第四章 呪う女

 お母さんは、年老いてボケた。いつもありもしない作り話を僕らに聞かせては困らせる。そんなもの存在しないよ。何度も何度も同じ話を聞かされる度に、僕らはその話を否定する。本当は、認知症の人の妄想って、否定も肯定もしちゃいけないらしい。


 毎朝、毎日。少女は起きてすぐに、アプリを起動する。
 呪詛探索アプリ。
 少女は呪詛探索アプリのヘビーユーザーにして。
「ひゃあ、今日の依頼十件とか!」
 呪詛るんのヘビーユーザーである。

 きっかけは些細なことだった。クラスでも成績優秀な女子生徒が、教師に褒められるのを見て嫉妬した。だから、呪詛るんにその子の名前を書き込んだ。
 毎日、毎日だ。
 普通の人間であれば、途中で怖気づいたり飽きたりするものを、少女は毎日飽きもせず、根気よく呪詛るんに彼女の名前を書き続けた。
 その効果だったのか、あるいは偶然だったのか。
 呪詛るんに書き込み始めてから実に半年、彼女は階段から落ちて大けがをした。

 今にして思えば、それは大いに偶然であったに違いないのだが、その日以降、少女は呪詛るんの虜になった。
 そして、一年間、毎日毎日、飽きもせずに誰かを呪い続けた。ちょうど一年目のことである。
 アプリからのメッセージが届いていた。その内容は、
『おめでとうございます。呪詛るんの裏設定がご利用できるようになりました。呪詛探索アプリからの検索避けをして、よりよい呪詛ライフを!』
 少女はそこで初めて、呪詛探索アプリの存在を知った。そして、その日から呪詛探索アプリを併用するようになった。
 なにより、少女はこの時点で、呪詛るんの悪用方法を思いついてしまったのだ。

 とあるアカウントがある。捨てアカウントなのだろうが、内容が物騒だ。
『呪詛代行、請け負います』
 TLとプロフィールにはその一言だけが書かれており、知るひとぞ知るアカウントとなっている。
 このアカウントこそが、あの少女のアカウントである。検索に引っかからないで呪詛るんを使用することができる。
 少女はそれを悪用して、呪詛を代行する小遣い稼ぎを思いついた。
 最初はそれこそ、月に何件かの依頼しか来なかった。しかし、この時点で少女の呪詛力はそれなりの力があったため、依頼された呪詛の効力は普通の人間に比べれば、何十倍、何百倍もの威力を持っていた。
「今日は三件。二週間……念のため一カ月見てもらおっか」
 依頼主に返信する。
 少女の呪いは大概二週間ほどで完成するが、念のため一カ月の猶予期間をもらっている。そして、報酬は前払い制だ。
 それから、一番重要なのは、少女のアカウントを呪わないこと、途中放棄はできないこと。
 ルールはたったそれだけである。
「しっかし、夏休みだけでどれだけ稼げるんだろう」
 暇を持て余す少女は、近場のコンビニでお気に入りの氷アイスを買って、食べながら帰路を歩いている。
 真夏の真昼間から、呪詛について思いをはせる女子高校生がいるなどと、よもや誰が思うだろうか。
「森野花江さん」
「んえ?」
 無防備に少女――花江が振り返る。
 シャララ。
 鈴の音が花江の耳にいやに響いた。なにより、花江を呼び止めた男は、不審な男に違いなかった。
 太いしめ縄を首から下げて、その先端には鈴がぶら下がっている。大きな鈴だ。特注だろうか。
 花江はじりじりと後ずさる。ふらっと出かけてきたため防犯ブザーは持っていない。だとしたら、大声を出すか走って逃げるか。
 周りを見渡すも、人通りは少ない。やられた。
 花江は迷うことなく走り出す。
「ったく、なんなのよ、ついてない!」
 だけれど、花江はもうだいぶ度胸がある。愚痴をこぼせるくらいにはどこか他人事のように、その男から逃げおおせた。
 
 両親は共働きで、昼間は花江の家にいない。だから、花江はいつもひとりだ。隣の離れに祖母が住んでいるが、最近は顔もあわせない。花江も思春期であるし、花江の両親も知らん顔だからだ。
 せっかくアイスを食べて体が冷えたというのに、あの不審者から逃げるために走ったせいで汗だくである。少し早いが風呂にでも入ろうか。
 そんなことを考えながら、花江は自宅の玄関を潜り抜けた。
「お帰り」
「……は?」
 しかして、その先にいたのは、例の不審者である。
 花江は今潜ってきた玄関を再び開けて外に逃げようとする。しかし。
「逃げても無駄だって。僕は坂野。坂野弘彦。しがない陰陽師なんだけれど」
 玄関を潜り抜けた先にも、あの男――坂野がいた。一瞬で移動した、と考えるのが自然であるが、果たしてそんな非科学的なこと、あり得るのだろうか。
「アンタ……何者?」
「ああ、若いわりに飲み込みが早いね。実は、君が使っている呪詛るんについて、話があるんだ」
 坂野が単刀直入に切り出すと、花江はすべてを理解したように、「ふうん」とうなる。
「アンタ、『あの子』と同系列?」
「『あの子』?」
「そう。呪詛るんちゃん」
「へえ、森野花江ちゃん。君って呪詛るんの式神が見えているんだね。それもはっきりと」
 これは誰にも話したことはない。花江にはあの少女が見える。呪詛るんの『呪いを運ぶ式神』だ。
 だが、花江はそれに対してなんら感想も感動も抱いていない。
 呪詛るんの呪いがどのように運ばれるのか、ずっと気になっていた。きっと目に見えないなにかが運んでいるのだろうと思ってはいたが、まさかそれが、少女だったとは思いもしなかった。
 その少女は、花江によくなついていた。毎日『今日は誰を呪うの?』などと、いい話し相手になっていたほどである。
 共働きで両親がいない部屋で、式神の少女と話す。
 花江にとってそれが、もう当たり前になっていた。
「『彼女』を呼んでもらえるかい?」
「無理だよ。あの子はいつもふらっと現れてふらっと帰る。それに、アンタには教えたくない」
「なんでよ。ケチ」
「なんでも。私の勘がそう言ってる」
 なるほど、この子には素質がある。坂野はそう思うも、さてどうやって諭そうかと思案する。
 現状、花江にとって呪いによる不都合は一切ないのだから、呪詛をやめてくれと頼んだところで、それは却下されるだろう。そもそも、花江は呪詛で商売をしているわけだから、そう簡単には呪詛るんを手放すわけもない。
「そうだなあ。じゃあ、僕に付き合ってよ」
「は? 付き合うとか……お兄さん、本当に不審者なの?」
「失礼な子だな。いいや、もう。ちょっと来てよ」
 坂野が花江の手を握る。そうして、右手を胸の高さまで上げて、人差し指と中指を立てる。
 一瞬のことだった。花江には抵抗する余地すらなかった。
「え……?」
 ぐわん、と目の前の景色がゆがんだかと思えば、花江はもう、『そこにはいなかった』。
 
 松坂武雄。
 例の少女によって毎晩夢でうなされている。彼は花江が呪詛るんで呪いをかけている最中の男の子である。こうして姿を見るのも、彼が同い年であることも、花江は今初めて知る。
 頭の中に流れてくるのだ。
 武雄は夢の中で足を圧迫されている。うっ血した足、膿んだ足、痛み。つらい気持ち、恐怖に脅かされる毎日。
 この子はそうだ、今朝からずっと連絡が来ている。呪いの依頼を取り消してほしいと。
 だけれど花江はそれを突っぱねた。今ここで呪いをやめれば、武雄が呪詛返しをしかねない。だから花江は、依頼主の言葉を無視している。

 筧愛。
 普通のオーエルだ。彼女もまた、花江が呪詛るんで呪っている最中の女性である。その情報が、なぜだか頭に流れ込んでくる。こんな顔をしたひとなのか。こんな家族と過ごしているひとなのか。
 最初は愛だけの依頼だった。だけれど最近は、その家族も一緒に呪ってくれと依頼内容が変更された。変更に当たり依頼金は三倍になった。もちろん、二つ返事で請け負った。
 そして、彼女が毎夜金縛りにあい、どんなふうにあの少女にいたぶられているのかを知った。なんなら、痛みすら伝わってきた。
 脂汗が流れる。

 高野一井。
 彼は直接依頼を受けて呪った人間ではない。よく覚えている。花江が久々に危機感を感じて、自ら呪いをかけた人間である。
 しかし、一井は悪徳の探偵、懲らしめても罰は当たらないのではなかろうか。花江はどこか他人事である。
 現に、一井にかけた呪いは『一日のみ』である。単なる脅しだ、筧愛の件で『呪詛探索アプリ』を使った一井への、けん制である。
 呪詛検索アプリを使えば、当然そこに呪詛の力が働く。つまり、呪詛探索アプリを使った人間は、呪詛検索アプリで検索されると、その名前が割れてしまう。
 一井はそこまで呪詛探索アプリに詳しくなかった。だから花江に呪い返された。
 花江は、呪詛探索アプリで毎日、自分の名前以外に、呪詛対象の名前も検索する。
 例えば、筧愛の名前を検索して、呪詛探索アプリに誰かの名前がヒットすれば、誰かが筧愛に対して呪詛――呪詛探索アプリを含む――を使ったことになる。
 同時に、自分自身の名前を検索してヒットすれば、誰かが花江に対して呪詛を使ったことも確認できる。
 花江が最も恐れているのは、呪われる側の人間が、第三者を使って、あるいは自分自身で呪詛探索アプリを使って花江の存在を探り当てることだ。
 しかし、花江は現状、呪詛るんの裏設定により、呪詛検索アプリには名前が表示されない設定になっている。
 しかして、『筧愛』で検索して、『高野一井』がヒットした。つまり、高野一井という人間が、筧愛を呪った、あるいは呪詛探索アプリで検索をかけた。
 花江はすぐさま『高野一井』をネット検索する。今の時代、SNSやネットを使えば、個人情報など簡単に調べ上げることができるのだ。
 結果、高野一井は『呪詛探偵』だった。だから花江は、ためらうことなく呪詛るんにその名前を書き込んだ。その呪いが軽くすんだのは、花江が一井に呪いをかけのが『昼間』だったからである。呪詛力の高まった人間に限り、丑三つ時以外の呪いでも呪詛の力は発揮される。これは呪詛るんのヘビーユーザーである花江だからこそ知りうる使い方だ。
 それが花江にとっての日常である。
 時には、まったく無関係の人間を『けん制』と称して呪ってしまうこともあるのだが、それも大体一日で終わらせる。
 花江の呪いはそれだけ強力で、一回の呪いだけでも相手に十分な恐怖を与えられるからだ。
 だから、興味本位、あるいは友人や家族から相談を受けて、呪詛探索アプリを使った人間の名前を呪詛るんに書く、という行為は、花江にとって息をするのと同じ感覚でできてしまうのだ。
 そして、呪詛探索アプリなんてものを使ったその夜に、怪奇現象に襲われたとなれば、大概の人間はもう二度と呪詛とかかわらなくなる。
 それからあとひとり、花江は呪いをかけている人間がいる。最近売れ出したタレントだ。だが、この男はやりたい放題で、それこそ敵を多く作り出すような芸風である。
 花江自身も、この男は呪われても仕方がないのではと思うほどだ。だから、呪詛代行の依頼が来たときは、なんら驚くことはなかった。それどころか、少しお灸を据えて、大いに自分の不遜な態度を改めればいい、そんな思いさえあった。
 男もまた、呪いに毎日を蝕まれ、どこか気だるげな表情を浮かべている。しかし花江には、それが悪いこととは感じられない。
 男の辛さは伝わってくるが、それ以上に男の『醜い部分』も花江に伝わってくるのだ。

 呪詛を行うことはあれど、呪われる側の気持ちを考えたことなど、花江にはなかった。
 気づくと花江は、『そこにいた』。
 自分の家の玄関である。
 ペタンと地面に尻をつく花江を、坂野が無表情に見下ろしている。
「森野花江ちゃん。少しは呪われる側の気持ち、わかったかい?」
「……なにが、悪いことなの?」
 花江は立ち上がり、坂野をにらみ上げた。全く臆することなく、なんら悪びれる様子もなく。
「だって、法律で『呪い』は禁止されてないじゃない。そもそも、私が殺したって証拠はあるの? 私が手を下したっていう証拠は」
「……はあ。そう、そうだよねえ。君みたいな子供が、そう簡単に『罪』を認めるなんて思っていないよ」
 坂野はふうっと大きく、わざとらしくため息をつく。そうして、自身の携帯を取り出すと、
「じゃあ、君が今までに呪いをかけたひとの分。全部上乗せして、僕が呪詛返ししてあげようか」
「……ふん。脅したって無駄。呪詛返しは本人か、呪いを受けている人間に近しいひとがやらなければ、その効力はない。『呪詛返すんです』はすでに検証済み」
「へーえ。そうかい。そう。じゃあ、書いちゃうけれど」
「……そんな脅し、きかないんだから!」
 花江は半ば強引に坂野を玄関の外に押し出して、そうしてバタンと玄関のドアを閉めた。

 その、夜のことである。
 花江の家族は、徹夜の仕事が入ったとかで、今夜はふたりとも帰れなくなった。
 だが、だからどうした。花江は丑三つ時に備えて仮眠をとる。もうだいぶ、こんな生活だ。
 午前二時に起きるために、早めに就寝する。丑三つ時になったら、依頼されている分の呪いを実行して、二時半までにすべてを終わらせる。
 丑の刻参りが終ったら、また何事もなかったかのように眠る。
 花江の生活は、もうだいぶ狂っている。
『あーあ。ねえ、なんで見つかっちゃったのかなあ』
 少女の声が聞こえる。普段、夜に現れることはない、あの少女の声だ。
 花江は明るく少女の声にこたえようと思ったのだが、ギシリ。その体がベッドに横になったまま動かない。金縛り、というものらしい。
 ぴちゃ、ひたり。
 少女の手が、花江の体を触りまわる。
『何処かなあ、どこにしようかなあ』
 少女の声が、心なしかいつもと違う。いつもは無邪気な、ただの子供のような明るい声であるというのに、今日の少女は、どこか恨みがましい、あるいは、憎々しさをこらえるような、そんな声である。
『あー、ここにしよっか』
 少女の手が、花江の胸にあてられる。そこでようやく、花江にも少女の表情が見える。
 笑っている。
 確かに笑っているのだが、その口は耳まで裂け、鋭い犬歯がギラリと光っている。
 眼は大きく見開かれ、おかっぱの髪の毛もぼさぼさに乱れている。
 そして、花江の胸にあてられた少女の手の爪は、今までにないほどに鋭くとがり、花江の胸に突き立てられている。
 サクリ。
 少女の爪が、花江の胸の肉を切り裂いた。
「痛っ、なに、するの……」
『だって、だって、だって。だって! アンタはへまをした。アイツが来た、アイツに見つかった。アイツが来たら、私はもう、ここにはいられない!』
 少女の爪が、さらにさらに花江の胸に刺さりこんでいく。
「アイツって、だれ……」
『アイツ、坂野。アイツは私を消そうとしてる……アイツのせいで、呪いが跳ね返された。呪詛返しされた。だから私は、アナタを殺す』
「ま、って……呪詛返しって……」
 痛みに顔をゆがめる。ギリギリギリ、と少女の爪が胸を貫通する。どうやら心臓を狙っているようだ。
 少女の手が花江の心臓を握る。
「……! ぁ!」
 今までに感じたことのない痛みである。内臓の、しかも心臓をぎゅっと圧迫されて、息が止まった。脂汗は止まらない。
 少女が花江に馬乗りになる。むろん、胸に手を突っ込んだまま、心臓を柔く握ったまま。
 少女の表情は狂喜に満ちていた。
 今まで仲良くやってきたのに。言われるままに、少女のために、呪詛を行ってきたというのに。それなのに、邪魔になったら花江すら呪い殺してしまうのだろうか。
 苦しい、苦しい。
 ジタバタともがく。
『ちっ!』
 花江の抵抗が効いたのか、花江は運よく少女から逃れることができた。先ほどまで空いていた胸の穴は、すでに閉じている。不思議な感覚だ。
 花江は少女から逃げるように部屋のドアに走る。しかし、走っても走っても、一向にドアにたどり着けない。
 そうする間にも、花江の背後に少女が迫る。ひたり、ぎぃ、ぎし。
 足音が心なしか弾んでいる。獲物を追い詰めていたぶっているのだろうか、花江はもう、袋のネズミである。
『ねえ、なんで逃げるの?』
「こ、殺さないで」
『なんで? アナタはたくさん、殺したでしょう? いまさら自分だけ助かるとでも思っているの?』
「やめ、ころさないで――」
『大丈夫。私たち、お友達だもの。痛くないようにしてあげるから、ね?』
 少女の気配がいよいよ真後ろまで迫ってくる。
 花江は死を覚悟し、抵抗をやめた。目を瞑り、ただひたすらに、後悔した。
 今まで自分は、なんてことをしてきたのだろうか。呪いがこんなに怖いものだったなんて、知らなかった。
 もしもやり直す機会があるのなら、中学生のあの日、呪詛るんを初めて使ったあの日に戻りたい。そしてその時の自分に言うのだ。
「こんなもの、使っちゃだめだ」
 花江の思いを、誰かが言葉にした。
 ふっと目を開けると、少女の気配は消え、花江はそこにいた。自分の部屋だ。なにもかも元通りの、部屋である。
 声の主は、坂野である。いつからいたのだろうか、坂野が少女をけん制するように、部屋の真ん中に立っていたのだ。
「これだけの悪意だと、僕の霊力ではなかなかコントロールできなくてね」
 おどけた調子で坂野が言う。少女は口惜しそうに坂野を見て、唇を血がにじむほどにかみしめている。
『またオマエだ。オマエのせいでまた、私はひとを殺せない』
「いいじゃん。君は悪意を食べるのが本来の目的なんだから。今回の悪意はなかなかおいしかったんじゃない? もうこの子に用はないでしょ。式神は帰らせていいよね、森野花江ちゃん?」
 坂野が花江に促すと、花江は力なくうなずいた。
『口惜しや、口惜しや』
 少女がすうっとなりをひそめる。
「森野花江ちゃん」
「……呪詛返し、できてうれしいですか」
 しかし、花江の口から出てきたのは、その言葉である。坂野は目をぱちくりとしばたたかせて、くっくと声を殺して笑った。
「僕が本当にそんなことしたと思っているの?」
「ほかに誰がいるんです?」
 人間は懲りない生き物である。自分の命の危機に貧すれば、普段は信じてもいない神さまに願い事をしてみたり。
 命からがら助かったとしても、人間は神さまに感謝なんてしない。そもそも、そういう人間は、『こんな目』に遭ったりしない。
 花江はふるえる足で立ち上がり、坂野のもとへと歩いていく。
「私をあざ笑って楽しかった?」
「やだなあ。本当に気付いていないの?」
 坂野は自身の携帯を取り出すと、呪詛探索アプリを起動する。そうしてその検索欄に入れたのは、花江の名前である。
 検索開始、と同時に画面がローディング中に切り替わる。
「呪詛探索アプリなんて、今更……」
「知ってる? アプリって開発者特権があるの。僕はね、呪詛るんの裏オプションで検索無効に設定されているユーザーも、検索できるんだけれど」
 坂野がふんふんと鼻歌交じりに携帯を見る。
 花江もつられて坂野の携帯を見る。
 検索完了、の文字。
「森野花江。ヒット百件」
「え……え……?」
「信じられないって顔してるね。そうだなあ、この百人はね、僕がかかわった数百人のうち、ほんの一部」
 坂野は携帯をちらつかせながら、花江の顔を覗き込んだ。
「君が呪ったひとたちは、僕がみんな助けたんだよ。まあ、初期段階だったから、君の呪いは僕の呪符で十分跳ね返せたんだけれど。知っているかい? 『ちりも積もれば山となる』」
 花江は自分の携帯を取り出して、自身も呪詛検索アプリを起動する。そして自分の名前を検索するが、一件もヒットする様子はない。
「開発者特権その二。特別なコマンドを入力すると、呪詛返しは呪詛探索アプリに引っ掛からないようにできる」
 坂野はずっと、ずっと呪いをたどっていた。花江が呪ったひとたちを、自身のなけなしの霊力で作った呪符で囲って、花江の存在をずっとずっと探していた。
 花江には才能がある。霊力の才能だ。だからこそ、呪いを毎日続けられたし、一年たらずで強力な呪詛力を手に入れた。普通の人間であれば、呪詛るんをここまで使いこなせない。
 坂野は花江の呪いをたどり、呪われたひとを助けてきた。助けたひとのほとんどは、呪詛返しを使おうとはしなかった。呪われる側の人間とは、大概がそんなお人好しだ。坂野にはそれが理解できなかった。
 けれど、中には、あの、愛のようなケースも存在する。
 愛の場合、母親が呪詛返しをした。あの呪詛返しは、直接愛を呪った女と、そして花江自身にも跳ね返ってしかるべき。
 そんな小さな呪詛返しが、積もり積もって、花江のもとへと返ってきた。今までその効力が発揮されなかったのは、花江自身に霊力があったからである。呪詛返しされた、あるいは純粋な呪いさえ、花江には跳ね返すほどの霊力があった。
 そもそも、呪詛返しされた呪いのひとつひとつの力は弱い。呪詛の初期段階で返されたものがほとんどであるし、呪詛返しにも呪詛力が関与してくる。なにより、呪詛返しする本人の悪意の量が、すなわち呪詛返しの強弱を別ける。呪われた側からすれば、呪いの恐ろしさを知っているため、進んで強い呪詛を呪った側に返そうとはしない。自身に降りかかる呪詛を返せればいい。その程度の思いである。
 ではなぜ、今日に限って呪詛返しが発動したのかといえば、
「君には霊力があった。だから呪詛返しが発動しなかった。けれど、その霊力を一時的に下げることが、僕にはできる。といっても、僕がそばにいることで、君の霊力を干渉しただけなんだけれど」
 簡単な仕組みだ。無線LANに同じ周波数の電波が流れ込むと干渉しあうのと同じ要領で、坂野は花江の霊力に干渉した。むろん、花江が素人ゆえに通じた作戦のため、霊力を自在に扱える人間には無意味だ。
「……陰陽師だから? 悪用したの?」
「悪用だなんてひどいな。霊力の高い人間同士がそばにいると、おのずと霊力を干渉できてしまうだけなんだ。でも、君もこれで少しはわかったんじゃない? 呪われる側の気持ちってやつが」
 あっけらかんとした口調で坂野が言う。言い負かされたようで花江は悔しくて仕方がない。しかし認めよう。この男は花江よりも何枚も上手で、そして実力のある陰陽師だ。
 だが、だからこそ、疑問がわく。
「そんな力を持ってるんなら、あの式神を無効にする方法くらい、あるんじゃないの?」
「ああ、そうだねえ。そうだ。式神ってね、生涯に四体までしか契約ができないんだけれど」
 坂野は花江にぐっと顔を近づける。赤い瞳に花江の姿が映し出される。すっかり毒気を抜かれた顔だ。これでは、もう今後は呪詛代行だなんて、そんなこと、できっこない。
 少なくとも、『当分の間は』呪詛にかかわりたくないと花江は思った。
「『呪詛るん』、『呪詛返すんです』、『呪詛探索アプリ』。これが今、この世界にある、僕の契約した式神なんだけれど」
 坂野は指を三本立てて、花江に説明する。
「それともうひとつ。僕は式神と契約済みでね」
「もったいぶらないでよ」
「そう言わずに。それで、その式神っていうのが、『冥界の王』ってわけ」
 坂野の指が、四の形を作る。
 花江は首をかしげる。冥界の王、聞いたことがない。
「冥界の王との契約はこうだ。僕の命と引き換えに、この世界から『霊的干渉』を消し去る」
「え……? でも、それができてないってことは、坂野さんにもなんらかの事情があるんでしょ」
「よく気づくね。そう、僕は不老不死だ。だからこそ、冥界の王はそんな大それた僕の願いを聞き入れたのさ。そもそも、僕が死ねば契約した式神は無効化できるんだけどね」
 口調からすると、坂野の話は信じがたい。だがしかし、現状、坂野が呪詛るんの式神に対抗できていないのもまた事実だ。この話は飲み込まざるを得ない。
 しかし、納得いかない、花江はそんな顔をしている。
「呪詛るんの式神、彼女は短期間にひとの悪意を大量に食らいすぎてね。僕の手には負えなくなった。あまつさえ、彼女を始末しようとした僕は、逆に不老不死の呪いをかけられてしまった」
 相変わらず花江は納得いかない様子である。
 百歩譲って、坂野が不老不死で、呪詛るんの式神に呪われたことは認めよう。
 そして、そんな不老不死の坂野が死ねれば、呪詛るんは自然消滅する。
 だというのに、霊的干渉そのものをなくす必要があるのだろうか。
 無理難題を押し付けているだけのように思う。坂野の存在を殺す方法など、この世界には存在しない。だからこそ、冥界の王はそんな口約束ができたのではないか。
 それでもきっと、坂野は希望を持ちたかっただけなのかもしれない。自分の行いを悔い改める機会を、作りたかっただけかも。
「君みたいな人間がいるからだよ」
 まるで見透かすかのように、坂野が笑った。
「私が……?」
「そう。君みたいな霊力の高い人間の呪詛がね、『彼女』――『呪いを運ぶ式神』を助長してしまうんだ。僕が契約するまでもなく、彼女は常に人々の生活に溶け込んでいたからね。だから僕は、この世界から霊的干渉をなくす必要がある」
 坂野はたてていた四本の指を引っ込めて、その手を自分の胸の前に持ってくる。そうして人差し指と中指を立てると、花江にもう一度、笑いかけた。
「呪詛るんを使う使わないは君の自由。だって、呪詛るんを作った僕に説教されたって、なんにも響くわけないと思わない?」
 それは暗に、花江と坂野が『同類』だといっているようで、花江には居心地が悪かった。
 しかし、現に花江は、呪詛るんを悪用した。金儲けに使ってしまった。もしかすると、花江が知らないところでひとを殺していたのかもしれない。
 そうでなくとも、たくさんのひとを不幸にして悲しませたことには変わりない。
 罪悪感、というものは、誰しもが持ち合わせているのだと、花江は今この時に気づいた。
 奇しくもそれは、坂野の言葉によってである。
 自分は運がよかっただけだ。坂野は運悪く式神に呪い返された、花江は運よく坂野に助けられた。
 ただ、それだけだ。
「約束はできないけど」
 消えゆく坂野に、花江は小さな、か細い声を振り絞る。
「私はもう、呪詛るんは使わない。呪詛返すんですも、呪詛探索アプリも。それから」
 坂野がかすかに笑う。
 自分と同じ過ちは犯すな。そんな表情にも、安堵した表情にも見える。
「呪詛るんのレビューに書いておくよ。『呪詛るんなんて使うべきじゃない。使ったら後悔する』って」
「そうかい。それは助かるよ。助かるついでに、ひとつ頼んでもいいかい?」
 うっすらと、もう坂野の輪郭は見えない。だけれど、声だけははっきりと聞こえる。花江はその声に耳を傾ける。
「呪詛るんに、僕の名前を書いてほしいんだ。できれば毎日」
「……ごめん、それはできない。私はもう。呪詛るんとかかわりたくない」
「……そういうと思った」
 最後は笑っていたのだろうか、花江にはもう、わからない。
 自身の死をもって、契約式神を無効にする。さらに、冥界の王との契約で、坂野の死により霊的干渉をこの世界からなくす。
 そんなこと、本当にできるのだろうか。花江はとうとう、その疑問を聞くことはできなかった。
 果たしてそれが、花江と坂野の最後の言葉となった。花江はその後、呪詛から足を洗った。けれど、花江の罪はきっと一生許されない。坂野と同じように、一生をかけて償っていくものなのだ。
 花江は生涯、罪も、坂野の言葉も存在も、忘れることはなかった。
 きっと今も、坂野は呪いをたどって、自身の死のために、犯した罪を償うために、どこかで誰かを助けているのだろう。