子供のころは夏は清流で冷やしたスイカにかぶり付き,ひどく曲がった棘だらけのキュウリに味噌をつけて食べるのがおやつだった。冬は深い雪で外に出ることもままならず,家のなかで灯油のストーブで干し芋を炙って食べるのが贅沢だった。

 何もない田舎の高校を卒業し,都会の大学に進学させてもらえたのは同級生のなかでも少数派で比較的裕福な証でもあった。

 大学を卒業すると一流企業と呼ばれる会社に就職することができたが,朝は始発で出勤し帰るのは終電近くというのが当たり前だった。当時はそれが当然のことだと信じていたし,同期のなかで誰よりも早く出世することに必死だった。

 そして結婚し子供をもうけたことで,家族を養いより豊かになるために懸命に働いた。産まれて間もない小さな男の子の手を握りしめるたびに,この子のために一生懸命稼ごうと必死になった。

 毎日の仕事のほかに休みの日も会社に出勤するか,付き合いで取引先とゴルフに行くのが当然で,周りの同僚たちもそれが当たり前だと思っていた。

 そしていつの間にか小さかった子供は大人になり,子供の成長を見ることもなく知らないどこかのお嬢さんと結婚し家を出ていった。

 いつも食事をつくり,掃除をし,洗濯から何からなにまで家のことを任せていた妻は息子が家を出た五年後に体調を崩し,そのまま他界した。

 妻も子供も養う者がいなくなったが,仕事以外何も考えられず毎日がむしゃらに働き,誰もいない家に帰って寝るのが日常になった。

 そしていよいよ定年退職を迎え,まだまだ働けると自分では思っていたが組織はそれを求めておらず,気がついたときには孤独になっている自分の姿を想像すらできずになにをしたらよいのかわからず,なにもしない時間だけが増えていった。

 妻を亡くし,子供が家を去って,定年を迎えて初めて自分の人生を振り返ったときに,仕事に時間を費やしすぎて大切な人たちと過ごしていなかったことを知った。

 仕事から離れて時間を持て余すようになったとき,家族と過ごす時間があまりにも足りなかったと気づいたが,すでに妻はこの世にはおらず,子供の成長をまったくみていなかったことに打ちのめされた。

 自分が幼いときは常に家に母親がいて,お腹が空いたら漬物や畑で採れた野菜を食べさせてくれたが,幼いながらにそれが貧乏のようで嫌だった。しかし,歳をとり独りになってそれが幸せな時間だったと気づかされた。

 自分の父親も家族のために必死に仕事をしていたが,週末になると子供と過ごす時間をつくってくれた。そんな父親を心のどこかで馬鹿にしていたような気がした。父親よりも自分のほうが稼ぎがよく,自分の家族を幸せにしていると思い込んでいた。
 居間の端に設置した小さな仏壇にお供物を欠かさないように注意をしたが,生菓子や果物は何度も腐らせてしまった。

 妻がいたらそんなことはなかっただろうが,妻の遺影の下の置かれたお供物はどこか侘しく,いつも線香の灰が散って汚れていた。

 下着や靴下をどこで買えばいいのか,自分のサイズもよくわからないまま適当に買って何度も失敗した。洗濯も洗剤の量を何度も間違え,柔軟剤をどうやって使ったらよいのかもわからなかった。

 社会人になってからの思い出といえば,すべて仕事のことで,自分の息子よりも部下の顔がすぐに浮かび,妻の笑顔といえば若い頃の顔しか思い出せなかった。

 住宅ローンの返済が終わった家族と過ごすために建てた一軒家の思い出もなく,こうして独りで家のなかでどこになにがあるのかを探す日々に胸が締め付けられ,仕事を離れ歳とともに誰もいない広い家のなかで孤独に耐えられる自信がなくなっていった。

 家のなかの何もないところで転んで怪我をしても,絆創膏を貼るくらいしかできず自分がいかに仕事以外何もできないかを思い知らされた。

 夜になるといつから替えていないのかわからない変色したシーツの上で横になり,意味もわからず溢れ出す涙を湿った枕で受け止めた。

 涙が止まらなくなると家のなかを徘徊するように歩き回り,息子の部屋に入って壁に飾られている小学生のころに描いた絵を眺めたり,台所に立ってかつて妻が見た景色を想像した。

 満足に食事をとらないせいか,日に日にひどく痩せ細っていったがそれを注意する者も気にかける者もおらず,自分自身でも痩せていくことに気がついていなかった。

 いつの間にか髭を剃ることを忘れ,髪の毛は脂でベトつき,歯を磨くことも度々忘れたが朝起きて顔を洗うことだけは何故か忘れずに習慣になっていた。

 脱ぎ散らかした洗濯物もどれが洗ってあって,どれが着ていたものかがわからず放置するようになった。

 唯一,年金の受給とお金の計算の時だけは頭が冴え,現役で仕事をしていたときと同じようにしっかりと対応ができた。
 家のなかで独りでいると,台所から妻に呼ばれたような気がして慌てて台所に行ったがそこに妻はおらず一日中家のなかを妻の名前を呼びながら探すことがあった。

 そんなある日,箪笥のなかにある妻の下着や洋服を見て,見たことのない洋服を引っ張り出し,鏡の前で自分にあててみた。

 そこには亡くなった妻が笑顔で立っていて,ようやく声だけしか聴こえなかった妻を見つけた喜びで涙と鼻水が止まらなくなった。

 ゆったりとしたワンピースに袖をとおし,カーディガンを羽織ると妻が残した化粧品を手に取り,口紅を円を描くように塗った。まるでサーカスのピエロのような化粧になったが,鏡のなかの妻は嬉しそうに笑い若いころに一緒にドライブをしたときのような楽しい気分になった。

 それから毎日,妻に会うために妻の下着をつけ,洋服を着て,しっかりと化粧をして鏡の前で何時間も過ごすようになった。


「ねぇ,あなた,しっかりとご飯食べてるの? ちゃんとお風呂入ってる? 髭は毎日剃らないとダメよ。みっともないから」


「ああ,わかってる。ちゃんとご飯を食べるし,お風呂も入るよ。髭は休みの日はそのままにさせてくれよ」


 こうして夫婦の時間を過ごせる喜びを噛み締め,いままでずっと家のことを任せきりにしていたことと仕事ばかりで家族との時間を取れなかったことを何時間も詫びた。

 しばらくして口紅を使い終わると,近所のコンビニに行って口紅やそのほかの化粧品を買うようになったが,バイトの店員たちが嘲笑うかのような表情で接客するのが気に入らず何度か店長に文句を言った。

 すれ違う子供たちの驚くような表情や大人たちの警戒する様子が不愉快で,コンビニやスーパーに行っても最低限の買い物だけを済ませた。


「なあ,聞いてくれよ。コンビニ店員たちが失礼でさ,あいつらちゃんと接客の教育受けてるのだろうか? それに小学生たちが俺に向かってオカマとか叫んでるんだ。まったく,親の顔が見てみたい」


「あらあら,それはひどいわね。でも,そんなの気にしなくていいのよ。こうして毎日夫婦で会話ができるだけでも幸せなんですのも」


「そうだよな。本当にお前には苦労と迷惑をかけてきたからな。息子も成人したし,これからは二人で楽しく暮らしていこうな。定年して初めてわかったんだけど,こうやって家族と過ごす時間をとっていなかったことをずっと後悔していたんだ」


 鏡の前で話しかけながら,これまでの人生を振り返るように昼夜関係なく何時間も楽しかった思い出や子供の成長について語り合った。

 しばらくして小さな町のちょっとした有名人になった女装姿の年寄りはいつの間にか姿を消し,コンビニやスーパーの従業員たちですら思い出す者はおらず,ゆっくりと静かにその存在を忘れられていった。

 そんな小さな町では数年前から締め切られて誰もいないはずの空き家の奥で,ボソボソと楽しそうに会話をする声が聞こえると近所の人たちの間で話題になっていた。

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