3月のはじめ、夜11時の公園で、久住茜はやさぐれていた。
名前と同じ茜色の髪をふたつに結んだ小柄な少女は、セーラー服姿で行儀悪くベンチに寝転んでスマホを眺めている。
画面には、茜のお気に入りの少女漫画が映っていた。
「はあー……いいなあ」
静寂に包まれた公園に、茜のつぶやきがこぼれる。
「あたしもこんな青春してー」
茜には土台無理な話だ。
画面に映るヒロインには家族も友達も、自分を守ってくれる格好いいヒーローまでそばにいるが、茜はそれらを何一つ持っていない。
唯一、ぱっちり二重の大きな瞳と日焼けしにくい真白な肌、あどけなさの残る愛らしい顔立ちは神から与えられた数少ないプレゼントと言えるが、残念ながら自分の容姿に頓着のない茜にとってそれは加点対象にならない。
最も、可愛らしい容姿に惹かれた誰かが、茜を好いてくれるような事態になっていれば少しは違ったかもしれないが。
「帰る家すらないあたしには、無理な話だよな」
そう、まだ15歳の茜がこんな真夜中に公園のベンチに一人でいるのには、理由があった。
つい先ほど、5人目の親代わりである人に家を追い出されたのだ。
原因になるようなことは何ひとつしたつもりがない茜としては、誠に遺憾であると言わざるを得ない。
だけどいつもこうなのだ。
いつも何故かーー関わる時間が経てば経つほど、人に嫌われてしまうのだ。
茜は赤みがかった茶色い瞳を細め、画面の中で繰り広げられる物語を遠い世界の出来事のように眺める。
しかし何者かが近づいてくる気配に気づき、画面から目を離して視線だけを横に向けた。
「……ああ、そーだよな。そろそろお前らが来る頃だよな」
『それ』は音もなく現れ、茜の周囲を取り囲んだ。
地面からにょろりと生えた黒い身体に、ギョロッとした大きな一つ眼だけがついている。一見するとシンプルなデザインで見ようによってはディフォルメされたマスコットのように見えるが、彼らがそんな可愛らしい存在ではないことを茜は知っている。
『お、マエ…うまソウダ、ナ』
「開口一番それかよ。お前らはいっつも食欲だな」
『くわセ、ロ!』
彼らはグワッと一斉に大きな口を開けた。その見た目のデザインに全く似つかわしくない凶悪な歯と、グロテスクな口内。もはや見慣れたものだが、何度見ても気味が悪い見た目だ。茜は不快そうに顔をしかめた。
これがどういう存在なのかは知らない。
霊的な何かなのか、あるいは妖怪やモンスターといった類のものかもしれない。
茜は物心ついた頃から彼らを見ているが、どうやら他の人には見えないらしい。しかも、襲ってくるのも自分にだけ。
だから誰かに助けを求めることもなく、茜はこれまでたった1人で彼らから逃げ続けてきた。
「……けど、このままお前らに食われてもいいかもな」
茜がいなくても、困る人は誰もいない。
諦めた目でスマホに視線を戻す茜を見て、獲物に抵抗する気がないと見た奴らが襲いかかってきた。
その牙が、茜の身体に届く寸前。
「ーーなんてな!」
茜はガバリと身体を起こし、敵の間を器用にすり抜けベンチの上から脱出した。
「だーれがお前らのウマイ飯になんかなってやるかよ。あたしはまだ死ぬわけにゃいかねーんだ」
何故なら茜は、初恋もまだなのだ。
こんなところでよくわからないモンスターに食われて生涯を閉じるには、あまりに若すぎる。
きっと、茜にもいるはずなのだ。
茜を助けてくれる、少女漫画のヒーローのような存在が。
「じゃーな、おととい来やがれっ」
茜はスマホをスカートのポケットに収めると、駆け出した。瞬く間に公園を出ると、人通りの少ない道路を横に突っ切って向かいの建物へ。
ドス黒い空気を撒き散らしながら、奴らが後を追ってくる。茜はきょろきょろと周囲を見回し人がいないことを確認すると、バネのように足を曲げ、勢いよく飛び上がった。
そして建物の三階の位置にある室外機の上に着地すると、もう一度飛び上がって屋上へ。
猫のような速さであっという間に屋上の端まで走ると、そのままの勢いで難なく隣のビルへ飛び移った。
その際にチラと下を見ると、彼らはウジャウジャと地面に生えたまま、一つ眼で茜を見上げていた。上がってこれないらしい。
「わりーな、あたしは人よりちょっと運動神経がいいんだ」
明らかにちょっとどころではないのだが、他人からそれを称賛されるどころか非難ばかりされてきた茜としては、自分のためにあえて『ちょっと』と認識していた。
だが、こうやって奴らからすぐに逃げられるのは、この身体能力のおかげに他ならない。
その点はこの身体に生んでくれた、今は亡き母親に感謝である。
「ひとまず、今日の寝床を探さねーと」
建物から建物へ移動しながら、茜は辺りを見回す。
そのとき、不意に目の前に大きな影が差した。
咄嗟に足を止め、立ちはだかるものを見上げる。『それ』と目が合った瞬間、茜は息を呑んだ。
そこにある一つ眼は、直径で茜の身体ほどの大きさをしていた。
これまで見たことがないほど巨大なそれは、一口で茜を丸呑みにしてしまいそうなほど大きな口を開けている。
茜は本能的に理解した。こいつからは逃げられない、と。
立ちすくみ、足が震える。
腰が抜け、その場にへたり込んだ。
何があっても決して1人で生きることを諦めなかった茜だが、このときばかりは無意識に口からか細い声が出ていた。
「助けて」と。
その瞬間、光の矢が目の前の黒い物体を貫いた。
一つ眼の敵はそのまま黒い霧のようになって雲散し、跡形も無く消えていく。
代わりに、どこからか飛んできた学ラン姿の青年が、呆然と目を見開く茜の前に降り立った。
すらりと伸びた足と、均整のとれたシルエットの体躯。肩口までのさらさらの黒髪は、男子にしては長めの髪型だが、それがむしろ似合ってしまうほど美しい顔立ちをしていた。
彼は光る弓を携えており、先ほどの矢を射たのが彼であることがわかる。
静かな知性を感じさせる切れ長の瞳が、茜を見下ろした。
「怪我はないか」
冷たさすら感じるほど落ち着き払った声色で、彼は茜に声をかけた。
だが、茜は返事ができない。声も出せずに青年を見つめたままだ。
それを見て青年は短く嘆息すると、少し哀れんだような目をした。茜の様子を、恐ろしい目に遭ったから呆然としているのだと解釈したようだ。
「……身体が無事ならいい。今起きたことは全て幻だ、忘れろ」
言いながら青年は茜に近づくと、手のひらを茜の頭にかざそうとしてーー
「見つけた!」
その手を掴んだ茜が叫んだ。
「あたしのヒーロー!」
嬉々として言い放った茜に、青年が目をむく。
「……は?」
「助けてくれてありがとな! あたし、茜! 久住茜! なあ、名前は? 名前! 名前教えて!」
「何言って……」
困惑する青年は、掴まれた茜の手を振り解こうとして、さらに驚いた顔をした。
「なんだこの魔力は。君は一体……」
「なあ、聞いてんの? 名前くらい教えてくれてもいいじゃん!」
「待て、今はそれより……」
言いかけて、青年はハッとした顔で茜の後ろを見た。そして間髪入れずに弓を引き、茜の背後に現れた敵を貫いた。
先ほどのそれよりは小さいものの、黒い物体は無限に湧いて出てくる。青年は茜の身体を俵を担ぐように抱き上げて走り出した。
「えっ、逃げんの!?」
「あんな数相手にしてられるか。それより君は何なんだ。何故こんな時間にここにいる? 奴らは君の魔力に釣られてるんだぞ」
「マリョク? なんだよそれ。知らねーよ」
「知らないはずがない。そんなに魔力を垂れ流しておいて……」
「だから知らねーって!」
青年は茜に負けず劣らずの運動神経で、軽々隣のビルへと飛び移る。
彼が言う魔力とやらについては、当然茜に心当たりはなかった。
茜はそれよりも、自分以外にこんな人間離れした身体能力の人間は初めて見たので、仲間を見つけたかのような気持ちになっていた。ますます彼への好感度が鰻登りだ。彼のことがもっと知りたい。
「なあ、さっきの弓矢なに? お前こそ何者なんだよ。絶対普通の人間じゃねーだろ」
「君にだけは言われたくないな。普通の人間は垂れ流すほど魔力を溜めたりしない。それより、口を閉じろ。舌を噛むぞ」
青年はビルの端まで辿り着くと、躊躇いなく飛び降りた。地面に激突する手前で片手を地面へ向けると、突風が巻き起こり落下の衝撃を殺すクッションになる。
「今のなに!? すげー!」
「ただの風魔法だ。それより、君の家を教えてくれ。ひとまず君を安全な場所に送り届けるのが先決だ」
「家はねーよ。つい数時間前に保護者代わりの人間に追い出されたばっかだ」
「……訳ありか。厄介な……。仕方ない、とにかく明るい場所に入るぞ」
「どっか店入んのか? あたし、金持ってねーんだけど」
一つ眼の彼らが明るい場所には寄りつかないことは茜も知っている。
だから茜にとって帰る場所の有無は死活問題なのだ。太陽が出ているうちは気にしなくていいが、問題は夜だ。
お小遣いなど貰えない立場の茜は、飲食店に長時間居座ったりホテルに泊まることができない。
夜は自室の電気をつけっぱなしにするしか、茜が安眠できる方法はないのだ。
だから、帰る家がない今、照明がある場所に入るには青年の財布をあてにするしかないのだがーー
「店には行かない。ウチガワに入れば、俺の家がある」
「お前の家!?」
茜は思わず素っ頓狂な声を上げた。
恋人はおろか、男友達すらいない茜は、男子の部屋に入ったことがない。ましてや、好意を持った男の部屋になど。
顔を赤くする茜を見て、ビルとビルの間の路地を走りながら青年は呆れた顔をした。
「何赤くなってるんだ」
「お前、会ったばっかの女子を家に誘うなんてどうかしてんぞ!」
「どうかしてるのは君の頭だ!」
そんな言い合いをしながら、やがて二人の目の前に高い壁が現れた。
「おい、行き止まりじゃねーか。どうすんだよ」
「問題ない」
青年は足を止めず、壁に向かって走り続けた。ぶつかる、と思って目を閉じた茜だったが、予期した衝撃はいつまでも訪れず。
二人の姿はそのまま、壁の中に吸い込まれていった。