城崎先輩の笑顔は、俺との間に一本の線を引いたように思えた。ここから先はまだ入っちゃダメだと境界線を張ったような、人を簡単には寄せ付けないオーラを感じた。
 あまり踏み込まれたくないのかもしれない。同性が好きなんて簡単に言ったけど、軽い気持ちで暴露できるものでもないし。でも、誰かに本当の自分を話したかったのかな、なんて思う。
 
 自分もたまにそう思う時がある。あまり喋らないから誤解を招いているのは自覚している。別に怖い人でも根暗なわけでもないけど、白瀬悠羽という人間を理解してもらう努力を放棄してしまってからは、他人から勝手なイメージを作られても受け流すに徹している。
 別にそれでいいんだけど、たまに……、極、稀に……たった一人でいいから、本当の俺を分かって欲しいと思うことがある。
 それは決まって、わけもなく寂しさを感じる時だ。
 先輩の失恋が本当なら、今、無性に寂しさを感じていたのかもしれない。
 誰にも知られていない自分を、誰かに見て欲しかったのかもしれないと思った。
    
「天使くんはオレが男が好きだって知っても、気持ち悪がったりしないんだねぇ」
「特には」
「寛大だねぇ」
 静かに言った城崎先輩は、大人っぽく見えた。

 窓の外に目を向けた城崎先輩は、空を見て呟いた。
「朝でも昼でも夜でもさ、綺麗な空を見たときに、一番に思い出してもらえる人になりたいんだよね。その人の心を独り占めできた証拠じゃん」
 独特の感性に、けれど妙な説得力を感じてしまう。
 
 正直、雅久から話を聞いている(聞かされている)限りでは、もっと騒がしくて陽キャの代名詞のような人物像だった。
 一対一だと違うのか、それとも相手に合わせて接し方を変えているのか。
 なんにせよ、きっと城崎先輩は他人の心に入り込むのが上手なんだろう。
 自分には立ち入らせないのに……。
 
「オレの顔になんかついてる?」
「いえ、何も」
 考え込んで見過ぎていたと気付き、さっと視線を逸らした。

 予鈴が鳴り、立ち上がる。
 結局、寝られなかったな……。
 いつも通りの時間に保健室へ来ていたなら、城崎先輩とこんなにも話したりしなかっただろう。
 今日は職員室に寄っていたため、十分ほど遅かった。
 でも城崎先輩が片桐先生にキスをしちゃった場面に遭遇していたかもしれないと思うと、結果はどっちもどっちだと思われた。
 俺は今日、城崎先輩からは逃れられない運命だったのだ。
 
 っていうか、午後の授業、寝そう。
 すでに瞼が重い。
「失礼します」
 ぺこりとお辞儀をして先に出ようとした。

「待って、行かないで!!」
 またしても呼び止められる。
 行かないでって……予鈴鳴ったから、城崎先輩だって教室に戻らないといけないのに。
「せっかくお近づきになれたんだから、もっと話そうよ」
「いえ」
 正直、もう脳みそが働いてない。昼休み、教室の喧騒から逃れるようにここに来て、横になって微睡む時間が俺には必要不可欠になっている。その時間を先輩に割いてしまい、今は目を開けているのさえしんどい。
 
 人の恋愛を馬鹿にする権利はない。なんて言うとカッコいいかもしれない。
 でも俺の場合は、誰と誰が付き合ってるとか、誰が誰かに告白したとか、とにかく他人のあれこれに興味を示せないだけなのだ。だから城崎先輩の恋愛事情も何の偏見も持たずに聞けた。
 ただそれだけと自己分析する。

「まぁまぁ、横になりなよ。オレばっか喋っちゃって、お昼寝の邪魔しちゃったからさ。ギリギリまで横になってな」
 ギリギリとは、もう今の時間を指す。
 本鈴五分前。教室までの移動時間を踏まえれば、たった今、この瞬間、保健室から出なければならない。
 
 なのにこの先輩ときたら、離さないという固い意志を行動で示してくるのだ。
「は、離して、ください」
 俺の胴を雁字搦めにする勢いで抱きしめて、離れようとしてくれない。
「ダメェ!! だって今、天使くんの事離したら、もうここには戻って来てくれないじゃん」
「当たり前です」
「嫌だ。オレ、今は一人になりたくない気分だから。ここにいてよぉ」
 赤ちゃんか!!
 城崎先輩の腕を引き剥がそうと必死に力を入れるが、びくともしない。なんて馬鹿力なんだ。

「先輩、授業は」
「別に大丈夫。オレ、頭いいから」
 それは知ってますとは返さなかった。余計に調子に乗るのは目に見えている。
「片桐先生が戻って来ますよ」
「今日は戻らないよ。ここで冷静になるまで一人にしてくれるって言って出てったから」
 片桐先生、恨みます。

 本鈴は呆気なく鳴ってしまった。
 俺は項垂れ、城崎先輩はぱあっと表情を輝かせた。
「もう、疲れた」
 こんなに振り回されたのは初めてだ。授業は諦めてベッドに横たわる。
 先輩は上機嫌にペラペラと喋っているが、俺の耳は殆ど働いていない。
 眠い。怠い。面倒くさい。
 窓の外に視線を移す。太陽の光が暖かくて、俺の意識を奪っていく。

「ねぇ、聞いてる? 天使くん」
 聞いてなくても話は続くと容易く想像できるので、あえて返事は返さない。
「オレね、失恋して悲しかったけどさ、振られるのは分かってたんだよね。ほら、オレってこんなじゃん? 見た目も派手だしノリ良いし、平和主義だしさ。得することのほうが多いけど、何を言っても本気にされないのはちょっと悲しい。先生ともそんな感じで、好きだって言っても信じてもらえなくて。だから『本気でキスできるよ』って証明したくなった。でもやっぱりな……って現実突きつけられて凹んでたんだ。でもでも、そのおかげで、いつもは寝顔しか見られない天使くんと話せて、自分でもびっくりするくらい舞い上がってる」
 先輩は隠しもせず自分の話を言って聞かせる。
 俺は、そもそも城崎先輩が毎日いるとは知らなかったので、何とも返しようがない。
 
「無視されるかなって思ったけど、ちゃんと返事してくれて、優しいよね」
 それは先輩が無視させてくれなかっただけですと言いたいけど、ここで言い返すと眠れなくなってしまう。我慢、我慢だと自分に言い聞かせた。
 
「んでさ、さっき失恋には新しい恋だって、天使くん言ったじゃん」
 え……、それは城崎先輩が自分で……。
 びっくりして閉じていた目を開けてしまった。
 城崎先輩が俺の顔を覗き込んでいる。
「失恋から立ち直るまで、付き合ってね」
「は?」
 正反対の表情で見詰め合う。
 何を……言ってるんだ、この人は。破天荒にも程がある。
 俺に『寝顔天使』なんてあだ名をつけておいて、それなら先輩は『破天荒赤ちゃん』じゃないか。
 
「だーかーらー、天使くんに慰めてほしいなって」
 めちゃくちゃだ。
 もう、どうでもいい。
 思考回路が停止していて、何も考えられない。
「……好きにしてください」
 声に出した自覚はなかったが、どうやら俺の口から溢れていたようで、先輩は陽キャらしく自分の都合のいいように解釈し、「やったー」と声を上げている。

 俺はこの場から逃げるように深い眠りについた。
 サラサラと髪を撫でられている感覚がする。
 それが更なる心地良い眠りへと誘っていく。

 初対面でこんなにも喋ったのも初めてだったこともあり、自覚しているより酷く疲弊していた俺は、放課後を知らせるチャイムが鳴るまで爆睡してしまったのだった。