淋しい道をひとり歩くこと十五分、すっかり潮の匂いが遠ざかり、目の前に山が立ち塞がった。

 山のど真ん中には黒い口のようなトンネルがある。

 トンネルの前に立つと、異様に冷たい空気が漂ってきた。
九月とは思えない、真冬のような無機質でしんとした冷気だ。

 トンネルの長さは不明だ。向こう側がまったく見えない。
ともすれば、永遠に続いているのではないかと思える、不気味な黒く濃い闇が待ち構えている。

 なるほど、肝試しの連中が二の足を踏むのも理解できる。

「まあ、怪奇小説家には恐れるに足りずだがな」

 わたしは軽やかな足取りでトンネルに足を踏み入れた。

 濃密な闇が全身を包み込む。
昼を過ぎたばかりだが、電灯が点いていないトンネルの中は真っ暗だ。
足元はガタガタな上にところどころぬかるんでいる。懐中電灯を持ってくればよかった。

 ワイドラペルの濃茶のテーラードジャケットのポケットから、ライターを取りだす。
ほんの小さな灯だが、いくぶんか心強い。
わたしは後退しかけた歩を前に進めた。

 歩いているうちに急速に時間の感覚が失われていった。
何メートル歩いたのか、いつから歩いているのかわからなくなる。
もうずっと前から、混迷の道を歩んでいるような気がして、胸に隙間風が吹いた。

 戻れなくなる、そんな予感がしたのだ。

「おいで、こっちへ。おいで」

 不意に誰かの声がした。高く美しいが、幽かな女の声だった。

 立ち止まって辺りを見回すが、誰もいない。
トンネルを吹き抜ける風の音だったのだろうか。孤独を紛らわそうと、脳が錯覚を起こしたのかもしれない。

 呼ばれているのならば、いかねばならない。

 奇妙な勇気を得たわたしは、勇み足でトンネルを更に進んだ。

 すると不思議なことに、終わりが見えなかったトンネルに光が差した。出口が見えたのだ。
 トンネルを抜けると、過去にタイムスリップしたかのような村が現れた。

「ここが鬼形村か」

 真壁造りの民家、草葺き屋根、広々とした田畑、舗装されていない狭い砂地の道。森に囲まれ、高低差のある鬼形村の風景はあまりに古めかしく、どこか忌まわしい光景に映った。

 人の気配どころか生き物の気配がない、死んだような村。それなのに、何故だがわたしは何者かの息遣いを感じていた。

 空が遥か遠くに感じる。太陽が燦々としているというのに、透明な黒いフィルムを被せたかのように、すべてがいつもよりもワントーンほど薄暗く見える。

 わたしは砂利道をのそのそと歩き、点在する家をいくつか見送って、庭に琵琶の木がある一軒の平屋に入った。ぱっと見荒れておらず、ほどよい広さだったので、そこを今晩の宿にすることにした。

玄関には鍵がかかっていなかった。

中に入って驚いた。家具は座布団から桐箪笥までそろっており、食器棚には茶碗や湯呑みまである。茶の間の隣の部屋には布団まで敷いてあった。埃が落ちているが、長いあいだ無人だったにしてはきれいで、まるで少し前まで誰かが暮らしていたようだ。

水道からは透明な水がでた。食器棚から湯呑みを拝借して軽く濯ぎ、一口水を飲んでみた。美味しい水だった。

「無料の宿としては上出来じゃないか」

 わたしは荷物を置いて、上機嫌で外に出掛けた。

 さて、怪奇現象に襲われるにはまだ日が高い。
村全体が歴史博物館みたいでなかなか面白いし、ひとまずいろんな建物に入ってみようか。

 そう、わたしは作家なんぞとして活躍していたにも関わらず、愚かにも創造力が不足していたのだ。
 日が高いイコール怪異は起こらない。
そんなの、先入観に過ぎなかったというのに。

 ぶらぶらと村を歩き、背よりも高い犬柘植の生垣に囲まれた大きな屋敷に入った。

小さいが池があり、荒れているけど躑躅や馬酔木などの花もたくさん植わっている。
狭苦しい都会の一軒家に引き籠っていたわたしは、久しぶりに触れる自然にすっかり浮足立っていた。

観光気分で、仁連打ちの飛び石を歩いて離れの茶室に向かう。
 茶室の中を見て、わたしは言葉を失った。

 茶室の炉には釜が置いてあり、茶碗が一つ置いてあった。
茶碗のなかには濃い抹茶が白い湯気を立てている。

「ど、どういうことだ……」

 無人の村のはずだ。それなのに、何故。

 歓迎されているのか。それとも悪意か。どちらにせよ、恐ろしい。

 わたしは茶室を飛び出した。とくに恐ろしいものを見たわけじゃない。それなのに、心臓が早鐘を打っていた。

 落ち着け、誰かの悪戯に違いない。

 そう言い聞かせて自分を宥めようとしたが、気持ちはいっこうに落ちつかない。

誰が、何の目的で。そもそもこの村に人などいるのか。
おもてなしだと受け止めるべきか。
あの茶は飲んでも大丈夫なのか。
様々な疑問が胸中に渦巻く。

 見なかったことにするんだ。

 最終的にはなにもかも放棄して去るのが正しいと判断し、茶室に背を向けた。


 その時、ぎい、ぎいと奇妙な音がした。

 振り返ってはいけない。
そう思う心と裏腹に、わたしの首は後ろを向いていた。
茶室から見える場所に、一本の立派な松が植わっている。

 太い松の枝に、だらんとなにかがぶら下がっていた。

 松からぶら下がっていたのは、白い着物姿の人間だった。

白髪まじりの長い髪が風に靡いて、隠れていた顏が露わになる。

飛び出した眼球、ぽかんと開いた口、紫色の唇からだらんと垂れ下がった青紫の舌。
世にも醜く恐ろしい顔に身の毛がよだつ。

「あ、あ……」

 思わず呻き声が漏れた。

 わたしの声を聞きつけたかのように、虚空を見ていた目玉がぎょろりと動いた。
目玉がはっきりとわたしを見つめる。

「おぉ、く、に、くる……くく、るぅ!」

 首を吊った女が大音量で叫んだ。

「わああぁぁぁぁぁっ」

 雷鳴のような女の野太い声が怖くて、わたしは転げるように庭から逃げ去った。
 ずらりと続く犬柘植の生垣を走り抜け、さっきの屋敷から遠く離れた田んぼ道でわたしは足を止めた。

 荒い息を宥め、わたしはまた歩き出した。

 まさか、いきなり怪異に出くわすとは。

 怪奇小説を得意とする小説家だというのに、あんなに驚いてしまって情けない。
あの体験を小説にするつもりで、もっと怪異を見極めればよかった。

 ジャケットのポケットから手帳をだし、胸ポケットのペンを手に取るとわたしはすぐにさっきの出来事をメモし、自分の感情を書き留めた。
怖い経験はきっと小説の糧になる。もっと、集めなければ。

 奇妙な高揚を感じ、足取りが軽くなる。

恐ろしい目に遭ったばかりだというのにあんな気持ちになったということは、わたしはあの時、もう既に魔に魅入られていたのかもしれない。

だが、久しぶりに創作の神様が降臨しそうだと浮かれていたわたしの頭は、身の危険を察知する能力を完全に失っていた。

 
 次に通りかかった家は小さなあばら家だった。玄関の木戸は大きな獣に引っかかれたかのような四本の傷があった。

「巨大な熊でも出たのか?」

 この傷の位置からすると、二メートル以上の熊が出たことになる。
だが、熊が引っ掻いたにしてはきれいだ。熊の仕業なら、何か所もひっかき傷があるだろう。

 いったい何の仕業か。

 その疑問はすぐに解けた。玄関の木戸を開けたところに、備中鍬が立てかけてあったのだ。
その刃先はどす黒く汚れていた。棒の部分にも黒い手の痕がある。
鍬を手に玄関の外に出る。木戸の傷に合せてみると、刃の感覚が一致した。

 この備中鍬は凶器だ。

 わたしは備中鍬を放り捨てて、早々にあばら屋を立ち去った。


 その後も、嫌なものをいくつも見た。

 犬柘植に囲まれた大きな屋敷で見たような奇妙な怪異には出くわさなかったものの、いくつもの民家で、不吉な血痕を発見したのだ。

 台所の竈の夥しい血、どす黒く汚れた手毬サイズの庭石、血の染みが広がった寝室の布団、赤黒い染みのある卓袱台。こんな小さな村で、血生臭い事件が起こったであろう民家を何軒も目撃するなんて。

「鬼形村では昭和初期、村中で人が死んだ。刺殺された人、撲殺された人、病死した人が多数出たんだとさ。
残った村人は半数を切っていたらしい。
いったい何が起こったのかさっぱりだそうだ。
隣町の警察が通報を受けて出動すると、村人は鬼が出たって真っ青な顔で口をそろえて言ったんだそうだ。
事件以来、村は怪奇まみれになって、とうとう誰もなくなっちまったのさ」

 大川が飄々と語った物語を思い出し、背筋が冷たくなった。

 鬼が出て滅んだといわれている村に今、わたしはいる。

 この村で何が起きたのだろうか。この村の奇談とわたしの体験を小説にしたら、いい作品になるのではないだろうか。大川はそれを狙って、わたしをこの村に導いたのか。

 期待に応えなければならない。

わたしは決意を新たに、村の散策を続けた。

 民家の日記、村役場に残った資料、尋常小学校に併設された図書室の書物を漁り、わたしは村について調べた。

 そして、千姫《ちひめ》の話に辿り着いた。
千姫は鬼形村で一、二を争う名家の三鬼(みき)家の末娘であり、その身に鬼を宿していたそうだ。

 わたしが現地調査で知り得た情報をここに記す。


 千姫は幼少期より異様に聡明であり、生まれたと同時にもう喋れたそうだ。
半年もすれば立って歩き回り、二歳になれば文字の読み書きをこなせるようになった文武両道の才女であり、容姿も非常に美しかったという。

 彼女の大きな瞳は海の青を閉じ込めていた。
赤子の頃はその瞳は魔物の化身だ、鬼だと恐れられていたが、五歳ともなれば、才能と美しさ故に神の目と神聖視され、恐れられることは少なくなっていた。

 彼女の周りではよく人が狂った。
彼女と同じ年頃の大人しい性格だった子が凶暴になって友人を怪我させたり、発狂したりすることが何度も起きた。
彼女が十歳にもなると、男女問わず彼女の美しさに惑わされ、彼女にかしずいたり、彼女を奪い合って血みどろの争いを広げたりしたそうだ。

 自分のせいで狂っていく人々を前にしても、千姫は優美な笑みを崩さなかった。

 やがて、彼女は鬼の子なのではないかという噂が蔓延した。
普段は淑やかだが、ひとたび自分に害をなした相手には容赦なく、彼女に噛みついた野犬や猫を殺したり、気に喰わない人に暴力を振るったりすることがたびたびあったの加えて、彼女の特異な瞳の色が彼女は鬼子であるという噂に信憑性を持たせた。

 千姫が十五歳の頃、村で流行り病が起きた。
そこかしこで死者が出た中、三鬼家だけは親戚筋も含めて誰一人として病に倒れることはなかった。

 村人は千姫を怪しんだ。千姫は妖怪や妖術に興味を持ち、怪異に関する書物を取り寄せては読みふけっていた。
それらの書物を通して神通力が開花したか、あるいは妖術を身に着けたのかは分からないが、とにかく千姫が流行り病の原因だという噂が流布され、あっという間に狭い村は三鬼家に対する疑心暗鬼に染まった。

「娘はやはり鬼に憑かれた鬼子であった、神の手に委ねる」

 三鬼家当主の千姫の父は家や他の家族を守るため、千姫を切り捨てることにした。

そして千姫は十五歳の初秋、山奥にある吊り橋を渡った先の小さな社に監禁されることになったのだ。

 そうして何年もの時が流れた。
村人の日記によると、風の静かな日は、深い山から千姫の歌声が聞こえてくる。
その歌声に魅せられて、何人もの村人が千姫のいる座敷牢を訪れたそうだ。

わたしが読んだ日記の主の息子も、何度叱っても千姫の元を訪れるのをやめなかったと、愚痴混じりに記してあった。

 一九三〇年九月十四日の夜、奇怪な事件が起きた。村中で同時刻に何件もの殺人事件が起き、殺人が起きた数だけ突然死が起きて、村人の三分の二に近い人間が一晩で死亡する、世にも奇妙な事件だった。

 日記の主の息子も、その日に父親(日記の主の夫)と殺し、間もなく病死した。

 怪事件の同日、千姫も死亡していた。座敷牢の中で美しい姿のまま、眠ったように死んでいたそうだ。



 これ以上詳しいことは書いていなかったので、わたしにはわからない。

一九三八年五月二十一日に岡山県で起きたかの有名な津山三十人殺しについての知識はあったが、M県で一九三〇年九月十四日にこんな奇妙な大量殺人と死が起きていたことなど、はじめて知った。

きっとこの事件はあまりにも奇抜で、箝口令が敷かれたのだろう。
でなければ、怪異小説を愛し、自らも手掛けてきたわたしが知らないはずがない。

消滅した鬼形村の噂など、大川はどこで手に入れたのだろうか。
流石は全国を飛び回る敏腕記者だ。わたしは大川の手腕に改めて感心した。

村人が残した手記からしか情報は得られなかったが、わたしは大川が知る以上の情報を手に入れた。
これを教えたら、やつはきっと喜ぶだろう。

「疲れたな、そろそろ戻るか」

 わたしは根城とした家に向かった。

既に日が暮れかけている、完全な夜が来ると厄介だ。
今のわたしが持つ光源はライターぐらいなのだから。
水道は使えても、さすがに電気はきていないだろう。
山間の村で獣が出る恐れもある。私は帰路を急いだ。

 宿の民家に辿り着くと、村に来るまでに買い込んだ握り飯と缶詰で簡単な夕食を済ませ、今日知った情報や感じたことをしっかりと手帳に記す。

予想通り電気の供給はすでに絶えており、夕陽の赤が紺に呑まれると、空に散りばめられた星々の弱い光だけが地上を照らしていた。残念ながら月は爪痕のような細さで光の足しにはならない。わたしははやばやと床に就いた。

 その晩は酷く寒かった。
野宿でも過ごしやすい気温だと思っていたが、あてがはずれてしまった。
民家を借りてよかった。

 茶の間に二組敷かれた布団のうち、紺色の掛布団の方の布団に潜り込んだ。

「温かい―…」

 不思議なことに、布団の中は仄かな温もりに満ちていた。
まるで誰かが一緒に布団に入っているかのような人肌の温度。

 普段ならば気味が悪いと布団を飛び出していたことだろう。
しかし、その時のわたしは温もりに感謝すらしていた。

 眠りについてどれほどの時が過ぎただろう。
 不意に胸のあたりに重みを感じて、わたしは目を覚ました。

わたしは凍りついた。
胸のあたりに巨体の中年女がどっしりと座っていたのだ。女は包丁を握りしめていた。

「裏切り者、あんたは裏切り者や! あんたなんか死ねばええわっ!」

 怒号が部屋の冷えた空気を震わせる。女が振り上げた包丁がぎらりと輝く。

 これほど刃物を輝かせる光源など、この家には無いはずだ。
不思議に思って天井を見上げると、橙色の裸電球がいつの間にか輝いていた。

 おかげでわたしは自分を狙う鋭利な凶器と、それを手にした中年女の般若のように歪んだ顔を、まざまざと見せつけられるはめになった。

 殺されるっ。

 わたしは恐怖から逃れようと、目を閉じた。
 痛みはいつまでもやってこない。胸の苦しみも消えている。

わたしは恐る恐る目を開いた。

 そこには青い闇が広がるばかりで、包丁を振りかざす女も、橙色の明かりも消えていた。
ついでに布団の温もりも消えていた。
 そのかわりに、布団にはべったりと気味の悪い黒い染みができていた。

「な、なんなんだ、これは―…」

 わたしは布団を這い出した。

荷物を手に、寝間着のまま逃げるように民家を出る。

 外に出ても闇が広がっていた。風一つ吹かず、虫の音も絶えた沈黙の夜。
誰もいないし生き物の気配もない。
それなのに、なにか不気味な、ねっとりとした不穏な気配だけが濃密な闇に漂っている。

 奇しくも今日は鬼形村で怪奇事件が起きたのと同じ九月十四日だ。
わたしは今更ながらに恐ろしい偶然の一致に思い当たった。

 まるで、呼ばれたみたいだ。ゾッとして自分を抱き締めて立ち尽くした。

間を置かずして、隣の民家で女の悲鳴が聞こえた。
わたし悲鳴から逃げるように逆方向に走る。
井戸のある家に逃げ込むと、鈍い音が家の中から聞こえた。

 恐る恐る玄関の戸を開く。

「た、す……け。たす、て、くれぇ」

 恰幅の良い老爺が地面に這いつくばっていた。血塗れの顔面で、赤く染まった眼球を見開いて、彼はわたしに震える手を伸ばした。彼の禿頭はぱっくりと割れ、桃色の脳味噌がずるりと出ている。

「に、い。にく、い、憎いっ」

 倒れた男の後ろから呻きが聞こえた。
暗闇に目を凝らすと、血に濡れた漬物石を持った老婆が立っていた。
 逃げようとしたわたしの足首を老爺の肉厚の手ががしっと掴む。

「離せ、この、離せ!」

 わたしは無我夢中で老爺の手を踏みつけ、蹴飛ばし、逃げ出した。

 無我夢中で走っているうちに、村の奥の山に向かって走っていた。
手前に逃げればあのトンネルを越えて、怪異の村とおさらばできたかもしれない。
それなのに、判断力を欠いたわたしは、愚かにも村の奥に逃げていたのだ。

 阿鼻叫喚の声が闇夜に響いている。

 耳を塞ごうとした時、澄んだ歌声が聞こえてきた。

 誘うかのような美しい歌声に操られるように、わたしはふらふらと山に向かった。
 山道を登っていくと、一本の朽ちかけた吊り橋が見えた。

「おいで。こっちへ、おいで」

 歌に混じって声が聞こえる。わたしは穴が開いてボロボロの橋をふらふらと渡った。

 そこには小屋ぐらいの大きさの社があった。社の扉には札が貼ってある。格子模様と山羊のような角にぎょろりとした目玉の鬼が描かれた、黄ばんだ札だった。

「魔除けの札か」

 わたしは札を破り、格子戸を開いた。

畳を踏みしめ一歩中に入ると湿った空気に包まれた。寒く陰気くさい場所だ。
一畳先は座敷牢となっており、頑丈な鉄格子の向こうには、ついさっきまで誰かが生活していたかのような気配が満ちている。

弱々しい黄色い光を放つ行燈に照らされ、小さな卓袱台、畳に散らばった書物、小さな鏡台が闇に浮かぶ。
クタクタになった布団も敷いてあった。その傍には、朽ちた深紅の着物が落ちていた。金色の蝶が描かれた美しい着物だ。

牢以外には何も無い。

ひやりと凍える墓場のような冷気が恐ろしい。
立ち去ろうと牢に背を向けると、背後から声がした。

「待って」

反射的に振り返ると、長く美しい黒髪に深紅の着物の女が座っていた。

猫のようなぱっちりとした目は海のように青く、唇は血濡れたように紅い。肌は白磁のようにつるりとしていた。とてつもなく綺麗で僅かに怖い、不思議な女だった。

女が白い指でわたしの足元を指さした。

目をむけると、いつの間にか足元に櫛が落ちていた。
彼女の纏う着物と同じ金の蝶が描かれた、黒塗りの美しい櫛だった。

「拾って」

鈴を転がすような声で頼まれて、わたしは無意識のうちに櫛を拾っていた。
格子越しに渡そうとすると、女は白い歯を見せて笑った。

「それはもう、アナタのもの」

 女がそう告げると同時に、櫛は幻であったかのようにわたしの手の中から黒い煙となって消えた。
煙がわたしの心臓に吸い込まれるようにして消えたことに、わたしは嫌な不安を覚えた。

「○×△■■〇×」

 女が何かを呪文のような言葉を呟いた。

「アナタはもう、ワタシのもの」

 女はそう言って姿を消した。同時に、わたしは意識を失った。

 気付けば朝になっていた。どうやって戻ったのか、わたしは鬼形村のトンネルの前に倒れ込んでいた。

 狐につままれたような気分でわたしは帰りの汽車に乗った。

 妙な体験を記した手帳を握りしめる。なにか、奇妙な高揚感が胸を満たしていた。
今なら何でもできる、そんな気がした。

 まさか、あんな恐ろしいことになるとは、この時のわたしは夢にも考えなかったのだ。
眠い、頭がふわふわする。

 私は赤い本を閉じた。時計を見ると、丑三つ時をとっくに過ぎていた。
伝染鬼の半分近くを一気に読んでしまった。

 この後なにが起きたのだろうか。知りたいけど、今日はそろそろ寝よう。

 ソファでこのまま寝てしまいたいのを我慢して、空になったマグカップを洗い、布団を敷いた。

 疲れていたのか、不眠症で眠りが浅く寝つきも悪い私には珍しく、一瞬で深い眠りが訪れた。

気付くと知らない場所に立っていた。
日本昔話のような光景が広がっている。
田舎にある私の実家でも、ここまで古めかしい集落はない。

 割烹着姿で井戸端会議をする中年女、田畑を耕す着物の男達。
まるで、タイムスリップしたみたいだ。

 突然、長閑な光景に翳が差す。

太陽が雲に隠れたのだろうか。空を見上げるが、青空には雲一つない。
それなら、どうしてこんなにも薄暗いのだろうか。

背筋に冷たい汗が流れた。私の気持ちを読み取ったように、さらにワントーン辺りが暗くなる。

周囲の人々が一斉にこちらを振り向いた。
その目は黒い穴のようになり、頬はこけ、肌は青褪めていた。
それだけじゃない。すぐ傍にいた割烹着の主婦の一人は頭が陥没してどす黒い血を流し、遠くで草抜きをしていた老爺は胸を赤黒く染め、犬の散歩をしていた老婆は首からどす黒い飛沫を上げていた。

血に穢れていない人は鍬や包丁、大きな石などの凶器を手に、けたたましい笑い声をあげて頭を激しく左右に振っていた。みんな、目が爛々と輝いている。

 狂っている。

 私は叫びそうになるのを必死に堪えて、急いでその場を離れた。
とにかくこの場所から逃げなくては。

 サイレンのような笑い声から逃げるように走っていると、いつの間にか山奥に迷い込んでいた。

 ボロボロの吊り橋が見える。後ろから狂ったように笑う声が追いかけてきていた。

 渡るしかない。
 私は一気に橋を駆け抜けた。

後ろを振り返ると、橋の向こうには凶器を手に首を左右に振りながら笑っている人々の群れができていた。
だが、誰も橋を渡ってこない。

 それでも安心できない。どこか隠れられる場所を探すが、橋のこちら側はそんなに広くなくて、社があるだけだった。

 社は小屋ぐらいの大きさがある。格子戸は開いていた。

 中に入ると牢屋があった。牢屋の向こうには人がいる。
金色の蝶々が飛ぶ紅の着物を纏った、艶やかな長い黒髪に外国人のような青い瞳の美しい女だった。

女が私の足元を指さす。

「拾って」

 反射的に私は腰を屈め、彼女の白い指先が示すものを拾い上げた。
それは綺麗な黒塗の櫛だった。

拾ってしまった瞬間、私は何故だかゾッとした。女が真っ赤な唇を吊り上げ、白い歯を見せてにいっと嗤う。

「それはもう、アナタのもの」

 櫛が黒い煙となる。煙はスーッと私の胸の中に沁み込んで消えた。それはとても、嫌な感触だった。

「○×△■■〇×」

 意味不明な言葉を女が呟いた。その言葉が、私は何故だかとても怖かった。

「な、何よ。どういう意味よ!」

 眦を吊り上げる私に、女は薄く笑った。

「アナタはもう、ワタシのもの」

目の前が暗転する。気付けば私は日本昔話に出てきそうなあの村に戻っていた。

村からは、穴のような目に青褪めた肌で血塗れで日常生活を営んでいた人々は消え去っていた。だが、凶器を手に笑っていた狂った人々は相変わらずそこにいる。

彼らがいっせいに私を見た。みな、一様に嬉しそうに目を三日月に細めると、私に向かって駆け寄ってきた。

「嫌よ、来ないでっ」

 私はまた走り出す。

トンネルが見えてきた。トンネルの近くには『鬼形村』と書かれたボロボロの木の立て札がある。

 私は足を止めた。
 魔物の口腔のような漆黒のトンネルが怖かったからだ。

 すっかりあがってしまった息を整えながら、思考する。

 これは夢に違いない。寝る前に読んだ悟朗の『伝染鬼』の情報を、頭の中で寝ながら整理しているから、こんな夢を見たのだ。

 頭で理解していても、久しぶりの全力疾走で痛む喉も心臓も、背中を伝う冷や汗の感覚も、鮮烈な恐怖も、すべての感覚が本物だ。たとえ夢の中でも、これだけリアルに感覚も感情もあると、夢の悪影響が寝ている身体にも及ぶのではないか。

 たとえば、恐怖や痛みのあまり心臓発作で永眠となる。などという想像をしてしまい、すごく怖かった。

 起きろ、起きろ!

 走りながら頬を叩いたり、腕をつねったりする。
 本物の痛みが私を苛む。だけど、現実に戻ることはできなかった。

 どうしたら目が覚めるだろう。

「アハハハハハハッ」

 近くで声が聞こえた。
振り返ると、着物姿の人物が首を左右に振りながら、こちらに向かって走ってきていた。
 その人の顔だけは、何故だか靄がかかっていてはっきりと見えなかった。

 あれに追いつかれてはいけない。

 理由はわからないが、私はそう思った。

 怖い。だけど、トンネルを抜ければひょっとすると、助かるかもしれない。
一縷の望みを託して、私は漆黒の闇に飛び込んだ。

 少しくらい外の灯が届いていてもよさそうなのに、一歩踏み込んだ瞬間から中は真っ暗だった。

振り返ると、鬼形村の方が異様に明るく光っている。気を抜くと、まばゆい光に吸い寄せられそうになる。

 明るい場所にいきたい。

 強烈な願望を堪えて、私は暗闇の中を突き進んだ。足元はもちろんのこと、手を顔の前に持ち上げても、指先すら見えない。
 そのうち、本当に私は存在しているのだろうかという疑念に駆られた。

 時間の感覚も、距離感もすっかりなくなっていた。前も後ろも暗闇が続いている。本当に出口に向かっているのか、また入り口に戻っているのではないか。

 心細くなってきた時、パッと一瞬だけ辺りが明るくなった。

「なにが光ったの?」

 呟いた疑問が闇に吸い込まれる。
 もう一度、光をちょうだい。
 心の中で祈ると、またパッと光が閃いた。
 もっと、もっとよ。

 強く願うのを聞き届けたかのように、パッ、パッ、パッと強い光が連続で点滅する。
そのおかげで、立ち止まらずに歩き続けられた。

 だけど、その光は恩恵ではなかった。
 明滅する光の中、何か青白く細長いものが浮かび上がった。

 それは徐々に、私に近付いてきている。

 背筋がぞおっと冷えた。
 一歩、また一歩と近付いてきているのは、白い着物を纏った人間だった。

 首から上がない。いや、違う。頭に黒い頭巾を被っているのだ。

 黒い頭巾に気付く頃には、その人物は私に手が届く距離まで近付いていた。ぼんやりしているから分かりにくいが、小柄で華奢なのでたぶん女だ。

 いつの間にか弱々しい橙の光がトンネルに灯っている。

その光が、私の瞳に恐怖を映した。

 黒頭巾の人物が手を振り被っている。その手の中でぎらりと何かが光った。
 刃物だ。よく研ぎ澄まされた鋭利な包丁を持っている。

 殺される。

 そう思った瞬間、私は腕を振り上げていた。いつの間にか私の手にも凶器が握られていた。

それは細長い刺身用の包丁だった。私が実家から持ってきて愛用しているそれとよく似ていた。
よく見ると、黒頭巾の人物も同じ物を握っている。

ざくっ。

嫌な感触が手のひらから全身に伝わる。

肉を切る手ごたえ。嫌悪すべきその感覚に、何故だか私は快感を覚えた。

「あああぁぁぁぁぁっっ!」

 歓喜なのか、絶望なのか。私の喉から甲高い叫びが迸った。

自分の声で、目が覚めた。

 慌てて辺りを見回すと、見慣れたシミのある天井が飛び込んできた。

「わ、私の部屋よね?」

 呟きに答える声はない。一人暮らしなのだから、当然だ。
むしろ、誰かが答えたほうが怖い。辺りを見回す。
机に置いたままの栞を挟んだ赤い本、カーテンを透かして差し込む日光。異変はない、いつもの部屋だ。

私はほっと胸を撫でおろす。

「嫌な夢ね」

 ただの夢だった。そう思いたい。だけど、あまりに変な夢だった。

「寝ている間は無意識のうちに記憶を整理しているっていうものね」

 本で読んだ内容と重なる部分の多い夢だったから、きっとそうに違いない。
ただ私の脳が正常に働いていただけ、それだけだ。
 ホッと私は息を吐いた。

 もうすぐ午前十時。昼から倉庫の搬入作業の単発バイトが、夜は居酒屋でのバイトがある。
トマトと目玉焼きをのせたトーストを食べると、わたしは昨日読んだ本の内容と、今朝がた見た妙な夢について、ワードに打ち込んだ。

 一通り文章を打ち終えるとネットの銀行口座を確認した。

「嘘、もう振り込まれているじゃない」

 五万円の入金を確認して心が躍った。最近、粗食が続いていた。
お昼は久しぶりにピザでも届けてもらおうか。

いや、今日は夕飯が豪華なまかないだから、贅沢するのは後日にとっておこう。
お昼は簡単にカップ麺でいい。

 午後の仕事まで時間がある。少しでも本を読み進めておこう。

 赤い本を手にソファに沈んだ。

鬼形村から戻ると、わたしは自分の体験と村で見知ったことをもとに小説の執筆にとりかかった。

 だが、思うように執筆は進まない。机に向かって一時間経っても、広げた原稿用紙のマス目は埋まらない。

 筆を動かしていないと自分が本格的に堕落していく気がして、小説執筆の傍ら、わたしは鬼形村の旅について詳しく書くことにした。

 原稿用紙を見るのが苦痛だったので、鬼形村の旅行記は別紙に書くことにした。
日記帳サイズの白い紙に、体験を書いていく。
書き終えたら表紙をつけて紐で綴じて、一冊の本に纏めてみるのも面白いだろう。

 体験談の執筆は驚くほど捗った。

「このくらいにしておくか」

 意図的に体験談の執筆を中断し、また原稿用紙を広げた。
筆を握っているうちに、だんだんと意識が研ぎ澄まされていく。

書ける、今なら書けるぞ。

気分が盛り上がってきた時、パッと目の前が暗闇に包まれた。

「な、なんだ?」

いきなり部屋の電気が消えたのだ。でも、何故?

窓の外は暗闇だが星が煌めいているし、周囲の家の窓は煌々と光を放っている。雷や強風で電線が切れたわけじゃない。かといって、ブレーカーがいきなり落ちたとも考えにくい。

暗闇にねっとりと絡みつくような、嫌な気配を感じた。

トンネル。ここは、あの幽鬼の村に続くトンネルなのか。
ふと、そんなふうに思った自分にぞっとする。

冗談じゃない、あんな恐ろしい体験は二度とごめんだ。

筆を置いて立ち上がった。
バチッと音がして、部屋の天井に再び電気が灯る。

「なんだ、ただの故障だな」

 殊更明るく呟くと、わたしは再び筆を執った。

 しばらくして、今度は奇妙な笑い声を聞いた。
鈴を転がすような、女の高く美しい笑い声だ。
しかし、その笑い声はどこか悪辣な響きを孕んでおり、耳にしているだけで頭痛がしてきた。

 笑い声に混じって耳鳴りがした。奇妙な雑音が耳の中でしている。
まるで、頭の中に何者かが侵入して呟いているような、そんな音の聞こえかただった。

 背筋がざわざわとする。足の指の先や背中がむず痒いような気がして、わたしは肌を掻き毟った。
だが、掻くとむずむずは違う場所に移動してしまい、いつまでたっても奇妙な痒みはおさまらない。
 おまけに雑音は次第に大きくなっていき、それに比例して搔痒感も増す。

「○×△■■〇×」

 奇妙な言葉が聞こえた。どこかで聞いたことがある、奇妙な言葉。

「○×△■■〇×」

 ああ、そうだ。鬼形村の山の中、橋を渡った向こうにポツンとある奇妙な社にいた、美しい女が呟いた言葉だ。

「○×△■■〇×」

 いつの間にか、わたしはそう呟いていた。
すると、鬱陶しい掻痒感は消え去り、雑音も止んでしまった。
 再びわたしは筆を執り、字句を記す。

 小説じゃない。わたしが書き綴っていたのは鬼形村での恐怖体験と、今起きている奇怪な出来事だった。
ほとんど無意識で手が動いている、自動書記のようだ。体験を書き記せと見えない何かに命じられているのかもしれない。


 その晩、わたしは奇妙な夢を見た。

夢の中のわたしは、あのトンネルにいた。
無明の闇の中、わたしはぽつねんと立ち尽くしていた。

 何をしているのか、どうしてここにいるのか、わからない。どのくらいの時間、この暗闇に抱かれていたかも。
 真っ暗闇を光が切り裂いた。

これは希望の光ではない、終末だ。何故だか、わたしはそう感じた。

光はチカチカと点いたり消えたりを繰り返す。

その感覚がどんどん狭まっていき、やがて頼りない橙色の光として闇に居ついた。
ふと、光の中に何かが浮かんでいる。

青白く細長い何か。蛇、いや、違う。あれは人だ。頭の部分がないので蛇に見えたけれど、手足がある。

それにわたしが気付いた瞬間、それもわたしに気付いたようだ。
ぬううっと滑るような奇妙な動きでそれはわたしに肉薄した。

心臓がバクバクと音を立てる。それの手には、大きな鎌が握られていた。その鎌には見覚えがあった。
そうだ、あれは働き者だったわたしの母が愛用していた、草刈り鎌だ。

しかし、近付いてきたそれはわたしの母ではなさそうだ。
母のような、枯れ木の体格ではない、もっといかつい、幽霊とは思えない健全な体格をしている。

頭に黒い頭巾を被っていて顔を隠しているが、恐らく男だろう。肌は病的に青白く乾いている。健全な体格とその肌の差がかえって気味悪さを増していた。

黒頭巾が鎌を振り上げた。

殺される。恐怖したわたしはとっさに叫び声をあげ、黒頭巾の幽霊に飛びかかった。いつの間にか、わたしの手にはそれが持っていた鎌が握られていた。

ざくん。

肉を切る感触が手のひらから全身に伝わる。

「はははははははっ、はははははははっっ!」

 笑い声がトンネルに木霊した。
 笑っていたのは他でもない、わたし自身だった。
 けたたましい笑い声でわたしは目を覚ました。

飛び起きたわたしはまっさきに、自分の手を確認した。
わたしの手は鎌など握っていなかった。ほっと胸を撫で降ろす。

 夢でとはいえ、殺人をしてしまった。
あれは人ではなくて幽霊だったかもしれない。
でも、鎌を刺した時の感覚が手のひらにしっかりと残っている。

「ただの、夢だろう」

 弱々しい呟き声に応えてくれる者はいない。
一人というのは、なんて孤独なのか。
誰でもいいから、嫁をとっておくべきだったかもしれない。

 すっかり凝り固まった肩を解そうと、わたしは首を回した。

 その時、きちんと閉めたはずの襖が数センチほど開いているのが見えた。

 隙間というのはよくないものの通り道になりがちだ。わたしは慌てて布団から這い出して、襖を閉めようとした。
 真っ黒な隙間に青いものが浮かんでいる。ビー玉、いや、違う、目玉だ。

「ひいっ」

 情けなく叫んだわたしを嘲笑うかのように、青い目玉は三日月に細められた。
その露悪的な笑みを見たとたん、わたしは意識を失ってしまった。

 
窓の外は光が溢れ、障子から光が透けている。
 いつのまにか、朝になっていた。

「す、隙間を。隙間を失くさねば」

 わたしは譫言のように呟き、目の前の襖に手を伸ばした。

 すると、襖はぴったりと隙間なく閉まっていた。
昨晩、あの隙間が開いていたのは夢だったのか。
夢の中の夢で、わたしは半開きの襖を締めようとして、青い目玉の怪異に出くわしたのだろうか。

 暑くもないのに額にびっしりと汗が浮かんでいた。

 わたしは汗を拭い、離れた場所で乱れている布団に戻った。
その時、奇妙なものに気付いた。枕元に何かが落ちている。

「なんだ、これは。櫛?」

 黒塗りの金の蝶が描かれた美しい櫛だった。

「アナタはもう、ワタシのもの」

 耳の奥で美しくもおぞましく、海の青を宿した瞳の女を思い出した。
紅の鮮やかな着物姿が脳裏に鮮やかに蘇る。

「憑かれたのだな」

 不意に自分の口から洩れた言葉が、心臓を凍えさせた。

 わたしは慌てて黒塗りの櫛を拾い、窓から外に放り投げた。
櫛は放物線を描いて、隣の家の植え込みに消えた。

 わたしは本格的に憑かれたのだ。

 鬼形村の山奥の社の座敷牢にいた、あの紅の着物の美しい女の霊に。
彼女は三鬼家当主の娘、千姫だったに違いない。
 千姫はわたしに憑りつき、何を成そうとしているのか。

「馬鹿な、単なる夢だ。あの櫛は、わたしが無意識のうちに持ち帰っただけだ。それがたまたま、枕元に落ちたのだ」

 釈然としなかった。だが、無理にでもそう納得した。
そうしなければ、狂ってしまいそうだったから。


 しかし、やはりわたしは捕まっていた。


 買い物から帰ってくると、机の上にぽつんと黒塗りの櫛が置いてあった。
わたしは愕然とした。

今朝、確かに捨てたはずだ。それなのに何故―…

 震える指で櫛を手に取った。

窓を開けて捨てるだけではまた戻ってくるかもしれない。
わたしは外に出ると、落ち葉を集めて火を点けた。赤々と燃える炎の中に櫛を放り投げる。

 ひょっとして、消えずに櫛だけ焼け残るのではないか。
戦々恐々としながら火が消えるまで様子を見守っていた。

 完全に火が消えると、燃えかすを火かき棒で掻き回した。そこには黒く焦げた塵があるだけだった。

ああ、よかった。わたしは胸を撫でおろして家に帰った。

 一人きりの家。それなのに気配を感じる。

誰もいない二階でぎしりと床を踏む音がした。筆を止めて、わたしはそそくさと二階に駆けつける。
だが、何もいない。
 気のせいだったかと、また書斎に戻って筆を手にする。すると、今度は台所から水音が聞こえた。
台所に行くと、蛇口から細く水が垂れていた。
きちんと締めたはずなのに。

 わたしの家はお化け屋敷と化してしまった。真昼から奇怪な現象が起きる。
一つ一つの異変は些細なものだ。しかし、こうも続くと気味が悪い。

 夜が来るのが恐ろしい。化け物の時間となったら、家の怪異はさらに激しさを増すのではないか。
不安な気持ちでわたしは夜を迎えた。


 窓の外は紺色の闇に覆われている。
頼りないか細い月と小さな星々が地上に光を注ぐが、なんの慰めにもならない。

わたしは豆電球を点けたまま、早々に床に入った。
いつもならば電気をすべて消して眠るのだが、今は暗闇が恐ろしい。電気を消すことができなかった。

 橙のぼんやりした明かりが闇を柔らかく照らしている。
そのことに安堵を覚えるほど、わたしの心は縮み上がっていた。

 さっさと寝てしまおう。

そう思っている矢先、物音がした。

 コンコンコン

 誰かが窓を叩いている。

こんな夜半に訪問してくるような知り合いはいない。
そもそも、今のわたしと縁のある人間など大川ぐらいだ。

 大川は飄々として破天荒に見えるが常識人だ。少なくとも夜中に突撃訪問してくるような男ではない。

 コンコンコン

 窓を叩く音がさっきよりも大きくなった。

「おるんやろ? あかりがついとるもん、おるんやろ?」

 見知らぬ声がした、幼い子供の声だ。

「ねえ、どうして。どうして?」

 わたしは口の中に溜まった唾を飲み込むと、そっと布団から出て電気を消した。
居留守を決め込むためだったが、これがよくなかった。

 バン、バン、バンッ

 窓を叩く音がきゅうに激しくなる。
 わたしは恐ろしくなり、布団を頭から被った。

「とうさま、とうさま。どうして。いたい、いたいわ。ひどいやん、とうさま」

 断罪する声。恐ろしさに震えていたわたしは、その声に耐えられなくなった。
布団を跳ねのけると、窓を乱暴に開ける。

「悪ふざけはやめろ!」

 叫んだわたしの声が闇に虚しく響いた。

そこには、誰もいなかった。

 首を傾げながら窓を閉め、布団に戻ろうとした。
しかし、奇妙なことが起きていた。布団が小さく膨らんでいるのだ。

「馬鹿な、空っぽに決まっている」

わたしは震える手で布団を捲った。

すると、顔が半分陥没したおかっぱの少女が仰向けに寝転がっていた。
少女は恨みがましい顔でこちらを見上げた。

「とうさま、なんであたしをころしたん?」

 くわっと目を見開き、おさげの少女がとびかかってきた。

わたしは間抜けな叫び声をあげながら後ろにひっくり返った。そのまま恐怖のあまり気を失ってしまった。
 気付くと、わたしは鎌を握っていた。

倒れ込んでなんていないし、場所も自宅の寝室じゃない。
うらびれた路地裏で、握りしめた鎌を無心に振り下ろしている。
ざくん、ざくん、ざくん。なにか分厚いものに刃が刺さる感触。

 わたしは振り上げた鎌から下へと視線を動かした。
冷たい土の上に、真っ赤に染まった大川が転がっていた。

「お前が憎い、お前のせいだ」

 わたしは呪いの言葉を吐きながら、大川に鎌を振り下ろしていた。
私は赤い本を閉じ、頭を振った。
「なんなの、これ。小説じゃないの?」
 一人称の手記を模した怪奇小説かと思っていたけど、本の最初のページに記してあったように、本当の体験談なのだろうか。だとしたら、気味が悪い。
 背筋が冷たくなり、私はぎゅっと自分を抱きしめた。
 私が見た夢と同じ夢を悟朗も見ていた。
真っ暗なトンネル、凶器を持った黒頭巾の人物。
本を読んで私が同じ夢を見たのなら本の影響だが、あの夢を見てから本を読んだ。

これはただの夢じゃない。

「伝染鬼、このまま読んでも大丈夫なのかしら?」

 私は恐怖に支配された。

 とりあえず、赤い本を本棚に戻し、逃げるようにバイトに出掛けた。

 夜遅くまで居酒屋で働くと、風呂に入って、本を読むことなくベッドに入った。


 その晩、私は夢を見た。

私はあの田舎の村、鬼形村に居た。あたかもそこの住人であるかのように、どこかの家の囲炉裏の前でのんびりとくつろいでいる。
壁の日めくりカレンダーは一九三〇年九月一四日だった。

その時の私はそれがあの忌まわしい事件の日だなんて、まったく思い当らなかった。お茶を啜りながら、ぼんやりと一人で座っている。

窓の外は夜の帳が下りていた。不意に強烈な眠気を感じた。
そろそろ寝ようかと腰を上げて、私は土間に降りた。

そのことを可笑しいとは思わなかった。

土間を裸足で歩き、流しに近付く。そして、しっかり研ぎ澄まされた、洗い立ての刺身包丁を手にした。
それでもまだ、何も可笑しいことはないと思っていた。

刺身包丁を握り、私は家の中をうろつく。

襖の向こう、心地よさそうな鼾が聞こえてくる。私はそっと襖を開けて寝室に入った。
井草の香りがふわりと漂う。

布団の中では老女が心地よさそうに、ぐうぐうと眠っていた。

何故か、私は強烈な殺意を感じた。眠気はいつの間にか吹っ飛んで、意識がはっきりとしていた。それなのに、体がふわふわするような、変な感覚だった。

私は刺身包丁を高々と掲げた。そして、熟睡している老女の体に躊躇なく振り下ろした。

ぐさっ。確かな手ごたえが全身を駆け抜け、脳に伝わる。

「アハハハハハハハッ」

喉の奥から笑い声が迸った。とても爽快で愉快な気分だった。



 その夢を見てからだ。私の日常が侵食されたのは。

 一人きりの部屋に自分以外の声が聞こえる。はじめは他の階の人間の声が聞こえているのだと思った。
でも、すぐに違うとわかった。

「殺せ、やってしまえ」

 キッチンで包丁を握っている時、嬉々とした声が私の耳元で囁いた。

「たすけて、たすけて、たすけて」

 パソコンでネットサーフィンをしている時、すぐ背後で息も絶え絶えに誰かが呟いた。

 風呂に入っている時、けたたましい笑い声が風呂場で響いた。

 あきらかに、隣人の物音とは違う。
そうわかるほど、声は異様に近くで聞こえた。
まるで私の中から聞こえているかのような、そんな聞こえかただった。

 それだけじゃない。ちゃんと締めたはずのドアが半開きになっている。
そして、半開きの闇からは何者かの気配が濃く漂っていた。
私は悟朗の体験したこと追体験するようになっていたのだ。

 怖くなって、しばらくのあいだ赤い本を読むのをやめた。

前金の五万をもらえば十分だ、これ以上関わるべきではない。そう思ったのだ。

でも、本を読むのをやめても、怪現象は治まらない。日に日に酷くなっている。

いつの間にか、夢で拾ったあの黒塗りの櫛がメイクボックスに入っていた。
近所に買い物に行くときは常にスッピンで、長らく化粧なんてしていなかったから気付かなかった。

「気持ち悪いわね」

私は即座に櫛をゴミ箱に突っ込んだ。

翌朝燃えるごみとして回収された櫛は、気付くとまたメイクボックスにあった。
何度捨てても同じように櫛は戻ってきた。燃やしても、川に流しても櫛は戻ってきた。

次第に私は怖くなってきた。

悟朗はどうなったのだろう。この本を書き終えて製本に漕ぎつけたとなれば、彼は発狂する前、あるいはそれよりもっと恐ろしいことが起きる前に、何らかの解決策を見つけたのではないか。

私はそう期待して、再び本を読むことにした。
わたしはどうしてしまったのだろう。

家の中に一人でいても、一人である気がしない。
常に大勢の気配がわたしの傍に渦巻いているような気がしてしょうがない。

女の甲高い笑い声が聞こえたり、ちゃんと閉めたはずの押入れや障子が数センチ開いていたりなど、今じゃ些細な怪現象にすぎない。
もっと大変なことが、わたしの身に起きようとしている。

「はははははははっ、はははははははっっ!」

いつかの夢で聞いた、けたたましく醜悪なわたしの笑い声が聞こえる。
笑っていたつもりなんてないのに、わたしはいつの間にか激しく笑っていた。
掻痒感が治まらない。
さっきから、皮膚の下を虫が這っているような、不快な痒みがずっと続いている。

手首を掻き毟る。皮膚が裂けて、赤い血が滲んだ。
それを見ているうちに、少しずつ痒みがひいていく。
でも、それも束の間のことだ。だから、また掻き毟る。
おかげで手首には醜いミミズのような傷が絶えず残っている。

筆をとり、書き物に集中する。鬼形村を訪れてからの奇々怪々な体験を綴っているあいだだけは無心になれた。

しかし、ひとたび原稿用紙を広げて小説を書こうとすると、痒みや不快感が押し寄せてきて、筆が進まない。
ぜんぶ、大川のせいだ。大川が呪われた村などを紹介するから。

腸がぐらぐらと煮えたぎる。体の底からどす黒い憎しみが滾滾と沸いてくる。

気付くと、わたしは原稿用紙に恐ろしい言葉を綴っていた。

殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

わたしの手はひたすら、そう綴っている。

一枚の原稿用紙が殺すという文字でほぼ埋まっていた。
無心に物騒な文字を書きつけている自分を想像し、わたしは薄ら寒くなった。

 小説を、小説を書くのだ。

 意思を強く持ち、わたしは筆に握る手に力を入れた。

 掻痒感、憎悪がまたわたしを襲う。それから逃れるために、無意識のうちに殺すと書き綴る。
それを幾度となく繰り返した。

 そのうち、いつの間にか庭から鎌を持ってきて握りしめるようになった。

「殺す、殺す、殺す、殺す」

ブツブツ呟きながら、わたしは鋭い鎌を握りしめていた。
 わたしはすでに狂っているのだ。

 鬼形村、あの村はなんだったのか。行ってはいけない、それは本当だ。

「○×△■■〇×」

この言葉を耳にした時から、うっすらと思っていた。
わたしはもう駄目だと。この言葉が頭から離れない。離れて、くれない。
千姫が吐いた言葉、あれは呪いの言葉だ。

近ごろ、繰り返し、繰り返し見る夢がある。大川を殺す夢だ。

許しを請う大川に馬乗りになり、何度も何度も鎌を振り下ろす。

爽快だった。あまりの快感に、わたしは笑い声を上げていた。

憎い相手を殺せたら、さぞ気持ちが晴れるだろう。
面白いことなどない、苦痛だけの世の中を生きるより、最高の快楽を味わってぽっくりと死ぬ。雁字搦めの人間社会から逃れる最高の手法ではないか。

 わたしは鎌を握りしめた。そして、大川の家を訪ねる。

 道行く者がわたしを不審な目で見ているが、気になどしない。鎌を後ろ手に持ち、軽やかな足取りで大川が妻子と暮らす真新しい一軒家のチャイムを鳴らす。

「おお、悟朗。お前さんが訪ねてくれるなんて珍しいなあ」
「ああ、大川。急用があってな」
「急用って?」
「用件はこれだ」

 わたしは高々と鎌を掲げる。大川が目を丸く見開き、口をぽかんと開けた。

「ご、悟朗?」

 立ちすくむ大川の胸をめがけて鎌を振り下ろす。

ざくんと刃が肉に食い込む感触。尖った刃の先がどこかの臓器を引っ掻いたのがなんとなくわかった。

「うぎゃああぁぁ」

 間抜けな叫び声を上げて大川が玄関の床に崩れ落ちた。

わたしは大川に馬乗りになると、上半身めがけて鎌を何度も何度も振り下ろした。
目玉が鎌の先でぶちゅりと潰れ、脳味噌が中でぐちゃりと混ざる。
喉に、胸に、腕に、思う存分に刃を突き立てていると、何もかもから解放されたような爽快感に包まれた。

 吹き上がる大川の血を浴びながら、わたしはけたたましく笑った。

ああ、とうとうやった。わたしは本当に悟朗を殺したのだ。

「いや、あなたっ!」

大川の妻が真っ青な顔で飛び出してきて、ぐったりと横たわった悟朗に縋りつく。
大川の妻がわたしを蔑んだ顔で睨み上げた。

「人殺し、この人殺しぃっ!」
「ひと、ごろし……」
「あなたは殺人鬼よっ。ああ、あなた。どうして、どうしてこんな酷いことにっ」

 大川の妻が「ああぁぁぁ」と、力なく泣き叫んだ。

 その慟哭がわたしの自我を引き戻した。

「わあああぁぁっ」

 大切な友人を、怪奇小説を心待ちにしていると言ってくれた大川を、わたしはこの手にかけてしまった。

 絶望のあまり胸が張り裂けそうだった。
これなら、路頭に迷った末にケチな窃盗犯として逮捕された方が、ずっとマシだった。
 わたしはあらん限りの声で咆哮を上げた。
その叫び声でわたしは目を覚ました。

 机に突っ伏して寝ていた。手には鎌を握っているが、鎌に血はついていない。
大川を殺したのは夢の中だったのだ。

 近頃、夢と現実の境目が曖昧だ。
いつ、さっきの夢のようなことが起きても不思議ではない。

 その前に、わたしが出来ることは一つ。

 死ななければ。それしか、大川を殺さない方法はない。この鎌で、自らの人生に幕を引くのだ。

 死ぬのは恐ろしい。死の先には、何があるのだろう。科学が発展してきた今でも、死については解明されていない。自ら未知の世界に飛び込むのは、震えるほど恐ろしい。

 友人を救うためだ。

 わたしは自分の首に鎌の刃先を押し付けた。横に引けば、刃が動脈を裂き、出血多量で死ねるだろう。
 手が震える。駄目だ、怖い。

 わたしは鎌を放り捨てた。かわりに筆を執り、この体験談を執筆する。

 わたしが自死したあとで、面白半分なスキャンダルになるのは御免だ。
せめて、わたしの身に何が起きたのか、鬼形村がいかに危険な心霊スポットであるかを書き記してから死のう。
わたしはそう考えたのだ。

きっとこれがわたしの最期の作品になるだろう。