孤独な音に、花束を。

 俺はあの人を探し続けている、7年前のあの日から。名前と同じように、光が差したら琥珀色に輝く瞳を持った彼のこと。また、必ず逢えると信じて。
 俺はあの人に届けるように祈りを込めながらリングキーに指を添わせた。

ー*ー*ー*一

 俺たちが出逢ったのは白い冬が終わりを告げた、4月のことだった。その日のことはすごく鮮明に憶えていて、朝焼けがきれいな日だった。
 俺、藍川凪(あいかわなぎ)はあの日。海が見渡せる丘の上の公園。桜の木の下の木陰で、フルートを吹く少年と出逢った。
目の前のその子は。とても寂しそうな瞳をして。桜吹雪降るあかるい光の中、孤独を音にのせて歌っていた。どこか影のある子だな、と思った。俺はその名も知らない孤独を歌う姿に、音に一瞬にして魅了されてしまった。

「…ねえ、君の名前は?」

気づいたら口から言葉が出て来ていた。急に見ず知らずの他人から話しかけられた彼は慌ててフルートを口元から離し、目を白黒させとても驚いているようだった。木の間から差し込む光が、彼の琥珀色をした瞳を優しく照らしだす。

「…」

琥珀色の瞳をした彼は息を詰めたまま何も答えない。きゅっと、しなやかな指先が銀色のそれを握り直す。肌触りの良い、心地良い風が俺たちの間を通り抜けていく。彼の顎にも届かない長さの短い髪がさらりと揺れる。
傍に置かれたフルートケースには『YUKI』と書いたタグがついている。歩み寄りながらケースにそっと手を触れる。

「ユキ、くん?」
「…ユウキ」

しゃがみ込み、彼を見上げるようにして名前を呟くと彼は少し面食らったようだった。目の前でちいさな声で恥ずかしそうに答えた。

「ユウキくん、急に話しかけちゃってごめんね。俺の名前は凪、藍川凪」
「凪、くん」
「ユウキくん、これからよろしくね」

遠慮がちに俺の手を握ろうとしている手をこちらから迎えにいく。柔らかい手と手が触れ合う。ようやく不思議な瞳の色をした目の前の男の子を正面から見据えることができた。微笑む俺と対称に、その目の中には一抹の悲しさと寂しさを綯い交ぜたような、筆舌に尽くし難い感情が飽和していた。
 哀しげに微笑むその姿が、その後いつまでも俺の中に遺り続けることも、そのような表情を湛えている理由も。当時の俺は知らなかった。

一*ー*ー*ー

 その日を境に徐々に俺たちは不器用に距離を縮めて行った。
初夏を通り過ぎ、梅雨になった。雨の降りしきる期間はユウキは一度もあの高台に来なかった。そして長い梅雨が明け、茹だるような夏が来た。
 毎日高台に来るわけではない彼と、数日おきの、不定期な交流。あの丘に向かいながら歩いている時に微かでもあの音が聞こえてくると俺は嬉しくなって走っていくのだった。息を切らせながら丘を登り切った先に。静かにだけどどこか照れくさそうに、嬉しそうに。くすぐったそうに微笑むユウキがいる。
ぽつりぽつりと他愛もない話をして、彼のフルートを聴く。そのささやかな時間がとても大切だった。これからも当たり前に、ずっと続いていくものだとばかり思っていた。

「ねぇ、凪くん。最後にこの曲聴いてほしいな。僕の…好きな曲なんだ」

そう言って、やはり彼は哀しげに吹き始めた。彼はどこまでも悲しさの中を生きる人だった。何が彼をそうしたのか、幼かった俺には分かり得なかった。

そして俺は、のちにこの曲が『別れ』を題材としていたことを知ることとなる。

 たしか、その音を聞いたのは夏休みにも入っていなかった頃だと記憶している。たった3ヶ月、いや3ヶ月もなかっただろうか。ある日、彼が「最後」と言ったあの日を境にユウキはどこにもいなくなってしまった。来る日も来る日も俺はあの潮の香りのする丘で待ち続けた。
けれど、彼は2度と俺の前には現れなかった。まるで夏の陽炎に拐われてしまったみたいだった。

一*ー*ー*ー

 真夏が見せた白昼夢のような、泡沫のような過去を携えたまま。その後3度の春を越え小学校を卒業した。そして中学に入学、なんの(ゆかり)かはわからないが入学した学校は吹奏楽の強豪校だった。
 もしかしたらあの時の彼に逢えるかもしれない、そのわずかな希望を持って吹奏楽部に入部した。一瞬の迷いもなく俺はフルートを選んだ、『あの時の彼にいつの日か出逢い直す』という目的を果たす下心だけを持ってフルートを初めた。
コンクールや、大会の時に会える。もしかしたら、一目見ることができるかもしれない、そんなセンチメンタルな欲望にも似通った野心だ。

 年に2回、大きな吹奏楽の大会がある。俺の学校は地区予選は当たり前の第1位で通過、時には第3位は確定、シードでそのまま勝ち上がって行ったこともあるほどの実力を持つ学校だった。
皆、日本一になるために必死で。大会が近づくたびに練習にはより一層力が入り、熱気が増す。本気で賞を獲りに行ってる人たちの中で、俺だけが練習に身が入っていない。もちろん全体の中で吹いてはいるが、俺の目線は指揮者の指先なんざ見てはいない。
いつだって、俺の視線は指揮者の後方。座席の間を走っていた。無意識のうちに彼を探してしまってる自分がいた。
琥珀色の瞳をしたあの人がいないか、例えそれがライバルだとしても。

この感情に名前を付けるとなにかが壊れて、終わってしまう気がして。頑なに自分の中にある感情を押し殺し続けた。見ないフリをし続けた。

 いつしか3度目の夏を迎え、果たしたいことも何もしたいことがないまま中学3年になっていた。引退が刻一刻と迫る。この夏の全日本大会が終われば俺たちは引退し、本格的に受験に専念するだろう。
自分がどんな人間か、強みとは何か。それのひとつすらも見つけることなく、俺はやはり『ユウキ』に会い直したいがためだけに吹奏楽が強い高校を選んだ。そこに自分が探し求め、焦がれてる『彼』が居るという保証も、何もないまま。
自分で言うのもなんだが、それなりに勉強はできた方だったので学力的にはなんの問題も無かった。
 中学校生活最後の大会は銀賞、2位という結果に散った。部員全員が顧問の言葉に鼻をすすり、顧問自身もまた泣いていた。小刻みに震える仲間と後輩たちの背をどこか冷めた目で見てる自分がいた。そのことにすらなぜか吐き気がした。
俺は悔しさ、やるせなさに同期が引き留める声も、静止をも振り切り音楽室から飛び出した。

 逃げるように引退してから、卒業まではあっという間だった。気がつけば入試が終わり、怒涛の受験期を駆け抜けた。担任に名前を呼ばれ、壇上で卒業証書を受け取った。お決まりの卒業曲を歌い上げ、クラスメイトにつられ少しだけ泣いた。

 銀の冬に春が溶け出していた。

一*ー*ー*ー

 『彼』に出逢ってから7回目の春を迎えた。俺は新品の匂いのする、まだ着こなすことができていない高校の制服を着て体育館に立っていた。長い長い校長の話が終わり、それぞれのクラスへ。簡単な自己紹介とホームルームを済ませ各自下校となるが、俺は終業のチャイムが鳴ったと同時に教室を飛び出した。向かう先は音楽室。教室の位置は高校見学の際に把握済みだ。
別棟にある音楽室へと、足を早める。誰もいない廊下に響く靴音は心なしかとても響いて聞こえた。

『一・一、、・一』

は、っとして思わず振り返る。微かに聞こえたような気がした。『あの日』の音が。

「ははっ、さすがに気のせいか」

自分の口から思わず溢れた乾いた独り言がやけに大きく響く。
一小学生の時からずっと『ユウキ』の幻影を追い求めてここまで来たけれど、そもそも彼がまだフルート、音楽をやっているかすら一

「分からないんだよな…」

『一・一、・・一一・、一』

「っ…!」

思わず息を詰める。辺りを見回し、全神経を聴覚に集中させる。

『・一一一・・、一、、、・』

聞こえた、そう思った時にはもう俺の足は音のする方へと走り出していた。
『あの日』を。
あの、海の見える丘の上で最後に聞いた別れの音を追い求めて走る、恋焦がれた彼の音。俺をここまで心酔させた、崇高な、あの…!
第六感が俺に目の前の扉を開けろ、と囁いてくる。漏れ出る小さな音を聞いて確信した。

今、ここに、『彼』がいると。
ひとつ深呼吸をして勢いよく扉を横にスライドさせる。

「ユウ…!」

キ。
言葉が立ち消えになる。華奢な背中がぴくりと揺れた。目の前の人が顔だけで振り返る、その瞳が訝しむようにこちらを見据えている。息をすることさえ躊躇われるような視線の中、その人が口を開く。

「全く」

逆光になりさらに濃くなった、不思議な色をした瞳がこちらを見つめている。

「いつも君はこうだ。いつも息を切らして私の前に現れる」

涼やかで、はっきりと芯のある声がまっすぐ届いてくる。胸元まで伸びた、光に当てられて茶色と黒が入り混じる髪を後ろへとなぎ払いながらその人はこちらに向き直る、その動きに合わせて膝上のスカートがふわりと揺れる。「いつも」と言っていた、俺のことをよく知っているような口ぶりだ。

 この人が、ユウキのような孤独な音で歌っているはずがない。記憶の中の彼はもっと無口で、控えめに笑う子で、とても寂しそうな瞳をする子だったのに。

「いやぁ、全く変わってないな。助かったよ、おかげですぐ分かった。7年ぶりだね、藍川凪くん」
「えっ…あ、あのっ…どうして俺の名前を…」

たまらず次の言葉を遮って尋ねる。

「どうしてって、あははっ」

その人は俺の問いを綺麗にかわしながら、軽やかに笑う。

「君は7年前のあの日から私をずっと探し続けているんだろ?
フルートを始めたのも私にもう一度出逢い直すためだったんだろ?
いつも君の視線は指揮者なんて見ていなかった、君の瞳はいつも客席の間を走っていた。
ホールにいるかも分からない私を探すために。そうだろ、違うかい?」

俺しか知り得ない過去をぴたりと言い当てられて驚愕する。あまりの衝撃に言葉が出てこない。

「っ…どうして、そのことを…」

やっとのことで絞り出した言葉は酷く掠れていた。

「どうして、って。私が2年前。君の中学の吹奏楽コンクール本番を舞台袖で見ていたから、だよ」

驚きで固まる俺と対照的にその人は笑顔で続ける。そして俺の想像の範疇を、軽々飛び越える言葉を吐いてきた。

「私があの時の『ユウキ』だからだよ」

「…は?」

「ほら、私の瞳の色をよく見てごらん。光に照らされると輝く、あの時と同じ琥珀色、だろ?」

じっとその目を見つめて。はっとして息を飲む。

「でも!ユウキは自分のことを「僕」って…」
「言ってたって?ああ、そうだろうね。だって君が私の苗字を名前と勘違いして。
そしてなおかつ、7年前の私の髪はべリーショート…まあ、君が当時の私を「男の子」と勘違いする要素は…」
「充分にあったと、言いたいんですね?」
「ああそうだ。君が私のことを「くん」付けで呼ぶから、訂正するのも面倒になって「僕」って言っていたんだよ。これが真実だ、凪くん」
「そう、だったんですか…」
「改めて私の名前は、結城琥珀(ゆうきこはく)だ。よろしく」

綺麗な色をした、おおきな形のいいアーモンド型の瞳が俺を見上げて見据えてくる。透き通るほどに真白な肌に、すっと通った鼻梁。にこやかに上にアーチを描く薄く形のいい唇。
中途半端な位置で彷徨っている俺の左手を彼女は自分から握った。あの時とはまるで逆だ。手はあの時の柔らかさを合わせ持つだけでなく、しなやかな強さを持っていた。折れそうなほどに薄く細い手のひらだった。

「琥珀さんから見て7年前、ってことは当時9歳だったってことですか?」
「ハズレ。よく見てごらん、私のネクタイの色。そうかぁ。今年の新入生の学年カラーは紺色なんだね。知らなかったよ」

ユウキのネクタイの色は水色、俺は濃紺。言い回しから彼女が上級生だということを悟る。先ほど正門付近ですれ違った水色のネクタイの人たちは2年生だったのか。

君が(・・)9歳だったんだろ。もうさすがに分かってくれただろ、当時の私は10歳。君よりひとつ歳上だったんだよ。
君の中学のコンクールや大会はぜんぶ私の意志で見ていた。だけどまさかこの高校に来るなんて考えもしなかったからなぁ。これは運命、なんて言ってもおかしくはないと、私は思う。…君はどう?」

懐かしむの表情を浮かべてふっ、と息を吐いた琥珀さん。琥珀色の、見れば見るほど不思議な色をした瞳が覗き込んでくる。

「俺も、ずっと逢いたかったです。7年前のあの日から、琥珀さん」

「あとユウキ、でいいよ。いまさら君に名前で呼ばれるのくすぐったいよ。でもそう呼んでいいのは部活以外だけだからね。部活ではちゃんと『先輩』って言うこと!
…あー、でもそんな風に呼ばれたら私が吹き出しちゃうかもな、ふふっ。音楽室(ここ)に来たってことは、当たり前にまだフルートは続けてるし、吹部に入部する気でこの高校に来たんだよね?」

そう言ってあの時と同じ笑顔ではにかんだ、そのやわらかな笑顔を見たとき。俺の中でなにかがことりと動いた。

ああそうか。これが。

「ビシバシ指導するから覚悟しなね!」

恋だ。

 人生で16度目の春、俺は恋をした。遅すぎる初恋だ。この感情が『恋』と気づくまでに7年もかかってしまった。
いつの日か彼女のことを名前で呼びたい。名前で呼ばれることをくすぐったいと言う彼女が慣れるまで、もういいよ、って嫌になるまでその名を呼び続けたい。
 なぜどうしてそのような孤独を奏でるのか。その細い背中に何を背負っているのか。琥珀色を宿した瞳に含まれる哀しみの理由(わけ)を彼女の口からから聴きたい、直接。


こはく、コハク、琥珀。
俺は貴女とまた出逢い直すことができて幸せだ。これからは貴女のために、貴女と共に音を奏でたい。

 あの時とは違う別れの曲ではない、出逢いのある春を題材とした曲をどこまでも孤独にのびやかに謳ってゆく。
ユウキが鋭く息を吸う、どこまでも澄み切った高音が空高く伸びてゆく。

 名前のない関係、柔らかな春の日差しに包まれながら俺たちは微笑みあった。

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