「見た? 今、すれ違った書生さん」
「ええ、もちろん! つい目が惹き付けられるほどの美男子だったわね」
 すぐ近くを通りかかった女学生二人組の会話が聞こえてくる。
 ちらっと後ろを振り返ると、私の視線に気づいたらしき彼女たちは、頬を林檎のように真っ赤に染めて、きゃあと黄色い悲鳴を上げた。
 どうやら彼女たちは私のことを、男だと思っているらしい。
 それもそのはず。今の私は、白いスタンドカラーのシャツの上に着物と袴、学生帽を深くかぶった書生の格好――早い話、男装をしているからだ。
 それに、自分で言うのもなんだけど、私はかなり中性的な顔立ちをしている。背だって、先ほどの女学生二人組より、頭一つ分高い。
 そんな外見の特徴を活かして書生に変装をしているのだから、たとえ、追っ手がここにたどり着いたとしても、私のことは見つけられないだろう。
 まあ、そのことについてはいいとして……、
「お腹、すいた……」
 今日の夜明け前。たった一人でこの人通りの多い帝都まで逃げてきたけれど、食事をろくにとっていないので、空腹でたまらない。
 喫茶店で軽食でもとろうかと思ったものの、財布の中にある全財産は雀の涙ほどしかないので、できることなら使いたくない。
「どうしよう……」
 途方に暮れて空を見上げればもう夕暮れ。空を区切る黒い電線が、夜の闇に同化するのも時間の問題だ。
 今夜はどこで過ごそうか。あたりをきょろきょろと見渡しながら、煉瓦造りの建物の隙間にできた狭い路地を歩いていたちょうどそのとき。
 ――ズッ……
 ふと、何かがこすれるような音がした。
 まるで、靴底と砂利が擦れたときにするような音だ。しかし、私が履いているのはいつ鼻緒が取れてもおかしくない古い下駄。
 だとしたら、追っ手がもう背後に? 慌ててバッと振り返ってみたものの、誰もいない。
「……気のせいか」
 全身が小刻みにぶるぶると震える自分に言い聞かせるように呟いて、再び歩き出そうとすると、
 ――ズッ……、ズズッ……
 やっぱり気のせいじゃない! 何かが、こっちに近づいている!
 覚悟を決めて、勢いよく背後を振り返ったその直後。
 私の足元から伸びた黒い影が、ズズッと音を立てながら少しずつ伸びていく。
 影はどんどん伸びていって、まるで海の波のように、私に向かって覆いかぶさってくる。
「な、に、あれ……」
 これは、ただの時間の経過で影が伸びたわけじゃない。
 明らかにこの世ならざるもの――つまり、魔物の仕業だ。なのに、どうして私の目に見えているのだろう?
 この場から急いで逃げなきゃいけないのがわかっているはずなのに、足の裏が地面に縫い合わされたように動かない。
 このままだと、呑み込まれてしまうかも。と頭の隅で思ったそのとき。

「まったく、これだから逢魔が時は危険なんだ」

 ふと、コツコツという靴音と共に、ため息交じりの柔らかい声が聞こえてきた。
 直後、さあっという音がして、巨大な影から黒い灰のようなものが天に向かって飛んでいき、消えていった。
 ほんのさっきまで、私の背丈の何倍もあって、今にも襲いかかろうとしていた影が元の状態に戻っていく。
 ――今のは、なに……?
 おそるおそる振り返ると、知らない男の人がちょうど私の背後に立っていた。
 鳶色の燕尾服を身にまとい、風にサラサラとなびく色素の薄い絹糸のような髪。
 涼やかな印象のある顔立ちはかなり整っていて、今をときめく活動写真や舞台で活躍している若手有名俳優も真っ青なほどの美男子だ。
 ――綺麗だ。
 男の人に対して、こんなことを思うなんてはじめてだった。
 先ほど道ですれ違った女学生のように、目の前にいる男の人に視線を奪われ、逸らすことができないでいると、
「きみ、大丈夫?」
 その人が私の顔のまじまじと覗き込んできた。
 い、いきなり何なんだこの人は……⁉
 あまりにも距離が近過ぎる。しかも、なんだか顔から火が出てきてしまいそうだ。
「あ、いや……。大丈夫です。では」
 早くこの顔の熱と居心地の悪さをなんとかしたくて、そそくさとこの場を立ち去ろうとした直後。
 私のお腹の虫が、路地に響き渡るほど大きな音で鳴いた。
 そうだった。私、お腹がすいていて困ってたんだった……。
 そんなことを思い出した直後、電気がぷつっと切れたように、目の前が真っ暗になってしまった。

 ◇◆ ◇

「この役立たず!」
 甲高い怒鳴り声がした直後、ぴしゃりと乾いた音が応接間に響き渡った。
 頬に、じんじんとした痛みが増幅する。
 じわじわと涙がこみ上がってきたけれど、余計に小言を言われると悟り、急いで拭った。
「掃除の一つもまともにできないなんて情けない! 一体今までどんな教育を受けてきたのかしら⁉」
「申し訳、ございません……」
 床の上に手をついて、額を擦りつけんとばかりに頭を下げる。
 すぐ近くには、割れてしまった花瓶の破片が散らばっていた。
 花瓶を割ったのは、先ほど私に平手打ちをした頼子さんだ。
 棚の上をつーっと指を滑らせたあと、「まだ埃が残っている」と苛立つなり、私に向かって投げつけたのだ。
 しかし、棚の掃除を掃除をしたのは私じゃない。私とは別の使用人だ。
 でも、ほかの誰かの仕出かしたことだとしても、この家では私が床に額を擦りつけるようにして謝らないといけない。
 なぜなら……、
「退魔師としての才能がないどころか、ろくに家事もできないなんて、本当にとんだ無能ね」
 そう。実は私、丹羽(にわ)(かえで)は、退魔師の家系に生まれている。退魔師というのは文字通り、この世に蔓延る魔物を退治する人間のことだ。
 〝丹羽〟の一族は大昔から退魔師としての能力があり、それを先祖から濃く受け継いだ本家の頼子さんやその子供たちも、本業や学業の傍ら退魔師として活躍している。もちろん、私の両親も生前は退魔師を生業としていた。
 ――だが、どういうわけか私だけが、退魔師としての能力がまったくと言っていいほどなかったのだ。

 ◇◆ ◇

 ハッと目を覚ますと、私は仰向けになっていた。
 体にはふかふかとした布団がかけられている。
 ここは一体どこだろう? 少なくとも、屋外ではないと思うけど……。
 上体を起こしてきょろきょろとあたりを見わたしてみるものの、あたりが暗いせいで、ここがどういう場所なのかまったくわからない。
 それはそうとして、誰が私をここに連れてきたのだろう?
 もしかして、路地で自分の影に吞み込まれそうになっていた私の背後に現れた人――……?
 と、私が考えていたちょうどそのとき、障子の襖がスーッと開く音がした。
「おや、もう起きたのかい?」
 かと思えば、聞き覚えのある声がした直後、目の前がパッと明るくなる。
 あまりの眩しさにほんの一瞬閉じてしまった目をこわごわと開くと、路地で出会った男の人がそこにいた。
 鳶色の燕尾服ではなく、薄墨色の着物をさらりと着流していたものだから、一瞬別の人かと思ったけれど、間違いなく私を助けてくれた彼だ。
 その人は、畳に敷かれた布団の上で呆気に取られている私に近づくと、背筋を伸ばして正座をする。
「具合はどう?」
 誰かに穏やかな眼差しを向けられて、体調を気遣うような声をかけてもらったのはいつぶりだろう。
「えっと……」
 虐げられることに慣れ切ってしまったせいで、優しくされたことに戸惑いを隠しきれない。
「あの、あなたなんですか? 助けてくれたのは……」
「ああ」
 男の人はうなずいた。
 「僕は雨月家当主、雨月誉です」
 雨月誉――、聞き覚えのあるその名前を聞いて、私はハッと息を呑んだ。
 なぜって、雨月というのは丹羽よりもずっと有名な退魔師の家系。
 しかも、当主となれば、男の人こと雨月さんの能力はそんじょそこらの退魔師でさえ圧倒されてしまうだろう。――と、私が考えていると、
「そういえば」
 雨月さんが私に向き直ると、「で、君。名前は?」と私にたずねてくる。
「わたっ……僕は、に……丹羽(たんば)楓です……」
 一瞬、自分のことを「私」と口を滑らせそうになったけど、あえて「僕」と言い直した。
 名字も本来の『にわ』ではなく、『たんば』と名乗った。
 もしかしたら『丹羽楓は、退魔師の血筋に生まれた出来損ない』という話が、雨月さんの耳に入っているのかもしれないからだ。疑っているわけじゃないけれど……憧れの人に軽蔑されるかもしれない――そう考えるだけでものすごく、怖い。
 それに、男の格好をしているのに女だと打ち明けるとややこしいことになりそうだし……。
「ふうん、丹羽くんね」
 雨月さんは独り言のように呟いた。その口ぶりからして、どうやら私が嘘をついているとは思ってもないようで、ほっと胸をなで下ろした。
「その格好をしているということは、きみ、学生だろう。下宿先に連絡を入れようか?」
 丹羽邸に帰る――そう考えた瞬間、さっと血の気が引いた。
「い、いいえ。けっこうです……」
 寒気で体を震わせながら、私は首を横に振る。
 「実は僕、学費や下宿代を払えなくなってしまって……。頼れる親戚もいないし、どこにも行く当てがなくて困ってたんです」
 その場しのぎの嘘を嘘で塗り重ねていることに、さすがに気づかれてしまったのだろうか。
 どぎまぎしながら、雨月さんの顔色をちらりとうかがっていると、
「わかった。じゃあ、うちで暮らさない?」
「え⁉」
 呆気に取られた私に、雨月さんは「嫌だったかい?」と心配そうに眉をくもらせる。
「い、いえ。滅相もありません……! むしろ、ありがとうございます……!」
 こうして、私は雨月さんの家で暮らすことになったのだった。