下校途中、急に幼馴染の那由が立ち止まった。
ランドセルについた鈴が、ちりんと音を立てる。
「ねえ貴斗、あの坂の上に、青い屋根の小さな家があるの、見える?」
那由が道路の向こうを指さしたが、俺はそれどころではなかった。
あふれる涙で、景色のすべてがかすんでいた。
前日に、愛犬のクッキーが死んだのだ。
授業中はこらえていたものの、帰りに昇降口で隣のクラスの那由に会ったとたん、悲しみがぶり返してしまい、兄妹のように育った那由の横でめそめそ泣きだしてしまった。
涙はいつまでも止まらない。
「家? さあ……わかんない」
「わかんないじゃなくて。ほら、あるでしょ? ちゃんと見て」
心外だった。
さっきまで那由は、クッキーを思い出して泣いていた俺を、やさしくなぐさめてくれていたのに。
なんで急に、よその家の話なんかするのか。
俺は仕方なく、涙を拭いて、那由が指さした丘のほうを見た。
「うん、ある。なんか、洋風の、青い屋根の、小さな家が、ある」
ぼそぼそと答えると、那由はゆっくりうなづいた。
「あそこにね、お婆さんがひとり住んでるの。ちょっと、ほかの人と違う力を持ってるから、もしかしたら、もう一度クッキーに会えるかも」
「え?」
那由が何を言ってるのか、分からなかった。
死んでしまった愛犬に、会えるわけない。
「無理だよ、そんなの」
「うん、普通はね」
那由はゆっくり言うと、じっと丘のほうを見た。
「でも、貴斗が、死んじゃいそうなくらい、あんまりいつまでも泣くからさ……。どうしても涙が止まらなくて、いつまでも苦しかったら、そのお婆さんのところに行くといいよ。少しだけ、時間を戻してもらえるかもしれないから」
ただし、このことは誰にも内緒ね、と付け加える。
そのあと俺が、那由になんと返したか、もう覚えていない。
5年生にもなって、今までにないほど泣きじゃくる俺を見て、きっと那由は気を紛らわそうと、そんなことを言ってみたのだろう。
俺はそのあと、長い時間かけてクッキーとの別れのつらさを乗り越えた。
だからもちろん、あの坂の上の家を訪ねることもなかったし、思い出すこともなかった。
それから3年後、中学2年生の、秋の日まで。
◆ ◆ ◆
「貴斗、いい加減に起きなさい。これ以上遅刻したら今度こそスマホ解約するわよ!」
今日もいつものように、母親の怒鳴り声で1日が始まる。
中2の1学期は6日も遅刻してしまったのだから、彼女の怒りはもっともだ。
死にそうに眠い頭を何とか布団から引きはがし、俺は制服に着替え、1階のリビングに下りる。
「那由ちゃんは1時間半も早く家を出て、今朝も元気に玄関先であいさつしてくれたってのに。なんでこんなに出来が違うのかねえ」
「あいつは陸上部の朝練があるからだよ。那由は那由、俺は俺」
隣に住む幼馴染が優等生すぎるせいで、けっこうなとばっちりを被っている。
「えらそうに。はい弁当」
「あざっす」
「髪、長すぎない? ぼさぼさだし。夏休みの間にちゃんと切りなさいって言ったのに」
「この無造作ヘアがいいんだよ。ほら小ぎれいにすると、モテすぎて困るだろ」
「ないない」
鼻で笑われた。むかつく。
確かに、モテたことは一度もない。
弁当をカバンに突っ込みながら、ロールパンを牛乳で喉に流し込み、次なる小言が繰り出される前に、家を飛び出す。
9月半ばの朝の空気は、少しだけひんやりとして、秋のにおいがした。
もうとっくに登校してしまった那由の家をちらりと見たあと、ガレージから自転車を出してペダルを踏みこむ。小学生の頃、毎朝那由が「貴斗、行くよー」と誘いに来ていたのが、今では遠い昔に思える。
小学校はすぐ近くだったが、中学校は畑や田んぼ沿いの国道を、徒歩で40分以上かかる。
その距離を、やせっぽちのくせに体力オバケの那由は、毎日歩いて登下校をしている。
「いくら陸上部でも、徒歩で通うとかマゾすぎるだろ」
入学してすぐ、学校で那由に声をかけたことがある。
「貴斗こそ、少しは歩いて体力つければいいのに。ただでさえ運動音痴なんだから」
「だれが運動音痴だよ。あ、もしかして、中学になっても俺と一緒に歩いて学校行きたかったとか? それは申し訳なかった」
ちょっとした冗談だったのに。真面目な顔で、俺を見つめてきた那由の目が忘れられない。
あきれ果てたんだと思う。昔みたいに、怒鳴ってくれたらよかったものを。
そんなことがきっかけというわけではないと思うが、中学になってから、那由とはあまり話をしていない。
2年になって、クラスが同じになっても、距離感は相変わらずだ。
2組の教室に入り、一番後ろの自分の席にカバンを置くとすぐに、腕を掴まれた。
「貴斗。すごい情報を入手した」
小学校からの友人、岡田太一だ。
スパイか何かのように視線をそらしたまま顔を近づけ、耳打ちしてくる。
「このクラスだけでも、もう3組もカップル成立しているらしい。信じられるか? 6人だ。32人中6人。5.3人に1人が両思いだ」
「まじか」
「確かな情報だ」
晴天の霹靂だった。1学期はそんな話、聞いたことなかったのに。
「なんでそんな急に」
「夏休みだよ。女子のグループと男子のグループが、学校と違う開放感の中で、ゲーセンやプールで思いがけず再会し、盛り上がってグループ交際に発展するの、想像できんか?」
太一の言葉がなぜか悲哀を帯びてくる。
「なあ貴斗。俺たちはあの長い休みのあいだにすっかり、負け組になっちまったぞ」
「いや、負けたわけでは」
「負けだよ。3年になって受験生になったら、いよいよチャンスも時間もなくなるのに。俺なんかこの夏、じいちゃんの店の手伝いと、弟たちの子守りで費やされたんだぞ」
「立派すぎるだろ」
俺なんか、塾以外は、ほとんどゴロゴロ、ゲームして過ごしてたんだから。
「で、その6人って、誰?」
「それがさあ」
太一がぐっと顔を近づけて、極秘情報を伝達してくれる。
その最中、部活の朝練を終えたらしい那由が、前のほうの入口から教室に入ってきた。
まだほんのり火照った頬。白い半袖のセーラー服のスカーフを結びながら、友達と笑いあっている。
ずっとチビだったくせに、この一年でずいぶん背が伸びた気がする。
小学生の頃のおかっぱ頭は、いつの間にかショートボブになっていた。
あれはきっと、いつも行っていた近所の1000円カットじゃないな。
まだ汗が引かないのか。タオルハンカチを出して細い首元を拭うのを、俺はぼんやり見ていた。
横で太一が、6人の名前を言い終わる。
那由の名前はなかった。
6人とも、普段あまり話をすることのないクラスメイトだった。
「チャンスは今週末の神社祭りだな」
横で太一が、低くうなる。
おもわず振り返った。
「え、なにが?」
「なにが、じゃないよ。女子を誘うんだよ。2対2とかで行くんだよ。去年は男ばっかり6人で行って、学校と同じノリで騒いで終わりだったろ? 今年はしっかり青春するんだよ。露店のイカ焼きとりんご飴に始まって、締めは大川沿いの花火大会で仕掛け花火のハートの数を数えるんだよ」
「熱いな」
「でも、わるくないだろ?」
「うん、わるくないかも」
2人で顔を見合わせて笑ったが、俺はそんな華やかな花火の下で、自分の横にいる女の子のことをリアルに想像できなかった。
「でも太一、秋祭りまで1週間しかないぞ?」
「1週間もあるじゃん。声かけやすい子に、声かけてみようぜ。そういえば貴斗、佐久間と仲良かったじゃん。誘ってみたら?」
思わず固まった。
佐久間……那由。
声を聞かれたんじゃないかと焦りながら前の席を確認すると、那由は友人たちと笑いあっていた。
ホッとして背を向ける。
「ないない。家が隣で、しょっちゅう顔あわせてるのに」
「そっか。やっぱり、そういうんじゃないんだろうな」
太一はすんなり納得する。
ちょうどそこで担任が入ってきて、すぐにSHRが始まった。
まずプリントが配られた。
ここひと月の間に起った不審火のことで、警察のほうから学校にも問い合わせや、注意事項が入っているらしい。
放火かな、と後ろの席の女子がひそひそ喋る。だとしたら、大事件だ。
けれど俺は、さっきあまりにもあっさり太一が言った「そういうんじゃないんだろうな」、という言葉が、なんとなく気になって、しばらくの間、意味もなく頭の中で反芻していた。
***
数日後。
部活を終えて、自転車で帰宅途中、急激に喉が渇いたので、『ディスカウントショップ・スミダ』に寄った。
店舗は古くて薄暗いけれど、菓子類の品ぞろえが良く、なにより安い。
酒類も扱っていることから、中学生の立ち寄りは学校が禁止しているが、あまり守られてはいない。
腰の曲がった店主のおばあちゃんは、中高生が酒を買いに来ても、うっかり売ってしまうんじゃないかという危うさがあって、そういうところも、親しみを持たれている。
自転車を降りると、店舗裏に抜ける路地から、一匹の野良猫が出てきた。
思わずしゃがんで、喉のあたりを撫でていると、路地のほうから数人の話し声が聞こえてきた。
俺からは、話している人の姿は見えない。暑い日はちょうどいい木陰になるので、そこに人がいるのはべつに気にならなかった。
地面に転がって甘えてくる猫をひとしきり撫で、「じゃあ、またな」と声を出して立ちあがったとき、路地のひそひそ話が、ふっと止まった。
そのすぐ後、コトンと、固いものが地面に落ち、消しゴムくらいのものが俺の視界に入った。さっとそれを拾う、日に焼けた手も。
猫がにゃーんと鳴く。
なんてことないシーン。
とくに気にもかけず、俺は店内に入った。
今日もレジでウトウトしているおばあちゃんを横目に、俺はコーラを目指して奥のショーケースまで勢いよく歩いた。渇きは頂点に達していた。
突き当りを左に曲がり、清涼飲料水の棚に突進したとたん、柔らかなモノに思いきりぶつかった。
キャー、という声とともに、鈍い金属音があたりに響く。
目の前に床には、同じ中学の制服を着た女子が横たわっていた。
つややかなセミロングの髪が顔を隠していたが、捲れ上がったスカートのせいで、ほっそりした白い足が膝上まであらわになっている。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!」
発汗しながらオロオロしていると、その子は急にむくっと体を起こした。
「あ、あの」
差し出した手を見向きもせず、その子は床に落ちていた重そうなバッグを掴んで立ち上がる。左手で髪をかき上げたとたん、俺ははっとした。
「葉山」
一年のとき同じクラスだった、葉山梨紗だ。
細身で小顔。人形のように大きな目。
整いすぎた、少し濃いめの顔立ちは、なんとなく近づきがたい雰囲気があり、言葉を交わした記憶がほとんどない。
優等生的なイメージがあったので、学校が禁止しているこの店にいることが、少し意外だった。
「ごめんね、俺、気づかなくて……」
「いえ、いいの」
葉山梨紗は小刻みに顔を横に振りながら、一歩大きく後ろに下がる。
肩にかけたスポーツバッグから、ゴトンと、やけに大きな音がした。
「じゃあ、……さようなら」
「え、あの」
葉山はそのまま、ゴトゴト音を立てながら、店の外に出て行ってしまった。
買い物は、しなくていいんだろうか。俺が怒らせてしまって、それどころじゃなかったのだろうか。
腹を立てて文句言われたほうがすっきりするのに。女子って難しい。
まあ、悪いのはぶつかったこっちだけど。
俺にもっと運動神経があれば、あんな風にぶつからなかったのだろうか。
「運動音痴で悪かったな」
脳内に浮かんだ那由に小さく悪態をついてみる。
ストッカーから冷えたコーラを取り出したあと、俺は居眠り中のおばあちゃんを起こして、清算を済ませた。
***
次の日の昼休み、葉山梨紗に呼び出され、秋祭りに一緒に行こうと誘われた。
校舎の裏に呼ばれた時点で、昨日の落とし前をつけさせられるのだと思っていた俺は、言葉を失う。
まったく意味が分からない。
「お願い。一緒に行ってもらえないかな」
葉山は、さらさらした髪を揺らし、はにかんだような笑顔を浮かべて、そう懇願してくる。
これはいったいなんだ。現実の話なのか。
「俺、いま、からかわれてる? きっとそうだよね」
「そんなことないよ。真剣にお願いしてる。嫌なら、仕方ないんだけど」
眉尻をさげて、少し寂しそうに言うものだから、俺の脳内は、さらに混乱してくる。
葉山は、断じて俺のようなモブを誘ってくるような子ではない。
外見も中身も育ちの良さが溢れていて、男子も女子も、一線を引いて眺めているような存在だ。
一年のころから年上の男性と付き合っているという噂が絶えず、俺など「葉山、かわいいなあ」と口に出すのもおこがましいような、高嶺の花なのだ。
「だって、なんで突然? 一年の時も、ほとんど話をしたことなかったのに」
「昨日、話をしたでしょ?」
「あ、昨日は……」
「昨日、私があんなに恥ずかしい転び方したのに、貴斗君、誰にもその話していないでしょ?」
いきなり下の名前を呼ばれて、心臓が少し跳ねた。
苗字の「水島」さえ、一度も呼ばれた記憶がないのに。
「当り前だよ。葉山がこけた話なんて、する意味ないし」
「そういうとこよ」
葉山梨紗は、花が咲くように鮮やかに笑った。
体験したことない状況下に置かれ、ただ口を開けたまま、固まるしかなかった。
「ね。明日の神社祭り、一緒に楽しみましょ? それとも、誰かと行く予定がある?」
「いや、あの……」
永遠のように長い3秒を経て、「まだ具体的には……」と答えてしまう。
「じゃあOKってことでいいね」
「え」
俺、OKって言ったっけ。
「ほかの子は、絶対に誘っちゃだめだからね」
葉山はそういって、待ち合わせ場所と時間を書いたメモを俺に渡し、そのまま軽やかに戻っていった。
しばらくその背中を見送る。
――もしかして俺、学年一の美少女から誘われた?
嬉しくないはずないのに、ひどく気持ちがざわつく。なんだろう。
なんなんだろう。
太一への罪悪感か?
「太一、ちょっといいか」
俺は教室に戻るなり、太一を見つけて廊下に引っ張っていった。
「え、まじかよ、葉山梨紗に?」
「声がでかい。まじだよ。俺、どうすればいいと思う?」
「もちろん、OKしたんだろ?」
「いや、……でも、OKしたってことになったみたい」
「最高じゃん!」
「だけど、グループ交際計画が」
「そんなのいいって。候補は男女合わせて4人、決まりかけてるんだ。お前は気にせず楽しめ」
「誰が候補になったの」
「男は3組のヒロトが加わって、ヒロトが同じ3組の女子2人に声をかけるらしい」
「へー、いいじゃん」
「そういうことだから気にせず、お前は葉山と楽しんで来い」
太一が、力強く背中をポンと押してきた。
「う、うん」
「どっかでばったり会うかもな。そしたら合流しようか。いや、葉山はそういうの、嫌がるかもだから、スルーしてやるよ。いいか貴斗、相手はお嬢様だ。機嫌を損ねないように、うまくやれよ」
「俺のことより、自分の心配しろって」
ノリでついそう言ってしまったが、怒るどころか太一は素直にうらやましがった。
いいやつだ。
今回のことは、あのお嬢様のほんの一瞬の気まぐれかもしれないが、一日くらいその気まぐれに付き合ってみるのも悪くないような気がした。
太一が言うように「最高」なのかは、まだちょっと分からないのだけれど。
***
その日の帰宅途中、神社へ続く坂道を、山手から降りて来る那由とばったり出くわした。
いったん帰宅して着替えてきたらしく、私服だ。
なんとなく自転車のスピードを落とし、那由の速度に会わせる。
「神社に行ってたのか? こんな時間に」
山道は街灯もなく、6時ともなればかなり薄暗い。
「神社までは行ってないよ。坂の途中の、宮野のおじいちゃんちに、お届け物」
それだけ言うと、那由はすたすたと歩いていく。
その老人の名は知らないが、那由の母親がやっている、地域ボランティアの手伝いなのだろう。
民生委員をやっている関係で、地域のひとり暮らしのお年寄りを、時々気にかけてあげているらしい。
母親もりっぱだが、文句も言わず手伝いを引き受ける那由を、正直尊敬する。
「そっか、おつかれ」
途端に、話題がなくなった。
妙な間が開く。
「明日の祭り、行くのか?」
なんとなく続けてしまった。
「うん、行くよ。奈々子と。あと、同じクラスの男子」
「え、もしかしてヒロト?」
「うん。なんで知ってるの?」
那由、あのグループに入ったのか。
「いや、なんとなく。カンだよ」
「貴斗も一緒に行く?」
「えっ」
思いもよらない言葉だった。一瞬、視線が合う。
「えっと、俺は、あの……」
「なんちゃって。ごめん。忘れて」
「いや」
「じゃあ、またね。先に行っていいよ」
那由が笑顔で手を振る。
「うん、じゃあ……、また」
俺はそのまま速度を上げ、那由を残して家に帰った。
何ということもない会話だったはずなのに。
自分の中で、何か大きなミスをしたような、取り返しのつかないことをしたような。
そんな思いが、しばらく拭えなかった。
ランドセルについた鈴が、ちりんと音を立てる。
「ねえ貴斗、あの坂の上に、青い屋根の小さな家があるの、見える?」
那由が道路の向こうを指さしたが、俺はそれどころではなかった。
あふれる涙で、景色のすべてがかすんでいた。
前日に、愛犬のクッキーが死んだのだ。
授業中はこらえていたものの、帰りに昇降口で隣のクラスの那由に会ったとたん、悲しみがぶり返してしまい、兄妹のように育った那由の横でめそめそ泣きだしてしまった。
涙はいつまでも止まらない。
「家? さあ……わかんない」
「わかんないじゃなくて。ほら、あるでしょ? ちゃんと見て」
心外だった。
さっきまで那由は、クッキーを思い出して泣いていた俺を、やさしくなぐさめてくれていたのに。
なんで急に、よその家の話なんかするのか。
俺は仕方なく、涙を拭いて、那由が指さした丘のほうを見た。
「うん、ある。なんか、洋風の、青い屋根の、小さな家が、ある」
ぼそぼそと答えると、那由はゆっくりうなづいた。
「あそこにね、お婆さんがひとり住んでるの。ちょっと、ほかの人と違う力を持ってるから、もしかしたら、もう一度クッキーに会えるかも」
「え?」
那由が何を言ってるのか、分からなかった。
死んでしまった愛犬に、会えるわけない。
「無理だよ、そんなの」
「うん、普通はね」
那由はゆっくり言うと、じっと丘のほうを見た。
「でも、貴斗が、死んじゃいそうなくらい、あんまりいつまでも泣くからさ……。どうしても涙が止まらなくて、いつまでも苦しかったら、そのお婆さんのところに行くといいよ。少しだけ、時間を戻してもらえるかもしれないから」
ただし、このことは誰にも内緒ね、と付け加える。
そのあと俺が、那由になんと返したか、もう覚えていない。
5年生にもなって、今までにないほど泣きじゃくる俺を見て、きっと那由は気を紛らわそうと、そんなことを言ってみたのだろう。
俺はそのあと、長い時間かけてクッキーとの別れのつらさを乗り越えた。
だからもちろん、あの坂の上の家を訪ねることもなかったし、思い出すこともなかった。
それから3年後、中学2年生の、秋の日まで。
◆ ◆ ◆
「貴斗、いい加減に起きなさい。これ以上遅刻したら今度こそスマホ解約するわよ!」
今日もいつものように、母親の怒鳴り声で1日が始まる。
中2の1学期は6日も遅刻してしまったのだから、彼女の怒りはもっともだ。
死にそうに眠い頭を何とか布団から引きはがし、俺は制服に着替え、1階のリビングに下りる。
「那由ちゃんは1時間半も早く家を出て、今朝も元気に玄関先であいさつしてくれたってのに。なんでこんなに出来が違うのかねえ」
「あいつは陸上部の朝練があるからだよ。那由は那由、俺は俺」
隣に住む幼馴染が優等生すぎるせいで、けっこうなとばっちりを被っている。
「えらそうに。はい弁当」
「あざっす」
「髪、長すぎない? ぼさぼさだし。夏休みの間にちゃんと切りなさいって言ったのに」
「この無造作ヘアがいいんだよ。ほら小ぎれいにすると、モテすぎて困るだろ」
「ないない」
鼻で笑われた。むかつく。
確かに、モテたことは一度もない。
弁当をカバンに突っ込みながら、ロールパンを牛乳で喉に流し込み、次なる小言が繰り出される前に、家を飛び出す。
9月半ばの朝の空気は、少しだけひんやりとして、秋のにおいがした。
もうとっくに登校してしまった那由の家をちらりと見たあと、ガレージから自転車を出してペダルを踏みこむ。小学生の頃、毎朝那由が「貴斗、行くよー」と誘いに来ていたのが、今では遠い昔に思える。
小学校はすぐ近くだったが、中学校は畑や田んぼ沿いの国道を、徒歩で40分以上かかる。
その距離を、やせっぽちのくせに体力オバケの那由は、毎日歩いて登下校をしている。
「いくら陸上部でも、徒歩で通うとかマゾすぎるだろ」
入学してすぐ、学校で那由に声をかけたことがある。
「貴斗こそ、少しは歩いて体力つければいいのに。ただでさえ運動音痴なんだから」
「だれが運動音痴だよ。あ、もしかして、中学になっても俺と一緒に歩いて学校行きたかったとか? それは申し訳なかった」
ちょっとした冗談だったのに。真面目な顔で、俺を見つめてきた那由の目が忘れられない。
あきれ果てたんだと思う。昔みたいに、怒鳴ってくれたらよかったものを。
そんなことがきっかけというわけではないと思うが、中学になってから、那由とはあまり話をしていない。
2年になって、クラスが同じになっても、距離感は相変わらずだ。
2組の教室に入り、一番後ろの自分の席にカバンを置くとすぐに、腕を掴まれた。
「貴斗。すごい情報を入手した」
小学校からの友人、岡田太一だ。
スパイか何かのように視線をそらしたまま顔を近づけ、耳打ちしてくる。
「このクラスだけでも、もう3組もカップル成立しているらしい。信じられるか? 6人だ。32人中6人。5.3人に1人が両思いだ」
「まじか」
「確かな情報だ」
晴天の霹靂だった。1学期はそんな話、聞いたことなかったのに。
「なんでそんな急に」
「夏休みだよ。女子のグループと男子のグループが、学校と違う開放感の中で、ゲーセンやプールで思いがけず再会し、盛り上がってグループ交際に発展するの、想像できんか?」
太一の言葉がなぜか悲哀を帯びてくる。
「なあ貴斗。俺たちはあの長い休みのあいだにすっかり、負け組になっちまったぞ」
「いや、負けたわけでは」
「負けだよ。3年になって受験生になったら、いよいよチャンスも時間もなくなるのに。俺なんかこの夏、じいちゃんの店の手伝いと、弟たちの子守りで費やされたんだぞ」
「立派すぎるだろ」
俺なんか、塾以外は、ほとんどゴロゴロ、ゲームして過ごしてたんだから。
「で、その6人って、誰?」
「それがさあ」
太一がぐっと顔を近づけて、極秘情報を伝達してくれる。
その最中、部活の朝練を終えたらしい那由が、前のほうの入口から教室に入ってきた。
まだほんのり火照った頬。白い半袖のセーラー服のスカーフを結びながら、友達と笑いあっている。
ずっとチビだったくせに、この一年でずいぶん背が伸びた気がする。
小学生の頃のおかっぱ頭は、いつの間にかショートボブになっていた。
あれはきっと、いつも行っていた近所の1000円カットじゃないな。
まだ汗が引かないのか。タオルハンカチを出して細い首元を拭うのを、俺はぼんやり見ていた。
横で太一が、6人の名前を言い終わる。
那由の名前はなかった。
6人とも、普段あまり話をすることのないクラスメイトだった。
「チャンスは今週末の神社祭りだな」
横で太一が、低くうなる。
おもわず振り返った。
「え、なにが?」
「なにが、じゃないよ。女子を誘うんだよ。2対2とかで行くんだよ。去年は男ばっかり6人で行って、学校と同じノリで騒いで終わりだったろ? 今年はしっかり青春するんだよ。露店のイカ焼きとりんご飴に始まって、締めは大川沿いの花火大会で仕掛け花火のハートの数を数えるんだよ」
「熱いな」
「でも、わるくないだろ?」
「うん、わるくないかも」
2人で顔を見合わせて笑ったが、俺はそんな華やかな花火の下で、自分の横にいる女の子のことをリアルに想像できなかった。
「でも太一、秋祭りまで1週間しかないぞ?」
「1週間もあるじゃん。声かけやすい子に、声かけてみようぜ。そういえば貴斗、佐久間と仲良かったじゃん。誘ってみたら?」
思わず固まった。
佐久間……那由。
声を聞かれたんじゃないかと焦りながら前の席を確認すると、那由は友人たちと笑いあっていた。
ホッとして背を向ける。
「ないない。家が隣で、しょっちゅう顔あわせてるのに」
「そっか。やっぱり、そういうんじゃないんだろうな」
太一はすんなり納得する。
ちょうどそこで担任が入ってきて、すぐにSHRが始まった。
まずプリントが配られた。
ここひと月の間に起った不審火のことで、警察のほうから学校にも問い合わせや、注意事項が入っているらしい。
放火かな、と後ろの席の女子がひそひそ喋る。だとしたら、大事件だ。
けれど俺は、さっきあまりにもあっさり太一が言った「そういうんじゃないんだろうな」、という言葉が、なんとなく気になって、しばらくの間、意味もなく頭の中で反芻していた。
***
数日後。
部活を終えて、自転車で帰宅途中、急激に喉が渇いたので、『ディスカウントショップ・スミダ』に寄った。
店舗は古くて薄暗いけれど、菓子類の品ぞろえが良く、なにより安い。
酒類も扱っていることから、中学生の立ち寄りは学校が禁止しているが、あまり守られてはいない。
腰の曲がった店主のおばあちゃんは、中高生が酒を買いに来ても、うっかり売ってしまうんじゃないかという危うさがあって、そういうところも、親しみを持たれている。
自転車を降りると、店舗裏に抜ける路地から、一匹の野良猫が出てきた。
思わずしゃがんで、喉のあたりを撫でていると、路地のほうから数人の話し声が聞こえてきた。
俺からは、話している人の姿は見えない。暑い日はちょうどいい木陰になるので、そこに人がいるのはべつに気にならなかった。
地面に転がって甘えてくる猫をひとしきり撫で、「じゃあ、またな」と声を出して立ちあがったとき、路地のひそひそ話が、ふっと止まった。
そのすぐ後、コトンと、固いものが地面に落ち、消しゴムくらいのものが俺の視界に入った。さっとそれを拾う、日に焼けた手も。
猫がにゃーんと鳴く。
なんてことないシーン。
とくに気にもかけず、俺は店内に入った。
今日もレジでウトウトしているおばあちゃんを横目に、俺はコーラを目指して奥のショーケースまで勢いよく歩いた。渇きは頂点に達していた。
突き当りを左に曲がり、清涼飲料水の棚に突進したとたん、柔らかなモノに思いきりぶつかった。
キャー、という声とともに、鈍い金属音があたりに響く。
目の前に床には、同じ中学の制服を着た女子が横たわっていた。
つややかなセミロングの髪が顔を隠していたが、捲れ上がったスカートのせいで、ほっそりした白い足が膝上まであらわになっている。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!」
発汗しながらオロオロしていると、その子は急にむくっと体を起こした。
「あ、あの」
差し出した手を見向きもせず、その子は床に落ちていた重そうなバッグを掴んで立ち上がる。左手で髪をかき上げたとたん、俺ははっとした。
「葉山」
一年のとき同じクラスだった、葉山梨紗だ。
細身で小顔。人形のように大きな目。
整いすぎた、少し濃いめの顔立ちは、なんとなく近づきがたい雰囲気があり、言葉を交わした記憶がほとんどない。
優等生的なイメージがあったので、学校が禁止しているこの店にいることが、少し意外だった。
「ごめんね、俺、気づかなくて……」
「いえ、いいの」
葉山梨紗は小刻みに顔を横に振りながら、一歩大きく後ろに下がる。
肩にかけたスポーツバッグから、ゴトンと、やけに大きな音がした。
「じゃあ、……さようなら」
「え、あの」
葉山はそのまま、ゴトゴト音を立てながら、店の外に出て行ってしまった。
買い物は、しなくていいんだろうか。俺が怒らせてしまって、それどころじゃなかったのだろうか。
腹を立てて文句言われたほうがすっきりするのに。女子って難しい。
まあ、悪いのはぶつかったこっちだけど。
俺にもっと運動神経があれば、あんな風にぶつからなかったのだろうか。
「運動音痴で悪かったな」
脳内に浮かんだ那由に小さく悪態をついてみる。
ストッカーから冷えたコーラを取り出したあと、俺は居眠り中のおばあちゃんを起こして、清算を済ませた。
***
次の日の昼休み、葉山梨紗に呼び出され、秋祭りに一緒に行こうと誘われた。
校舎の裏に呼ばれた時点で、昨日の落とし前をつけさせられるのだと思っていた俺は、言葉を失う。
まったく意味が分からない。
「お願い。一緒に行ってもらえないかな」
葉山は、さらさらした髪を揺らし、はにかんだような笑顔を浮かべて、そう懇願してくる。
これはいったいなんだ。現実の話なのか。
「俺、いま、からかわれてる? きっとそうだよね」
「そんなことないよ。真剣にお願いしてる。嫌なら、仕方ないんだけど」
眉尻をさげて、少し寂しそうに言うものだから、俺の脳内は、さらに混乱してくる。
葉山は、断じて俺のようなモブを誘ってくるような子ではない。
外見も中身も育ちの良さが溢れていて、男子も女子も、一線を引いて眺めているような存在だ。
一年のころから年上の男性と付き合っているという噂が絶えず、俺など「葉山、かわいいなあ」と口に出すのもおこがましいような、高嶺の花なのだ。
「だって、なんで突然? 一年の時も、ほとんど話をしたことなかったのに」
「昨日、話をしたでしょ?」
「あ、昨日は……」
「昨日、私があんなに恥ずかしい転び方したのに、貴斗君、誰にもその話していないでしょ?」
いきなり下の名前を呼ばれて、心臓が少し跳ねた。
苗字の「水島」さえ、一度も呼ばれた記憶がないのに。
「当り前だよ。葉山がこけた話なんて、する意味ないし」
「そういうとこよ」
葉山梨紗は、花が咲くように鮮やかに笑った。
体験したことない状況下に置かれ、ただ口を開けたまま、固まるしかなかった。
「ね。明日の神社祭り、一緒に楽しみましょ? それとも、誰かと行く予定がある?」
「いや、あの……」
永遠のように長い3秒を経て、「まだ具体的には……」と答えてしまう。
「じゃあOKってことでいいね」
「え」
俺、OKって言ったっけ。
「ほかの子は、絶対に誘っちゃだめだからね」
葉山はそういって、待ち合わせ場所と時間を書いたメモを俺に渡し、そのまま軽やかに戻っていった。
しばらくその背中を見送る。
――もしかして俺、学年一の美少女から誘われた?
嬉しくないはずないのに、ひどく気持ちがざわつく。なんだろう。
なんなんだろう。
太一への罪悪感か?
「太一、ちょっといいか」
俺は教室に戻るなり、太一を見つけて廊下に引っ張っていった。
「え、まじかよ、葉山梨紗に?」
「声がでかい。まじだよ。俺、どうすればいいと思う?」
「もちろん、OKしたんだろ?」
「いや、……でも、OKしたってことになったみたい」
「最高じゃん!」
「だけど、グループ交際計画が」
「そんなのいいって。候補は男女合わせて4人、決まりかけてるんだ。お前は気にせず楽しめ」
「誰が候補になったの」
「男は3組のヒロトが加わって、ヒロトが同じ3組の女子2人に声をかけるらしい」
「へー、いいじゃん」
「そういうことだから気にせず、お前は葉山と楽しんで来い」
太一が、力強く背中をポンと押してきた。
「う、うん」
「どっかでばったり会うかもな。そしたら合流しようか。いや、葉山はそういうの、嫌がるかもだから、スルーしてやるよ。いいか貴斗、相手はお嬢様だ。機嫌を損ねないように、うまくやれよ」
「俺のことより、自分の心配しろって」
ノリでついそう言ってしまったが、怒るどころか太一は素直にうらやましがった。
いいやつだ。
今回のことは、あのお嬢様のほんの一瞬の気まぐれかもしれないが、一日くらいその気まぐれに付き合ってみるのも悪くないような気がした。
太一が言うように「最高」なのかは、まだちょっと分からないのだけれど。
***
その日の帰宅途中、神社へ続く坂道を、山手から降りて来る那由とばったり出くわした。
いったん帰宅して着替えてきたらしく、私服だ。
なんとなく自転車のスピードを落とし、那由の速度に会わせる。
「神社に行ってたのか? こんな時間に」
山道は街灯もなく、6時ともなればかなり薄暗い。
「神社までは行ってないよ。坂の途中の、宮野のおじいちゃんちに、お届け物」
それだけ言うと、那由はすたすたと歩いていく。
その老人の名は知らないが、那由の母親がやっている、地域ボランティアの手伝いなのだろう。
民生委員をやっている関係で、地域のひとり暮らしのお年寄りを、時々気にかけてあげているらしい。
母親もりっぱだが、文句も言わず手伝いを引き受ける那由を、正直尊敬する。
「そっか、おつかれ」
途端に、話題がなくなった。
妙な間が開く。
「明日の祭り、行くのか?」
なんとなく続けてしまった。
「うん、行くよ。奈々子と。あと、同じクラスの男子」
「え、もしかしてヒロト?」
「うん。なんで知ってるの?」
那由、あのグループに入ったのか。
「いや、なんとなく。カンだよ」
「貴斗も一緒に行く?」
「えっ」
思いもよらない言葉だった。一瞬、視線が合う。
「えっと、俺は、あの……」
「なんちゃって。ごめん。忘れて」
「いや」
「じゃあ、またね。先に行っていいよ」
那由が笑顔で手を振る。
「うん、じゃあ……、また」
俺はそのまま速度を上げ、那由を残して家に帰った。
何ということもない会話だったはずなのに。
自分の中で、何か大きなミスをしたような、取り返しのつかないことをしたような。
そんな思いが、しばらく拭えなかった。