてきていた。

 ここに来い。

 ということらしい。
 気を取り直して、私は目的地まで歩いた。
 
 ちょっと。いやだいぶ雑というか。心が休まらない合流の仕方だった。待ち合わせ場所は、駅直結のショッピングモール。そこはうちの学校の生徒も放課後に寄る場所で、私自身も何度かくーちゃんと遊びに来たことがある。でも行ったことはあるとはいえ、巨大なショッピングモールの中からひとりの人間を探すなんてことは困難だった。大まかな場所がわかっていても、細かい場所まではチャットに書かれていない。何度携帯電話を見ても、久々津くんがショッピングモールのどのエリアのどの場所にいるのか、わからない。

 私は再び、途方に暮れた。

 ぐう、とお腹が空く。自然と足はフードコートへ向かっていた。でもそれが、功をなした。

 久々津來くんはフードコートにいた。
 さまざまな匂いが充満するフードコートエリアに着いた途端、私は久々津くんを見つけることができた。彼がとても目立っていたからだ。一瞬人違いかと思ったけれど、あの薄めの金色とふわふわした髪は、確かに久々津くんだった。私はすっかり迷子の気分だったので、早歩きで彼に近づく。
 私の足音に気づいたのか、久々津くんはおもむろに顔を上げた。

「あ。遅かったな」

 久々津くんをまとう雰囲気が、学校で会った時とは異なっていた。

「遅れちゃってごめんなさい。でもくわしい合流場所がわからなかったんだよ」
「なら連絡しろってば」
 
 その手はすっかり忘れていた。

「忘れてたのかよ。間抜けだな」

 雰囲気は異なっていても、久々津くんは久々津くんだった。つばでも吐き出すかのように言いやがった。

 久々津くんはフードコートの角にある席にひとりで座っていて、テーブルにはご飯が乗ったトレーではなく裁縫箱や布、綿が入った袋を広げていた。だからか、周りの視線が痛い。まあこの視線は本来、四人席をひとりで占拠している久々津くんに向けられたものだ。けれど、その席に近づき周りから『連れ』として認識されていた私にも流れ弾が飛んできた。
 今、後ろを通った人に舌打ちをされた。
 心のなかで舌打ちを打ち返す。流石に、見ず知らずの人に突っかかるほど私も子供じゃない。でも、むかつきはする。

 そんなことよりも。私としては混み合う時間帯において席の長時間占拠は見逃せない。合流できたし、さっさとほかの場所へ行ってしまおう。

「それで、どこに行くの?」

 私は席に座らず、傍らに立ったままで、久々津くんの行動を待った。今回のデートプランも弟切くん同様、すべて候補者側に委ねられている。私は親鳥についていく雛のようにしていればいいんだ。

「どこってここだけど?」

 久々津くんは私を見ずに、手に持っていた針を針山に刺した。それからテーブルを指さす。もう片方の手には絆創膏が貼ってあって、あのねこのおうさま(仮)がいた。

 後ろのほうで注文の品ができあがったことを知らせる端末が鳴り始め、それに驚いたのか、子供の大きな泣き声も一緒に聞こえてくる。人々の話し声が、一段と大きくなった。

「ここ?」
「そう、ここ。突っ立ってないで座れば? あ。四人席をふたりで使うのはマナー違反、とか思ってんなら、それは杞憂だって教えてやるよ。どんなに混んでたって、ここには誰も座らない」

 じゃあ、どんなに混んでても座らない席に座っている久々津くんはどういう人間なのだろう。いろいろとひっかかることはあるけれど、四人席にふたりで座るよりも通路にずっと立っている私のほうが周りの迷惑であることは明白だった。
 久々津くんの正面に、私は座る。そこしか空いていなかった。彼の両側にはそれぞれ、リュックサックと革製っぽい大きなトランクが置かれていた。

 目的地は、ここ。
 目的地は、ここ?
 
 何度反芻しても、最終的には疑問符がうかんでくる。比べちゃいけないのだろうけれど、弟切くんとの遊園地デートとはだいぶ差があるというか、ジェットコースターに乗った気分というか……。こういうのも、投票に反映させなくてはいけないのだろうか。いや、比べちゃいけないのではなくて、私は比べないといけないのだ。
 選挙とは、そういうもの。最後の一票を預かる者として、厳密に審査しなくてはいけない。

 スクールバッグを膝の上に置いて、私は久々津くんを見る。

 久々津くんが目立っていた要因は、その髪色ひとつではなかった。学校からそのままの格好(セーラーの制服にスクールバック)で来た私と違い、彼は胸元がふりふりした白いブラウスに黒いショートパンツ。黒いソックスガーターに白いソックス。そして黒いローファーと、全身をモノクロで染めたものだった。彩度がないのに、きらびやかな格好だった。

 放課後デートというくらいだからてっきり制服で執り行われるのだと思っていた私が間違っているみたいに、久々津くんの衣服はちゃんとしていた。私と並んでいるとただの『連れ』というよりかは、主人と従者みたいだ。私が従者で久々津くんが主人。
 ジャンクフードに興味を示したお坊ちゃんが従者と共にハンバーガーを食べに来た──みたいな。そんなドラマのワンシーンが脳内で再生される。

「エレベーター出てすぐにいなくなったのって、着替えるため?」
「そうだよ。デートに制服はないだろ」
「いやそれ私の前で言う? ばりばり制服なんだけど」
「あくまでも『俺は』制服でデートしたくないってだけ。勝負だからな」
「ふーん。そんなに勝ちたいんだ。意外」
 
 そう言うと、久々津くんは露骨に顔をしかめた。意外と思ったのは私の本心だ。くーちゃんの思いつきに彼はいつだって不満げで、迷惑そうにしていた。今回だってそれは同様だったはず……。

 なに言ってんだこいつ、とでも言いたげな久々津くんは頭を振って、
「その服なんだって思ってるだろ」
 と話を変えた。
 
「まあね。高そうで汚れそうだし」

 ジャンクフードを食べるにしろ食べないにしろ、放課後出掛けるために着る服というよりかは、パーティーとかそういう高級そうなところに行くための服にみえた。
 
「これが俺の普段着なの。それと、べつに高くはない」
「普通の服屋さんには売ってなさそうだけど……」
「売ってないだろうね。これは俺が作ったんだからさ」
「え。そうなの?」
「嘘なんて吐かねえよ」

 裁縫が得意だとは知っていたけれど、まさか一から服を作れるとは思わなかった。まさか、去年の文化祭の時の衣装も、久々津くんの手作りだったのだろうか。てっきり、どこかのお店で買ってきたものだとばかり思っていたけれど……、いやいや。流石に、十何着も短時間で手作りするのは不可能だ。
 それに、系統が違う気がする。久々津くんが着ている服とあの時の文化祭での服は、ジャンルが違う。
 
 子供の泣き声が小さくなり始めた頃、久々津くんは再び、ねこのおうさま(仮)に針を通していた。その作業の邪魔をするのは憚れるのだけれど、どうしても訊きたいことがふたつあった。
 
「あの、訊きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「実は、ふたつもあるんだけど」
「だからなに」

 針を針山に戻し、ジト目になりながら言った久々津くん。このままだと答えてくれるものにも答えてくれなくなると思い、私は思いきって言う。

「なんで、この席には誰も座らないの?」
「んだよそんなことか。簡単単純。ここは電波が弱いんだよ。ほら、そこに張り紙があるだろ」

 久々津くんが指さした方向を見ると確かにそこには、真っ白な人のような形をしたものが、汗をかきながらお辞儀をしているポスターが貼ってあった。
 本当に、簡単で単純な理由だった。
 携帯電話を見てみると、アンテナは半分になっていた。メッセージを送り合うくらいだったら影響はないだろうけれど、動画を観たりするのは大変そうだ。現代人にとって手放せないものは、もしかしたら携帯電話よりも電波なのかもしれない。

「ふたつめは?」

 久々津くんが急かすように言った。実際、早く済ませたいのだろう。ねこのおうさま(仮)を握る手にちからは入っていないけれど、空いている右手の指はテーブルの上にある布を忙しなく叩いていた。

「エレベーターが止まった理由を、久々津くんは知ってるの?」
「…………」

 小声でなにかを呟いた久々津くん。この距離でも、くちびるが動いたということしかわからなかった。
 
 再び、後ろが騒がしくなる。今度は誰かがうどんかおそばをこぼしたらしい。「拭くもの! 拭くもの!」という慌てた声や、「お怪我はありませんか」という冷静な声が聞こえてきた。フードコートは、いつ来ても混沌としている。老若男女さまざまな人々が集まる場所だから仕方がないのだろうけれど、その混沌は、少し、苦手だった。
 
 久々津くんがひとつ息を吐いた。エレベーターが止まった理由を、話してくれるらしい。
 
「エレンのせいなんだよ」
「エレン?」

 整備の人の名前だろうか。

「エレベーターにいるやつだから『エレン』。本名は知らねえ」
「え? ん? 『エレベーターにいるやつ』? は?」
 
 話に、暗雲が立ち込めてきた気がする。

「そういう反応が普通だよな。でも本当にあのエレベーターにはツいてるらしい」
「ツいてるって、幽霊がツいているとかの、『憑いている』?」
「そうだよ」
「うっそだあ」
「嘘は吐かねえよ──まあ俺も、実際にそいつをみたわけじゃない。卒業した先輩から、エレベーターが止まった時の対処法を聞かされてて、試してみたらあたってたってだけだ」

 幽霊どうこうよりも、久々津くんに親しくしてる先輩がいたという事実のほうに驚きを隠せない。その先輩は、みえる人だったりするのだろうか。

「その聞いた対処法っていうのが、蹴ることだったの?」
「いいや。エレンは構ってちゃんだから、こっちが知っていることを知らせればいたずらはやめるんだとさ」
「ああ。だから久々津くんは、ボタンを連打したり蹴ったりしたんだね」
「連打は関係ねえよ」

 なんだ。ただせっかちなだけだったのか。

「へえ……、そんなことがあるんだ。びっくり」
「信じるんだな」

 ぽつり、と。一瞬ひとりごとかと思ったその言葉は、しっかりと私の耳に届いた。

「幽霊だのなんだのって、そう簡単には信じないだろ」
「いや。神さまが言うなら本当なのかなって、妙に納得しちゃって」
「早蕨まで俺を神さま扱いすんじゃねえよ。もうただの人間だっつーの」

 弱々しく口角を上げる久々津くん。
 しまった、と思った頃にはもう遅くて、私は口を開けたまま固まるしかなかった。

 忘れたわけではなかった。

 くーちゃんが久々津くんという『神さま』に拒絶されてから、まだ一時間も経っていない。あの場はとりあえず収まったけれど、彼が『神さま』という単語に敏感になっているのは、部外者の私でも予想できることだった。
 
 久々津くんはくーちゃんの『神さま』だった。もう、過去の話だ。たとえ私が今日、久々津くんに触れてくーちゃんに刺されたとしても、それは久々津くんがくーちゃんにとっての『神さま』だからではない理由で刺されるのだと、知っていたはずだ。彼と彼女のあいだをつなぐ感情がなんというのか今は曖昧なままで、それはやっぱり『愛』に変わりはないのだけれど、ほかの名前が付くのかは誰にもわからない。

 私が固まっていると、久々津くんは作業を再開させた。いつもみたいに手元に視線を落としている彼の姿を、真正面から見るのははじめてだった。久々津くんは無表情だけれど、絡まり過ぎたこの世の摂理をすべて忘れたかのような表情をしている。忘れたがっている、といったほうが近いのかもしれない。今はただ、自分の手の中に存在する小さな世界にだけ集中したい──そんな意思が伝わってきた。

 すべて、私の妄想だけれど。

「怒ってねえの」

 ふいに、久々津くんが言った。下向きの言葉は聞き取りにくかったけれど、叱られている子供みたいな声だった。

「なにを」
 
 本当に心当たりがない私は尋ねる。

「なにを、私が怒るの?」

 なにかを誤魔化すようにテーブル上の布をかき集め始めた久々津くん。しばらく見守り、待っていると、布で彩られていたテーブルがひとつの裁縫箱とねこのおうさま(仮)以外なくなって、クリーム色の、シミがあるただのテーブルになっていった。そして裁縫箱すらテーブルの上からなくなり、すべてが茶色いトランクに仕舞われると、久々津くんは口を開いた。
 
「俺が、委員長に『うざい』って言ったこと」
「ああそのことね」

 なんだそのことか、とは思った。傍から見れば、くーちゃんと私の関係はさぞ親密に見えるだろうし(教室で人目もはばからずに抱き合うくらいには仲が良いと思われている)、それによる、『傷ついた友だちのためにその子の友だちが怒る』という現象を、久々津くんは予想していたのだろう。けれど実際、私たちのあいだには片方のためにもう片方が怒るなんてことはない。

「わるいのは、久々津くんの気持ちを慮らなかったくーちゃんのほうでしょ」
「そういうもんなのか? おまえたち同士の友情って」
「友情がなんなのかは私にはわかんないよ。くーちゃんとはべつに、友だちってわけじゃないし」
「……じゃあなんなんだよ。早蕨と委員長の関係って」
 
 久々津くんは、突然無理難題を押しつけられたかのような表情をしていた。そんな彼の疑問に、私はすぐ答えられる。そんなものは最初から決まっているからだ。

「『さっちゃんとくーちゃん』だよ」
「んだよ、それ」

 ふふっ、と久々津くんが笑った。張り詰めていたものが、少しはゆるくなったみたいだ。
 私──早蕨計と朽奈々は『さっちゃんとくーちゃん』という関係で、それ以上でもそれ以下でもない。だから、そう言うしかない。

「あーあ。びびってた俺がばかみたいじゃん」
「びびってたの?」
「そりゃあね。人を拒絶するって大変なんだよ」
「心労お察しします」
「なんか腹減ってきた。食うか」

 その時、私のお腹が鳴った。フードコートに響きわたる、どんななき声よりも大きい音。一気に体温が上がっていくのを感じた。

「ライトにいく? それともハード?」
 
 久々津くんが笑いを抑えているのが、はっきりとわかった。けれどそれに突っかかることもできずに、私はうつむく。
 
「夜ご飯が食べれなくなっちゃうから、軽めで」
「だとするとここならデザート系か……。ちっさいドーナツぐらいなら奢るぞ」
「それでおねがいします」
「じゃあ待ってろ」

「はい……」と、我ながらとても弱々しく返事した私は、火照った頬を室内のクーラーのちからでどうにか冷まそうと、顔を手であおぐ。時間が自然と流れていくことを忘れてしまうくらいに、脳は熱されていた。

 ▽
 
 カツカツといった、上品そうな音が聞こえて顔を上げてみれば、それぞれ違うチョコレートがかかったドーナツを両手に持った久々津くんがいた。

「ホワイトとブラック、どっちがいい?」
「ブラック」

 私は、とくに考えもせずに即答した。

「よかった。俺、ブラックチョコ食べれないんだよ」
「じゃあなぜそのふたつを選んだの?」
「安いやつはこのふたつしかなかったんだよ」

 くちびるを尖らせながら、久々津くんはブラックチョコレートがかかったドーナツを私に手渡してきた。

 桃色と白色のストライプに包まれたドーナツは、冷えてぼそぼそしていた。チョコレートだけが、本領発揮と言わんばかりにそのほのかな苦みを主張させていて、温度差で白くなった部分すら武器にしているようだった。

「食い終わったらちょっと付き合えよ」
「どっか買い物にでも行くの?」
「いや。そういうわけじゃねえ」

 手に付いたホワイトチョコレートをなめながら、久々津くんは言った。

「ここ、本当はヤなんだろ」

 最後の一口を思わず喉に詰まらせそうになった。胸を叩いて、どうにか胃の中に落とす。

「な、なんでわかったの?」
 
 ドーナツに水分を取られてぱさぱさになった口内をそのままに、私は言った。

「なんとなくだよ」

 久々津くんは荷物を持って、歩いて行ってしまった。
 どこかのお坊ちゃんみたいな服装にリュックサックは似合わなかったけれど、茶色いトランクは特注品なんじゃないかと思うくらいに、とても似合っていた。まさか、トランクもお手製? そんな『まさか』を考えながら、私は敏捷な久々津くんの後を追った。

 少し歩き、振り向いてみる。トレーを持って辺りを見渡している人は何組もいるというのに、私たちが座った席は空いたままで、まるでそこにだけ結界が張られているかのようだった。誰も座らないという四人席に、電波が弱い以外の理由がありそうだと思うのは、勘ぐり過ぎだろうか。

「なにしてんだよ。行くぞ」
「ああ、うん……」

 エレベーターから降りる時にはなかった「行くぞ」という言葉が、頭のなかで反響する。手を繋がれたわけでもないのに、私の身体は、久々津くんのほうへぐいと引っ張られた。みえない糸でつながれているよう──と表現すると、まるで私が迷子紐をくくりつけられた幼子か、リードを付けられた動物みたいな感じになるけれど、実際そんな感じで、私は久々津くんの後ろを必死についていった。
 歩くのが、異様に早いのだ。小走りしないとあっという間においていかれる。

「ちょ、ちょっと待って」

 胃の中にある、まだ消化しきれていないドーナツが踊って、私は思わず柱に手をつく。これ以上動いたら、胃酸が逆流してきそうだった。しかも、昨日傷つけた膝が痛んできた。

「もう少しだよ。気張れ」
「気張れっつったって、歩くのが速いんだよ。久々津くん」
「あ。まじか」

 久々津くんが戻ってきた。改めて見ると、本当に、中学生の放課後デートの格好ではない。私のほうが間違いで、不釣り合いだ。今すぐにでも服屋さんに飛び込んで、彼と並んでも違和感のない格好に着替えたほうがいいだろうか。

「いや。これは俺がすきでやってることだから」
「……口にでてた?」
「うん。言っとくけど、服っていうのは相手に合わせるものじゃなくて自分に合わせるものだからな。あとTPO」
「含蓄のあるお言葉をありがとう。普段着って、迷うよね」
「早蕨は、下手にごてごてするくらいならシンプルなもののほうが似合うと思う。素材がいいし」
「参考にさせてもらうよ」

 少し話をしていたら、胃の中も膝の痛みも落ち着いてきた。ちゃんと両足で立って、床に落としていたスクールバッグを拾い上げる。スクールバッグも私同様、くったりとしていた。

「さっきもう少しって言ってたけれど、目的地があるの?」
「あ。まあな。たぶん、気に入ると思う」
「ふーん。楽しみにしといてあげるよ」
「なんで上から目線なんだよ」

 苦笑しながら、久々津くんは先を行った。その足はゆっくりで、私は早歩きしなくても彼のとなりに並んで歩くことができた。
 くーちゃんと同じくらいの背丈。視界の端には、久々津くんのつむじが見える。薄い金色をなんというのかはわからないけれど、そういえば、焼く前のドーナツに似ているなと思った。私の髪は一回も染めたことのない自分でも自慢の黒髪だから、たとえるならブラックチョコレートだろう。そうなると、私の髪は久々津くんの苦手なものだということになる。その事実に、少し、胃の上の辺りがぐっとなった。私の胃は、ドーナツの消化にまだ手間取っているのだろうか。ドーナツは、軽食ではなかった?

「ついたぞ」

 前を向くと、そこはバルコニーだった。人っ子ひとりいない少々寂れた空間。ベンチの類いもない。ただただコンクリートの床が広がって、錆びた鉄パイプの柵があるだけの場所。けれど、確かに、気に入った。
 私のすきな場所だ。混沌がない世界が、そこにはあった。

「ここ、立ち入り禁止区域とかじゃないよね?」
「流石の俺もそこまでやんちゃしねえよ」

 ほとんど黒に染まった空には星があった。腕時計を見ると、もう二十時を回っていた。遊園地の時よりもデートの時間が長いことに気づく。でも今回もちゃんと、家族には帰りが遅くなる旨を伝えてある。それに、ここは駅直結だから帰ろうと思ったらすぐに電車に乗り込める。私の自宅がある駅は、この駅からたったの二駅だ。

「そういえば、久々津くんってこの街に住んでるんだよね」

 だから、一旦着替えに帰るなんていうことができた。

「そうだよ。ちょうど、あの辺」

 久々津くんは柵に寄りかかり腕を伸ばした。

「いいなあ。学校と家が近いのって、寝坊しても平気だ」
「たった三年間だけ距離が近くても得じゃねえだろ」
「そっか。そういうもんか。私たちもう三年生だし、久々津くんが寝坊できるのも今のうちだね」
「俺、寝坊なんてしたことねえし。来年からは時間なんてないようなもんだ」
「そんなに自由な校風の高校にいくの?」
「高校にはいかねえよ」

 強い風が吹いて、久々津くんの髪が荒ぶった。私は彼の横に並んで、横顔を覗き込む。冗談を言っている表情ではなかった。

「なんでって、訊いても平気?」
「へーき」
「なんで?」
「俺の家、雑貨屋なんだ。継ぐんだよ」
「じゃあもしかして、お裁縫してるのって」
「そのための修行。まあ、俺なりの受験勉強だな。将来的には俺が作ったやつも店に出すんだ」

 久々津くんの表情は今日一番輝いてた。風が彼の前髪を巻き上げて、顔の輪郭をはっきりと私に見せつけてくる。
 授業中も熱心にしていた針仕事は、本当に『お仕事』だったんだ。私が入試のためにノートを黒く染めていたように、久々津くんもまた、将来のために針に糸を通していた。急に仲間を見つけた気分になった私は、頭のなかにうかぶいろいろな疑問を整理するのに精一杯で、柵の手すりを握り締めていた。錆びて剥がれてひっくり返った鉄が、手のひらに刺さる。

「ちなみにこれ、誰にも言ってない。早蕨にだけ言った」
「なんで?」
「早蕨は勉強がまったくできないうえに真面目過ぎる。で有名だからな。言いふらすようなことはしないだろうし」

 面白がっているように笑う久々津くん。
 
 ん? ちょっと待って。

「え!? わ、私が勉強できないってみんな知ってたの!?」
「逆になんで知られてねえと思ってたんだよ」
「だってうちの学校、成績の順位とか発表されないし……」
「早蕨のテストを覗き見ることは一組の誰にだってできるだろ」

 私は頭を抱えた。手にくっついていた鉄の粉が顔に降りかかる。久々津くんは、ふふふと笑っていた。
 
「そうへこむなよ。ほかのクラスには早蕨よりも成績の低い奴がいるって」
「いやでも私だけじゃん。一組で入試合格が危ういのって」
「一組では、な」
「そこがあれなんだよ」
「なんなんだよ。煮え切らねえな」

 煮え切るわけがなかった。今まで──ばれていたとはいえ──ずっと言えなかった。優秀なクラスメイトには誰にも。くーちゃんにだって、言ったことはない。自分の学力が低いことや、それをコンプレックスに思っていることを、告白したことはない。
 お腹の奥に溜め込んで、消化も吸収もされなくて、こぶになった想い。今それが、暴れ出している。言え。言ってしまえ。頭のなかで声が響く。言っても楽になるわけじゃないのに、私の口は開き、舌がまわる。
 
「……高校って普通、浪人しないけど、私の学力って浪人しないといけないくらいのものなんだよ。希望の高校は、とおい世界なんだ」

 久々津くんはなにも言わない。たぶん、「知ってる」と思っているのだろう。私のテストを覗き見た生徒がいて、その生徒が私の成績を言いふらしていたのならば、点数だって知っているはずだ。どの高校に進学するのかも、知られていそうだ。だとすると、身の程知らずで無謀な願いを抱えていると知っていながらもみんな、私のことを『キマジメ』と呼んでいたのだろうか。
 なにそれ。はずかしい。

「もう、ね。ふあん、なんだよ」

 久々津くんはなにも言わない。どんな表情をしているのかもわからない。私が現実から目を逸らしているからだ。

「みんなみたいな余裕なんてないから、今回だって選挙だなんだって騒げなかった。そんなことしてたら成績がもっと落ちちゃうから。でもさ。みんなが楽しんでいる状況に私一個人の事情で水を差すなんて、そんなの、サイテーじゃん」

 私のどこが、『キマジメ』なのだろうか。
 真面目に勉強しても身にはならず、誠実さなんて毛ほどもなくて、なんにもない。
 今回の選挙だってそうだ。本当の生真面目ならちゃんとした理由を持ってふたりのうちどちらかを責任持って選ぶ。それなのに私は、ただの休息としか認識していなかった。
 わかっていなかった。
 休息を努力しない理由にして受験勉強から逃げている──いや。逃げきれていない。足すら動かせなくて、ただ目を逸らし続けているだけだ。視界の端には『受験』の文字がしっかりと刻印されている。

「確かに、サイテーかもな」

 久々津くんが言った。

「自分がなにかから逃げきれなかった理由を、ただ周りに流されたからだって言うのは、サイテーかもな」

 久々津くんは淡々と言った。

「でも、どっちもそんな大層なもんじゃねえよ」
「……え?」
「選挙って言ってもただの遊びだ。いつもの委員長の思いつきだ。早蕨にとってはただの休息でいいんだよ。普段から、手ぇ真っ黒にしてんだからさ」
「でも、みんなは真面目に選んだんでしょ? 弟切くんと久々津くん。恋愛するならどっちって」
「どうだろうなあ。存外テキトーなんじゃねえの」
「でも、それは選挙として駄目なんじゃ……」
「そんなだから早蕨はキマジメなんて呼び名がつくんだよ」

 すべてを吹き飛ばすかのように、久々津くんは快活に笑っていた。今日一番の輝きが更新される。

「逃げろ。早蕨」

 一変、真剣な表情に変わった。バルコニーの入り口から差し込む白い室内灯の明かりが、久々津くんの横顔を照らしている。

「真面目であることは美徳かもしれねえ。けど、それで自分の首を絞めちゃあ元も子もねえだろ。んで、受験は確かに大切だ。みんなだって、本当に余裕綽々ってわけでもねえだろうよ。だから『恋愛するならどっち』なんていう選挙が始まったんだ。現実から逃げたいんだよ、みんな。でさ。俺は思うんだけど、落ちたって網はあるんだ」
「……滑り込み合格ってこと?」
「違う。危険を冒してまで普遍的なルートを辿らなくても、人生なんとかなるってことだ」
「ならないよ。なってたら、みんな高校なんていかないでしょ」
「そりゃあな。なんせ『網』だからな。歩くのが大変なんだよ」

 久々津くんは空を見上げた。彼は視線の先に、みえない星を捉えているようだった。

「でも、早蕨なら歩けるさ」

 背中をばしっと、叩かれた気がした。それは完全に錯覚だ。だって、久々津くんと私の距離は、そんなに近くない。
 上を向いて、首元をぱたぱたさせる。風が暑さを軽減してくれていたはずなのに、私の身体は妙にあつかった。

「落ちたらうちに店員として雇ってやるから、資金面は安泰だな」
「笑えない冗談はやめてよ。私はしっかり、ちゃんと、高校に進学するんだから」
「真面目だなあ」
「……それが、取り柄ですから」

 真面目に勉強して、地道に努力すれば、手の届かない世界でも、触れることくらいならできるかもしれない。と、私は得意げに言った。
 
「俺に投票する気になった?」

 …………そうだった。これは人生相談ではなくて、選挙のためのデートなのだった。それにしても、久々津くんは意外にも露骨に選挙の話をしてくる。そんなに勝ちたいのだろうか。本当に意外だ。いや。もしかしたら、楽しみたいのかもしれない。
 受験をしなくても、彼には実家のお店を継ぐという将来が決まっている。

『恋愛するならどっち』

 なんていう『あそび』に参加できる時間は、久々津くんには今しかないんだ。誰にも知らせないまま、彼は普遍的な世界から姿を消す。久々津くんが歩む人生が網の上なのかどうかはわからないけれど、今私ができるのは、目の前のことに真剣に、生真面目に取り組むことだけだ。
 ただ、それだけだ。
 
「どうだろうね。今のところ優勢なのは……」

 私は時間をたっぷり使って、

「ひ・み・つ!」

 笑った。さっきの久々津くんの笑顔に負けないくらいに、思い切り笑った。

「んだよ、それ」
 久々津くんは呆れ顔だった。
「じゃ、もうちょい好感度を稼いでおくか」

 ほいこれ、と久々津くんは茶色いトランクを少し開けて、なにかを取り出した。それは、王冠を被り赤いマントを羽織ったねこのおうさま(仮)だった。

「なあに。これ」
「御守りだよ。商品名は『ねこのおうさま』」
「まんまじゃないの」
「うるせーよ。──マントの裏、見てみ」

 言われた通りにめくってみると、そこには『ラッカヨウ ノ アミ ハ ツクッテ アル』というカクカクした文章が縫い込まれていた。

「これって」
「落下用の網は作ってある──ってことだ。やるよ。そこらへんの御守りよりも効果あるから」
「でもこれ、落ちる決定じゃないの」

 ねこのおうさまの(仮)は取れたが、私の不安は募った。まるで落ちることを望まれているみたいだ。

「誰も合格祈願の御守りだとは言ってねえだろ。これは万が一の時に効果を発揮するもんなんだよ」
「じゃあ久々津くんは、私の合格を祈ってくれてるの?」
「当たり前だろ。俺、そんなに性格悪くみえてんのか?」
「おもに口調からの印象だね」

 けっ、と。久々津くんは首をすくめた。

 空は完全に真っ黒で、ブラックチョコレートよりも濃くて青い色に染まっていて、アラザンのような星々が輝いていた。風はひんやりと冷たくて、それは空がこの場所に雨を降らそうとする前兆だった。

「雨の匂いがする」

 久々津くんが鼻をひくつかせた。

「風も冷たいし、一雨来るかもね」
「……そろそろ、解散するか」
「うん」

 改札まで送る、と久々津くんはわざわざ駅構内までついてきてくれた。道中のショッピングモールには家族連れや仕事帰りの人々が増えていて、雑踏はその熱を増していた。人の波に押されて私の足が止まっても、久々津くんが先に行ってしまうなんてことはなく、腕をひっぱって人混みの中からすくいあげてくれた。
 
「これも好感度稼ぎ?」
 と問えば、
「違う。ただのシンセツシンだ」
 と明らかに言い慣れていない言葉を発していた。

「わかってねえと思うけど!」

 改札を通ったあと、久々津くんが叫んだ。

「俺も、くーちゃんだからな」

 どういう意味、と尋ねる隙も与えてくれずに、久々津くんは踵を返した。彼が言った言葉の真意は、この一瞬ではどう頭をひねってもわからなかった。少しのもやもやを抱えながら、私はひとり電車に乗り込む。

 改めて『恋愛するならどっち』という問題を考えた。恋も愛もわからない私にとっては、どんな過去問よりも難しい。恋のほうは、つい昨日恋をしている人と一緒の時間を過ごしたことで、少しだけその色を身をもって知った。それは愛も同様だった。それらがひどくきれいなことも、知った。

 自分に一切の興味を示さないくーちゃんに恋をしてる弟切くん。
 久々津くんという神さまを失いながらも彼を愛するくーちゃん。 

 私が今この瞬間感じたものは、昨日や今日知ったそれらのどれでも──恋でも愛でも違うような気がした。

 スクールバッグのなかにある『ねこのおうさま』は、無表情のままだろう。あれは、裁縫をしている時の久々津くんと同じかおだ。

「……答え、わかっちゃったかもな」

 思わず出てきた言葉は、極めて不真面目なものだった。
 またひとつ、『誰にも言っていないこと』が増えてしまったな、と思った。帰宅ラッシュでぎゅうぎゅう詰めの電車内。私はスクールバックを胸の前に抱えて、扉にある窓の外を見ていた。たったの二駅のあいだにできることは少ないけれど、それでも私はここでの時間がすきだ。

 今日は単語帳も参考書も広げられないから、入口付近の角にぴったり肩を当てて、ぼーっとするしかない。いつもなら、たったの十分でも勉強に費やすというのに、今日の私はそれどころではなかった。

 わかってしまった答え。

 不真面目にも、なんの確証もなく呟いた言葉は人と人にぶつかってなくなった。最初から言っていなかったみたいになった。でも私は、ちゃんと言った。小さくても聞き取れなくても、言ったことに間違いなかった。

 今日の久々津くんとのデート。評価するならば『良』だ。弟切くんよりも、低い。それは、初手の待ち合わせ方で決まった。たまたまフードコートで再会できたからよかったものの、あのままだったらなにもできずに放課後が終わっていた。そう言うと、久々津くんからは「連絡すればいいだけだろ」と言われそうな気もするけれど──実際そうだけれど──そうじゃない。
 勝手にいなくなったのは久々津くんのほうだ。エレベータに強制的に乗らされたと思ったら、降りた次の瞬間にはいなくなってた相手に『優』はあげられない。私が久々津くんの立場だったら、絶対に連絡する。でも、立場を変えたところでどうしようもならないのが、『恋愛』なのだろう。言ってもしょうがないことだとは、わかっている。それにそんなことが気にならなくなるくらいに、彼は私にいろいろなものをくれた。でも『良』だ。

 いろんな言葉をくれても、それが私にどんな影響を与えたとしても、これは『恋愛』とは違うから、選挙とは関係ないと考えるべきだろう。今日は『恋愛』を、微塵も感じなかった。

 あれだけ重いと感じていた『誰にも言っていないこと』を、私は久々津くんに与えてしまった。学力の劣等感を。受験への不安を。将来への不安を、話した。それは、実はみんな知っていたことだったけれど、『私が自分から言った』という事実が重要なんだ。私に『誰にも言っていないこと』を言った弟切くんやくーちゃんの気持ちが、少しわかったかもしれない。
『誰にも言っていないこと』が『あの人だけには言ったこと』になると、自分のなかにあった重さがなくなる。なくなったと感じるのは、その重いものが外へ出て相手の胸の上に香箱座りしているからだろうけれど……、はっきり言おう。

 楽になる。

 弟切くんもくーちゃんも久々津くんも、楽になれたのかな。もしなれていたら、私の胸の上に乗っかっているものも、受け入れられる。助けになっているならば、いい。そう思える。

 そう思えるくらいの人たちだったことに、はじめて気づいた。

 友だちという言葉が適しているのかはわからない。けれど、ただのクラスメイトではないことは明らかだった。今は、胸の重みが苦じゃない。スクールバッグと共に、潰れないように抱えているこれを、私は大切にしたいと思う。

『誰にも言っていないこと』を受けとる。それは『誰にも言ってはいけないこと』になって、重さとなる。私はそれを受け入れよう。抱きしめよう。そして、もしそれらが『誰にも言ってはいけないこと』ではなくなった時は、そーっと離して自由にしてあげよう。みんなのもとへいってらっしゃい、と言って背中を押してあげよう。

 ……そう考えると、私から『誰にも言っていないこと』を引きずり出した久々津くんのほうに軍配が上がりそうな気もするけれど、それとこれとは──『恋愛するならどっち』とは関係ないから、やっぱり別の問題だ。

 窓にいくつもの斜線が描かれていく。雨が降り始めたようだ。窓に映った私の顔や、横にいる人の後ろ姿に斜線が走る。とくに後ろ姿のほうは、黒いスーツがストライプ模様になったみたいで、真面目な雰囲気が一気にお茶目になった。思わず、頬がゆるんだ。スクールバッグを顔に持ってきて口元を隠す。
 だいぶ考えていたら、てっきりもう駅かと思ったけれど、実際はなんのアナウンスもなく、車内にいる皆が線路にある隙間の衝撃で揺れていた。

『俺も、くーちゃんだからな』

 久々津くんの声が再生された。最初はなんのことを言っているのかわからなかったけれど、ちょっと考えれば簡単にわかった。
 私が『くーちゃん』と呼ぶのは、彼女が朽奈々だからだ。つまり──

『くちるなな』の、“く”
 同じ法則で、
『くぐつらい』の、“く”

 両方『くーちゃん』だ。

 でも、だからなんだというのだろうか。ここまではわかったけれど、それ以上はわからなかった。
 久々津くんは『くーちゃん』って感じではない。どう呼ぶのかと問われれば、『らいくん』って感じだ。『らいくん』っていう顔をしている。
 くーちゃんは『くーちゃん』だったから、くーちゃんと呼んでいる。

 なんか、だんだんと『くーちゃん』がゲシュタルト崩壊してきた。『く』と『ー』と『ち』と『ゃ』と『ん』がばらばらになって、新たな文字を形成し始めている気がする。ぐるぐると転がって、曲がって、知らない文字になっている。
 これを考えるのは、私の頭のためにもやめよう。くーちゃんはくーちゃんだし、久々津くんは久々津くんだ。あまり考え過ぎると、今日の受験勉強に支障が出てしまう。

 窓に打ち付ける雨はどんどん強くなっていった。斜線はもはや横線のようで、五線譜がいくつも描かれているかのようだった。しかしその五線譜は、電車の速度が落ちると共に崩れ落ちる。
 一つ目の駅に着いたのだ。一度外に出て降りる人たちの、拘束から解放された清々しそうな表情を眺める。ぼーっとし過ぎて危うく戻りそこねそうになったけれど、ぎりぎり乗車することができた。次の駅で、私は降りなければならない。再び扉が閉じて、私の顔が反射している。冷房の効いた車内は涼しいはずなのに、人だらけなせいか、私の顔は赤くなっていた。
 
『逃げろ。早蕨』

 まただ。また、久々津くんの声がする。耳元で囁かれているみたいだ。身長的に、彼が私の耳に囁くには台座を使うか私がしゃがまなければならないから、これは幻だ。みえない久々津くんが、私のすぐとなりにいて、ないしょ話をするかのように話しかけてくる。

 久々津くんが言った通り、私が選挙から逃げきれなかった理由を、ただ周りに流されたからだって言うのはサイテーだ。でも彼は、どっちもそんな大層なものではないとも言った。
 大層じゃない。意外とみんな、テキトーにやっている。真面目であることは、確かに美徳だと思っていた。唯一、私が誇れるところだった。ほめられるべきだとは思っていないけれど、人として望ましい姿であると信じている。でもそれで、私は自分の首を絞めてしまっていた。久々津くんの言う通り、それでは元も子もない。

 私ばかり躍起になっていると思い込んでいた『受験』も、私がみえていなかっただけで、みんなも突き当たっている壁なんだ。余裕綽々なわけじゃない。切羽詰まっている。何度再生し直しても、教室においてのみんなの行動は受験生のそれではなかったけれど、逆の見方をすれば、切羽詰まり過ぎているからこその行動だったのかもしれない。
 壁にぶつかり過ぎて、その壁を嫌いになる前にすきになろうとしているような、そんな感覚なのかもしれない。『恋愛するならどっち』なんていう選挙が始まったのも、壁を有効活用しようとした結果なのかもしれない。
 私にとって選挙が休息だったように、みんなにとっても選挙は休息だったかもしれない。
 全部『かもしれない』だ。

 私には、三年一組というクラスがわからない。
 みんながどんな場所を歩いているか知らないし、みんなの前にどんな壁がいくつあるのかも知らない。現実を押し退けて逃げたいくらいにきらいなのか、現実を抱きしめたいくらいにだいすきなのか、わからない。彼ら彼女らが歩く道の下に網があるのかさえも、わかりようがない。しょせん、自分の道しかみえないから。その自分の道すら、行ってみないとわからないんだ。

 私なら歩けると言ってくれたその『網』の道。私が歩けるのならばみんなだって歩けると思うのに、久々津くんの口振りからはそういう雰囲気は感じられなかった。

 なぜだろう、と考える。

 私たちがもう少し子供だったら、『網』はただの遊具だ。歩くなと言われても進んで歩きそうなものだけれど、中学一年生になってしまった私たちには、難しいのかもしれない。不安定なところでの身体の使い方なんて、もう忘れてしまった。網の上で遊ぶのは難しく、歩くのはおろか立つことすら精一杯だ。その地面は不安定で、危なっかしい。昔はあれほど、無邪気に飛び跳ねていたというのに。今では膝が震える。──私が子供だって言われているのか? それはちょっと心外だ。大人びていると言われる回数のほうが多いというのに。

 電車が傾き、となりに立つ人と肩がぶつかる。私の身長がもう少し低ければ埋もれてしまう状況だった。でも中学で急速に伸びた背はそれを回避してくれた。息は簡単にできる。高校生に間違えられてバイトの勧誘を受けたぐらいだ。正直いって、セーラー服が似合わない身長になっている。うちの学校のセーラーはかわいいデザインをしている。だからこそ、私には似合わない。一年生の時は、まだ見ていられる姿だったと思う。

 そう思うと、三年間でだいぶ変わった。

 一年生のはじめの頃は、くーちゃんが久々津くんを『神さま』だといって狂信的になるとは思っていなかったし、それが原因で選挙が始まるとは思いもしなかった。そして、最後の一票を自分が投じることになるとも、思わなかった。先生に呼び出されることもなかった三年間。今回の選挙騒動では、一組全員がお説教をされそうだ。

 受験シーズンに『あそび』をしているのは一組ぐらいで、ほかのクラスはちゃんと受験生をしている。担任や普段から関わりのある教師からはもうあきらめの色がみえているが、今回ばかりは見逃せないだろう。下手したら、事件の発端になりかねない。それを賢いみんなならわかっているだろうし、くーちゃんからもその辺りのことは訊かされている。でも、そんなつもりはなかった、ということもある。一組に影響はなくても、選挙のことを知ったほかのクラスに影響を及ぼす可能性は大いにある。
 ああ、頭が痛くなってきた。

『そんなだから早蕨はキマジメなんて呼び名がつくんだよ』
 
 またまた、久々津くんの声だ。今日はおかしいな。昨日はこんなこと、なかったのに。耳に小さい記憶再生機でも付いているのだろうか。

 そういえば、キマジメと呼ばれ始めたのはいつからだっけ。
 いつの間にかキマジメになっていて、それが正しいと納得していた。不満なんてなかったし、それが悪意からきているものではないと知っていたから、否定もしなかった。生真面目であることを肯定してくれたみたいで、うれしかったと思っていたくらいだ。でも、キマジメという私が、キマジメではない時の私自身をがんじがらめにしていた事実はある。
 キマジメであろうとすればするほど、私は生真面目から遠くなる気がしたから、私はキマジメなままそれを意識しないようにしてきた。わざとらしくならないように、さも当たり前のことをやっているかのように、日々を過ごしてきた。
 黒板に書かれたことや、授業内で発せられた教師の言葉はちゃんとノートに書き写して、休み時間には予習復習。部活には入っていなかったけれど、その分掃除当番の代わりをしたり、教師の手伝いをしたり、文化祭などでのイベントは率先的に動いた。

 今思えば、わらっちゃうくらいにわざとらしいキマジメだっただろう。当たり前を自ら進んで作っていた。それが自然なわけがない。一組のみんなに私の成績のことがばれたのも必然だったんだ。こうもわかりやすい奴、少なくともクラスのなかにはいない。私ぐらいだ。『まじめ』を見せつけるように『き』ているのは。

 込み上げてくる笑いをスクールバッグで押し戻す。周りにいる数名が私の異変に気づいたのか、横目で見ては皆、ふしぎそうな顔をしていた。

 アナウンスが流れる。大雨のせいでダイヤが乱れているらしい。でも、自宅の最寄り駅には定刻通り着きそうだった。徐行し始めた電車。急にかかったブレーキのせいで、車内の人々が斜めになる。窓に貼りついた斜めの雨の跡を、同じ目線で見ようと試みているような格好だった。そんな格好もすぐにもとに戻り、電車は駅のホームに入っていく。

 ちゃんと降りなきゃ。
 と思ってホームに足を置いた瞬間、落とし物に気づいた。さっきまであった、投票の答えを落としてしまった。後ろを振り返っても、もう電車の扉は閉まっていて、戻ることはできない。なにかを忘れた時は、その時の行動を再現するといいとどこかで訊いたことがあったけれど、今回ばかりは、その手は使えない。もうその時間は過ぎ去ってしまった。

 どちらに投票するかの答え。理由のあるちゃんとした答えがさっきまであった場所に、手を当てる。そのなかには臓器が入っているけれど、今は、なんにもないがらんどうだった。

 なくなってしまったものにいつまでも手を伸ばし続けるのは不格好かもしれない。でも、それは確かにぴったりとはまった答えだった。それなのに、なぜなくなってしまったのだろうか。
 考えていればまた違う答えが──もっとぴったりとはまる答えが見つかるだろうか。

「とにかく、帰ろう」

 私はからっぽになってしまった頭にいろいろなものを再び詰め込んだまま歩き出した。いつまでも突っ立っているのは、たとえ端にいたとしても邪魔でしかない。

 頭のなかにあるいろいろなものは、あとでちゃんと整理すればいい。

 駅舎を出ると、雨はさっきよりも強くなっていた。スクールバッグから折り畳み傘を引き抜き、開く。しばらく使っていなかった折り畳み傘は、布の部分がぱりぱりと鳴っていた。これで足りるだろうか、と思いながら、私は肩を小さくさせて歩き出した。
 ようやく肩にかけられると思ったスクールバッグは、再び胸の前でおちついた。

 自室の机の上で待っているであろう過去問集に思いを馳せながら、私は歩みを早めた。傘から出ないように小さな歩幅で歩いているものだから、せかせか歩く姿は傍からみれば、なにかの小動物に見えるかもしれない。まあ私の図体は明らかに大きいから、その可能性はないか。

 くーちゃんからの電話は、今日もある。久々津くんとのデートの評価は訊かないと言っていたけれど、たぶん、デートの内容は根掘り葉掘り訊かれるのだろう。となると私は、明日どちらに投票するかを、悟られないようにしなくてはいけない。まだちゃんとした答えはでていないけれど、でももうでているようなものだ。話の流れで、私が気づかないうちにうっかり核心を話してしまうかもしれない。それでなくしたものを、思い出せたらいいのだけれど。

 痛む頭を押さえながら私は、スクールバッグのなかで教科書に潰されていたねこのおうさまを外に出した。それから、小さな折り畳み傘の中に入れて、一緒に歩いて帰った。
 ねこのおうさまが、くるしゅうない、と言った気がした。
 教室のなかは静寂に包まれていた。
 話し声。笑い声。ゲーム。動画。拍手。
 そんな音は一切ない。静寂を邪魔しないように、みんな息をひそめていた。もう授業はすべて終わり、生徒たちは夏休みという甘美な時間に飛び込むのを必死に抑えながら、一瞬では終わらない『今』に耐えている。

 そんな私たちは中学三年生。つまり、受験生。

 本当は『夏休みという甘美』なんていっていられない。学校説明会に行ったり等、忙しくて忙しくてたまらない期間に突入するだけの話だ。しかし、この教室にいるほとんどは忙しさとは別の世界にいて、私が知る『忙しさ』とは違うものに、背中を押され続けている。
 文字と数字ががんじがらめになった檻のなかに放り込まれて、必死にその絡まった糸をほぐし、すべてを明らかにする。くーちゃんは教室の真ん中に座り、投票箱に手を突っ込んでいた。そして一枚ずつ投票用紙を取り出している。宝石でも扱うかのように丁寧に、ぺら、ぺら、ぺらと投票用紙をすべて外に出した。最後に、本当に一枚も残っていないかを確かめるために、投票箱をひっくり返す。出てきたのは埃だけだった。

「十五票対十六票で弟切くんの勝利です」

 ごとん、とくーちゃんの手から投票箱が落ちる。この一瞬で、彼女からなにかが抜け落ちた気もした。

「そんな露骨にテンション下げないでよ」

 我が三年一組の学級委員長──朽奈々をなぐさめるのは、いつだって私の役割だ。それは、変わらない。どんなものが抜け落ちても、私はそれをひろう。私は逆さまになった手作りの投票箱を、あるべき姿に戻した。

 大掃除をして綺麗になった教室の床に、私たち一組の生徒は全員座り込んでいる。机は後ろに集められて、椅子はその机の上に逆さまになって乗っかっていた。いつもは教室の端に座っている私も、今日ばかりは真ん中付近で正座していた。すっかり意気消沈してしまったくーちゃんにだけ届く声でなにかを言おうとした時。彼女の左側で胡座をかいている久々津くんが、大きなため息を吐いた。

「まあ、当然だろうな。弟切に勝てるやつなんてこの学校にいねえだろ」
「そう言うわりには、悔しそうなかおしてるけど?」

 私の右側にいる弟切くんが言った。楽しそうな声音で、仲の良さがひしひしと伝わってくる。だてに体育の時間でペアを組んでいるわけではなさそうだ。
 久々津くんは露骨に無視した。

「ねえ、さっちゃん」

 私の左側にいるくーちゃんが、覇気のない声で言う。

「弟切くんに投票した理由を、訊かせてちょうだい」
「なにその公開処刑」
「納得できる理由がないと、私、怒っちゃうわよ」
「今の状態で言われても説得力ないよ」

 もう座ってる体制を保つ気力もないらしく、くーちゃんは前傾気味になっていた。理由を話せという声は彼女だけではなく、久々津くんに投票したであろう者たちもまばらに声を上げている。糾弾されているみたいでこわいが、真横から聞こえてくる連続音が一番、背中をぞわりとさせた。

「一から十まで。十全に。言いなさい。言いなさい言いなさい言いなさい……」

 ずれた眼鏡をそのままに、くーちゃんは「言いなさい」と言い続けている。

「ん。僕も気になるな。教えてよ」
「あ。俺も。納得できる回答を求める」
「なんでふたりまで……」

 両側どころか全方位からせめられて、私は仕方なく口を開く。そんな大した理由ではないのだけれど。一度は落としてしまった、あっけない理由なのだけれど。

「『恋愛するならどっち』っていう問題に対して『もしも』を考えたとき、どっちかっていうなら弟切くんだなって思っただけだよ。もちろん久々津くんにもいいところはあるよ? でも総合的に見て──ふたりとのデートをそれぞれ鑑みて考えたら、『恋愛』っていうものに合っているのは弟切くんと言わざるを得ないんだよ」

 半分は納得し、半分は不満げだった。

 くーちゃんの「言いなさい」攻撃は止まっていない。

 すべてが終わっている教室にクーラーは効いていない。みんな首元を緩めたりスカーフで互いをあおぎあっていたりしながら、昼間特有の真っ直ぐな光で自分の汗を蒸発させている。熱され続ける教室。表面温度は下がらない。

「なんか言いたげだよね、早蕨さん。いつものはっきりとした物言いはどこに忘れてきちゃったの?」
「さあ? 一昨日のデートの、パレードのなかじゃない?」

 冗談のつもりが、弟切くんのファンクラブの子たちからナイフのような視線を向けられてしまった。まあ、彼ら彼女らから見れば、私は『みんな』と弟切くんのあいだに入ってきた闖入者だから仕方ない。「パレード? まさか一緒に見たって言うの!?」なんていう、当たり前だろデートなんだから、と返したくなる言葉も上がった。

「……本当はね。まだよくわかってないんだよ」

 恋愛だとか、わからない。

 その一言に尽きた。選びはした。そうすべきだと思ったから。
 なくしてしまった答えを探すために、くーちゃんとの電話が終わったあとも一晩中考えていたせいで、昨晩はまったく眠れなかった。隈がないか鏡で何度も確認してから、今日は登校してきた。そのあいだも、まだ考えた。

 弟切くんか。
 
 久々津くんか。

『恋愛するならどっち』の当事者が自分なら私はどちらに心惹かれるのか。それを考える時間がとても少なかったから、できるだけ濃密にシミュレーションした。

 もし、本当のデートをしたら。
 もし、手を繋いだら。
 もし、
 もし、

 顔が真っ赤になるくらいに、考えた。そして思い出した。答えは、あっけないものだった。

 そもそも、弟切くんには好きな人がいる。朽奈々という想い人がいる。その事実を知っているのはこのクラスでは私だけだ。それを知っていても弟切くんを選んだのは、彼の熱がうつってしまったからだと思う。触れた感じたせいで、その熱を錯覚してしまった。錯覚したまま、私は投票用紙にボールペンで名前を書いてしまった。やはり、睡眠不足は駄目だ。判断能力が落ちる。けれど、だからといって、じゃあ久々津くんと恋愛したいかと問われれば、それははっきりと『ノー』を出せた。
 べつに、彼に関心がないわけではない。

 ──と、いろいろ考え込んで導きだした答えを、私は話した。

「恋愛をちゃんと擬似体験させてくれたほうに、今回は軍配が上がったってだけ。遊園地とショッピングモールだったら、『恋愛』っぽいのは前者でしょ」

「ああ……」
 と、久々津くんと弟切くんが異口同音。そろって呆れ顔のふたりを私が交互に見ていると、弟切くんが、

「なんか僕たち、ちゃんと勝負できてない感じがひしひしとするね」

 ひっくり返った亀でも見ているかのような瞳をした。

「おい委員長。今回の選挙は振り出しに戻ったほうが良さそうだぞ」

 久々津くんは、前傾気味のくーちゃんの顔を覗き込んだ。バネのように身体を起こしたくーちゃんの顔は真っ赤になっている。血が昇ってしまったようだ。

「委員長。私としてもなんか、釈然としな〜い」

 土屋さんが挙手をして言った。すると、堰を切るかのように次々と『やりなおし』を求める声が複数響いた。やいやいとざわめく教室の室温は、本日の最高温度に達する。くーちゃんは、まあまあ、と片手を上げた。少し落ち着きを取り戻せたらしい。学級委員長らしく胸を堂々と張って、眼鏡のずれを直す。
 
「流石に、今すぐにもう一度選挙はできないわ」

 えー、と落胆の声が教室の床に落ちる。それでも、くーちゃんは構わず話を進めた。

「だから少なくとも中学を卒業する前に、もう一度みんなでやりましょう。そこでもう一度──今度はみっちり、さっちゃんに『恋愛』というものを叩き込んでから──やりなおしの投票をしましょう」

 どっ、と場が沸く。高校の合格発表がもう公開されたみたいだった。

 久々津くんと弟切くんは、てっきり微妙な表情をするかと思ったけれど、存外真剣な面持ちで、次の戦いのために刀の手入れをする剣士のようだった。
 
 そのまま流れるように、合計三十一名の名前が入ったグループチャットが作られた。万が一、卒業までに準備が間に合わなかった時のためらしい。

〈第二回『恋愛するならどっち』〉

 という、そのままの名前だった。私もいつの間にかその一員に入っていて、もう始まっている会話を見る限り、また私が最後の一票を務めることになっていた。

「キマジメ、次はちゃんと選んでよね〜」
「今回もちゃんと選んだよ」
「いや。あれは。選んだとは。言わない」

 土屋さんは言葉を区切って、一言一言を強調しながらにじり寄ってきた。思わずのけぞり、私は自分の後ろに手をつく。

「理屈じゃないんだよ。問題じゃないんだよ。答えをだしちゃ、それはもう恋愛じゃないの」
「…………?」

 どういう意味だろう。答えをだしてはいけない問題とは、土屋さんは無理難題をいう……。理屈で考えなくて、じゃあ、なにで考えるのだろうか。

「委員長だけじゃ偏るから。私らも叩き込むからね」
「な、なにをですか」

 つい敬語になってしまうほど、土屋さんの口調には鬼気迫る勢いがあった。

「当たり前でしょ〜。弟切くんの魅力よ。うちのファンクラブはべつに、弟切くんに恋愛感情をむけるものじゃないけれど、なかにはそういう子もいるからね。弟切くんの恋愛的魅力を、好きになるくらいに教えてあげる」

 その弟切くんには好きな人がすでにいるんですよ、とは言えない。私は目をつぶってうなずくことしかできなかった。

「ちょっと〜!」

 という土屋さんの声で目をあける。そこには彼女の肩を押しのけて、私の目の前に陣取ったくーちゃんがいた。

「神さまでなくなったとしても久々津くんの良さは消えないわ。絶対にさっちゃんの票を獲得してみせる!」
「いやいや。一度傾いた天秤は簡単に覆らないってば〜」
「傾いたのはたったの一票よ」
「その一票が重要なんだよ。ふっふっふっ。こうだったら最初から限定にしておけば勝算あったかもね〜。もうあきらめな」
「あきらめるわけがないでしょう?」

 当事者の私を目の前にしながらも、完全に私を置いていっているふたりは、今にも胸ぐらを掴みあいそうな勢いだった。実際、格闘ゲームの待機モーションみたいな格好をしていた。

「そもそも、クラス全員を巻き込もうって言ったのは土屋さんじゃなかったかしら」
「そうだったっけ?」
「選挙をするきっかけになったトラブルも土屋さんのほうからだったでしょう」
「そうだったっけ?」
「とぼけないでちょうだい」

 久々津くんの良さを広めるためにチラシ配りをしてたくーちゃんに突っかかってきたとある子って、土屋さんのことだったのか。だから初日に、くーちゃんに助け船をだすようなことをしたのか。実際は敵同士だったわけだけれど。

「でも差が一票っていうのは意外だったな〜。絶対、弟切くんの圧勝だと思ってたのに」

 土屋さんはきょとんとしたかおをして、首をかしげていた。

「それ私も思った。久々津くんと恋愛したい生徒がクラスに半分もいるなんて」
「おい」
「久々津くんには隠れファンが多いのよ」

 久々津くんが私の言葉に突っ込み、くーちゃんが腕を組んでうなずく。彼女のまわりには、自分だけが知っている秘密を告白するみたいな雰囲気がただよっていた。

「かわいいといったら久々津くん。かっこいいといったら弟切くん。っていう具合にこのクラスは二分化されているわ──もちろん。ほかのクラスや学年もね。アンケートを取ったら、ほとんどがきれいに半分だったのよ」

 一組にはそんなに影響力のある生徒が所属してたのか。しかもふたりも。ほかのクラスはともかく、ほかの学年にまで広がっている久々津くんと弟切くんの人気っぷりは、まったく予想していなかった。

 ……ん? 待て。アンケート? それだったら選挙なんてしなくても、もう結果がでているじゃないか。
 と言えば、くーちゃんは、

「あのアンケートは二年前のものだし、今回はうちのクラスだけで確かめたかったのよ」

 と、土屋さんを睨み付けたまま言った。

「次の選挙は卒業までに全校生徒(教員職員含む)で執り行うわ」
「教員職員含む、は駄目だってば」

 即座に突っ込みをいれる私。教師が生徒を選り好みしちゃいけないでしょ。

「校長の許可はもらってるわ」
「もう終わりじゃんこの学校」

 その時、ふふっ、と笑い声が聞こえてきた。それは伝播して、みんなに伝わる。三十一名全員が笑えば、教室が震えた。
 なんとなく、懐かしい気持ちになった。終業式までの三日間、デートをするだの投票するだの、異常な日々だったせいだろう。いつもの三年一組は『こう』だった。毎日のように起こる学級委員長の突飛な思いつきにノリノリでノっかって、それを私が突っ込む。久々津くんはいつも外から眺めていて、弟切くんは中にいながら楽しんでいる。ほかのみんなも、一線は越えずにはしゃぐ。
 これが私たちだった。
 今回みたいに、ぴりぴりした雰囲気は今までなかった。

 日常が、戻ってきたんだ。

「さあ!」

 私は、勢い良く立ち上がった。みんなの視線を一気に浴びる。それはまったく痛くなかったし、くすぐったくもなかった。

「あそびはここら辺でしまいにしようよ」

 私は、キマジメとして言う。

「受験生としての、私たちに戻ろう」

 同意の声はなかった。その時ちょうど、帰宅を促す鐘が鳴ったからだ。みんなはぞろぞろ立ち上がり、それぞれカバンを手に持つ。一ヶ月後ねという声もあれば、また明日という声もあり、連絡しろよーという声もまた、あった。
 午後になり、傾き始めた太陽の熱線が教室の床に突き刺さる。座っている時は気づかなかったけれど、三十一名の中学生にとってこの部屋は狭過ぎた。肩と肩をぶつけ合いながらぞろぞろとうごめく私たちの額には、滝のような汗が流れている。

「『受験生としての私たちに』なんて、キマジメはやっぱり生真面目だね〜」

 土屋さんが寄ってきた。

「まあそのおかげで、私たちはバラバラにならずに済んでるんだろうけどっ」

 じゃね、と。可憐に、自信たっぷりに言った土屋さんは、即座に猫なで声に切り替えて弟切くんの名を呼んだ。そして、名を呼ばれた彼はそのままファンクラブの子たちに囲まれて、わいわい笑いながら教室から出ていった。
 あれが、弟切くんが言っていた『みんなとのデート』になるのだろう。

 たのしそうでなにより。
 と、私は心のなかで呟く。

 教室から半分の生徒がいなくなったことで、風の通りが良くなった。残り半分のほとんどは、久々津くんの周りにいる。中心に立っている彼は、無表情のまま顔を上げていた。

 ▽

「早蕨」
「うわっ」

 誰に話しかけられたのかと思ったら、久々津くんだった。

「……みんなと話してなくていいの?」
「そもそも話してねえよ。あいつらが勝手に喋ってるだけ。それに、今は委員長の演説を聴いてるからいいんだよ」

 久々津くんが指さしたほうを見ると、そこには教壇に手をついたくーちゃんがいて、周りには熱心に耳を傾けているみんながいた。まれに起こるくーちゃんによる久々津くんの広報活動の一環である演説が始まったようだ。

 私は顎を引いて、久々津くんと向き合う。彼は顎を上げて、スラックスのポケットに手を突っ込んでいた。態度がでかい。

「悪かったな。態度がでかくて」
「あれ? また口にでてた?」
「思いきりな。俺の前だと口がゆるくなってんじゃねえの」
「まっさかー。私はほら、嘘がつけないはっきりとした物言いが取り柄ですから」
「生真面目」
「褒め言葉です」

 なにげない言葉で心が軽くなることも、ないわけではないのだと知った。土屋さんが言ったように、私が生真面目でいるせいでみんなの団結力が確かなものになっているのは事実だと思う。扇の要である頭は、片方だけでは役に立たない。ふたつの頭があってこそ、扇は広がる──なんていうと、とんだ自画自賛が過ぎるのだけれど、ちょっとぐらい天狗になったっていいのではないかと、今は思っている。
 キマジメとして、ちゃんと、最後の一票を投じたのだから。
 役はしっかり務めたのだから。

「なにやりきった感だしてんだよ」
「事実、やりきったからね。もう私の役目は終わったよ」
「終わってねえよ。委員長、休みが終わったら全校生徒強制参加の選挙をやるってよ」
「……候補者が増えるの?」
「いや。投票するのが強制ってこと」

 くーちゃんの演説には熱が入り始めていて、耳をかたむけてみると、本当に、必ず選挙をすると息巻いていた。嵐は去ったけれど、また帰ってくるらしい。新学期になったらあの手作り感満載だった今にも崩れそうな投票箱も、ちゃんとしたやつに変えるらしい。実際の選挙で使われているような、鈍色の固い箱に。
 まあ、今回の投票箱は結果発表の時にくーちゃんが落として潰れてしまったから、次は彼女がうっかり落とすような結果にならないように努めるか、落としても潰れないものにしなくていけない。

「分水嶺は早蕨だろうな」
「選挙の方向性を決めるなにかになった覚えはないよ」
 
 互いのかおを見ないまま、私たちは横に並んでくーちゃんの演説がする姿を見ていた。彼女は頬を赤らめて、笑顔で久々津くんの良さをこれでもかと語っている。以前と違うのは、くーちゃんが久々津くんのことを『神さま』と言わないこと。彼が彼女を拒絶したあの一件は、もう周知の事実だ。あくまでもひとりの人間として、くーちゃんは久々津くんを褒めまくっている。彼女の肌からあふれだす汗が目元に流れて、涙みたいになっていた。聴衆の汗も涙になっている。
 熱中症にならないか、ちょっと心配だ。
 私は、教室の窓をすへで開けた。ぬるくてほそかった風がふとくなって、みんなの髪を揺らす。久々津くんのドーナツ生地色の髪も、ふわふわ踊っていた。

「気づいたことがあるんだけど」
「なんだ?」
 
 私がぽつりと放った言葉に、なぜか、久々津くんは跳ねた声で反応した。プレゼントを渡された時みたいな声だった。それに気づかぬふりをして、私は世間話でもするように話す。

「十五票対十六票ってことは、久々津くんたちもどっちかに投票したの?」
「んだよ。それかよ」
「自分に投票したの?」
「当たり前だろ」

 やっぱり人間は、勝負ごとには勝ちたいと思うのだろうか。久々津くんはデート中、これが選挙のためのものだとはっきり自覚しているような行動をしていた。反対に弟切くんには、それほど勝ちたい欲というものを感じなかった。事前に感じ取った印象では、久々津くんはノリ気ではなかったけれど実際は勝つ気まんまんで、弟切くんのほうはノリ気だと思ってたら本当は最初はノリ気ではなかった。
 弟切くんのほうが選挙とか抜きにしてデートを楽しんでいた気がする。もしかしたらそれも投票に関係したかもしれない。
 
 選挙に勝つか、それともデートを楽しむかの、目的の違い。

 弟切くんに投票した自分をふしぎに思う己がいたけれど、これは理由のひとつになりそうだ。選挙の要である『恋愛』を体験させてくれたのはどっちだったかと問われれば、それは弟切くんのほう。くーちゃんに恋していることを告白してくれたのは、決定打としては大きかった。『恋愛』を感じさせてくれたのは、何回考えても弟切くんのほうだ。

 久々津くんが自分に投票したとなると、弟切くんも自分に投票したことになるのか……。それか、彼に投票したのが、本当に彼以外の十六名という可能性もある。でもそれは、本人に訊かないとわからないことだ。今日にでもメッセージを送ってみようかな。それ以外に方法はあるといえ、手間がかかる。

 でも今はそれよりも──

「あともうひとつ気づいたんだけど」
「なんだよ……」
「久々津くん、今日は裁縫してなかったよね」

 終業式だけとはいえ、いつもの彼ならその終業式の最中でも裁縫箱を傍らに針仕事をしていたというのに……。
 顔を見て尋ねれば、久々津くんはなぜか目を泳がせていた。しかも顔が赤い。教室の熱にあてられてしまったのだろうか。窓からの風は涼しいのだけれど、うまく彼には当たらないみたいだ。

 くーちゃんの演説はいよいよ最終段階に入ったらしく、嵐の前の静けさのような凪が、教壇の周りにただよっていた。

「……あーっと……」

 ポケットから両手を取り出して、その手を首の裏を回している久々津くんは、なにやら言いづらそうにしている。くちびるが波打ち、時折舌がちょろりと覗いた。
 私は待つ。どうせ、くーちゃんの演説が終わらないと今日は帰れない。今学期最終日は学級委員長の仕事もないから、久しぶりに彼女と一緒に帰ることになっている。同じ駅から同じ駅へ共に電車に揺られるのは、今まで数えるほどしかなかった。
 
 久々津くんはくちびるを内側に巻き込んで、教室と廊下を遮る壁のほう──その先を、透視しようとしているみたいだった。

「急いで作りたいもんは、もう完成したから」

 ゆっくりと、小さな子供に絵本を読み聞かせるように言う久々津くん。視線はまっすぐ前を向いていた。

「次に作る商品の、予定はあるの?」

 私はそんなことを訊いてみる。本当は、「『作品』はあるの?」と訊きたかったけれど、ねこのおうさまを渡してくれた時、彼はそれを『商品』と言った。なんとなく、将来必ず自分が作ったものを家の雑貨屋さんで必ず売るんだという強い意思がみえた。だから私は、久々津くんが作るものは『商品』というほうが適していると感じた。

「次のは今、型を考えてんだよ」
「ぬいぐるみにも型ってあるんだ。服だけかと思ってた」
「あるよ。帽子にだって靴にだってあるだろ」
「そっか。そうだったね」

 そこでちょうど、くーちゃんの演説が終わった。「ご静聴ありがとうございました」と深々頭を下げて、くい、と眼鏡を上げる。聴いていたみんなはこちらを向きもせずに教室から出て行く。残ったのは、私とくーちゃんと、久々津くんだけになった。

「ごめんさっちゃん。待たせちゃったわね」
「ううん。平気。久々津くんが話し相手になってくれたからね」
「あら。私を目の前にして自慢しているのかしら。久々津くんに投票しなかったくせに」
 
 とげとげしているくーちゃんの言葉をしっかり両方の鼓膜で捉えた私は、苦笑いするしかなかった。普通、選挙においては誰が誰に投票したのかは伏せられるはずなのだけれど、このクラスはその辺りがやけにオープンで、私でも誰がどちらに投票したのか知ることができる。投票用紙に自分の名前を書く欄があったのだ。プライバシーもなにもない。

 この三名が揃うと、少しの気まずさを覚える。でもそう思っているのは私だけらしく、くーちゃんも久々津くんも、けろりとした表情をしていた。

「早蕨」

 開けていた窓を閉めていると、久々津くんが寄ってきて私の肩に手をついた。それから、ぐい、と下に押す。そのせいで、片膝のちからだけが抜けてしまったかのような格好になってしまう。
 なにするの、と問おうとした時、視界の端に入り込んできたのは久々津くんの顔だった。私の右耳に、彼は口を近づけてくる。そっちはいつも、弟切くんの言葉を聴いている耳だった。

「気に入ってくれてよかったよ」

 そう囁いて、久々津くんは私の肩から手を離した。そしてその手で、私が左肩に掛けているスクールバッグを指さす。そこには、ねこのおうさまがいた。
 
「────」

 なにかを言わないといけない気がしたのに、私の口からはなにもでてこなかった。普段からやさしい声を聞き慣れているはずの右耳は突然の出来事に凍ってしまったみたいだった。久々津くんは満足そうに微笑んでいる。それは小さな変化だったけれど、彼がとてもよろこんでいるのは、ひしひしと伝わってきた。
 久々津くんの髪と同じ色の、ドーナツ生地色の花が舞っている幻がみえた。

 ▽

「なあにを、していたのかしらん」

 くーちゃんが私と久々津くんのあいだに身体を滑り込ませてきた、と思ったら、実際はさっきまで久々津くんがいた場所に席を外していたくーちゃんが戻ってきただけだった。いつの間にか、彼は帰ってしまったらしい。なんだか、突然ナイフを連続で突きつけられたような気分だ。

 一回目は久々津くんから。
 二回目はくーちゃんから。

 前者は笑顔だったけれど、後者は目が据わっている。単純に、こわいと思った。はじめて彼女をこわいと思った瞬間だった。

「教室から出てきた久々津くんがやけに上機嫌だったのだけれど、なにかしたのかしら」
「私からはなにもしてないよ」
「じゃあ久々津くんからなにかやられたのね。さっちゃん、顔真っ赤だもの」

 指摘されて、私は窓を見た。おぼろげに映る自分の顔は、茹でたタコのようだった。

「こ、これはあれだよ」

 顔を隠しながら、私は取り繕うように言う。

「全部、夏のせい」
「そんなわけないでしょう」

 くーちゃんから突っ込まれるという珍事。私の顔はさらに熱を持って、隠すための手も熱いから、どちらからも熱は逃げられなくなっていた。すると、冷たいものが手の甲に触れる。指と指のあいだから様子を伺ってみると、くーちゃんが私の手を掴み、顔から引き剥がそうとしていた。抵抗するも無駄に終わり、真っ赤っかな私の顔が外気に触れる。でも次の瞬間、顔に溜まった熱が、どんどん奪われていくのを感じた。
 くーちゃんが私の頬を包み込んでいた。

「私のさっちゃんに手を出すなんて。久々津くん、恨むわよ」
「え。え? そっちなの?」
「当たり前でしょう。神さまとしての一番は久々津くんだったけど、人間の一番はさっちゃんよ。さっちゃんに手を出すなら、たとえ久々津くんでも容赦しないわ」
 
 手を出すというか、ただ耳元で囁かれただけなのだけれど……。

 くーちゃんの冷たい手が、私の頬のなかで右往左往していた熱をうまく誘導していく。手のひらの熱は、くーちゃんの腕へ走っていく。おかげで、赤みはだいぶ引いたと思う。でも、くーちゃんはなかなか手を離してくれなかった。私も彼女の腕から手を離す機会を見失った。春夏秋冬変わらず氷のように冷たい彼女の手は、私の体温をどんどん奪っていく。夏なのに、凍えそうだ。もうすでに凍っている右耳は、解凍されそうにない。

「くーちゃん、そろそろ離して」
「いやよ。今充電中なんだから」

 つかまれた私の顔はどんどん下がっていって、同時に背骨が鳴っていく。椎骨がぽきっと鳴きながら、ひとつずつ離れていってしまうような感覚を覚えた。
 何分経ったかはわからないけれど、くーちゃんは名残惜しそうに私の頬に手を滑らせて、離していった。
 
「充電満タン。これで帰れるわ」

 椎骨をひとつずつ元の場所に戻しながら、私は上半身を起こした。腰を伸ばして、くーちゃんを見据える。充電満タンという通りなにかが満たされたのか、彼女の肌がつやつやしていた。手を引かれて、教室を出る。私の熱を奪っていったくーちゃんの手はぬくくなっていて、いつもの、剣山のような冷たさの手のひらではなかった。会議室の時とも、また違うあたたかさだ。

 ちょっと首をかしげて下を見れば、やさしいよこがおがある。ちゃんと編み込まれた三つ編みは肩甲骨の辺りで揺れていて、赤いリボンはからまってしまったのか、蝶々結びではなく固結びになっていた。それでも学級委員長らしい格好のくーちゃんは、私よりも小さな足で私よりも早く歩いて行く。

 私はいつも、誰かに引っ張られてばかりだ。

 引っ張られながら、階段をくだる。踊り場から見えた一瞬の景色は、昨日のデートで見たバルコニーからの景色と似たようなものだった。私の左側には今、くーちゃんとねこのおうさまがいる。

 王冠と赤いマント。そのマントの裏には御守りの言葉が縫い付けられていて、実際に久々津くんの声で発せられたその言葉は、一日経っても私の脳に縫い付けられていた。なぜ、こんなにも彼のことを考えてしまうのだろう。

『気に入ってくれてよかったよ』

 はっきりと再生できる彼の言葉や動作。それらに頬を赤らめる自分。
 ねこのおうさまをスクールバッグに付けたのは、ただそこにいてほしかったからだ。御守りなら、守ってくれと思った。そばにいて、いつ私が落ちても網を手に待ち構えていてくれと、願ったからだ。私は久々津くんのことを愛しても恋してもいない。これは絶対、恋愛じゃない。弟切くんがくーちゃんに向けている感情とは違う。くーちゃんが久々津くんに向けている感情とは違う。──と思う。確かなことはいえない。けれどあの『恋愛するならどっち』という問いに対して彼の名前を書いたら、私にくれたねこのおうさまがいなくなってしまうような気がした。御守りの効果が、なくなる気がした。

 私が投じた一票があっているのかどうか不安になる。ちゃんと、『恋愛するならどっち』というのが判断基準にそって判断しているのか、と。

 私は、恋や愛という感情を弟切くんから知ったというだけだ。弟切くんとそういう感情を向け合いたいわけではない。彼とは、よき隣人としての関係をきづきたい。そのあいだにどんな名前の感情がかよっているかは、わからない。無理矢理付けるならば、それはおそらく親愛だろう。

 でも、確かにわかっていることはある。

 久々津くんとの関係には、恋だの愛だのなにか特定の名前を、付けたくないと思ったんだ。
「デートなんてしたことない!?」

 私の叫び声に、どこかの犬が遠吠えを返してきた。住宅街には下校中の学生がちらほら。その中でも、目も口もあんぐりと開けて歩いている学生は私くらいだろう。
 
「ええ。人間とのデートはないわね」

 よほどおもしろいのか、くーちゃんは片手で口元を隠して喉の奥を鳴らしていた。私がオーバーな反応をしたのはこの人のせいだというのに。
 確かに会議室で訊いた、「私だってしたことあるのに」という言葉はなんだったのだろうか。人間ではないとかいう、叙述トリック?

「私がデートしたのはイマジナリー久々津くんよ」
 
 開いた口は閉まらない。目は乾いていくばかりだった。このままでは干からびる、と私は開いていたものを無理矢理閉じる。

「楽しかったわ〜。あの時の水族館デート」

 その時の光景を思い出しているのか、くーちゃんは恍惚とした表情をうかべていた。

 イマジナリー久々津くんは人ならざるもので、そしてそれはただのひとり水族館……。いや、まあ、本人が楽しそうならいいか。もう過ぎたことだ。たぶん、彼がまだ彼女にとって『神さま』だったからできた。今だったら、不可能だろう。久々津くんはもう、ただのひとりの人間だ。

 私たちは、並んで駅までの道のりを歩いていた。手を繋いで。ゆっくりとした足取りで。

 選挙という一大イベントが終わり、燃え尽き症候群になる前にもう次の選挙の準備もしなくてはならないくーちゃんは存外タフだった。
 それで、と選挙の話を切り出してくる。

「アナログな紙の投票も捨てがたいけど、デジタルな方法もアリよね。そのほうが投票率が上がりそう」

 確かに。私はうなずいて、答える。

「それと、やっぱり匿名のほうが投票のハードルは低いよね。名前がわかってると。ほら、友だち同士で争いとか起こっちゃうかもだし」
「選挙なんかで争いが起こるような関係性は、周りがどう対策しても火花が散るものよ」
「選挙『なんか』って言ったね今。選挙『なんか』って」

 くーちゃんは辛辣な言葉と共に、選挙を軽んじているような言葉を言い放った。私が突っ込めばすぐに首をすくめて、
「言葉の綾よ」
 と、舌を出した。

「そもそもデジタルな投票ってどうやるの?」
「それは……」

 薄いくちびるから覗く舌が隠れて、ぽっかりと穴が開く。さっきの私みたいに口を大きく開けているわけではないけれど、同じくらい、すっとんきょうな顔だった。

「どうやるのかしら?」
「どうやるんだろうね」

 私にもさっぱりだった。なにかそういうアプリかなにかがあればいいのだけれど、全員が全員自分の携帯電話を持っているわけではない。

「やっぱりアナログが一番ね」
「そうだね」

 くーちゃんも私と同じ結論に至ったらしく、デジタルでの投票は早々に却下となった。

「ありがとうねさっちゃん。このままだったら全校生徒に投票させるという一番の目的が果たされないところだったわ」
「いいよ。おやすいごよう」

 なんやかんや選挙の話にのってしまうのは、今回の選挙ではまったく仲間に入れてもらえなかったからだろう。流されるがままに、私は最後の一票を託されてしまった。自分の周りで物事が勝手に進んでいくのには、とてつもない違和を感じる。それに、さみしい。それを知ってか否か、くーちゃんはどうにかして私の意見を次回の選挙に取り入れようとしているみたいだった。

 まだ本物の選挙権すらない中学生が揃って選挙だなんだと言いながら歩いているせいか、すれ違う人々からふしぎそうな表情をしていた。でも、そんなことを気にする暇はなかった。私の五感は今、くーちゃんからの質問を聞いて答えることだけに集中しなければならない。頼りにしてくれるのは、うれしい。

 次なる選挙をどう運営するかを相談し合う私たち。くちびるも喉も渇いてきた。けれど水筒を取り出そうにも、片手は塞がっている。左肩に掛けているスクールバッグから右手で水筒を取り出すことはできるとしても、そこから蓋を回して開けるのは難しい。
 駅に着いたら一旦手も離れるだろう。と、私は渇いた口腔内をそのままにした。

 選挙の話が底を尽きはじめて、無言の時間が多くなった頃──同時に、駅舎の頭がちょぴっと見えはじめた頃──私はぱさぱさになっている口をどうにか動かして、気になっていることをくーちゃんに尋ねた。

「エレベーターのエレンって知ってる?」
「知ってるわよ」

 即答だった。

「あれでしょう? 構ってほしくてエレベーターを止めちゃう女の子の名前。先輩から訊いたことがあるわ」
「知ってたんだ……」
「学校内じゃ、結構有名な話よ」

 学校の七不思議のひとつね、とくーちゃんは人差し指を立てて説明してくれた。うちの学校に七不思議があったことを、私ははじめて知った。

「気づいていることに気づかせてあげればエレベーターは動くのよ──っていうか、なんで急にそんな話を?」

 あ、と声にならない声がこぼれた。それはただの呼吸同様だったけれど、戸惑いは十二分に伝わったみたいだ。

「さっちゃん、エレベーターなんて乗らないじゃないの。私は委員長の仕事で大きな荷物を運ぶ時とかに使っててそれで知ってたのだけれど、さっちゃん、エレベーター使わないわよね?」

 くーちゃんは首をぴったり横に九十度曲げて、少しだけ顎を上げる。私を見つめる視線が痛かった。

「有名って言っても、それはそれだけエレベーターを無断で利用している生徒がいるからってことなんだけれど?」

 その視線は、ここ最近で一番深いところまで刺さった。私のまぶたの裏まで見透かされているみたいだった。

「怒らないから、ワケを話してごらんなさい」

 それ絶対に怒るやつですよね。心のなかで呟く。繋がっている手がどんどん握り締められていって、ちからが、どんどん加わっていった。もちろん隠し通せるわけがなく、私は正直に白状した。
 久々津くんとのデートの日、エレベーターを使用したこと。そしてその時、エレベーターが止まったことを。

「なるほどね。それは久々津くんが悪いわ」

 あっけらかんとくーちゃんは言った。
 
「なんか、久々津くんへのあたりが強くない? 明らかに私も共犯でしょ」
「久々津くんを犯人にしてるのはさっちゃんだって同じでしょう?」

 久々津くんを人間としてみているからこそなのか、彼女が彼に向けるそれが以前と違うのをひしひしと感じた。

「でもエレンの対処法って名前を呼ぶだけでいいのに。久々津くんったら蹴るなんて……、破天荒ね」
「彼、なにも新しいことなんてしてないよ?」
「新しいわよ。『蹴る』なんて対処法は訊いたことないわ。みーんな、名前を呼ぶの」

 いわく、エレベーターのエレンは地縛霊とか怨霊とかの類いではなく、ただのお茶目な幽霊で、本当に心の底から誰かに構ってもらいたいだけの存在らしい。彼女はいろいろといたずらを試した結果、エレベーターに乗った人間に『エレベーターが止まる』という異常を体験させると構ってもらえる確率が高いことを知った。そして、味を占めた。それ以降うちの学校のエレベーターはどれもよく止まるようになり、そのたびに中にいる生徒や教員職員が名前を呼ぶようになったそうだ。

 きみのこと、ちゃんとわかっているよ。──そう伝えるために。

 エレベーターを止めるなんて肝が冷えることだけれど、名前を呼ぶだけで満足するなんて、かわいらしい幽霊もいたものだ。

 というか、くーちゃんはなぜそんなにも詳しいのだろうか。

「定期的に手紙が来るからよ」

 さもありなん、とくーちゃんは言いはなった。ちなみにその言葉のどこにも当然のことは含まれていない。

「幽霊って手紙出せるの?」
「ボトルシップみたいなものよ」

 くーちゃんは空いている左手で、空に瓶の形を描いた。

「砂浜に打ち上げられたみたいに、気がついたら、エレベーターの中に転がってるの」
「その噂こそ有名になりそうだけど」
「パッと見、ただの落とし物よ。見つけ次第生徒会に引き取られちゃうから、ほとんどの生徒は見れないわ」
「それを、くーちゃんは見たっていうの?」
「ええ。うちの学校では学級委員長は必ず生徒会に所属することが決まっているでしょう? だから、そこで見たの」

 ため息混じりに、くーちゃんは肩を落とした。
 生徒会長や副会長、会計や書記といった面子のほかに、各学年各クラスの学級委員長が生徒会に属しているのは知っている。くーちゃんが日頃から忙しくしているのも、ほとんどが生徒会の仕事が立て込んでいるせいだ。今のため息も、日頃の職務の多さに辟易している証拠だろう。

「学校に蔓延しているエレンのことは、『エレベーターが止まったらエレンという名を呼べ』のみなの。信じてない人もいるけれどね」
「そうなんだ……」
「だからふしぎなのだけれど、どうして久々津くんはエレンのことを知っていたのかしら」

 カラスが相づちをうつように鳴いた。確かに。確かに。と言っているようだ。自分が疑われているような気がして、私は乾いたくちびるを舐めた。

「久々津くんが、エレベーターをよく使っていたから、じゃないの?」
「ええ。それでエレンの噂自体は知ることができるでしょうね。でも、エレンが構ってちゃんなのは、生徒会のなかでしか共有されていない情報よ。彼はエレンのこと『構ってちゃん』って言ったんでしょう?」
「それはほら。もう卒業しちゃったっていう先輩から訊いたんじゃない? 久々津くん、そう言ってたよ」
「そうなんだけど、なんかひっかかるのよね……」

 生徒会の人しか知り得ないようなことを知っていたのなら、その先輩とやらが生徒会所属だったと考えるほうが自然だろう。久々津くんが嘘を吐く理由もわからないし、今はそういうものだと、納得するしかない。
 くーちゃんのいう通り、ひっかかりは残るけれども。確認するすべを持っていない。喉に引っかかった小骨を取るために白米を飲み込むかのように、私は次の話題を取り出した。疑いの視線から逃れるためとも言える。

「ほかの話をしよう。これも久々津くんから訊いたんだけど、駅のショッピングモールにあるフードコートには──」
「知ってる。カドノさんよね」
「カドノサン??」

 続けざまに即答されて、私は拍子抜けした。てっきり、あまり知られていないことだと思っていたのに……、と思ったけれど、後ろについてきた聞き慣れぬ名前に首をかしげる。くーちゃんは前を見据えながら、その『カドノさん』について説明してくれた。

「フードコートにある隅っこの四人席。そこにはいつもカドノさんという女性が座っている。彼女は友だちを待っていて、席が取られないように空いている三つの席にはカバンや羽織り物が置いてある。カドノさんが待っている友人とは何者なのか、それは地獄の獄卒であり、そしてその四人席はあの世と繋がっている。っていう話でしょう?」

 地獄の獄卒とは……、エレベーターのエレンよりも攻撃力が高いお話が降ってきたものだ。でも、私が訊いた話とはまったくもって趣向が異なっている。

「電波か弱いから誰も座らないって訊いたんだけど……」
「あら。そんなこと誰から訊いたの?」
「久々津くん。昨日フードコートに行った時に彼、その四人席に座ってたんだよ」

 そう言うと、くーちゃんは黙ってしまった。歩く速度もゆっくりになる。私も歩幅を合わせるために、ゆっくりと歩いた。

「……久々津くんって、なにものなのかしら」
「え?」

 それは、くーちゃんが一番知っていることではないのだろうか。中学一年の途中から『久々津來』という神さまに魅入られた彼女のほかに、久々津くんのことを知り尽くしている人間はいない。私のほうが、知りたいくらいなのに。

「電波が弱い、ね。謳い文句としては合格ってところかしら」
「どういう意味?」
「電波。──つまり波長。あの世とこの世では波長が違うのよ。まれに波打ったそれがぶつかって重なることもあるけれど、その可能性はゼロに近い。だから、あの世と繋がっているあの四人席の周辺を『電波が弱い』というのは、間違ってはいないのよ。通っている電波が異なるからね」
 
 つらつらとでてくる話に、私の口はまた開いた。湿った風が吹き込んでくる。

「……そういうくーちゃんこそ、やけに詳しいね」
  
 私としては、くーちゃんも久々津くんも同じくらいに『なにものなのか』という感覚が拭いきれない状況に陥っている。なぜ、そこまで知っているのか……。なぜそんな、電波とか、波長とか、専門家っぽいことが言えるのか……。

「そりゃあ、私はただの人間を神さまにしちゃったからね」

 くちびるを尖らせて、くーちゃんは呟いた。悪いことをして、それを親に報告する時みたいなかおをしている。

「簡単に『神さま』にしちゃいけないのに、やっちゃったからね。本当は、私たちってあちら側の世界に入り込んじゃいけないの。住む世界が違うから。ルールも違うから。すべて異なるから。でも、私はそれを破った。だから、いろいろ知ってるの。体験したからね」
「なにを──って、訊かないほうが良さそうだね」

 尋ねようとした瞬間、くーちゃんはすがるように眉をひそめて、私を見てきた。

「さっちゃんは知らないままでいいのよ。そのまま、人間の早蕨計でいてちょうだい」
「……それは、くーちゃんの助けになる?」

 私が立ち止まれば、くーちゃんも遅れて止まった。腕が伸びて、私と彼女に距離ができる。そのあいだに、重たそうな風に乗った葉っぱが二枚通った。
 くーちゃんは、暗かった表情をぱっと明るくさせて、
「なるわよ。大助かり」
 と微笑む。けれど、それは無理をしているような明るさだった。ちかちかと呼吸する電球を彷彿させた。

「あんまり近いと私、また間違えちゃうから」
「間違うって?」
「また『神さま』を作っちゃう。さっちゃんを『神さま』にしちゃうかも」
「そう簡単には作れないでしょ。私、神さまって器じゃないよ」

 私は笑う。私が笑わないと、くーちゃんの明かりが切れてしまいそうだった。

「……一回作っちゃうと、危ないのよ」

 うつむいていたくーちゃんの表情を伺うことはできなかった。たったの二本──中学生の腕二本分しか離れていないというのに。かおをみないまま、私たちは会話を続ける。今は、道の真ん中でもお構いなしに。

「神さまになったら、私はどうなるの?」
「久々津くんの時は、誰も見向きもしていなかった彼のことをみんなが見るようになったわ」
「じゃあ私、人気者になっちゃうのか」
「まったく同じ事態になるとは限らないけれど、可能性は高いわ」
「そっかあ。大変そうだな」
「でもそんなの、私は嫌よ。くーちゃんは、私のくーちゃんだもの」
「そう思ってるなら、平気じゃないの」
「えっ」

 私は今、無責任なことを言った。なんの根拠もない言葉だった。「そうだったらいいな」といったような、希望的観測の言葉だった。キマジメとしては、許されない言葉だった。

「神さまっていうのは、総じて『みんなのもの』でしょ? くーちゃんが私を独り占めしたいって思ってるうちは、だいじょうぶだよ」

 だいじょうぶ。
 という言葉は呪いだ。無責任な言葉だ。けれど、強い。だいじょうぶだと思えば、だいじょうぶになってしまうことも、ある。それが良い方向に向くのか悪い方向に向くのかは、くーちゃん次第だ。これは賭けだ。危ない『あそび』同然。でも私は、私のくーちゃんのために呪い(まじない)の言葉を使おう。

「絶対、だいじょうぶ」

 くーちゃんが顔を上げる。そのかおはくしゃくしゃで、今にも泣き出しそうだった。つい昨日見た泣き顔とはまた違う、かなしみではなさそうな表情。でもそれがうれしさなのかと言われれば、違う。それは断言できた。名前の付けられない感情が、くーちゃんのなかにうまれたのだろう。
 私は、繋がったままの腕を揺らす。揺り篭で赤ん坊をあやすかのように、ゆったりと。

「さっちゃんが言うなら、間違いないわね」

 くーちゃんは笑ってくれた。苦しそうなのは変わらないけれど、目とくちびるは弧を描いている。
 私たちは隙間がなくなるように近づいた。あいだに挟まるスクールバッグは右側に移動させた。一瞬だけ手を離した時、彼女は迷子みたいなかおをした。でもそれも、再び手を繋いで肩を寄せたら気配を消した。

「さっちゃん。ほんとに、この三年間で身長が伸びたわよね。一年生の時は一緒の高さだったのに」
「私からすれば、くーちゃんが縮んだように見えるよ」
「不動の身長の持ち主なのよ。私は」
「なんかかっこいいね。『不動の身長』」
「ただ伸びないだけだけどねー」

 くーちゃんと私の視線は違う。頭ひとつ分異なっている。目の前にある街路樹の見え方も違って、一度に進める距離も違う。横断歩道で並んだ時にかかとを揃えてスクールシューズを比べてみれば、レンガが敷き詰められた地面に寝そべる靴が、家族みたいな形をしていた。

「ねえさっちゃん。私の身長、これから伸びるかしら」
「親戚に成人になってからも地味に身長が伸び続けてる人がいるから、可能性はあると思うよ」
「本当? じゃあ、将来の私に期待しておくわね」

 私はもう、自分の身長が伸びないことを願っている。くーちゃんとの距離が離れてしまうし、合う服もなくなる。
 久々津くんに頼んだら、ぴったり合うかわいい服を作ってくれたりするのだろうか。

「って、なに考えてるんだよ」
「あら? どうしたのさっちゃん。また顔が真っ赤よ」
「全部、夏のせいだ」
「だからそれは通らないってば──、って言おうとしたけれど、本当に赤いわよ。熱中症かしら。お水飲む?」
「うん。そうする」

 促されて、私は水筒から水──実際に入っているのは麦茶──を飲んだ。冷たい液体が食道から胃へ落ちて、冷気が五臓六腑に染み渡る。ふう、と一息ついて、日陰で汗を拭った。
 くーちゃんも水分補給をしていた。よほど渇いていたのか、喉が上下に激しく動いてる。

 昼を過ぎて暑さは激しさを増しているという音声が、どこからか聞こえてきた。それは、私たちと同じく日陰で涼んでいる大学生っぽい人の携帯電話からの音声だった。耳にイヤホンをさしているけれど、本体にイヤホンジャックがちゃんと刺さっていないのだろう。動画でも観ているのか、音が漏れ聞こえてくる。
 私以外にも、なにもしなくても聞こえてくる気象情報に耳を澄ませている人がいた。でもそれも、大学生っぽい人が本体にイヤホンジャックがささっていないことに気づいてしまってからは、シャットアウトされてしまった。
 セミの鳴き声と車の走行音が辺りを包み込む。

「行こう」

 私はくーちゃんに手を差し出した。

「そうね」

 と、くーちゃんは答えた。

 今までとどまっていたものが、崩壊してきている。この三日で変わった、私からみる一組の印象。選挙は、みんなにとってはただの『あそび』。私にとっては受験の休息だった。と、思っていた。

 本当は、みんなのみんなによる、みんなのための『いとま』だった。みえなかっただけで、『受験』というものはみんなのなかにもちゃんとあった。この先あと半年はずっと続くそれを断ち切って離した状態が、この三日間だった。

 貴重な『いとま』だった。

 夏休みまえの今しか、こじあけられる時間はなかったんだ。少し考えれば、わかることだった。

「私って、本当に生真面目なのかな」
「突然どうしたの?」
「久々津くんのと会話で気づいたんだけどね。今回の選挙が私にとっては休息だったなら、みんなにとってはなんだったんだろうって」
「それは『あそび』でしょう? いつもさっちゃんが言ってるじゃないの。私たちがやるのは『あそび』だって」
「つまり休息だったわけでしょ」

『あそび』=休息。
 休息=『いとま』だ。
 
「みんなは私よりも、休息が必要だったんだよ。だから『あそび』が多かった。私はそれに気づけなかった。キマジメなのに」
「うーん。それ当たり前のことじゃないかしら」

 まっすぐ前を見ていているから、先を行く彼女が今どんな表情なのかはわからない。けれどたぶん、微笑んでいるのだと思う。
 仕方ないわねえ、と言わんばかりに。

「だってそれを感じとるのは学級委員長の仕事よ? 奪っちゃいやよ」

 ぎゅっ、と繋がっている手の形が変わった気がした。でも見ると、いつものくーちゃんの手だった。
 
「ただでさえ忙しいのに、請け負い過ぎだよ」

 うつむいたまま、私は言った。まるでいじけてるみたいだ。

「私がすきでやってるのよ。みんなが楽しそうなかおをするの、見るのすきだから」

 くーちゃんの顔を見る。学級委員長のかおをしていた。くーちゃんであってくーちゃんではない人がそこにいる。今この瞬間、私と手を繋いでいるのは学級委員長だったから、さっき、手の形が変わったように感じたのだ。
 私は、くーちゃんは学級委員長もどきで、クラスのことなんて微塵も考えていないと思っていたけれど、違った。くーちゃんはちゃんと、学級委員長としての顔を持っていた。

「この三日間、一組はちょっとさみしかったわよね」
 
 学級委員長は言った。それはクラスを率いる者として、心からの心配の色がうかがえる声音だった。

「確かに。なんだかしずかだったよね。ぴりぴりもしてた」
「みんな、さっちゃんの一票にドキドキしてたのよ。まあなかには、さっちゃんがふたりとデートすることを憤懣やるかたない気持ちで爪を噛んでた子もいたけど」
「爪を噛んでたって……、比喩?」
「現実よ」
 
 開いた口が塞がらなかった。この下校で私の口は何度開きっぱなしになるのだろうか。
 実際に爪を噛んでいた子がいたなんて……、駄目じゃないか。誰かのストレスになるなんて……、キマジメとして許されないだろ。

「心配しなくても平気よ。土屋さんのあれはストレスじゃなくてパフォーマンス。授業中も見せつけてたの、さっちゃん気づかなかったの?」
「全然気づかなかった……。っていうかなんで一番前にいるくーちゃんが後ろ側で行われてた戦いを知ってるのよ」
「私には背中にも目があるのよん」

 流石に冗談だと思いたいけれど、ただの人間を神さまにしちゃうのが朽奈々という人間だ。背中に目があってもおかしくない。今この瞬間も、少しだけ後ろにいる私をその目で捉えているのだろうか。

「さっちゃん、キマジメって言葉を気に入ったの?」

 急に、すっかり忘れていたものを思い出したかのように言ったくーちゃん。
 
「どいうこと?」

 私はなんとかしてくーちゃんに追いつき、となりに並んだ。
 
「だって今まで、呼ばれるたびに微妙なかおしてたじゃないの」
「うそ」
「ほんと」

 そんなに表情に出でたのか。と、空いている片手で、ぺたぺたと顔を触ってみた。中指が口の端にたどり着いた時、私は自分が今笑っていることに気づく。くちびるを内側に巻いて固く結んでも、口角は微妙に上がったままだった。自分では、無表情なほうだと思っていたのだけれど、違ったみたいだ。

「それが今じゃ──というか今日は、すごいうれしそうなかおをしてたわ。キマジメであることを誇っているみたいに......、あ。誇っちゃいけないってわけじゃないわよ」
 と、くーちゃんは慌てて注釈を入れる。そんなに慌てなくても、べつにいいのに。

 ああでもそうか。そんなに変わっていたのか、キマジメとしての私は。表情が変わった理由としては、ちょっとだけ、生真面目な自分を受け入れられるようになったからだろうか。と、適切な言葉を探る。

「……生真面目だからって、ずーっとキマジメでいなくちゃいけないわけじゃないってわかったから、表情がゆるくなったと思う……。たぶん」
「それも久々津くんとの会話のなかで?」
「うんそう……」

 って、なんでわかったの?
 驚く私に、学級委員長からくーちゃんに戻ったくーちゃんは「なんでって」と顔をほころばせた。我が子を見送る親みたいな、やさしいかおをしている。

「みてればわかるわ」

 その言葉も、親のようだった。
 
「久々津くんとのデート、よっぽど印象に残ってたのねえ。いやあ。まさかさっちゃんと久々津くんが──」
「ちょっと待って!」

 このままでは話がべつの方向にいってしまうと思い、私は大声をあげた。すれ違う人々が振り向く。私たちは、話しながら歩いているうちに喧騒に包まれた街のなかへ移動していた。その喧騒のなかでも、私の声はやけに響いて、目立った。

「ちょっとさっちゃん、声が大きいわよ」
「うんそれはわかってる。でももとはといえばくーちゃんはおかしなことを言い出すから」
「私はまだ、『さっちゃんと久々津くんが』までしか言ってないわよん」

 確かに、そうだった。私が変な想像力を膨らませただけの話だ。それだから、余計に恥ずかしくなってきた。

「やっぱり。久々津くんのことを考えると顔が赤くなっちゃうのね」

 納得したかのように、くーちゃんがうなずく。

「さっちゃん」

 至極真剣な眼差しで、彼女は私を見据えてきた。

「それが、『恋』よ!」

 今度はくーちゃんが大声を出す番だった。再び周りの人たちが振り向く。私は二重の意味で恥ずかしくなった。

「今は魚の話をしている場合じゃないでしょ」
「そんなボケは通らないわよ。ちゃんと漢字で理解してるでしょ」
「……してます」
「まさかあの早蕨計の初恋が久々津來だとはね〜」
「決めつけないでよ」

 わかっている。私が久々津くんに、ほかの人とは違う感情を向けていることぐらい。でもそれは、恋とか愛とかではない。断じて違う。なにかがあるのは認める。けれど、その『なにか』に、恋とか愛とかいう名前を付けたくないし、つけられたくない。
 
「そういう、きゃぴきゃぴしたものじゃないよ。簡単につけられないよ、名前なんて。私は名前のないこの感情を、そのままにしておきたい。だってどれもあてはまらないんだから」
「いいじゃないの、名前を付けたって。これに恋はきゃぴきゃぴじゃないわよ」
「とにかく、いやなの」

 私とくーちゃんの距離が少し離れる。駅から二個手前にある信号機で止まると、私たちのあいだには無言が流れた。

「わかったわよ。さっちゃんがそうしたいなら、私はこれ以上なにも言わない。名前も付けないし、呼ばないわ」

 我慢比べみたいになって、くーちゃんはそれに耐えきれなさそうに、はあーと大きな息を吐いた。

「でもそれを──名前のないそのなにかを、絶対手放しちゃ駄目よ。それは、さっちゃんにとって必要なものなのだから」

 信号機がぴよぴよ鳴いている。私たちは歩き出した。次の信号機はすぐについてしまうから、わざとゆっくり歩いた。周りの人たちは、そのまま青信号で次に進むために、頑張ってまっすぐ前を見て早歩きをしていた。
 私たちだけが、ぽつぽつと、迷子になった子供みたいにきょろきょろ辺りを見渡しながら歩いていた。まるでここだけ時間が遅くなったみたいだ。

 くーちゃんの言う通り、久々津くんが私にとって必要なものなのかどうか。『必要』という言葉すら適さないくらいに、大切な感情なのだとは思う。必要とか不必要とか関係なく、当たり前にあるべきもの。きっと、くーちゃんにだってある。弟切くんにも。土屋さんにも。もちろん、久々津くんにも。三年一組に限らず、この世界にいるすべての人間に備わっているのが、この『名前のない感情』だろう。

「高校受験が終わったら、さっちゃんは誰かに恋をしたり誰かを愛したりするのかしら」

 微笑しながら、くーちゃんはさらに肩を寄せてきた。思わず足が止まる。信号機まであともう少しなのに、その少しが進めない。

 三年後にまた大学受験がある。なんて野暮な答え方はしたくなくて、私はなんて答えようかと頭を働かせる。恋や愛。それらが私にとってわけがわからないものなのは変わりない。ただでさえ今は、この名前のない感情におっかなびっくりしているというのに。
 逡巡し、とりあえず出てきた言葉は、「ううん」という否定の言葉。首を振って、私はビルの窓に反射した太陽の光に目を細めながら言う。

「私にはやっぱり、恋愛よりも勉強だよ。キマジメだからね」

 まずは勉強第一! と、やっぱり野暮なことを言ってしまった。

「そんなキマジメの心に棲んじゃうなんて、久々津くんは人間のままでもすごいわね」

 くーちゃんは小さく呟いた。

「そんな久々津くんだから、神さまになれたんだよ」

 私は、もっと小さく呟いた。

 彼が神さまだったのはもう、昔の話だ。その話をするのは、なにかのルールに違反する気がした。

 すぐとなりにいるくーちゃんのことでもなく、弟切くんのことでもなく、久々津くんのことでもなく、今日やる過去問のことを考えながら、ちょうど青になった、駅に一番近い横断歩道を渡る。どこまでもキマジメでいたいんだな、と自嘲しながら歩く。
 白い線の外側にはちゃんと網が張ってあるのだろうか。私はわざと黒いアスファルト部分だけを踏んで、ゆっくり歩いた。くーちゃんと手が離れる。まるで手のひらにバターでも塗っていたかのように、私たちの手はなめらかに離れた。
 黒を踏む。そして私は、どこにも落ちはしなかった。

 くーちゃんが、「なにやってるの?」と叫ぶ。

「なんでもない」

 私は肩をすくめて、スクールバッグに付けたねこのおうさまの胴体を持ち手と一緒に握った。マントの裏に縫われている『ラッカヨウ ノ アミ ハ ツクッテ アル』が手のひらを通して伝わってきた。
 くーちゃんの声で、
 久々津くんの声で、
 弟切くんの声で、
 それは再生される。

 一番声が大きかったのは、久々津くんだった。

 私はくーちゃんに追いつき、ねこのおうさまから手を離して、再びくーちゃんと手を繋ぐ。それは改札まで。
 点滅する信号機が私たちの背中を押して、早く帰りたいと胃がないた。

 私は夏休みの過ごし方を考える。まずは学校説明会に行かなくてはいけない。それに宿題もある。受験勉強は変わらず進めて、少しでも偏差値を伸ばそう。桜が舞う頃に、私は私が望んだ場所にいれているかはわからない。それは、誰にもわからない。くーちゃんとは進む道が違うから、同じ桜を見て写真を撮ることは叶わないだろう。でも、桜の写真を送りあうことくらいは、できるかもしれない。

 セミが鳴く。
 ツクツクツクツクないている。

『だいじょうぶ』

 私は呪い(まじない)の言葉を唱えた。私が底につくことはない。なぜならば、私が歩む道には網が張られているから。そしてそれはとても頑丈だ。それに、肌を傷つけない親切設計。久々津くんが縫い込んでくれた網がそこにあることを確かに感じながら、私は自動改札機に定期券をかざした。

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