戦争を生き延び、霊感が強いと言われていた曽祖父。
そんな彼は、数々の不思議な体験をしてきたと聞いています。
曽祖父の母親は京都のお寺の家系の出身でしたが、彼がまだ幼い頃、母親は彼を抱いたまま脳卒中で亡くなったそうです。
その時から、曽祖父の周囲では不思議な出来事が絶えなかったといいます。
ある日、曽祖父が会社の慰安旅行で温泉地へ向かった時のことです。
社員たちは2台のバスに分乗して移動していました。
曽祖父は友人が多く乗る後方のバスに座っていましたが、荷物は前方のバスに積まれていました。
途中のトイレ休憩で、前方のバスの同僚たちから「こっちに乗りなよ」と誘われ、曽祖父もその気になり、前のバスに乗ろうと階段を登り始めたその瞬間――。
ガシッ
肩を強く掴まれた感覚があり、思わず立ち止まります。
振り返っても誰もいません。
けれど、曽祖父の心には突然、声にならない警告が響きました。
「行ってはいけない」
その瞬間、なぜか足がすくみ、前方のバスに乗ることをやめ、後方のバスへ戻りました。
曽祖父自身も、その決断の理由がわからなかったそうです。
ただ、胸に広がる得体の知れない不安だけが彼を動かしていました。
それから数十分後。
バスは険しい山道へ差し掛かりました。
前方のバスがカーブに差し掛かった瞬間、突然タイヤが滑り、車体はそのまま崖下へ転落――。
全員即死。
後方のバスにいた曽祖父たちはその場でバスを停め、呆然とするしかありませんでした。
崖下に転げ落ちたバスは無残な形で止まっており、生存者は一人もいませんでした。
「あのとき、前のバスに乗っていれば、自分もあの中にいた…」
曽祖父はその出来事を語るたび、肩を掴まれた感覚を思い出し、不思議そうに話していたそうです。
あのとき曽祖父を掴み、「行ってはいけない」と警告したのは一体誰だったのでしょうか?
もし曽祖父がその声を無視していたら、私自身もこの世には存在していなかったはずです――。
あの「手」の正体は未だ謎のままですが、時折思います。
曽祖父を救ったのは、あの世から見守る母親の愛だったのかもしれない、と。
深夜2時。決まった時間になると、ヒールの足音が家の前を通り過ぎるのが聞こえる。毎日、毎日。
普段は寝ていて気づかないが、ふと目が覚めると、必ずその音が耳に入る。
奇妙なことに、その足音はうちの玄関の前で必ず数秒立ち止まるのだ。
扉を開けて入ってくるんじゃないかとドキドキしながら耳を澄ますが、結局いつもそのまま通り過ぎていく。
私の住む住宅街は、街灯も少なく、夜はひっそりと静まり返る場所だ。
お年寄りが多いせいか、特に冬場は夕方から人通りがなくなる。
仕事帰りの20時頃でも、辺りは真っ暗で人の気配もない。その静けさが、妙に不気味で怖かった。
そんな日々が続く中、ある日、激しいサイレンの音で目を覚ました。
時計を見ると、やっぱり深夜2時。家の近くで長い間サイレンが鳴り続け、後からパトカーの音も重なった。
翌朝、外がやけに騒がしい。
窓を開けると、近所の人たちが野次馬となって集まっているのが見えた。
真正面の家に住むおばさんが教えてくれた。
「近所で火事があったんだって」
ニュースでも大きく報じられていた。深夜2時、老夫婦と三人の娘が住む家で火事が起きたという。
一階に寝ていた老夫婦は助かったが、二階にいた娘たちは全員焼け死んだそうだ。
信じられない思いだった。こんな悲惨な出来事が、こんなに近くで起きるなんて。
そして、その火事を境に、あの足音はぴたりと止んだ。
「あれ?」と思いはしたが、毎夜の恐怖がなくなったことに、どこかほっとしていた。
しかし、数週間後。再び、深夜2時に足音が響き始めた。
最初は一つの足音だった。それが、何日か経つと増えていく。
カツ、カツ、カツ…。
ヒールの音がいくつも、揃ったリズムで響く。
玄関の前でぴたりと止まる音も、以前より長くなった気がする。
そして、その夜。ついにその音は、ドアの前で完全に止まった。
「コン、コン。」
ノックの音が、静まり返った家の中に響く。
私は布団を掴んだ手を震わせながら、耳を澄ました。
すると、ドアの向こうから低い声が何人も重なり合うようにして囁き始めた。
「この家に、若い娘さんは、いませんか…。」
その瞬間、体中の血が凍りついた。声はどんどん大きくなる。ドアを叩く音も混ざり始め、私は恐怖で布団を頭まで被った。
一体、これは何なんだろう――。
しばらくして音が止んだのを確認し、私は震える手で布団を少しずつずらし、恐る恐る顔を出した。
両親が眠る寝室に逃げ込もうと立ち上がりかけた、その瞬間――。
「そっちに行ってはいけない…」
耳元で、低い声が囁いた。若い女性の声。
「行ってはいけない」
その声には、冷たい警告が込められていた。
それ以上動けず、私は布団に倒れ込み、震えるしかなかった。
気がつけば朝になっていた。
恐る恐る外を確認しても、何事もなかったかのように静かだった。
だが、それ以降、私は深夜2時になると目が覚めるようになった。足音は時折聞こえる。だが、それが通り過ぎるだけなのか、玄関先に佇んでいるのか、確認する勇気はなかった。
そういえば最近、近所で若い女性が行方不明になったという話を聞いた。
もう、この地区で若い女性は私一人だけだ。
そして思う。
あの足音は私を恐怖に陥れるためのものではないのではないか。
もしかしたら――何かを必死に警告しているのではないかと。
それが何を意味しているのか。私にはまだわからない。いや、正確には、知りたくない。
だが、一つだけ気づいたことがある。
最近、深夜2時になると、両親が私の部屋の前に立っているのだ。
薄暗い廊下に立つ二つの影が、私のドアの隙間からじっと中を覗いている。
彼らは決して声をかけてこない。ただ、私が布団の中で震えながら目を開けているのを確認すると、何事もなかったかのように静かにその場を去る。
理由を尋ねようとしても、翌朝になると二人は何事もなかったかのように振る舞う。まるで、そんなことはしていないと言わんばかりに――。
「そっちに行ってはいけない」
あの声の意味が、ふと頭をよぎる。