既に日が暮れかけている、完全な夜が来ると厄介だ。
今のわたしが持つ光源はライターぐらいなのだから。
水道は使えても、さすがに電気はきていないだろう。
山間の村で獣が出る恐れもある。私は帰路を急いだ。

 宿の民家に辿り着くと、村に来るまでに買い込んだ握り飯と缶詰で簡単な夕食を済ませ、今日知った情報や感じたことをしっかりと手帳に記す。

予想通り電気の供給はすでに絶えており、夕陽の赤が紺に呑まれると、空に散りばめられた星々の弱い光だけが地上を照らしていた。残念ながら月は爪痕のような細さで光の足しにはならない。わたしははやばやと床に就いた。

 その晩は酷く寒かった。
野宿でも過ごしやすい気温だと思っていたが、あてがはずれてしまった。
民家を借りてよかった。

 茶の間に二組敷かれた布団のうち、紺色の掛布団の方の布団に潜り込んだ。

「温かい―…」

 不思議なことに、布団の中は仄かな温もりに満ちていた。
まるで誰かが一緒に布団に入っているかのような人肌の温度。

 普段ならば気味が悪いと布団を飛び出していたことだろう。
しかし、その時のわたしは温もりに感謝すらしていた。

 眠りについてどれほどの時が過ぎただろう。
 不意に胸のあたりに重みを感じて、わたしは目を覚ました。

わたしは凍りついた。
胸のあたりに巨体の中年女がどっしりと座っていたのだ。女は包丁を握りしめていた。

「裏切り者、あんたは裏切り者や! あんたなんか死ねばええわっ!」

 怒号が部屋の冷えた空気を震わせる。女が振り上げた包丁がぎらりと輝く。

 これほど刃物を輝かせる光源など、この家には無いはずだ。
不思議に思って天井を見上げると、橙色の裸電球がいつの間にか輝いていた。

 おかげでわたしは自分を狙う鋭利な凶器と、それを手にした中年女の般若のように歪んだ顔を、まざまざと見せつけられるはめになった。

 殺されるっ。

 わたしは恐怖から逃れようと、目を閉じた。
 痛みはいつまでもやってこない。胸の苦しみも消えている。

わたしは恐る恐る目を開いた。

 そこには青い闇が広がるばかりで、包丁を振りかざす女も、橙色の明かりも消えていた。
ついでに布団の温もりも消えていた。
 そのかわりに、布団にはべったりと気味の悪い黒い染みができていた。

「な、なんなんだ、これは―…」

 わたしは布団を這い出した。

荷物を手に、寝間着のまま逃げるように民家を出る。

 外に出ても闇が広がっていた。風一つ吹かず、虫の音も絶えた沈黙の夜。
誰もいないし生き物の気配もない。
それなのに、なにか不気味な、ねっとりとした不穏な気配だけが濃密な闇に漂っている。

 奇しくも今日は鬼形村で怪奇事件が起きたのと同じ九月十四日だ。
わたしは今更ながらに恐ろしい偶然の一致に思い当たった。

 まるで、呼ばれたみたいだ。ゾッとして自分を抱き締めて立ち尽くした。

間を置かずして、隣の民家で女の悲鳴が聞こえた。
わたし悲鳴から逃げるように逆方向に走る。
井戸のある家に逃げ込むと、鈍い音が家の中から聞こえた。

 恐る恐る玄関の戸を開く。

「た、す……け。たす、て、くれぇ」

 恰幅の良い老爺が地面に這いつくばっていた。血塗れの顔面で、赤く染まった眼球を見開いて、彼はわたしに震える手を伸ばした。彼の禿頭はぱっくりと割れ、桃色の脳味噌がずるりと出ている。

「に、い。にく、い、憎いっ」

 倒れた男の後ろから呻きが聞こえた。
暗闇に目を凝らすと、血に濡れた漬物石を持った老婆が立っていた。
 逃げようとしたわたしの足首を老爺の肉厚の手ががしっと掴む。

「離せ、この、離せ!」

 わたしは無我夢中で老爺の手を踏みつけ、蹴飛ばし、逃げ出した。

 無我夢中で走っているうちに、村の奥の山に向かって走っていた。
手前に逃げればあのトンネルを越えて、怪異の村とおさらばできたかもしれない。
それなのに、判断力を欠いたわたしは、愚かにも村の奥に逃げていたのだ。

 阿鼻叫喚の声が闇夜に響いている。

 耳を塞ごうとした時、澄んだ歌声が聞こえてきた。

 誘うかのような美しい歌声に操られるように、わたしはふらふらと山に向かった。
 山道を登っていくと、一本の朽ちかけた吊り橋が見えた。

「おいで。こっちへ、おいで」

 歌に混じって声が聞こえる。わたしは穴が開いてボロボロの橋をふらふらと渡った。

 そこには小屋ぐらいの大きさの社があった。社の扉には札が貼ってある。格子模様と山羊のような角にぎょろりとした目玉の鬼が描かれた、黄ばんだ札だった。

「魔除けの札か」

 わたしは札を破り、格子戸を開いた。

畳を踏みしめ一歩中に入ると湿った空気に包まれた。寒く陰気くさい場所だ。
一畳先は座敷牢となっており、頑丈な鉄格子の向こうには、ついさっきまで誰かが生活していたかのような気配が満ちている。

弱々しい黄色い光を放つ行燈に照らされ、小さな卓袱台、畳に散らばった書物、小さな鏡台が闇に浮かぶ。
クタクタになった布団も敷いてあった。その傍には、朽ちた深紅の着物が落ちていた。金色の蝶が描かれた美しい着物だ。

牢以外には何も無い。

ひやりと凍える墓場のような冷気が恐ろしい。
立ち去ろうと牢に背を向けると、背後から声がした。

「待って」

反射的に振り返ると、長く美しい黒髪に深紅の着物の女が座っていた。

猫のようなぱっちりとした目は海のように青く、唇は血濡れたように紅い。肌は白磁のようにつるりとしていた。とてつもなく綺麗で僅かに怖い、不思議な女だった。

女が白い指でわたしの足元を指さした。

目をむけると、いつの間にか足元に櫛が落ちていた。
彼女の纏う着物と同じ金の蝶が描かれた、黒塗りの美しい櫛だった。

「拾って」

鈴を転がすような声で頼まれて、わたしは無意識のうちに櫛を拾っていた。
格子越しに渡そうとすると、女は白い歯を見せて笑った。

「それはもう、アナタのもの」

 女がそう告げると同時に、櫛は幻であったかのようにわたしの手の中から黒い煙となって消えた。
煙がわたしの心臓に吸い込まれるようにして消えたことに、わたしは嫌な不安を覚えた。

「○×△■■〇×」

 女が何かを呪文のような言葉を呟いた。

「アナタはもう、ワタシのもの」

 女はそう言って姿を消した。同時に、わたしは意識を失った。

 気付けば朝になっていた。どうやって戻ったのか、わたしは鬼形村のトンネルの前に倒れ込んでいた。

 狐につままれたような気分でわたしは帰りの汽車に乗った。

 妙な体験を記した手帳を握りしめる。なにか、奇妙な高揚感が胸を満たしていた。
今なら何でもできる、そんな気がした。

 まさか、あんな恐ろしいことになるとは、この時のわたしは夢にも考えなかったのだ。