四月。久しぶりに会った幼馴染はぐんと背が伸びていて、一瞬誰だか分からなかった。
口元のほくろ、色素の薄い灰色の光彩、僅かに残る面影――ああ、間違いない。鷹取志郎だ。
遅咲きの桜が舞い散る中、彼は俺に詰め寄り言う。
「陽くん、何でそんなかっこよくなってんの?」
◇
「なー、陽太。昨日のアレ、何?」
二年の時からつるんでいる友人の篠原は、登校してきてそのまま、俺の前の席を陣取って尋ねる。
篠原は去年の途中までハンドボール部員だったが、足の故障が原因で辞めてしまったらしい。以来、帰宅部の俺と遊ぶことが増えた。
昨日、幼馴染と久しぶりの再会を果たした時も、実は隣にいたのだ。
「あれって、シロのこと?」
「いや、シロくん知らんがな」
「そりゃそうか。ピカピカの一年生だからな〜」
「中学の後輩?」
「そう。もっと遡れば小学校も幼稚園も一緒。同じ団地に住んでた二つ下の幼馴染」
鷹取志郎――"シロ"は団地内に男の同級生がおらず、二つ上の俺たちにくっついて回っていたが、仲間外れにされることも多かった。
俺はそんなシロが可哀想で、よく同級生たちの輪から抜けて構ってやっていたので、いつの間にか懐かれたらしい。
高校に入る頃、俺の家は学区の異なる一軒家に引っ越してしまったが、シロはまだあそこに住んでいるのだろうか。
昨日聞ければ良かったが、シロはすぐに立ち去ってしまった。
まぁ、学年が違うとはいえ同じ学校なのだから、またそのうち会えるだろう。
「幼馴染だとしても、何で陽太がかっこよくなったとかで怒んの?」
「よく分かんないけど、理不尽だよね」
俺は昨日のやりとりを思い出して笑ってしまう。
下校途中、突然現れ「何でそんなにかっこよくなってんの」と睨みつけてきた幼馴染に、俺は「シロも、大人びてかっこよくなったね」と返した。
すると、シロは「――っ!! そんなこと聞いてない!!」と噛みついてから、逃げるように去っていった。
どう考えても理不尽だ。でも、何故だかその理不尽さにほっとしている自分がいる。
昔から、シロは拗ねるとああなのだ。
成長とともに見た目は随分変わってしまったが、中身はきっと、寂しがりで甘えたで、可愛いシロのままなのだろう。
「陽太がいいならいいけどさ。何か困ったことになったら言えよ」
「ありがとう。篠原がいたから緊張して変なこと言っちゃっただけだよ、たぶん」
「たぶんて……。前も大したことないって言いながら、メンヘラ女子に付き纏われてたじゃん」
そんなこともあったなぁ、と俺は半年前の出来事を振り返る。
相談に乗ってほしいと言われて応じていたら、いつの間にか彼氏認定されて、大量の病みメッセージが届くようになった恐怖の一件だ。
「大丈夫。そんなんじゃないよ」
あれはあれ。シロはシロだ。
篠原は、根拠のない自信に満ちた俺をじっと睨んで、呆れた様子で溜め息をついた。
◇
入学したばかりの一年が、三階の三年の教室まで上がって来ることはそうそうないだろう。
(だから、会えるとしたら下校途中)
学校を出て駅へと向かう途中、住宅街を歩いていた俺は足を止めて振り返る。
五メートルほどの微妙な距離を空け、後ろを歩いていた幼馴染も同じように立ち止まった。
俺は「やっぱりな」と頬を緩め、こちらへ来るよう手招いてみる。
昨日の件を反省したのか、今日は篠原がいないせいか、シロは黙って俺の隣に並んだ。
「離れて歩いてないで、声をかけてくれれば良かったのに」
「だって陽くん先輩だし、俺、昨日動揺して変なこと言ったから……」
シロは俯いたまま、ぼそぼそ話す。
百八十センチはあるだろうか。二つ下の幼馴染に、いつの間にか背を抜かれてしまっていた。
伸びた髪は無造作だが、色白で鼻筋の通った整った顔をしており、女子にモテそうだ。
「背が伸びてかっこよくなっても、中身は可愛いシロのままなんだな」
「……」
嬉しいよ、というつもりで言ったのに、シロは余計に項垂れてしまった。
それが飼い主に叱られた犬のように見えて可愛い。
「まだあの団地に住んでんの?」
「うちも去年出た。今は駅前のマンションに住んでる」
「そっか」
ランドセルを背負ったまま団地内の公園で遊んだり、誰かの家でゲームをしたり。
ふと、幼い頃の情景が蘇る。
あの時一緒に過ごしたメンバーのほとんどが団地を離れて、今では会うこともなくなった。
もう二度とあの時間は帰ってこないのだと思うと、懐かしさとともに寂しさが胸を過るも、それだけだ。
中学を卒業して以来、幼馴染たちとは一切連絡をとっていない。積極的に連絡をとろうとも、集まろうとも思わない。
(俺って結構冷めた人間なのかも)
卒業して別の進路に進んだら、高校の友人にも会わなくなるのかもしれない。
シロのように、追いかけてきてくれない限り――。
隣を歩くシロとパチリと目が合う。
どうやらシロは、ぼんやり考え事をする俺を観察していたらしい。彼は気まずそうに視線を逸らして呟いた。
「陽くんは変わったね」
「そうかな? 確かに高校入って、髪染めたりピアス開けたりしたな」
いわゆる高校デビューというやつだ。
好きな子ができたとか、そういうわけではなく、周囲の友人に流されるままこうなった。
当初、親には叱られたが、自由な校風なので誰に注意されることもなく今に至る。
「見た目もだけど、落ち着いて、大人になった気がする」
「二つ離れてるからそう思うだけだろ」
歩いて話しているうちに、いつの間にか駅についていた。
階段を下り、改札を抜け、プラットフォームに下りてから、俺は何か言いたげな様子のシロに話しかける。
「今日この後、暇? 折角だから、もうちょい話そうよ」
その言葉を聞いた瞬間、シロはぱっと目を輝かせた。
(分かりやすい)
他の子たちのところに行かないで。僕といて。
そう言って半泣きで後を追ってくる幼いシロが、可愛くてたまらなかった。
流石にもう、そんな姿は見られないだろうけど。
進学し、団地を出て、シロと会うことがなくなってからも、シロなら後を追ってきてくれるのではないかと、俺は心のどこかで期待していたのかもしれない。
◇
地下鉄を途中で降りて、ドーナツのチェーン店に入る。篠原ともよく立ち寄る場所だ。
この時間帯は学生たちの溜まり場になっており、同じ制服もちらほら見かける。
席取りに回った俺が偶然座ったのも、同級生の隣だった。
四人グループのうち一人だけ、一年の時にクラスが同じで面識がある。
顔を合わすのは久しぶりだが、向こうも俺を覚えていたらしい。
「あれっ、陽太じゃん。久しぶり。クラス変わってから全然絡まなくなったよな〜」
「理系クラスとは合同授業もないから、ホント会わないよね」
俺は元クラスメイトと軽く挨拶を済ませた後、彼のツレに向かって何となく頭を下げる。
彼らも簡単な挨拶を返してくれ、穏やかな空気が漂い始めたその時――。
目の前にドンッとトレーが置かれた。
シロが不機嫌な顔で、俺を見下ろしている。
「先輩、コーヒーとアメリカンハニードーナツでしたよね」
言葉は丁寧だが、すこぶる態度が悪い。
隣の席の同級生たちにまで噛みついていきそうな雰囲気だ。
「シロ……そんな態度をとるなら俺は帰るよ」
「今日は俺との時間を作ってくれたんじゃなかったですっけ」
シロは「俺との」部分を強調して、隣の席の元クラスメイトを睨む。
騒がしい店内に一瞬、静寂が訪れたような気がした。
「混んできたし、俺らそろそろ出ようか」
「そうだな。ゆっくり歩けば丁度良い時間だろ」
俺がシロを宥めるよりも先に、隣の席が動き始める。
「二木、悪い」
「カラオケの予約時間までの暇つぶしだったから、気にすんな。また話聞かせろよ」
嫌な空気になってもおかしくない状況を、元クラスメイトと同級生たちは笑って流してくれた。
そんな彼らを「大人だなぁ」と思う一方で、流石に目の前の幼くて独占欲の強い幼馴染を、どうにかしなければならないと思う。
俺が当たられるだけであれば良いのだが、誰かを傷つけたり、気を遣わせるようでは駄目だ。
「志郎」
強い口調で名前を呼ぶと、シロはびくっと肩を跳ね上げる。
「ごめんなさい。でも、久しぶりの二人きりになれるチャンスを邪魔されたくなかった」
先ほどまでの太々しさはどこへやら。シロはみるみるうちにしゅんとなる。
「分かった。会えなかった分の話も聞くし、これからは会う時間もとるから、ああいうのはやめてくれ。不満がある時は俺にだけ言って」
「……はい」
叱っていたはずなのに、しょぼくれるシロが可愛くて、頭を撫でてやりたい衝動に駆られた。
「あの金髪ピアスの人かっこよくない?」
透明の敷居を挟んで反対側の席から、きゃっきゃと楽しそうな女子の声が聞こえてくる。
「本当だ。連絡先渡しちゃいなよ」
「そういうんじゃなくて、目の保養」
会話の内容から、俺の話をしていると気づいただろうに、シロは女子たちに背を向けたまま、なんとか耐えている。
「我慢できて偉いな、シロ」
やっぱり頭を撫でてやりたい。でも駄目だ。
シロにもプライドがあるだろうと思い、伸ばしかけた手を引っ込めた。
代わりに、ちらちらとこちらを見てくる女子高生たちに手を振ってやる。すると、バレていたのが気まずかったのか、彼女たちは百面相をした後、急に大人しくなった。
(コーヒー、お代わり頼もうかな)
空になったマグカップを持って立ち上がると、俺の行く道に、制服を着崩した派手な男が立ち塞がる。
「なにガンつけてんだぁ?」
「ええっと……?」
俺は思わず「どちら様?」と言ってしまいそうになる。
言いがかりだ。
少なくとも俺の視界には映っていなかった。
(さぁ、どうしたもんか)
この男はきっと、自分より弱そうなら絡む相手は誰でも良いのだ。
下手に刺激すると面倒なことになると思い、俺はしばらく考え込む。
結論よりも先に、大人しくしていたはずのシロが口を挟んだ。
「喧嘩売りたいなら買いますけど。俺、柔道黒帯ですよ」
そういえば、シロはずっと柔道を習っていたっけ。
本人は嫌だったのに、父親が習わせたかったとかだったと思う。
黒帯がどれほどすごいものなのかは分からないが、なんとなく強そうだ。
俺に絡んできた相手も、舌打ちをしてあっさり退散してしまう。
「今のはありがと。助かった」
「……いつもこうなの?」
シロは訝しげな目で俺を見る。
「いや、こんなに重なることは流石にないよ。シロ、なんか引き寄せてる?」
「引き寄せてるのは陽くんだよね」
そんなことを言われましても。元クラスメイトと出くわしたのは偶然だし、ガラの悪い連中に絡まれるなんて初めてのことだ。
女子に連絡先を渡されることは――まぁ、ないとは言えないが、それも頻繁に起こることではない。
「俺だけの陽くんでいてほしい。他の人と仲良くしないで」
シロはほとんど氷だけになったカフェオレを、ストローでかき混ぜながら、ひどく重たいことを言う。
「それは無理だよ」
俺は即答した。
シロは顔を曇らせ、唇を噛んで俯くが、話には続きがある。
「でも、シロは特別」
「え?」
「俺、小中の友達に会いたいとかあまりないんだけど、シロが追ってきてくれたのは嬉しかった」
俺は席に座り直し、皿に残っていたアメリカンハニードーナツの残骸を口に放り込む。
期間限定だから試してみたが、どうも俺には甘すぎる。
指についた砂糖を舐めたのが気に障ったのか、シロは険しい顔つきでこちらを見つめていた。
「どうした?」
「陽くん、卒業式の日に話したこと、覚えてる?」
「卒業式の日……?」
俺が中学を卒業する時の話だろうか。
あの日は確か、一年は登校不要だというのに、シロはわざわざ制服姿で学校に来て、俺の帰りを待ってくれていた。
俺はいつものように同級生よりシロを優先して、「春休みの間に引っ越すよ」 なんて話をしながら、家まで一緒に帰った記憶がある。
「何か話したっけ。離れたくないってシロが泣いたのは覚えてるんだけど……」
「覚えてないならいいよ」
シロはそれからぶすっとしてしまい、折角の二人きりの時間は無言のまま過ぎていったのだった。
◆
「あああああああーーーーーーっ!!!!」
「ちょっと志郎、近所迷惑!!」
絶賛反抗期中の俺は、「母さんが怒鳴る声の方が近所迷惑だよ」とぼやいて、布団の中へと潜り込む。
(覚えてなかった! 覚えてなかった! 覚えてなかった! 俺は本気だったのに!)
本当は大声で泣き叫びたいところ、怒られたので心の中で絶叫する。
ドーナツ屋での一件は、それほど衝撃的な出来事だった。
浅羽陽太――陽くん。二つ歳上の幼馴染で俺の好きな人。
年上の幼馴染たちが俺を邪魔者扱いする中で、陽くんだけが唯一俺の傍にいてくれた。
初めは『優しくて大好きなお兄ちゃん』だったけれど、自分の『好き』が恋愛感情であると気づくまでに、そう時間はかからなかった。
だって、手を繋ぎたいし、キスをしたい。家族のような関係では物足りなくて、恋人として彼の一番大切な人になりたい。
そんなことを考え出したら止まらなくて、頭がおかしくなりそうになる。
二年前、陽くんが中学を卒業した日に、ついに俺は勇気を振り絞り「好きだ」と告白し、「シロが同じ高校に入れたら付き合ってもいい」という約束――のはずだった。
だから俺は、死ぬ気で勉強した。陽くんに釣り合う男になりたくて、体を鍛えて牛乳もたくさん飲んだ。
やっとの思いで高校一年生の春を迎えたが、陽くんは約束のことを覚えていなかったらしい。
覚えていないというよりは、俺の告白を真剣に取り合っていなかったのだろう。
それなのに、陽くんも俺のことが好きで、付き合ってもらえると思い込んでいたなんて馬鹿みたいだ。いや、馬鹿だ。
浅はかで、幼くて、どうしようもない。
(だから陽くんにも、真剣に相手してもらえないんだ。我がまま言って困らせてばっか)
ひとしきり怒りと悲しみが押し寄せた後に、どっと自己嫌悪がやって来る。
陽くんは大して勉強をしてる様子もないのに、余裕で学年一位をとれるような天才だ。
きっと東京の難関大学に行くんだろう。それで「彼女なんていらないよ」とか言いながら、しれっといい会社に入って、いい人を見つけて結婚する未来が見える。
(駄目だ。受け入れられない)
自分以外の人間が陽くんの隣に立つなんて。想像しただけで、じわりと涙が浮かぶ。
何もかもに関心の薄そうな陽くんが、未だに俺に構ってくれるだけでも奇跡だ。
多くを望んではいけないと頭では分かっているのに、一緒にいると独占したいし、もしかして望みがあるのではと思ってしまう。
(他の人にとられるくらいならいっそ――)
それだけは絶対に駄目だ。
頭を過る悪い考えをどうにか振り払う。
「はー、しんど」
どうしたら、このドロドロでめんどくさい気持ちを抑えられるのだろう。
ジェットコースターのように上下する感情に振り回されているうちに、気づけば夜が明けていた。
◆
「陽太、最近付き合い悪いじゃん」
ホームルームが終わってすぐ、鞄を持って立ち上がった俺に、篠原は揶揄い気味に言う。
友達の多い男だ。俺が一緒にいなくとも、何ら問題ない。そう分かっているからこそ、下校時間はシロを優先してしまっていた。
「んー。放っておくと、可愛い後輩が拗ねるから」
「なに、付き合ってんの?」
意外な言葉に俺は目を丸くする。
「俺たち男同士だよ」
「別に、男同士でもあるだろ」
「そっか」
側から見ると、俺たちは付き合っているように見えるのか。
驚きはしたが、嫌悪感も拒絶感もない。篠原も同じく、動揺した素振りもなく淡々と話す。
「学校にいてもべったりだし、俺は敵視されてるし。あれはただの憧れとか、友情とか、そういうのじゃないだろ」
「シロが俺のことを、恋愛的な意味で好きってこと?」
「そういうこと。死ぬほどこじらせてそうだけど」
篠原にずばりと言われて、俺は考え込んだ。
シロが俺のことを好きなことくらい、見ていれば分かる。
しかしそれは、男児が本来であれば母親に対して抱くような、独占欲だとか甘えの感情。要するに家族愛だと思っていた。
(シロは恋愛的な意味で俺が好きで、付き合いたい……?)
何度も頭の中で反芻する。
そうしているうちにふと、ドーナツ屋でシロに尋ねられたことを思い出す。
「卒業式の日に話したこと、覚えてる?」
そうだ。卒業式の日、俺を待っていたシロは離れたくないと泣いて、真っ赤な顔で「陽くんが好き」と言ったのだ。
だから俺は、「しばらくは会えなくなってしまうかもしれないけど、シロが同じ高校に入れたらいくらでも付き合ってやる」と言って慰めた。
(ああ。もしかしたらあれは、真剣な告白だったのか)
俺にとってはいつもの延長線のようなやり取りだったけれど、きっとシロにとっては人生を丸ごと変えてしまうような、大事な約束だったのだろう。
(そんな話を覚えてないとなったら、そりゃ怒るよなぁ……)
ドーナツ屋でのシロの不機嫌な態度に合点がいく。
確かシロは、勉強が得意ではなかったはずだ。
中学の頃は体格もひょろっとしていて、もっと地味だった。
俺を追いかけるために、どれだけ努力をしてくれたのだろう。
「噂をすれば」
篠原が後ろの扉に視線を向ける。
俺がなかなか降りてこないせいか、シロは三階の教室まで迎えに来たようだ。
「篠原ありがと。おかげで気づけたよ」
「おー。礼ならジュース一本でいいぜ」
随分と安い礼だなと思いながら、俺は篠原を睨みつけるシロの元へと向かった。
◇