伝染鬼を読み終え、私は奈落に落ちた。
どうやら、私に与えられた選択肢は二つしかないようだ。
殺人犯になるか、自殺するか。
どちらを選んでも、私に明るい未来はない。
たった五万円に目がくらんで、こんな書物を読んだから。
どうして、こんな危険な仕事に手を出してしまったのだろう。
お金が欲しかった、小説家であり続けたかった。実家には二度と戻りたくなかったから。
私の母はいわゆる学歴信仰者だった。
たくさん勉強していい大学にはいって、公務員か大企業に勤める。
私が母に強いられてきたことだ。
本当は歌手になりたかった。
容姿は十人並みだったけれど、声だけには自信があった。
美しい声だと先生から友達から褒められていた。
歌だって得意で、合唱団に何度も誘われた。
ピアノや塾、水泳なんかじゃなくて、歌の習い事をしたかった。
でも、母は許さなかった。
家で歌っていると、五月蠅いとか、下手くそだと罵倒された。
「あんたなんかが歌手になんてなれるわけないでしょ。バカね」
繰り返し母に言われた呪いの言葉は、今でも胸に深く刻みついている。
私なんかが何者かになれるはずがない。
その他大勢と同じように、大学に行って就職して、社会の歯車として黙々と回り続けることしかできないのだ。
夢など追いかけている場合じゃない。
いい大学に入らなくては落伍者の人生を歩むことになる。
学生時代は勉強だけ死に物狂いでしていればいい、娯楽や趣味は大学に合格してからするべきだ。
私は母の言葉を信じ込み、偏差値の高い国立大学の教育学部に入った。
だけど、それは過ちだった。
大学生活が落ち着き、やりたいことがはじめられたのは二年生になってから。
さっそく歌手の夢に挑むため、バイト代で溜めたお金で歌のスクールに通った。
スクールの講師は私の歌を褒めてくれた。
そして、残念そうな顔でこう言った。
「もっと早くから、せめて中学から頑張っていたら歌手になれたかもしれないのにね」と。
何かを始めるのに遅すぎることはない。
誰かが言っていた。でも、そんなのはきれいごとに過ぎなかった。
私は三カ月でスクールを辞めた。歌手になれないなら、無意味だと思ったからだ。
読書家だった私は(漫画以外の読書は母も推奨しており、娯楽として許されたからだ)ポツポツと文章を書くようになった。
昔から、勉強しているふりをしながら、ちょっとした物語を書き綴るのが好きだった。
創作は私のオアシスだった。
大学三年の時、就職活動をはじめて強く思った。
私は教師にも、味気ないサラリーマンにもなりたくない。
こうなったら何としてでも小説家になってやる。
そして、何者にもなれないと私を嘲笑い続けた母を見返してやるんだ。
一念発起し、就職活動のかたわら寝る間も惜しんで執筆活動に励んだ。
氷河期世代ほどでないにせよ、何十社受けて一社か二社しか受からない就職難の時代、偏差値の高い大学だったにも関わらず、私は地元の食品卸売業の総合職しか内定を得られなかった。
しょうがないからそこに就職して、私は執筆を続けた。
二十四歳の時、目出度く自分の心情を鮮明に書いた青春小説で、大きな文学賞の新人賞を受賞した。
「私、小説家として東京で生きていくから」
仕事を辞めることに母は大反対したが、私は無視して自分の人生を歩みはじめた。
「何が小説家よ、将来ぜったいにニートになるわよ」
別れ際、母は呪いの言葉を吐いたが、その時はただの負け惜しみだと思った。
だけど、三十路を迎える頃にはすっかり物書きの仕事はなくなり、母の呪いは現実になりかけていた。
「お母さんが、子供の頃にもっと私を褒めてくれていたら」
勉強でいい成績をとっても当然で「まだまだお前は人並みですらない」と罵られた。
読書感想文で入選しても「選んだ本のおかげだ」と断言された。
歌を褒められたと言えば「音痴なのにね」と鼻で笑われた。
「うちの子なんて勉強はしないし、なんの才能もないわよ」
母が近所で、親戚の集まりでそう私を笑った。
だから、私は自己肯定感がなく、母の言いなりになるしかなかった。
夢を追いかけることさえ、叶わなかった。
そして今、たった五万円のために呪いの本に手を出して破滅の道を進んでいる。
自分のやるべきことが見えた気がした。
私は赤い本を大事に紙袋に入れると、パソコンを立ち上げた。
どうやら、私に与えられた選択肢は二つしかないようだ。
殺人犯になるか、自殺するか。
どちらを選んでも、私に明るい未来はない。
たった五万円に目がくらんで、こんな書物を読んだから。
どうして、こんな危険な仕事に手を出してしまったのだろう。
お金が欲しかった、小説家であり続けたかった。実家には二度と戻りたくなかったから。
私の母はいわゆる学歴信仰者だった。
たくさん勉強していい大学にはいって、公務員か大企業に勤める。
私が母に強いられてきたことだ。
本当は歌手になりたかった。
容姿は十人並みだったけれど、声だけには自信があった。
美しい声だと先生から友達から褒められていた。
歌だって得意で、合唱団に何度も誘われた。
ピアノや塾、水泳なんかじゃなくて、歌の習い事をしたかった。
でも、母は許さなかった。
家で歌っていると、五月蠅いとか、下手くそだと罵倒された。
「あんたなんかが歌手になんてなれるわけないでしょ。バカね」
繰り返し母に言われた呪いの言葉は、今でも胸に深く刻みついている。
私なんかが何者かになれるはずがない。
その他大勢と同じように、大学に行って就職して、社会の歯車として黙々と回り続けることしかできないのだ。
夢など追いかけている場合じゃない。
いい大学に入らなくては落伍者の人生を歩むことになる。
学生時代は勉強だけ死に物狂いでしていればいい、娯楽や趣味は大学に合格してからするべきだ。
私は母の言葉を信じ込み、偏差値の高い国立大学の教育学部に入った。
だけど、それは過ちだった。
大学生活が落ち着き、やりたいことがはじめられたのは二年生になってから。
さっそく歌手の夢に挑むため、バイト代で溜めたお金で歌のスクールに通った。
スクールの講師は私の歌を褒めてくれた。
そして、残念そうな顔でこう言った。
「もっと早くから、せめて中学から頑張っていたら歌手になれたかもしれないのにね」と。
何かを始めるのに遅すぎることはない。
誰かが言っていた。でも、そんなのはきれいごとに過ぎなかった。
私は三カ月でスクールを辞めた。歌手になれないなら、無意味だと思ったからだ。
読書家だった私は(漫画以外の読書は母も推奨しており、娯楽として許されたからだ)ポツポツと文章を書くようになった。
昔から、勉強しているふりをしながら、ちょっとした物語を書き綴るのが好きだった。
創作は私のオアシスだった。
大学三年の時、就職活動をはじめて強く思った。
私は教師にも、味気ないサラリーマンにもなりたくない。
こうなったら何としてでも小説家になってやる。
そして、何者にもなれないと私を嘲笑い続けた母を見返してやるんだ。
一念発起し、就職活動のかたわら寝る間も惜しんで執筆活動に励んだ。
氷河期世代ほどでないにせよ、何十社受けて一社か二社しか受からない就職難の時代、偏差値の高い大学だったにも関わらず、私は地元の食品卸売業の総合職しか内定を得られなかった。
しょうがないからそこに就職して、私は執筆を続けた。
二十四歳の時、目出度く自分の心情を鮮明に書いた青春小説で、大きな文学賞の新人賞を受賞した。
「私、小説家として東京で生きていくから」
仕事を辞めることに母は大反対したが、私は無視して自分の人生を歩みはじめた。
「何が小説家よ、将来ぜったいにニートになるわよ」
別れ際、母は呪いの言葉を吐いたが、その時はただの負け惜しみだと思った。
だけど、三十路を迎える頃にはすっかり物書きの仕事はなくなり、母の呪いは現実になりかけていた。
「お母さんが、子供の頃にもっと私を褒めてくれていたら」
勉強でいい成績をとっても当然で「まだまだお前は人並みですらない」と罵られた。
読書感想文で入選しても「選んだ本のおかげだ」と断言された。
歌を褒められたと言えば「音痴なのにね」と鼻で笑われた。
「うちの子なんて勉強はしないし、なんの才能もないわよ」
母が近所で、親戚の集まりでそう私を笑った。
だから、私は自己肯定感がなく、母の言いなりになるしかなかった。
夢を追いかけることさえ、叶わなかった。
そして今、たった五万円のために呪いの本に手を出して破滅の道を進んでいる。
自分のやるべきことが見えた気がした。
私は赤い本を大事に紙袋に入れると、パソコンを立ち上げた。