読まなければよかった。

私は赤い本を閉じて、机に突っ伏した。

助かるヒントを得るどころか、絶望の底に叩き落とされてしまった。
伝染鬼の残りページはもう僅か。ここから巻き返しのハッピーエンドは難しいだろう。

「堕ちなさい」

鈴のような高く美しい声がはっきりと聞こえた。

慌てて背後を振り返るが、誰もいない。

部屋がぞっとするほど寒い。
私は実家から持ってきた手毬模様の渋柿色のちゃんちゃんこを重ね着した。ダサいけど、軽くて温かい。

高校生の頃、可愛くて温かい部屋着を母にねだった時に「これで十分でしょ」と、母に押し付けられたちゃんちゃんこ。実家を出る時に押入れの服を一切合切つめこんで、たまたま必要な服に紛れて入っていただけの不用品が、まさか役に立つとは。

まだ十一月になってそう経っていないというのに、部屋の中は凍えるようだ。

「何が今年は暖冬です、よ。アテにならないわね」

 毒づきながら、私はパソコンの電源を入れる。

 パソコンの画面の右下のタスクバーには、現在の天気と温度が自動で表示される。
それを見て、私は驚いた。

「二十三度、暖かいじゃない―…」

 だったら、この部屋の凍えるような寒さはなんだ。
いくら隙間風が吹く安普請のアパートといえども、日当たりはそれなりに悪くない部屋だし、外と比べて極端に温度が低いことはありえない。

 幽霊が現れる時はねえ、温度がすっごく低くなるんだって。

 まりえが昔言っていた心霊の豆知識を不意に思い出し、背筋が震えた。

 温度計がないから、この部屋の正確な温度はわからない。
だけど、吐く息が白く残ることからして、一桁台の気温だろう。

いつからだろう、部屋のトーンが他の場所と比べて、ワントーンもツートーンも暗く感じるようになったのは。

「なあ、気付いて」
「おるよ、ここにおるよ」
「やっちまえよ」
「同じ穴の狢やろ」

ざわざわと呟く声が聞こえる。

「ひいっ!」

 私は逃げるようにダイニングを飛び出した。

長らく続く寝不足で、頭が可笑しくなっているのだ。
顔を、顔を洗おう。そうしたら頭もスッキリして、変な妄想も消える。妄言も聞こえなくなる。

 私は洗面所に走り込んだ。
 電気を点けて、顔をばしゃばしゃと乱暴に洗う。
冷たい水のおかげで全身がしゃきりとした。

「よし」

 気合を入れて顔を上げようとした瞬間、バチンと音がして蛍光灯が突然消えた。

 ドアを開けっ放しにしておいたから真っ暗にならなかったのは、不幸中の幸いだ。

「なんなのよ、もう」

 私は顔を上げて鏡を見る。
 鏡には不貞腐れた自分の顔が映っていた。
そして、私の背後には大量の青白い顏が映っていた。

「きゃあぁっ!」

悲鳴を上げて私は洗面所を飛び出した。

心臓がバクバクと五月蠅い。胸に手を当てると、ドクンドクンと激しく心臓が跳ねる感触が伝わってきた。

このままでは、私は死んでしまう。

私はよろよろとダイニングに戻った。
仕事なんて、小説なんてもうどうでもいい。そ
れよりも、どうしたらこの恐怖から解放されるのだろうか。

ネットで調べよう。
そう思ってパソコンの前に座ると、新着メールの通知があった。
反射的にメールボックスを開く。まりえからだ。

『小夜子、本はもう読み終わった? 先週、半分ぐらい本を読んで、内容や本を読んで起きた霊障を少しずつまとめてるって報告してくれたきり、ずっとメールくれてないよね。どうしたの、何かあった?』

 何かあったなんて、白々しい。

 私はまりえのメールをゴミ箱に捨てると、パソコンを乱暴に閉じた。
 まりえが呪われた本を持ってくるから。まりえのせいだ、まりえが憎い。

 気付けば私は刺身包丁を握りしめて、部屋をうろうろしていることが増えた。
包丁を握っている間は、不快な恐怖と焦燥感に似た掻痒感が治まった。

 自分の周囲には常に何者かの気配がして、耳の奥のノイズが止まない。
誰かの叫びや嘲笑、怨嗟の声がしょっちゅう聞こえる。

 ぷるるるるるる、ぷるるるるるる。

 間抜けな電子音が部屋に響き渡った。久しぶりに聞く音だ。

 私は刺身包丁を投げ捨て、スマホを手に取った。

「はい、森谷です」
「あっ、小夜子。よかった~、電話に出てくれて」
「……まりえ」
「ね~、どうして返事くれないの? メール、ちゃんと見てる?」
「ああ、ごめんなさい。メールには気付かなかったの。いろいろ、忙しくて」
「もしかして、執筆中? やだ、邪魔しちゃったかな」
「いいのよ」
「進捗状況はどう? 伝染鬼はもう読めた?」
「ええ、あと数ページよ」
「そっか~。ねえ、どうだった?」

 好奇心の滲んだ声に、神経が逆撫でされた。

「どうって、何が?」

「ほら、呪われた本だって東条先生が言ってたから、読んで何か可笑しなこととか、なにかったかな~って思って」

 心配そうな声色を出している。でも、今の私にはまりえが腹の底で楽しんでいることがわかった。

「別に、何も無いわよ」

 虚勢のつもりはなかった。ただ、なんとなくそう答えていた。

「そうなんだ、でも何も無くてよかったよ」

 ホッとした声でまりえが言った。
でも、嘘だ。がっかりしていることぐらい、私にはお見通しだ。

「進捗の報告をしたいし、家に来ない?」

 まりえは少し間を置いてから「そうだね、おじゃましよっかな」と答えた。私はにやりと唇の端を吊り上げる。

 二時間後に約束を取り付けて、私は電話を切った。

 無気力でだらしない母親には似るまいと、綺麗にしていた部屋は今や荒れ放題だ。
簡単に食べられるカップラーメン、コンビニ弁当の残骸が転がり、取り込んだ洗濯物が積まれている。

風呂に入っていなかったから身体からはぷんと饐えた臭いがするし、髪はべっとりと油っぽい。

 また掻痒感が襲ってきた。腹の周り、手首を掻き毟る。

 ひっかき傷ができて血が流れると、少し痒みと不快感が治まった。でも、それだけじゃ足りない。

 私は床に転がった刺身包丁を手に取ると、キッチンに行った。
 伽石を出して、刺身包丁を研ぎはじめる。

 しょりしょり、しょりしょり。

 刃が研ぎ澄まされていく音が心地よく耳に響く。
しょっちゅう私を悩ます、見知らぬ人の声は聞こえない。掻痒感も消えている。

「まりえ、早くおいで」

自然と鼻歌が零れた。こんなに気分がいいのは久しぶりだった。