一、呪いの章
一、呪いの章
第一章 呪われた少年
これは近いようで昔の話。おじいちゃんから聞いた嘘みたいな寓話。僕たちの世界には呪いなんて存在しないし、僕だけが呪いの存在を知らないのかもしれない。
ケタケタと無邪気な笑い声が聞こえる。
少年は、「またか」とあきらめの境地でそれを受け入れた。
『ねえ、ねえ、痛い? 痛くないの?』
ぎゅううっと少年の右足にしがみつく少女。髪の毛をおかっぱに切りそろえて、今時珍しい着物を着ている。赤い着物だ。
少年は走っている。今はサッカーの試合中――その『夢の中』である。
毎夜毎夜、少年はこの夢を見るようになった。もう二週間は続いている。少年の夢がサッカーの試合に切り替わると、決まってこの少女が少年の足に絡みついて、まるで少女には似合わない握力で、少年の右足を圧迫する。
「放せ」
『やだよ。だって、私はもっと、もっとアナタが苦しむさまを見たい』
あはは、うふふ。
少女の笑い方にはどこか品があるというのに、やっていることはえげつない。少年の足がだんだんとうっ血して、どす黒く変色していく。痛い、痛い。
だけれど、サッカーの試合を共にしているチームメイトは、まったく少年の変化に気づかない。そもそも、少女の姿が見えていないのだ。
「おい、武雄! シュートだ!」
「あ、あ。うん!」
夢の中とはいえ、サッカーの試合を放棄する気にはなれなかった。少年――武雄は回されたパスを軽く受け取り、軸足である右足に体重をかける。だが――
「痛っ!」
少女の圧迫により右足が腐り始めている。じくじくと黄色く膿んで、膝から下が腐ってきている。
ジンジン、ずきずきと右足が痛む。武雄がその場に倒れる。右足を抑えて、痛みに耐えかねて。
チームメイトは武雄の傍に駆け寄ったりはしない。武雄はそのまま置いてけぼりで、サッカーの試合だけが無情に進んでいく。
場面が切り替わる。
サッカーの試合は終わっており、だけれど、大事な全国進出をかけたこの試合に、武雄のチームはあっけなく敗れた。
チームメイトが武雄を囲む。
「オマエのせいで負けたんだ」
「役立たず」
「なんで倒れたんだ」
「オマエが悪い、全部全部」
チームメイトの罵倒に耳をふさぐも、その声はなぜだか武雄の耳に一言一句漏らさず届く。武雄の傍にはあの少女がいる。武雄を見て、満足そうに、楽しそうに、「あはは、うふふ」と笑いを漏らしていた。
はっと目を開ける。そのまま勢いよく体を起こして、武雄はあたりを見渡した。
枕元にあるスマホを見て、今日の日付を確認する。
よかった、あれは夢だ。
今日は八月一日、全国進出をかけた試合本番まであと二十日である。
最近毎晩のように見る悪夢に、武雄は現実と夢の区別すらつかなくなりつつある。
寝巻の上から右足をさする。夢の中で感じた痛みは、今も鮮明に思い出される。だからこそ、武雄は夢と現実の区別がつかないのだ。
右足の寝巻をそっとまくり上げる。
「……! また……」
二週間前から見始めた夢に呼応するように、武雄の右足にはあざができ始めた。最初はあおなじみ程度の大きさだったそれも、今や膝のした全体がどす青く変色しており、時折それは夢の中と同じまではいかずとも、なんとなく痛むようになった。
あの夢は予知夢かなにかなのだろうか。はたまた、自分はなにか、言い知れぬ力に侵されているのだろうか。
「……気のせい、気のせい」
右足にあざができ始めたほうが先だったか、この夢を見始めたのが先であったか。武雄にはもう思い出せない。だけれど、きっとこのあざが先に違いない。突然現れたあざに不安を感じているから、夢にまで見てしまうだけだ。
現に、このあざは夢の中以外ではほとんど痛みを発さない。時折痛むことはあれど、夢のなかほどの強烈な痛みではなく、なんとなくひりつく程度である。
ならばきっと、自分がナーバスになっているだけなのだ。
武雄にとってこの右足は、自慢の右足である。
サッカー選手を夢見る武雄にとって、軸足である右足は、なによりも大事なもの。だからこそ、あざに動揺し夢にまで見てしまうに違いない。
重い腰を上げて、武雄は高校に行く身支度を始めた。今日は心なしか右足が痛む気がする。そんな不安を抱えながら、武雄は自室をあとにした。
朝食をかきこんで、いつも通りの通学路を歩く。しかし、その足取りは重い。文字通り、「重い」のだ。
あざが出始めてから二週間、こんなことは一度もなかった。足が重い、さらには『痛む』。
じくじくと、ズキズキと蝕まれていく感触が、武雄の右足にまとわりつく。
シャララ。
うつむきながら重い足を一歩ずつ、ゆっくりと進めていると、どこからともなく聞こえた鈴の音。始めこそ気づかなかった武雄だが、どうやらその鈴の音はだんだんと武雄に近づいている。
シャララ。
とうとうその音は武雄の目の前まで来て、止まった。
足を動かすためにうつむかせていた顔をあげる。
「君が、『松坂武雄』くんだね?」
風変わりな男がたっていた。真っ白な服は袖部分が大きく広がり、狩衣を連想させる。さらに太いしめ縄をネックレスのように首に下げて、しめ縄の胸の辺りには拳大の鈴がぶら下がっていた。
鈴の音の主がこの風変わりな男だとして、なぜ自分の名前を知っているのだろうか。武雄は一歩、後ずさる。
「君、呪われてる」
「は……? 新手の勧誘か……?」
武雄が男を避けて通りすぎようとするも、男は大きく一歩、踏み出して、武雄の行く手を阻んだ。
「『呪詛るん』。君も名前くらいは聞いたことあるだろ?」
「……丑の刻参りができるアプリ……ですよね……」
意味深な男の言葉に、武雄は思わず返事をしてしまう。男がニヤリと笑う。その顔は、嬉しそうでもあり、憂えるようでもあった。
「そう、それ。君はそれで、呪われてるんだ」
「……はっ。そんなバカな話、今時子供だって騙されないっての!」
足の痛みが消えたわけではない。けれど武雄は走った。言い知れぬ不安を覚えたからだ。男が言いたいことがなんとなくわかってしまった。呪いとは、この右足を指すのではないか。そしてこれが呪いのせいだとしたら、なんら武雄に打つ手はない。
SNS全盛期の現在、丑の刻参りも現代風にアレンジされた。
とある時期に、誰が開発したかもわからない、だけれど誰もが知っているアプリがある。
名前を『呪詛るん』。
使い方はいたってシンプル。丑三つ時に、アプリに表示される藁人形の写真に五寸釘を打ち込む、ただそれだけだ。
ただし、呪詛るんには必要なものがある。それが呪いたい相手の個人情報だ。
それはSNSのアカウントであったり、住所や本名、写真であったり。個人情報が本人に近ければ近いほど、呪詛るんの呪いはより強力に働く。
武雄が知っている情報はこれくらいだ。だが、知っていたからといって、アプリを利用したことはない。そもそも胡散臭い、子供だましな設定であるし、武雄は誰かを呪いたいと思ったことはない。
「武雄、パス!」
「お、おう!」
今朝の朝練は、ゲーム形式の試合である。武雄は親友でチームメイトの春斗にパスを送るために、軸足である右足を踏ん張る。そのときである。
『あはは。もうすぐだね』
「っ[V:8265]」
これは夢のなかなのであろうか。いや、この感じ、におい、感触は、紛れもなく現実だ。ならば、なぜこの少女が見えるのだろうか。
踏ん張った右足が少女に絡めとられる。かと思えば、ミシリ。骨がきしむような、今までにない痛みが、武雄の右足に走った。
「うぁあぁっ!?」
「武雄……?」
右足に力が入らなくなり、武雄はその場に倒れ込んだ。夢のなかであれば、武雄はそのままひとり、誰にも心配されないところを、今日は違った。
チームメイトが心配の声とともに、武雄のもとに走りよる。それだけで、今起きていることが『現実』なのだと、武雄は認めざるを得なくなる。
うずくまる武雄の足元で、いまだ少女は笑っている。ぴょんぴょんと跳ね回りながら、武雄が悶絶する様を、楽しそうに見ていたのだ。
大事をとって部活は早退となる。右足のあざはチームメイトだけではなく教師や両親まで知るところとなってしまった。おまけに、病院につれていかれて、『原因不明』と告げられては、もう手のうちようがない。
「なんなんだよっ!」
部屋のなかでひとり憤る。
「ほうら、僕は言ったでしょ。呪いなんだって」
「う、わっ? はっ? なんで俺の部屋に……」
ベッドのうえで膝を抱える武雄、そして、その武雄の目の前に現れたあの風変わりな男。
男はシャララ、と胸の鈴を鳴らしながら、武雄の右足を指差して、ふうん、と唸った。
「君の大切なものは、その右足ってわけか」
「なん……なんで」
「なんでわかるかって? だってそうさ、呪いはいつだってそのひとの一番大切なものを奪う」
男はその場で右手を胸の高さにあげて、人差し指と中指をたてる。そうして、男のまとう空気が澱んだかと思えば、
『ワン! わふ!』
いつの間にいたのか、武雄の右足にフンフンと、犬のような毛玉が嗅ぎ回っていた。
この男もそうだが、どうやってこの部屋に入ったのだろうか。玄関から入ったのならば、母親が対応するだろうが、そんな様子はなかった。だとしたら、『現れた』と言う他に説明がつかない。
「この犬は呪いを辿ることが出来る、僕の式神」
「式神……えーと、じゃあアナタは?」
「僕? ああ、名乗ってなかったかな。僕は坂野。坂野弘彦。単なる陰陽師なんだけどね」
けろっと話を進める坂野に対して、武雄のキャパはすでにオーバーしている。
ぶんぶんと顔を横に振って、
「ま、待って、待って。陰陽師とか式神とか、そんなもの信じられるわけ……」
坂野の顔が歪む。面倒くさい、そう言いたげな顔であるが、ふうっとため息ののち。
「この二週間、夢を見るだろう? こう、小さな女の子……着物姿におかっぱ頭の。あの子が、呪詛るんの呪いを運ぶ式神なんだ」
「……『あの子』が式神……」
「ほら、心当たりがあるだろう。君、やっぱりあの子が見えてるんじゃない?」
坂野は武雄の隣に腰掛け、さも友だちと駄弁るかのように、馴れ馴れしく武雄に言った。いまだ不信感はぬぐえないが、いきなり現れたことに加えて、武雄の右足のこと、夢の中の少女のことを言い当てられて、どうにも邪険には扱えない。
「でも、呪詛るんなんてただの子供だましだろ。友だちが言ってた」
「……ああ、それはそうだね。呪詛るんは、使い手によって呪詛が発生するまで何日かかるかわからないからね。呪詛が発動するまで毎日続けないと意味がないんだ」
やけに詳しい、武雄はそんなことをぼんやりと思う。陰陽師という人間は、アプリにまで精通しているものなのだろうか。
坂野が本当に陰陽師だとして、ならばこんな回りくどいことをしなくとも。
「坂野さん、百歩譲って俺の右足が呪いだとして。陰陽師の坂野さんにはこの呪い、解けるんじゃないですか?」
右足のあざや痛みが消えるのならば、藁にもすがる思いである。武雄は懇願するように坂野に言うが、坂野はやれやれと肩をすくめ、笑った。
「丑の刻参りは、呪詛を行う人間をやめさせるか、呪詛返ししか道はないんだよね」
「……ああ、そう。アンタやっぱり口だけなんでしょ。本当は陰陽師ってのもはったりで、金儲けのために俺に近づいたんだろうけど――」
坂野がすくっと立ち上がる。同時に、坂野が出した犬のような式神も、武雄の足元から離れていく。
「信じる信じないは個人の自由。君の呪いはあと二週間で完成する、とだけ伝えておくから」
立ち上がった坂野が、右手を再び胸の高さに持っていくと、人差し指と中指をたてて、そうして。
「は。え?」
すうっと、坂野の姿が霞んでいく。半透明になって、やがて消える。
夢でも見ているのだろうか。あるいは化かされている気分だ。
だけれど武雄が坂野の正体を信じるには十分すぎる出来事であった。
「ま、待って!」
だが、だからといって坂野が再び武雄の前に姿を現すことはない。もしかすると自分はとんでもなく損をしたかもしれない。
この右足のあざを、坂野であればどうにかする術を知っていたのかも。そう考えると、武雄は自分の度量の狭さを嘆かずにはいられなかった。
とはいっても、陰陽師なんて存在を、初見で認められる人間など、現代には存在しないのも事実であろう。
助けてくれ。助けてくれ、たすけてくれ!
その夜、武雄は夢を見た。眠りにつきたくないと夜更けまでリビングのソファに座っていたのだが、どういうわけか睡魔が襲う。まるであの夢から逃れられないと言いたげに、武雄は眠りにいざなわれた。
そして見たのはいつもの夢だ、サッカーの試合をしていると、あの少女が武雄の足を圧迫する。
だけれど今日は、そこで終わらなかった。
ギリギリギリギリ。武雄が倒れてもなお、少女は武雄の足から離れない。むしろ、より強く、まるで刃物で刺し貫くかのような痛みが右足を蝕んだ。
見れば、少女の鋭い歯が武雄の右足に食い込んでいる。うっ血と噛み傷で、武雄の右足は見るも無惨に変わり果てている。
膝から下は青黒く、噛み傷からは血が流れる。黄色い膿がじゅくじゅくと垂れ流れ、紙一重で膝に繋がっている状態である。
「やめ、やめろ!」
『アイツ、アイツ、アイツ! アイツが来た、アイツが私の邪魔をしに来た!』
少女の怒りの理由がわからない。わからないが、このまはまでは右足がだめになる、それだけはすぐに理解した。
この夢から逃れる方法を、武雄はしらない。覚めろ覚めろと何度も念じたって、少しも目が覚める気配はない。
「う、ぁあああっ!」
ジギジギジギ、と音がする。右足を引きちぎる音だ。腐った右足を、傷だらけの右足を、少女のけた外れな力が引っ張る。見た目からは想像もできない力だ、かろうじて繋がっていた足を、もぎ取らんと引っ張る。
「ぃぁあぁあぁあ!」
『はやく、はやく』
抵抗する。少女を蹴って押して対抗するも、少女はまったくひるまない。それどころか、ヂギヂギヂギ、と右足はさらにさらに膝から離れていく。
あまりの痛みに声すら出なくなる。抵抗もできない。ただただ少女にされるがまま、だんだんと、少しずつ、武雄の膝からしたが引きちぎれていく。
「っ、ぁ」
あと少し。
そこに来て、武雄の意識が真っ白な光に包まれた。
汗がいやに背中に流れる。べっとりと貼り付いた寝巻きの不快感と、いまだなお鮮明に感じる右足の痛み。だけれど視界に写るのは、武雄の家のリビングだった。
目が覚めたのだ。よかった。
「松坂武雄くん。間に合ってよかった」
「……さかの、さん……?」
右足の寝巻きをまくって、武雄は自分の右足がちゃんと『くっついてる』ことを確認しながら、武雄の傍に立つ坂野に視線を移す。
坂野の傍にはあの『犬』もおり、なんなら、坂野の手には、呪符のようなものが握られていた。
「目が覚めたばかりのところで悪いんだけど」
坂野の表情はよく見えない。暗い部屋のせいでもあるし、坂野がやや右下、武雄の足元を見ていたせいかも知れない。
武雄は坂野がにらみ見るほうに顔を動かす。
「ひっ!?」
『よくも、よくも。よくも!』
足元に見えたのはあの少女である。赤い着物を着た、おかっぱの少女だ。だが、武雄がいつも夢の中で見ているような、かわいらしい、あるいは無邪気な姿はどこにもない。目をつり上げて、憎々しそうに坂野を見る少女には、いつもの余裕はない。
「いい加減、僕の言うことを聞いたらどうだい?」
『誰が。私には力がある。人間の悪意と引き換えに、この『あぷり』に私を呼んだのは他でもないオマエだろう? ならなんで、私の邪魔をする?』
話が見えてこない。武雄はその場に縮こまりながら、坂野と少女のやり取りを見るしかない。
ごうっと少女の周りに炎が上がる。その炎のひとつひとつは、人間の顔からできている。青い炎だ。
『死ね』
『殺してやる』
『アイツなんか』
『いなくなれ』
炎の顔は、口々に誰かを罵倒する。あれはもしかすると、先ほど少女が言っていた『人間の悪意』なのかもしれない。
目を覆いたくなるような、耳を塞ぎたくなるような光景だった。少なくとも武雄は、見ていられない。
「確かに、呪詛るんを作ったのは僕だ。でも、だからこそ君を始末するのも僕の役目なんだよ」
『あはは。そんなの、本当に出来ると思うの?』
ザッと少女が坂野に手をかざすと、坂野の首がサクッと切れて、ビビュッと血が噴出した。
「え……」
『もう私の邪魔をするな!』
少女がふっと武雄を見る。うっそりと、獲物をいたぶるような顔で。
『アンタとは、あと少しの付き合いだから。最期まで、待っててね?』
あはは、きゃはは。
少女の姿がすうっと消える。
武雄にかかった坂野の鮮血が、ここに来てようやく武雄の鼻ににおう。
気持ちの悪いにおいだ。鉄と生臭さを混ぜた、独特のにおい。
「さかの、さん……」
血に動揺する暇もない。なにより先に、坂野の安否を確認しなくては。
震える足で立ち上がり、武雄は坂野に歩み寄る。しゃがんで息を確認するも、息はとまっている。
あわてて坂野の手をとり脈をとるも、やはりなにも感じない。
「坂野さん!」
脈も息もない、だけれど動揺した武雄は、坂野の名前を呼ぶことしかできなかった。
のだが。
ひゅるるる、と、まるで逆再生するかのように、辺りに散らばった坂野の血が、坂野の体へと戻っていく。
すべての血が坂野のなかに戻ると、坂野はまるで、朝目が覚めたかのような顔で起き上がった。
「ったく。痛いなぁ」
「うわ、うわ!?」
「松坂武雄くん。驚かせてごめんね」
むっくりと起き上がった坂野は、あっけらかんと武雄に言う。武雄は口をパクパクしてなにも言えなかった。もっと言えば、腰が抜けた。
自身の右足の痛みすら忘れるほどの衝撃である。武雄はその場に尻餅をついて、ただただ目を真ん丸にして坂野を見ている。
「見ての通り、僕って不老不死なんだよね」
ここまで見せつけられては、信じる他にない。
「なん、で……あの女の子は坂野さんを目の敵にしてるんですか」
妙な安堵があった。坂野が来てくれたからには、自分はあの少女から逃れられる。そんな、直感だ。
坂野はやれやれと肩をすくめる。
「まあ、あれだよね。呪詛るんを作ったのが僕で」
「呪詛るんを?」
「そ。呪詛るんを作るに当たって、あの子――『呪いを運ぶ式神』と契約したんだけど」
だんだんと話が見えてくる。なぜ坂野が武雄の前に現れたのか。先ほどの少女とのやりとりも。
「基本、陰陽師は自分より力が弱い式神と契約するものなんだけどね。あの子はひとの悪意を食事としていて。それで、アプリ開始と同時に、多くの人間がそれを利用した」
ひとの悪意は底がない。確かに、呪詛るんなんてアプリが開発されたら、人間なら誰でも一度はその誘惑に負けるだろう。
案の定、あまたの人間が呪詛るんを使い、結果として少女はたくさんの人間の悪意を食べてしまった。
「悪意をたくさん食べた彼女の力は、僕を上回ってしまった。だから今の僕には、彼女を倒すすべがない」
坂野が立ち上がる。そうして武雄の腕をつかみ、武雄も立ち上がらせる。
「で、でも。式神って一体しか使えないんですか?」
「そう。そこだよ。君は本当によく気づく」
ぱちん、と坂野が指をならすと、例の『犬』が現れる。坂野は犬を撫でながら、
「この子も僕と契約した式神でね。呪いを辿ることができる。ちなみにこの子は、『呪詛探索アプリ』の契約式神」
「呪詛探索アプリ……?」
「そ。あとは、『呪詛返すんです』ってアプリもあるよ」
他人事のようだと思う。そもそも、坂野が呪詛るんなんてアプリを開発しなければ、自分はこんな目にあわなかった。少女の式神が暴走したのだって自業自得だ。
「でもね、松坂武雄くん。式神っていうのは、生涯に四体までしか契約ができない」
「じゃあ、残りの一体は?」
「……さあ。でも、もう先約があってね。それで、松坂武雄くん。君には今、ふたつの選択肢がある」
長い前置きだと思うも、武雄は前のめりに耳を傾ける。
「ひとつは、『呪詛返すんです』で呪詛返しを行うこと。もうひとつは――」
「ま、待って。呪詛返すんですって、つまり呪いを返すってこと? どうやって?」
話を遮られ、坂野はむっとした顔をする。だが、武雄にとっては大問題だ。呪詛返しとは、どのようなものなのだろうか。
「呪詛返すんですは、呪詛を行っている人間の個人情報を書きこめば、それで呪いは呪詛主に返るってわけ」
「……呪いが返るとどうなるんです?」
うんざりだ、という坂野の表情にも、武雄はひるまない。呪いを返す、つまり相手に呪いが返る。そうなれば、相手もただではすまないのではなかろうか。
果たして、武雄の心配は的中する。
「呪詛がどの程度進んでいたかによるけど。まあ、君を呪っていた人間を例にすれば、重症の傷をおうってところかな」
つくづく人間は理解できない。坂野はそう思っている。呪う側の言い分なんてわからない、けれど、呪われる側の言い分はなおさらわからない。
坂野は、武雄がどんな決断をするのか、聞かずともわかっていた。わかりたくないのだが、今までの経験から、わかってしまうのだ。
「松坂武雄くん。聞くまでもないんだけど、もうひとつ、方法があるんだ。呪う側も呪われる側も、傷つかないやりかたが」
「……俺は、甘いんでしょうか」
「……まあ、呪われる側の言い分なんて、僕には知ったことじゃない」
呪われたから呪い返す。それが人間だと坂野は思っていた。だから『呪詛返すんです』を開発した。呪詛るんで呪われた人間を救済するための手段だった。
陰陽師という家柄は、忌み嫌われるだけで尊敬などされたことがない。少なくとも坂野は、あまたの人間の悪意を受けて育ってきた。そのくせ、目に見えない力が働くと、すべては陰陽師のせいにされた。
だから、腹いせだった。呪詛るんを作って、弱いながらも呪詛を受けた人間たちが、陰陽師に泣いて助けを請う、坂野の思惑はそこだった。
しかし、坂野の狙いは見事に外れる。呪詛るんは思いの外人間を魅了した。弱いながらも呪詛が成功する。成功しなくても、丑の刻参りをするだけで人間の心は晴れた。
呪詛るんの契約式神――呪いを運ぶ式神は、瞬く間に人間の悪意を食べ、力をつけた。
坂野の力など、あっという間に越えていったのだ。だから坂野は、苦肉の策で『呪詛返すんです』を作ったというのに、その存在は思いの外広まらない。
知ったところで、呪われる側の人間はそれを使いたがらない。
「馬鹿馬鹿しいと思わないかい? 『たんさくん』」
坂野は連れだって歩く『犬』に話しかける。式神の犬は地面を嗅ぎながら、『わっふ!』と坂野を呪詛主の元へといざなっている。
呪詛を終わらせる方法はふたつ。
ひとつは呪詛返すんですに呪詛主の名前を書き込むこと。もうひとつは――
不法侵入をするのは十八番だ。坂野はとある家にあがりこんで、スマホをにらむように見ている少年の元へと歩いた。
「やあ」
「う、わっ!? 泥棒!」
少年だ、武雄と同じくらいの――いや、きっと武雄がこの場にいたのならば、きっと驚き言葉を失っていたことだろう。
「太田春斗くん。君がしていることは――」
優しくさとすつもりは毛頭ないのだが、一応の警告を口頭で伝える。しかし、春斗は坂野を不審者とみなし、手元にあった本をバサバサっと坂野のほうに投げやった。
坂野は本を避けようともしない。正面から受けて、額がぱっくりと切れる。
頭の傷は大袈裟に血が出るものだ。坂野の額から血が流れ出るのを見て、春斗は自分が悪いことをしている気分になる。なにより、坂野がまったく抵抗しないことがそれに拍車をかけた。
「痛ったいなぁ。不老不死っていったって、痛いものは痛いんだよ」
だがしかし、坂野の額の血が、逆再生するかのように傷口に戻る様を見て、春斗はいよいよ覚悟を決めた。この人間は自分が使った『呪詛るん』と関係がある。
春斗は武雄に呪いをかけた。いや、正確には呪いを依頼したのだが、どちらにせよ、春斗が無関係とは言い切れない。
ふっと坂野が笑った。
「自覚はあるみたいだね。妬みかな? 松坂武雄くんは、もう少しで『死ぬ』ところだったよ」
「だ、だけどっ! 俺はもうやめてくれって頼んで……」
「へえ。『頼んで』。呪詛を他人に頼んで、松坂武雄くんをいたぶって楽しかったかい?」
「だ、だから俺はっ! あんなの都市伝説だって思ってたんだよ!」
ガタガタ、ガタガタ。
春斗の部屋が鳴動する。やがて電気が消えて、真っ暗になる。恐ろしくなり春斗はドアに走るも、ドアはまったく開かない。鍵をかけているわけでもないのに、ドアは固く閉ざされている。
ひゅおっと生暖かい風が春斗の頬をなでる。
「ひっ、こ、殺さないでっ! 助けてっ!」
カタカタ震えながら、春斗はその場に尻をつく。
振り返ることすらできない。ただならぬ雰囲気が坂野にはあった。
次第に春斗の部屋の空気がヒヤリと冷えていく。
「君を殺す殺さないは僕が決めることじゃない」
無機質な声だ。本当に、興味がなさそうに、どうでもいいと言いたげな。
「『呪詛るん』にはね、対抗策があるんだ。『呪詛返すんです』っていってね。呪詛主の名前を書き込めば、その呪いは呪詛主に返るんだ」
「お、俺は書き込んでない……俺はただ、頼んだだけでっ」
「呪詛ってね。呪詛るんを使ったひとだけじゃない。悪意を向けてきた人間も対象になるんだよ」
腰が抜けて動けない。まさか、そんな。自分は頼んだだけで、自分で丑の刻参りなんてしていない。ほんの遊びだ、本当に呪えるなんて思わなかった。
今日、武雄の足を見るまでは。
あれが呪いの効果だと、春斗にはすぐにわかった。わかったから、帰ってからずっと、なんなら、部活中も必死になって、依頼をした『そのひと』に、呪いを中止してくれと頼んでいた。
けれど逆に脅された。もし万が一呪詛がばれたら、オマエを先に始末する。
だから春斗はどうしようもなかった。そうだ、これは不可抗力だ。
「誰が誰を呪っていたのか。松坂武雄くんにはもう話してある。『呪詛返すんです』のことも、話してある。君が今後しなければならないのは、心からの謝罪と――」
罪を背負って生きていくことだ。
坂野の言葉に、春斗は大いに後悔した。
最初は少しの嫉妬だった。自分よりサッカーがうまい武雄を、少しだけ困らせるつもりだった。なのに、いつの間にか呪詛るんなんてものに手を出して、武雄に呪詛をかけてしまった。
「松坂武雄くんが死ななかったのは、不幸中の幸いと思ったほうがいい」
「……アナタは、一体だれなんですか」
「僕かい? 僕はしがない陰陽師さ。ただ、君と違って許されない間違いを犯した」
春斗の前から坂野の姿が消えていく。と同時に、部屋の明かりがつき、春斗はしばらくぼうっと宙を眺めていた。
『呪いを終わらせるもうひとつの方法は、呪詛主の呪いを止めることだ。君が望むのなら、僕がこの呪いを止めてあげる』
坂野の言葉通り、あの日以来武雄はあの夢を見なくなった。足のあざも、今ではすっかり消えなくなり、あの痛みも、今は感じない。
結局武雄を呪っていたのは、親友の春斗だった。しかし春斗自身が直接手を下していたわけではない。
呪詛るんには、もっと別の使いかたがあるのだと、坂野が言っていた。どんな手段であれ、春斗が首謀者であることには変わりない。変わりないのだが、武雄は思う。
もしも自分が春斗の立場で、なんらかの呪いの手段を得てしまったら。果たして自分はその誘惑に勝てたのだろうか。
そして、もしも武雄が春斗を許さなかったら、春斗は果たしてどうなっていたのだろうか。
武雄は春斗を許した。それは一回限りの贖罪のチャンスである。
「俺には『呪詛返すんです』がある。坂野さんが言うには、呪詛返しは一生有効だって。だから、春斗がまた俺を呪ったときは、躊躇なく呪詛返しをする」
「武雄、ごめん、俺……」
「だけど、今回だけは許すよ。春斗が転校して、新しくやり直せたらいいね」
武雄のこの優しさが、たまらなく嫌いだ。春斗は今、それに気づいた。いつだってみんなの輪の中心にいて、分け隔てなく接する、優しさが。その優しさはときに他人を傷つける。ナイフなんかより何倍も何十倍も鋭い凶器だ。
武雄はきっと、優しさが凶器になるなんて、一生気づかずに生きていくに違いない。はなから自分達は考え方が違うのだ。なぜ今まで親友なんて言い切れたのだろうか。
「俺、オマエのこと、ずっとずっと嫌いだったよ」
「春斗……」
「でも、そうだな。約束する。呪詛るんは使わない。だって、俺が呪いたいのは、武雄、オマエ以外きっと、生涯現れない」
苦い別れとなった。
だけれど武雄は思う。呪いも信頼も、紙一重なのではないか。今まで春斗とすごした一年と半年、確かに自分達は親友だった。親友だったからこそ、許せないものがあった。
そもそもは、呪詛るんなんてものが存在しなければ、春斗も武雄もこんな目にはあわなかった。
「元気でな、春斗」
そうして春斗は、転校した。家も引っ越した。
武雄はその後、春斗に一切連絡はしていないし、春斗もまた、誰かを呪うことはなかった。
一連の流れを見て、坂野がふっと息を吐いた。
今回の件は特殊な事例だ。アプリの使い方も、時代によって変わってくる。今回の黒幕は春斗のほかにもうひとり。
「松坂武雄くん」
「うわ。急に現れないでくださいよ」
「ごめんね。でも、玄関とか面倒くさくて」
すっかり呪いが解けた武雄の前に、坂野が顔をだす。陰陽術を使って部屋に不法侵入したのだ。だが、武雄も慣れたもので、一切動じることはない。
「坂野さん。ありがとうございました」
「いえいえ。僕はただ、呪いをとめただけで、自分の霊力はなにも使ってない」
「それでも、呪詛探索の式神は使ったじゃないですか」
武雄にすっかり懐いた『たんさくん』が、武雄の膝のうえで丸まって、わっふ! と吠えた。
「いやあ、そうかい? そんなにお礼がしたいって?」
「いや、言ってません、そんなこと。でも、そうですね。お礼に、俺ができることならなんでもします」
軽い気持ち、あるいは、武雄は生来優しい少年であるため、本心からの言葉だったのかもしれない。
坂野は、武雄の言葉を見越していたに違いない。にっと口の端を引き上げる。
「じゃあ、僕の名前を『呪詛るん』に書いてくれないかい?」
「え……? そんなことしたら、死――」
ここではたと思い出す。坂野は不老不死だ。それは、あの日に確認済みだ。目の前で見せつけられた。そんな坂野の名前を書いてなにになるのだろうか。
「知っているかい。式神は、契約した術者が死ねば、無効になる」
「……それは、つまり」
「そう。僕が死ねば、呪詛るんは使えなくなる。けれどね、それを恐れたあの子――呪いを運ぶ式神に、逆に呪われてしまった。不老不死の呪いをね」
坂野はまるであっけらかんとした口調である。
呪い殺すことなどできるのだろうか、不老不死の人間を。
「僕だって後悔してるんだ。呪詛るんなんてものを作り出したこと。家族には勘当されたし、式神からは呪われるし。だからね、僕は僕を殺さなければならない」
不老不死、いったいいつから生きているのだろう。見た目は二十代そこそこだ、だけれど表情は最初からくたびれていた。長い長いときをひとりで生き、過ごしてきたのだろうか。だとしたら、なんて孤独で、なんて残酷な。
「でも、書き込んだら俺は、春斗のことも許さなきゃならなくなる」
「許したんじゃないの?」
「許したよ。春斗の心は。でも、呪詛るんを使った弱さは、許せてない」
はぁあ、と坂野から盛大なため息が漏れる。やっぱりな、ほら見たことか。坂野にはこの展開が予想できていただけに、笑うしかなかった。
「わかった。君がそういう人間だっていうのははなからわかっていたよ。それじゃあ、今度こそ僕は、君の前から消えるけど」
「ま、待って。坂野さん。坂野さんはどうして俺を助けてくれたんです?」
今さらそんなこと。
坂野は武雄の膝に丸まる『たんさくん』を抱き上げると、右手を胸の前まであげて、中指と人差し指をたてる。
「君みたいに、強い呪いを受けた人間は、一時的に呪詛の力が強まるんだ。現に君には、式神が見えてた」
だんだんと、坂野の体が透けていく。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「呪詛の力が強まった人間が、『呪詛るん』に僕の名前を書く。僕が死ねる方法は、もうそれしか残されてないのさ」
「でも、本当にそれで――」
本当にそれで死ねるのかなんて、坂野自身もわからない。けれど、坂野は死ななければならない。坂野が死ねば、呪詛るんの――呪いを運ぶ式神との契約は無効になる。そしてもうひとつ、坂野には目論見がある。
「元気で。松坂武雄くん。『呪詛るん』も、『呪詛返すんです』も使わない人生が送れたらいいね」
ぽっと呟くように残された言葉を、武雄は一生忘れないだろう。
第二章 呪詛探偵
父方の祖母のいとこは、若い頃に阿漕な仕事をしていたらしい。私は関わりがなかったけれど、祖母はいつも、いとこの彼をなじっていた。いとこは心を入れ替えたけれど、人の信頼なんてそう簡単には回復しない。
ぼろもうけの時代が到来する。
探偵業とは誰でもなれる職業であるが、誰でも儲かる仕事ではない。なぜなら、推理力その他情報収集に長けたものでなければ、その仕事は依頼すら来ない。
しかし、そんな探偵業の中でも、異例の部署が出来上がった。SNS全盛期のこの時代らしい職業だ、その名を『呪詛探偵』。
これは、とある時期に誰が開発したかもわからないアプリ『呪詛るん』の流行とともに需要を増した探偵のことである。
しかし、元来の探偵業を生業とする探偵からは、『アイツらは探偵であって探偵でない』と評されるほどの仕事ぶりで、正直に言えば、胡散臭い。
なぜならば、呪詛探偵なんて職業は、実際のところ『なにもしなくとも』儲かる仕事なのだ。呪詛るんで呪われている人間が、誰から呪いを受けているのかを調べてもらう。それが呪詛探偵の仕事の主である。しかし、実際誰が誰を呪っているのかなんて、知るすべなどないのだ。
そもそも呪詛探偵自身も呪詛るんなんてものを信じていないし、呪いに対して否定的な意見を持つものがほとんどである。
それでも、なぜ呪詛探偵という職業が廃れないのかといえば、単純に『もうかる』からである。いつの時代も、ひとの悪意は商売になる。
「ええ、そうですか。それは大変でしたね」
「はい。毎日のようにうなされていて。顔もこんな風に」
今日もまた、とある呪詛探偵のもとにひとりの女性が訪れていた。真夏だというのに顔には大きなマスクをつけており、その表情は暗い。
そして、服装も真夏にふさわしくない、長そでにハイネックと、呪詛探偵――高野一井は苦笑気味である。内心では、よくも呪いだの呪詛だのと、そのようなことを恥ずかしげもなく他人に相談しに来る、そんなことを思いながら、顔は笑顔だ。
「お任せください。当社は呪詛探偵社の中でも随一の評判です」
「はい、前に十件ほど相談に行ったのですが、全然だめで。そこで先生のことを知って……」
「そうですよねえ。今時『まともな』呪詛探偵なんて、ウチくらいですよ」
「お願いします、先生。私、私、呪いのせいでこんなに……!」
泣きつかれるのももう慣れたものである。
呪詛なんてものは、おおよそ気のせいか思い込みがほとんどである。現に、一井のもとを訪れた依頼人は、一井が『調査したふり』をしただけで、呪詛が消えたと満足気に帰っていった。
呪詛探偵はぼろもうけの仕事である。
呪詛主が見つかっても見つからなくても、成果報酬は発生するし、適当に呪詛主をでっちあげて報告したところで、依頼主にそれを確かめるすべはない。
一井もまた、そんな『似非』のひとりである。
しかし、どうしてか、今回の依頼はなかなか難航しそうだ、と一井は思った。泣きつく女性は、おもむろにそのマスクを脱ぎ取ると、その下に隠されていた真っ赤にただれた肌を一井に見せた。
「呪いが進むにつれて、顔から全身にこのただれが広がってしまって」
「……あ、ああ。そうなんですね。大丈夫ですよ。私はこう見えて腕利きの呪詛探偵ですので」
心の内では、鳥肌が立っていた。呪詛探偵ではなく、皮膚科に行ってくれ。もしそれが伝染病かなにかだったら、自分に感染する。
しかし、それを表情に出さないあたり、一井も一応は『プロ』なのである。この依頼人の報酬はけた外れの額だった。だから一井は、この女性の言うことを『信じるふり』をしている。
「大丈夫なので、もうお帰り下さい」
「先生、お願いします、どうか、どうか」
「大丈夫ですから……」
グイっと詰め寄られると、さすがの一井もやや顔を引きつらせる。女性ははっとしてマスクを再び耳にかけて、ただれた皮膚を覆い隠す。
そのまま女性は依頼室から出ていった。
「はー、やれやれ。除菌スプレーはあったかな……」
女性がいなくなった部屋に、一井は除菌スプレーをこれでもかというほどにまき散らした。
呪詛探偵をやっていると、おのずと恐怖体験などの怪談話に耐性がついてくる。はじめこそ依頼人の話のひとつひとつに驚き、びくびくしていた一井だが、今はもうすっかり動じなくなった。なんなら、自分の周りで起こる『やや不可思議な』現象すら、なんとも思わなくなった。
「どれどれ……」
女性がいなくなった部屋で、一井は自身の携帯を起動する。この携帯は一井の唯一無二の商売道具だ。
呪詛探索アプリ。
知る人ぞ知るアプリである。一回の利用料は百円と良心的であるが、このアプリは確かに呪詛主を探し出すことができる優れものである。
呪詛るんというアプリに対抗するように現れたアプリだそうだが、誰が作ったのかも、どういう仕組みなのかも、知るひとはいない。
一井はこの呪詛探索アプリの存在を、呪詛探偵の先輩にあたる人物から教えてもらった。もちろんただではない、かなりの額を支払ってこのアプリを教えてもらい、そうして独立して事務所を構えるに至った。
はじめこそ、こんな胡散臭いもので本当に呪詛主が探せるのかとも思ったのだが、依頼人の名前を検索すると、とあるときは依頼人の近しい人物の名前が表示され、とあるときは依頼人とはなんら関係のない人間の名前が表示された。むろん、なにも表示されないこともある。
最初の依頼人は誰だったか、一井ももうすっかり忘れてしまった。しかし、覚えていることもある。
その時の依頼人を呪っていたのが親友で、探索の結果に表示された人物の名前を依頼人に伝えるや、本当にその依頼は解決してしまったのだ。
なにかの偶然か、あるいは思い込みだと一井は今でも思っている。そう思っていなければ、こんな仕事、続けられるわけがない。
「検索結果、佐藤かえで? 誰だよ、そんな知り合い聞いてないし。……あの子も呪い云々じゃなくて皮膚科に行けっての」
今日の依頼はこれにて終了である。本当においしい仕事だ。たったこれだけで、十万円。検索結果が出ても出なくとも、一件十万円の依頼報酬はぼろもうけである。
「さて、今日はもう暇だし、ネカフェでも行くかな」
すっきりしない案件ではあったが、呪詛探索アプリになにも表示されないのだから、どうしようもない。
一井はくあっとあくびをしながら、お気に入りのネットカフェへと歩いていく。
最近、犬にほえられることが多くなった。決して動物嫌いではないのだけれど、最近ことさら、犬にほえられる。
昔はどちらかというと犬のほうから一井に寄ってきたくらいなのだが、最近はどういうわけか一井は犬に嫌われている。
『ガルルルル』
「おいおい、なんで威嚇するんだよ」
しまいには、威嚇ばかりされるようになった。こうまでされると、逆に笑えて来る。阿漕な商売を始めたから、動物にはわかってしまうのだろうか。
そんなことを思いながら、歩く、歩く。
『わん! わっふ!』
しかし、今日はどこか違った。足元を見ると、毛むくじゃらの『なにか』。毛玉でよくわからないが、鳴き声からして、『犬』なのだろう。
一井はしゃがみ込んでその『犬』に手を伸ばす。犬は一井の手にすり寄って、ぺろぺろとその手のひらを無邪気に舐めた。
シャララ。
犬の陰に人間の影が重なって、一井は顔を上げる。
「おや、やっぱりアナタ、見えるのかい?」
おかしな男だ。真っ白な服――一見和服のように見える――を着て、首には太いしめ縄をネックレスのようにぶら下げている。その先端にはこぶし大の鈴がついており、その鈴が、なんとも不気味な音を鳴らしている。
一井の傍にいた『犬』が、男のほうへと走っていく。
『わん! わん!』
「ああ、そうかい。コイツがオマエの『ご主人さま』だね」
なんのことやら、一井は全く分からない。男は、一井を指さして、
「高野一井さん。君はその仕事から足を洗ったほうがいい」
「……ああ、ああ。そうか、オマエが『例の男』だな」
この業界にいるとおのずと情報が回ってくる。最近、呪詛探偵のもとを回って、仕事を辞めるように促がしてくる、怪しげな男がいるのだと。
それがきっと、一井の目の前にいるこの男なのだと、一井はすぐにわかった。
「あいにく。俺は呪詛探偵を辞めるつもりはないね」
「そうかい。じゃあ、言いかたを変えよう。今回の依頼人、その依頼人からは手を引くべきだ。アナタのためにも、ね」
意味深な言い方に、思わず一井は息をのんだ。
そういえば、さっきまで男の傍にいたあの犬はどこに行ったのだろうか。そもそもこの道は、一井以外にほぼ通らない、秘密の抜け道だ。
一井だけが知る、秘密の抜け穴を通らなければ、この道にたどり着くことはできない。
「あんた、いったいなにもんだよ」
「僕? 僕は坂野。坂野弘彦。しがない陰陽師さ」
「ふっ。陰陽師? 陰陽師がわざわざ俺にご忠告ってか? ご苦労なことで。だけど俺は、この仕事を辞めるつもりはないんでね。こんなうまい話、手放すはずないだろ。アンタもどうせ、同業者なんだろ?」
はっと鼻で笑って、一井は坂野の隣を通り過ぎる。今日はもう、ネットカフェの気分ではなくなった。家に帰って、部屋でゴロゴロ過ごすのも悪くない。
小さくなり行く一井の背中を、坂野は無言で見守っている。
「たんさくん。あの男、助ける必要ある?」
『わっふ! わふ!』
当たり前だ、と言いたげに、式神――たんさくんが声高にほえた。
一井は小さなアパートに住んでいる。呪詛探偵がぼろもうけの仕事だからといって、無駄遣いはしない。そもそも一井には夢がある。一等地にマンションを買って、悠々自適な隠居生活を送る、そんなしがない夢だ。
だが今は、まだまだ資金が足りない。現状だと、『呪詛探索アプリ』を購入したときの借金をやっと返し終えて、ここから貯金がプラスになる、そんな段階であった。
「今日の売り上げが十万で……明日は依頼が三件だから三十万……」
ベッドに横になりながら、一井は皮算用する。
毎日この時間が好きだ。借金がなくなり、ようよう貯金に回す余裕ができた。これからの稼ぎは自分だけのものだと思うと、うきうきして鼻歌まで漏れてくる。
「そういえば、先輩はどんくらい稼いだんだろ」
思い出す。
『呪詛探索アプリ』を教えてくれた先輩とは、もう五年も連絡を取っていない。五年もたてば、先輩ももう貯金は億を超えて、悠々自適な生活を送っているころであろう。
一井は電話を起動する。
「えーと、電話番号、変わってないよな……?」
電話帳を起動して、電話を掛ける。
五年も連絡をしていなかった先輩を思い出したのは、もしかすると坂野の存在のせいかもしれない。坂野の妙な雰囲気に、一井は不安を覚えた。
最近呪詛探偵の間では、あの坂野の存在がうわさされている。呪詛探偵から身を引くように警告して回る奇妙な男。
確かに、しめ縄を首から下げて、鈴をネックレスのようにぶら下げた出で立ちは、異様そのものだ。
電話のコールが何十回もなっている。しかし、先輩は電話に出る様子はない。いまは仕事中か、もしくは電話を解約してしまったのだろうか。
そろそろ電話を切ってしまおう。一井が電話から耳を話した時だった。
『もしもーし』
かすかに聞こえたのは、女の子の声である。しかも声は幼い。
よもや、所帯を持ったのだろうか。だとすると、この子は娘だろうか。ほほえましさすら感じて、一井は再び電話を耳にあてる。
「もしもし? 俺、君のお父さんの友人で、高野っていうんだけど」
『あはは、ふふふ』
「え? もしもし?」
しかし、電話の先の少女は、きゃっきゃと嬉しそうに笑いを漏らすばかりで、一井の言葉に反応しない。
もしかすると、かけ間違えたかもしれない。そう思い、一井は再び電話から耳を離した。
「ったく、今時のガキはヒトの話もまともに聞けないのか――」
電話を切る。
『あはは、ふふふ。ねえ、ねえ。アナタ、私が見えるのね』
だが、少女の声は止まらない。それどころか、真後ろに感じた気配に振り返ると、はたしてそこには、少女がいた。
おかっぱ頭の、赤い着物を着た、『いかにも』な少女が、一井の後ろに、いたのだ。
「……! ……!?」
誰だ。
そう叫ぼうとしても声が出ない。そもそも、体が金縛りにあって動けない。
動けなくなった体がごろんとベッドに転がって、少女は一井を真上から見下ろして、笑っている。
『ねえ、ねえ。余計なことをしたら、許さないから』
少女の両手が、一井の顎に添えられる。そこから、メリメリメリ、と顎の皮を引っ張り剥いて、額に向かって皮が剥がされていく。
メリメリ、メキョメキョ。
「ぁぁああぁぁぁあああ!?」
あまりの痛さに絶叫する。抵抗しようにもいまだ体は金縛りにあっていて、なんら抵抗することができない。
一井の顔の皮を全部剥いだところで、一井は痛みのあまり気絶した。
あはは、うふふ。
あの少女の声が耳にこびりついて離れない。
目を覚ました時には、もうすっかり日が暮れていた。
「ゆめ……」
夢にしてはリアルすぎる。それに、あの少女とは初対面な気がしない。どこかで会っているような気さえする。どこでだったか。
「あれ? 起きたの?」
「う、わ!?」
ひとの声に、一井は勢いよく起き上がる。ベッドの足元に、坂野が座っていた。坂野の膝にはあの『犬』もいて、一井ははあはあと肩で息をしながら、坂野をにらむ。
「ふ、不法侵入で訴えますよ?」
「ああ、ごめん。じゃあ玄関から入りなおすよ」
「……は?」
まるであっけらかんとした口調で、坂野は立ち上がった。かと思うと、その姿が一瞬で消えていた。
「は。は!?」
ピンポーン!
「ひっ!?」
まだ寝ぼけているのだろうか。さっき足元に見えたあの男は、なぜ消えたのだろうか。そもそも見間違いだろうか。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
しつこく鳴り響くインターホンに、「今行く!」と、一井は怒鳴りながらベッドを降りる。そうして開けたドアの先には、
「高野一井さん。玄関から来たんですから早く開けてくださいよ」
「なん……アンタ、さっき俺の部屋にいたよな……?」
「だから、不法侵入にならないように、ドアから入りなおしたんじゃない」
ひょこっと一井をよけながら、坂野は今度はきちんと玄関から一井の部屋に入りなおす。しかし一井はわけがわからない。
さっきまで部屋にいたはずの男が一瞬で玄関に移動した。
マジシャンかなにかなのだろうか。いや、坂野は自身を陰陽師だといっていた。だとしたら、呪詛探偵に限定して、警告をして回る意味もおのずと察することができる。
「俺は、呪詛探偵を辞めるつもりはないね」
「ああ、そうかい。君ならそう言うと思ったよ。でもね、今回の依頼主からは手を引いたほうがいい」
「誰がそんなこと。あの女だって、ただの思い込みだ。『呪詛探索アプリ』で検索しても、なにも情報は出てこなかった」
知識をひけらかすように、一井が坂野にきっぱりと言い放った。しかし、坂野は表情一つ変えない。
「『呪詛探索アプリ』を知ってるなんて、さすがだねえ。だけど、知っているかい。『呪詛るん』には、ヘビーユーザーのためのオプションが用意されているんだ」
坂野は一井のベッドに腰掛ける。いつの間にか、あの『犬』がその膝に乗っている。その犬は、一井に向かって『がるるる』と威嚇するようにほえていた。
「オプション? そんな話、聞いたことないね。はったりもほどほどに」
「一年連続で使った人間にだけ、オプションが表示されるんだ。呪詛探索に引っかからない設定にできるオプションさ」
「はっ、だから、そんなの聞いたことないって」
「そういえば、君の今日の依頼主。どんな呪いを受けたって話してた?」
ころっと話題を変えられる。しかし、徐々に徐々に思い出し、一井の顔が青ざめていく。
顔の皮を剥ぎ取られる、彼女は確かにそう言っていた。
丑三つ時、少女が枕元に表れて、彼女は金縛りにあっている。そうして、顎の部分から少しずつ、いたぶるように、彼女の顔の皮が剥がれていくのだという。
ぞっとした。
「ねえ、心当たり、あるんでしょ」
夢だと思っていたあの少女のことを思い出し、一井はただただ顔を青くすることしかできない。あの話は、本当だったのだろうか。そして、彼女の依頼を受けた自分もまた、同じ呪いを受けてしまったのだろうか。
「も、もしかして、俺も呪われてる、とか……?」
「うーん、どうかなあ。ただ、彼女を呪おうとしている呪詛主。彼女、けっこう呪詛の上級者でね。自分の邪魔をする人間は片っ端から呪詛るんで呪っているみたいでさあ」
困っちゃうよね、と坂野はまるで他人事だ。
一井は坂野に走り寄って、その肩をつかんで問いただす。
「その呪詛主、どこにいるんだよ!」
「聞いてどうするの」
「そ、それは……」
「だから僕は忠告したのに。あの子の依頼にかかわるなって。まあ、でも」
坂野が立ち上がる。膝に乗っていた『犬』もまた、床に足を下ろして、外に向かってほえている。
「君が金輪際、呪詛探偵なんてものをしないって誓うんなら、助けてあげなくもないけど」
「……呪詛探偵を辞めろ? それじゃあ、俺はこの先どうやって稼げっていうんだ」
「あれ? 高野一井さん。アナタは自分の命よりお金が大事なクチ?」
あーあ、とあきれたように坂野が肩をすくめた。しかし、一井は即答できない。ようやくこれからという時に、この仕事をやめられるはずがない。借金を返し終えて、ここから稼ぎ時というところまで来たというのに。
「ほうら、時間切れ」
「え……ひっ!?」
ガタガタガタガタ。
一井の部屋が揺れている。いや、地響きに近い。
一井は思わず玄関に走るも、足が全く動かない。動かしているはずなのに、玄関が遠ざかっていくのだ。そして、傍にいたはずの坂野の姿もまた、見えなくなっていた。
ここはどこだろうか。
『あはは。ふふふ。アナタ、そうなのね。アイツを選ばなかったのね』
「ひっ! く、来るな!」
ひたり、ひたり。
少女の足音が一井の後ろから、右から左から、下から上から聞こえる。どこから現れるのか一井には予測が付かない。
あらゆる場所から聞こえる足音に、逃げようにも足が動かない。見れば、床がどろどろの沼のように溶けだして、一井の足がずぶずぶと沈んでいた。
めり込んだ足を動かそうにも、もがけばもがくほど足は床に沈んでいき、さらには一井の体に何本もの少女の腕が絡みつく。
その手先が一井の皮膚に爪を立て、体中の皮という皮を剥ぎ取らんとしている。人間離れした力だ。
痛みと恐怖に負けて、一井はとうとうその言葉を口にした。
「な、なんでもする! 呪詛探偵をやめるから! だから助けてくれ!」
ピタ。
すべての景色が凪ぐ。
少女の声も聞こえない。ぐるぐる回る景色が一変し、一井の部屋へと戻っていく。
そこにいるのは、一井と、坂野と、それから。
『また邪魔をして。いつか私は、オマエを殺す』
「無理だね。僕を殺したらオマエも死ぬ。だから君は、僕を殺せない。あまつさえ、不老不死にしたのだから」
『ちっ。小僧、命拾いしたな?』
少女の吊り上がった眼が、一井を一蹴する。
一井はその場にしりもちをつき、縮こまることしかできない。
「はやくお帰り、呪詛を運ぶ式神よ」
坂野の言葉で、ようやく少女が一井の部屋から消えていく。
はああ、っとため息をつき、一井は震えながらも、坂野を見やる。部屋の真ん中に立ち尽くす坂野は、その手に『呪符』のようなものを持っていた。
「まあ、本当は『呪詛返すんです』ってアプリもあるんだけどね。君には最初から教えたくなかったんだよね」
「じゅ、呪詛返すんです?」
「うん。呪詛返しができるアプリなんだけどね」
坂野はにっこりと笑いながら、一井のもとに歩いてくる。そうしてしゃがみ込んで一井と視線を合わせると、先ほどの笑みを消し、無表情になる。
「今日、君に依頼してきた彼女。彼女を呪っている人間は、ちょっと特殊な例でね。呪詛探索アプリでも引っかからない上に、呪詛を成功させるためなら関係ない人間をも呪ってしまう、危うい人間なんだ」
「で、でも。アンタ、その口ぶりだとその呪詛主のこと、知ってるんだろ?」
「ああ、まあね。でも、なかなか難航していて。それで、できたら君に時間を割きたくなかったんだけど。君って経験しないと反省しないタイプみたいだったから」
わっふ! と例の『犬』がなく。そして、坂野を導くように、坂野の服の裾を引っ張っている。
「わかってるって、『たんさくん』。今行く」
「その犬……」
「ああ、この子? 見覚えあるかい? 呪詛探索アプリの式神。君が毎日使っていたのは、この子なんだよ」
話が急すぎてちんぷんかんぷんだ。式神、この犬が式神で、呪詛探索アプリ?
一井が首をかしげると、坂野は面倒くさそうにため息をついた。
「『呪詛るん』、『呪詛返すんです』、『呪詛探索アプリ』。これらは僕が開発した、式神を介して呪詛を行うアプリなんだけど」
ごくり、一井は息をのむ。
「高野一井さん。アナタ、最近犬に嫌われてたでしょう? それはこの、『たんさくん』を使役していたからなんだけど」
わふ、わふ!
『たんさくん』が一井に向かってなつっこく鳴き声を発する。
「な、なんでアンタはあんなアプリを開発したんだ? 開発者なら、消すことも可能なんだろ[V:8265]」
責め立てられて、坂野はむっとしたように口を結んだ。
「あの少女――呪詛るんの式神がね、思いのほか人間の悪意を短期間に大量に摂取してしまったんだ。そのせいで僕では御しきれなくなってしまってね」
「あのアプリは本当に呪いの力が宿ってるのか?」
「うん、まあ、そういうことになるね。それで、君みたいに呪詛にかかわる人間が消えない限り、呪詛るんの式神の力が衰えることはないんだよね」
「……」
一井はいままで、呪いなんてものは信じていなかった。そんなものがあると信じていたのならば、呪詛探偵なんて職業は選ばない。呪詛なんてものはこの世界に存在しない。そう確信していたからこそ、一井はこの仕事を続けてこられた。だがきっと、この先はそうはいかないだろう。
一井はこの目で、呪いを見た。あの少女を、坂野という存在を。
「それで、そう。君に依頼してきた彼女の件は、僕がうまく解決するから。だから君は、彼女からも、今の仕事からも足を洗う。いいね?」
約束してしまった手前、うなずくほかに選択肢は残されていなかった。そもそも、そうする以外に選ぶつもりもない。
一井はもう、呪詛にかかわりたくない。こんな思い、命がいくつあっても足りない。
だが、ここで呪詛探偵から身を引いたところで、本当に自分の身の安全は保障されるのだろうか。
「あの、坂野……さん。俺が呪詛探偵を辞めたら、今後はもう、呪われたりしないんですか?」
「……さあ。それは僕にはなんとも。だって、君はそれだけの仕事をしてきたんだから。呪いにかかわるってことは、自分も呪われる覚悟をするってことだろう?」
「でも! 俺は知らなかったんだ」
「ああ、そう。言い訳はいいよ。だって君には、まだ選択肢が残されているじゃない」
坂野は立ち上がる。足元にはあの犬が尻尾を振って走り回っている。
「僕は『彼女』を止めに行くから。少なくとも、今回の件での呪いについては、君の安全は保障するよ」
坂野が胸の高さに右手を上げる。そうして人差し指と中指を立てると、坂野の姿が徐々に徐々に消えていく。
「ま、待ってくれ! 助けてくれ! 金ならいくらでも払う!」
「ああ、そういうところ。お金ですべて解決するって思ってるところ。そういうところだよ、君って」
「助けて!」
「助ける? ああ、君にはお金がついているんだろう? 『呪詛探索アプリ』だって持ってるんだから」
そのまま、坂野は一井の前から姿を消した。
残された一井は、震えながら床を這って、自身の携帯を取りに行く。そうして起動したのは『呪詛探索アプリ』である。
自身の名前を検索して、自分が呪われていないことを確認する。
「で、でも……」
坂野は言っていた。呪詛るんのヘビーユーザーは、呪詛探索アプリに引っかからないように設定することができる。
途方に暮れるしかなかった。一井には、頼れる人間がいない。今までさんざん呪いを馬鹿にしてきただけに、同業者にも、本音を話せる人間などいないのだ。
「くっそ、くそ!」
呪詛探索アプリで検索をかける。自分の名前がないことを確認する。
そんな日々が何日か続き、一井は身も心も疲れ果てていた。
こんなことになるのなら、まともに働いて稼いで、つつましやかに暮らしていればよかった。
「反省したかい?」
一週間後のことである。真夜中に、なんの前触れもなしに現れた坂野が、けろっとした顔で一井に訊ねた。
「反省もなにも。俺は今後ずっと、呪詛におびえながら暮らすしかないんだろ」
「ああ、これは相当反省してるねえ」
ケタケタと坂野は笑った。よくもこの男は。そう思うも、一井には言い返す気力すらなかった。
坂野は一枚、呪符を渡す。
「なんです……?」
「簡単な呪符なんだけどね。君が『まっとうに』生きている間は、軽い呪いは祓えるように。僕の『なけなしの』霊力を込めた呪符だよ」
ばっと顔を上げる。一井はその呪符を奪うように受け取って、自分の胸に掻き抱いた。
「あーあ。僕って本当に優しいよね。それで、その見返りが欲しいんだけど」
「みかえり……」
これほどの呪符だ、一億、いや、一兆円を請求されたっておかしくはない。一井はごくりとつばを飲み込む。
「呪詛るんに僕の名前を書いてほしいんだ」
「呪詛るんに……? でも、そんなことしたら……」
「ああ、大丈夫。僕ってほら、不老不死なんだ」
「……? ならなおさら、無意味なんじゃ……?」
一井の言葉に、坂野はうんざりだと言いたげな顔をした。
「呪詛るんの式神に呪われた僕は、不老不死になってしまったんだけどね。僕が死ねば呪詛るん他、三つのアプリで契約している式神の効力が消えるんだ。だから僕は、死ななきゃならない」
急ぎ足な説明だ、一井にはすべての事情が理解できていない。できていないながらも、この呪符をもらう見返りが、そんな『簡単な』ことなのならば。
「わかりました。書いておきます」
「そうかい、助かるよ。ああ、そうそう。その呪符。『まっとうな』生き方を外れたら、容赦なく効力がなくなるからね。僕はいつでも見ているんだから」
果たして、本当にその呪符に坂野の力が宿っていたのか。それを確かめることができるのは、坂野以外には存在しない。
だけれど一井は、この日を境に、まっとうな道を歩んでいく。
第三章 呪われた家族
お母さんから聞いた話だ。私の家には代々決め事があって、私もいつか、それを受け継ぐ。とあるアプリにとある名前を書き込むだけの、簡単な仕事だ。
メリメリメリ、ぢりぢりぢり。
嫌な音とともに痛みが走る。最初は顔だけだった。
丑三つ時。彼女はいつも金縛りにあう。毎日毎日、同じ時間に。それがもう、二十日。
そうして、金縛りにあうと必ず、その枕元に少女が現れるのだ。
『ああ、本当にアナタのお顔って、素敵ね』
少女はうっそりとした表情で、だけれど、その表情からは想像もできない行動を起こす。
鋭くとがった爪が彼女の顎にめり込む。そうしてメキっと皮を毟りとり、そのまま顎から額にかけて、ゆっくりといたぶるように彼女の顔の皮が剥がされていくのだ。
「いぁあぉあぁああああ!」
『ねえ、痛い? 痛い? ねえ、素敵。素敵だよ』
少女はキャッキャと楽しみながら、彼女の顔の皮を剥がしていく。
ベリベリ、メキメキ。
相当の力だ、少女のものとは思えない力で、彼女の顔の皮が剥ぎ取られていく。
「いゃあああぁぁああ!」
『あはは、ねえ、ねえ。痛いのね、かわいそう。アナタって呪われているのよ』
丑三つ時。午前二時から二時半にかけて、三十分にわたって少女は彼女の顔の皮を、時には全身の皮を剥きむしっていく。
その時間、家族は絶対に彼女を助けることができない。
「愛!」
丑三つ時になると、どういうわけか愛の家族は睡魔に襲われる。愛が少女に皮をむしりとられている三十分間、愛の家族は絶対に愛を助けることができない。それすら呪いの一部なのである。
丑三つ時が過ぎると、愛の家族は目を覚まして、愛の部屋へと駆け込む毎日だ。
「お父さん、お母さん……!」
涙にぬれた瞳の周りの皮膚は、赤黒くただれており、首から下も昨日よりさらにさらにただれが広がっている。
最初はだれも信じていなかった。愛自身も。
愛の自宅のポストに、とある手紙が入っていた。プリントされた紙には、「呪ってやる」ただ一言、そう打ち込まれていた。
最初は単なるいたずらだと思っていた。愛はごく普通の会社員だ、誰かから恨まれるようなことをした覚えはないし、そもそもこんな子供じみたいたずらに動じるような人間は、この世界に存在しない。なぜなら、誰もが呪いなど信じていないからだ。
しかしながら、その手紙を受け取った日から、愛は毎日金縛りにあうようになった。そして、あの少女だ。
最初は顎に爪を立てるだけだった。それが、日を追うごとに皮を剥ぎ剥くようになり、今では顔だけでなく全身の皮という皮を毎晩のように剥きとられている。
「どうしよう。あの呪詛探偵もダメだった」
先日、愛たち家族はとある呪詛探偵に呪詛主の探索依頼を出した。探偵は、呪詛主を突き止め懲らしめたといっていたが、実際また、あの少女が現れた。
剥がれた皮膚がひりひりと痛む。だが、愛はそれどころではない。早く呪詛主を見つけなければ。
「愛。明日の呪詛探偵さんは本物だって噂だ。予約だって十日も待ったんだ。特例で十日で予約を入れてもらえたんだから、きっと今度こそ本物だよ」
父親が苦しそうな表情をしている。母親は、ただれた皮膚を少しでも軽くしようと、氷枕を愛の体に当てている。
一体この子がなにをしたというのだろうか。
愛が呪われてから最初の三日は両親も信じてくれなかった。四日目の夜、両親は愛と一緒に寝ることとなった。一緒に寝れば、愛もその不可思議な夢を見なくなるだろう。そう思ったのだが、そうもいかなかった。
両親と愛の三人で部屋で待機する中、どういうわけか丑三つ時――午前二時になると両親はどうしても起きていられない。まるでなにか見えない力が働くかのように、両親は丑三つ時になると愛の傍から強制的に離された。
それが睡魔であることもあったし、玄関のチャイムに呼び出されたり、近所のおばさんに呼び出されたり。
どうやっても、丑三つ時になると愛はひとりの状況を『作らされた』し、丑三つ時を過ぎて愛のもとに駆け寄ると、愛の皮膚のただれが前日よりもひどくなっているのだ。
そうして両親も愛の言葉を信じるに至った。
「あの子――少女が私の顔の皮を剥ぐの。これは呪いだって、私は呪われてるんだよって言いながら」
両親も、愛自身も、どうにかして呪いを解かんと必死になっていた。日に日に顔のただれはひどくなり、ここ一週間は仕事も休んでいる。
見るも無残な顔に、愛は自分の顔を見ることをやめた。
そうして最後の頼みで呪詛探偵のもとを転々としているのだが、なかなか『本物』に出会うことができずにいた。もう十件も回っているというのに、愛の呪いは日に日にひどくなるばかりだ。
「今回は本物だったらいいな……」
「大丈夫。愛、大丈夫だから」
「そうだ、愛。希望を捨てるな」
有名な呪詛探偵だと聞いている。評判も良く、確かに呪詛主を探し出してくれる、そんなプレビューも数知れず。
このひとになら。毎回そんな望みを持って依頼に行くのだが、結果から言うと、どこも『似非』だ。
だから、か。
「お嬢さん、呪われてますね」
翌日、呪詛探偵の依頼の帰り、父親と母親と合流した愛の前に現れたその男に、愛はうんざりした顔を向けることしかできなかった。
「私のただれた顔がそんなに面白いですか」
「あれ? 君って呪いを解く方法を探してるんじゃなかったの?」
シャララ、と、男は首から下げた大きな鈴を鳴らしながら、愛たちのもとに歩み寄る。その足元には『毛むくじゃらのなにか』がわふわふと無邪気に走りまわって、ほえている。
「冷やかしはやめてもらえますか」
「あれ。お父さんまで。嫌だなあ、僕はさっきの探偵と違って、『似非』じゃあないですよ?」
「アナタ。警察呼びましょう」
「お母さんまでひどいなあ。僕ってそんなに胡散臭いです?」
ひょうひょうとした男に、愛たち親子は怪訝な目を男に向けた。男はやれやれと肩をすくめて、足元の犬を腕に抱きあげる。
「君たちは呪われてる。この子の案内が外れることはないんだけどなあ」
「やめてもらえますか。娘のことをどこで知ったのかは知りませんけど、これ以上からかうのなら――」
父親が携帯を取り出して一一〇番をかかける。その携帯を母親に渡し、父親は男に一歩詰め寄った。
はずだった。
「僕は坂野。坂野弘彦。しがない陰陽師なんですけれどね」
詰め寄ったはずだった。家族をかばうように一歩前に出て、男――坂野を威嚇したはずだった。それなのに、なぜ坂野は父親の背後――愛の隣にいるのだろうか。
父親はばっと坂野を振り返る。
「おっと、暴力はよくない」
そうして、坂野に悟られないように拳を振り上げたのだが、坂はけろりとした顔で、その拳を左ほおに受けた。
坂野の顔が右に傾く。唇は切れ、血が流れていた。
「お父さん、いくらなんでもやりすぎ……」
「いいや、この男は俺の娘を馬鹿にし――」
坂野の唇の血が、逆再生のように傷口に戻っていく。それどころか、殴られて赤くなった頬すらも、何事もなかったかのように元の色に戻っていく。
夢でも見ているのだろうか、あるいは、この男は人間ではないのかもしれない。
父親の背中に隠れるように、愛と母親が後ずさる。だが、存外父親だけは冷静だ。
「アナタ……本当に娘の呪いについて、知っているんですか?」
「最初からそう言ってるじゃないか。アナタの娘さんは呪われているって」
けろっとした顔で、坂野が言う。いつの間にか、腕に抱いていたあの『けむくじゃら』はいなくなっていた。足元にもいない、辺りを見渡してもどこにもいない。
「さっきの犬は……?」
「ああ、たんさくん。彼はここにいますよ?」
坂野がパチンと指を鳴らすと、ふわっと坂野の足元に『たんさくん』が現れる。
わふ! わふ! と吠えながら、愛のほうに向かって声を張り上げている。
「彼は呪いをたどることができる、僕の相棒でね。お嬢さんをしきりに気にしているから、呪われているのがお嬢さんだということはすぐにわかったんですけど」
坂野の表情がやや曇る。神妙な面持ち、とはまた違う。
どこか憂えるような、そんな表情である。
「お嬢さんだけじゃない。お父さんもお母さんも。そのうち呪いが発動するでしょう」
だけれど、その声ははっきりとしたもので、躊躇とかそういった類のものは一切ない。はっきりと、残酷な言葉をなんのためらいもなしに言ってのける。
父親は、一瞬だけ思考を巡らせたが、坂野のほうを、そして愛娘を見ると、
「立ち話もなんですし、ウチに来て、お話を聞かせてください」
坂野を連れて、自宅へ帰ることにする。
いまだ愛も母親も不安げで、坂野のことは信じ切れていないようだが、父親だけは違っていた。
それはもしかすると、なんとしても娘を救いたいという、親心だったのかもしれない。
愛の家は、大分ほこりが溜まっていた。この二十日ほど、母親も父親も愛につきっきりで、掃除も洗濯も、食事さえもままならないのが現状である。愛に至っては、ただれた皮膚の痛みと、なにより醜くなったショックから、食事も喉を通らない。
そんな汚れた部屋に通された坂野は、まるで子供のように、
「相当疲れてますね。掃除もできないなんて」
無遠慮にそう、こぼした。
普通であれば、初対面の、なにものかもわからない男にそのようなことを言われたら、気分を害していたに違いない。だが、今この場に、坂野を責めようと思うものはひとりもいない。
リビングに通された坂野はソファに座り、目の前にいる父親に単刀直入に本題を切り出す。
「お嬢さんは呪われています」
「それはさっきも聞いた。この呪いは、どうやったら解けるんですか」
「ああ、呪いを解く方法ね。ごめん、それは僕では力が及ばないんだ」
ガタタ! っと父親が立ち上がり、坂野の胸ぐらをつかむ。ここまでもったいぶっておいて、そんな答えなど、誰だって腹が立って当たり前だ。
しかし、坂野はなんら動じることはない。胸ぐらをつかまれたまま、だけれど口調は先ほどのままに、返す。
「でも、方法はあります」
「方法?」
「はい。ひとつは『呪詛返すんです』で呪詛返しをする方法。もうひとつは」
「呪詛返し? それは私たちも調べた。そんなことができるのなら、端からやっている!」
「ちょ、お父さん落ち着いて。胸離してください。声が出ない」
ここでようやく、父親が坂野の胸ぐらから手を放す。隣にいた母親に諭される形で、仕方なしに離した形だ。
坂野は胸元の崩れを正しながら、やはり調子を崩すことはない。
「だから、『呪詛返すんです』ってアプリがあるんです。『呪詛るん』で呪われたひとたちを救済するために開発したアプリです」
「『呪詛返すんです』? その口ぶりだと、さもアナタが開発したみたいな言い方ですね!?」
「ああ、ご名答。さすが話が早い」
坂野がにぱっと笑うも、パシン! と坂野の頬に、平手が飛んだ。愛である。
今まで黙っていた愛が、とうとう我慢の限界を超えて、坂野の頬をひっぱたいた。
「アナタのせいで私たちがどれだけ苦しんだと!」
「愛、やめなさい」
ふうふうと息を乱す愛を、母親がなだめる。しかし、その目は怒りに満ちており、視線は坂野に注がれている。
居心地が悪い。だけれど、これでいい。坂野はふうっと息を吐き出す。
「すみません。若気の至りでした。僕は陰陽師で、呪詛るんで呪われた人間が、僕に泣いて助けを乞えばいい。そう思って、呪詛るんを作りました」
「そんな、そんな身勝手な理由で! 私が、お父さんが、お母さんがどれだけ!」
愛からの罰を、坂野は甘んじて受ける。
「そうだ。身勝手だって気づいた。すぐにね。だけれど、呪詛るんを作るにあたって契約した『呪いを運ぶ式神』――君も見たと思うけれど、あの少女は、ひとの悪意を自らの力に替える式神なんだ」
その式神が、ヒトの悪意を一気に食らった。呪詛るんは開始直後から爆発的に流行った。ひとの悪意は底がない。
呪詛るんを使う人間の悪意を、あの少女はあまた食らった。
「悪意を食らった彼女の力は、僕をはるかに凌いでしまった。それは今も変わらない」
「……それで、アナタはその式神に対抗できる手段として、『呪詛返すんです』を開発したと?」
「はい、そういうわけです。ちなみにさっきの犬、彼は『たんさくん』といって、呪詛探索アプリの契約式神です。今日アナタたちが頼みに行った呪詛探偵が使っている、奥の手ですね」
坂野の説明を一通り聞いて、父親はどっかりとソファに腰を据えた。途方もない話だ。式神だの、呪詛だのと。
「ごめんね、筧愛さん。本当は僕が死ねば式神も契約無効になるのだけれど。あいにく僕は、『呪詛るん』の式神に、逆に呪われてしまってね。不老不死になってしまったんだ」
さきほど、外で父親が坂野を殴った時、時を逆巻いたように坂野の傷が治ったことを、愛は思い出した。なるほど、坂野自身ももう十分に罰は受けた。
それはわかっていても、どうしても愛には許せなかった。
「筧愛さん。僕を許す許さないは今は置いておいて。アナタたちには選択肢がある」
坂野が前のめりに話題を戻す。父親も母親も、愛も。坂野の言葉に耳を傾ける。
「ひとつはさっき言った通り、『呪詛返すんです』を使うこと。もうひとつは、呪詛主に呪詛をやめさせる方法」
「呪詛をやめさせる?」
「そう。丑の刻参りってね、効果が出るまで毎日続けなきゃならないんだ。それに、呪詛るんは、呪詛主の呪詛力によって、効果が発動するまでの日数にばらつきがあるんだ」
坂野は膝の上にのっている『たんさくん』を撫でる。いつの間にいたのか、愛も両親もわからない。しかし、最初からいたのだろうと、誰もなにも言及しない。
たんさくんがふんふんとなにかを坂野に伝える。
「君の呪いはあと五日。あと五日で完成する」
「五日……じゃ、じゃあ、私はどうすれば」
愛が動揺する。父親も決めかねているようだ。今すぐ究極の二択の答えをだせ、そういわれて、即答できる人間は少ないだろう。
仮に呪詛返すんですを使ったところで、その呪詛は呪詛主に返ってしまう。それは、もしかしたら、呪詛主に愛と同じか、それ以上の呪いが返ることを意味するだろう。
かといって、呪詛をやめさせるとしても、再び呪いをかけられる可能性も捨てきれない。
迷う。
しかし、母親だけは違った。
「呪詛返すんですを使いましょう」
「お母さん!?」
「オマエ……」
母は強しとよく言うが、まさに愛の母親は、娘のためなら汚れ仕事でもなんでもする覚悟である。
母親が立ち上がり、前のめりに坂野に問う。
「『呪詛返すんです』について、もっと詳しく教えてください」
「ああ。わかりましたよ。アナタならそう言うと思っていました。それからもうひとつ。この呪詛には、『ふたり』の人間がかかわっています。筧愛さんを直接呪っているほうは、お母さんに任せます。けれど、もうひとり、より強力な呪詛を行っている『彼女』に関しては、僕に一任してもらえますか?」
果たして母親は、呪詛返すんですにその人物の名前を書き込んだ。
とある一軒家の一室。
筧愛とは面識もない、とある女性の自宅である。
「死ね、死ね、死ね!」
丑三つ時、呪詛るんのアプリを起動すると、そこには『個人情報』を書き込む欄が表示される。そこに知りうる限りの個人情報を書き込んで、『実行』ボタンを押す。
しばらくすると、画面に藁人形の写真が表示される。その藁人形に五寸釘の写真を打ち込む。
それだけで呪詛るんの呪詛は完成する。
これを、丑六つ時に毎日行う。例外として『あるひと』は丑三つ時以外でも、この呪詛をかけることができるのだが。
たいていの場合、呪詛の発動までに一カ月ほどの時間がかかる。そして、一カ月も時間をかける割には、呪詛の力はほんの少しで、よくて階段から落ちる程度、多くは、日常生活に支障が出ない程度の呪いしか発動しない。
しかし、例外がある。
「ふふふ、今日も苦しんでるかなあ」
呪詛るんを起動して、五寸釘を打ち込んだ女が笑う。
この女は愛とは面識もない人間だ。ただし、女のほうは愛のことを知っている。
愛のSNSがたまたま目に入った。幸せそうな日常、可愛がられている様子。
それだけだ、本当に、それだけ。
女は日常のうっ憤を、愛で晴らそうとした。
最初は自分一人で呪詛を開始した。けれど、女の呪詛力では、そうそう愛にダメージを与えることなどできなかった。だから女は、ある手段をとった。
「やあ、丑の刻参り、ご苦労さま」
「!? アンタ、どこから」
「僕は坂野。陰陽師の坂野弘彦。でもさあ、佐藤かえでさん。君って本当にたちが悪い」
坂野は女――かえでの部屋を我が物顔で歩いていく。かえではすぐにピンとくる。この男は、『呪詛』に関係する人間だ。
でなければ、かえでが今、『丑の刻参り』をしていたなどと、言い当てられるはずがない。
見られたからには、始末しなければ。
「不法侵入ですよ? 警察呼びましょうか」
「やだなあ。そんなこと無駄だって君も気づいているくせに」
「ああ。そう。そうね、それもそうだ。じゃあ、あなたの名前、書きこませてもらうわ!」
かえでは手に持っている携帯に、坂野の名前を書き込んでいく。漢字が分からなくとも、今目の前にいる坂野の写真を撮れば、それなりに呪いの効力は現れるだろう。かえでは素早くカメラを構え、坂野の写真をスマホで撮る。
そのままその写真を呪詛るんにアップロードして、表示された藁人形に五寸釘を打ち込んだ。
「ぐっ……!」
苦しそうに坂野が膝をつく。かえでは甲高い笑い声をあげ、坂野を見下ろしさげすんだ。
「馬鹿ね。本当に馬鹿。名前を名乗った上に写真まで撮らせて。呪ってくれって言っているようなもんでしょ!」
あははは、きゃははは。
狂ったかえでの笑い声が響く。
「あーもう、痛ったいなあ。やっぱり、呪詛力の強い呪いは、僕でも痛いんだね」
「……は?」
けろりと立ち上がった坂野を見て、かえでは唖然とする。
確かに呪いは届いたはずだ。しかも、今のかえでの呪詛力は、それなりに高い。坂野の本名と写真を書き込んだとなれば、呪いの効力も高くなってしかるべき。
それなのに、坂野にはなんら体に変化があるわけでも、災いが降りかかるわけでもない。
「言っておくけど。君が依頼した『彼女』。あの子の呪いは、僕がなんとかしちゃうから。残るは君の呪いだけど」
「ちょっと待って。なんでアンタ、なんともないのよ」
「ああ、僕? あーもう、このくだり面倒だな。僕は不老不死で、呪詛るんを開発した陰陽師だからね。いろいろあるんだよ。それでね」
坂野はやれやれと肩をすくめながら、かえでを指さす。
「君には、もうすぐ『呪詛返し』がなされる」
「え、え。ちょっと、呪詛返し?」
「そう。君の名前は、もうすでに彼女のお母さんに伝えてある。今頃書き込んでるんじゃあないかな」
「待って、呪詛返しなんて聞いてない。私はただ、ただ、あの女に少し痛い目見せたかっただけで」
「ふうん。痛い目見せるためだけに半年にわたって彼女に呪いをかけるわけ? まあ、彼女の呪いは君が依頼した『あの子』からのものがほとんどだけれど。でもね、『呪詛返すんです』は依頼した呪詛主の分の呪詛力も、悪意を向けた張本人に返るようにできているんだ」
矢継ぎ早に説明されて、かえでは理解が追い付かない。聞き返したくても、それはかなわない。
かえでの体に、痛みが走った。
ズキン、ズキンと走る痛みは、もしかしたら、これが呪詛返しなのだろうか。恐怖するかえでを横目に、坂野の姿が消えていく。
「待って、待って。私を助けて。反省してる、呪詛返しなんて聞いてなかった」
「今更もう遅いよ。君みたいな人間には、罰が必要だね。無差別に悪意を持つ君みたいな人間には」
そうして坂野が部屋から消える。
かえでは取り乱す。呪詛返しとは、どの程度のものなのだろうか。よもや、命にまで及ぶのだろうか。それとも、愛のように『あの少女』に皮を剥ぎ取られるのだろうか。
「い、やぁぁぁあああああ!」
机の上に置いてあるカッターを手に取って、かえでは『式神』を殺さんと暴れる。だが、その部屋には誰も『いない』。
「アンタ、夜中になに騒いでる――」
隣の部屋に寝ていた母親が、かえでの様子を見に来る。しかし。
サク。
かえでが振り回していたカッターが母親の胸に突き刺さる。事故だ、これは、事故だ。
殺そうとしていたわけではない。自己防衛のためだった。もっと言えば、かえでは『正気じゃなかった』。
だけれど、それをいくら警察に相談したところで、警察は呪いも、呪詛返しも、坂野のことも。
かえでの言い分を信じる者は誰一人としていなかった。かえでの父親もしかりである。
かえでが一番大事にしていたもの、それはもしかすると命よりも、世間体だったのかもしれない。
しかして、かえでに降りかかった災いが、呪詛返しによるものなのかは、誰にもわからない。
愛のただれはみるみるよくなっていった。あの男――坂野は『本物』だったのだと、愛も父親も母親も、坂野に感謝してもし足りない。
ただれが収まってからしばらくたったころのことである。
「やあ、お嬢さん」
「あ。坂野さん。ずっとお礼を言いたかったのに、住所もなにも知らなくて!」
すっかり皮膚もきれいに治った愛と、一緒に買い物に来ていた母親の前に、坂野がひょっこりと顔を出した。
坂野は愛の顔を指さして、
「マスクをとったらそんなに美人だったなんてね。もうすっかりいいみたいだね?」
茶化すように言った。
愛も母親も、坂野の言葉に朗らかに笑い、改めて親子ふたりで坂野に頭を下げる。
「本当に、なんといったらいいのか」
「いえいえ。こっちもただで慈善事業してるわけじゃないんで」
ふっと坂野の雰囲気が変わる。その目が暗く濁ったことに、愛も母親も気づかないほど鈍感ではない。
慈善事業ではない。つまり、もしかすると金銭を請求されるのではないか、そう覚悟した親子だったが、存外、坂野の言葉は的外れなものであった。
「『呪詛るん』に、僕の名前を書いてほしいんです。できればアナタたちが死ぬまで毎日」
「え……。でも、それじゃあ、坂野さんが呪われて……」
愛が困惑気味に答える。坂野はにぱっと表情をやわらげた。
「大丈夫。今すぐ死んだりっていうのは無理だと思う。なにせ僕、不老不死だから。でも、アナタたちのように、呪詛にかかわり、呪詛力が上がってしまったひとたちが、僕の名前を呪詛るんに『書き続けて』くれたら、あるいは僕も、死ねるかもしれない」
愛は思い出す。
坂野は呪詛るんを作り出してしまったことを後悔している。だからきっと、愛のように呪われた人間を助けてくれるのかもしれない。不老不死になったことが自業自得だとしても、下心があるにしても、ひとを助けることは尊いことであるし、苦しいことでもあると思う。
不老不死になってどのくらい生きてきたのか、愛には計り知れない。
「でも、私……ひとを呪うなんて……」
「私が書きますよ。他でもない、坂野さんの頼みなら」
坂野の口が弧を描く。
「お母さんならそういってくれると思いましたよ」
「お、お母さん。いくら坂野さんのためって言ったって、呪詛るんなんて使ったら……」
愛が母親を止めるも、母親は大きく首を横に振った。
「もとより、私は『呪詛返すんです』を使いました。今さら自分だけきれいなままでいられるはずもない。それに、あなたが死ななければ、今後も呪詛の被害が消えないというのなら、私は喜んで手を汚します」
坂野は再び、笑った。
安堵と、喜びと、申し訳なさの入り混じった笑みだった。
「本当に、助かります。ありがとう、ありがとう」
母親のわきで、愛が唇をかみしめている。
だけれど、それがどうした。坂野の姿が消えていく。いつものように、気まぐれに現れて気まぐれに消える。
坂野には、やらなければならないことがある。自分は死ななければならない。そうしなければ、この世界から呪詛るんはなくならない。ひとの悪意はなくならない。
それに、坂野が死ねば、『あの契約』が発動される。坂野の悲願だ、この世界を変えるために、必要な――
第四章 呪う女
お母さんは、年老いてボケた。いつもありもしない作り話を僕らに聞かせては困らせる。そんなもの存在しないよ。何度も何度も同じ話を聞かされる度に、僕らはその話を否定する。本当は、認知症の人の妄想って、否定も肯定もしちゃいけないらしい。
毎朝、毎日。少女は起きてすぐに、アプリを起動する。
呪詛探索アプリ。
少女は呪詛探索アプリのヘビーユーザーにして。
「ひゃあ、今日の依頼十件とか!」
呪詛るんのヘビーユーザーである。
きっかけは些細なことだった。クラスでも成績優秀な女子生徒が、教師に褒められるのを見て嫉妬した。だから、呪詛るんにその子の名前を書き込んだ。
毎日、毎日だ。
普通の人間であれば、途中で怖気づいたり飽きたりするものを、少女は毎日飽きもせず、根気よく呪詛るんに彼女の名前を書き続けた。
その効果だったのか、あるいは偶然だったのか。
呪詛るんに書き込み始めてから実に半年、彼女は階段から落ちて大けがをした。
今にして思えば、それは大いに偶然であったに違いないのだが、その日以降、少女は呪詛るんの虜になった。
そして、一年間、毎日毎日、飽きもせずに誰かを呪い続けた。ちょうど一年目のことである。
アプリからのメッセージが届いていた。その内容は、
『おめでとうございます。呪詛るんの裏設定がご利用できるようになりました。呪詛探索アプリからの検索避けをして、よりよい呪詛ライフを!』
少女はそこで初めて、呪詛探索アプリの存在を知った。そして、その日から呪詛探索アプリを併用するようになった。
なにより、少女はこの時点で、呪詛るんの悪用方法を思いついてしまったのだ。
とあるアカウントがある。捨てアカウントなのだろうが、内容が物騒だ。
『呪詛代行、請け負います』
TLとプロフィールにはその一言だけが書かれており、知るひとぞ知るアカウントとなっている。
このアカウントこそが、あの少女のアカウントである。検索に引っかからないで呪詛るんを使用することができる。
少女はそれを悪用して、呪詛を代行する小遣い稼ぎを思いついた。
最初はそれこそ、月に何件かの依頼しか来なかった。しかし、この時点で少女の呪詛力はそれなりの力があったため、依頼された呪詛の効力は普通の人間に比べれば、何十倍、何百倍もの威力を持っていた。
「今日は三件。二週間……念のため一カ月見てもらおっか」
依頼主に返信する。
少女の呪いは大概二週間ほどで完成するが、念のため一カ月の猶予期間をもらっている。そして、報酬は前払い制だ。
それから、一番重要なのは、少女のアカウントを呪わないこと、途中放棄はできないこと。
ルールはたったそれだけである。
「しっかし、夏休みだけでどれだけ稼げるんだろう」
暇を持て余す少女は、近場のコンビニでお気に入りの氷アイスを買って、食べながら帰路を歩いている。
真夏の真昼間から、呪詛について思いをはせる女子高校生がいるなどと、よもや誰が思うだろうか。
「森野花江さん」
「んえ?」
無防備に少女――花江が振り返る。
シャララ。
鈴の音が花江の耳にいやに響いた。なにより、花江を呼び止めた男は、不審な男に違いなかった。
太いしめ縄を首から下げて、その先端には鈴がぶら下がっている。大きな鈴だ。特注だろうか。
花江はじりじりと後ずさる。ふらっと出かけてきたため防犯ブザーは持っていない。だとしたら、大声を出すか走って逃げるか。
周りを見渡すも、人通りは少ない。やられた。
花江は迷うことなく走り出す。
「ったく、なんなのよ、ついてない!」
だけれど、花江はもうだいぶ度胸がある。愚痴をこぼせるくらいにはどこか他人事のように、その男から逃げおおせた。
両親は共働きで、昼間は花江の家にいない。だから、花江はいつもひとりだ。隣の離れに祖母が住んでいるが、最近は顔もあわせない。花江も思春期であるし、花江の両親も知らん顔だからだ。
せっかくアイスを食べて体が冷えたというのに、あの不審者から逃げるために走ったせいで汗だくである。少し早いが風呂にでも入ろうか。
そんなことを考えながら、花江は自宅の玄関を潜り抜けた。
「お帰り」
「……は?」
しかして、その先にいたのは、例の不審者である。
花江は今潜ってきた玄関を再び開けて外に逃げようとする。しかし。
「逃げても無駄だって。僕は坂野。坂野弘彦。しがない陰陽師なんだけれど」
玄関を潜り抜けた先にも、あの男――坂野がいた。一瞬で移動した、と考えるのが自然であるが、果たしてそんな非科学的なこと、あり得るのだろうか。
「アンタ……何者?」
「ああ、若いわりに飲み込みが早いね。実は、君が使っている呪詛るんについて、話があるんだ」
坂野が単刀直入に切り出すと、花江はすべてを理解したように、「ふうん」とうなる。
「アンタ、『あの子』と同系列?」
「『あの子』?」
「そう。呪詛るんちゃん」
「へえ、森野花江ちゃん。君って呪詛るんの式神が見えているんだね。それもはっきりと」
これは誰にも話したことはない。花江にはあの少女が見える。呪詛るんの『呪いを運ぶ式神』だ。
だが、花江はそれに対してなんら感想も感動も抱いていない。
呪詛るんの呪いがどのように運ばれるのか、ずっと気になっていた。きっと目に見えないなにかが運んでいるのだろうと思ってはいたが、まさかそれが、少女だったとは思いもしなかった。
その少女は、花江によくなついていた。毎日『今日は誰を呪うの?』などと、いい話し相手になっていたほどである。
共働きで両親がいない部屋で、式神の少女と話す。
花江にとってそれが、もう当たり前になっていた。
「『彼女』を呼んでもらえるかい?」
「無理だよ。あの子はいつもふらっと現れてふらっと帰る。それに、アンタには教えたくない」
「なんでよ。ケチ」
「なんでも。私の勘がそう言ってる」
なるほど、この子には素質がある。坂野はそう思うも、さてどうやって諭そうかと思案する。
現状、花江にとって呪いによる不都合は一切ないのだから、呪詛をやめてくれと頼んだところで、それは却下されるだろう。そもそも、花江は呪詛で商売をしているわけだから、そう簡単には呪詛るんを手放すわけもない。
「そうだなあ。じゃあ、僕に付き合ってよ」
「は? 付き合うとか……お兄さん、本当に不審者なの?」
「失礼な子だな。いいや、もう。ちょっと来てよ」
坂野が花江の手を握る。そうして、右手を胸の高さまで上げて、人差し指と中指を立てる。
一瞬のことだった。花江には抵抗する余地すらなかった。
「え……?」
ぐわん、と目の前の景色がゆがんだかと思えば、花江はもう、『そこにはいなかった』。
松坂武雄。
例の少女によって毎晩夢でうなされている。彼は花江が呪詛るんで呪いをかけている最中の男の子である。こうして姿を見るのも、彼が同い年であることも、花江は今初めて知る。
頭の中に流れてくるのだ。
武雄は夢の中で足を圧迫されている。うっ血した足、膿んだ足、痛み。つらい気持ち、恐怖に脅かされる毎日。
この子はそうだ、今朝からずっと連絡が来ている。呪いの依頼を取り消してほしいと。
だけれど花江はそれを突っぱねた。今ここで呪いをやめれば、武雄が呪詛返しをしかねない。だから花江は、依頼主の言葉を無視している。
筧愛。
普通のオーエルだ。彼女もまた、花江が呪詛るんで呪っている最中の女性である。その情報が、なぜだか頭に流れ込んでくる。こんな顔をしたひとなのか。こんな家族と過ごしているひとなのか。
最初は愛だけの依頼だった。だけれど最近は、その家族も一緒に呪ってくれと依頼内容が変更された。変更に当たり依頼金は三倍になった。もちろん、二つ返事で請け負った。
そして、彼女が毎夜金縛りにあい、どんなふうにあの少女にいたぶられているのかを知った。なんなら、痛みすら伝わってきた。
脂汗が流れる。
高野一井。
彼は直接依頼を受けて呪った人間ではない。よく覚えている。花江が久々に危機感を感じて、自ら呪いをかけた人間である。
しかし、一井は悪徳の探偵、懲らしめても罰は当たらないのではなかろうか。花江はどこか他人事である。
現に、一井にかけた呪いは『一日のみ』である。単なる脅しだ、筧愛の件で『呪詛探索アプリ』を使った一井への、けん制である。
呪詛検索アプリを使えば、当然そこに呪詛の力が働く。つまり、呪詛探索アプリを使った人間は、呪詛検索アプリで検索されると、その名前が割れてしまう。
一井はそこまで呪詛探索アプリに詳しくなかった。だから花江に呪い返された。
花江は、呪詛探索アプリで毎日、自分の名前以外に、呪詛対象の名前も検索する。
例えば、筧愛の名前を検索して、呪詛探索アプリに誰かの名前がヒットすれば、誰かが筧愛に対して呪詛――呪詛探索アプリを含む――を使ったことになる。
同時に、自分自身の名前を検索してヒットすれば、誰かが花江に対して呪詛を使ったことも確認できる。
花江が最も恐れているのは、呪われる側の人間が、第三者を使って、あるいは自分自身で呪詛探索アプリを使って花江の存在を探り当てることだ。
しかし、花江は現状、呪詛るんの裏設定により、呪詛検索アプリには名前が表示されない設定になっている。
しかして、『筧愛』で検索して、『高野一井』がヒットした。つまり、高野一井という人間が、筧愛を呪った、あるいは呪詛探索アプリで検索をかけた。
花江はすぐさま『高野一井』をネット検索する。今の時代、SNSやネットを使えば、個人情報など簡単に調べ上げることができるのだ。
結果、高野一井は『呪詛探偵』だった。だから花江は、ためらうことなく呪詛るんにその名前を書き込んだ。その呪いが軽くすんだのは、花江が一井に呪いをかけのが『昼間』だったからである。呪詛力の高まった人間に限り、丑三つ時以外の呪いでも呪詛の力は発揮される。これは呪詛るんのヘビーユーザーである花江だからこそ知りうる使い方だ。
それが花江にとっての日常である。
時には、まったく無関係の人間を『けん制』と称して呪ってしまうこともあるのだが、それも大体一日で終わらせる。
花江の呪いはそれだけ強力で、一回の呪いだけでも相手に十分な恐怖を与えられるからだ。
だから、興味本位、あるいは友人や家族から相談を受けて、呪詛探索アプリを使った人間の名前を呪詛るんに書く、という行為は、花江にとって息をするのと同じ感覚でできてしまうのだ。
そして、呪詛探索アプリなんてものを使ったその夜に、怪奇現象に襲われたとなれば、大概の人間はもう二度と呪詛とかかわらなくなる。
それからあとひとり、花江は呪いをかけている人間がいる。最近売れ出したタレントだ。だが、この男はやりたい放題で、それこそ敵を多く作り出すような芸風である。
花江自身も、この男は呪われても仕方がないのではと思うほどだ。だから、呪詛代行の依頼が来たときは、なんら驚くことはなかった。それどころか、少しお灸を据えて、大いに自分の不遜な態度を改めればいい、そんな思いさえあった。
男もまた、呪いに毎日を蝕まれ、どこか気だるげな表情を浮かべている。しかし花江には、それが悪いこととは感じられない。
男の辛さは伝わってくるが、それ以上に男の『醜い部分』も花江に伝わってくるのだ。
呪詛を行うことはあれど、呪われる側の気持ちを考えたことなど、花江にはなかった。
気づくと花江は、『そこにいた』。
自分の家の玄関である。
ペタンと地面に尻をつく花江を、坂野が無表情に見下ろしている。
「森野花江ちゃん。少しは呪われる側の気持ち、わかったかい?」
「……なにが、悪いことなの?」
花江は立ち上がり、坂野をにらみ上げた。全く臆することなく、なんら悪びれる様子もなく。
「だって、法律で『呪い』は禁止されてないじゃない。そもそも、私が殺したって証拠はあるの? 私が手を下したっていう証拠は」
「……はあ。そう、そうだよねえ。君みたいな子供が、そう簡単に『罪』を認めるなんて思っていないよ」
坂野はふうっと大きく、わざとらしくため息をつく。そうして、自身の携帯を取り出すと、
「じゃあ、君が今までに呪いをかけたひとの分。全部上乗せして、僕が呪詛返ししてあげようか」
「……ふん。脅したって無駄。呪詛返しは本人か、呪いを受けている人間に近しいひとがやらなければ、その効力はない。『呪詛返すんです』はすでに検証済み」
「へーえ。そうかい。そう。じゃあ、書いちゃうけれど」
「……そんな脅し、きかないんだから!」
花江は半ば強引に坂野を玄関の外に押し出して、そうしてバタンと玄関のドアを閉めた。
その、夜のことである。
花江の家族は、徹夜の仕事が入ったとかで、今夜はふたりとも帰れなくなった。
だが、だからどうした。花江は丑三つ時に備えて仮眠をとる。もうだいぶ、こんな生活だ。
午前二時に起きるために、早めに就寝する。丑三つ時になったら、依頼されている分の呪いを実行して、二時半までにすべてを終わらせる。
丑の刻参りが終ったら、また何事もなかったかのように眠る。
花江の生活は、もうだいぶ狂っている。
『あーあ。ねえ、なんで見つかっちゃったのかなあ』
少女の声が聞こえる。普段、夜に現れることはない、あの少女の声だ。
花江は明るく少女の声にこたえようと思ったのだが、ギシリ。その体がベッドに横になったまま動かない。金縛り、というものらしい。
ぴちゃ、ひたり。
少女の手が、花江の体を触りまわる。
『何処かなあ、どこにしようかなあ』
少女の声が、心なしかいつもと違う。いつもは無邪気な、ただの子供のような明るい声であるというのに、今日の少女は、どこか恨みがましい、あるいは、憎々しさをこらえるような、そんな声である。
『あー、ここにしよっか』
少女の手が、花江の胸にあてられる。そこでようやく、花江にも少女の表情が見える。
笑っている。
確かに笑っているのだが、その口は耳まで裂け、鋭い犬歯がギラリと光っている。
眼は大きく見開かれ、おかっぱの髪の毛もぼさぼさに乱れている。
そして、花江の胸にあてられた少女の手の爪は、今までにないほどに鋭くとがり、花江の胸に突き立てられている。
サクリ。
少女の爪が、花江の胸の肉を切り裂いた。
「痛っ、なに、するの……」
『だって、だって、だって。だって! アンタはへまをした。アイツが来た、アイツに見つかった。アイツが来たら、私はもう、ここにはいられない!』
少女の爪が、さらにさらに花江の胸に刺さりこんでいく。
「アイツって、だれ……」
『アイツ、坂野。アイツは私を消そうとしてる……アイツのせいで、呪いが跳ね返された。呪詛返しされた。だから私は、アナタを殺す』
「ま、って……呪詛返しって……」
痛みに顔をゆがめる。ギリギリギリ、と少女の爪が胸を貫通する。どうやら心臓を狙っているようだ。
少女の手が花江の心臓を握る。
「……! ぁ!」
今までに感じたことのない痛みである。内臓の、しかも心臓をぎゅっと圧迫されて、息が止まった。脂汗は止まらない。
少女が花江に馬乗りになる。むろん、胸に手を突っ込んだまま、心臓を柔く握ったまま。
少女の表情は狂喜に満ちていた。
今まで仲良くやってきたのに。言われるままに、少女のために、呪詛を行ってきたというのに。それなのに、邪魔になったら花江すら呪い殺してしまうのだろうか。
苦しい、苦しい。
ジタバタともがく。
『ちっ!』
花江の抵抗が効いたのか、花江は運よく少女から逃れることができた。先ほどまで空いていた胸の穴は、すでに閉じている。不思議な感覚だ。
花江は少女から逃げるように部屋のドアに走る。しかし、走っても走っても、一向にドアにたどり着けない。
そうする間にも、花江の背後に少女が迫る。ひたり、ぎぃ、ぎし。
足音が心なしか弾んでいる。獲物を追い詰めていたぶっているのだろうか、花江はもう、袋のネズミである。
『ねえ、なんで逃げるの?』
「こ、殺さないで」
『なんで? アナタはたくさん、殺したでしょう? いまさら自分だけ助かるとでも思っているの?』
「やめ、ころさないで――」
『大丈夫。私たち、お友達だもの。痛くないようにしてあげるから、ね?』
少女の気配がいよいよ真後ろまで迫ってくる。
花江は死を覚悟し、抵抗をやめた。目を瞑り、ただひたすらに、後悔した。
今まで自分は、なんてことをしてきたのだろうか。呪いがこんなに怖いものだったなんて、知らなかった。
もしもやり直す機会があるのなら、中学生のあの日、呪詛るんを初めて使ったあの日に戻りたい。そしてその時の自分に言うのだ。
「こんなもの、使っちゃだめだ」
花江の思いを、誰かが言葉にした。
ふっと目を開けると、少女の気配は消え、花江はそこにいた。自分の部屋だ。なにもかも元通りの、部屋である。
声の主は、坂野である。いつからいたのだろうか、坂野が少女をけん制するように、部屋の真ん中に立っていたのだ。
「これだけの悪意だと、僕の霊力ではなかなかコントロールできなくてね」
おどけた調子で坂野が言う。少女は口惜しそうに坂野を見て、唇を血がにじむほどにかみしめている。
『またオマエだ。オマエのせいでまた、私はひとを殺せない』
「いいじゃん。君は悪意を食べるのが本来の目的なんだから。今回の悪意はなかなかおいしかったんじゃない? もうこの子に用はないでしょ。式神は帰らせていいよね、森野花江ちゃん?」
坂野が花江に促すと、花江は力なくうなずいた。
『口惜しや、口惜しや』
少女がすうっとなりをひそめる。
「森野花江ちゃん」
「……呪詛返し、できてうれしいですか」
しかし、花江の口から出てきたのは、その言葉である。坂野は目をぱちくりとしばたたかせて、くっくと声を殺して笑った。
「僕が本当にそんなことしたと思っているの?」
「ほかに誰がいるんです?」
人間は懲りない生き物である。自分の命の危機に貧すれば、普段は信じてもいない神さまに願い事をしてみたり。
命からがら助かったとしても、人間は神さまに感謝なんてしない。そもそも、そういう人間は、『こんな目』に遭ったりしない。
花江はふるえる足で立ち上がり、坂野のもとへと歩いていく。
「私をあざ笑って楽しかった?」
「やだなあ。本当に気付いていないの?」
坂野は自身の携帯を取り出すと、呪詛探索アプリを起動する。そうしてその検索欄に入れたのは、花江の名前である。
検索開始、と同時に画面がローディング中に切り替わる。
「呪詛探索アプリなんて、今更……」
「知ってる? アプリって開発者特権があるの。僕はね、呪詛るんの裏オプションで検索無効に設定されているユーザーも、検索できるんだけれど」
坂野がふんふんと鼻歌交じりに携帯を見る。
花江もつられて坂野の携帯を見る。
検索完了、の文字。
「森野花江。ヒット百件」
「え……え……?」
「信じられないって顔してるね。そうだなあ、この百人はね、僕がかかわった数百人のうち、ほんの一部」
坂野は携帯をちらつかせながら、花江の顔を覗き込んだ。
「君が呪ったひとたちは、僕がみんな助けたんだよ。まあ、初期段階だったから、君の呪いは僕の呪符で十分跳ね返せたんだけれど。知っているかい? 『ちりも積もれば山となる』」
花江は自分の携帯を取り出して、自身も呪詛検索アプリを起動する。そして自分の名前を検索するが、一件もヒットする様子はない。
「開発者特権その二。特別なコマンドを入力すると、呪詛返しは呪詛探索アプリに引っ掛からないようにできる」
坂野はずっと、ずっと呪いをたどっていた。花江が呪ったひとたちを、自身のなけなしの霊力で作った呪符で囲って、花江の存在をずっとずっと探していた。
花江には才能がある。霊力の才能だ。だからこそ、呪いを毎日続けられたし、一年たらずで強力な呪詛力を手に入れた。普通の人間であれば、呪詛るんをここまで使いこなせない。
坂野は花江の呪いをたどり、呪われたひとを助けてきた。助けたひとのほとんどは、呪詛返しを使おうとはしなかった。呪われる側の人間とは、大概がそんなお人好しだ。坂野にはそれが理解できなかった。
けれど、中には、あの、愛のようなケースも存在する。
愛の場合、母親が呪詛返しをした。あの呪詛返しは、直接愛を呪った女と、そして花江自身にも跳ね返ってしかるべき。
そんな小さな呪詛返しが、積もり積もって、花江のもとへと返ってきた。今までその効力が発揮されなかったのは、花江自身に霊力があったからである。呪詛返しされた、あるいは純粋な呪いさえ、花江には跳ね返すほどの霊力があった。
そもそも、呪詛返しされた呪いのひとつひとつの力は弱い。呪詛の初期段階で返されたものがほとんどであるし、呪詛返しにも呪詛力が関与してくる。なにより、呪詛返しする本人の悪意の量が、すなわち呪詛返しの強弱を別ける。呪われた側からすれば、呪いの恐ろしさを知っているため、進んで強い呪詛を呪った側に返そうとはしない。自身に降りかかる呪詛を返せればいい。その程度の思いである。
ではなぜ、今日に限って呪詛返しが発動したのかといえば、
「君には霊力があった。だから呪詛返しが発動しなかった。けれど、その霊力を一時的に下げることが、僕にはできる。といっても、僕がそばにいることで、君の霊力を干渉しただけなんだけれど」
簡単な仕組みだ。無線LANに同じ周波数の電波が流れ込むと干渉しあうのと同じ要領で、坂野は花江の霊力に干渉した。むろん、花江が素人ゆえに通じた作戦のため、霊力を自在に扱える人間には無意味だ。
「……陰陽師だから? 悪用したの?」
「悪用だなんてひどいな。霊力の高い人間同士がそばにいると、おのずと霊力を干渉できてしまうだけなんだ。でも、君もこれで少しはわかったんじゃない? 呪われる側の気持ちってやつが」
あっけらかんとした口調で坂野が言う。言い負かされたようで花江は悔しくて仕方がない。しかし認めよう。この男は花江よりも何枚も上手で、そして実力のある陰陽師だ。
だが、だからこそ、疑問がわく。
「そんな力を持ってるんなら、あの式神を無効にする方法くらい、あるんじゃないの?」
「ああ、そうだねえ。そうだ。式神ってね、生涯に四体までしか契約ができないんだけれど」
坂野は花江にぐっと顔を近づける。赤い瞳に花江の姿が映し出される。すっかり毒気を抜かれた顔だ。これでは、もう今後は呪詛代行だなんて、そんなこと、できっこない。
少なくとも、『当分の間は』呪詛にかかわりたくないと花江は思った。
「『呪詛るん』、『呪詛返すんです』、『呪詛探索アプリ』。これが今、この世界にある、僕の契約した式神なんだけれど」
坂野は指を三本立てて、花江に説明する。
「それともうひとつ。僕は式神と契約済みでね」
「もったいぶらないでよ」
「そう言わずに。それで、その式神っていうのが、『冥界の王』ってわけ」
坂野の指が、四の形を作る。
花江は首をかしげる。冥界の王、聞いたことがない。
「冥界の王との契約はこうだ。僕の命と引き換えに、この世界から『霊的干渉』を消し去る」
「え……? でも、それができてないってことは、坂野さんにもなんらかの事情があるんでしょ」
「よく気づくね。そう、僕は不老不死だ。だからこそ、冥界の王はそんな大それた僕の願いを聞き入れたのさ。そもそも、僕が死ねば契約した式神は無効化できるんだけどね」
口調からすると、坂野の話は信じがたい。だがしかし、現状、坂野が呪詛るんの式神に対抗できていないのもまた事実だ。この話は飲み込まざるを得ない。
しかし、納得いかない、花江はそんな顔をしている。
「呪詛るんの式神、彼女は短期間にひとの悪意を大量に食らいすぎてね。僕の手には負えなくなった。あまつさえ、彼女を始末しようとした僕は、逆に不老不死の呪いをかけられてしまった」
相変わらず花江は納得いかない様子である。
百歩譲って、坂野が不老不死で、呪詛るんの式神に呪われたことは認めよう。
そして、そんな不老不死の坂野が死ねれば、呪詛るんは自然消滅する。
だというのに、霊的干渉そのものをなくす必要があるのだろうか。
無理難題を押し付けているだけのように思う。坂野の存在を殺す方法など、この世界には存在しない。だからこそ、冥界の王はそんな口約束ができたのではないか。
それでもきっと、坂野は希望を持ちたかっただけなのかもしれない。自分の行いを悔い改める機会を、作りたかっただけかも。
「君みたいな人間がいるからだよ」
まるで見透かすかのように、坂野が笑った。
「私が……?」
「そう。君みたいな霊力の高い人間の呪詛がね、『彼女』――『呪いを運ぶ式神』を助長してしまうんだ。僕が契約するまでもなく、彼女は常に人々の生活に溶け込んでいたからね。だから僕は、この世界から霊的干渉をなくす必要がある」
坂野はたてていた四本の指を引っ込めて、その手を自分の胸の前に持ってくる。そうして人差し指と中指を立てると、花江にもう一度、笑いかけた。
「呪詛るんを使う使わないは君の自由。だって、呪詛るんを作った僕に説教されたって、なんにも響くわけないと思わない?」
それは暗に、花江と坂野が『同類』だといっているようで、花江には居心地が悪かった。
しかし、現に花江は、呪詛るんを悪用した。金儲けに使ってしまった。もしかすると、花江が知らないところでひとを殺していたのかもしれない。
そうでなくとも、たくさんのひとを不幸にして悲しませたことには変わりない。
罪悪感、というものは、誰しもが持ち合わせているのだと、花江は今この時に気づいた。
奇しくもそれは、坂野の言葉によってである。
自分は運がよかっただけだ。坂野は運悪く式神に呪い返された、花江は運よく坂野に助けられた。
ただ、それだけだ。
「約束はできないけど」
消えゆく坂野に、花江は小さな、か細い声を振り絞る。
「私はもう、呪詛るんは使わない。呪詛返すんですも、呪詛探索アプリも。それから」
坂野がかすかに笑う。
自分と同じ過ちは犯すな。そんな表情にも、安堵した表情にも見える。
「呪詛るんのレビューに書いておくよ。『呪詛るんなんて使うべきじゃない。使ったら後悔する』って」
「そうかい。それは助かるよ。助かるついでに、ひとつ頼んでもいいかい?」
うっすらと、もう坂野の輪郭は見えない。だけれど、声だけははっきりと聞こえる。花江はその声に耳を傾ける。
「呪詛るんに、僕の名前を書いてほしいんだ。できれば毎日」
「……ごめん、それはできない。私はもう。呪詛るんとかかわりたくない」
「……そういうと思った」
最後は笑っていたのだろうか、花江にはもう、わからない。
自身の死をもって、契約式神を無効にする。さらに、冥界の王との契約で、坂野の死により霊的干渉をこの世界からなくす。
そんなこと、本当にできるのだろうか。花江はとうとう、その疑問を聞くことはできなかった。
果たしてそれが、花江と坂野の最後の言葉となった。花江はその後、呪詛から足を洗った。けれど、花江の罪はきっと一生許されない。坂野と同じように、一生をかけて償っていくものなのだ。
花江は生涯、罪も、坂野の言葉も存在も、忘れることはなかった。
きっと今も、坂野は呪いをたどって、自身の死のために、犯した罪を償うために、どこかで誰かを助けているのだろう。
第五章 呪詛返し
ねえ知ってる? ある芸人さんの手記なんだけど。一時期バカ売れしたのに、芸人さんが病んでしまって、その手記は嘘まみれの滅裂思考が書かれてるって絶版になったんだって。私も噂しか知らないけれど、その芸人さんって敵も多かったらしいから、そのストレスでおかしな手記を書いてしまったのかもね。
それが呪詛だということは、端からわかりきったことだった。
毎日、彼は少女に憑りつかれている。背中にぎゅっとしがみつく少女は、子泣き爺よろしく徐々に徐々に体が重くなる。
最初は疲れているのだと思っていた。こんな幻覚を見る自分はおかしいのだとも。
しかし、どこで検査を受けても自分に異常は見つからないし、なんなら精神科の薬も飲んでみたが、まるで効果がない。それどころか薬の副作用で死ぬ思いをしたため、彼はこの少女が、『呪い』なのだと思うしかなかった。
そうだとして、自分を呪う人間など、彼には心当たりが多すぎた。なぜなら彼はテレビ番組でも引っ張りだこの、今が旬のタレントである。
とあるギャグがヒットして、いまや冠番組も持つほどであるし、だからこそ、この少女をどうにかせねばと必死である。
「呪い、ですね。背中に少女がしがみついている」
そう言われたのは、大分由緒ある神社の神主にである。どうもその神社は、『安倍晴明』の子孫らしく、細々ではあるが、それを生業として生計を立てられるくらいである。
だからといって、その神主には、その呪いを解くことは不可能であった。なぜなら、呪いを解く方法はふたつ。
呪詛返しをするか、丑の刻参りをやめさせるか。
彼はそこまでの情報を得ていながら、少女をどうすることもできなかった。できないながらも、有力な情報を得ていた。それが、『坂野弘彦』という人間を探せ、ということであった。
坂野弘彦が何者なのか、教えてくれた神主に問うも『それはお答えできません』その一言だけでそれ以上は聞き出せなかった。
だから彼は、毎日、毎朝、毎晩。
坂野弘彦という男を、心の中で呼び続けた。
シャララ。
鈴の音が聞こえる。八月に入った、蒸し暑い夜のことである。
熱帯夜が続いていたというのに、今日の部屋は冷房なしでもひやりとしているくらいであった。
彼はドキドキと鼓動を速める。聞いた話と同じだ。坂野弘彦、彼は鈴の音とともに現れる、風変わりな男である。
シャララ。
もう一度、彼の部屋に鈴の音が響く。
そうして、
「う、わ!?」
ふわっと彼の目の前に現れたのは、まぎれもなく彼、『坂野弘彦』である。その風貌は、神主に聞いていたものと寸分もたがわない。
くたびれた顔に、年のころは二十代そこそこ。
白い和服のような衣装を身にまとい、首からしめ縄をネックレスのようにぶら下げて、その先端には大きな鈴。
しめ縄は本来神聖なものだ。そのしめ縄を自身にぶら下げるということは、自身を神格化し、この世から隠すための結界のひとつなのだと、神主が言っていた。
なるほど、こうやってふらりと人々の前に現れて、そうして呪われた人間を助けて回っているってわけか。
「坂野弘彦、なのか?」
確認するように、彼が言う。
「大井円くん。僕を呼んだのは君だね? うるさくってたまらない」
どうやら、彼――円が、毎日毎日坂野を呼んでいたことは、坂野も知っていたようだ。知っていたのなら、もっと早く助けに来てくれればいいものを。
「まあ、実家からの命令とあらば、出向くほかないんだけど」
「え?」
「いや、こっちの話。それで、そうかい。君もなかなか、難儀な仕事をしているねえ」
ほうっと息を吐く坂野に、円はこてんと首を傾げた。
坂野が右手を胸の前に掲げる。そうして人差し指と中指を立てると、ごうっとその場に炎が上がった。
赤い炎だ。そして、その炎の中心に見えるのは、あの少女だ。円の背中に乗っかって、毎日毎日円の邪魔をする、あの少女。
炎の中心にいる少女の表情は、戦々恐々とするものであり、円は思わず目をそらした。
ごうっと赤い炎が円を囲む。そうして炎に人間の顔が浮かび上がって、口々に円を侮蔑する。
『調子に乗るな』
『殺したい』
『一発屋のくせに』
『なんでオマエみたいなヤツが』
『許さない』
『消えてなくなれ』
顔は浮かんでは消え、消えては浮かぶ。数百体、いや、数千体は固いであろうその数は、円がいかに強い呪いを受けているかを物語っている。
円はカタカタと震え、耳をふさぐ。
「坂野! この呪いをどうにかしてくれ!」
しかし坂野は、乗り気ではない。数が多すぎるのだ。それに、この人物とはできればかかわりたくなかった。
スキャンダルまみれのタレントだ、女遊びをしたり、他人を平気で傷つけたり。時にはライバルを蹴落としたりと、これではいくら呪詛を祓っても、きりがない。
それに、現状円の呪いは、命にかかわるものもない。あるひとつを除いては。
「大井円くん。僕が君の呪いを解くことは不可能だ」
「……は? はあ? じゃあなんで俺の前に現れたんだよ」
円は不遜な態度で坂野に言い返す。坂野はやれやれと肩をすくめた。こういう人間が一番たちが悪い。助けてもらって当たり前、だけれど自分は他人を助けようとは少しだって思わない。
自分勝手、身勝手な人間が、坂野は嫌いだ。助ける価値もないと思う。だからこそ、なかなか坂野は円のもとを訪れなかった。坂野だって面倒だと思う人間はいる。
「坂野さん、金ならいくらでも払う。俺の呪いを解いてくれ」
「だから。僕は呪いを解くことはできないんだってば。だから代わりに、ふたつの方法を提案しに来た」
坂野はパチン! と指を鳴らす。すると、今までごうごうと上がっていた炎が消えて、そこには少女がぽつんと、円の目の前に立っているのみになった。
『アンタ、アンタは本当に呪いがいがある。こんなにたくさんの人間に呪われて。アンタの傍にいたら、私は『人間の悪意』には困りそうもない。だからねえ、坂野じゃなく、私を選びなよ?』
少女の口が、耳まで裂ける。
円はブルリと身震いして、坂野のほうをにらみ見上げる。
「いいから、早くコイツをどうにかしてくれ」
「あーもう。だからね、この呪いを解くは、呪詛返しするか、呪詛主の丑の刻参りを終わらせるしかないんだよ」
言いたくなかった、そんな雰囲気をにじませながら、坂野はぼそぼそと円に告げる。みるみる円の顔色が明るくなる。迷いは一切ないようだ。
円は立ち上がり、坂野に詰め寄る。
「『呪詛返し』一択だな。それで、坂野さん。呪詛主のことや呪詛返しについて、もう少し詳しく聞かせてくれ!」
坂野の手を取る円を見て、傍にいた少女がかすかに笑う。
かと思えば、高笑いしておのずから姿を消していく。
『あはは、あははは。坂野、馬鹿だねえ。オマエは本当にお人好しの馬鹿だ。大井円、また会おうね?』
少女はうっそりと円の顔を見つめながら、消えていった。
しかし、円はそれどころではない。呪詛返しの方法を聞くのに精いっぱいである。
「呪詛返すんですってアプリがあって。それに名前を書き込めば、君の呪いは呪詛主に返るけれど」
「そうか、じゃあそのアプリをインストールする。それで、俺を呪ってるヤツの名前は?」
前のめりに聞いてくる円に、坂野はうげえっと舌を出し、げんなりした様子である。
しかし、答えないわけにはいかない。坂野はいつも、『呪われる側の人間』に、『呪う側の人間』の情報を与えるようにしている。それがフェアだと思うからだ。呪う側だけがその人物の名前を知っているのはいささか不公平。
だから坂野は、呪われる側の人間にも、呪詛主の情報を与えるのだ。そのうえで、呪われる側の人間がどんな選択をするのか、そこから先は本人次第である。
とはいえ、円のようなタイプはまれだ。呪われる側の人間は、往々にして『気が弱い』。優しいとも言い換えられるが、坂野はそういう人間の弱さが嫌いでもあり、好ましくもあった。
けれどきっと、この大井円という人間は、『それ』をなんなく使うだろう。
「君を呪った人間は多すぎてなんとも。ただ、君を苦しめている呪詛をかけている人間の名前なら、教えてあげられるけど」
「なんだよそれ、全員の名前を書かなきゃ、また俺が呪われるだろ」
「いいや。『普通の人間』であれば、その呪詛は微々たるものだよ。蚊に刺される程度の呪詛力しかない」
それを聞いても、円はやや不満げである。本当に厄介な人間だ。
しかし、呪われた人間には変わりない。この人間がどんな判断を下すにせよ、坂野の知ったことではないのだ。
「君を苦しめているのは、主に『森野花江』。彼女の呪詛だよ」
「森野花江……そいつは、俺のアンチかなんかなのか?」
「いいや。彼女はただの呪詛代行。ひとつ付け加えると、まだ十七歳の分別のない子供だよ。君以外にも、現在進行形で三人の人間に呪いをかけている」
しかし、後半は円の耳には入っていない。さっそくアプリを起動した円は、『森野花江』の名前を打ち込んでいる。
「これで、丑三つ時に五寸釘を打ち込めば、呪詛返しは完了なんだな?」
「……僕が説明するまでもなかったね。そうだね、あとはご自由に」
「ああ、助かった。それに、呪詛るんが本物だってこともわかったしな」
本当に辟易する。
坂野は円の家から姿を消しながら、憂えるように円を見ていた。円の傍には、あの少女の姿が。嬉々とした表情で、円を見ている。
丑三つ時。円は呪詛返すんですを起動して、そうして坂野から知らされた呪詛主の名前を書き込んだ。ほうっと辺りを青白い光が包み込む。
『ほんと、嫌になるわ』
「うわ!?」
あの、少女である。坂野とともに昼間に現れた、あの呪いの少女だ。円が恐れ一歩引いたところで、少女は円にふと笑いかけた。
『大丈夫、私は妹とは違うから』
「妹?」
『そう。呪いを運ぶ式神、と言ったらわかるかな?』
なるほど、似ていて当たり前だ。少女は呪いを運ぶ式神、の双子の姉。ふたりは本来ふたつでひとつ。それが、坂野によって覆された。妹の式神の暴走は、姉にとっては不本意極まりないものらしい。呪詛返しの式神の少女が、円の呪いを両手で包み込むようにして取り去った。
『主のもとへ帰りなさい』
式神が言えば、青白い光――呪いだ――がふわっと宙に浮いて、そして間髪入れずに現れたのは、少女と瓜二つの顔、例の呪詛を運ぶ式神である。
『あはは。大井円。アンタは本当に呪いがいのある人間だ』
「……なんでオマエが」
『坂野から聞いてないの? まあいい。でも、覚えておいて』
呪いを運ぶ式神が、うっそりと円を見ている。呪詛返しの式神のほうは、渋い顔だ。
なにが自分たちを別けたのだろう。坂野の存在だろうか、人間の業だろうか。
『呪詛返しされた呪いを運ぶのは、私のほうだ。姉の能力は呪詛を跳ね返すだけ。だから、アンタがもっとも信頼すべきは、私のほう』
「信頼……」
『そうだ。呪われるくらいなら、最初から呪えばいい。それでも呪われるなら呪詛返しを。世のなかなんて、そんな風にできているって、アンタもよーく知ってるでしょう?』
あはは、うふふ。
呪いを運ぶ式神が、すうっと姿を消していく。あの少女は、毎晩円を苦しめていた、正真正銘の呪いだ。その少女を受け入れることなど、普通の人間では不可能だったに違いない。けれど円は違った。
「そうか、そうだよなあ」
その日から、円は呪詛るんを手放せなくなった。
呪われる側が『いい人間』とは限らない。時には呪う側よりも悪意に満ちた人間だっている。
もしもそんな人間を呪ってしまったら、その人間が呪詛返しの方法を知ってしまったら。
坂野はそうそうに『たんさくん』に頼んで、彼女の居場所を探し出す。『森野花江』。彼女は多くを呪いすぎた。
無差別に呪いすぎた彼女は、もしかすると坂野のせいでしっぺ返しを食らうかもしれない。それはそれで、自業自得だと思う。坂野自身がそうであるように、森野花江もまた、十分な罰を受けてしかるべき。
だけれど、坂野にはそれができない。呪われる側はもちろん、呪う側も救済したい。そうでなければ、呪詛るんを作り出した坂野の贖罪は、未来永劫終わらない。
呪詛返し、呪詛。どちらも他人を呪うことに変わりはないというのに、呪詛に比べて呪詛返しのハードルははるかに低い。
目には目を、歯には歯を。呪いには呪いを。
命に係わるものだけに、呪詛返しの道を選んだ人間を、坂野は責めることができなかった。
とあるテレビ番組で、円が不敵に笑っている。
「大井さん。最近ますます毒舌が加速していますが、アンチとか怖くないんですか?」
「アンチ? そんなの怖がっていたら、この仕事やってられないですよ。それにね、知ってます? 呪いって、存在するんですよ」
今日もまた、呪いが呪いを生み出す。
坂野はまた、新しい呪いを探し出し、そうして呪いに対峙する。いつか自身が死ねるように、いつかこの罪が許されるように。
幕間 呪いをかけた陰陽師
今までの話をまとめると、つまり彼の生い立ちにたどり着く。彼は何者で、誰だったのか。とある記録が神社に残っている。僕が権威ある研究者だから、読むことだけは許された。他言はしないようにと念を押されたが。だから、公にはできないけれど、せめて日記にしたためることは許されたい。一度読んだだけだから、記憶違いもあるだろうけれど。僕が読んだ話は、以下の通りだ。
まれな才能を持った少年であった。坂野弘彦と名付けられた彼は、陰陽師の家系の跡取りとして、大切に、しかし英才教育を受けながら、すくすくと成長していった。
陰陽師の家系といっても、誰もが彼のような才能を持って生まれる訳ではない。遡れば平安の世には、安倍晴明を筆頭とする陰陽師が活躍したのだが、今はもう昔の話だ。彼の才は希少なものであったし、彼もそれは理解していた。
彼が十七の時のことである。
坂野はこの世界にずっと疑問を抱いていた。学校では、『やーい、陰陽師の跡取り!』と馬鹿にされ、クラスメイトがけがをすれば、『坂野の呪いだ!』と教師に隠れていじめられた。
家の外で陰陽術を使うことは禁止されていた。だから坂野は、その言いつけをずっとずっと、律義に守って、誰も傷つけないように生きてきた。
けれど、思春期に入って、それは崩壊した。
陰陽術を使える自分こそが正義で、なにも力を持たない人間は、ただただ自分にひれ伏せばいい。
たぐいまれなる霊力を持っていた坂野は、必死にアプリの勉強をした。
そうして、自身で開発した最初のアプリ、『呪詛るん』に、『呪いを運ぶ式神』を使役できる契約をした。契約条件は、『ひとの悪意を食らう』ことである。
しかして、呪詛るんは開発からものの数日でユーザーが一億を超えた。毎日、少しずつ、あるいは多大な悪意を、『呪いを運ぶ式神』は食らった。
式神の制御が利かなくなるまで、そう時間はかからなかった。
式神は本来、自分より力が弱いものと契約する。万が一式神が暴走した場合、自身の手で滅することができるようにだ。
しかし、その式神はひとの悪意を食いすぎた。もはや、坂野の手に負える代物ではなくなっていた。それどころか、式神を滅しようとした坂野は、逆に式神によって呪いをかけられた。こんなことは前代未聞である。
そしてこれは、式神がどれだけ多くの人間の悪意を食らってしまったかを物語るには十分な出来事であった。
不老不死の呪いをかけられた坂野は、当然家からも勘当されて、行くあてもなくなった。そもそも、不老不死であるため、死に場所さえ失った。
式神の力を弱める必要があった。
坂野が次に開発したのは、『呪詛返すんです』である。
しかし、このアプリは思いのほか世間に浸透しなかった。呪詛返すんですが浸透すれば、呪詛るんのユーザーが減ると踏んでいたのだが、その期待は見事に外れた。
それどころか、呪詛るんがますます力をつけていき、もはや坂野に残された方法は一つしかなかった。
呪詛るんの式神より大きな力を持つ式神と契約して、この世界から霊的干渉をなくす。
坂野は調べに調べて、ようやく『冥界の王』との交渉に持ち込んだ。しかし冥界の王は、無理難題を坂野に押し付けた。
霊的干渉をなくすことは可能。だが、引き換えに坂野の命を所望したのだ。
「馬鹿げてる! 僕が不老不死の呪いをかけられたと知っていて、そんなことを言うのですか」
「そんなことはない。私は単純にオマエの命が欲しい。しかしそうか、オマエは不老不死なのか」
にたりと笑う冥界の王の魂胆なんて見え見えだ。人間と契約すれば、人間の悪意が食える。
それが、呪詛るんほどでないにしても、式神にとって人間の悪意はなによりのごちそうだ。坂野を飼い殺しにして、人間の悪意を食うだけ食う。坂野は不老不死であるから、それこそ半永久的にそれを食らうことができるという魂胆だ。
「そうだ、オマエ自身に呪いを掛けたらどうだ? あのアプリに、何億人、あるいは、呪詛力の高まった人間が書き込めば、オマエもきっと、死ねるのではないか?」
一理ある提案である。しかし、保証はどこにもない。
だけれど、坂野には考える余地すらない。この契約をなんとしても成立させたかった。冥界の王ほどの式神が、今後坂野の前に現れることなど、この機会を逃したら二度とないかもしれない。
「わかった、それで契約を成立させよう」
「うむ。それから、私にもくれるのだろう? 人間の悪意を」
「……僕に向けられる悪意でいいのなら、微々たるものだけれど、その悪意を代償にあげよう」
「それだけか? オマエが私に差し出すものは。それっぽっちでこの世界から霊的干渉という理をなくせと?」
後付けの条件を提示され、坂野はやや不服そうに冥界の王をにらみあげた。しかし、冥界の王はなにくわぬ顔である。
坂野はふうっと息を吐き出す。
「僕のこの霊力の五割をアナタにあげよう」
「五割……それだけか?」
坂野が逆らえないのをいいことに、冥界の王がつけあがる。しかし、坂野はなんとしても契約をとりつけたい。
「六割」
「八割だ」
「七割。それ以上は譲れないね」
一瞬の沈黙ののち、冥界の王が豪快に笑った。
「よかろう。小僧、その度胸に免じて、七割で妥協してやろう」
そうして契約は成立し、坂野は三割の霊力しか使えなくなった。それでも坂野には、通常以上の霊力が残っている。『なけなしの』三割の霊力は、普通の陰陽師の何倍にも及ぶ。しかし、陰陽師の力とは、式神の使役によるものがほとんどである。例外として、坂野は呪詛を行った人間に、呪詛の対象者の人生を追体験させること、それから、ほんの僅かばかりの呪詛を跳ね返す呪符を作ることができる。坂野はそれだけ稀有な存在だった。
ただし、坂野が急に消えて現れるのは、陰陽術でも霊力でもない。坂野自身が呪われてしまったため、この世界のものではなくなってしまったからだ。だから坂野は、自分の好きな時に現れ、消える。その存在は式神に近しいものなのかもしれない。応用で、坂野に手を取られた人間もまた、ひとから見えなくすることができる。
陰陽師にとって式神との契約は、その能力と言っても過言ではない。それを承知で、坂野は冥界の王との契約を結んだ。その時点で坂野が契約できる式神は残りあと一体になっていた。ゆえに、坂野が最後に契約した式神は、『呪詛探索アプリ』の、『たんさくん』である。
たんさくんは、長い間坂野の相棒として行動を共にしてきた、冥界で言う『犬』である。温厚な性格で坂野になついていたため、彼はひとの悪意という見返りを欲しなかった。
呪詛るんは広まる一方で、『呪詛返すんです』も、『呪詛探索アプリ』も、まるで浸透しなかった。
だが、そもそも坂野が『たんさくん』と契約したのは、『呪うひと』と『呪われるひと』をたどり、自らの手でその呪いを絶とうと決めていたからだ。
その過程で、少なからず坂野はひとの悪意を受け取る。それは、『呪詛るんを開発した』ことに対する怒りや侮蔑である。
それでいい、と坂野は思う。冥界の王への餌にもなるし、自身への戒めにもなる。自分を許さないでくれ、と坂野はいつも心の中で願っている。
呪詛に負けた坂野のことを、自分の弱い心に負けた坂野のことを。誰も許さないでくれと坂野は願う。
そうして今日も、坂野は呪いをたどって、見知らぬ誰かを、呪われた誰かを助けんと、不死のときを過ごすのだ。
二、依り代の章
第一章魔術師
とある呪いの物語は、一時期しずまったかに思えた。それがまた動き出したのは、とある若者の誕生に起因する。それは僕のおじいさんであり、君のおじいさんでもある。彼はいつかの僕らで、僕らはいつかの彼なのだ。
最近巷で噂になっている。呪詛るんというアプリは本物だと。それを信じるに至った人間は、決まって同じ言葉を言う。
「見たんだ! この目で魔術を!」
少年は嬉々とした表情で友人に力説する。その手には、どこかの民芸品なのか、不格好な人形のストラップが握られていた。
「でもよお、なあ?」
「だよな。魔術なんて今どき非科学的だろ」
しかし、友人らが少年の言葉を信じる気配はない。少年はむっと口を結ぶも、友人たちは少年の言葉など聞いていなかったかのように話題を変えた。
「それよかさ、昨日のテレビ、見た?」
「見た見た! 宇宙人とかロマンだよなあ」
なにがロマンだ、少年は思うも口には出さなかった。少年は人形をぎゅっと握りしめて友人たちの輪から外れていった。
放課後になると、少年はとある場所に向かった。この地域では誰も寄り付かない廃墟だ。昔そこにはたくさんの外国人の貴族が住んでいたらしい。しかし、時勢柄外国の人間は日本人に差別され、いつしか人々はその屋敷の人間を迫害し、それどころか虐殺したのだと、そういういわくつきの廃墟である。
廃墟ではあるのだが、その外観は今もきれいなままで、それが余計に不気味さを増幅させる。
少年がその廃墟を訪れたのは、肝試しの一環であった。少年は幽霊や魔術といったたぐいのものを信じている。友人には公言していなかったが、ひそかにそれらを調べ上げ、証拠をつかみ、そうして少年はいつか友人に霊的存在を認めさせようともくろんでいた。
だからこそ、この廃墟に足を向けたのだ。
「また来たのか」
「エドガーさん!」
エドガーと呼ばれた青年は、見るからに『怪しい』身なりだ。黒い服に身を包み、外套をまとったその風貌は、きっと外国の人間であること以上に彼を好奇の目にさらすだろう。
しかしエドガーはなに食わぬ顔で、少年を迎え入れた。
「学校のひとたちにこの人形を紹介しようと思ったんだけど、誰も相手にしてくれなくて」
「そりゃあ災難だったな。でもそうか、そうだよなあ」
にやにやと笑いながら、エドガーは少年を見た。まるで分っていたとでも言いたげに、どこかからかい交じりの表情だった。
「だから私は言ったんだ。どうせそこらの見る目のない人間には通じないって」
「でも、俺はエドガーさんの魔術をこの目で見たし」
「君くらいだよ、幸喜。私の魔術を信じるのも、私の屋敷を訪れるのも」
エドガーは少年――幸喜の頭をくしゃくしゃに撫でまわす。まるで子供のような扱いに、幸喜は憤慨するも、この魔術師に逆らうつもりはない。
幸喜が抱くこの感情は、あこがれと畏怖と、それから尊敬だ。
エドガーの魔術が本物かはさておき、幸喜にとってそれは大きな問題ではない。とはいえ、幸喜はエドガーの魔術を信じて疑っていないのも事実である。ゆえにこの『ストラップ』をクラスメイトに信じてほしかった。
「この依り代、本当に効果あって」
「だろう? 私の目に狂いはないからね」
「エドガーさんって、この廃墟の管理人さんなんですよね」
「ああ、そうだが?」
流ちょうな日本語に最初は驚いたが、今はさほど驚かない。エドガーはきっとこの国で生まれた在日外国人に違いない。聞いた話によればこの廃墟は、もう百年も前に作られたらしい。しかし、住人は惨殺されたと聞いているから、エドガーはきっとその親戚かなにかに違いないと幸喜は勝手に思っている。
「依り代があれば、呪詛るんも呪詛返しも、なにもこわいものはないからね」
「その、呪詛るんって、もしかしてエドガーさんが作ったんですか?」
「まさか。私にはそこまでの素質はなかったよ。だからこそ、その開発者に聞いてみたいね」
なにを、とは聞けなかった。ほうっと宙を見るエドガーの表情に、正直に言えばぞっとした。幸喜にとってエドガーが憧れであるように、エドガーにとってはその呪詛るんを開発した人間は、神にも等しい存在なのだろう。
「いいものをあげよう」
ふっと、エドガーが幸喜を手招きする。
「なんです?」
言われるままに幸喜がエドガーに手を差し出す。そこに乗せられたのはなにか魔法陣のようなものが書かれた札である。よもや、と幸喜は生唾を飲み込んだ。
「それは私の魔術が込められた魔法陣だ。それに手をかざして、呪文を唱えるんだ。そうすれば、魔法陣の真ん中から、悪魔が顕現されるから」
「悪魔が……で、でも、俺には扱えないんじゃ」
「まさか。大丈夫、低級の悪魔さ。時間がたてばすぐに消える」
エドガーの言わんとするところはすぐさま理解した。これを幸喜の友人の前で使って、なんとしても魔術の存在を信じさせろというところなのだろう。そして、友人たちに『ストラップ』を信じ込ませて、ぎゃふんと言わせてやれ。そういうことなのだろうと幸喜は理解した。
しかしながら、意図をくみ取っていても幸喜が浮かぬ顔なのは、幸喜が魔術の存在を熟知しているからこそである。素人が魔術に手を出せば、逆に悪魔に呪われるか、あるいはなんらかのペナルティが課せられるか。
いくら友人を見返すためとはいえ、気が進まないのは当たり前だ。霊的現象を信じているならなおのこと。
「無理にとは言わない。けれど、そうだ。その魔法陣は幸喜にあげよう。お守りに、ね?」
エドガーの言葉に逆らえなかったのは、幸喜のなかの好奇心のたまものだろう。いつの時代も人間は、おのれの好奇心には勝てないものなのだ。
翌日、幸喜は凝りもせず友人たちに魔術のなんたるかを説いていた。友人たちは「またか」といった反応であるが、幸喜は真剣である。
「だから、あの廃墟に本当に魔術師がいるんだって」
「それは何回も聞いた。でも、俺の親父があそこの管理者の知り合いがいるけど、あの廃墟に住人なんていないって言ってたし。おまえ、狐に化かされてんじゃね?」
「あははは、言えてる。オマエっていつもぼうっとしてるもんな」
笑われたことに憤慨する。今までだってずっとそうだ。友人たちが幸喜の言葉を信じてくれたことがあっただろうか。いや、そもそも、はなから馬鹿にされている。スクールカースト下位の幸喜にとって、学生生活は窮屈この上なかった。
だが、もしもここで自分が魔術の存在を証明できたら?
幸喜はカバンに大事にしまっていた魔法陣を取り出した。魔法陣の意味なんて分からない。どんな悪魔が出てくるのかも。それでも、幸喜は知っている、これは本物の魔法陣で、そして悪魔を召喚するまじないも、あのエドガーに教えてもらった。使う気がないと言っておきながら、幸喜は昨日の夜一晩かけて、そのまじないを暗記した。
「なんだなんだ? それっぽいもん出して」
「むきになりすぎなんだよ。オマエがそんなオカルトだとは思わなかった」
友人たちはあからさまに幸喜を馬鹿にし始める。ますます追い詰められた幸喜に、もう迷いなんてなかった。
魔法陣に右手をかざし、幸喜はまじないを唱えた。
「――出現せよ、我が名において!」
唱え切ると、先ほどまで幸喜を馬鹿にしていた友人たちが、ほんの少しだけ好奇心に満ちた目を幸喜に向けた。
鬼が出るか蛇が出るか。
固唾をのんで見守る三人の前に。
ぼぼ、ぼぼぼ!
魔法陣の真ん中に火花が散って、ずるる、となにかが這い出てくる。その『なにか』は次第に姿を現し、大きくなり、大きく、大きく、大きく――
『我を呼ぶは貴様らか?』
やがて幸喜たちなんかよりはるかに大きな悪魔が、幸喜たちの目の前に現れた。びりびりと空気が震え、いつの間にか三人は、教室ではないどこかにいる。
「な、なんだよこれ。幸喜、幸喜、ここどこだよ」
「ちょ、え。待って。エドガーさんの話では低級って……」
「おい、なんとかしろよ、幸喜!」
友人と言い争いになる。どうにかしろって言ったって。
幸喜の足が震える。きっとこの悪魔は、人間の魂を要求してくるような、そんな邪悪な悪魔に違いない。素人の幸喜がどうこうできる代物ではない。
あたふたするも、なにも策が浮かばない。そもそもここはどこだ。
「え、エドガーさん! 助けて!」
「だから、そのエドガーってのが悪いやつなんだろ!」
「悪い人じゃない。エドガーさんはただ……」
ただ、そうだ。幸喜は思い出す。エドガーはただ、この『ストラップ』を普及させたいだけだと言っていた。エドガーの夢だと。なにがエドガーを突き動かすのかわからないが、きっとこのストラップには、それほどの価値があるに違いない。
そして、この事態を収拾するには、このストラップを信じるほかに道はない。
『我を償還したからには、それ相応の代価を』
「こ、これを見ろ!」
幸喜がストラップを悪魔にかざした。エドガーにもらった十個全部だ。民芸品の不格好なストラップ、エドガーが言うにはそれは『依り代』なのだという。本人に訪れるはずの災いを肩代わりする、それが依り代なのだとエドガーは言っていた。
その依り代――持ちうるすべての依り代を、幸喜は悪魔に投げつける。
『くっ……これは……!』
悪魔の様子が一気に変わる。しなしなと体が縮んでいき、魔法陣のなかに吸い込まれていくのだ。しかし悪魔もただでは帰らない。もがいてもがいて、やがて逃げ遅れた幸喜の足をがっしりとつかんだ。
『道連れだ、我ひとりで帰ってなるものか』
「ひ、た、助けて!」
しかし、友人ふたりは幸喜を助けようとはしない。むしろ、早く悪魔とともに消えてくれと言わんばかりの目を向けられた。なんなんだ、友達だろ、友達じゃなかったのか。いや、自分だって同じ状況に置かれたら、同じ対応をとるに違いない。
死を覚悟した。もしかしたら死より重い罰を受けるかもしれない。興味本位で悪魔なんて召喚してはいけなかったんだ。誰もがあきらめかけたその時だった。
シャラアア。
どこからともなく音が聞こえる。鈴の音だ、神社の祠にあるような、そんな清んだ音色である。とうとう耳がおかしくなったのだろうか。幸喜が乾いた笑みを漏らす。
「やんなるよね。本当に」
幸喜の声でも、友人たちの声でも、ましてや悪魔の声でもない。その声が聞こえたのと同時、幸喜は悪魔の手から離れ、あたりは凪いだ。悪魔は魔法陣のなかへと消えて、景色が教室へと移り変わる。放課後の誰もいない教室に、三人は、いた。
「え。え……?」
幸喜の腕をしっかりと握る青年に、幸喜は目を丸くするばかりである。
「依り代をあんなに使ってさ。さすがの僕も、見過ごせないよ」
「なん、誰……」
「僕かい? 僕は坂野弘彦。しがない陰陽師なのだけれど」
ひょうひょうとした青年に、幸喜がやっと意識を現実に引き戻す。ばっと坂野を振りほどいて、その場に構えて坂野を威嚇した。
「誰です? もしかしてさっきのも、アンタの仕業じゃ」
「やだな。自分の失態をひとのせいにするの?」
「……じゃあ、アンタはどうして俺たちを助けられたんだ? そのそもアンタはあの場にいなかったはず。どこから現れた?」
「質問が多いね。でも、そうだな。君たちが使った依り代。それにちょっと困らされていてね」
坂野がやれやれと肩をすくめた。依り代のことを知っているとなれば、やはり『そっちの』人間であることは確実だ。幸喜はますます坂野から距離を取る。友人たちは腰を抜かし、ただただ坂野と幸喜のやり取りを見るばかりだ。
「依り代ってね。呪いとおんなじなんだ。使えばそこには式神が使役されるんだけど」
パチン、と坂野が指を鳴らす。するとどこから現れたのか、そこには少女がいた。おかっぱ頭で赤い着物を着た少女が、幸喜の周りをらんらんと走り回っている。
「な、なん……」
「この子は呪いを運ぶ式神。『呪詛るん』って知ってるかい?」
「呪詛るん……!」
エドガーから聞いた、あのアプリのことだ。そもそも、エドガーに聞くまでもなく、今を生きる人間なら一度は聞いたことがある。七不思議のひとつとされているくらい有名なアプリだ。それが、この男となにか関係があるのだろうか。
「この子は呪いを運ぶ式神で、使役すればするほどひとの悪意を食べて力を増すんだ。僕はこの手でこの式神を抹消したい。だから、力を与えられると困るってわけ」
「……なんで、なんでアンタはこの式神を消したいんだ」
どっど、と心臓がけたたましく鳴り響く。心のなかは疑問でいっぱいだった。もしかして、エドガーはこの男を呼び寄せるために自分を利用したのではないか。悪魔を召喚すれば、坂野が幸喜を助けに来ると。だが、もし助けに来なかったときはどうするつもりだったのだろう。
ぞっとする。命がいくつあっても足りない。もう嫌だ。魔術だの式神だの。そんなもの、もう信じてもらえなくていいから、だから早く、この非現実的な会話を終わらせたい。
「僕が呪詛るんを作ったから、だからこの式神が力をつけた。僕はこの世界から呪詛るんをなくす義務がある。それと」
坂野がその場に転がる依り代を拾い上げた。もうその依り代になんの力も残っていないのか、もらった時と違って本当に『ただの人形』にしか見えない。
坂野が人形をじっと見つめる。
「この依り代を作った人間を探してる」
「……! それなら、この町にある廃墟の、エドガーさんってひとが……」
「エドガー? 彼が?」
「……?」
坂野の眉間にしわが寄る。まるで知り合いの名前を聞いた時のような反応だった。そもそも坂野は『陰陽師』だと名乗っていた。ならば、きっとどこかで彼らにつながりがあってもおかしくはない。
「山田幸喜くん」
「……は、い……」
「今後はもう、依り代も魔術も悪魔も。それにエドガーのことも。すべて忘れて生きてくれないかな?」
「そのつもりです」
命がいくつあったって足りない。幸喜はもう、霊も魔術も依り代も、あのエドガーのことも忘れたい。ただひたすらに、平穏な暮らしに戻りたい。
スクールカーストがどうとか、友人がどうとか。それは自分の力でどうとでもできる。魔術を使えたからって、霊が見えたからって、幸喜の人生が好転するとはもう思えない。大切なのは、今の幸せを壊さないこと。
思春期のほんの迷いだ。他より目立ちたいとか、誰かより優れていたいとか。そんな見栄なんかもうどうでもいい。今は一刻も早く、この得体のしれない人間から逃げ出したかった。
「話が分かる人間で助かるよ。あと、そうだな」
坂野の姿が消えていく。すうっと半透明になって、幸喜を見て笑っている。
「ないとは思うけど、この話を誰かにしたりしないでね。混乱するから。まあ、そもそも信じてもらえないと思うけど」
坂野の姿が消えていく。幸喜はその場にへなへなと座り込み、やがて友人が這って幸喜のもとに寄り添った。
「幸喜、よかった、よかった!」
幸喜はこの時初めて、友人たちとの絆のようなものを感じることができた。
廃墟に人影がふたつ。
「サカノ! また会えるなんて奇遇だね」
「エドガー。まさかとは思ったけど、この騒ぎは君の目論見かい?」
「やだなあ。私はただ、アナタになりたいだけで」
「……僕に、じゃなくて、不老不死になりたいだけだろ」
坂野の冷たい目に、エドガーの口の端が上がった。
「わかっててあの子たちを助けるなんて、アナタもだいぶお人よしだ」
エドガーは外套を翻して、廃墟のシャンデリアを見上げて両手を広げた。
「私は死にたくない。むろん、老いることも。だから、私もあの式神――呪いを運ぶ式神の力が欲しい」
「無理だね。あの式神がどれだけの力を持っていたって、早々不老不死の呪いなんてかけられない」
「だからこそ、だろ」
だからこそ、エドガーは依り代を広めたい。依り代を使えば、そのひとにかけたられた呪いはある程度跳ね返すことができる。つまり、呪詛るんのユーザーを増やすのがエドガーの目的である。依り代さえあれば、他人を呪っても自分が呪詛返しで殺されることはない。そうすれば、あの呪いを運ぶ式神は、再びあまたの人間の悪意を食らい、力を増す。そこでエドガーがあの式神に頼むのだ。自分を不老不死にしてくれ、と。いや、もしかするとエドガーはすでにあの式神と取引をしているのかもしれない。あまたの人の悪意をささげる代わりに、不老不死の呪いをかける約束を。
「馬鹿げてる。君の思惑通りにはならないし、あの式神は僕が滅する」
「できるのかな? アナタはもう何年同じことをのたまっている?」
高らかに笑うエドガーをよそに、坂野は廃墟を後にする。
「せっかく久しぶりに会ったのに、もう行くのか?」
「君に付き合ってる暇はないんでね」
依り代を作ったのはエドガーではない。エドガーは魔術こそ使えるが、依り代を作れる技術を持ちあわせていない。
そもそも作れたとしても、魔術での依り代には限度がある。それを、この依り代はどんな不幸でも跳ね返すような、そんな強い力が込められている。ここまでの霊力をエドガーが持っていたのなら、はなから呪いを運ぶ式神に頼まずとも、不老不死になれているだろう。
誰だ、一体。
「早く見つけないと」
日に日に依り代の存在が大きくなっている。その存在の認知度が上がれば、きっと坂野の目的の妨げになる。それではだめだ。すべての呪いを断ち切らなければ、坂野の悲願はかなわない。
「まったく、嫌になるね、たんさくん」
わふ! とたんさくんが同意を示すように声高にほえた。