鬼形村から戻ると、わたしは自分の体験と村で見知ったことをもとに小説の執筆にとりかかった。

 だが、思うように執筆は進まない。机に向かって一時間経っても、広げた原稿用紙のマス目は埋まらない。

 筆を動かしていないと自分が本格的に堕落していく気がして、小説執筆の傍ら、わたしは鬼形村の旅について詳しく書くことにした。

 原稿用紙を見るのが苦痛だったので、鬼形村の旅行記は別紙に書くことにした。
日記帳サイズの白い紙に、体験を書いていく。
書き終えたら表紙をつけて紐で綴じて、一冊の本に纏めてみるのも面白いだろう。

 体験談の執筆は驚くほど捗った。

「このくらいにしておくか」

 意図的に体験談の執筆を中断し、また原稿用紙を広げた。
筆を握っているうちに、だんだんと意識が研ぎ澄まされていく。

書ける、今なら書けるぞ。

気分が盛り上がってきた時、パッと目の前が暗闇に包まれた。

「な、なんだ?」

いきなり部屋の電気が消えたのだ。でも、何故?

窓の外は暗闇だが星が煌めいているし、周囲の家の窓は煌々と光を放っている。雷や強風で電線が切れたわけじゃない。かといって、ブレーカーがいきなり落ちたとも考えにくい。

暗闇にねっとりと絡みつくような、嫌な気配を感じた。

トンネル。ここは、あの幽鬼の村に続くトンネルなのか。
ふと、そんなふうに思った自分にぞっとする。

冗談じゃない、あんな恐ろしい体験は二度とごめんだ。

筆を置いて立ち上がった。
バチッと音がして、部屋の天井に再び電気が灯る。

「なんだ、ただの故障だな」

 殊更明るく呟くと、わたしは再び筆を執った。

 しばらくして、今度は奇妙な笑い声を聞いた。
鈴を転がすような、女の高く美しい笑い声だ。
しかし、その笑い声はどこか悪辣な響きを孕んでおり、耳にしているだけで頭痛がしてきた。

 笑い声に混じって耳鳴りがした。奇妙な雑音が耳の中でしている。
まるで、頭の中に何者かが侵入して呟いているような、そんな音の聞こえかただった。

 背筋がざわざわとする。足の指の先や背中がむず痒いような気がして、わたしは肌を掻き毟った。
だが、掻くとむずむずは違う場所に移動してしまい、いつまでたっても奇妙な痒みはおさまらない。
 おまけに雑音は次第に大きくなっていき、それに比例して搔痒感も増す。

「○×△■■〇×」

 奇妙な言葉が聞こえた。どこかで聞いたことがある、奇妙な言葉。

「○×△■■〇×」

 ああ、そうだ。鬼形村の山の中、橋を渡った向こうにポツンとある奇妙な社にいた、美しい女が呟いた言葉だ。

「○×△■■〇×」

 いつの間にか、わたしはそう呟いていた。
すると、鬱陶しい掻痒感は消え去り、雑音も止んでしまった。
 再びわたしは筆を執り、字句を記す。

 小説じゃない。わたしが書き綴っていたのは鬼形村での恐怖体験と、今起きている奇怪な出来事だった。
ほとんど無意識で手が動いている、自動書記のようだ。体験を書き記せと見えない何かに命じられているのかもしれない。


 その晩、わたしは奇妙な夢を見た。

夢の中のわたしは、あのトンネルにいた。
無明の闇の中、わたしはぽつねんと立ち尽くしていた。

 何をしているのか、どうしてここにいるのか、わからない。どのくらいの時間、この暗闇に抱かれていたかも。
 真っ暗闇を光が切り裂いた。

これは希望の光ではない、終末だ。何故だか、わたしはそう感じた。

光はチカチカと点いたり消えたりを繰り返す。

その感覚がどんどん狭まっていき、やがて頼りない橙色の光として闇に居ついた。
ふと、光の中に何かが浮かんでいる。

青白く細長い何か。蛇、いや、違う。あれは人だ。頭の部分がないので蛇に見えたけれど、手足がある。

それにわたしが気付いた瞬間、それもわたしに気付いたようだ。
ぬううっと滑るような奇妙な動きでそれはわたしに肉薄した。

心臓がバクバクと音を立てる。それの手には、大きな鎌が握られていた。その鎌には見覚えがあった。
そうだ、あれは働き者だったわたしの母が愛用していた、草刈り鎌だ。

しかし、近付いてきたそれはわたしの母ではなさそうだ。
母のような、枯れ木の体格ではない、もっといかつい、幽霊とは思えない健全な体格をしている。

頭に黒い頭巾を被っていて顔を隠しているが、恐らく男だろう。肌は病的に青白く乾いている。健全な体格とその肌の差がかえって気味悪さを増していた。

黒頭巾が鎌を振り上げた。

殺される。恐怖したわたしはとっさに叫び声をあげ、黒頭巾の幽霊に飛びかかった。いつの間にか、わたしの手にはそれが持っていた鎌が握られていた。

ざくん。

肉を切る感触が手のひらから全身に伝わる。

「はははははははっ、はははははははっっ!」

 笑い声がトンネルに木霊した。
 笑っていたのは他でもない、わたし自身だった。
 けたたましい笑い声でわたしは目を覚ました。

飛び起きたわたしはまっさきに、自分の手を確認した。
わたしの手は鎌など握っていなかった。ほっと胸を撫で降ろす。

 夢でとはいえ、殺人をしてしまった。
あれは人ではなくて幽霊だったかもしれない。
でも、鎌を刺した時の感覚が手のひらにしっかりと残っている。

「ただの、夢だろう」

 弱々しい呟き声に応えてくれる者はいない。
一人というのは、なんて孤独なのか。
誰でもいいから、嫁をとっておくべきだったかもしれない。

 すっかり凝り固まった肩を解そうと、わたしは首を回した。

 その時、きちんと閉めたはずの襖が数センチほど開いているのが見えた。

 隙間というのはよくないものの通り道になりがちだ。わたしは慌てて布団から這い出して、襖を閉めようとした。
 真っ黒な隙間に青いものが浮かんでいる。ビー玉、いや、違う、目玉だ。

「ひいっ」

 情けなく叫んだわたしを嘲笑うかのように、青い目玉は三日月に細められた。
その露悪的な笑みを見たとたん、わたしは意識を失ってしまった。

 
窓の外は光が溢れ、障子から光が透けている。
 いつのまにか、朝になっていた。

「す、隙間を。隙間を失くさねば」

 わたしは譫言のように呟き、目の前の襖に手を伸ばした。

 すると、襖はぴったりと隙間なく閉まっていた。
昨晩、あの隙間が開いていたのは夢だったのか。
夢の中の夢で、わたしは半開きの襖を締めようとして、青い目玉の怪異に出くわしたのだろうか。

 暑くもないのに額にびっしりと汗が浮かんでいた。

 わたしは汗を拭い、離れた場所で乱れている布団に戻った。
その時、奇妙なものに気付いた。枕元に何かが落ちている。

「なんだ、これは。櫛?」

 黒塗りの金の蝶が描かれた美しい櫛だった。

「アナタはもう、ワタシのもの」

 耳の奥で美しくもおぞましく、海の青を宿した瞳の女を思い出した。
紅の鮮やかな着物姿が脳裏に鮮やかに蘇る。

「憑かれたのだな」

 不意に自分の口から洩れた言葉が、心臓を凍えさせた。

 わたしは慌てて黒塗りの櫛を拾い、窓から外に放り投げた。
櫛は放物線を描いて、隣の家の植え込みに消えた。

 わたしは本格的に憑かれたのだ。

 鬼形村の山奥の社の座敷牢にいた、あの紅の着物の美しい女の霊に。
彼女は三鬼家当主の娘、千姫だったに違いない。
 千姫はわたしに憑りつき、何を成そうとしているのか。

「馬鹿な、単なる夢だ。あの櫛は、わたしが無意識のうちに持ち帰っただけだ。それがたまたま、枕元に落ちたのだ」

 釈然としなかった。だが、無理にでもそう納得した。
そうしなければ、狂ってしまいそうだったから。


 しかし、やはりわたしは捕まっていた。


 買い物から帰ってくると、机の上にぽつんと黒塗りの櫛が置いてあった。
わたしは愕然とした。

今朝、確かに捨てたはずだ。それなのに何故―…

 震える指で櫛を手に取った。

窓を開けて捨てるだけではまた戻ってくるかもしれない。
わたしは外に出ると、落ち葉を集めて火を点けた。赤々と燃える炎の中に櫛を放り投げる。

 ひょっとして、消えずに櫛だけ焼け残るのではないか。
戦々恐々としながら火が消えるまで様子を見守っていた。

 完全に火が消えると、燃えかすを火かき棒で掻き回した。そこには黒く焦げた塵があるだけだった。

ああ、よかった。わたしは胸を撫でおろして家に帰った。

 一人きりの家。それなのに気配を感じる。

誰もいない二階でぎしりと床を踏む音がした。筆を止めて、わたしはそそくさと二階に駆けつける。
だが、何もいない。
 気のせいだったかと、また書斎に戻って筆を手にする。すると、今度は台所から水音が聞こえた。
台所に行くと、蛇口から細く水が垂れていた。
きちんと締めたはずなのに。

 わたしの家はお化け屋敷と化してしまった。真昼から奇怪な現象が起きる。
一つ一つの異変は些細なものだ。しかし、こうも続くと気味が悪い。

 夜が来るのが恐ろしい。化け物の時間となったら、家の怪異はさらに激しさを増すのではないか。
不安な気持ちでわたしは夜を迎えた。


 窓の外は紺色の闇に覆われている。
頼りないか細い月と小さな星々が地上に光を注ぐが、なんの慰めにもならない。

わたしは豆電球を点けたまま、早々に床に入った。
いつもならば電気をすべて消して眠るのだが、今は暗闇が恐ろしい。電気を消すことができなかった。

 橙のぼんやりした明かりが闇を柔らかく照らしている。
そのことに安堵を覚えるほど、わたしの心は縮み上がっていた。

 さっさと寝てしまおう。

そう思っている矢先、物音がした。

 コンコンコン

 誰かが窓を叩いている。

こんな夜半に訪問してくるような知り合いはいない。
そもそも、今のわたしと縁のある人間など大川ぐらいだ。

 大川は飄々として破天荒に見えるが常識人だ。少なくとも夜中に突撃訪問してくるような男ではない。

 コンコンコン

 窓を叩く音がさっきよりも大きくなった。

「おるんやろ? あかりがついとるもん、おるんやろ?」

 見知らぬ声がした、幼い子供の声だ。

「ねえ、どうして。どうして?」

 わたしは口の中に溜まった唾を飲み込むと、そっと布団から出て電気を消した。
居留守を決め込むためだったが、これがよくなかった。

 バン、バン、バンッ

 窓を叩く音がきゅうに激しくなる。
 わたしは恐ろしくなり、布団を頭から被った。

「とうさま、とうさま。どうして。いたい、いたいわ。ひどいやん、とうさま」

 断罪する声。恐ろしさに震えていたわたしは、その声に耐えられなくなった。
布団を跳ねのけると、窓を乱暴に開ける。

「悪ふざけはやめろ!」

 叫んだわたしの声が闇に虚しく響いた。

そこには、誰もいなかった。

 首を傾げながら窓を閉め、布団に戻ろうとした。
しかし、奇妙なことが起きていた。布団が小さく膨らんでいるのだ。

「馬鹿な、空っぽに決まっている」

わたしは震える手で布団を捲った。

すると、顔が半分陥没したおかっぱの少女が仰向けに寝転がっていた。
少女は恨みがましい顔でこちらを見上げた。

「とうさま、なんであたしをころしたん?」

 くわっと目を見開き、おさげの少女がとびかかってきた。

わたしは間抜けな叫び声をあげながら後ろにひっくり返った。そのまま恐怖のあまり気を失ってしまった。
 気付くと、わたしは鎌を握っていた。

倒れ込んでなんていないし、場所も自宅の寝室じゃない。
うらびれた路地裏で、握りしめた鎌を無心に振り下ろしている。
ざくん、ざくん、ざくん。なにか分厚いものに刃が刺さる感触。

 わたしは振り上げた鎌から下へと視線を動かした。
冷たい土の上に、真っ赤に染まった大川が転がっていた。

「お前が憎い、お前のせいだ」

 わたしは呪いの言葉を吐きながら、大川に鎌を振り下ろしていた。
私は赤い本を閉じ、頭を振った。
「なんなの、これ。小説じゃないの?」
 一人称の手記を模した怪奇小説かと思っていたけど、本の最初のページに記してあったように、本当の体験談なのだろうか。だとしたら、気味が悪い。
 背筋が冷たくなり、私はぎゅっと自分を抱きしめた。
 私が見た夢と同じ夢を悟朗も見ていた。
真っ暗なトンネル、凶器を持った黒頭巾の人物。
本を読んで私が同じ夢を見たのなら本の影響だが、あの夢を見てから本を読んだ。

これはただの夢じゃない。

「伝染鬼、このまま読んでも大丈夫なのかしら?」

 私は恐怖に支配された。

 とりあえず、赤い本を本棚に戻し、逃げるようにバイトに出掛けた。

 夜遅くまで居酒屋で働くと、風呂に入って、本を読むことなくベッドに入った。


 その晩、私は夢を見た。

私はあの田舎の村、鬼形村に居た。あたかもそこの住人であるかのように、どこかの家の囲炉裏の前でのんびりとくつろいでいる。
壁の日めくりカレンダーは一九三〇年九月一四日だった。

その時の私はそれがあの忌まわしい事件の日だなんて、まったく思い当らなかった。お茶を啜りながら、ぼんやりと一人で座っている。

窓の外は夜の帳が下りていた。不意に強烈な眠気を感じた。
そろそろ寝ようかと腰を上げて、私は土間に降りた。

そのことを可笑しいとは思わなかった。

土間を裸足で歩き、流しに近付く。そして、しっかり研ぎ澄まされた、洗い立ての刺身包丁を手にした。
それでもまだ、何も可笑しいことはないと思っていた。

刺身包丁を握り、私は家の中をうろつく。

襖の向こう、心地よさそうな鼾が聞こえてくる。私はそっと襖を開けて寝室に入った。
井草の香りがふわりと漂う。

布団の中では老女が心地よさそうに、ぐうぐうと眠っていた。

何故か、私は強烈な殺意を感じた。眠気はいつの間にか吹っ飛んで、意識がはっきりとしていた。それなのに、体がふわふわするような、変な感覚だった。

私は刺身包丁を高々と掲げた。そして、熟睡している老女の体に躊躇なく振り下ろした。

ぐさっ。確かな手ごたえが全身を駆け抜け、脳に伝わる。

「アハハハハハハハッ」

喉の奥から笑い声が迸った。とても爽快で愉快な気分だった。



 その夢を見てからだ。私の日常が侵食されたのは。

 一人きりの部屋に自分以外の声が聞こえる。はじめは他の階の人間の声が聞こえているのだと思った。
でも、すぐに違うとわかった。

「殺せ、やってしまえ」

 キッチンで包丁を握っている時、嬉々とした声が私の耳元で囁いた。

「たすけて、たすけて、たすけて」

 パソコンでネットサーフィンをしている時、すぐ背後で息も絶え絶えに誰かが呟いた。

 風呂に入っている時、けたたましい笑い声が風呂場で響いた。

 あきらかに、隣人の物音とは違う。
そうわかるほど、声は異様に近くで聞こえた。
まるで私の中から聞こえているかのような、そんな聞こえかただった。

 それだけじゃない。ちゃんと締めたはずのドアが半開きになっている。
そして、半開きの闇からは何者かの気配が濃く漂っていた。
私は悟朗の体験したこと追体験するようになっていたのだ。

 怖くなって、しばらくのあいだ赤い本を読むのをやめた。

前金の五万をもらえば十分だ、これ以上関わるべきではない。そう思ったのだ。

でも、本を読むのをやめても、怪現象は治まらない。日に日に酷くなっている。

いつの間にか、夢で拾ったあの黒塗りの櫛がメイクボックスに入っていた。
近所に買い物に行くときは常にスッピンで、長らく化粧なんてしていなかったから気付かなかった。

「気持ち悪いわね」

私は即座に櫛をゴミ箱に突っ込んだ。

翌朝燃えるごみとして回収された櫛は、気付くとまたメイクボックスにあった。
何度捨てても同じように櫛は戻ってきた。燃やしても、川に流しても櫛は戻ってきた。

次第に私は怖くなってきた。

悟朗はどうなったのだろう。この本を書き終えて製本に漕ぎつけたとなれば、彼は発狂する前、あるいはそれよりもっと恐ろしいことが起きる前に、何らかの解決策を見つけたのではないか。

私はそう期待して、再び本を読むことにした。
わたしはどうしてしまったのだろう。

家の中に一人でいても、一人である気がしない。
常に大勢の気配がわたしの傍に渦巻いているような気がしてしょうがない。

女の甲高い笑い声が聞こえたり、ちゃんと閉めたはずの押入れや障子が数センチ開いていたりなど、今じゃ些細な怪現象にすぎない。
もっと大変なことが、わたしの身に起きようとしている。

「はははははははっ、はははははははっっ!」

いつかの夢で聞いた、けたたましく醜悪なわたしの笑い声が聞こえる。
笑っていたつもりなんてないのに、わたしはいつの間にか激しく笑っていた。
掻痒感が治まらない。
さっきから、皮膚の下を虫が這っているような、不快な痒みがずっと続いている。

手首を掻き毟る。皮膚が裂けて、赤い血が滲んだ。
それを見ているうちに、少しずつ痒みがひいていく。
でも、それも束の間のことだ。だから、また掻き毟る。
おかげで手首には醜いミミズのような傷が絶えず残っている。

筆をとり、書き物に集中する。鬼形村を訪れてからの奇々怪々な体験を綴っているあいだだけは無心になれた。

しかし、ひとたび原稿用紙を広げて小説を書こうとすると、痒みや不快感が押し寄せてきて、筆が進まない。
ぜんぶ、大川のせいだ。大川が呪われた村などを紹介するから。

腸がぐらぐらと煮えたぎる。体の底からどす黒い憎しみが滾滾と沸いてくる。

気付くと、わたしは原稿用紙に恐ろしい言葉を綴っていた。

殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

わたしの手はひたすら、そう綴っている。

一枚の原稿用紙が殺すという文字でほぼ埋まっていた。
無心に物騒な文字を書きつけている自分を想像し、わたしは薄ら寒くなった。

 小説を、小説を書くのだ。

 意思を強く持ち、わたしは筆に握る手に力を入れた。

 掻痒感、憎悪がまたわたしを襲う。それから逃れるために、無意識のうちに殺すと書き綴る。
それを幾度となく繰り返した。

 そのうち、いつの間にか庭から鎌を持ってきて握りしめるようになった。

「殺す、殺す、殺す、殺す」

ブツブツ呟きながら、わたしは鋭い鎌を握りしめていた。
 わたしはすでに狂っているのだ。

 鬼形村、あの村はなんだったのか。行ってはいけない、それは本当だ。

「○×△■■〇×」

この言葉を耳にした時から、うっすらと思っていた。
わたしはもう駄目だと。この言葉が頭から離れない。離れて、くれない。
千姫が吐いた言葉、あれは呪いの言葉だ。

近ごろ、繰り返し、繰り返し見る夢がある。大川を殺す夢だ。

許しを請う大川に馬乗りになり、何度も何度も鎌を振り下ろす。

爽快だった。あまりの快感に、わたしは笑い声を上げていた。

憎い相手を殺せたら、さぞ気持ちが晴れるだろう。
面白いことなどない、苦痛だけの世の中を生きるより、最高の快楽を味わってぽっくりと死ぬ。雁字搦めの人間社会から逃れる最高の手法ではないか。

 わたしは鎌を握りしめた。そして、大川の家を訪ねる。

 道行く者がわたしを不審な目で見ているが、気になどしない。鎌を後ろ手に持ち、軽やかな足取りで大川が妻子と暮らす真新しい一軒家のチャイムを鳴らす。

「おお、悟朗。お前さんが訪ねてくれるなんて珍しいなあ」
「ああ、大川。急用があってな」
「急用って?」
「用件はこれだ」

 わたしは高々と鎌を掲げる。大川が目を丸く見開き、口をぽかんと開けた。

「ご、悟朗?」

 立ちすくむ大川の胸をめがけて鎌を振り下ろす。

ざくんと刃が肉に食い込む感触。尖った刃の先がどこかの臓器を引っ掻いたのがなんとなくわかった。

「うぎゃああぁぁ」

 間抜けな叫び声を上げて大川が玄関の床に崩れ落ちた。

わたしは大川に馬乗りになると、上半身めがけて鎌を何度も何度も振り下ろした。
目玉が鎌の先でぶちゅりと潰れ、脳味噌が中でぐちゃりと混ざる。
喉に、胸に、腕に、思う存分に刃を突き立てていると、何もかもから解放されたような爽快感に包まれた。

 吹き上がる大川の血を浴びながら、わたしはけたたましく笑った。

ああ、とうとうやった。わたしは本当に悟朗を殺したのだ。

「いや、あなたっ!」

大川の妻が真っ青な顔で飛び出してきて、ぐったりと横たわった悟朗に縋りつく。
大川の妻がわたしを蔑んだ顔で睨み上げた。

「人殺し、この人殺しぃっ!」
「ひと、ごろし……」
「あなたは殺人鬼よっ。ああ、あなた。どうして、どうしてこんな酷いことにっ」

 大川の妻が「ああぁぁぁ」と、力なく泣き叫んだ。

 その慟哭がわたしの自我を引き戻した。

「わあああぁぁっ」

 大切な友人を、怪奇小説を心待ちにしていると言ってくれた大川を、わたしはこの手にかけてしまった。

 絶望のあまり胸が張り裂けそうだった。
これなら、路頭に迷った末にケチな窃盗犯として逮捕された方が、ずっとマシだった。
 わたしはあらん限りの声で咆哮を上げた。
その叫び声でわたしは目を覚ました。

 机に突っ伏して寝ていた。手には鎌を握っているが、鎌に血はついていない。
大川を殺したのは夢の中だったのだ。

 近頃、夢と現実の境目が曖昧だ。
いつ、さっきの夢のようなことが起きても不思議ではない。

 その前に、わたしが出来ることは一つ。

 死ななければ。それしか、大川を殺さない方法はない。この鎌で、自らの人生に幕を引くのだ。

 死ぬのは恐ろしい。死の先には、何があるのだろう。科学が発展してきた今でも、死については解明されていない。自ら未知の世界に飛び込むのは、震えるほど恐ろしい。

 友人を救うためだ。

 わたしは自分の首に鎌の刃先を押し付けた。横に引けば、刃が動脈を裂き、出血多量で死ねるだろう。
 手が震える。駄目だ、怖い。

 わたしは鎌を放り捨てた。かわりに筆を執り、この体験談を執筆する。

 わたしが自死したあとで、面白半分なスキャンダルになるのは御免だ。
せめて、わたしの身に何が起きたのか、鬼形村がいかに危険な心霊スポットであるかを書き記してから死のう。
わたしはそう考えたのだ。

きっとこれがわたしの最期の作品になるだろう。
























































読まなければよかった。

私は赤い本を閉じて、机に突っ伏した。

助かるヒントを得るどころか、絶望の底に叩き落とされてしまった。
伝染鬼の残りページはもう僅か。ここから巻き返しのハッピーエンドは難しいだろう。

「堕ちなさい」

鈴のような高く美しい声がはっきりと聞こえた。

慌てて背後を振り返るが、誰もいない。

部屋がぞっとするほど寒い。
私は実家から持ってきた手毬模様の渋柿色のちゃんちゃんこを重ね着した。ダサいけど、軽くて温かい。

高校生の頃、可愛くて温かい部屋着を母にねだった時に「これで十分でしょ」と、母に押し付けられたちゃんちゃんこ。実家を出る時に押入れの服を一切合切つめこんで、たまたま必要な服に紛れて入っていただけの不用品が、まさか役に立つとは。

まだ十一月になってそう経っていないというのに、部屋の中は凍えるようだ。

「何が今年は暖冬です、よ。アテにならないわね」

 毒づきながら、私はパソコンの電源を入れる。

 パソコンの画面の右下のタスクバーには、現在の天気と温度が自動で表示される。
それを見て、私は驚いた。

「二十三度、暖かいじゃない―…」

 だったら、この部屋の凍えるような寒さはなんだ。
いくら隙間風が吹く安普請のアパートといえども、日当たりはそれなりに悪くない部屋だし、外と比べて極端に温度が低いことはありえない。

 幽霊が現れる時はねえ、温度がすっごく低くなるんだって。

 まりえが昔言っていた心霊の豆知識を不意に思い出し、背筋が震えた。

 温度計がないから、この部屋の正確な温度はわからない。
だけど、吐く息が白く残ることからして、一桁台の気温だろう。

いつからだろう、部屋のトーンが他の場所と比べて、ワントーンもツートーンも暗く感じるようになったのは。

「なあ、気付いて」
「おるよ、ここにおるよ」
「やっちまえよ」
「同じ穴の狢やろ」

ざわざわと呟く声が聞こえる。

「ひいっ!」

 私は逃げるようにダイニングを飛び出した。

長らく続く寝不足で、頭が可笑しくなっているのだ。
顔を、顔を洗おう。そうしたら頭もスッキリして、変な妄想も消える。妄言も聞こえなくなる。

 私は洗面所に走り込んだ。
 電気を点けて、顔をばしゃばしゃと乱暴に洗う。
冷たい水のおかげで全身がしゃきりとした。

「よし」

 気合を入れて顔を上げようとした瞬間、バチンと音がして蛍光灯が突然消えた。

 ドアを開けっ放しにしておいたから真っ暗にならなかったのは、不幸中の幸いだ。

「なんなのよ、もう」

 私は顔を上げて鏡を見る。
 鏡には不貞腐れた自分の顔が映っていた。
そして、私の背後には大量の青白い顏が映っていた。

「きゃあぁっ!」

悲鳴を上げて私は洗面所を飛び出した。

心臓がバクバクと五月蠅い。胸に手を当てると、ドクンドクンと激しく心臓が跳ねる感触が伝わってきた。

このままでは、私は死んでしまう。

私はよろよろとダイニングに戻った。
仕事なんて、小説なんてもうどうでもいい。そ
れよりも、どうしたらこの恐怖から解放されるのだろうか。

ネットで調べよう。
そう思ってパソコンの前に座ると、新着メールの通知があった。
反射的にメールボックスを開く。まりえからだ。

『小夜子、本はもう読み終わった? 先週、半分ぐらい本を読んで、内容や本を読んで起きた霊障を少しずつまとめてるって報告してくれたきり、ずっとメールくれてないよね。どうしたの、何かあった?』

 何かあったなんて、白々しい。

 私はまりえのメールをゴミ箱に捨てると、パソコンを乱暴に閉じた。
 まりえが呪われた本を持ってくるから。まりえのせいだ、まりえが憎い。

 気付けば私は刺身包丁を握りしめて、部屋をうろうろしていることが増えた。
包丁を握っている間は、不快な恐怖と焦燥感に似た掻痒感が治まった。

 自分の周囲には常に何者かの気配がして、耳の奥のノイズが止まない。
誰かの叫びや嘲笑、怨嗟の声がしょっちゅう聞こえる。

 ぷるるるるるる、ぷるるるるるる。

 間抜けな電子音が部屋に響き渡った。久しぶりに聞く音だ。

 私は刺身包丁を投げ捨て、スマホを手に取った。

「はい、森谷です」
「あっ、小夜子。よかった~、電話に出てくれて」
「……まりえ」
「ね~、どうして返事くれないの? メール、ちゃんと見てる?」
「ああ、ごめんなさい。メールには気付かなかったの。いろいろ、忙しくて」
「もしかして、執筆中? やだ、邪魔しちゃったかな」
「いいのよ」
「進捗状況はどう? 伝染鬼はもう読めた?」
「ええ、あと数ページよ」
「そっか~。ねえ、どうだった?」

 好奇心の滲んだ声に、神経が逆撫でされた。

「どうって、何が?」

「ほら、呪われた本だって東条先生が言ってたから、読んで何か可笑しなこととか、なにかったかな~って思って」

 心配そうな声色を出している。でも、今の私にはまりえが腹の底で楽しんでいることがわかった。

「別に、何も無いわよ」

 虚勢のつもりはなかった。ただ、なんとなくそう答えていた。

「そうなんだ、でも何も無くてよかったよ」

 ホッとした声でまりえが言った。
でも、嘘だ。がっかりしていることぐらい、私にはお見通しだ。

「進捗の報告をしたいし、家に来ない?」

 まりえは少し間を置いてから「そうだね、おじゃましよっかな」と答えた。私はにやりと唇の端を吊り上げる。

 二時間後に約束を取り付けて、私は電話を切った。

 無気力でだらしない母親には似るまいと、綺麗にしていた部屋は今や荒れ放題だ。
簡単に食べられるカップラーメン、コンビニ弁当の残骸が転がり、取り込んだ洗濯物が積まれている。

風呂に入っていなかったから身体からはぷんと饐えた臭いがするし、髪はべっとりと油っぽい。

 また掻痒感が襲ってきた。腹の周り、手首を掻き毟る。

 ひっかき傷ができて血が流れると、少し痒みと不快感が治まった。でも、それだけじゃ足りない。

 私は床に転がった刺身包丁を手に取ると、キッチンに行った。
 伽石を出して、刺身包丁を研ぎはじめる。

 しょりしょり、しょりしょり。

 刃が研ぎ澄まされていく音が心地よく耳に響く。
しょっちゅう私を悩ます、見知らぬ人の声は聞こえない。掻痒感も消えている。

「まりえ、早くおいで」

自然と鼻歌が零れた。こんなに気分がいいのは久しぶりだった。
玄関のチャイムがなる。
新聞をとっていないし、ネット通販もしない、出前を注文することもない私にとって、久しぶりの客だ。

 ドアを開けると、まりえがぎょっとした顏で固まった。

気にせず、私は愛想よく笑う。

「いらっしゃい、まりえ」
「あ、うん。おじゃまします……」

強ばった笑顔でまりえが家に上がった。

まりえを荒れたリビングに通して、コーヒーを淹れる。

「あの、小夜子。忙しいのにごめんね」
「いいのよ、まりえほど忙しいわけじゃないわ」
「またまた~、小夜子だって忙しいでしょ。あ、これ。一緒に食べよ」

 まりえがケーキの箱を差し出した。銀座にある高級なパティスリーの箱だ。
開いてみると、一口サイズの窯焼きチーズケーキとエクレアが四個ずつ入っていた。

「ありがとう、まりえ」
「どういたしまして」

 まりえがきょろきょろと周囲を見回す。
散らかった部屋が気になるのだろう。
以前の私ならば、こんな汚い状態の部屋に来客を通したりしなかった。
仮に通したなら、散らかっていることへの言い訳をしていただろう。

 何も言わずに平然とチーズケーキを食べはじめた私に、まりえは困惑した表情を浮かべていた。

「えっと~、伝染鬼はどう? 怖い話なの?」

「ああ、あれね。平たく言うと、悟朗という作家がある村を訪れた時の怪奇現象をまとめた話よ」
「へ~、そうだったんだ。ある村って?」
「M県の鬼形村、地図に載ってない危険な村よ」
「犬鳴村みたいだね」
「そうね」
「本、書けそう?」

 まりえの問いには答えなかった。

怪訝な顔をする彼女の顔面に、刺身包丁を突き刺してやりたい衝動が沸き起こる。

 黙り込んだ私を気遣うようにまりえが世間話をはじめる。
担当編集として、なんとか作家に書物を書かせようと、あの手この手でご機嫌取りをしているのだろう。
まずはこちらの気分を盛り上げようと、自分の仕事の失敗を面白おかしく語っている。

 洗い物の出ない気の利いた手土産、気の利いた話術。
今さらながら、私はまりえの編集者としての如才なさを実感する。

 才能ある友達への誇らしさや喜びはない、ただただ、憎い。

 すうっと意識が遠くに去っていく。まりえの話にふわふわした相槌をしながら、私は別のことを考えていた。

 まずはあの大きな愛らしい目を潰してやろうか。
研ぎたての刺身包丁の先端が、ぷちゅりと眼球を潰す。脳まで達する傷はつけないようにしないと。
ゆっくりと恐怖を味わいながら、じわじわと死んでいってほしいから。

 片目を潰したら、今度は足の腱だ。逃げられないように、両足の腱を切ってやる。
地面にみっともなく這いつくばったら、今度は指だ。
美しく整えられ、ネイルで飾られたあの指を全部切り落としてやろう。

 パカパカと、天井の電気が明滅する。

「小夜子。電気、故障してるの?」

 まりえが阿保面で天井を見上げる。
 ふっと、電気が消えた。

「○×△■■〇×」

暗闇の中、誰かがそう囁いた。同時に、私の意識は一瞬途絶えた。

 気付いたら、手の中に刺身包丁が収まっていた。銀色の長い刃が薄闇の中でぎらりと閃く。こんなもの、いつの間に取に行ったのだろう。

 そんなことはどうでもいい、やらなければ。

 私はまりえに襲いかかった。暗いというのに、まりえの姿だけが異様にはっきりと見えていた。
シミュレーション通り、まりえの左目を刺身包丁で突き刺す。

「いぎゃぁっ」

 まりえが醜い声で叫んだ。

「あはははははっ」
 私はけたたましい笑い声を上げながら、まりえのふくよかな胸を突き刺した。

足の腱を切ってやるつもりだったのに、ミスった。まあ、いっか。

 地面に仰向けに倒れたまりえの手首を踏みつけ、指を刺身包丁でザクザクと刻み落としていく。

「いやぁっ、いたい、やめてぇ、お願い、やめてぇぇぇっ」

 鼻水と涙を流しながらまりえが泣き叫ぶ。キュートな顔が台無しの不細工面、最高の顔だ。もっと、もっと泣き叫べ。

 生きたまま、まりえをバラバラに解体していく。
彼女の悲鳴は心地よい音楽となって、私の中のノイズを消し去っていく。
ここ最近感じていた不快感や痒みが去り、脳天を貫くような快楽が私の中を駆け巡る。
壮大な解放感に全身が震えた。
「小夜子、ねえ、小夜子ってば!」

 まりえの可愛らしい声が私を呼ぶ。
いつの間にか、部屋の明かりが元通りちゃんと点っていた。

 私の顔を覗きこむまりえの顔は綺麗なままだ。

「は?」

 間抜けな呟き声を漏らした私を、小夜子が心配そうに見つめる。

「小夜子、大丈夫?」
「なん、で」
「急に突っ伏して寝ちゃったから。寝不足なの? そういえば顔色悪いね」

「大丈夫、大丈夫よ」

 いや、大丈夫じゃない。まりえと話している最中にいきなり寝るなんて、しかもあんな恐ろしい夢を見るなんて、あり得ない。
 ムズムズする痒みに襲われ、私は手首を掻き毟った。

「えっ。小夜子、その手首どうしたの?」

 引き攣った顔でまりえが私の手首を指さす。

醜いみみずばれ、引っ掻き痕が残った手首を、私は袖でさっと隠した。

「なんでもないのよ。洗剤をかえたら、かぶれてしまって」
「敏感肌だもんね、小夜子。気を付けた方がいいよ」
「ええ、そうするわ」
「さて、仕事が立て込んでるし、アタシはそろそろお暇するね」
「そうね」

 まりえはチーズケーキのフィルムとエクレアの包を拾い上げると、ケーキの箱が入っていた空の紙袋に入れて持ち帰った。完璧すぎるまりえに、また憎しみが込み上げた。

 作家と編集者。私のほうが成功していたのに、いつからまりえに見下されるようになったのだろう。

「じゃあね」

 またね、という言葉無い。いつもは「またね」と言って別れるのに。それがまりえからの答えなのだろう。
ドアが閉まると、私は玄関にへたりこんだ。

私はどうしてしまったのだろう。もはや、狂っている。
絶望の檻に取り残された、そんな気がした。

悟朗はどうなったのだろう。友達の大川を殺したのか、それとも自殺したのか。何事もなく生きている可能性だってある。

「読まないと、本の続き、知らないと」

 私は赤い本を手に取った。






玄関の扉を激しく叩く音がした。

また死霊がやってきたのか。わたしは筆を捨て、ズシズシと足音をさせて玄関に向かった。
擦りガラスの向こう、大柄なシルエットが見える。

「おーい、悟朗。いるか?」

 飄々とした声。大川だ、大川がやってきた。

「千姫よ、わたしにどうしても殺させたいのか。そうはいかんぞ」

 夢か現実か分からない。
このところ、わたしの記憶は酷く曖昧だ。

執筆の途中で寝落ちして、大川を殺す夢を見て目を覚ます。
食料を買いに行ったのに、無意識のうちに大川の家を訪問していた。
そこまでは現実だったが、そこで大川を殺してしまって泣き叫んでいるところは夢だったということもある。

 判別がつかない以上、接触しないのが一番の安全策だ。

「悟朗、お願いだから開けてくれ、話がしたいんだよ」

しつこく大川が玄関を叩く。
ふらふらと玄関に下り、わたしは錠を開けていた。

「悟朗!」

 大川がすかさず中に飛び込んでくる。

「悟朗、お前さんそんなに痩せて。連絡もくれないし、どうしちまったんだい」
「ああ、大川―…」

 わたしは人恋しさに苛まれていた。
だから、危険を承知で大川を家に通してしまったのだ。

 わたしは大川に請われるまま、鬼形村での出来事を話した。
体験記も綴っていることと大川を殺す夢を見たことだけは、彼のためにもふせておいた。

 わたしの話を聞いた大川は大きな体を丸めてしゅんと項垂れた。

「悟朗、すまねえ。俺が鬼形村なんて教えちまったばかりに」

「いいんだ、大川。まさか、本当にこんな恐ろしいことが起きるとは思っていなかったんだろう。わたしもそうだ」

「でも、俺のせいには違いないさ。なんとかする、そうだ、神社に行こう!」
「神社に行って、どうするんだ」

「お祓いをしてもらうんだ。お前さんの話に出てきた、黒塗りの櫛を持ってお祓いをしてもらおう」

「お祓いなんて、そこらの神社でやってもらったとて、形式的なものに過ぎん」

「いや、俺が懇意にしている霊能力者にお祓いしてもらおう。莫大な金銭を要求するインチキ霊能力者とは違う、普通に神社の住職をしていて、腕が確かな爺さんがいるんだ」

 大川に急かされ、わたしは呪われた黒塗りの櫛を手に彼と神社を訪れた。

 そこはごく普通の小さな神社で、宮司は白髪頭で厳めしい顔立ちの老人だった。

「親父さん、急でごめんな」

 大川が手を合わせながら言うと、宮司は厳めしい顏のまま頷いた。

「構わぬよ、お主には世話になっとる。さあ、入れ」
「ありがとな。行こう、悟朗」
「あ、ああ」

 神社の拝殿の中に案内され、わたしと大川は宮司と顔を突き合わせて座った。

 心霊スポットを訪れた話をしていわくつきの櫛を渡すと、宮司はぐりっとした目を細めて呻くように呟いた。

「えらく禍々しい邪気を放っておるな」
「親父さん、なんとかなりそうかい?」

「……櫛は儂が預かる。櫛を浄化したあと、お主らのお祓いをしよう。三日後の真昼、もう一度来い」

「あ、ありがとうございます」

 呪いから解放される。わたしは嬉々として頭を下げた。
大川も満面の笑みで宮司に礼を述べていた。
だが、宮司は浮かない顔をしていた。

 その日の夜は恐ろしい夢を見ることなく、わたしは久しぶりに平穏な日々を過ごした。

 しかし、千姫の呪縛はそんなに甘いものではなかった。
 翌日の深夜、夢を見た。またあの夢、大川を殺す夢だ。

明け方目を覚ますと、わたしの枕元にはあの黒塗りの櫛が落ちていた。
 わたしは恐怖した。

「○×△■■〇×」

 絶望するわたしの耳元で、鈴を転がすような声が呟いた。
 その日の午後、宮司から電話がかかってきた。

「西園寺、すまぬ」

 わたしは何もかも察した。一言も返せないわたしに構わず、宮司は捲し立てる。

「お主から預かった櫛はお祓いし、お焚き上げをした。
しかし、櫛は焼け残った。儂はもう一度櫛をお祓いして、今度は厳重に封じて神様の元で管理しておった。
だが、今朝がた確認したら、櫛は消えておった。
あれほど忌まわしい呪物は初めてじゃ。大概の霊や呪いは落としてきたが、あれは儂の手には負えぬ。
儂だけじゃない、恐らく、この世の誰の手にも負えぬ」

「ああ―…」

 絶望の呻きを漏らしたわたしに、宮司は「すまぬ」ともう一度告げて電話を切った。
 大川が信頼を寄せる霊能力者にもどうしようもなかった。

 選択肢はもう二つしかない。わたしが死ぬか、大川が死ぬかだ。

 もういい。大川は親身にわたしの相談にのってくれた。
彼はわたしを騙そうとしたわけじゃない、態と不幸に落そうとしたのではなかった。

彼はファン第一号としてわたしの怪奇小説を心待ちにしていてくれた。
わたしが金のために書きたくないロマンス小説や、歴史小説を死んだ顔で書いていることに心を痛めてくれていた。
創造の泉が枯れ果てて苦しむわたしを、再び気鋭の怪奇小説作家として蘇らせてくれようとしただけだった。

今日、すべてを終わらせる。

わたしは友人を救うのだ。ツー、ツーと不通の音を鳴らす受話器を戻し、わたしは玄関の棚に置きっぱなしだった鎌を持ってきた。

友人を憎み、殺そうとした鬼は去る。

最期の仕事だ。この体験談を一冊の本に纏め、友人に手紙をしたためる。

わたしには鬼子と呼ばれた千姫が憑いていた。
千姫の鬼が伝染して、わたしを鬼に変えてしまったのだ。
せめてもの抵抗に、鬼は現世に姿を現さずに消え去る。

さようなら、現世。そしてよき友大川よ。