わたしはどうしてしまったのだろう。
家の中に一人でいても、一人である気がしない。
常に大勢の気配がわたしの傍に渦巻いているような気がしてしょうがない。
女の甲高い笑い声が聞こえたり、ちゃんと閉めたはずの押入れや障子が数センチ開いていたりなど、今じゃ些細な怪現象にすぎない。
もっと大変なことが、わたしの身に起きようとしている。
「はははははははっ、はははははははっっ!」
いつかの夢で聞いた、けたたましく醜悪なわたしの笑い声が聞こえる。
笑っていたつもりなんてないのに、わたしはいつの間にか激しく笑っていた。
掻痒感が治まらない。
さっきから、皮膚の下を虫が這っているような、不快な痒みがずっと続いている。
手首を掻き毟る。皮膚が裂けて、赤い血が滲んだ。
それを見ているうちに、少しずつ痒みがひいていく。
でも、それも束の間のことだ。だから、また掻き毟る。
おかげで手首には醜いミミズのような傷が絶えず残っている。
筆をとり、書き物に集中する。鬼形村を訪れてからの奇々怪々な体験を綴っているあいだだけは無心になれた。
しかし、ひとたび原稿用紙を広げて小説を書こうとすると、痒みや不快感が押し寄せてきて、筆が進まない。
ぜんぶ、大川のせいだ。大川が呪われた村などを紹介するから。
腸がぐらぐらと煮えたぎる。体の底からどす黒い憎しみが滾滾と沸いてくる。
気付くと、わたしは原稿用紙に恐ろしい言葉を綴っていた。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
わたしの手はひたすら、そう綴っている。
一枚の原稿用紙が殺すという文字でほぼ埋まっていた。
無心に物騒な文字を書きつけている自分を想像し、わたしは薄ら寒くなった。
小説を、小説を書くのだ。
意思を強く持ち、わたしは筆に握る手に力を入れた。
掻痒感、憎悪がまたわたしを襲う。それから逃れるために、無意識のうちに殺すと書き綴る。
それを幾度となく繰り返した。
そのうち、いつの間にか庭から鎌を持ってきて握りしめるようになった。
「殺す、殺す、殺す、殺す」
ブツブツ呟きながら、わたしは鋭い鎌を握りしめていた。
わたしはすでに狂っているのだ。
鬼形村、あの村はなんだったのか。行ってはいけない、それは本当だ。
「○×△■■〇×」
この言葉を耳にした時から、うっすらと思っていた。
わたしはもう駄目だと。この言葉が頭から離れない。離れて、くれない。
千姫が吐いた言葉、あれは呪いの言葉だ。
近ごろ、繰り返し、繰り返し見る夢がある。大川を殺す夢だ。
許しを請う大川に馬乗りになり、何度も何度も鎌を振り下ろす。
爽快だった。あまりの快感に、わたしは笑い声を上げていた。
憎い相手を殺せたら、さぞ気持ちが晴れるだろう。
面白いことなどない、苦痛だけの世の中を生きるより、最高の快楽を味わってぽっくりと死ぬ。雁字搦めの人間社会から逃れる最高の手法ではないか。
わたしは鎌を握りしめた。そして、大川の家を訪ねる。
道行く者がわたしを不審な目で見ているが、気になどしない。鎌を後ろ手に持ち、軽やかな足取りで大川が妻子と暮らす真新しい一軒家のチャイムを鳴らす。
「おお、悟朗。お前さんが訪ねてくれるなんて珍しいなあ」
「ああ、大川。急用があってな」
「急用って?」
「用件はこれだ」
わたしは高々と鎌を掲げる。大川が目を丸く見開き、口をぽかんと開けた。
「ご、悟朗?」
立ちすくむ大川の胸をめがけて鎌を振り下ろす。
ざくんと刃が肉に食い込む感触。尖った刃の先がどこかの臓器を引っ掻いたのがなんとなくわかった。
「うぎゃああぁぁ」
間抜けな叫び声を上げて大川が玄関の床に崩れ落ちた。
わたしは大川に馬乗りになると、上半身めがけて鎌を何度も何度も振り下ろした。
目玉が鎌の先でぶちゅりと潰れ、脳味噌が中でぐちゃりと混ざる。
喉に、胸に、腕に、思う存分に刃を突き立てていると、何もかもから解放されたような爽快感に包まれた。
吹き上がる大川の血を浴びながら、わたしはけたたましく笑った。
ああ、とうとうやった。わたしは本当に悟朗を殺したのだ。
「いや、あなたっ!」
大川の妻が真っ青な顔で飛び出してきて、ぐったりと横たわった悟朗に縋りつく。
大川の妻がわたしを蔑んだ顔で睨み上げた。
「人殺し、この人殺しぃっ!」
「ひと、ごろし……」
「あなたは殺人鬼よっ。ああ、あなた。どうして、どうしてこんな酷いことにっ」
大川の妻が「ああぁぁぁ」と、力なく泣き叫んだ。
その慟哭がわたしの自我を引き戻した。
「わあああぁぁっ」
大切な友人を、怪奇小説を心待ちにしていると言ってくれた大川を、わたしはこの手にかけてしまった。
絶望のあまり胸が張り裂けそうだった。
これなら、路頭に迷った末にケチな窃盗犯として逮捕された方が、ずっとマシだった。
わたしはあらん限りの声で咆哮を上げた。
家の中に一人でいても、一人である気がしない。
常に大勢の気配がわたしの傍に渦巻いているような気がしてしょうがない。
女の甲高い笑い声が聞こえたり、ちゃんと閉めたはずの押入れや障子が数センチ開いていたりなど、今じゃ些細な怪現象にすぎない。
もっと大変なことが、わたしの身に起きようとしている。
「はははははははっ、はははははははっっ!」
いつかの夢で聞いた、けたたましく醜悪なわたしの笑い声が聞こえる。
笑っていたつもりなんてないのに、わたしはいつの間にか激しく笑っていた。
掻痒感が治まらない。
さっきから、皮膚の下を虫が這っているような、不快な痒みがずっと続いている。
手首を掻き毟る。皮膚が裂けて、赤い血が滲んだ。
それを見ているうちに、少しずつ痒みがひいていく。
でも、それも束の間のことだ。だから、また掻き毟る。
おかげで手首には醜いミミズのような傷が絶えず残っている。
筆をとり、書き物に集中する。鬼形村を訪れてからの奇々怪々な体験を綴っているあいだだけは無心になれた。
しかし、ひとたび原稿用紙を広げて小説を書こうとすると、痒みや不快感が押し寄せてきて、筆が進まない。
ぜんぶ、大川のせいだ。大川が呪われた村などを紹介するから。
腸がぐらぐらと煮えたぎる。体の底からどす黒い憎しみが滾滾と沸いてくる。
気付くと、わたしは原稿用紙に恐ろしい言葉を綴っていた。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
わたしの手はひたすら、そう綴っている。
一枚の原稿用紙が殺すという文字でほぼ埋まっていた。
無心に物騒な文字を書きつけている自分を想像し、わたしは薄ら寒くなった。
小説を、小説を書くのだ。
意思を強く持ち、わたしは筆に握る手に力を入れた。
掻痒感、憎悪がまたわたしを襲う。それから逃れるために、無意識のうちに殺すと書き綴る。
それを幾度となく繰り返した。
そのうち、いつの間にか庭から鎌を持ってきて握りしめるようになった。
「殺す、殺す、殺す、殺す」
ブツブツ呟きながら、わたしは鋭い鎌を握りしめていた。
わたしはすでに狂っているのだ。
鬼形村、あの村はなんだったのか。行ってはいけない、それは本当だ。
「○×△■■〇×」
この言葉を耳にした時から、うっすらと思っていた。
わたしはもう駄目だと。この言葉が頭から離れない。離れて、くれない。
千姫が吐いた言葉、あれは呪いの言葉だ。
近ごろ、繰り返し、繰り返し見る夢がある。大川を殺す夢だ。
許しを請う大川に馬乗りになり、何度も何度も鎌を振り下ろす。
爽快だった。あまりの快感に、わたしは笑い声を上げていた。
憎い相手を殺せたら、さぞ気持ちが晴れるだろう。
面白いことなどない、苦痛だけの世の中を生きるより、最高の快楽を味わってぽっくりと死ぬ。雁字搦めの人間社会から逃れる最高の手法ではないか。
わたしは鎌を握りしめた。そして、大川の家を訪ねる。
道行く者がわたしを不審な目で見ているが、気になどしない。鎌を後ろ手に持ち、軽やかな足取りで大川が妻子と暮らす真新しい一軒家のチャイムを鳴らす。
「おお、悟朗。お前さんが訪ねてくれるなんて珍しいなあ」
「ああ、大川。急用があってな」
「急用って?」
「用件はこれだ」
わたしは高々と鎌を掲げる。大川が目を丸く見開き、口をぽかんと開けた。
「ご、悟朗?」
立ちすくむ大川の胸をめがけて鎌を振り下ろす。
ざくんと刃が肉に食い込む感触。尖った刃の先がどこかの臓器を引っ掻いたのがなんとなくわかった。
「うぎゃああぁぁ」
間抜けな叫び声を上げて大川が玄関の床に崩れ落ちた。
わたしは大川に馬乗りになると、上半身めがけて鎌を何度も何度も振り下ろした。
目玉が鎌の先でぶちゅりと潰れ、脳味噌が中でぐちゃりと混ざる。
喉に、胸に、腕に、思う存分に刃を突き立てていると、何もかもから解放されたような爽快感に包まれた。
吹き上がる大川の血を浴びながら、わたしはけたたましく笑った。
ああ、とうとうやった。わたしは本当に悟朗を殺したのだ。
「いや、あなたっ!」
大川の妻が真っ青な顔で飛び出してきて、ぐったりと横たわった悟朗に縋りつく。
大川の妻がわたしを蔑んだ顔で睨み上げた。
「人殺し、この人殺しぃっ!」
「ひと、ごろし……」
「あなたは殺人鬼よっ。ああ、あなた。どうして、どうしてこんな酷いことにっ」
大川の妻が「ああぁぁぁ」と、力なく泣き叫んだ。
その慟哭がわたしの自我を引き戻した。
「わあああぁぁっ」
大切な友人を、怪奇小説を心待ちにしていると言ってくれた大川を、わたしはこの手にかけてしまった。
絶望のあまり胸が張り裂けそうだった。
これなら、路頭に迷った末にケチな窃盗犯として逮捕された方が、ずっとマシだった。
わたしはあらん限りの声で咆哮を上げた。