第二章 呪詛探偵

 父方の祖母のいとこは、若い頃に阿漕な仕事をしていたらしい。私は関わりがなかったけれど、祖母はいつも、いとこの彼をなじっていた。いとこは心を入れ替えたけれど、人の信頼なんてそう簡単には回復しない。

 ぼろもうけの時代が到来する。
 探偵業とは誰でもなれる職業であるが、誰でも儲かる仕事ではない。なぜなら、推理力その他情報収集に長けたものでなければ、その仕事は依頼すら来ない。
 しかし、そんな探偵業の中でも、異例の部署が出来上がった。SNS全盛期のこの時代らしい職業だ、その名を『呪詛探偵』。
 これは、とある時期に誰が開発したかもわからないアプリ『呪詛るん』の流行とともに需要を増した探偵のことである。
 しかし、元来の探偵業を生業とする探偵からは、『アイツらは探偵であって探偵でない』と評されるほどの仕事ぶりで、正直に言えば、胡散臭い。
 なぜならば、呪詛探偵なんて職業は、実際のところ『なにもしなくとも』儲かる仕事なのだ。呪詛るんで呪われている人間が、誰から呪いを受けているのかを調べてもらう。それが呪詛探偵の仕事の主である。しかし、実際誰が誰を呪っているのかなんて、知るすべなどないのだ。
 そもそも呪詛探偵自身も呪詛るんなんてものを信じていないし、呪いに対して否定的な意見を持つものがほとんどである。
 それでも、なぜ呪詛探偵という職業が廃れないのかといえば、単純に『もうかる』からである。いつの時代も、ひとの悪意は商売になる。
「ええ、そうですか。それは大変でしたね」
「はい。毎日のようにうなされていて。顔もこんな風に」
 今日もまた、とある呪詛探偵のもとにひとりの女性が訪れていた。真夏だというのに顔には大きなマスクをつけており、その表情は暗い。
 そして、服装も真夏にふさわしくない、長そでにハイネックと、呪詛探偵――高野一井は苦笑気味である。内心では、よくも呪いだの呪詛だのと、そのようなことを恥ずかしげもなく他人に相談しに来る、そんなことを思いながら、顔は笑顔だ。
「お任せください。当社は呪詛探偵社の中でも随一の評判です」
「はい、前に十件ほど相談に行ったのですが、全然だめで。そこで先生のことを知って……」
「そうですよねえ。今時『まともな』呪詛探偵なんて、ウチくらいですよ」
「お願いします、先生。私、私、呪いのせいでこんなに……!」
 泣きつかれるのももう慣れたものである。
 呪詛なんてものは、おおよそ気のせいか思い込みがほとんどである。現に、一井のもとを訪れた依頼人は、一井が『調査したふり』をしただけで、呪詛が消えたと満足気に帰っていった。
 呪詛探偵はぼろもうけの仕事である。
 呪詛主が見つかっても見つからなくても、成果報酬は発生するし、適当に呪詛主をでっちあげて報告したところで、依頼主にそれを確かめるすべはない。
 一井もまた、そんな『似非』のひとりである。
 しかし、どうしてか、今回の依頼はなかなか難航しそうだ、と一井は思った。泣きつく女性は、おもむろにそのマスクを脱ぎ取ると、その下に隠されていた真っ赤にただれた肌を一井に見せた。
「呪いが進むにつれて、顔から全身にこのただれが広がってしまって」
「……あ、ああ。そうなんですね。大丈夫ですよ。私はこう見えて腕利きの呪詛探偵ですので」
 心の内では、鳥肌が立っていた。呪詛探偵ではなく、皮膚科に行ってくれ。もしそれが伝染病かなにかだったら、自分に感染する。
 しかし、それを表情に出さないあたり、一井も一応は『プロ』なのである。この依頼人の報酬はけた外れの額だった。だから一井は、この女性の言うことを『信じるふり』をしている。
「大丈夫なので、もうお帰り下さい」
「先生、お願いします、どうか、どうか」
「大丈夫ですから……」
 グイっと詰め寄られると、さすがの一井もやや顔を引きつらせる。女性ははっとしてマスクを再び耳にかけて、ただれた皮膚を覆い隠す。
 そのまま女性は依頼室から出ていった。
「はー、やれやれ。除菌スプレーはあったかな……」
 女性がいなくなった部屋に、一井は除菌スプレーをこれでもかというほどにまき散らした。

 呪詛探偵をやっていると、おのずと恐怖体験などの怪談話に耐性がついてくる。はじめこそ依頼人の話のひとつひとつに驚き、びくびくしていた一井だが、今はもうすっかり動じなくなった。なんなら、自分の周りで起こる『やや不可思議な』現象すら、なんとも思わなくなった。
「どれどれ……」
 女性がいなくなった部屋で、一井は自身の携帯を起動する。この携帯は一井の唯一無二の商売道具だ。
 呪詛探索アプリ。
 知る人ぞ知るアプリである。一回の利用料は百円と良心的であるが、このアプリは確かに呪詛主を探し出すことができる優れものである。
 呪詛るんというアプリに対抗するように現れたアプリだそうだが、誰が作ったのかも、どういう仕組みなのかも、知るひとはいない。
 一井はこの呪詛探索アプリの存在を、呪詛探偵の先輩にあたる人物から教えてもらった。もちろんただではない、かなりの額を支払ってこのアプリを教えてもらい、そうして独立して事務所を構えるに至った。
 はじめこそ、こんな胡散臭いもので本当に呪詛主が探せるのかとも思ったのだが、依頼人の名前を検索すると、とあるときは依頼人の近しい人物の名前が表示され、とあるときは依頼人とはなんら関係のない人間の名前が表示された。むろん、なにも表示されないこともある。
 最初の依頼人は誰だったか、一井ももうすっかり忘れてしまった。しかし、覚えていることもある。
 その時の依頼人を呪っていたのが親友で、探索の結果に表示された人物の名前を依頼人に伝えるや、本当にその依頼は解決してしまったのだ。
 なにかの偶然か、あるいは思い込みだと一井は今でも思っている。そう思っていなければ、こんな仕事、続けられるわけがない。
「検索結果、佐藤かえで? 誰だよ、そんな知り合い聞いてないし。……あの子も呪い云々じゃなくて皮膚科に行けっての」
 今日の依頼はこれにて終了である。本当においしい仕事だ。たったこれだけで、十万円。検索結果が出ても出なくとも、一件十万円の依頼報酬はぼろもうけである。
「さて、今日はもう暇だし、ネカフェでも行くかな」
 すっきりしない案件ではあったが、呪詛探索アプリになにも表示されないのだから、どうしようもない。
 一井はくあっとあくびをしながら、お気に入りのネットカフェへと歩いていく。

 最近、犬にほえられることが多くなった。決して動物嫌いではないのだけれど、最近ことさら、犬にほえられる。
 昔はどちらかというと犬のほうから一井に寄ってきたくらいなのだが、最近はどういうわけか一井は犬に嫌われている。
『ガルルルル』
「おいおい、なんで威嚇するんだよ」
 しまいには、威嚇ばかりされるようになった。こうまでされると、逆に笑えて来る。阿漕な商売を始めたから、動物にはわかってしまうのだろうか。
 そんなことを思いながら、歩く、歩く。
『わん! わっふ!』
 しかし、今日はどこか違った。足元を見ると、毛むくじゃらの『なにか』。毛玉でよくわからないが、鳴き声からして、『犬』なのだろう。
 一井はしゃがみ込んでその『犬』に手を伸ばす。犬は一井の手にすり寄って、ぺろぺろとその手のひらを無邪気に舐めた。
 シャララ。
 犬の陰に人間の影が重なって、一井は顔を上げる。
「おや、やっぱりアナタ、見えるのかい?」
 おかしな男だ。真っ白な服――一見和服のように見える――を着て、首には太いしめ縄をネックレスのようにぶら下げている。その先端にはこぶし大の鈴がついており、その鈴が、なんとも不気味な音を鳴らしている。
 一井の傍にいた『犬』が、男のほうへと走っていく。
『わん! わん!』
「ああ、そうかい。コイツがオマエの『ご主人さま』だね」
 なんのことやら、一井は全く分からない。男は、一井を指さして、
「高野一井さん。君はその仕事から足を洗ったほうがいい」
「……ああ、ああ。そうか、オマエが『例の男』だな」
 この業界にいるとおのずと情報が回ってくる。最近、呪詛探偵のもとを回って、仕事を辞めるように促がしてくる、怪しげな男がいるのだと。
 それがきっと、一井の目の前にいるこの男なのだと、一井はすぐにわかった。
「あいにく。俺は呪詛探偵を辞めるつもりはないね」
「そうかい。じゃあ、言いかたを変えよう。今回の依頼人、その依頼人からは手を引くべきだ。アナタのためにも、ね」
 意味深な言い方に、思わず一井は息をのんだ。
 そういえば、さっきまで男の傍にいたあの犬はどこに行ったのだろうか。そもそもこの道は、一井以外にほぼ通らない、秘密の抜け道だ。
 一井だけが知る、秘密の抜け穴を通らなければ、この道にたどり着くことはできない。
「あんた、いったいなにもんだよ」
「僕? 僕は坂野。坂野弘彦。しがない陰陽師さ」
「ふっ。陰陽師? 陰陽師がわざわざ俺にご忠告ってか? ご苦労なことで。だけど俺は、この仕事を辞めるつもりはないんでね。こんなうまい話、手放すはずないだろ。アンタもどうせ、同業者なんだろ?」
 はっと鼻で笑って、一井は坂野の隣を通り過ぎる。今日はもう、ネットカフェの気分ではなくなった。家に帰って、部屋でゴロゴロ過ごすのも悪くない。
 小さくなり行く一井の背中を、坂野は無言で見守っている。
「たんさくん。あの男、助ける必要ある?」
『わっふ! わふ!』
 当たり前だ、と言いたげに、式神――たんさくんが声高にほえた。

 一井は小さなアパートに住んでいる。呪詛探偵がぼろもうけの仕事だからといって、無駄遣いはしない。そもそも一井には夢がある。一等地にマンションを買って、悠々自適な隠居生活を送る、そんなしがない夢だ。
 だが今は、まだまだ資金が足りない。現状だと、『呪詛探索アプリ』を購入したときの借金をやっと返し終えて、ここから貯金がプラスになる、そんな段階であった。
「今日の売り上げが十万で……明日は依頼が三件だから三十万……」
 ベッドに横になりながら、一井は皮算用する。
 毎日この時間が好きだ。借金がなくなり、ようよう貯金に回す余裕ができた。これからの稼ぎは自分だけのものだと思うと、うきうきして鼻歌まで漏れてくる。
「そういえば、先輩はどんくらい稼いだんだろ」
 思い出す。
 『呪詛探索アプリ』を教えてくれた先輩とは、もう五年も連絡を取っていない。五年もたてば、先輩ももう貯金は億を超えて、悠々自適な生活を送っているころであろう。
 一井は電話を起動する。
「えーと、電話番号、変わってないよな……?」
 電話帳を起動して、電話を掛ける。
 五年も連絡をしていなかった先輩を思い出したのは、もしかすると坂野の存在のせいかもしれない。坂野の妙な雰囲気に、一井は不安を覚えた。
 最近呪詛探偵の間では、あの坂野の存在がうわさされている。呪詛探偵から身を引くように警告して回る奇妙な男。
 確かに、しめ縄を首から下げて、鈴をネックレスのようにぶら下げた出で立ちは、異様そのものだ。
 電話のコールが何十回もなっている。しかし、先輩は電話に出る様子はない。いまは仕事中か、もしくは電話を解約してしまったのだろうか。
 そろそろ電話を切ってしまおう。一井が電話から耳を話した時だった。
『もしもーし』
 かすかに聞こえたのは、女の子の声である。しかも声は幼い。
 よもや、所帯を持ったのだろうか。だとすると、この子は娘だろうか。ほほえましさすら感じて、一井は再び電話を耳にあてる。
「もしもし? 俺、君のお父さんの友人で、高野っていうんだけど」
『あはは、ふふふ』
「え? もしもし?」
 しかし、電話の先の少女は、きゃっきゃと嬉しそうに笑いを漏らすばかりで、一井の言葉に反応しない。
 もしかすると、かけ間違えたかもしれない。そう思い、一井は再び電話から耳を離した。
「ったく、今時のガキはヒトの話もまともに聞けないのか――」
 電話を切る。
『あはは、ふふふ。ねえ、ねえ。アナタ、私が見えるのね』
 だが、少女の声は止まらない。それどころか、真後ろに感じた気配に振り返ると、はたしてそこには、少女がいた。
 おかっぱ頭の、赤い着物を着た、『いかにも』な少女が、一井の後ろに、いたのだ。
「……! ……!?」 
 誰だ。
 そう叫ぼうとしても声が出ない。そもそも、体が金縛りにあって動けない。
 動けなくなった体がごろんとベッドに転がって、少女は一井を真上から見下ろして、笑っている。
『ねえ、ねえ。余計なことをしたら、許さないから』
 少女の両手が、一井の顎に添えられる。そこから、メリメリメリ、と顎の皮を引っ張り剥いて、額に向かって皮が剥がされていく。
 メリメリ、メキョメキョ。
「ぁぁああぁぁぁあああ!?」 
 あまりの痛さに絶叫する。抵抗しようにもいまだ体は金縛りにあっていて、なんら抵抗することができない。
 一井の顔の皮を全部剥いだところで、一井は痛みのあまり気絶した。

 あはは、うふふ。
 あの少女の声が耳にこびりついて離れない。
 目を覚ました時には、もうすっかり日が暮れていた。
「ゆめ……」
 夢にしてはリアルすぎる。それに、あの少女とは初対面な気がしない。どこかで会っているような気さえする。どこでだったか。
「あれ? 起きたの?」
「う、わ!?」
 ひとの声に、一井は勢いよく起き上がる。ベッドの足元に、坂野が座っていた。坂野の膝にはあの『犬』もいて、一井ははあはあと肩で息をしながら、坂野をにらむ。
「ふ、不法侵入で訴えますよ?」
「ああ、ごめん。じゃあ玄関から入りなおすよ」
「……は?」
 まるであっけらかんとした口調で、坂野は立ち上がった。かと思うと、その姿が一瞬で消えていた。
「は。は!?」
 ピンポーン!
「ひっ!?」
 まだ寝ぼけているのだろうか。さっき足元に見えたあの男は、なぜ消えたのだろうか。そもそも見間違いだろうか。
 ピンポン、ピンポン、ピンポン。
 しつこく鳴り響くインターホンに、「今行く!」と、一井は怒鳴りながらベッドを降りる。そうして開けたドアの先には、
「高野一井さん。玄関から来たんですから早く開けてくださいよ」
「なん……アンタ、さっき俺の部屋にいたよな……?」
「だから、不法侵入にならないように、ドアから入りなおしたんじゃない」
 ひょこっと一井をよけながら、坂野は今度はきちんと玄関から一井の部屋に入りなおす。しかし一井はわけがわからない。
 さっきまで部屋にいたはずの男が一瞬で玄関に移動した。
 マジシャンかなにかなのだろうか。いや、坂野は自身を陰陽師だといっていた。だとしたら、呪詛探偵に限定して、警告をして回る意味もおのずと察することができる。
「俺は、呪詛探偵を辞めるつもりはないね」
「ああ、そうかい。君ならそう言うと思ったよ。でもね、今回の依頼主からは手を引いたほうがいい」
「誰がそんなこと。あの女だって、ただの思い込みだ。『呪詛探索アプリ』で検索しても、なにも情報は出てこなかった」
 知識をひけらかすように、一井が坂野にきっぱりと言い放った。しかし、坂野は表情一つ変えない。
「『呪詛探索アプリ』を知ってるなんて、さすがだねえ。だけど、知っているかい。『呪詛るん』には、ヘビーユーザーのためのオプションが用意されているんだ」
 坂野は一井のベッドに腰掛ける。いつの間にか、あの『犬』がその膝に乗っている。その犬は、一井に向かって『がるるる』と威嚇するようにほえていた。
「オプション? そんな話、聞いたことないね。はったりもほどほどに」
「一年連続で使った人間にだけ、オプションが表示されるんだ。呪詛探索に引っかからない設定にできるオプションさ」
「はっ、だから、そんなの聞いたことないって」
「そういえば、君の今日の依頼主。どんな呪いを受けたって話してた?」
 ころっと話題を変えられる。しかし、徐々に徐々に思い出し、一井の顔が青ざめていく。
 顔の皮を剥ぎ取られる、彼女は確かにそう言っていた。
 丑三つ時、少女が枕元に表れて、彼女は金縛りにあっている。そうして、顎の部分から少しずつ、いたぶるように、彼女の顔の皮が剥がれていくのだという。
 ぞっとした。
「ねえ、心当たり、あるんでしょ」
 夢だと思っていたあの少女のことを思い出し、一井はただただ顔を青くすることしかできない。あの話は、本当だったのだろうか。そして、彼女の依頼を受けた自分もまた、同じ呪いを受けてしまったのだろうか。
「も、もしかして、俺も呪われてる、とか……?」
「うーん、どうかなあ。ただ、彼女を呪おうとしている呪詛主。彼女、けっこう呪詛の上級者でね。自分の邪魔をする人間は片っ端から呪詛るんで呪っているみたいでさあ」
 困っちゃうよね、と坂野はまるで他人事だ。
 一井は坂野に走り寄って、その肩をつかんで問いただす。
「その呪詛主、どこにいるんだよ!」
「聞いてどうするの」
「そ、それは……」
「だから僕は忠告したのに。あの子の依頼にかかわるなって。まあ、でも」
 坂野が立ち上がる。膝に乗っていた『犬』もまた、床に足を下ろして、外に向かってほえている。
「君が金輪際、呪詛探偵なんてものをしないって誓うんなら、助けてあげなくもないけど」
「……呪詛探偵を辞めろ? それじゃあ、俺はこの先どうやって稼げっていうんだ」
「あれ? 高野一井さん。アナタは自分の命よりお金が大事なクチ?」
 あーあ、とあきれたように坂野が肩をすくめた。しかし、一井は即答できない。ようやくこれからという時に、この仕事をやめられるはずがない。借金を返し終えて、ここから稼ぎ時というところまで来たというのに。
「ほうら、時間切れ」
「え……ひっ!?」
 ガタガタガタガタ。
 一井の部屋が揺れている。いや、地響きに近い。
 一井は思わず玄関に走るも、足が全く動かない。動かしているはずなのに、玄関が遠ざかっていくのだ。そして、傍にいたはずの坂野の姿もまた、見えなくなっていた。
 ここはどこだろうか。
『あはは。ふふふ。アナタ、そうなのね。アイツを選ばなかったのね』
「ひっ! く、来るな!」
 ひたり、ひたり。
 少女の足音が一井の後ろから、右から左から、下から上から聞こえる。どこから現れるのか一井には予測が付かない。
 あらゆる場所から聞こえる足音に、逃げようにも足が動かない。見れば、床がどろどろの沼のように溶けだして、一井の足がずぶずぶと沈んでいた。
 めり込んだ足を動かそうにも、もがけばもがくほど足は床に沈んでいき、さらには一井の体に何本もの少女の腕が絡みつく。
 その手先が一井の皮膚に爪を立て、体中の皮という皮を剥ぎ取らんとしている。人間離れした力だ。
 痛みと恐怖に負けて、一井はとうとうその言葉を口にした。
「な、なんでもする! 呪詛探偵をやめるから! だから助けてくれ!」
 ピタ。
 すべての景色が凪ぐ。
 少女の声も聞こえない。ぐるぐる回る景色が一変し、一井の部屋へと戻っていく。
 そこにいるのは、一井と、坂野と、それから。
『また邪魔をして。いつか私は、オマエを殺す』
「無理だね。僕を殺したらオマエも死ぬ。だから君は、僕を殺せない。あまつさえ、不老不死にしたのだから」
『ちっ。小僧、命拾いしたな?』
 少女の吊り上がった眼が、一井を一蹴する。
 一井はその場にしりもちをつき、縮こまることしかできない。
「はやくお帰り、呪詛を運ぶ式神よ」
 坂野の言葉で、ようやく少女が一井の部屋から消えていく。
 はああ、っとため息をつき、一井は震えながらも、坂野を見やる。部屋の真ん中に立ち尽くす坂野は、その手に『呪符』のようなものを持っていた。
「まあ、本当は『呪詛返すんです』ってアプリもあるんだけどね。君には最初から教えたくなかったんだよね」
「じゅ、呪詛返すんです?」
「うん。呪詛返しができるアプリなんだけどね」
 坂野はにっこりと笑いながら、一井のもとに歩いてくる。そうしてしゃがみ込んで一井と視線を合わせると、先ほどの笑みを消し、無表情になる。
「今日、君に依頼してきた彼女。彼女を呪っている人間は、ちょっと特殊な例でね。呪詛探索アプリでも引っかからない上に、呪詛を成功させるためなら関係ない人間をも呪ってしまう、危うい人間なんだ」
「で、でも。アンタ、その口ぶりだとその呪詛主のこと、知ってるんだろ?」
「ああ、まあね。でも、なかなか難航していて。それで、できたら君に時間を割きたくなかったんだけど。君って経験しないと反省しないタイプみたいだったから」
 わっふ! と例の『犬』がなく。そして、坂野を導くように、坂野の服の裾を引っ張っている。
「わかってるって、『たんさくん』。今行く」
「その犬……」
「ああ、この子? 見覚えあるかい? 呪詛探索アプリの式神。君が毎日使っていたのは、この子なんだよ」
 話が急すぎてちんぷんかんぷんだ。式神、この犬が式神で、呪詛探索アプリ?
 一井が首をかしげると、坂野は面倒くさそうにため息をついた。
「『呪詛るん』、『呪詛返すんです』、『呪詛探索アプリ』。これらは僕が開発した、式神を介して呪詛を行うアプリなんだけど」
 ごくり、一井は息をのむ。
「高野一井さん。アナタ、最近犬に嫌われてたでしょう? それはこの、『たんさくん』を使役していたからなんだけど」
 わふ、わふ!
 『たんさくん』が一井に向かってなつっこく鳴き声を発する。
「な、なんでアンタはあんなアプリを開発したんだ? 開発者なら、消すことも可能なんだろ[V:8265]」
 責め立てられて、坂野はむっとしたように口を結んだ。
「あの少女――呪詛るんの式神がね、思いのほか人間の悪意を短期間に大量に摂取してしまったんだ。そのせいで僕では御しきれなくなってしまってね」
「あのアプリは本当に呪いの力が宿ってるのか?」
「うん、まあ、そういうことになるね。それで、君みたいに呪詛にかかわる人間が消えない限り、呪詛るんの式神の力が衰えることはないんだよね」
「……」
 一井はいままで、呪いなんてものは信じていなかった。そんなものがあると信じていたのならば、呪詛探偵なんて職業は選ばない。呪詛なんてものはこの世界に存在しない。そう確信していたからこそ、一井はこの仕事を続けてこられた。だがきっと、この先はそうはいかないだろう。
 一井はこの目で、呪いを見た。あの少女を、坂野という存在を。
「それで、そう。君に依頼してきた彼女の件は、僕がうまく解決するから。だから君は、彼女からも、今の仕事からも足を洗う。いいね?」
 約束してしまった手前、うなずくほかに選択肢は残されていなかった。そもそも、そうする以外に選ぶつもりもない。
 一井はもう、呪詛にかかわりたくない。こんな思い、命がいくつあっても足りない。
 だが、ここで呪詛探偵から身を引いたところで、本当に自分の身の安全は保障されるのだろうか。
「あの、坂野……さん。俺が呪詛探偵を辞めたら、今後はもう、呪われたりしないんですか?」
「……さあ。それは僕にはなんとも。だって、君はそれだけの仕事をしてきたんだから。呪いにかかわるってことは、自分も呪われる覚悟をするってことだろう?」
「でも! 俺は知らなかったんだ」
「ああ、そう。言い訳はいいよ。だって君には、まだ選択肢が残されているじゃない」
 坂野は立ち上がる。足元にはあの犬が尻尾を振って走り回っている。
「僕は『彼女』を止めに行くから。少なくとも、今回の件での呪いについては、君の安全は保障するよ」
 坂野が胸の高さに右手を上げる。そうして人差し指と中指を立てると、坂野の姿が徐々に徐々に消えていく。
「ま、待ってくれ! 助けてくれ! 金ならいくらでも払う!」
「ああ、そういうところ。お金ですべて解決するって思ってるところ。そういうところだよ、君って」
「助けて!」
「助ける? ああ、君にはお金がついているんだろう? 『呪詛探索アプリ』だって持ってるんだから」
 そのまま、坂野は一井の前から姿を消した。
 残された一井は、震えながら床を這って、自身の携帯を取りに行く。そうして起動したのは『呪詛探索アプリ』である。
 自身の名前を検索して、自分が呪われていないことを確認する。
「で、でも……」
 坂野は言っていた。呪詛るんのヘビーユーザーは、呪詛探索アプリに引っかからないように設定することができる。
 途方に暮れるしかなかった。一井には、頼れる人間がいない。今までさんざん呪いを馬鹿にしてきただけに、同業者にも、本音を話せる人間などいないのだ。
「くっそ、くそ!」
 呪詛探索アプリで検索をかける。自分の名前がないことを確認する。
 そんな日々が何日か続き、一井は身も心も疲れ果てていた。
 こんなことになるのなら、まともに働いて稼いで、つつましやかに暮らしていればよかった。
「反省したかい?」
 一週間後のことである。真夜中に、なんの前触れもなしに現れた坂野が、けろっとした顔で一井に訊ねた。
「反省もなにも。俺は今後ずっと、呪詛におびえながら暮らすしかないんだろ」
「ああ、これは相当反省してるねえ」
 ケタケタと坂野は笑った。よくもこの男は。そう思うも、一井には言い返す気力すらなかった。
 坂野は一枚、呪符を渡す。
「なんです……?」
「簡単な呪符なんだけどね。君が『まっとうに』生きている間は、軽い呪いは祓えるように。僕の『なけなしの』霊力を込めた呪符だよ」
 ばっと顔を上げる。一井はその呪符を奪うように受け取って、自分の胸に掻き抱いた。
「あーあ。僕って本当に優しいよね。それで、その見返りが欲しいんだけど」
「みかえり……」
 これほどの呪符だ、一億、いや、一兆円を請求されたっておかしくはない。一井はごくりとつばを飲み込む。
「呪詛るんに僕の名前を書いてほしいんだ」
「呪詛るんに……? でも、そんなことしたら……」
「ああ、大丈夫。僕ってほら、不老不死なんだ」
「……? ならなおさら、無意味なんじゃ……?」
 一井の言葉に、坂野はうんざりだと言いたげな顔をした。
「呪詛るんの式神に呪われた僕は、不老不死になってしまったんだけどね。僕が死ねば呪詛るん他、三つのアプリで契約している式神の効力が消えるんだ。だから僕は、死ななきゃならない」
 急ぎ足な説明だ、一井にはすべての事情が理解できていない。できていないながらも、この呪符をもらう見返りが、そんな『簡単な』ことなのならば。
「わかりました。書いておきます」
「そうかい、助かるよ。ああ、そうそう。その呪符。『まっとうな』生き方を外れたら、容赦なく効力がなくなるからね。僕はいつでも見ているんだから」
 果たして、本当にその呪符に坂野の力が宿っていたのか。それを確かめることができるのは、坂野以外には存在しない。
 だけれど一井は、この日を境に、まっとうな道を歩んでいく。