自分が無邪気でいればいいだけだと思った。

完璧に、無邪気になりきれたらよかった。



居酒屋で流れる音楽も、スキー場で流れる音楽も大体決まっている。マリーゴールドを、俺は居酒屋で何度聞いてきたか分からない。

スキー場だったら、ヒロイン、粉雪、雪の華。プレイリストって、どのタイミングで移り変わるんだろうなと思いながら、テーブルの隅でハイボールをごくごくと喉に通す。

大学の書類が手違いで実家に届いてしまったから、郵送してもらえばよかったけれどそれを断って、久しぶりに地元に帰った。

帰省することを、高校三年生の時に仲が良かった友達のひとりに伝えたら、飲みに行こうぜと言われて、他にクラスでつるんでいたやつらもいれて男五人でプチ同窓会をすることになった。

会えるのを結構楽しみにしていた。

でも、みんな地元の大学に進学したから、自分だけがよその空気を吸って帰って来たやつみたいになっていた。

高校三年生の時と同じように笑い合ってるはずなのに、ちょっとの違和感をずっと感じてしまって、その分、酒が進む。

マリーゴールドは夏色をはさんで、若者のすべてになる。好きな曲で、少しだけ元気が出る。

つるんでたやつのひとりが、マルチタスクが苦手でそれを克服するために半年くらい前から三股をかけているという酷い話をしはじめて、わっと盛り上がる。

やばいよそれは、と俺もけっこう笑ってしまう。

自分が股をかけようとは思わないけど、ゲスい話は聞く分には楽しくて、もう今更、よく知っていた友達相手に軽蔑なんてしない。でも、いつまでこいつはそんななのかな、いつの間にそんな風になったのかなとはうっすら思う。

「就活で使えたらいーんだけどな。結構、三人とうまくやるの才能だと思うぞ」
「それ、コツとかあんの?」
「コツー? えーなんだろ、同じコミュニティ避けるとか?」
「お前、もっと高み目指せよ? 四人目は三人目と同じコミュニティな」
「俺が、マルチタスクの天才になってもいいんすか?」
「それは好きにしろ、まじで」

ぎゃははは、とみんな笑う中で、俺も笑う。

軽蔑は本当にしない。でも、こういう話で笑っている自分を、今の彼女には絶対に見られたくないなとは思う。

「辻岡は相変わらず?」

話題はいつの間にか移り変わり、自分に話を振られる。

この流れだと恋愛のことだろうなと思って、「あー、彼女?」と苦笑いをしつつ聞き返す。

辻岡いるのかよ俺知らんかった、俺も前の彼女と別れたってとこで辻岡の恋愛歴止まってるわ、と俺以外の四人のうちの二人がネットのゴシップ記事を読むときみたいな顔を俺に向ける。

彼女、の話を、あんまりこいつらにはしたくないな。そう思ってしまいながらも、ノリを合わせないなんてあり得ないから、「いるいる、みんな知ってるもんだと思ってた」と返す。

「今どれくらいだっけ?」
「八か月くらい?」
「他の女は?」

三股のノリはまだ続いているようで、にやついた顔が俺に聞く。

女遊び、煙草、酒、麻雀、そういうものが高校生と大学生に差をつけるみたいな感じ。

幼い頃に仮面ライダーのアクションシーンを真似ていた時と、何か違うのだろうかと冷めたことを考える俺と、そういうものに浸かっていたいと思う俺は、ちょうど五分五分だった。

「俺は一人だけ。股かける元気もないし、モテないし」
「嘘つけ、お前、高校んときは大分モテてただろ」
「そんなことない。でも、俺らの高校、物好き多かったよな。なんでこいつが? みたいなの結構あった気がする」
「つーか、股かける元気ないって、じじぃかよ」
「それはいきすぎでしょ」
「うわ、でた、辻岡の「でしょ」」
「はは、何それ」
「地元離れてから、使いだしたやつな。「でしょ」」
「しょうがないでしょ、まわりのやつみんな使うし」
「今日、あれな、でしょって言ったら、イッキな」
「こわっ、気をつけよ」

イッキで盛り上がるノリは、大学に進学してから自分が所属しているコミュニティにはなかった。

もうこいつらとは本当に違う世界にいるのかもしれない。誰も悪いわけではないのに、違和感は疎外感に形を変える。そういうものを誤魔化したくて、とにかく笑う。

「今の彼女、どんな子?」
「どうって、ふつうだよ」
「顔見たい、見せろよ」
「えー、だるいって」
「普通に気になるだろ、辻岡の彼女は」

このまま渋っていたらもっとだるいことになるのは目に見えていたので、嫌な顔はしつつもスマホのカメラロールを漁る。

あんまりこいつらには見せたくない。いい反応が返ってくる気がしないから。いい反応も俺の望むいい反応ではないと分かりきってるから。

でも、こいつらに何を思われたって、何も変わるわけじゃない。だからノリを悪くするよりは、見せた方が百倍はマシだ。

プリクラの写真を見せるのはさすがに違うかと思って、二人でうつっている写真の中でも彼女の方が比較的に可愛く見える写真を選ぶ。

拡大して、彼女だけを画面に表示させてみんなに見せる。

四人の視線が違うタイミングで、俺のスマホの画面に向かう。ここに彼女がいなくて本当によかったなと、変なタイミングで心底から思う。

「ぜっっったい、こういう感じの子は遊んでるだろ」

四人のうちの一人が、唇の端にビールの泡をつけたまま強い声で言う。それに、げらげら笑う声を聞きながら、俺は、見た目で判断するなって、と適当な言葉を笑いながら返す。

「いや、俺は分かる。これは、モテるっていうより、遊んでるって感じの女じゃん」
「さすがに失礼だってお前。辻岡泣くって」
「いや、勝手に泣かせないで」
「でも、辻岡あれじゃね。前付き合ってた子の方が顔は可愛かったんじゃね?」

午後九時を過ぎた居酒屋は、人気のポップスとアルコールと周りのやつらの騒がしさの力を借りて、大体の人間のデリカシーというものを殺す。

さすがにそれは失礼すぎるだろ、と、俺が帰省することを伝えた相手が、俺の今の彼女と元カノの顔を比べたやつの頭を軽くはたいた。

むっとするとか、冷静な感じで諭すとか、そういう労力を使う気には一切なれなくて。だるいな、と思いながらも、俺は鈍いふりをして笑うのだけはうまいから、「いや、このくらいがちょうどいいんだって」と、ノリを合わせて、「でしょ」という語尾を使ってもないのに、ハイボールの残りを一気に飲み干した。



高校生だった時の俺が、高校生だった時のあいつらと一緒にいるのが一番楽しかったのかもしれない。解散して、居酒屋の前で四人が帰っていくのを見送ったあと、すぐに思った。

ひとりになった瞬間にどっと疲れて、壁によりかかって長く息を吐く。

もう二度と会わないとかそういうことはない。

きっとまた帰省したら会って飲むことになるのだろうけど、その時も今と同じ気持ちになるのだろう。その確信だけはすでにあった。

楽しかったけれど、恋愛の話を真剣にし合うような間柄ではなかった。

高校生の頃だったらそうだったのかもしれないけれど、今はもう完全にそうではなくなっていた。かといって、他に話すこともないから、だれだれがなになにしたとか、あの女はああだこうだとか、そういう話しかできない。

本当は、居酒屋で流れるプレイリストがどのタイミングで変わるんだろうなとか、そういう、どの類の悦にも浸ることができない、明日には忘れるような話ばかりしていたい。

そういう自分をさらけ出せる友達も、さらけ出したいと思える友達も、もうここにはいないと理解するための同窓会だった。

実家に徒歩で戻りながら、スマホを操作する。

<何してるの>と、彼女にLINEを送る。すぐに既読がついて、<飲み会終わったの?>と、返信が来たから、勢いで通話ボタンを押してしまう。

”こういう感じの子は遊んでるだろ”───居酒屋で言われた言葉がよみがえる。俺がその言葉を解散後も気にしてるって、あいつは絶対考えないだろうなと思ったら、少し笑えてくる。

LINEからかけてしまったから、夜道に呼び出し音が響いていた。そのままにして歩いていたら、途中で音が途切れて、画面に彼女があらわれる。

そこでようやく自分がビデオ通話のボタンを押してしまっていたことに気づく。

寝るところだったのか、薄暗い中で、彼女のメイクをしていない顔だけが怪しく光っていた。確かに、元カノの方が顔は可愛い。でも、顔だけと付き合っていたいわけでもない。

「どうしたの?」
「どうもしてないよ」
「……ちょっと酔ってる? 飲み過ぎた?」

こういう感じの子は遊んでるだろ。また、いやな声がよみがえる。でも、完全に不正解ではきっとなくて、いまだにそれに動揺してしまっている自分にうんざりした。

たぶん、今付き合ってる彼女は俺よりも経験がある。その全てが恋愛経験なのか、ただの性経験なのかは曖昧だけど、でも変なところでこなれていて、何でそれをしようとするの、と俺がびっくりしてしまうような言動を時々とるから、その度に俺は、しょうもない男になってしまっている気がする。

「そんなに酔ってないよ」
「酔ってるよ」
「俺、顔、赤い?」
「ちょっと赤い」
「まじか」
「楽しかった?」
「……微妙だったかも」

恋人にしか本音を吐けないような男にはなりたくなかった。でも、そうなのだから仕方がない。

彼女にだけは言えないことだってたくさんあるのに、都合がいいなと我ながら思う。

女の子もいたの?とか、本当は聞いてほしい。どういう話したの?とかも、本当は聞いてほしい。そういう自分の気色の悪い願望は、彼女にだけは、言えない。

地元で、地元で出会ったわけではない相手と話すのは少し変な感じで、十八年間過ごしていたはずの街の風景が、彼女の声を聞きながらだと、少し違って見えた。

「今日、何してた?」
「……私は、買い物行って、最近できたカフェでのんびりしてた。ほら、タルト屋さんあったところに新しくオープンしたの、この前二人でスーパー行った帰りに見たじゃん。あそこ」
「ひとりで?」
「うん、ひとり。……あ、今度、一緒に行く? 行くっていうより、私が、行きたいだけ、なんだけど。ごめん、ふたりで一緒に行けたらいいよねって話してたのに、時間あったから。ひとりで先に行っちゃった」

会話はよくからまわる。付き合って半年以上も経つのに、いまだに全然からまわる。

そろそろ俺に気を遣おうとするなよ、そんなすぐに怒らないよ、嫌いになるわけないよ、だから、俺の顔色ばかりうかがわないでよ。

そういう気持ちで苛立って、でも、そのたびに、彼女のことが嫌になるのではなくて、もっと、もっと、俺に気持ちを渡してほしい、という彼女を求める方へ向かう。

他の男との経験はけっこうあるはずだろうに、男の好意を受け取った経験はリセットされるのか、俺の好意は宙に浮きがちで、酔っているからか、その虚しさは苛立ちに即変換されて、「すぐに謝んなくていいって、いつも言ってんじゃん」とちょっと尖った声で返してしまう。

そういう自分の情けなさを誤魔化すように、「そろそろ実家つくから、切るね」と大袈裟に優しい顔をつくって口角をあげた。

彼女の方も、無理に作ったような笑顔で、「かけてくれてありがと。おやすみ」と返してくる。

「かなの、不安かなと思って。急に、声、聞きたくなった」

本当は自分が不安だっただけなのに、理解ある恋人のふりをして、画面越しに彼女を見つめる。

そっちが不安なだけでしょ、なんて、彼女は絶対に言い返してこない。本当は、言い返してほしい。言い返せよと怒鳴ったら、ぼろぼろ泣いてくれるのかなと思ったことだって、前に何度かある。

「ありがと。朝日のそういうところ、私ね、本当に、好きだから」

でも、絶対に、彼女は言い返さない。それどころか、無理に作った笑顔ではなくて、本当に嬉しそうに笑うから、また俺は彼女が好きになって、それ以上に自分の情けなさで叫びだしたくなる。

通話を切ったあと、彼女が消えた画面をしばらくじっと見ながら歩いた。

帰りたいなと思った。地元に帰ってきたはずなのに、帰りたかった。でも、彼女のもとへ帰ったところで、絶対的な安心感があるわけではない、ということも分かりきったことだった。

まだ実家には戻りたくなくて、少し遠回りをすることにした。地元は、また地元に戻り、でも、もう俺の街ではない気がする。


彼女とは進学した大学の軽音サークルで出会った。

一回生の時から仲は良かったけれど、その時は俺も別の人と付き合っていたし、彼女にも何人か相手がいそうな雰囲気があった。

サークルの中でも、彼女は一時期、ひとつ上の先輩と付き合っているわけでもないのに特別に親密な感じだった時があって、多分それに感づいていたのは俺くらいだったと思う。そういうことが分かるくらいには、ずっと気にしている相手だった。

彼女は、いつも自分に自信がない感じで、その場にいるのに自分はいないという不在の顔がうまい子だった。

あらゆることに無関心であるのとは違う。起きてるドラマは全て他人事で、自分はつねにその外にいて眺めているだけだから、というような控えめさがある。

自己肯定感が高くて気が強い女の子の方が好みだったはずなのに、正反対の彼女にいつしか惹かれていた。

独占欲は、彼女が自分以外の男を選ぶのも自分以外の男に選ばれるのも面白くない、という形で生まれて、今しかないというタイミングで告白した。

失恋、酒、同窓会、いいなと思う相手とうまくいく可能性を高めるためのラッキーアイテムは人それぞれだろうけど、俺の場合は好きなバンドのライブだった。

彼女も好きだったバンドのライブに、彼女だけを誘って一緒に聞きに行った帰りに告白して、付き合うことになった。嬉しかった。でも、振られないだろうな、となんとなく分かっていた。

歩いているうちに、酔いはさめていく。見慣れた街並み、つぶれた店、新しくオープンしたらしい知らない店。

でも、と思う。

彼女は、たぶん、俺のことが特別に好きなわけではなかったと思う。

俺が彼女を好きだって告ったから、まあいっか、ってなっただけで。本当はそうだよな、と彼女に確かめる気なんてないし、俺から別れを切り出す気は今のところないけれど、いつまで俺たちはこのままなのかなとは、時々思う。

告白した時は、自分が無邪気でいればいいだけだと思った。完璧に、無邪気になりきれたらよかった。

だけど、そんなことはできなくて、逆に、俺は自分の中にあったはずの無邪気さを徐々に失っている気すらしている。

実家が見えてきたところで、スマホが音を立てたから確認すると、彼女からLINEのメッセージが届いていた。

たぶん、すぐに謝らなくていいときつい口調で言ったことを、彼女はうっすらと気にしているんだろうなと思った。

<車とかにひかれないで、気をつけて帰ってね>という言葉と、おやすみの文字付きのコジコジのスタンプが届いていた。

今電話をかけても彼女はまたすぐに出るだろうし、午前三時にかけたって出ると思う。そういう人だった。尽くそうとするタイプの子。

でも、それは俺が好きだからというわけでは、たぶんない。じゃあ何だ、と聞かれてもうまく答えられないけれど、俺だからというより、彼氏だから、俺が彼女を選んだ物好きな男だから、という感じが強い。

コジコジは、タップしたら期間限定の無料スタンプだということが分かったので、俺もすぐにダウンロードして、同じスタンプを彼女に返す。

同じものを持っていたい。彼女よりも俺の方がたぶん女々しい。でも、そういう俺の重さを彼女は知ろうとしない。

上澄みばかりに触れてすくって握ってみたところで、ひらいてみたらほとんど何もない。

虚しくて、でも好きで、足りなくて、足りないくらいがちょうどいい、わけがない。

時々、深いところまで強引に触れようとして、溢れ出した彼女の本音や弱さをかき集めて、俺は俺の恋愛をしている。

自分が手に入れた感じがしないから満たされてないのか、彼女のことが好きだから満たされないのか、そのあたりは考えてみたところではっきりとは分からないから、真剣には考えない。



地元から、大学のある街に戻った日は、一度、自分の部屋で雑に荷ほどきをしてから彼女に会って、そのまま彼女の部屋に泊まった。

彼女の狭いセミダブルのベッドの上で、同じ毛布にくるまって、地元の友達の話を彼女が聞いてはくれないから自分からして、少しつまらない気持ちになった。

若者のすべてが居酒屋で流れていたことを報告したら、彼女は、フジファブリックだったら茜色の夕日が一番好きだと嬉しそうに言って、ふたりで横になったままフジファブリックを少し聞いた。

それから、フジファブリックをシャッフル再生させたまま、ぼんやりと自分のスマホでインスタを眺めていたら、久しぶりに元カノの投稿が流れてきて、そういえば、と思う。

元カノは、俺とのことをインスタによく投稿したり、撮った俺との写真や俺単体の動画をストーリーズで流したりしていたけれど、彼女はそういうことを一切しない。

アカウントはあるのに、投稿はひとつもなくて、ストーリーズで、時折、バンドの曲を共有したり、空をのせたりするだけだ。

そういうところも、付き合う前はいいなと思っていた。なのに、今は、なんでしないんだろう、とうっすら思う。

「かなのって、あんまりインスタやらないよな」

すぐ隣にいる彼女に聞いたら、彼女はぼんやりとテレビを眺めたまま、「誰も興味ないだろうなって思うから、躊躇っちゃう」と寂しいことを言った。

「そんなことないよ。俺、かなのちゃんの見たいし」と言ったら、「なんで朝日が」とくすくす笑われる。本気だったのに冗談だと思われたようだった。自分に向けられる関心を、彼女はいつもあまり本気にしない。

俺自身は、インスタは完全に見るだけで、ストーリーズでさえほとんどしないくせに、彼女にだけ求めるのは違うよなと思いながらも、元カノみたいに少しはあげてくれてもいいのに、という気持ちもなかったことにはできなかった。

言葉にできない分、毛布の中で引き寄せて、身体をくっつける。彼女は拒むことはなかったけれど、テレビをひたすら見ていた。

自分の思考の鬱陶しさを消したくて、その後しばらく、インスタのリール動画をぼんやり眺めていたら、町中華の映像が流れてきて、急に中華の口になる。

後ろから抱きしめるような体勢のまま、彼女に「明日、久しぶりに中華食べに行く? バイト終わった後になっちゃうけど」と提案する。

そうしたら、彼女はテレビからようやく顔を俺の方に向けて、ちょっと困ったような表情で、「飲みに行く約束してる」と言った。

「だれと?」と俺は躊躇うことなく聞いてしまう。彼女は嫌な顔ひとつせずに俺の質問に答えようとする。

彼女の口から出た名前は、サークルの同期で、俺もよく知っている女子三人だった。彼女とその子たちが仲良くしていることは知っているし、自分も知っている相手だと安心する。

でもこの安心を、彼女には悟られたくはなくて、「仲良しだもんな、かなのたち」と、自分が聞いたくせにそこまで興味がないというトーンで返す。

俺は不誠実で、なのに彼女は俺が不誠実だって知らないから、「やさしいからみんな」と嬉しそうに小さく笑って、俺を自分のさみしい瞳に真っ直ぐ映す。

誠実でいたい、彼女と同じ誠実さがほしい。見破ってほしくないふりをして、本当は見破ってほしい。俺の弱さも、不誠実さも。彼女にだけ見破られたい。

すぐにたまらない気持ちになる。

自暴自棄に似た性欲が生まれて、俺を見つめる彼女に口づける。

「どこで飲むの」
「大学の近くに新しくできたところ」
「じゃあ、バイト終わり迎えいく。大学の裏門とこで待ち合わせして一緒帰ろ」
「……ありがと。朝日が疲れてなかったら」
「体力あるから」
「体力は、たしかに、朝日あるよね」

今度は、彼女から、口づけられる。

毛布の下で足を絡めて、口づけを深めていったあと、舌だけを出して、互いに舌先をくすぐり合う。

男を気持ちよくさせるのが上手いなと思う。自分が気持ちよくなることよりもきっとはるかに。

そんなことできるなよ、と童貞の時のような気持ちになる。彼女がそういう行為に慣れている分だけ、加虐心が生まれる。いつになったらこういう自分から卒業できるんだろうと思う。

明るいままの部屋で、毛布をベッドの下に落として、彼女が身につけているものを全て脱がせる。

彼女は明るいところで裸をみられることが好きじゃないって知っているのに、今日はわざと嫌がることをしようとしていた。

照明のリモコンに手を伸ばそうとするから、その手を掴んで、「今日、このままがいいんだけど」と無邪気なふりをして伝える。彼女は少し嫌な顔をしたまま、「萎えちゃうかも、朝日が。消そうよ」と、素肌を手で隠しながら馬鹿な事を言う。

「なんで俺が萎えるの。そんなわけないじゃん」
「でもさ」
「……別にでも、かなのが嫌なら、いいよ、やっぱりいつも通り、ちょっと暗くしよ」

聞き分けのいい恋人のふりをしながら、ほんの少しだけ納得がいっていないみたいな顔はみせる。言葉では相手に寄り添うふりをするくせに、リモコンに手を伸ばさない。

嫌がることをしたい。こんな気持ちが正しいわけないのに、じゃあ、どうやって、あなたに俺は近づけばいいのか、時々、本当に分からなくなる。

喧嘩してみようと思ったこともあった。喧嘩してみたかった。俺を傷つけてほしかった。失敗した。

傷つけることだけはいつも失敗しない。だから、きちんと好きでいることに、成功したことがない。俺がこんな計算をしていることなんて、彼女は気づいていない。

あのね、かなの。かなのが付き合っているやつは、こういう男だよ。絶対、言わないけどな。

「やっぱり、このまましたい」と、彼女は俺に手を伸ばして、俺の顔色をうかがうように微笑んだ。

しよう、ではなく、したい、という言葉遣いだって、気を遣わせたのだと分かっていた。それでも俺は鈍いふりして、彼女にまた口づける。

「ほんとにいいの」
「いいよ」
「無理させてるんだったら、俺、嫌なんだけど」
「朝日とのことで、無理とか、私、あんまりないから」

それもそれで寂しくて、もう自分が彼女に何を求めているのかさえ、分からなくなってくる。

そのまま行為に及んで、彼女の歪む顔をじっと見つめていた。そうされることも彼女は好きじゃないって分かっているのに、じっと見つめていた。

顔を覆おうとする手をシーツに縫い付けるように固定して、顔を背けようとしたら無理にキスをして。最初から最後まで、自分本位に行為をすすめて、それなのに、私を雑には扱わないから朝日は優しい、と言わんばかりの顔で彼女は俺を自分の目に映すから、そんなわけないだろ馬鹿じゃねーの、と思った。

試してばかりいる。試すたびに傷つけて傷ついて、でも無傷で善良な顔をし合いながら、そばにいる。

明るくて暗い恋愛で、二人だけで幸せになるにはどうしたらいいんだろう。そういう歌を、誰か歌ってほしい。そうしたら、それを彼女と二人で聞きにいって、俺は、ちょっと泣くと思う。



次の日の夜、バイト終わりに大学に向かったら、すでに裏門には彼女の姿があった。

手を振ったら、控えめに振り返してくれる。

ひどいセックスをするくせに、俺が手を振ってそれを彼女が自分に向けられた手だとちゃんと分かって振り返してくれるだけでも本当はうれしい、という気持ちも俺の中にはあって、傷つけたいも、絶対に傷つけたくないも、どちらも本当で、嫌になる。

彼女のマンションに並んで歩いて向かう。

その途中でコンビニによって、ピザまんを半分こして食べた。彼女は自分の話をあまりしないけど、サークルの同期との飲み会が楽しかったのか、飲み会でした話を少し俺にもわけてくれる。

「若者のすべて、流れてたよ」
「やっぱり居酒屋だと、どこでも流れるのかもな」
「KIRINJIも天才バンドも流れてた」
「どの曲流れてた?」
「エイリアンズと、ダラダラ」
「いいじゃん、今度そこ行きたい」
「うん、おすすめ。料理もおいしかったから」
「一緒に行こ。他の人も誘うのありじゃない? 久しぶりに、サークル飲み俺もしたいし」
「やった」
「かなの、嬉しいの?」
「……うん」

すぐにたまらない気持ちになる。

彼女の手をすくって、いつもとは違ってわざと、恋人繋ぎではなくて、握手するみたいに繋いだ。

俺たちの横を通り過ぎていった車の行方をぼんやりと追って見えなくなった後、「今日、一緒に風呂入ろ」と、無邪気を装った顔を彼女に向けて笑ったら、彼女は俺を見上げて、うすく笑い返してきた。

何を考えているのか分からなくて、傷つけたい、が優勢になる。

いや、違う。もっと、やさぐれたような気持ちだった。脈略なんて何も無く、ひとりで拗ねているような、くだらない気持ちになっていた。

「最近、朝日、あれだね」
「あれって何」
「あれは、あれだよ」
「あー、ね。溜まってるのかも。ヤりたいだけではないけど、今ちょっと風呂でエロいこととかしたくなってる。内緒にして」
「そんなの誰に言うの。いいよ、別に、お風呂でしても」

彼女は、ふふ、と安心した顔で笑って、口を変な風にもごもごとさせた。

付き合ってから、本当はずっと、性欲しかない男だって彼女に思われないようにがんばっていた。

実際に、性欲を満たすために付き合っているわけではなくかったし、それが第一ではなくて、本当にあなたが好きだから、あなたと付き合っているんだって、彼女に思ってもらうことに必死になっていたこともあった。

だけど、付き合って八ヶ月が経った今はもう、なんとなく理解していた。

彼女は、俺に好意を向けられるよりも、ただの性欲を向けられる方が安心した顔をする。そういう人だった。

いつも不安そうな顔ばかりで、俺の好意をそのまま受け入れることは難しそうにしているくせに、俺の性欲は、自分から引き出そうとすることだってある。

それが何でなのかは俺には分からなくて、でも間違いなく、俺は、彼女よりは彼女のことが好きだと思う。

やさぐれた気持ちのまま、だって、かなのはどうせ性欲の方が安心するんだろ、という目で、彼女を見下ろす。

我ながら、冷めた目をしていたと思う。

好きなのに、関係に傷をつけるようなことばかりしてしまう。そのまま彼女を見ていたら胸が痛くなったから、視線をずらしてまた前を向いた。

いつも、いつも、本当は、傷つけたかった。傷つけた分だけ、傷つけ返して欲しかった。絶対に、傷つけたくもなかった。

でも、絶対に傷つけないことよりも傷つけることの方が何百倍も簡単だった。傷つけてないような顔をして何度もずるいやり方で傷つけていた。

彼女はきっとそのほとんど全てを知らないまま、俺の隣にいる。

好きなのに、足りなくて、どうしたら、装おうことなく、偽ることなく、彼女の善良な恋人になれるんだろうか。

情けないことを彼女の隣でひたすら考えながら歩いていた。

するとふいに、握手するみたいに繋いでいた手が一度ほどかれて、指と指をしっかりと絡めるような恋人繋ぎに変えられた。

びっくりして、すぐには何も言えずに、彼女に視線を戻す。彼女はじっと前を見つめて黙ったまま、ただ不安げな表情を浮かべていた。

街灯と車のライトに照らされて、彼女の彩度が毎秒変わる。遅い速度で点滅しているように、俺の目には映っていた。

今の今まで傷つけたいと思っていた。

だから、その分だけたまらない気持ちになってしまう。

甘えるのが本当に苦手なくせに、彼女が手の繋ぎ方を自分から変えたこと。性欲の方が安心するんだろ、なんて、嫌なことを考えていた俺の隣で、そんな俺の気持ちなんて全く知らないくせに、彼女が精一杯甘えようとしてくれたこと。

傷つけたい、のすべてが、絶対に傷つけたくない、に勢いよくひっくり返って、その反動で、少し泣きたくなった。

「かなの」
「……なに」

繋ぎ直してくれた手にぎゅうっと力をこめて、じっと彼女を見つめる。彼女は、恐る恐るといった様子で俺を見上げた。

その刹那で、頑張ろうと思えてしまう。やっぱり頑張らなければいけないと思い直す。

できる限り、無邪気でいる。誠実でいる。だから、やっぱり、これからも、俺のこと好きでいてほしい。もっと好きになってほしい。

「ほんとにかわいい。今、どきっとした」

重い気持ちを、できるだけ軽い言葉に変えて彼女に伝える。

そうしたら、彼女は、「そういうの、朝日いいんだよ。でも、うん。……うれしい」と、困ったような、嫌がっているような、不安そうな、でも少しだけ嬉しそうな、信じられないような、もう俺にはよく分からない表情で頷いて、すぐに視線を前に戻した。

その一連の動作をじっと見つめながら、せめて今この時から日付が変わるまでは、今夜だけは、いったん許そうと思った。

自分の情けない気持ちも、ひどい気持ちも、それ以外の全ても。

明るくて暗い恋愛で、二人だけで幸せになるために、今夜だけは、今夜だけは。誰も歌わないから泣くことでもなくて、でも、今夜だけは。今夜だけは。

俺は、夜の光でゆるやかに点滅する、何を考えているのかはっきりとは分からない彼女の横顔を、分からないまま見つめる。

ただ、見つめたままでいた。